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日本で唯一の実機がある愛媛県愛南町の「紫電改展示館」へ4ヶ月前に行ってきました。目的が紫電改を観たいだけの一心だったので、現地までは伊丹空港から松山へ飛び、翌日貸し車を借りて現地へ参上。やはり実物の紫電改はなんとも美しく素晴らしい戦闘機で、海中より引き上げられた現状を尊重してある形跡が見受けられました。英霊に合掌!翌日からはせっかくなのでついでに4泊し、松山城の視察及び道後温泉入湯等々を楽しんで帰りました。紫電改展示館は利便性の宜しくない場所にはありますが、日本人なら是非一度は行くべきではなかろうかと思います。 (滋賀県在住)
ありがとう御座います。亡き父が畑から不時着水見ていました。話しでは完璧な着水で、予科練のカッターがすぐ救助に向かいましたが、搭乗員は機体とともに沈んだそうです。さすがに腕前はすごかったんでしょうね。
幻の紫電改を見たさに愛媛県愛南町、南レク紫電改展示場へ4度行きました。紫電改の勇姿、装備、激戦を戦った若き搭乗員の写真、遺品等々な現物資料が沢山展示されています。当時を想像し感動で胸が熱くなりました。
ありがとう御座います。
零戦と紫電と紫電改を操縦した経験がある本田稔さんによると、紫電と紫電改は全く別物といっていいくらい性能差が大きかったらしいね。ずっと劣勢続きだった戦況のなか紫電改の登場でようやく互角に戦える武器を得て自信になったと仰ってたけど、でも紫電改の登場があまりにも遅すぎたと悔やんでた。ただし好きな戦闘機は本人いわく零戦らしい。
本田稔氏は広島原爆の時に上空を飛んでいた数少ない目撃者です。原爆の爆風で紫電改が吹き飛ばされそうに成り、ようやく立て直した時に広島の街が消えていたとお話しされていました。
紫電は水上機。海上に離着陸するので、主翼の位置も違う。
@@我派 水上機は強風ですね。強風の陸上改装機が紫電で中翼です。
とても為になる話ですな。
紫電はキャノピーとコクピットの設計が悪すぎて前面の視界がほぼ見えないくらい悪すぎたみたいですね
もう7年前になりますが、行きつけの居酒屋で紫電改の元搭乗員のかと偶然居合わせて、びっくりした思い出が有りますよ。緊張のあまり何を話したか覚えておりません!良い思い出です。
もしや松山343航空隊の生き残りの方ですか?
映画良かったですよね!ちなみに自分は飛燕と零式乗りに会いました
私は対潜哨戒機の東海に乗っていたという方とお話しする機会がありました。
自分は二式大艇設計士、駆逐艦水兵、高射砲中尉、高射砲伍長、機関銃手、戦車のドライバー、船舶工兵、豊橋騎兵26連隊整備兵、近衛兵軍曹、鳥取42?連隊、姫路39連隊、回天訓練兵、飛燕2名、零式、大竹海兵団2名に会えました。戦争の話しが好き過ぎてこの仕事をしていました。今は兵隊の人も少なくなりましたから辞めましたが。お客様に大正から昭和初期生まれを見つけたら無理矢理戦争話しに持ち込んで聞かせて貰ってました。今でもたまに見かけますが下士官以上の人は歳を重ねても雰囲気ありますね。思わず話しかけてしまいます。
誰に会えたとかなんの自慢にもならんのに自慢しあってるジジィ多くて草
愛媛県愛南町に墜落した紫電改を目撃した老人が言っていました。当時、空中でアメリカの戦闘機と戦って敗れた紫電改が海にの墜落したので近くにいた軍人さんに紫電改が墜落したから早く助けに行って!と言ったらその軍人が当時、少年だった方に紫電改が負けるわけないだろ!と叱られ殴られたと言ってました。結局軍人が怖くて助けに行けなかった。今思えば何故、自分は泳いででも助けに行かなかったのだろうと悔やんでました。
当時の軍人の悪い部分が満載のエピソードですね。
衆寡敵せず、343空がどれほど猛者が揃っていても200機対30機では残念だが勝てるはずもない。
紫電改 見に行きました愛媛県に住んでいるのでやっぱり気になりますからね。パイロットの手紙とか見ると涙腺崩壊です。おみやげで海の武蔵、紫電改と書いてあるTシャツを買って帰りました。
俺のアイコンみたいな漢字?
愛南町昔の城辺ですね🎵
@@鬼伏見 今は一部の地区が城辺と呼ばれています。
展示場から半島の先に偵察場があって米国の戦闘機の機銃であろう後が生々しく残っています。合掌して帰ってきました。
@@鬼伏見 さん離れているけど一応南予出身だから懐かしい名前。愛媛を離れて50年以上。
往年の育毛剤『紫電改』。名前の由来は「最後の戦い」「最後の希望」だからだとか…。涙なしには聞けないエピソードです。
そういえばずいぶん昔に薬用「紫電改」ってあった❗今はもうないかな。やはり、あの育毛剤はこの紫電改からきてたのか!そもそも紫電改なんて言葉も名前はこの戦闘機以外はないしね。
『紫電改』、最後の戦いに敗れたり!禿げしく絶望せしむ!!
天草屋⬆️コノコメ欄に於いてだが1番寒く且つ笑えた💬コメント💬をドウモ有難う、、、[笑]www
かといって、雷光、電光、極光とかいう命名だと、ピカピカ、ツルツルのイメージで、『間に合わなかった』って意味になるし、、
「最後の守り」という意味だと思います。
幼い頃紫電改の展示を父と見に行きました痛々しさと華々しさが同居している独特の空気感を覚えています
ちばつや作「紫電改のタカ」当時の子供達は主人公にとても感情移入していて零戦より好きだった。ちなみに辻なおき作「0戦はやと」ってのもあったけどね。
零戦レッドと言うのもありましたよ‼️
@@南沙里 あったねー
@@ポンスケ-r9c あったねー
やられキャラで一回だけ雷電も登場してました。冒頭の台湾の基地では一式陸攻や彩雲も登場していて1964年当時の作品としてはよく調べていたと思います。ちばてつやさんは「失敗作だ」と言ってましたが、ご自宅には滝の肖像画が飾られていましたね。父もこの漫画が大好きで紫電改のプラモデルよく作っていました。
@@増田光紀-n4p お父さんと同じ世代かも
私の父は、畑から紫電改が湾に不時着水を、見ていました。皆さん愛南町に見に来てください。日本を守ってくれた先人に手を、合わせ冥福お祈りしてください。
私が高校生のころ、100歳で亡くなったひいおじいさんは体が弱くて徴兵検査に落ちて戦争にいかなかった(ひいおじいさんは行けなかったと表現していた)のですが、親友が徴兵で戦争に行って亡くなりました。その話を聞いていたので毎年靖国神社に参拝して、遊就館の戦争で亡くなられた方達の写真や遺品を目に焼き付けるようにしています。もちろん戦争ですし負けた戦争なのでたくさんの失敗や過ちはあったと思いますが、それでも平和に戦争もなく生活できているのは過去の先人達が戦ってくださったからですからね。
3年前に愛南町へ行って来ました。四国一周の途中偶然知り、寄り道した程度のものですが、まさか の感動で、心臓が震えました。
お祈りしますじゃないのか?お祈りしてくださいは違うだろ
@@miriosinja さん。もちろんお祈りしますですが、今戦争支持者が多くなり、日本や世界平和祈って戦った人達の、冥福をも祈って欲しいんです。上から目線で、失礼しました。
実は私のおばあちゃんも紫電改が海に落ちるのを見たと言っていました!おそらく同じ時間帯に同時に見たのでしょう
去年西日本をバイクで回った時に行きました、今まで零戦、隼、一式陸攻しか見たことなかったのですが紫電改の大きさに驚きました、紫電改を見た瞬間初めて震えるような衝撃を受けたので今年もまた行ってみたいと思います。
紫電改といえば撃墜王、菅野直大尉に敬礼。
鴛渕大尉も忘れずに、
@@虫山セカンド 梶二飛曹と杉田庄一上飛曹も
あと半月生き延びれば終戦だったのにね。享年23歳。生きていれば陸軍の小林照彦少佐のように創成期の航空自衛隊に尽力されたと思う。「紫電改のタカ」では「菅野大尉は戦死されたよ」の一言で済まされ戦死した時の状況は描写されなかったけど、撃墜された瞬間を見ていた目撃者は当時いなかったんだからしょうがない。アメリカ側の空戦記録では指揮官機を撃墜したと記録が残っているそうな。
武藤金義上飛曹 最後の乗機ですね😞
紫電改が活躍出来たのはやはり技量の高いパイロットのお陰だとか。零戦に比べると馬力も重量も倍も有った機体を乗りこなすのは難しかったそうです。ベテランはなんとか乗りこなして居たそうですが、若手は苦労していたそうです。自動空戦フラップはちゃんと働けば性能は良かったそうですが、スイッチを入れるタイミングが難しかったそうです。それと、エンジンの振動にも悩ませられていたとか。その中でも鴛渕大尉の機体は振動もほとんど無く馬力も出ていた為大尉は非常に気に入ってたそうですが、スクランブルの時、若手パイロットがその機体で飛び上がり着陸の時に大破させて使えなくなったそうです。鴛渕大尉は若手パイロットに怒る事は無かったけど、数日間かなり不機嫌だったそうです。零戦で有名な坂井さんは紫電改の審査やテストをしていた事もあり、取り扱い注意書のようなものを作りパイロットに配布していたそうです。そのお陰で戦闘701は他の隊と比べて壊す頻度が低かったそうですね。終戦時、アメリカが紫電改の性能を調べる為に追浜まで飛ばせと言われた時に、プラグもオイルも燃料も無いと言ったら、アメリカの物をくれたので、紫電改は機銃を降ろし丸腰、お目付役のグラマンはフル武装で飛んだのですが、紫電改がどんなにゆっくり飛んでもグラマンはついて行くのがやっとだったとか。当時の日本に誉発動機の性能をフルに発揮出来るプラグ、オイル、燃料が有ればもっと活躍出来たのでは?と思います。因みに、スミソニアン博物館の紫電改はレストアチームがやり過ぎて、ほとんど飛べる位までやったらしくて、館長がやり過ぎだとボヤいたとか(笑)けど、絶対に飛ばさないそうです。
懐かしい、松山の343航空隊の活躍を描いた映画「太平洋の翼」(主演 加山雄三)を見た記憶が蘇りました!
昔、会社に入社したばかりの若かりし頃、三鷹市にある富士重工(株)(スバル)に出張したときにロビーにカラスショーケースに入った星形エンジンを見ました。栄-発動機と掲示してあり、先輩がこれがかの有名な「ゼロ戦」のエンジンだと聞かされました。三菱の設計でありながら、エンジンは中島製の栄1000馬力を採用。堀越二郎技師が、次に手掛けた、時期迎撃戦闘機「雷電」の開発にてこずった事は、本当に残念です。紫電改の登場が、余りにも遅く、海軍省はプライドが高く、陸軍との協力性に欠けていた感があります。陸軍では、中島を主体とし、1式、2式、3式、4式、5式戦と順調に開発がされました。
海軍が頭でっかちで高慢ちきなため陸海共同が遅れたというのはおおむね同意ですが、陸軍も笑えないほどお粗末で愚かな組織だったのも確かに思います。あと1式、2式、3式戦闘機はセットで開発されていましたし、4式は左記機体の実戦データを踏まえて1式と2式の折衷案としてこしらえたものなので実質1式~4式はほぼ同時開発です。そして5式は3式のエンジン積み替えただけのものを便宜上5式と「呼ぶことがある」だけなので新開発されたわけではありません。あしからず。
大好きな機体です。近所の鶉野飛行場跡に紫電改1/1レプリカがあります。何度も見学に行きました。最近は復元された操縦席に座ることも出来るようです。
ディープな解説有り難う御座います。私も大戦について詳しく学習致しましたが、新たな事柄を学びました。有り難う御座います!
1963年公開の東宝映画太平洋の翼がありましたそれと少年マガジンに連載された紫電改のタカに登場しました!
ライバルはP-51 マスタング!
戦闘機隊には珍しく、彩雲が配備されていたようです。剣部隊はエースの集まった隊だからこそあり得たことだと思います。
美濃部中佐でしたっけ?
剣部隊隊長 菅野直中佐 です美濃部中佐とは芙蓉部隊 美濃部正少佐 でしょうか?
剣部隊司令は源田実大佐。部隊は戦闘機隊が3つ。新撰組・維新隊・天誅組だったかなその隊長が菅野・鴛渕・林の三人の大尉。あと、彩雲の偵察隊があったはず。資料を見ずに記憶で申し上げたので、彩雲隊の名前とか度忘れしてますスミマセン
坂井三郎曰く343空も所詮ヘタクソ集団。俺が何度教えても事故ってばっかりだったw
ベテランを中核とした精鋭整備班の活躍もお忘れなく。
搭乗員の間には無線が使えるようになったのが一番大きかったと言っています。零戦はアースが付いていなく雑音が多い為に機体から取り外し編隊空戦も形だけでしたが紫電改はフォーメーションで敵に対抗していました。
零戦の中波無線電話は隊内通信用で、これは使い物になりませんでした。短波無線電信は機能したが、モールスの暗記受信の訓練を受けた課程とそうでない課程とで、零戦の無線の評価が分かれます。紫電改の無線電話は改善されたが、当時の無線機は複数の周波数(チャンネル)の使い分けは出来なかったので、分隊長(大尉;陸軍なら中隊長)クラスが簡単な号令を送信し、分隊士はそれを聴いて従うのが基本です。
愛南町の紫電改展示会で初めて実物観ました!
愛南町の前、御荘町だった頃に数回行きました。 もう25年前位かな、ロープウェイもまだあった頃 紫電改のプラモデルを買って帰りました。
子供の頃に愛南町に展示されている紫電改を引き上げるテレビ番組をくいるように見ていました。21機の紫電改で500機のグラマンに戦いを挑んだ未帰還機の1機だと。いつか現存紫電改を見てみたい。
自動空戦フラップは経験の浅いパイロットの技量を補佐する優れた機構ですね。
実際はGに応じてフラップを作動させる電気の導通に使う水銀が酸化していたりして、作動が良好な訳ではなかった様です。
@@yuusama5203 そうだったんですか。戦時中、特に後半から終戦にかけて、日本の軍事技術の発想はユニークで優れたものも少なく無かったですが、そういう材質や精度の面で残念な結果になった事が多かった様ですね。誉やアツタもそうでしょう。
日本も航空工学や機械工学についてはかなりのレベルだったと思いますが、如何せん資源が無さすぎました…
@@yuusama5203 その証言の話に水銀は常温や多湿では酸化は起きないので証言が本当の事か疑わしいって聞いたことある(間違ってたらごめんなさい)
@田中一郎 さん密封性が不十分で揮発か漏れたり? 昭和40年代の自動車ウインカー用に水銀が使われていました。
旧日本の最も惰弱たる点の一つが、発動機(エンジン)の開発に大きく遅れを取っていた事が挙げられる。工業技術の分野では、同じ部品を生産するのにこの製造誤差は何十万分の一の範囲に抑えなければならないが、当時の日本はこの工業技術力の点で大きく劣っていた。手作業で同じ物を沢山、寸分の誤差無く作る事が如何に難しい事か容易に想像がつくだろう。当時の日本は航空分野での設計力は決して遅れを取っていた訳ではない。各航空機メーカーの名物技師達がそれぞれ凌ぎを削っていた位だ。でもその国の工業技術力は技師一人で何とか出来る物じゃない。大戦時に於ける日本の航空機の評価が分かれてしまうのもこの点にあると言っても過言じゃない。紫電も紫電改もその一つだ。烈風に至っては満足に飛行テストすら完遂出来ていない。現場では常に稼動能力と継戦能力が求められるが、当時の日本は何も不足していた。日本が空冷エンジン開発に踏み切れ無いのも頷ける。戦後日本は工業技術立国として生まれ変わったけれども、今又、この地位が揺らぎ始めている。今の日本ではエンジニアリングが軽視されているのだ。コンサルタント業務という高給取りの詐欺士ブームと単価の安い中国製に流れた為だ。こう話すと信じない奴が大半だが、現場では問題が顕在化していた。日本の戦闘機開発は日本のエンジニアリングの裏返しの歴史である事も言及すべきだね。
ただ、当時の軍人独裁国家の日本では、すべての方針を「軍」が決めたからなあ。その「軍」は、強い戦闘機を求めたが、強力なエンジンを求めなかった。そういうことだな。まあ、体育会系に政治を任すと、物事の根本的な道理にまでアタマが回らない。上っ面の華やかさだけに目が行ってしまう。
今年の夏、愛南の紫電改展示館に行って引き上げられた実機を見てきました。意外と大きかったです。
兵庫県の加西市にある紫電改の実物大模型もなかなか立派ですよ
コロナで皆自粛しとるのに旅行に行くとか!!不謹慎やし、コロナ広める気満々やな
@@ytomo0506 その名前で言うか
末期の我が軍の戦闘機の名機は、ほとんど改なんだよな。紫電自体言ってみると強風改だし、陸軍の五式戦も飛燕改
改善は日本の得意技だぜ!
強風とパーツを共有して一緒に生産出来るようにするって話で設計した別機体らしいコックピット部分以外ほぼ別物になったけど
コメント数からもこの飛行機の伝説的な人気がわかりますね。紫電改と343空の実相については、大部ですが「源田の剣」高木晃次、ヘンリー境田 共著がとても参考になりますよ。ともあれ大戦末期に米軍に対して一矢を報いたというストーリーが戦中、戦後も我々に勇気と希望を与えてくれた事実は残りました。祖国を守った勇気あるパイロット達に感謝。
航空機にはあまり詳しくありませんが、ゆっくりとした語りでたいへん分かりやすいです。
頑張って下さい 応援します 良い動画をありがとうございます
素晴らしい動画をありがとうございます♪ これからも応援します📣
紫電や紫電改は、水上戦闘機「強風」から発達したというのが興味深く関心ひかれる点です。
水から陸に上がった機体ですね。川西はあまり戦争を考えていないのか、いるのかわからない感じで、紫電改の水上機化も提案していたらしいです。勿論、ボツになったそうですが。
@@室井修-k1r 副社長のコネで商売できたから
@@室井修-k1r そもそも水上機の出番がなくなって川西としては商売あがったりだったから不慣れな陸上機化に挑戦したのに、紫電改の水上機化なんて馬鹿げています。とても信じられません。
源田実がかかわると戦果は誇大になる。松山上空での戦いも大戦果として知られるが、双方の損害を突き合わせると互角の戦いであった。
戦地から零戦に防弾装備の充実をという要望に対してアメリカ人の様な個人主義は装備に頼るが我々に日本人には大和魂がある!火力や航続力を犠牲にしてまで改造する必要などない!と言ったのはこいつなんだよな
@@akibanokitune 戦地からの防弾に関する要望をすんなりと受け入れ、一式戦闘機の段階で防弾板を取り付けられるようにしたのが陸軍。太平洋戦争初期からいた陸軍戦闘機パイロットたちの命を守った功績は大きい。
源田氏ですか。志賀氏とは対照的な人物です。顔に冷酷で卑怯な人間性が出ています。のうのうと生き残って 自衛隊幕僚、参議院議員、 大嫌いな人物です。
負けてる軍隊は必ず戦果を盛る。少しでも景気のいい話が欲しいからな。
というか防弾板つけても意味は無いと思う。別に銃弾を防げる訳では無いし。だが燃料タンクにゴムを使った米国はずるいなと思う。
子供の頃に読んだちばてつやさんの「紫電改のタカ」が好きでした。今でも時々思い出します。飛行機については全くの素人でこの動画で多くの事を教えていただきました。でも思い出すのは信ちゃんとの悲しい場面がおおいですね。動画ありがとうございました。
紺野、米田、久保……(´・ω・`)
紫電界は聞いた事が有り現物も知らずに好き飛行機だった今話を聞いて戦争用ではなく乗りたい機体ですね此のコメントは戦争にたずさわった人達には大変な時代において国を守り散っていった人達に敬意を送ります
紫電改とF6F、F4Uのエンジンを双方2000馬力としてしまうと誤解の元になります。離昇出力では2000HPと2000Bhpで同等ですが、(細かく言えば0.5%程度HPは低出力となるはず)大きな違いはターボ過給の有無で、F6Fは最大出力2,135Bhpを3800mまで維持できますが、誉21型の公称出力は、 一速全開 1,860 HP / 3,000 rpm / +350 mmHgブースト (高度1,750 m) 二速全開 1,620 HP / 3,000 rpm / +350 mmHgブースト (高度6,100 m)となり、実用域では1クラス以上違うエンジンだと思います。一方で米軍の戦闘機は強度要求の大きい艦上戦闘機というハンデも存在しますが。誉の過給機はエンジンの軸出力から2段変速のギヤで過給しているので、高度に従った気圧の低下に2段階しか対応できません。一速全開の高度1,750 mを超えると2速となりがっくり過給機への回転数は落ち、過給圧、出力は落ちます。ターボチャージャーでは排気圧で駆動し大気を圧縮するので、気圧が下がれば駆動、圧縮の双方共効率は上がります。これが広い範囲で高出力を維持できる理由です。これ以上の高度ではターボの軸受けの回転数制限の影響があるのかも知れません。
いろいろ言われているようだけど、元々海軍は「雷電」に注力・期待しており「紫電(改)」は"雷電が上手くいかなかったときのための控え"程度でしかなかったとか。
東電や関電も控えにどーぞ
@@ゆりあん-d6f さん笑っちゃった(Q )) >
終いには三菱も雷電やめて紫電改作れと言われる。
ちばてつや先生の紫電改の鷹読んで泣いたの思い出した最後は主人公は教師になる夢を捨て特攻に、それを知らされない恋人と母が慰問に向かう所で終わる。
ソフトで声を篭らせて昭和初期放送っぽくするとこのコンテンツは面白くなりそうな気がしました
紫電改の実機がある地元にすんでいますが、やっぱり実機を見ると感動します。
戦闘機を見て、感動するのは危ない。
分かりやすい紫電改って海軍機だったの知らなかった勉強になります!
愛媛県にある紫電改は搭乗員は武藤金義少尉らしいです。座席の位置やきれいに着水してるところからベテラン搭乗員で背丈が小柄な搭乗員から推測だと武藤金義少尉じゃないかと思われるらしいです
毛生え薬だよ!🤣🤣😂😂
展示しているので、ぜひ愛南町に来て見てください。亡き父は最初山陰から出た機体を、見てずんぐりした機体で米軍機だと、思っていたら主翼の日の丸見てビックリしたそうですよ。
紫電改の鷹!懐かしい!
63ですが、私もとても懐かしい。といっても、辛うじて覚えてるのは、ちばてつやの漫画、少年マガジンだったですかね~。最終回は、壮絶な感じだった・・・のかな?あれ、忘れてしまってるよ。
@@junktk_2216 さん 最後は特攻隊員として飛び立って行きました、基地にお母さんと許嫁が面会に来るのと入れ違いに…😢
@@junktk_2216 62歳ですが当時人気りましたよね。
登場があと1年早かったら戦局変わったかもしれない。それぐらいの可能性を感じる。にしてもサクッと改良て言ってるけど、この時代の人達は凄すぎるよね。だからこそ、戦後、飛躍的進歩できたのかもしれない。
GHQのイジワル白人達が日本人に飛行機造らせなくしたのも、彼らの戦略上は大成功の布石。ただし、人類の文明を阻害したのも同時に事実ですね。日本人を苛め、ニコラテスラを抹殺したユダ系アメリカ人達は、やっぱり鬼たちです。
(三菱で疾風作ったらええやん…?)
零戦と比べるのは少しおかしいと思う。基本コンセプトも違うから。艦上と局地戦ですよ。
最初は水上戦闘機
@@下僕-h1q 呉と愛南町に零戦と紫電改それぞれ見にも行きましたが、最初はそうでも最終的にはコンセプト変わってるのだから比較はおかしいと思う。それぞれその時代の名機だと思います。
@@鬼伏見 実物はやっぱり零戦がいいのかな?それとも紫電改がいいのか?プラモじゃ零戦が美しく見えるけど実物はどうなんだろう
@@ゆりあん-d6f 個人的にはスマートな零戦が格好いいかなぁと思いますけどあくまでも個人的感想です。
言うて比べる物がない
海軍最後の正式戦闘機
私も、昔ゼロ戦の搭乗員と会い、空中戦の戦い方を、聞かされました、偶然ですね、それから、ゼロ戦を何度か作りました、又紫電改も源田大佐が率いる、航空隊だと聞きました、嘘なら、ごめんなさい、とてもすばらしい、動画ですね。
紫電改の鷹のマンガが好きだった。
ちばてつやさんの作品ですね。最後、特攻に向けて出かけた時、涙が出ました。終戦後は、主人公は学校の先生を目指していたようです。恐らく帰ってこれなかったでしょう。
名前だけ記憶にありました..搭乗員の写真の笑顔が戦時とアンバランスで少しだけ気持ちを楽にして見ることができました。ありがとうございます。
紫電改展示館 行きました。感動しまくりです。T-シャツ 買いました。滅茶苦茶遠いのが難点。行きはタクシーか自家用車がおすすめ。上り坂だから城辺営業所(宇和島バス)から4500円ぐらい私は、バスの都合が合わず歩いて同営業所まで歩きました。約1時間ぐらい
紫電改のタカの黒の紫電改がカッコいい
ああそうか、紫電という機体の改造型なのか、それなら「紫電改」と、続けて読むのじゃなく、じゃなく「紫電 改」と呼んだ方がいいかも知れない
そうかい
そんなん文字見りゃ分かんだろ?!いちいちめんどくせーな。国語の先生かよ(笑)
@@松本和成-c7l 解らなかったから言っているのだが
@@rudderfish 紫電に改だろ?そしたら紫電を改める。若しくは改めた物ってなるだろ?国語の先生さんよぉ。そしたら普通に「しでんかい」でいいんじゃないの?それともわざわざ「しでん・・・・かい」て変な空間空けなきゃいけないんかい?そんなに細かく面倒くさくしないとこんな言葉も伝わらないんかい?んなくだらん事を言う前に、自分の国語力の無さを恨みなさい。
@@松本和成-c7l はいはいわかったわかった
昔の少年は「紫電改の鷹」とかを読んでいたのに。今の少年はK-popを聴いていたりする。やはりテレビは軍事兵器だなあ。😢
愛媛県の愛南町に、御荘湾から引き揚げられた個体が展示されてます。
紫電の元になった強風に触れていないのが惜しいです。なぜ紫電が中翼だったのかは強風の存在無しには語れません。
最強! 紫電改
今はリアップにその座を奪われました
一回空に上がって戻って来ると エンジン回りはオイル漏れで酷かったそうです。ゼロ戦に比べて手がエンジンの奥まで入りにくく整備にいつも難儀したそうです。
栄エンジンを無理矢理18気筒化してますから、手が入りにくくもなりますしね。あと熟練工員が召集され、学徒動員で召集された学生が大量に工場へ配属されてますから、部品の精度もなし崩し的にガタ落ちですわな?それと、エンジンのパッキンやゴムの原料が入りにくくなり、代用品や混ぜ物をしてたりして、オイル漏れは日常的ですし電装品の漏電もあったんとちゃう?
@@紅のプー太郎 おばちゃん達が整備していたそうですね。
@@瑞翔-w5c さすがにそんな事はないと思いますよ?
@@紅のプー太郎 全てでは無いですがおばちゃんの手も借りて板が正解か。
@@瑞翔-w5c さん整備は軍の基地内なので、製造工場ではないでしょうか?にしても、中学生や女学生は聞きますが、おばちゃんは?手が足りなくて飯炊きの人に手伝わせた、とかですかね。
日本の戦闘機は独特の美しさがありますね..繊細というか・・だがムスタングには敵わなかったと思います
ムスタングは一撃離脱系だから、5式戦には相性が悪かったみたいで。紫電改も格闘性が優れているなら、勝てるかもしれないです。ただ、追いかけるのは無理がありますけどね。
有り余るような大馬力のエンジンを作れなかったから、性能を上げるには空気抵抗を減らすしかなかった。それが美しさの原因だと思います。当時の日本は流体力学に関してはトップレベルだったと思います。飛行機に限らず軍艦でも大和のバルバスバウとか。
零戦と紫電改を比べる意味がない、そもそも時代が違う戦時の5年は平時の10年以上の差がある、また開発のコンセプトが違うから零戦を低評価することに意味はない、零戦は高度に訓練された飛行兵の神業による戦績によって評価されるべき、開戦当初は比類なき航空戦力だった零戦と航空兵を称賛する。
エーリッヒハルトマン ただ火力を追求したら、バランスが逆に悪くなった。かのドイツ空軍もメッサーよりフォッケウルフを採用していたら?対英戦も変わっていたかも?。
結局は、武士道だけでは、物資主義のアメリカ軍には手も足も出なかった。でもゼロは!日本が作った最高の戦闘機である事には間違えないの!アメリカ軍も認めるの事実ですよ。
@@上からマリコ-m8v アメリカ軍は疾風を最優秀機だと言ってますよ
ゆりあん 敢えて言うなら、高オクタンの燃料さえ用意出来ていたらと残念でなりません。
@@上からマリコ-m8v 敢えて言うならガソリンスタンドでハイオク満タンと言ってみたいね
川西が作成し、誉を用いて空戦フラップが生えたのが紫電改。カネボウが作成し、センブリを用いて髪が生えたのも紫電改。
子供の頃「薬用紫電改があるということは薬用紫電があったのか?」と思った。
よくぞ名付けましたね、紫電改今ならネ○○ヨが大騒ぎしそう
薬用紫電改を使って髪が生えた高橋さんは薬用紫電改のたかと呼ばれた
高橋克美さんかな?
空戦フラップは紫電にもついている。
故郷が宇和島です20年ほど前、高校生時代だったと思うのですが家族で御荘の方へドライブにいった際に紫電改展示館に立ち寄りました入った途端、その戦闘機の存在感に圧倒されたのをよく覚えています悲しみ、淋しさ、恐怖、痛み、いろんな気持ちがないまぜになった、まさに言葉にできない感情で心が支配されていました「機体に近づいてもっとよく見てみたい。でも畏れ多い気がするし、なんとなく怖い感じもある。でも同じくらい酷く悲しくて淋しくて泣き出しそうな気持ちもわいてくる」多感な10代の頃特有のものだったのかはわかりませんが、20年経った今でもあれがどういう名前の感情だったのかを私はいまだに見つけられません時折当時のことを思い出して、今の私だったら何を感じるんだろうと考えることがあります今度郷帰りする際にまた訪れてみたいと思っています
ワシントンまで見に行ったよ
愛媛県の愛南町の記念館。
紫電改、何故か姿がF35とだぶって見える同じエンジンを積んだ陸軍4式戦疾風にもフォーカスして欲しい
感動した!
先週、f6ヘルキャットの実機見てきたよ。びっくりするぐらい大きい機体なのに、羽根を畳んで格納してあった。コクピットは狭くて前見ないだろうねえ。
東京湾で、空母「信濃」において紫電改による発着試験が行われたそうですが・・・
信濃の乗組員予定だった人達が、やってきた紫電改が信濃に配備されると喜んだそうです。残念ながら紫電改が来た目的はそうでは無く、帰ってしまった様ですね。
@@マクドナルドマーシャル お返事ありがとうございます。そうですね。紫電改は空母艦載機にしては航続距離が短いです。零戦の後継機である烈風が開発の遅れでピンチヒッター的に紫電改を艦載機にしようとしたのですが。坂井三郎氏も航続距離が短いからダメだを言われている通り紫電改艦載機は諦めたようですね。
先週愛南町に行ってきました。防弾タンクや自動消火装置、各ボルトナットのワイヤリングによる緩み止め等など、実物を見て初めて分かるような機構ばかりで大戦初期に活躍したゼロ戦とは違い随分と進化していたので驚きました。エンジンはアメリカのプラットニーホイットニーのコピーから始まってここまで進化していった事もよくわかります。
私も知っていましが、 B 29に 対応するために
マリアナ沖海戦で機動部隊が壊滅したため局地戦闘機となったが、大型空母なら艦上戦闘機としても使える機体だった零戦は防御力が文字通り紙だったので、多少大型で航続距離が短くても攻防共に強い紫電改のほうが強力だったが、如何せん機動部隊が壊滅状態では、本土防空でしか活躍できなかった不遇の機体
その本土防空でも数の力で何とか互角の戦闘を演じただけで、実態はよく見積もってもF6Fと同格なのが悲しいところ
@@そらきち-u4t 戦闘機はまだ戦いになるだけまし戦車の性能差は目を覆うばかりだった日本のチハ中戦車は、サイパン島でもフィリピンでも、M4シャーマンに一方的に虐殺された兵站も去ることながら、なんでこんな戦車でインパールを攻略できると大本営が思ったのか謎
@@そらきち-u4t 最高高度くらいしか疾風に勝てないしなぁF6FはもとよりB-29も早々に降りてるからあまり意味のない能力
防御に関しては紫電改も防弾鋼板は付いてない。燃料タンクが燃えにくいというだけです。
名前がいいですよね紫電改って(^^)四式戦とよく比較されるけど、速度が劣るとはいえ、横旋回には優れ、操縦性も良好。上昇力や加速性能はほぼ互角で急降下性能はやや劣る?かな。せめて、四式戦と同時期に配備されていたら・・・と思いますね。零戦の後継機として。視界もよく、翼面積も大きいから艦上戦闘機にしても素性が良さそうだし。陸軍は五式戦がもっと早く出ていたらなあ。まあ、だからといって戦局が大きく変わることはなかっただろうけど。
というか、海軍でも四式戦を使えばよかったのでは?限られたリソースを、陸軍と海軍で奪い合うようなことしてたから、必要な時に数を揃えられなかったのでは。
誉が本来に近い性能を発揮すれば高性能だったが、そうでもなかったのは上昇力の評価をみるとわかる。カタログデータと異なり、上昇力はすこぶる悪い評価で、B29に雷電が期待されたのも上昇力であった。発動機の出力低下は速度よりも上昇力に大きく影響する。
松山に住んでいます。343航空隊の後に松山空港があり掩体壕も残っています。
紫電改の知名度が低いはずがない。
オラは紫電改好きだよプラモも作った😄
子供の頃ずっと「紫電改」という古の言葉が名前の由来だと思っていて紫電の改良型という意味だと知ったのはつい最近だったw
正式には、紫電>紫電改ですね。確かに、もっと早く投入されていたらよかったです。
まぁもっと早かったら戦争がもっと長引いてしまったかもしれないですね
@@おひたし-p9b 早く投入される ↓勝てるはずのない戦争が長引く ↓ダウンフォール作戦発動日本滅亡ここまで見えた
@@そらきち-u4t ん?ミッドウェーで勝とうか(*^^*)
戦後の検証なので、自軍の戦果は無視して自軍の被害を比較するのが話として筋が通る。
四国の愛媛に墜落した紫電改を修復して展示されていたが、意外とずんぐりむっくりで、ちゃちかった。このような飛行機で空を飛び命懸けで戦ったパイロットに感動する。
ずんぐりむっくりは大馬力エンジンを搭載しているということ。アメリカ軍の戦闘機などは大馬力エンジンなので胴体が大きい機体が多いです。紫電二一型に当時乗っていたパイロットにも『紫電改は私の命綱、今日も頼むで、紫電改が私を助けてくれた』と言われています。それほど多くのパイロットを助け、戦った紫電改は傑作機です。
紫電改と言えば川西飛行機そして戦後は新明和工業。今や人助けのU2を作っている。
東洋機械金属製ダイカストマシンのある意味ご先祖様。川西のちの新明和工業の油圧・制御技術が使われています。
8:15 源田大佐の横で志賀飛行長(当時は少佐?)が腕を組んで笑っているけど、当時の海軍は結構フランクな組織だったのかな。
現場サイドでは、陸軍との交流もあったみたいですけどね。
ついこの間、鶉野飛行場跡にレプリカ見に行ってきました!良かったですよ!色味が明る過ぎていかにもレプリカってかんじでしたが… 近くで見ると迫力あります
私が思い出す作品は『撃墜王』です。菅野隊長の二番機の方が主人公だった。関係者に取材をしての劇画作品です。エピソードの一つ。芸者さんのいるような場所。パイロット達は、野球拳をしてのドンチャン騒ぎ。そこへ、『お前達には、国をうれうる気持ちがないのか!』と、部屋に乗り込む陸軍の兵隊さん。それに対して、『陸軍さんは、こんなところで作戦会議ですか?』と、誰かが返す。『なにぃ!』陸軍の兵隊さんと、三四三空のパイロット達の殴りあいの大喧嘩が始まる…。心に残るシーンです。
戦後、アメリカがドイツや日本に戦闘機の開発を禁止していたのが理解できる。
ドイツは分かるんですが、日本は・・・・
動画、ありがとうございます。
ザクⅡに対するゲルググって感じね。
紫電改の振動は毛根に刺激を与え、髪が濃くなるらしいぞ。
強い兵器って何故か格好も良いですよね
その理屈だと性能が紫電よりも良いF6Fもカッコ良いのでしょう
源田実は源田サーカスと呼ばれた戦闘機のプロフェッショナルで大西瀧治郎、小沢治三郎とともに早くから航空機が主流になることを主張されていました。歴史にイフはないですが、源田実、大西瀧治郎、小沢治三郎、山口多聞が連合艦隊のトップで戦っていたらどうなっていたんだろうとよく考えます。
紫電改が、B29、グラマン、などを対抗できたので、アメリカも恐れたと言われていたと聞いていました。最強で、性能が良かったのですね。誉エンジンが、良いと聞いていました。
エンジンの調子が良ければ無類の強さを発揮できたそうです
とてもいいことです。燃料のいいハイオクタンの燃料ならかなり高い速さ性能が向上したのではと思います。本で読みました。
「紫電 改」を゙知ったのは昔少年誌(少年 マガジン?)に連載された ちばてつや先生の「紫電改の゙タカ」でした😅 零戦の得意技(?)「木の葉落とし」に よく似た「逆タカ落とし」が印象に残っています🤗
失速からの急反転が海軍航空隊伝統の「左旋回捻り込み」なんですが・・・
まあ捻りこみは実戦で使う事ないですから。大空のサムライでも言及されているように、あれは訓練時に賭け空戦とかで新人やいけ好かない将校からメシ代やタバコをまきあげるのに使う技ですから。実戦で失速したら1機は落とせるかもしれませんが直後に敵の僚機にやられます。
幻の名機、愛媛県愛南町にあるのですか、ぜひ行ってみたくなりました
零戦の後継機は一七試作戦闘機烈風です。紫電改は水上戦闘機強風?を陸上機に改造し紫電を、その欠点を改善し再設計したのが紫電二一型?これを紫電改と言いますよ。
65歳になる最終型日本人の一人です。ちばてつや先生の紫電改のタカを穴が空くほどよみこんだ世代で、当時のプラモの愛好家小学生の間で、零戦ばっかりに固執する友人をあざ笑って(笑)紫電改の方が上だったんだぜと、人気のない紫電改(ニチモの48/1)をこさえて、林の中に洞窟滑走路をつくった秘密部隊を再現sンして愉しんでいた記憶があります。やがて育毛剤の名前で名戦闘機の名前が使われた時は、複雑な思い。はげて堪るかと!最期の決戦機「紫電改」なのかなと苦笑したものです
局地戦闘機と艦上戦闘機を比較はおかしい運用の差がある為です陸軍機と海軍機の考え違いパイロットの技量傑作機とはなんなんでしょうか対戦初期は機体性能を最大限に生かすパイロットが居たはずです剣隊は精鋭だと認識していますので戦禍はすごいと思いいます
戦記漫画「紫電改のタカ」は雑誌少年マガジンで愛読していました。ちばてつやの代表作のひとつです。
ゼロ戦のように大戦開始時から量産されて活躍してたら戦況は少しは変わっていたかもね!
そりゃぁかわってるやろでも資源早く無くなりそう
そんな事したらアメちゃん黙ってないんだわ🥺
まだエンジンが影も形もありません。
少しはってのも過大評価だなw実際脚の短さが災いし零戦みたいに空母を使わずラバウルまで行く…なんてのが困難だったろうしそのラバウルからガタルカナルで戦うまでが激戦区だってのにたどり着けないから意味がない空母で使う?寸法が大きすぎて無理だし載せれたとしてもミッドウェイは戦闘機の数が少なく守り切れなかった面もあるのに更に数が減るんじゃなぁwどの戦場だったら戦況引っ繰り返せたと思う????
海軍機で戦況変わった可能性大なら96式艦戦をバトルオブブリテンに対しドイツでライセンス生産とか?w・1000km超えてまだ余裕のある航続距離・当時低空で勝てる戦闘機はなし(Bf109も低空だとハリケーンに互角)一撃離脱?地面とキスしたいならどうぞw現にドイツ機も低空で押し寄せるP-39とシュトルモビクに苦戦強いられまくっている・防弾?そんなもん欧州戦線では遅れに遅れてる、ましてバトルオブブリテンでそんな概念はない(防弾してたのは当時ソ連とアメリカくらい、すぐ後に日本陸軍が続くが英独の防弾軽視は最後まで続いてる、ドイツに至ってはゴムがないってのが理由の一つだけれど)・どうしてもって言うなら96艦戦も20mm積めるぞ?イギリスでの空襲の足掛かりをなくせば憂いなく工場を稼働できるわけよ
紫電改の名前がとても印象的で、素晴らしいです。活躍する機会が少なかったと思いますが、この様な技術があったからこそ、現在の日本国に生かされて居ると思われます。この時代は、軍事に使用されましたが、国産技術が高度に成長した事を冷静に判断すべきだと思われる❣️❣️❣️※国産技術は、未来の橋を渡るひとつ‼️ひとつ‼️の方法に成る❣️❣️❣️
大戦末期に、大活躍した大変大好きな戦闘機です。零戦より好きす。しかし、烈風が大活躍していれば、烈風のほうが好きになっていたでしょう。
雷電もいいよ。対戦闘機戦だって、一撃離脱戦法に徹すれば使えたはずなんだけどね。
@@室井修-k1r さん雷電でしょヽ(*´∀`*)ノ当時のアメリカの要求するスピード重視の一撃離脱式の戦闘機に、近かった戦闘機❗戦後アメリカで高い評価もらった❗こりにこった戦闘機❗。ヽ(*´∀`*)ノカッコいいですね❗ヽ(*´∀`*)ノ
開発した川西は陸上戦闘機を作ったことがなく、紫電改(正式名称は紫電二一型)もベースは水上戦闘機の強風。強風をベースにして、紫電を開発。しかし元々は水上戦闘機の強風は主翼は中翼式で視界の悪さや二段式の引き込み脚でトラブルが続出、紫電改はそれらを改良して主翼以外はほぼ新開発して、紫電改となる。紫電改は343空がもっとも有名というよりは紫電改の戦果はほとんど343空の戦果。エンジンは中島が開発した「誉」(陸軍ではハ45、陸軍では四式戦「疾風」だけが搭載したエンジンですね。
おつかれさまでしたなるほどなーこの機種もゲーム等で出てくるよなー
祖先の方々努力と知恵に敬服します。涙が止まりません。
日本で唯一の実機がある愛媛県愛南町の「紫電改展示館」へ4ヶ月前に行ってきました。
目的が紫電改を観たいだけの一心だったので、現地までは伊丹空港から松山へ飛び、翌日貸し車を借りて現地へ参上。
やはり実物の紫電改はなんとも美しく素晴らしい戦闘機で、海中より引き上げられた現状を尊重してある形跡が見受けられました。英霊に合掌!
翌日からはせっかくなのでついでに4泊し、松山城の視察及び道後温泉入湯等々を楽しんで帰りました。
紫電改展示館は利便性の宜しくない場所にはありますが、日本人なら是非一度は行くべきではなかろうかと思います。 (滋賀県在住)
ありがとう御座います。亡き父が畑から不時着水見ていました。話しでは完璧な着水で、予科練のカッターがすぐ救助に向かいましたが、搭乗員は機体とともに沈んだそうです。さすがに腕前はすごかったんでしょうね。
幻の紫電改を見たさに愛媛県愛南町、南レク紫電改展示場へ4度行きました。紫電改の勇姿、装備、激戦を戦った若き搭乗員の写真、遺品等々な現物資料が沢山展示されています。当時を想像し感動で胸が熱くなりました。
ありがとう御座います。
零戦と紫電と紫電改を操縦した経験がある本田稔さんによると、紫電と紫電改は全く別物といっていいくらい性能差が大きかったらしいね。ずっと劣勢続きだった戦況のなか紫電改の登場でようやく互角に戦える武器を得て自信になったと仰ってたけど、でも紫電改の登場があまりにも遅すぎたと悔やんでた。ただし好きな戦闘機は本人いわく零戦らしい。
本田稔氏は広島原爆の時に上空を飛んでいた数少ない目撃者です。原爆の爆風で紫電改が吹き飛ばされそうに成り、ようやく立て直した時に広島の街が消えていたとお話しされていました。
紫電は水上機。海上に離着陸するので、主翼の位置も違う。
@@我派
水上機は強風ですね。強風の陸上改装機が紫電で中翼です。
とても為になる話ですな。
紫電はキャノピーとコクピットの設計が悪すぎて前面の視界がほぼ見えないくらい悪すぎたみたいですね
もう7年前になりますが、行きつけの居酒屋で紫電改の元搭乗員のかと偶然居合わせて、びっくりした思い出が有りますよ。緊張のあまり何を話したか覚えておりません!良い思い出です。
もしや松山343航空隊の生き残りの方ですか?
映画良かったですよね!
ちなみに自分は飛燕と零式乗りに会いました
私は対潜哨戒機の東海に乗っていたという方とお話しする機会がありました。
自分は二式大艇設計士、駆逐艦水兵、高射砲中尉、高射砲伍長、機関銃手、戦車のドライバー、船舶工兵、豊橋騎兵26連隊整備兵、近衛兵軍曹、鳥取42?連隊、姫路39連隊、回天訓練兵、飛燕2名、零式、大竹海兵団2名に会えました。戦争の話しが好き過ぎてこの仕事をしていました。今は兵隊の人も少なくなりましたから辞めましたが。お客様に大正から昭和初期生まれを見つけたら無理矢理戦争話しに持ち込んで聞かせて貰ってました。今でもたまに見かけますが下士官以上の人は歳を重ねても雰囲気ありますね。思わず話しかけてしまいます。
誰に会えたとかなんの自慢にもならんのに自慢しあってるジジィ多くて草
愛媛県愛南町に墜落した紫電改を目撃した老人が言っていました。当時、空中でアメリカの戦闘機と戦って敗れた紫電改が海にの墜落したので近くにいた軍人さんに紫電改が墜落したから早く助けに行って!と言ったらその軍人が当時、少年だった方に紫電改が負けるわけないだろ!と叱られ殴られたと言ってました。結局軍人が怖くて助けに行けなかった。今思えば何故、自分は泳いででも助けに行かなかったのだろうと悔やんでました。
当時の軍人の悪い部分が満載のエピソードですね。
衆寡敵せず、343空がどれほど猛者が揃っていても200機対30機では残念だが勝てるはずもない。
紫電改 見に行きました愛媛県に住んでいるのでやっぱり気になりますからね。パイロットの手紙とか見ると涙腺崩壊です。おみやげで海の武蔵、紫電改と書いてあるTシャツを買って帰りました。
俺のアイコンみたいな漢字?
愛南町昔の城辺ですね🎵
@@鬼伏見 今は一部の地区が城辺と呼ばれています。
展示場から半島の先に偵察場があって米国の戦闘機の機銃であろう後が生々しく残っています。合掌して帰ってきました。
@@鬼伏見 さん
離れているけど一応南予出身だから懐かしい名前。愛媛を離れて50年以上。
往年の育毛剤『紫電改』。名前の由来は「最後の戦い」「最後の希望」だからだとか…。
涙なしには聞けないエピソードです。
そういえばずいぶん昔に薬用「紫電改」ってあった❗今はもうないかな。やはり、あの育毛剤はこの紫電改からきてたのか!そもそも紫電改なんて言葉も名前はこの戦闘機以外はないしね。
『紫電改』、最後の戦いに敗れたり!
禿げしく絶望せしむ!!
天草屋
⬆️
コノコメ欄に於いてだが1番寒く且つ笑えた💬コメント💬をドウモ有難う、、、[笑]www
かといって、
雷光、電光、極光とかいう命名だと、
ピカピカ、ツルツルのイメージで、
『間に合わなかった』って意味になるし、、
「最後の守り」という意味だと思います。
幼い頃紫電改の展示を父と見に行きました
痛々しさと華々しさが同居している独特の空気感を覚えています
ちばつや作「紫電改のタカ」当時の子供達は主人公にとても感情移入していて零戦より好きだった。ちなみに辻なおき作「0戦はやと」ってのもあったけどね。
零戦レッドと言うのもありましたよ‼️
@@南沙里 あったねー
@@ポンスケ-r9c あったねー
やられキャラで一回だけ雷電も登場してました。冒頭の台湾の基地では一式陸攻や彩雲も登場していて1964年当時の作品としてはよく調べていたと思います。ちばてつやさんは「失敗作だ」と言ってましたが、ご自宅には滝の肖像画が飾られていましたね。父もこの漫画が大好きで紫電改のプラモデルよく作っていました。
@@増田光紀-n4p お父さんと同じ世代かも
私の父は、畑から紫電改が湾に不時着水を、見ていました。皆さん愛南町に見に来てください。日本を守ってくれた先人に手を、合わせ冥福お祈りしてください。
私が高校生のころ、100歳で亡くなったひいおじいさんは体が弱くて徴兵検査に落ちて戦争にいかなかった(ひいおじいさんは行けなかったと表現していた)のですが、親友が徴兵で戦争に行って亡くなりました。
その話を聞いていたので毎年靖国神社に参拝して、遊就館の戦争で亡くなられた方達の写真や遺品を目に焼き付けるようにしています。
もちろん戦争ですし負けた戦争なのでたくさんの失敗や過ちはあったと思いますが、それでも平和に戦争もなく生活できているのは過去の先人達が戦ってくださったからですからね。
3年前に愛南町へ行って来ました。四国一周の途中偶然知り、寄り道した程度のものですが、まさか の感動で、心臓が震えました。
お祈りしますじゃないのか?お祈りしてくださいは違うだろ
@@miriosinja さん。もちろんお祈りしますですが、今戦争支持者が多くなり、日本や世界平和祈って戦った人達の、冥福をも祈って欲しいんです。上から目線で、失礼しました。
実は私のおばあちゃんも紫電改が海に落ちるのを見たと言っていました!おそらく同じ時間帯に同時に見たのでしょう
去年西日本をバイクで回った時に行きました、今まで零戦、隼、一式陸攻しか見たことなかったのですが紫電改の大きさに驚きました、紫電改を見た瞬間初めて震えるような衝撃を受けたので今年もまた行ってみたいと思います。
紫電改といえば撃墜王、菅野直大尉に敬礼。
鴛渕大尉も忘れずに、
@@虫山セカンド
梶二飛曹と杉田庄一上飛曹も
あと半月生き延びれば終戦だったのにね。享年23歳。生きていれば陸軍の小林照彦少佐のように創成期の航空自衛隊に尽力されたと思う。「紫電改のタカ」では「菅野大尉は戦死されたよ」の一言で済まされ戦死した時の状況は描写されなかったけど、撃墜された瞬間を見ていた目撃者は当時いなかったんだからしょうがない。アメリカ側の空戦記録では指揮官機を撃墜したと記録が残っているそうな。
武藤金義上飛曹 最後の乗機ですね😞
紫電改が活躍出来たのはやはり技量の高いパイロットのお陰だとか。零戦に比べると馬力も重量も倍も有った機体を乗りこなすのは難しかったそうです。ベテランはなんとか乗りこなして居たそうですが、若手は苦労していたそうです。自動空戦フラップはちゃんと働けば性能は良かったそうですが、スイッチを入れるタイミングが難しかったそうです。それと、エンジンの振動にも悩ませられていたとか。その中でも鴛渕大尉の機体は振動もほとんど無く馬力も出ていた為大尉は非常に気に入ってたそうですが、スクランブルの時、若手パイロットがその機体で飛び上がり着陸の時に大破させて使えなくなったそうです。鴛渕大尉は若手パイロットに怒る事は無かったけど、数日間かなり不機嫌だったそうです。零戦で有名な坂井さんは紫電改の審査やテストをしていた事もあり、取り扱い注意書のようなものを作りパイロットに配布していたそうです。そのお陰で戦闘701は他の隊と比べて壊す頻度が低かったそうですね。終戦時、アメリカが紫電改の性能を調べる為に追浜まで飛ばせと言われた時に、プラグもオイルも燃料も無いと言ったら、アメリカの物をくれたので、紫電改は機銃を降ろし丸腰、お目付役のグラマンはフル武装で飛んだのですが、紫電改がどんなにゆっくり飛んでもグラマンはついて行くのがやっとだったとか。当時の日本に誉発動機の性能をフルに発揮出来るプラグ、オイル、燃料が有ればもっと活躍出来たのでは?と思います。因みに、スミソニアン博物館の紫電改はレストアチームがやり過ぎて、ほとんど飛べる位までやったらしくて、館長がやり過ぎだとボヤいたとか(笑)けど、絶対に飛ばさないそうです。
懐かしい、松山の343航空隊の活躍を描いた映画「太平洋の翼」(主演 加山雄三)を
見た記憶が蘇りました!
昔、会社に入社したばかりの若かりし頃、三鷹市にある富士重工(株)(スバル)に出張したときに
ロビーにカラスショーケースに入った星形エンジンを見ました。栄-発動機と掲示してあり、先輩が
これがかの有名な「ゼロ戦」のエンジンだと聞かされました。三菱の設計でありながら、エンジンは中島製の
栄1000馬力を採用。堀越二郎技師が、次に手掛けた、時期迎撃戦闘機「雷電」の開発にてこずった事は、本当に残念です。
紫電改の登場が、余りにも遅く、海軍省はプライドが高く、陸軍との協力性に欠けていた感があります。
陸軍では、中島を主体とし、1式、2式、3式、4式、5式戦と順調に開発がされました。
海軍が頭でっかちで高慢ちきなため陸海共同が遅れたというのはおおむね同意ですが、陸軍も笑えないほどお粗末で愚かな組織だったのも確かに思います。
あと1式、2式、3式戦闘機はセットで開発されていましたし、4式は左記機体の実戦データを踏まえて1式と2式の折衷案としてこしらえたものなので実質1式~4式はほぼ同時開発です。そして5式は3式のエンジン積み替えただけのものを便宜上5式と「呼ぶことがある」だけなので新開発されたわけではありません。あしからず。
大好きな機体です。近所の鶉野飛行場跡に紫電改1/1レプリカがあります。何度も見学に行きました。
最近は復元された操縦席に座ることも出来るようです。
ディープな解説有り難う御座います。私も大戦について詳しく学習致しましたが、新たな事柄を学びました。有り難う御座います!
1963年公開の東宝映画
太平洋の翼がありました
それと少年マガジンに
連載された紫電改のタカ
に登場しました!
ライバルはP-51 マスタング!
戦闘機隊には珍しく、彩雲が配備されていたようです。
剣部隊はエースの集まった隊だからこそあり得たことだと思います。
美濃部中佐でしたっけ?
剣部隊隊長 菅野直中佐 です
美濃部中佐とは芙蓉部隊 美濃部正少佐 でしょうか?
剣部隊司令は源田実大佐。
部隊は戦闘機隊が3つ。
新撰組・維新隊・天誅組だったかな
その隊長が菅野・鴛渕・林の三人の大尉。あと、彩雲の偵察隊があったはず。
資料を見ずに記憶で申し上げたので、彩雲隊の名前とか度忘れしてますスミマセン
坂井三郎曰く
343空も所詮ヘタクソ集団。
俺が何度教えても事故ってばっかりだったw
ベテランを中核とした精鋭整備班の活躍もお忘れなく。
搭乗員の間には無線が使えるようになったのが一番大きかったと言っています。零戦はアースが付いていなく雑音が多い為に機体から取り外し編隊空戦も形だけでしたが紫電改はフォーメーションで敵に対抗していました。
零戦の中波無線電話は隊内通信用で、これは使い物になりませんでした。短波無線電信は機能したが、モールスの暗記受信の訓練を受けた課程とそうでない課程とで、零戦の無線の評価が分かれます。紫電改の無線電話は改善されたが、当時の無線機は複数の周波数(チャンネル)の使い分けは出来なかったので、分隊長(大尉;陸軍なら中隊長)クラスが簡単な号令を送信し、分隊士はそれを聴いて従うのが基本です。
愛南町の紫電改展示会で初めて実物観ました!
愛南町の前、御荘町だった頃に数回行きました。 もう25年前位かな、ロープウェイもまだあった頃 紫電改のプラモデルを買って帰りました。
子供の頃に愛南町に展示されている紫電改を引き上げるテレビ番組をくいるように見ていました。
21機の紫電改で500機のグラマンに戦いを挑んだ未帰還機の1機だと。いつか現存紫電改を見てみたい。
自動空戦フラップは経験の浅いパイロットの技量を補佐する優れた機構ですね。
実際はGに応じてフラップを作動させる電気の導通に使う水銀が酸化していたりして、作動が良好な訳ではなかった様です。
@@yuusama5203 そうだったんですか。戦時中、特に後半から終戦にかけて、日本の軍事技術の発想はユニークで優れたものも少なく無かったですが、そういう材質や精度の面で残念な結果になった事が多かった様ですね。誉やアツタもそうでしょう。
日本も航空工学や機械工学についてはかなりのレベルだったと思いますが、
如何せん資源が無さすぎました…
@@yuusama5203 その証言の話に水銀は常温や多湿では酸化は起きないので証言が本当の事か疑わしいって聞いたことある(間違ってたらごめんなさい)
@田中一郎 さん
密封性が不十分で揮発か漏れたり? 昭和40年代の自動車ウインカー用に水銀が使われていました。
旧日本の最も惰弱たる点の一つが、発動機(エンジン)の開発に大きく遅れを取っていた事が挙げられる。
工業技術の分野では、同じ部品を生産するのにこの製造誤差は何十万分の一の範囲に抑えなければならないが、当時の日本はこの工業技術力の点で大きく劣っていた。
手作業で同じ物を沢山、寸分の誤差無く作る事が如何に難しい事か容易に想像がつくだろう。
当時の日本は航空分野での設計力は決して遅れを取っていた訳ではない。各航空機メーカーの名物技師達がそれぞれ凌ぎを削っていた位だ。
でもその国の工業技術力は技師一人で何とか出来る物じゃない。
大戦時に於ける日本の航空機の評価が分かれてしまうのもこの点にあると言っても過言じゃない。
紫電も紫電改もその一つだ。烈風に至っては満足に飛行テストすら完遂出来ていない。
現場では常に稼動能力と継戦能力が求められるが、当時の日本は何も不足していた。
日本が空冷エンジン開発に踏み切れ無いのも頷ける。
戦後日本は工業技術立国として生まれ変わったけれども、今又、この地位が揺らぎ始めている。今の日本ではエンジニアリングが軽視されているのだ。コンサルタント業務という高給取りの詐欺士ブームと単価の安い中国製に流れた為だ。
こう話すと信じない奴が大半だが、現場では問題が顕在化していた。
日本の戦闘機開発は日本のエンジニアリングの裏返しの歴史である事も言及すべきだね。
ただ、当時の軍人独裁国家の日本では、すべての方針を「軍」が決めたからなあ。その「軍」は、強い戦闘機を求めたが、強力なエンジンを求めなかった。そういうことだな。まあ、体育会系に政治を任すと、物事の根本的な道理にまでアタマが回らない。上っ面の華やかさだけに目が行ってしまう。
今年の夏、愛南の紫電改展示館に行って引き上げられた実機を見てきました。
意外と大きかったです。
兵庫県の加西市にある紫電改の実物大模型もなかなか立派ですよ
コロナで皆自粛しとるのに旅行に行くとか!!
不謹慎やし、コロナ広める気満々やな
@@ytomo0506
その名前で言うか
末期の我が軍の戦闘機の名機は、ほとんど改なんだよな。紫電自体言ってみると強風改だし、陸軍の五式戦も飛燕改
改善は日本の得意技だぜ!
強風とパーツを共有して一緒に生産出来るようにするって話で設計した別機体らしいコックピット部分以外ほぼ別物になったけど
コメント数からもこの飛行機の伝説的な人気がわかりますね。紫電改と343空の実相については、大部ですが「源田の剣」高木晃次、ヘンリー境田 共著がとても参考になりますよ。ともあれ大戦末期に米軍に対して一矢を報いたというストーリーが戦中、戦後も我々に勇気と希望を与えてくれた事実は残りました。祖国を守った勇気あるパイロット達に感謝。
航空機にはあまり詳しくありませんが、ゆっくりとした語りでたいへん分かりやすいです。
頑張って下さい 応援します 良い動画をありがとうございます
素晴らしい動画をありがとうございます♪ これからも応援します📣
紫電や紫電改は、水上戦闘機「強風」から発達したというのが興味深く関心ひかれる点です。
水から陸に上がった機体ですね。川西はあまり戦争を考えていないのか、いるのかわからない感じで、紫電改の水上機化も提案していたらしいです。勿論、ボツになったそうですが。
@@室井修-k1r 副社長のコネで商売できたから
@@室井修-k1r そもそも水上機の出番がなくなって川西としては商売あがったりだったから不慣れな陸上機化に挑戦したのに、紫電改の水上機化なんて馬鹿げています。とても信じられません。
源田実がかかわると戦果は誇大になる。松山上空での戦いも大戦果として知られるが、双方の損害を突き合わせると互角の戦いであった。
戦地から零戦に防弾装備の充実をという要望に対してアメリカ人の様な個人主義は装備に頼るが我々に日本人には大和魂がある!火力や航続力を犠牲にしてまで改造する必要などない!と言ったのはこいつなんだよな
@@akibanokitune
戦地からの防弾に関する要望をすんなりと受け入れ、一式戦闘機の段階で防弾板を取り付けられるようにしたのが陸軍。
太平洋戦争初期からいた陸軍戦闘機パイロットたちの命を守った功績は大きい。
源田氏ですか。志賀氏とは対照的な人物です。
顔に冷酷で卑怯な人間性が出ています。
のうのうと生き残って 自衛隊幕僚、参議院議員、 大嫌いな人物です。
負けてる軍隊は必ず戦果を盛る。少しでも景気のいい話が欲しいからな。
というか防弾板つけても意味は無いと思う。別に銃弾を防げる訳では無いし。だが燃料タンクにゴムを使った米国はずるいなと思う。
子供の頃に読んだちばてつやさんの「紫電改のタカ」が好きでした。今でも時々思い出します。飛行機については全くの素人でこの動画で多くの事を教えていただきました。
でも思い出すのは信ちゃんとの悲しい場面がおおいですね。動画ありがとうございました。
紺野、米田、久保……(´・ω・`)
紫電界は聞いた事が有り現物も知らずに好き飛行機だった今話を聞いて戦争用ではなく乗りたい機体ですね此のコメントは戦争にたずさわった人達には大変な
時代において国を守り散っていった人達に敬意を送ります
紫電改とF6F、F4Uのエンジンを双方2000馬力としてしまうと誤解の元になります。
離昇出力では2000HPと2000Bhpで同等ですが、(細かく言えば0.5%程度HPは低出力となるはず)
大きな違いはターボ過給の有無で、F6Fは最大出力2,135Bhpを3800mまで維持できますが、
誉21型の公称出力は、
一速全開 1,860 HP / 3,000 rpm / +350 mmHgブースト (高度1,750 m)
二速全開 1,620 HP / 3,000 rpm / +350 mmHgブースト (高度6,100 m)
となり、実用域では1クラス以上違うエンジンだと思います。
一方で米軍の戦闘機は強度要求の大きい艦上戦闘機というハンデも存在しますが。
誉の過給機はエンジンの軸出力から2段変速のギヤで過給しているので、高度に従った気圧の低下に2段階しか対応できません。
一速全開の高度1,750 mを超えると2速となりがっくり過給機への回転数は落ち、過給圧、出力は落ちます。
ターボチャージャーでは排気圧で駆動し大気を圧縮するので、気圧が下がれば駆動、圧縮の双方共効率は上がります。
これが広い範囲で高出力を維持できる理由です。
これ以上の高度ではターボの軸受けの回転数制限の影響があるのかも知れません。
いろいろ言われているようだけど、元々海軍は「雷電」に注力・期待しており「紫電(改)」は"雷電が上手くいかなかったときのための控え"程度でしかなかったとか。
東電や関電も控えにどーぞ
@@ゆりあん-d6f さん笑っちゃった(Q )) >
終いには三菱も雷電やめて紫電改作れと言われる。
ちばてつや先生の紫電改の鷹読んで泣いたの思い出した最後は主人公は教師になる夢を捨て特攻に、それを知らされない恋人と母が慰問に向かう所で終わる。
ソフトで声を篭らせて昭和初期放送っぽくするとこのコンテンツは面白くなりそうな気がしました
紫電改の実機がある地元にすんでいますが、やっぱり実機を見ると感動します。
戦闘機を見て、感動するのは危ない。
分かりやすい
紫電改って海軍機だったの知らなかった勉強になります!
愛媛県にある紫電改は搭乗員は武藤金義少尉らしいです。座席の位置やきれいに着水してるところからベテラン搭乗員で背丈が小柄な搭乗員から推測だと武藤金義少尉じゃないかと思われるらしいです
毛生え薬だよ!🤣🤣😂😂
展示しているので、ぜひ愛南町に来て見てください。亡き父は最初山陰から出た機体を、見てずんぐりした機体で米軍機だと、思っていたら主翼の日の丸見てビックリしたそうですよ。
紫電改の鷹!
懐かしい!
63ですが、私もとても懐かしい。
といっても、辛うじて覚えてるのは、
ちばてつやの漫画、少年マガジンだったですかね~。
最終回は、壮絶な感じだった・・・のかな?
あれ、忘れてしまってるよ。
@@junktk_2216 さん 最後は特攻隊員として飛び立って行きました、基地にお母さんと許嫁が面会に来るのと入れ違いに…😢
@@junktk_2216 62歳ですが当時人気りましたよね。
登場があと1年早かったら戦局変わったかもしれない。それぐらいの可能性を感じる。
にしてもサクッと改良て言ってるけど、この時代の人達は凄すぎるよね。だからこそ、戦後、飛躍的進歩できたのかもしれない。
GHQのイジワル白人達が日本人に飛行機造らせなくしたのも、彼らの戦略上は大成功の布石。
ただし、人類の文明を阻害したのも同時に事実ですね。日本人を苛め、ニコラテスラを抹殺したユダ系アメリカ人達は、やっぱり鬼たちです。
(三菱で疾風作ったらええやん…?)
零戦と比べるのは少しおかしいと思う。基本コンセプトも違うから。艦上と局地戦ですよ。
最初は水上戦闘機
@@下僕-h1q 呉と愛南町に零戦と紫電改それぞれ見にも行きましたが、最初はそうでも最終的にはコンセプト変わってるのだから比較はおかしいと思う。それぞれその時代の名機だと思います。
@@鬼伏見 実物はやっぱり零戦がいいのかな?
それとも紫電改がいいのか?
プラモじゃ零戦が美しく見えるけど実物はどうなんだろう
@@ゆりあん-d6f 個人的にはスマートな零戦が格好いいかなぁと思いますけどあくまでも個人的感想です。
言うて比べる物がない
海軍最後の正式戦闘機
私も、昔ゼロ戦の搭乗員と会い、空中戦の戦い方を、聞かされました、偶然ですね、それから、ゼロ戦を何度か作りました、又紫電改も源田大佐が率いる、航空隊だと聞きました、嘘なら、ごめんなさい、とてもすばらしい、動画ですね。
紫電改の鷹のマンガが好きだった。
ちばてつやさんの作品ですね。最後、特攻に向けて出かけた時、涙が出ました。終戦後は、主人公は学校の先生を目指していたようです。
恐らく帰ってこれなかったでしょう。
名前だけ記憶にありました..搭乗員の写真の笑顔が戦時とアンバランスで少しだけ気持ちを楽にして見ることができました。
ありがとうございます。
紫電改展示館 行きました。
感動しまくりです。
T-シャツ 買いました。
滅茶苦茶遠いのが難点。
行きはタクシーか自家用車がおすすめ。上り坂だから
城辺営業所(宇和島バス)から4500円ぐらい
私は、バスの都合が合わず歩いて同営業所まで歩きました。約1時間ぐらい
紫電改のタカの黒の紫電改がカッコいい
ああそうか、紫電という機体の改造型なのか、それなら「紫電改」と、続けて読むのじゃなく、じゃなく「紫電 改」と呼んだ方がいいかも知れない
そうかい
そんなん文字見りゃ分かんだろ?!
いちいちめんどくせーな。国語の先生かよ(笑)
@@松本和成-c7l 解らなかったから言っているのだが
@@rudderfish 紫電に改だろ?そしたら紫電を改める。若しくは改めた物ってなるだろ?国語の先生さんよぉ。
そしたら普通に「しでんかい」でいいんじゃないの?それともわざわざ「しでん・・・・かい」て変な空間空けなきゃいけないんかい?そんなに細かく面倒くさくしないとこんな言葉も伝わらないんかい?
んなくだらん事を言う前に、自分の国語力の無さを恨みなさい。
@@松本和成-c7l はいはいわかったわかった
昔の少年は「紫電改の鷹」とかを読んでいたのに。
今の少年はK-popを聴いていたりする。
やはりテレビは軍事兵器だなあ。😢
愛媛県の愛南町に、御荘湾から引き揚げられた個体が展示されてます。
紫電の元になった強風に触れていないのが惜しいです。
なぜ紫電が中翼だったのかは強風の存在無しには語れません。
最強! 紫電改
今はリアップにその座を奪われました
一回空に上がって戻って来ると エンジン回りはオイル漏れで酷かったそうです。ゼロ戦に比べて手がエンジンの奥まで入りにくく整備にいつも難儀したそうです。
栄エンジンを無理矢理18気筒化してますから、手が入りにくくもなりますしね。
あと熟練工員が召集され、学徒動員で召集された学生が大量に工場へ配属されてますから、部品の精度もなし崩し的にガタ落ちですわな?
それと、エンジンのパッキンやゴムの原料が入りにくくなり、代用品や混ぜ物をしてたりして、オイル漏れは日常的ですし電装品の漏電もあったんとちゃう?
@@紅のプー太郎 おばちゃん達が整備していたそうですね。
@@瑞翔-w5c さすがにそんな事はないと思いますよ?
@@紅のプー太郎 全てでは無いですがおばちゃんの手も借りて板が正解か。
@@瑞翔-w5c さん
整備は軍の基地内なので、製造工場ではないでしょうか?
にしても、中学生や女学生は聞きますが、おばちゃんは?
手が足りなくて飯炊きの人に手伝わせた、とかですかね。
日本の戦闘機は独特の美しさがありますね..繊細というか・・だが
ムスタングには敵わなかったと思います
ムスタングは一撃離脱系だから、5式戦には相性が悪かったみたいで。紫電改も格闘性が優れているなら、勝てるかもしれないです。ただ、追いかけるのは無理がありますけどね。
有り余るような大馬力のエンジンを作れなかったから、性能を上げるには空気抵抗を減らすしかなかった。それが美しさの原因だと思います。当時の日本は流体力学に関してはトップレベルだったと思います。飛行機に限らず軍艦でも大和のバルバスバウとか。
零戦と紫電改を比べる意味がない、そもそも時代が違う戦時の5年は平時の10年以上の差がある、また開発のコンセプトが違うから零戦を低評価することに意味はない、零戦は高度に訓練された飛行兵の神業による戦績によって評価されるべき、開戦当初は比類なき航空戦力だった零戦と航空兵を称賛する。
エーリッヒハルトマン
ただ火力を追求したら、バランスが逆に悪くなった。かのドイツ空軍もメッサーよりフォッケウルフを採用していたら?対英戦も変わっていたかも?。
結局は、武士道だけでは、物資主義のアメリカ軍には手も足も出なかった。でもゼロは!日本が作った最高の戦闘機である事には間違えないの!アメリカ軍も認めるの事実ですよ。
@@上からマリコ-m8v アメリカ軍は疾風を最優秀機だと言ってますよ
ゆりあん
敢えて言うなら、高オクタンの燃料さえ用意出来ていたらと残念でなりません。
@@上からマリコ-m8v
敢えて言うならガソリンスタンドでハイオク満タンと言ってみたいね
川西が作成し、誉を用いて空戦フラップが生えたのが紫電改。
カネボウが作成し、センブリを用いて髪が生えたのも紫電改。
子供の頃「薬用紫電改があるということは薬用紫電があったのか?」と思った。
よくぞ名付けましたね、紫電改
今ならネ○○ヨが大騒ぎしそう
薬用紫電改を使って髪が生えた高橋さんは薬用紫電改のたかと呼ばれた
高橋克美さんかな?
空戦フラップは紫電にもついている。
故郷が宇和島です
20年ほど前、高校生時代だったと思うのですが家族で御荘の方へドライブにいった際に紫電改展示館に立ち寄りました
入った途端、その戦闘機の存在感に圧倒されたのをよく覚えています
悲しみ、淋しさ、恐怖、痛み、いろんな気持ちがないまぜになった、まさに言葉にできない感情で心が支配されていました
「機体に近づいてもっとよく見てみたい。でも畏れ多い気がするし、なんとなく怖い感じもある。でも同じくらい酷く悲しくて淋しくて泣き出しそうな気持ちもわいてくる」
多感な10代の頃特有のものだったのかはわかりませんが、20年経った今でもあれがどういう名前の感情だったのかを私はいまだに見つけられません
時折当時のことを思い出して、今の私だったら何を感じるんだろうと考えることがあります
今度郷帰りする際にまた訪れてみたいと思っています
ワシントンまで見に行ったよ
愛媛県の愛南町の記念館。
紫電改、何故か姿がF35とだぶって見える
同じエンジンを積んだ陸軍4式戦疾風にもフォーカスして欲しい
感動した!
先週、f6ヘルキャットの実機見てきたよ。びっくりするぐらい大きい機体なのに、羽根を畳んで格納してあった。コクピットは狭くて前見ないだろうねえ。
東京湾で、空母「信濃」において紫電改による発着試験が行われたそうですが・・・
信濃の乗組員予定だった人達が、やってきた紫電改が信濃に配備されると喜んだそうです。残念ながら紫電改が来た目的はそうでは無く、帰ってしまった様ですね。
@@マクドナルドマーシャル お返事ありがとうございます。そうですね。紫電改は空母艦載機にしては航続距離が短いです。零戦の後継機である烈風が開発の遅れで
ピンチヒッター的に紫電改を艦載機にしようとしたのですが。坂井三郎氏も航続距離が短いからダメだを言われている通り紫電改艦載機は諦めたようですね。
先週愛南町に行ってきました。防弾タンクや自動消火装置、各ボルトナットのワイヤリングによる緩み止め等など、実物を見て初めて分かるような機構ばかりで大戦初期に活躍したゼロ戦とは違い随分と進化していたので驚きました。エンジンはアメリカのプラットニーホイットニーのコピーから始まってここまで進化していった事もよくわかります。
私も知っていましが、 B 29に 対応するために
マリアナ沖海戦で機動部隊が壊滅したため局地戦闘機となったが、大型空母なら艦上戦闘機としても使える機体だった
零戦は防御力が文字通り紙だったので、多少大型で航続距離が短くても攻防共に強い紫電改のほうが強力だった
が、如何せん機動部隊が壊滅状態では、本土防空でしか活躍できなかった不遇の機体
その本土防空でも数の力で何とか互角の戦闘を演じただけで、実態はよく見積もってもF6Fと同格なのが悲しいところ
@@そらきち-u4t 戦闘機はまだ戦いになるだけまし
戦車の性能差は目を覆うばかりだった
日本のチハ中戦車は、サイパン島でもフィリピンでも、M4シャーマンに一方的に虐殺された
兵站も去ることながら、なんでこんな戦車でインパールを攻略できると大本営が思ったのか謎
@@そらきち-u4t
最高高度くらいしか疾風に勝てないしなぁ
F6FはもとよりB-29も早々に降りてるからあまり意味のない能力
防御に関しては紫電改も防弾鋼板は付いてない。燃料タンクが燃えにくいというだけです。
名前がいいですよね紫電改って(^^)
四式戦とよく比較されるけど、速度が劣るとはいえ、横旋回には優れ、操縦性も良好。
上昇力や加速性能はほぼ互角で急降下性能はやや劣る?かな。
せめて、四式戦と同時期に配備されていたら・・・と思いますね。
零戦の後継機として。
視界もよく、翼面積も大きいから艦上戦闘機にしても素性が良さそうだし。
陸軍は五式戦がもっと早く出ていたらなあ。
まあ、だからといって戦局が大きく変わることはなかっただろうけど。
というか、海軍でも四式戦を使えばよかったのでは?
限られたリソースを、陸軍と海軍で奪い合うようなことしてたから、必要な時に数を揃えられなかったのでは。
誉が本来に近い性能を発揮すれば高性能だったが、そうでもなかったのは上昇力の評価をみるとわかる。カタログデータと異なり、上昇力はすこぶる悪い評価で、B29に雷電が期待されたのも上昇力であった。発動機の出力低下は速度よりも上昇力に大きく影響する。
松山に住んでいます。343航空隊の後に松山空港があり掩体壕も残っています。
紫電改の知名度が低いはずがない。
オラは紫電改好きだよプラモも作った😄
子供の頃ずっと「紫電改」という古の言葉が名前の由来だと思っていて紫電の改良型という意味だと知ったのはつい最近だったw
正式には、紫電>紫電改ですね。確かに、もっと早く投入されていたらよかったです。
まぁもっと早かったら戦争がもっと長引いてしまったかもしれないですね
@@おひたし-p9b
早く投入される
↓
勝てるはずのない戦争が長引く
↓
ダウンフォール作戦発動日本滅亡
ここまで見えた
@@そらきち-u4t ん?
ミッドウェーで勝とうか(*^^*)
戦後の検証なので、自軍の戦果は無視して自軍の被害を比較するのが話として筋が通る。
四国の愛媛に墜落した紫電改を修復して展示されていたが、意外とずんぐりむっくりで、ちゃちかった。このような飛行機で空を飛び命懸けで戦ったパイロットに感動する。
ずんぐりむっくりは大馬力エンジンを搭載しているということ。アメリカ軍の戦闘機などは大馬力エンジンなので胴体が大きい機体が多いです。紫電二一型に当時乗っていたパイロットにも『紫電改は私の命綱、今日も頼むで、紫電改が私を助けてくれた』と言われています。それほど多くのパイロットを助け、戦った紫電改は傑作機です。
紫電改と言えば川西飛行機そして戦後は新明和工業。
今や人助けのU2を作っている。
東洋機械金属製ダイカストマシンのある意味ご先祖様。川西のちの新明和工業の油圧・制御技術が使われています。
8:15 源田大佐の横で志賀飛行長(当時は少佐?)が腕を組んで笑っているけど、当時の海軍は結構フランクな組織だったのかな。
現場サイドでは、陸軍との交流もあったみたいですけどね。
ついこの間、鶉野飛行場跡にレプリカ見に行ってきました!良かったですよ!色味が明る過ぎていかにもレプリカってかんじでしたが… 近くで見ると迫力あります
私が思い出す作品は『撃墜王』です。
菅野隊長の二番機の方が主人公だった。関係者に取材をしての劇画作品です。
エピソードの一つ。芸者さんのいるような場所。パイロット達は、野球拳をしてのドンチャン騒ぎ。
そこへ、『お前達には、国をうれうる気持ちがないのか!』と、部屋に乗り込む陸軍の兵隊さん。
それに対して、『陸軍さんは、こんなところで作戦会議ですか?』と、誰かが返す。
『なにぃ!』陸軍の兵隊さんと、三四三空のパイロット達の殴りあいの大喧嘩が始まる…。
心に残るシーンです。
戦後、アメリカがドイツや日本に戦闘機の開発を禁止していたのが理解できる。
ドイツは分かるんですが、日本は・・・・
動画、ありがとうございます。
ザクⅡに対するゲルググって感じね。
紫電改の振動は毛根に刺激を与え、髪が濃くなるらしいぞ。
強い兵器って何故か格好も良いですよね
その理屈だと性能が紫電よりも良いF6Fもカッコ良いのでしょう
源田実は源田サーカスと呼ばれた戦闘機のプロフェッショナルで大西瀧治郎、小沢治三郎とともに早くから航空機が主流になることを主張されていました。
歴史にイフはないですが、源田実、大西瀧治郎、小沢治三郎、山口多聞が連合艦隊のトップで戦っていたらどうなっていたんだろうとよく考えます。
紫電改が、B29、グラマン、などを対抗できたので、アメリカも恐れたと言われていたと聞いていました。最強で、性能が良かったのですね。誉エンジンが、良いと聞いていました。
エンジンの調子が良ければ無類の強さを発揮できたそうです
とてもいいことです。燃料のいいハイオクタンの燃料ならかなり高い速さ性能が向上したのではと思います。本で読みました。
「紫電 改」を゙知ったのは昔少年誌(少年 マガジン?)に連載された ちばてつや先生の「紫電改の゙タカ」でした😅 零戦の得意技(?)「木の葉落とし」に よく似た「逆タカ落とし」が印象に残っています🤗
失速からの急反転が海軍航空隊伝統の「左旋回捻り込み」なんですが・・・
まあ捻りこみは実戦で使う事ないですから。大空のサムライでも言及されているように、あれは訓練時に賭け空戦とかで新人やいけ好かない将校からメシ代やタバコをまきあげるのに使う技ですから。実戦で失速したら1機は落とせるかもしれませんが直後に敵の僚機にやられます。
幻の名機、愛媛県愛南町にあるのですか、ぜひ行ってみたくなりました
零戦の後継機は一七試作戦闘機烈風です。紫電改は水上戦闘機強風?を陸上機に改造し紫電を、その欠点を改善し再設計したのが紫電二一型?これを紫電改と言いますよ。
65歳になる最終型日本人の一人です。ちばてつや先生の紫電改のタカを穴が空くほどよみこんだ世代で、当時のプラモの愛好家小学生の間で、零戦ばっかりに固執する友人をあざ笑って(笑)紫電改の方が上だったんだぜと、人気のない紫電改(ニチモの48/1)をこさえて、林の中に洞窟滑走路をつくった秘密部隊を再現sンして愉しんでいた記憶があります。やがて育毛剤の名前で名戦闘機の名前が使われた時は、複雑な思い。はげて堪るかと!最期の決戦機「紫電改」なのかなと苦笑したものです
局地戦闘機と艦上戦闘機を比較はおかしい
運用の差がある為です
陸軍機と海軍機の考え違い
パイロットの技量
傑作機とはなんなんでしょうか
対戦初期は機体性能を最大限に生かすパイロットが居たはずです
剣隊は精鋭だと認識していますので戦禍はすごいと思いいます
戦記漫画「紫電改のタカ」は雑誌少年マガジンで愛読していました。ちばてつやの代表作のひとつです。
ゼロ戦のように大戦開始時から量産されて活躍してたら戦況は少しは変わっていたかもね!
そりゃぁかわってるやろ
でも資源早く無くなりそう
そんな事したらアメちゃん黙ってないんだわ🥺
まだエンジンが影も形もありません。
少しはってのも過大評価だなw
実際脚の短さが災いし零戦みたいに空母を使わずラバウルまで行く…なんてのが困難だったろうし
そのラバウルからガタルカナルで戦うまでが激戦区だってのにたどり着けないから意味がない
空母で使う?寸法が大きすぎて無理だし載せれたとしても
ミッドウェイは戦闘機の数が少なく守り切れなかった面もあるのに
更に数が減るんじゃなぁw
どの戦場だったら戦況引っ繰り返せたと思う????
海軍機で戦況変わった可能性大なら96式艦戦をバトルオブブリテンに対しドイツでライセンス生産とか?w
・1000km超えてまだ余裕のある航続距離
・当時低空で勝てる戦闘機はなし(Bf109も低空だとハリケーンに互角)一撃離脱?地面とキスしたいならどうぞw
現にドイツ機も低空で押し寄せるP-39とシュトルモビクに苦戦強いられまくっている
・防弾?そんなもん欧州戦線では遅れに遅れてる、ましてバトルオブブリテンでそんな概念はない
(防弾してたのは当時ソ連とアメリカくらい、すぐ後に日本陸軍が続くが英独の防弾軽視は最後まで続いてる、ドイツに至ってはゴムがないってのが理由の一つだけれど)
・どうしてもって言うなら96艦戦も20mm積めるぞ?
イギリスでの空襲の足掛かりをなくせば憂いなく工場を稼働できるわけよ
紫電改の名前がとても印象的で、素晴らしいです。活躍する機会が少なかったと思いますが、この様な技術があったからこそ、現在の日本国に生かされて居ると思われます。この時代は、軍事に使用されましたが、国産技術が高度に成長した事を冷静に判断すべきだと思われる❣️❣️❣️
※国産技術は、未来の橋を渡るひとつ‼️ひとつ‼️の方法に成る❣️❣️❣️
大戦末期に、大活躍した大変大好きな戦闘機です。零戦より好きす。
しかし、烈風が大活躍していれば、烈風のほうが好きになっていたでしょう。
雷電もいいよ。対戦闘機戦だって、一撃離脱戦法に徹すれば使えたはずなんだけどね。
@@室井修-k1r さん雷電でしょヽ(*´∀`*)ノ当時のアメリカの要求するスピード重視の一撃離脱式の戦闘機に、近かった戦闘機❗戦後アメリカで高い評価もらった❗こりにこった戦闘機❗。ヽ(*´∀`*)ノカッコいいですね❗ヽ(*´∀`*)ノ
開発した川西は陸上戦闘機を作ったことがなく、紫電改(正式名称は紫電二一型)もベースは水上戦闘機の強風。
強風をベースにして、紫電を開発。しかし元々は水上戦闘機の強風は主翼は中翼式で視界の悪さや二段式の引き込み脚でトラブルが続出、紫電改はそれらを改良して主翼以外はほぼ新開発して、紫電改となる。紫電改は343空がもっとも有名というよりは紫電改の戦果はほとんど343空の戦果。エンジンは中島が開発した「誉」(陸軍ではハ45、陸軍では四式戦「疾風」だけが搭載したエンジンですね。
おつかれさまでした
なるほどなー
この機種もゲーム等で出てくるよなー
祖先の方々努力と知恵に敬服します。
涙が止まりません。