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ちなみに家康が信之を処罰していたら当時徳川最強の呼び声高かった本多忠勝が家康の敵になってた可能性があった。あとは伝説扱いになってるけど京の童歌に「花の様なる秀頼様を、鬼の様なる真田が連れて退きも退いたよ加護島へ」っていう俗説がある。少なくとも負けたはずの幸村が勝者であった家康から後世の歴史でボロクソ言われていないことが真田家の実力とそれに対する敬意の表れだと思ってる。
十分で終わると思ったら一時間超えで驚いた。暇つぶしに丁度良くて助かる。
謙信は献身的な人だった
😊
😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊
直江状について、三成と兼続が練り上げた家康への挟撃に景勝の許可が降りなかった(理由は先代の謙信は敵を背後から襲った箏がなく俺も今までない、これは代々家訓にしたいと思っている、というようなことらしいです)らしくて兼続とすれば今更止められてもどうするんだ…、っていう状況になってストレスフルの状況で一筆書いたからあんな八つ当たりみたいな文面になったなんて話もあるみたいですね。
家康が1番、警戒してた武将は真田昌幸だったんですかね?それと昌幸は最後は高野山ではなく九度山に移ってますよ。最後まで高野山から出ることは無くとは違うかと。
北条早雲??北条を名乗ったのは…二代目氏綱からですので正確には伊勢宗瑞だとおもいます
後北条に押されて越後に来た上杉憲政が御館の乱で北条から来た養子の景虎側について死んだのも皮肉よな
地元民より早雲庵殿に対して補足致します。近年文書や資料が改めて精査された結果、早雲庵殿は備中伊勢氏の出自かつ1456年生まれで余程ひっくり返る様な資料が見つからない限り確定されました。ついでに言うと興国寺城はそもそも存在しておりません(想定された要害が建てられたのも今川義元殿の時代になってからという証拠になる文書が発見されております)。更に言うと動画にも出てきた有名な肖像画(後北条五代分)も江戸時代に土佐光起が描いたものを更に明治時代模写されたものです。何でこんなにこんがらがったかというと、大体成り上がり伝説を何故か提唱した明治時代の学者のせいの模様。まあこの辺は私よりも地元に詳しい上に講義もできる郷土史研究家の方がいらっしゃるのでそちらの方の方が詳しいですが。
家康より政宗の方がよっぽどタヌキですね😅
1番長い川は信濃川?昔は最上川だったのかね
24:05付近最上川は日本で一番長い河川ではありません。まとめ動画に編集する際に訂正出来なかったのですか?
「愛」は、確か、「愛染明王」から取った「愛」と記憶しているけど・・・。
直江兼続の前立ての【愛】の文字の意味…兼続が信仰していた愛宕権現の意味もあるが 【愛国・愛民】の意味があると言われている兼続の政治信条を表している【愛】の一文字です まさに義の人・直江兼続
ありがとうございます。これで眠れます(笑)余談ですが今日はお城Expo行きました。これでさらに戦国武将を学びます(ノ˶>ᗜ
利家は算盤を戦場に持って行っている。
北条早雲のマブダチ、風間小次郎(初代風魔小太郎)❤
加賀100万石と言われているが、息子利長の代に何故か関ヶ原に参戦してもいないが20万石加増され、120万石になっている。
わわわー
時代は下って上杉謙信の甥、上杉景勝(米沢藩の初代藩主)は一度1588年に従三位になり1592年権中納言になっていますがまた時は下って1922年(大正11年)に従三位を贈られています。余談ですみません。
上杉謙信が最強かどうかは基準によって変わる気がする
どうでもいいけど、私は愛の兜は愛染明王派
山田風太郎の叛旗兵でも、豪快な前田慶次がみられますね。座敷で遊女に風呂を立たせたりとか、敵に対してションベンかけたりとか。宮本武蔵や佐々木小次郎。その他戦国武将がたくさん出てきて、ぜひお薦めです。
そもそも、兼続が江戸を占領したり、家康を後を追って上に上がる方が良かったんよ!
越中詩郎が印象的だった。
平成維新軍か。懐かしいな。
日本一長い川は信濃川です。最上川ではありません。
首周りが大きすぎてダラーんになりました
上杉謙信は義を掲げてるが、関東を定期的にあらす様は毘沙門天ではなく第六天魔王にしか見えんわ。
ただの戦闘狂で義という大義名分で他国の戦に介入してただけっていう説見た時しっくり来た
@@user-lx1ns2hz4n 上杉謙信は関東のあちこちで略奪や拉致、虐殺を行ったせいで「越後者との婚姻・取引を禁ず」っていう言い伝えが残ってる土地まであります…
乱取り黙認したみたいですね。
情報のソースが知りたい
@@DOGCAT1000BUSHO 乱取りを黙認しない勢力はないですよ。それが悪っていう価値観も当時の大名にはないでしょう戦国の世にあって放火や青田刈り、乱取りは籠城側への挑発で立派な戦術謙信の義っていうものは庶民の味方、正義のヒーローみたいな意味ではないですよ。約束を守るとか筋を通すとかそういった事を真面目にやりまっせというだけ。だから同じ武家である北条や武田とか敵方に義を認められる頼れる人みたいな一目おかれるエピソードが生まれるわけで、あくまで武士同志で通じる義で、庶民には武田だろうと北条だろうと上杉だろうと侵攻されればやられることは変わらない
松永久秀はあまりに悪名高くて肖像は残っていないと「日本史探訪」に載ってた気がするんだけど…
😊😊😊
でもどちらかと言うと暗黒卿。信長の憧れの先輩
上杉謙信、上洛に際し、5000人も、引き連れたのかな?
上杉謙信は日本人らしいですね。直江兼続は現代の日本企業のお手本ですね。前田利家は努力次第で大企業を起こせるお手本ですね。前田慶次は今でいう、フリーランスでは?北条早雲カッコいい。伊達政宗は苦難の立ち位置で仙台の基盤を作ったのですね。真田昌幸は人として一切信用ができないですね。まるで野良ネコのような生き方。松永久秀は謎。
噂の慶次トシーとマツ
『越中』を『えっちゅう』ではなく『こしなか』って読んでるのが、妙に気になって残念(´;ω;`)
愛姫の読みはめごひめでは?
いや、ゆっくりてそう言うものだから、、、落ち着いてAED持ってきますから。
伊達政宗には、金髪の側室がいた。
とし&まつ、か……
上杉謙信がほとんど負けなかったのはすごいことだけど、毎年の恒例行事みたいに関東を荒らしては撤退を繰り返して、戦略性に欠く武将だったのは忘れてはならんと思うな。
お陰様で小田原は毎年本当に困っておりましたのでねぇ…挙げ句嫁貰わないせいで人質として幻庵殿の娘と婚姻して半年も経ってないのに離縁させて渡した三郎景虎殿の行く末もろくに明言してなかったせいでの御舘の乱よ…
@@麻樹-u8h ほんとその通りで、あわや二代で越後上杉滅亡の原因を招く所でしたよね。動画では強さとは何かを考えさせられる、という風にまとめられていましたが、 僕は違う意味でそれを感じる大名です。
家臣たちは関東に来るたびめっちゃ略奪してたみたいですしねw
それは後北条側に偏った視点ではないでしょうか謙信や幕府、佐竹や里見らの古くからの関東豪族から見れば関東と関係ない地からやってきて小田原を占拠し、相模武蔵と各地を荒らして戦乱を広げていたのは後北条氏の方ではないでしょうか謙信が関東に出てくる最大の要因は関東諸勢力からの要請によるものですし
@@crystalme3911 うーん、後北条氏の正当性は私も疑問視していますが、六公四民が一般的だった荘園制時代の年貢率を、四公六民に統一し(当時の日本最安。しかも大々的に検地までやって、違反した役人は職をはく奪するという徹底ぶり)、善政をもって関東の覇を唱えた後北条氏を、単なる侵略者と位置付けるのはどうなんでしょう。佐竹相手に戦しまくったので聖人君主だったとは思わないですけど。また、私が指摘しているのは治める器もないのに関東遠征を繰り返すという謙信の悪行であり、少なくともグダグダ内輪もめを繰り返していた上杉氏を追いやり関東を平定し今の関東の礎を築いた点は、ビジョンの無い謙信と雲泥の差があると言えるのではないでしょうか。
歴史研究家を含む多くの人が勘違いしていますが、利家は秀吉から味方に付くように誘われてはいたし、最終的には秀吉に降伏するが、秀吉に寝返ったわけではありません。賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を見限って戦線を離れますがこの時に秀吉に寝返ったわけではありません。柴田勝家を見限っただけです。これを裏切りと言うのなら裏切りでしょうが「寝返り」ではありません。何故なら寝返ってはいないからです。証拠に柴田軍に攻撃を全くしてなく、逆に秀吉軍の追撃を受けていたり、荒子の頃からの幹部も勝家の撤退戦に参加して死んだりしています。勝家が夜に利家の支配下にある前田利長(利勝)の居城府中城に立ち寄る逸話がありますが、利家が秀吉軍に寝返っていたら絶対に立ち寄るわけがありません。実際に利家が秀吉の傘下に入ったのはこの後に秀吉軍に府中城を包囲され降伏勧告を受けて初めて秀吉に“降伏”しました。秀吉が親友の利家に恥をかかさないように前田家家臣一同の前で頭を下げさせ降伏させるのではなく、台所で自分達だけで話を済ませたという逸話で有名ですが、この時に“降伏”したのです。賤ヶ岳の戦いの段階で秀吉に寝返ったのであれば秀吉軍に城も包囲されないし、秀吉も降伏勧告もして来ないはず。利家は勝家の寄騎(与力)でしたが織田家の直参で大名なので一族と家臣とその家族と領民がいるので家の興亡がかかったので止む得ず勝家を見限り秀吉に“降伏”したのです。戦闘中に寝返ったり柴田軍に攻撃はしていませんし、秀吉も利家を調略しきれていなかったので府中城包囲し勧告をしたというのが真実です。
謙信公は戦上手でいいけどホント人心掌握が出来ないも少し世俗の垢に塗れた俗な人の心を察する事が出来たら
政宗は片眼じゃ無かったって話だぞ!ただ、目の色が違うから隠したって話がある!
伊達政宗の正妻は めごひめ 伊達成実が出てこないのはよろしくない出奔のお話し 秀吉が片倉景綱を大名に 家康が政宗に約束した報酬1,000,000石 仙台 伊予 政宗に副将軍じゃなかったっけ
すみません、人名は推敲をお願いします。読み間違いは仕方がない部分もありますが、足利13代将軍輝元はちょっと・・・(本当は義藤、義輝)
前田利家の所で「越中」を「こしなか」、他にも伊達政宗の正室「愛姫(めごひめ)」を「あいひめ」。NHKの大河でも「めごひめ」でしたよ。このチャンネルに限らず他のチャンネルでも読み方のおかしいのが結構あって気になります。地名・人名はきちんと読んで欲しいです。
嘘ばっかの動画だな
ちなみに家康が信之を処罰していたら当時徳川最強の呼び声高かった本多忠勝が家康の敵になってた可能性があった。
あとは伝説扱いになってるけど京の童歌に「花の様なる秀頼様を、鬼の様なる真田が連れて退きも退いたよ加護島へ」っていう俗説がある。
少なくとも負けたはずの幸村が勝者であった家康から後世の歴史でボロクソ言われていないことが真田家の実力とそれに対する敬意の表れだと思ってる。
十分で終わると思ったら一時間超えで驚いた。暇つぶしに丁度良くて助かる。
謙信は
献身的な
人だった
😊
😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊
直江状について、三成と兼続が練り上げた家康への挟撃に景勝の許可が降りなかった(理由は先代の謙信は敵を背後から襲った箏がなく俺も今までない、これは代々家訓にしたいと思っている、というようなことらしいです)らしくて兼続とすれば今更止められてもどうするんだ…、っていう状況になってストレスフルの状況で一筆書いたからあんな八つ当たりみたいな文面になったなんて話もあるみたいですね。
家康が1番、警戒してた武将は真田昌幸だったんですかね?それと昌幸は最後は高野山ではなく九度山に移ってますよ。最後まで高野山から出ることは無くとは違うかと。
北条早雲??
北条を名乗ったのは…
二代目氏綱からですので
正確には伊勢宗瑞だとおもいます
後北条に押されて越後に来た上杉憲政が御館の乱で北条から来た養子の景虎側について死んだのも皮肉よな
地元民より早雲庵殿に対して補足致します。
近年文書や資料が改めて精査された結果、早雲庵殿は備中伊勢氏の出自かつ1456年生まれで
余程ひっくり返る様な資料が見つからない限り確定されました。
ついでに言うと興国寺城はそもそも存在しておりません(想定された要害が建てられたのも
今川義元殿の時代になってからという証拠になる文書が発見されております)。
更に言うと動画にも出てきた有名な肖像画(後北条五代分)も江戸時代に土佐光起が描いたものを
更に明治時代模写されたものです。
何でこんなにこんがらがったかというと、大体成り上がり伝説を何故か提唱した明治時代の学者のせいの模様。
まあこの辺は私よりも地元に詳しい上に講義もできる郷土史研究家の方がいらっしゃるのでそちらの方の方が詳しいですが。
家康より政宗の方がよっぽどタヌキですね😅
1番長い川は信濃川?
昔は最上川だったのかね
24:05付近
最上川は日本で一番長い河川ではありません。
まとめ動画に編集する際に訂正出来なかったのですか?
「愛」は、確か、「愛染明王」から取った「愛」と記憶しているけど・・・。
直江兼続の前立ての【愛】の文字の意味…兼続が信仰していた愛宕権現の意味もあるが 【愛国・愛民】の意味があると言われている
兼続の政治信条を表している【愛】の一文字です まさに義の人・直江兼続
ありがとうございます。これで眠れます(笑)余談ですが今日はお城Expo行きました。これでさらに戦国武将を学びます(ノ˶>ᗜ
利家は算盤を戦場に持って行っている。
北条早雲のマブダチ、風間小次郎(初代風魔小太郎)❤
加賀100万石と言われているが、息子利長の代に何故か関ヶ原に参戦してもいないが20万石加増され、120万石になっている。
わわわー
時代は下って上杉謙信の甥、上杉景勝(米沢藩の初代藩主)は一度1588年に従三位になり1592年権中納言になっていますがまた時は下って1922年(大正11年)に従三位を贈られています。
余談ですみません。
上杉謙信が最強かどうかは基準によって変わる気がする
どうでもいいけど、私は愛の兜は愛染明王派
山田風太郎の叛旗兵でも、豪快な前田慶次がみられますね。座敷で遊女に風呂を立たせたりとか、敵に対してションベンかけたりとか。
宮本武蔵や佐々木小次郎。その他戦国武将がたくさん出てきて、ぜひお薦めです。
そもそも、兼続が江戸を占領したり、家康を後を追って上に上がる方が良かったんよ!
越中詩郎が印象的だった。
平成維新軍か。懐かしいな。
日本一長い川は信濃川です。最上川ではありません。
首周りが大きすぎてダラーんになりました
上杉謙信は義を掲げてるが、関東を定期的にあらす様は毘沙門天ではなく第六天魔王にしか見えんわ。
ただの戦闘狂で義という大義名分で他国の戦に介入してただけっていう説見た時しっくり来た
@@user-lx1ns2hz4n 上杉謙信は関東のあちこちで略奪や拉致、虐殺を行ったせいで
「越後者との婚姻・取引を禁ず」っていう言い伝えが残ってる土地まであります…
乱取り黙認したみたいですね。
情報のソースが知りたい
@@DOGCAT1000BUSHO
乱取りを黙認しない勢力はないですよ。
それが悪っていう価値観も当時の大名にはないでしょう
戦国の世にあって放火や青田刈り、乱取りは籠城側への挑発で立派な戦術
謙信の義っていうものは庶民の味方、正義のヒーローみたいな意味ではないですよ。
約束を守るとか筋を通すとかそういった事を真面目にやりまっせというだけ。だから同じ武家である北条や武田とか敵方に義を認められる頼れる人みたいな一目おかれるエピソードが生まれるわけで、
あくまで武士同志で通じる義で、庶民には武田だろうと北条だろうと
上杉だろうと侵攻されればやられることは変わらない
松永久秀はあまりに悪名高くて肖像は残っていないと「日本史探訪」に載ってた気がするんだけど…
😊😊😊
でもどちらかと言うと暗黒卿。信長の憧れの先輩
上杉謙信、上洛に際し、5000人も、引き連れたのかな?
上杉謙信は日本人らしいですね。
直江兼続は現代の日本企業のお手本ですね。
前田利家は努力次第で大企業を起こせるお手本ですね。
前田慶次は今でいう、フリーランスでは?
北条早雲カッコいい。
伊達政宗は苦難の立ち位置で仙台の基盤を作ったのですね。
真田昌幸は人として一切信用ができないですね。まるで野良ネコのような生き方。
松永久秀は謎。
噂の慶次トシーとマツ
『越中』を『えっちゅう』ではなく『こしなか』って読んでるのが、妙に気になって残念
(´;ω;`)
愛姫の読みは
めごひめ
では?
いや、ゆっくりてそう言うものだから、、、落ち着いてAED持ってきますから。
伊達政宗には、金髪の側室がいた。
とし&まつ、か……
上杉謙信がほとんど負けなかったのはすごいことだけど、毎年の恒例行事みたいに関東を荒らしては撤退を繰り返して、戦略性に欠く武将だったのは忘れてはならんと思うな。
お陰様で小田原は毎年本当に困っておりましたのでねぇ…挙げ句嫁貰わないせいで人質として
幻庵殿の娘と婚姻して半年も経ってないのに離縁させて渡した三郎景虎殿の行く末も
ろくに明言してなかったせいでの御舘の乱よ…
@@麻樹-u8h ほんとその通りで、あわや二代で越後上杉滅亡の原因を招く所でしたよね。動画では強さとは何かを考えさせられる、という風にまとめられていましたが、 僕は違う意味でそれを感じる大名です。
家臣たちは関東に来るたびめっちゃ略奪してたみたいですしねw
それは後北条側に偏った視点ではないでしょうか
謙信や幕府、佐竹や里見らの古くからの関東豪族から見れば関東と関係ない地からやってきて小田原を占拠し、相模武蔵と各地を荒らして戦乱を広げていたのは後北条氏の方ではないでしょうか
謙信が関東に出てくる最大の要因は関東諸勢力からの要請によるものですし
@@crystalme3911 うーん、後北条氏の正当性は私も疑問視していますが、六公四民が一般的だった荘園制時代の年貢率を、四公六民に統一し(当時の日本最安。しかも大々的に検地までやって、違反した役人は職をはく奪するという徹底ぶり)、善政をもって関東の覇を唱えた後北条氏を、単なる侵略者と位置付けるのはどうなんでしょう。佐竹相手に戦しまくったので聖人君主だったとは思わないですけど。
また、私が指摘しているのは治める器もないのに関東遠征を繰り返すという謙信の悪行であり、少なくともグダグダ内輪もめを繰り返していた上杉氏を追いやり関東を平定し今の関東の礎を築いた点は、ビジョンの無い謙信と雲泥の差があると言えるのではないでしょうか。
歴史研究家を含む多くの人が勘違いしていますが、利家は秀吉から味方に付くように誘われてはいたし、最終的には秀吉に降伏するが、秀吉に寝返ったわけではありません。
賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を見限って戦線を離れますがこの時に秀吉に寝返ったわけではありません。
柴田勝家を見限っただけです。
これを裏切りと言うのなら裏切りでしょうが「寝返り」ではありません。
何故なら寝返ってはいないからです。
証拠に柴田軍に攻撃を全くしてなく、逆に秀吉軍の追撃を受けていたり、荒子の頃からの幹部も勝家の撤退戦に参加して死んだりしています。
勝家が夜に利家の支配下にある前田利長(利勝)の居城府中城に立ち寄る逸話がありますが、利家が秀吉軍に寝返っていたら絶対に立ち寄るわけがありません。
実際に利家が秀吉の傘下に入ったのはこの後に秀吉軍に府中城を包囲され降伏勧告を受けて初めて秀吉に“降伏”しました。
秀吉が親友の利家に恥をかかさないように前田家家臣一同の前で頭を下げさせ降伏させるのではなく、台所で自分達だけで話を済ませたという逸話で有名ですが、この時に“降伏”したのです。
賤ヶ岳の戦いの段階で秀吉に寝返ったのであれば秀吉軍に城も包囲されないし、秀吉も降伏勧告もして来ないはず。
利家は勝家の寄騎(与力)でしたが織田家の直参で大名なので一族と家臣とその家族と領民がいるので家の興亡がかかったので止む得ず勝家を見限り秀吉に“降伏”したのです。
戦闘中に寝返ったり柴田軍に攻撃はしていませんし、秀吉も利家を調略しきれていなかったので府中城包囲し勧告をしたというのが真実です。
謙信公は戦上手でいいけど
ホント人心掌握が出来ない
も少し世俗の垢に塗れた
俗な人の心を察する事が出来たら
政宗は片眼じゃ無かったって話だぞ!
ただ、目の色が違うから隠したって話がある!
伊達政宗の正妻は めごひめ 伊達成実が出てこないのはよろしくない出奔のお話し 秀吉が片倉景綱を大名に 家康が政宗に約束した報酬1,000,000石 仙台 伊予 政宗に副将軍じゃなかったっけ
すみません、人名は推敲をお願いします。読み間違いは仕方がない部分もありますが、足利13代将軍輝元はちょっと・・・(本当は義藤、義輝)
前田利家の所で「越中」を「こしなか」、他にも伊達政宗の正室「愛姫(めごひめ)」を「あいひめ」。NHKの大河でも「めごひめ」でしたよ。
このチャンネルに限らず他のチャンネルでも読み方のおかしいのが結構あって気になります。地名・人名はきちんと読んで欲しいです。
嘘ばっかの動画だな