Perang Asia Timur Raya! Menurut Pengetahuan Kitab Suci yang saya pelajari, tentara Jepang Yang Mulia Kaisar Showa dijalan yang benar, lurus (perang suci) membebaskan ratusan juta manusia Asia Timur Raya, dari keganasan dan ketamakan bangsa yahudi AS dan sekutunya barat yang terkenal paling tamak kehidupan duniawi, kejam bengis, membunuh, lagi sangat pandai menipu umat manusia!! Dan, berkat tentara kekaisaran Jepang, kami Indonesia 🇮🇩 dapat merdeka dari penjajahan Belanda Inggris dan sekutunya AS yang telah membunuh, menjarah, menjajah Indonesia 350 tahun! 🇮🇩🤝🇯🇵🙏
ご視聴ありがとうございます。
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貴重な投稿を有難う御座います。
伯父も硫黄島で亡くなりました。
遺骨を拾いに行きたいです。
大東亜戦争です。
ANNnewsCHでもコメントさせて頂きましたが、
(「報道ステーションSUNDAY」で2015年8月に放送されたもの)
あれから少し詳細が分かりましたので整理してコメントさせて頂きます。
豊島氏の硫黄島から帰還された日ですが
動画中の証言の1月半ばとは1月16日であると思います。
実は私の伯父は硫黄島で戦死しており
硫黄島への最後の補充将校として、
木更津基地から一式陸攻に乗り
昭和20年1月16日に着任しているのです。
(参謀部付:陸軍将校なのに海軍部隊を指揮したようです)
当時は既に制空権は米国に奪われ、決死の硫黄島空輸飛行で
昭和20年になってからは、この1月16日と2月10日しか成功していません。
金田八郎氏の「硫黄島戦記」の記録にも
補充将校の空輸とかが1月10日頃と2月10日頃と記載があり
1月10日頃とは1月16日であると思われ
〇 1月16日は主に補充将校の空輸
〇 2月10日は物資と傷病兵の輸送
<5機向かうも根本正良氏の一機のみが帰還し15名の傷病兵を運ぶ>
www.aramant.com/chuukou/page04_04.html#anchor1
中攻と共に 最後の硫黄島空輸往復行(物資と傷病兵の輸送) 根本正良
以上の様に、昭和20年になってから
内地(木更津)から硫黄島への空輸が成功したのは
1月16日と2月10日だけなのです。
説明が長くなりましたが
伯父は最後の補充将校として1月16日に硫黄島へ着任
その帰り便で、豊島氏は帰還されたのだと思います。
伯父はその帰り便に最後の手紙(はがき)を託しました。
着任後直ぐに急ぎ鉛筆で走り書きし
「今着いた暑い。慰問袋送れ」のみ書き記してますが
慌ただしい様子が伺え(殴り書きのような)
途中で鉛筆が折れた事がわかります。。
この事実は最近気が付いたのですが
先年亡くなった父に伝えたかったですが
今年の盆には伝えたいと思います。
何分にも戦争故、人の生死をどう分けたのかは
知る由もありませんが
このような奇遇が戦後70年以上たってわかるとは
思いもしませんでしたが
私ににとっては、豊島氏は実に貴重な証言者の一人になりました。
重い口を開かれ証言されるのは
さぞ勇気が必要だった事でしょう。
その証言をされた豊島氏へ厚く感謝申し上げると共に
この硫黄島へ眠る英霊の御霊に感謝申し上げ
心より深くお祈りする次第でございます。
合掌
栗原大将❗️死後特進に付き、大将❗️
叔父が戦死しました。詳しくは分かりませんが、多くの先人の命の上でわれわれは生かせていただいている
百五歳も長生きした豊島さん、栗林中将はじめ硫黄島で戦死した戦友が自分等の分まで生きてくれの願いが通じたんですね。胸が熱くなります。安らかにお休みください。
今100歳前後の男性は恐らく日本兵として戦った方だろうから、こういう映像をもっともっと残してほしい。
たった1人帰した人がその後105歳まで生きたのは不思議な奇跡
この現実を後世に伝える為に、生かされたかと思います🥲
選ばれた人が、100歳越えてご健在というところが、凄い神掛かった人選だ。
人選じゃなくて豊島さんが凄いんだろwこじつけすんなw
こじつけで笑うわw
いちいち横槍入れるな。統失か?
ありがとう、豊島さん・・・大切なことを伝えてくれて、ありがとうアベマTV報道してくれて 涙
100歳でこれだけロジカルかつ簡潔な会話が出来るお方。
硫黄島以降の戦いにも残したい逸材だったのだろうと思う。
言葉をしっかり刻みたい。
うちの祖父は日本兵として終戦間近に戦場に行きましたが着いた時には終戦していたようです。「生きて帰ることは恥」とよく言われますが、生還してくれたからこそ、今の自分があることに感謝しかありません。
合掌。動画なしで百万人行けますように
反省、するべき沢山ありますね、😭😭😭
@特務二等兵 貴方が無知なだけ
いや、栗林がさっさと降服し捕虜になってれば、犠牲となった2万人は幸福に余生を全う出来たやんけ。
@@豚丼太郎 一億人が奴隷
泣けてきました。栗林中将の人間としての大きさ、指導者として日本を守るために最後まで戦ってくださり本当に感謝しかないです。豊島さんの運、生命力の強さもすごいものがあります。帰ってからもきっとすごくつらかったと思いますが、命を全うなさったことは素晴らしい。手に職があった、芸は身を助ける、ということもふと思いました。
栗林中将の孫は今、衆議院議員として自民党所属、新藤議員だ!!
栗林閣下に敬礼
sunflowerはウクライナの国花。平和の大切さを改めて実感しますね、、、
@@敏國澤-p4j 知らんかった
栗林大将です。
栗林さんがこの人を選んだ事に運命を感じる。100歳でインタビュー出来て、今当時の話しを聞けてるから。伝える為に長生きしてるんだろうな~
なかなか話しにくいことをこうして話してくださるの本当にありがたいです。日本人のこの忠誠心というかそういうのは本当に誇りに思います。ありがとうございます。
きっと仲間もよく来てくれたと言ってくれてます
うちの祖父もパラオ🇵🇼で高射砲部隊に属していました。私の父は戦後の昭和25年に生まれてるので、祖父が生還してくれて自分がいると思うと、感慨深いです。
私の叔父も水戸から出征
パラオのペリリューで戦死
水戸の慰霊祭にはできるだけ参加しています。
投降した土田さん、最後の一人だった永井さんにも会うことができました。
ペリリューに行った時は天皇陛下を御案内された方に偶然案内してもらえました。
満州の押し花、仲間との写真と立派な遺書も残っています。
豊島様、生きていてくれてありがとうございました。あなた様が生きていてくれていた事、硫黄島の仲間が見守っていたんです。感謝しかありません。
伯父も硫黄島で戦死しました。
硫黄島に遺骨を拾いに行きたいです。
どうか安らかにおやすみください。
合掌(-人-)
栗林中将というのは日本軍の中では珍しく人命を重視した将軍だと聞いたことがあります。バンザイ突撃を禁止したりした一方で、あくまでも長期間戦って敵を足止めすることが目的で、2万1千人全員が玉砕することが最初から決まっていた作戦は残酷な側面もあります。
しかし、目下の硫黄島戦では戦えないが手術すれば戦える兵士を本土に返して治療させたというエピソードからは「軍人としての人命重視」というのが徹底していると読み取れます。
勝目に乏しく自らも玉砕する前提の戦の中でこのような考えを貫くことは難しく、本来なら名将と呼ばれるに相応しい人物だと思います。敗軍の将となったのは生まれる時代を間違えただけだと思う。
先人のお陰で今の日本がある事に感謝申し上げます!
栗林中将は最後の総攻撃には自身も参加して壮絶に戦死したみたいだしね
部下に徹底抗戦を命じたケジメはちゃんとつけた
名将は兵站と兵士を大切に扱う。愚将はこの逆。あの人のように。
長野県民は昔も今も変わらず思いやりのある県民性です。私は他県から嫁いで一番に感じたことです
反省、反省、誤ります、😭😭😭😭😭
100歳でこんなに喋るのすごいな
硫黄島で亡くなられた、日米の全ての将兵のご冥福をお祈りします。安らかにお眠りください。
ありがとうございます
祈ったところで何も変わらない。。
@@Avalokiteshvarabodisatva
何か具体的に変わるとは限らないけど、祈ることが大切だと思います。
@@Avalokiteshvarabodisatva論理じゃねえんだ
@@Avalokiteshvarabodisatvaだまれ
硫黄島には現在でも滑走路の下に英霊の遺骨が眠っています。遠く離れた本土から命をかけて祖国のために戦った先人に感謝と慰霊を日本人は忘れてはいけません。
英霊なんてものはどこにもいないよ
そういう考えは死んでいった方達に示しがつきません。少なからず未来の日本人の為に戦った方達は全て英霊です。
@@koukou9178 慰霊とか供養とか否定はせんけど死んでからいくら盛大に讃えられて祀られても
死者は泣きも笑いもしないと思うよ
@@チェゼブラ
中国のスパイ?
@@チェゼブラ
確かに泣きも笑いもしません。
だからこそ敬い供養するしかできないのです。
そして英霊の意志は これからもに語り継がれています。
死んでいった方々のご冥福を祈ります。
日本兵、アメリカ兵共に……
豊島さんは、大変ご立派な方です。善を積み、続ける事の生き方を私もしたいと思います。玉砕した戦いでは、その情況を伝えるために、選抜されて内地に戻った人が少なからずおられます。誰も皆、同じような心境で、その後の人生を全うされていますが、どの方も責任感が強く、大変立派な方々です。この方々がおられたから、私たちは、その様子を知る事ができるのです。司令官は、そこまで考えて、人選し、任務を与えています。選ばれた方々は、偶然ではないでしょう。日頃の態度、人格、立場などを吟味の上で選んでいると思います。責任感を以て情報を正確に伝えることができるかどうかが大きな選抜理由だと思います。
私の一族も硫黄島で戦死しています。23歳でした。屋根葺き職人をしていて、時局迫り、招集されています。陸軍での招集ですが、対空砲を扱う部隊にいたようです。2010年の春、年に二回有る慰霊に応募し、選ばれましたので、直系の兄弟が元気な内にと慰霊を提案して、実現しました。
我が一族もそうでしたが、長男を亡くし、戦後は大変苦労したようです。もちろん、日本中でそのような状況にあり、そのこともあって、生きて帰る事の後ろめたさのようなことも感じる方が多かったのでしょう。
しかしながら、その復員された方々が日本を再興し、今の豊かな日本があります。平和のために、戦うこともせず、無法な敵対勢力にこの国を明け渡しても良いとは思いません。傷つき、自尊心を無くし、希望も無い中で、粉骨努力して再興してくれた先祖がすぐそこにいるのに、それを理解せず、無気力で、将来に責任を負わない現代の風潮は、非常に不埒な態度だと思います。戦争ではなくても、守らなければならないものがあります。大切なものを引き継ぐことは、現代の我々がなすべき、務めだと思います。
上司のあるべき姿ってそういうものなんでしょうね。素敵な文章ありがとうございます。
涙が止まりません…諸先輩方が後世のために戦われた一方、今の日本人の無理解な姿を嘆くお気持ち察します。
先人たちのお陰で今の我々がいる、本当に仰る通りだと思います。
そしてお嘆きになられている現代の風潮ですが、少しづつ変わってきていますよ。
自分自身もそうでしたがGHQの占領政策で自虐史観を植え付けられ、国に誇りを持てなく、
政治に関心を持てなくなる教育で天皇陛下は悪人だと教えられてきました。
ですがネットの普及でいくらでも調べたり勉強できる時代になり自分自身だけでなく廻りも変わってきています。希望はありますよ。
うん、これは泣ける。
生き残ったことを後ろめたく思わないで欲しい。
戦時中を生きた皆さんには本当に頭が下がります。
硫黄島で戦ってた頃中国の満州では、日本軍が一般市民だけを狙った南京大虐殺をしていたっって、いや何でもないです
@@SP-nt2od 中国の満州では南京事件って笑南京は満州にはなからね?無教養にもほどがあるよ笑
@@SP-nt2od 満州と南京全然違う場所ですけど、、
@@SP-nt2od無かったとは言い切れないが矛盾だらけの南京大虐殺
@@SP-nt2odうーん、少し違う…
当時中国軍は負けるのが分かると、途端に軍服を脱いで一般市民に紛れ込んだ。日本軍はその一般市民に紛れ込んだ中国軍を炙り出す必要があった。
決して最初から「一般市民だけ」を狙っていたわけではない。
が正しい解釈だと思う。
まじでテレビのどの番組より勉強になる
非常に感慨深いものがあり複数回視聴しました🙇
豊島さんがなぜ本土へ還されたのか。敢えて冷静に考えると、やはり「本土決戦に備えた兵員の確保」が一番だと思います。これは当時の状況、豊島さんの戦後の活動、この2つを照らし合わせると明らかだと思う。硫黄島作戦の主目的は敵を足止めして本土作戦の準備期間を確保したい意図があります。だから、見込みのある兵員は1人でも多く本土に送りたかったはずです。そして命を一旦は助ける以上は責任感の強い人物でなければならない。手厚い治療を施せば、本土作戦では先陣をきって命懸けで戦ってくれることを司令官は見込んだのだと思います。
しかしながら本土決戦は起こらず日本も敗戦すると、司令官の見込みは、違った形で発揮されたのだと思います。戦後、豊島さんは慚愧の思いを抱えながらも、硫黄島戦の慰霊や戦争の記憶を後世に引き継ぐ活動に従事なされたとのことです。なので、この決定を下した司令官の人選眼の正確さが時代を越えて形を変えて証明されていると感じるのです。
非常に感慨深く、運命の不思議さには強い感動を覚えます。
「本土決戦の為の兵員の確保」の為に、そのたった1人を後送する為に、貴重な飛行機をワザワザ燃料を消費してまで迎えに来て帰国させるなら、その飛行機と燃料を他に転用する方が合理的だと思わないのですか?
@@作戦参謀 他の方がコメントしていますが、豊島さん一人を輸送するために飛行機を送ったわけではなく、補充要員(将校)をまず飛行機で硫黄島に送り、豊島さんは帰りの便で帰ってきたようです。撃墜されて硫黄島から戻ってこれなかった飛行機もあるようなので、豊島さんは運も良かったのでしょうね。
@@Satellite215 それは同意。ただ、私が言いたかったのは「本土決戦の為に送り返された」と言った馬鹿に対する反論です。
@@作戦参謀
誤解しやすかったようでしたらすみません。本土決戦で戦う1人の兵士を本土に返すために飛行機を硫黄島まで飛ばした、という意味ではありませんでした。
本土へ帰る輸送機に荷物などではなく負傷した兵士を乗せることになったのは、本土決戦を念頭に置いてのことはあるなというのは個人的な考察になります。これは、目下の硫黄島戦では戦えない負傷程度の兵士、推定したであろう本土決戦の時期、などからの考察です。しかし、これは輸送機にキャパシティの制限もあったはずなので偶然の要素が多いにあったと思います。
自分が特に考察の中心としたのは、なぜこの人が選ばれたのかという点についてです。恐らく、ご本人が最も悩まれた点だったと思います。これは、もしかすると答えは無い可能性もあります。もちろん個人的な感想を多いに含みます。ご了承下さい🙇
@@kaw4182 お気持ちは了解しました。
つまり「本土決戦要員」としてでは無く単純に「治る見込みの有る戦傷兵・戦病兵を後送した。もしかしたら治る見込みが有ったのは一人だけだった」と言いたかったという事ですね。
私の祖父はいわゆる赤紙が3回きましたが3回とも生還しました。
私の父は4人兄弟の末っ子で上2人は戦中生まれです、赤紙の間に出来た子です。父とすぐ上の兄は戦後生まれです。父が幼い時に祖父に戦争の話を聞いても何も話してくれなかったと言っていました…大人になった父は祖父が3回の戦闘でたくさんの仲間の死を見て、たくさんの敵を殺したんだろうと気付き祖父に聞かなければよかったと目に涙を貯めて語ってくれました。今はその父も他界しましたが本当に国を守るために戦ってくれた方々には感謝しかありません…
涙が止まりませんでした。
素晴らしい動画でした。
ありがとうございました🙇
3回も召集とはすごいですね。私の父は1回が陸軍、2回目海軍に召集され、半年も経たないうちに南シナ海で戦死しました。34歳で2回目召集とは村役場の軍務係と仲が悪かったからなのかなぁと思っています。
語られずに消えた戦時下のエピソードが、沢山あったであろうことに思いを馳せながら、視聴しました。
豊島さんと栗林中将の物語、記録してくださって、ありがとうございます。
天子から賜った時計は国や家族、日本国民、全てを守る、使命の象徴であり、何にも換えがたい化身のような物だったのでは。それを直してくれた豊島さんに感謝し、栗林中将は日本に必要な若者を帰そうと思われたのではないでしょうか。今の平和の礎が、過去の戦争の犠牲にあることを忘れてはいけないと思いました。
祖父も戦争経験者なんだよなー。
たった2世代上がこんな壮絶なことに巻き込まれているんだよなー。そして戦争がまたいつ起きてもおかしくないんだよなー。
栗林中将をはじめ、硫黄島で戦ってくださった方々には感謝しかないです。あれだけの戦力差で1ヶ月異常耐え抜くなんて信じられせん。ご冥福をお祈りいたします。
感動しました、日本のために戦って頂きありがとうございます。
硫黄島で戦ってた頃中国の満州では、日本軍が一般市民だけを狙った南京大虐殺をしていたっていうね。
@@SP-nt2od
ちなみに唯一の証拠である中国側からの提出物は信憑性が極めて低いもので、本当にあったのかどうかが疑われてるぞ。後その頃は重慶まで前線を上げてたから南京に兵なんてほとんど居るはず無いんだよなぁ
@@SP-nt2od 満州に南京ないだろ(笑) 南京大虐殺なんか未だに信じてるのか 歴史意識が無茶苦茶
@@SP-nt2od
そんなものは起きていません
何も知らないのにウソだけを
教え込まれ安易に信じてしまう
哀れな若造よ
@@SP-nt2odそれは誤解
アメリカに48年も住んでいますが、近所に住んでいた元海兵隊員がいましたが、硫黄島の擂り鉢山の麓に、第一波の強襲部隊として崖岸に上陸舟艇が接岸して、海岸の砂浜に伏せたと同時に、狙撃兵の弾が鉄兜に命中して、気絶して乗ってきた上陸舟艇に引きずり込まれて、病院船に担ぎ込まれた様でしたが、弾が鉄兜を貫通しなく、コブができたようで、味方が苦戦ということで、第2波に参加して再度上陸して、内陸に僅かに入った砂丘の影から味方の歩兵を援護射撃をして、彼はブロウニング自動小銃の射手でしたが、弾倉を詰め替えて、立ち上がったとろを、再度腹部を撃たれて砂丘を転げ落ちた所が運良く救急看護の兵隊が居て、負傷者を手当していたので、腹部重症であったが、命はとりとめたと話していました。彼が話してくれたのですが、彼の強襲部隊の死傷者は75%も居たと話していました。いかに日本軍が激しく反撃して戦っていたか、アメリカ側から聞いた時は、涙が出ました。大勢の祖国に尊い命を捧げて戦死された方々に哀悼を捧げます。
貴重なお話ありがとうございます。
硫黄島の戦闘は米国が本格的に参戦してからの戦いでは唯一日本兵より米兵の損害が大きかった戦いだと聞きました。
しかも日本兵の多くは職業軍人でなく民間人の方達が数多く戦ったと。それも本土にいる家族達の為に少しでも米軍による本土攻撃を遅らせる為にと。
涙が止まりません、多くの亡くなられた英霊の方達の為に今のままの日本ではいけないと思います。
敗戦後、米国が占領期に日本から徹底的に誇りや精神的強さを奪う政策を行った事により自分達は祖国に誇りを持てなくなり、それが政治に無関心になる事につながり、捏造、歪曲された歴史を信じる事になりました。
まずは自分に出来る事からやっていきます。
5:10なんでその位置で足なんだよ
戦争を美化するのを辞めたまえ。
私は戦争が起きても山奥に逃げ隠れる。
国がどうなろうが知ったこっちゃ無い。私は個人だ。
@@うんちくん-v4f
美化してる奴の方が真っ先に逃げるよ。きっと。
先祖の行ったことを否定してる奴は同じ日本人とは到底思えんな
そんな奴は戦時になれば即バッターで殴られる奴だろ。根性無しが↑に2人いるな
生きて帰ってこれてよかった。
そして、時計を直すという特技があってすごい。
きっと大切な時計だったから、助けてくれたんだろうなぁ。
他の人にはできない特技があることは強みになる。と思った。
陸軍大学校の卒業式で、成績上位3人にのみ天皇陛下から賜る銀時計です。
@@hirose795 ネットで調べたところ 陸軍大学校で次席とのことですが、その恩賜は軍刀と書かれていました
銀時計の恩賜を栗林中将は受けたのですか?
100歳を超えられてのご高齢でも、鮮明に、あのときのことを、はっきりと、覚えて語られている姿を拝見して、とても、熱いものを感じました。いろんな偶然、出会いがかさなっで、帰還されたのでしょうが、そのときの、辛く、悔しく、複雑な感情を押し殺して、生き抜いてこられたんでしょう。想像を絶します。
私の祖父も戦争で亡くなりました。
「あんたのお父さんがまだ、お腹にはいってたときだよ。だから、お父さんは、まったく父親を知らないんだ、遺骨も遺品もなく、とても辛かった、戦後も遺族は、大変だったんだよ」と、生前、祖母が語ってくれました。
私たち戦争を知らない者には、体験された方の直接の語りが1番、心に刺さります。
平和に暮らせられるのも先人達のおかげですね
ご存命なだけでも凄い確率で珍しいのにその方がただ1人帰還してきた方なんて…凄いな
戦死者の魂をともらいながら長い余命を全うした1人の生き残りのお心は如何ばかりかと思います。
思い起こすにつけ胸が掻き乱されるほどに苦しかっただろうと思います。硫黄島の生き残りがいたのを初めて知りました。ABEMAさん,ありがとうございます。
祖父が生きていれば今年で102歳。旧日本陸軍でよく戦争の話をしてくれていました。その中で特攻隊や硫黄島、またはそれ以外の戦死者は未来の日本国民に恥ずかしくないように自分達は出来る事全てをしたと、決して手を抜く事なく命を賭して戦ったんだという気持ちで散って行ったんだと聞かされていました。その英霊に現在の自分達の世の中の動きを胸を張っていえるのか…言える筈もないです。
豊島さんが帰されたのは100歳を越えるまで戦争の記憶を語り継ぐ為でしたね
尊敬します。いまの時代では考えにくい事
苦労があったと思います。私のお爺さんも戦争にいきましたが、上官にいつも殴られてあんな事は馬鹿らしいと話していました
貴重なメッセージありがとうございます。
豊島さんは 人事を尽くし天命を知るで、この動画を見ながら涙と鼻水なのに胸はあたたかい 。
102歳で硫黄島参拝そして105歳での永眠。あの世で栗林中将と握手をしたと思うが
矢張り戦争をしてはいけない。
硫黄島の帰還兵の方々の動画をいくつか見ましたが、どの帰還兵の話よりも残酷で激しい戦闘だったかが知れ、本当に心が苦しくなります(戦争の残忍さに優劣をつけられるものではありませんが)。海水混じりのガソリンを空気孔から流されてそれに火をつけられて中で焼死する仲間の声、火炎放射器で防空壕の中をあぶり出されて悶え苦しむ仲間の声が未だに頭から離れないなど、帰還兵の方々のお話は一生忘れられません。後世の人たちに話を受け継ぎ戦争の残忍さを伝えていかなければいけないと思います。
そうですね、日本の、歴史、伝えていくべきです、😭😭😭
自分は戦争を知らない世代ですが、こうゆうドキュメンタリーを拝見して次世代へ伝えていきたいと思います。
これからも戦争に行かれた先人に感謝していきます。
何で感謝?
こんな痛ましい事実見て感謝の念が浮かぶとか、相当歪んだ人格だな
カルトか?
テレビのドキュメンタリーなんかに真実はない
こういう ね
正しい日本語を使いましょう
子供から老人まで多くの人に見てほしい番組
105歳迄 生きてくれて栗林忠道中将は喜んで居るだろうなぁ〜、
「助けたカイが在った。」
栗林中将が下された生きろの命令、豊島さんは、最後まで守り抜けた。
一兵卒のエピソードですが、先の大戦で南方へ出征し、骨も帰らぬ方々が「万」といらっしゃったことを聴いています。この先私たちそして子孫たちが、安易に流され同じ過去を繰り返さないことを祈念します。
私の祖父も含めてその「万」以上の多くの方々のお陰で日本は生き残り後の繁栄を得たのです。
私はその事を感謝し、子孫の危機には私の命をかけて護る事を希望します。
太平洋戦争最大の激戦を戦った英霊を決して忘れてはならないと思いました。
第二次世界大戦の激戦は南京大虐殺だという事も忘れないように
@@SP-nt2od↓南京事件について
「 戦闘詳報などの公式文書の集計では、日本軍は約27,000人の中国軍の捕虜・敗残兵のうち、約12,000を銃殺など「処断」、7450名を収容、7850名を釈放、不明が172名である[。ただし、『南京戦史』はこの集計は大雑把な目安にすぎず、戦闘詳報は戦果として上申される資料であったことから過大に表示されていることはほぼ間違いないとしている。」Wikiより出典。
過去の悲劇は日本国民は
消してならない
何故なら、同じ事を繰り返さない為にも、人間の命は
尊い命です、お母さんの
お腹で生命が育ち行く姿は
素晴らしいく美しい事です
未来に向かい次世代を造り
島国日本国民として日本人
として誇りある行き方は
大切です、道徳教育は
忘れては自己を失い事なり
ます昔から知性知能道徳教育
は、教えられて来た人間として恥をかく前に自己に戻る事
日本人は日本人の善さが沢山
有ります、若者達に前向きに
巣立つ活かす心を持つて欲しいですね。
英霊?ゴミ霊だろ
何の役にも立たなかった
Perang Asia Timur Raya!
Menurut Pengetahuan Kitab Suci yang saya pelajari, tentara Jepang Yang Mulia Kaisar Showa dijalan yang benar, lurus (perang suci) membebaskan ratusan juta manusia Asia Timur Raya, dari keganasan dan ketamakan bangsa yahudi AS dan sekutunya barat yang terkenal paling tamak kehidupan duniawi, kejam bengis, membunuh, lagi sangat pandai menipu umat manusia!!
Dan, berkat tentara kekaisaran Jepang, kami Indonesia 🇮🇩 dapat merdeka dari penjajahan Belanda Inggris dan sekutunya AS yang telah membunuh, menjarah, menjajah Indonesia 350 tahun!
🇮🇩🤝🇯🇵🙏
誰にとっても人の命は尊く大切な命であること生かされてる事に感謝しなくてはいけないと思いました。この方が生かされた意味も然り戦地で亡くなった方の分まで、長寿を全うされたんだと自分なりに解釈しました。
100歳を越すまで
様々な葛藤があったでしょうに
真実を伝えてくださって
感謝です。
私の祖父母は他界しましたが
『今あることは決して当たり前ではないんだよ❗まわりの全てに
日々感謝して、生きてるのではなく、たくさんの方々に支えられて
生かされてることを忘れないで』
と最後まで教えてくれたことを
改めて考慮させていただけました。
お互いに国を大切な家族を守る為に戦われたすべての方々に
感謝し、ご冥福をお祈り致します。
過酷な環境にもかかわらず、人の心を大切にする気持ちは、今私がいる状況においても必ず活きると思いました。
最近辛いことばかりでしたが、正しいと信じる道を、どんなに邪魔されても迷ことなく進んで行こうと思います。
こんなに気持ちが入り、スキップもせず見た動画は、このRUclipsで初めてです。
ありがとうございました。
先人の方が、日本のために戦ってくれたことは凄く感謝します。こんなに国のために、戦ってくれた人がいる時代もあったのに、今の日本は、他国にものが言えない国になってしまっていて。。どうなんだろ。
骨抜きにされましたね。申し訳ない
硫黄島のしられざることを知れて学生なりにとても辛く感じました。これからは自分たち若者が平和な世の中を作らないと行けないととても強く感じました。
71才になるおばあちゃんです。戦争体験は有りませんが貴方みたいな若者がいることに 誇りを感じます。
先づは 🇯🇵完全独立です。大東亜戦争以降は何処かの国の言いなり
硫黄島の戦いは有名ですが、聞いたこともないような場所で沢山の方々が亡くなられています。
そういう方々の存在を忘れないこと、大事なことだと思います。
今時の学生さんがしっかりと戦争を見つめ、平和について考えておられる…
頼もしいです!
今の日本はたるんでるよ。日本の為にありがとうございます。
絶対に風化させて、忘れてはならない歴史です。こうやってRUclipsで残すことは大切だと思います
多くの子孫に囲まれた写真を見て、豊島さんの奇跡の帰還がなければ
この家族はこの世に存在していなかったのか...と感慨にふけると同時に
戦争によって失われた命、これから生まれてくるはずだった命の多さに愕然とする
>これから生まれてくるはずだった命の多さに・・・
そういうのを無い物ねだりというんだよ。
もし本土決戦していれば寧ろ日本人はもっと死んでいた可能性があった。それを思うと戦争で亡くなった兵や軍属らは犠牲者ではなく英雄なんだよ。ところが、おかしなことに戦後日本は亡くなった人を犠牲者と呼んで英雄と見なしてこなかった。それどころか首相すら靖国神社へ参拝へ行かない有り様。これじゃ英霊が浮かばれない。間違っているのは戦後日本人の感性!
105歳か・・長生きしたなあ。
もう10年もしたら当時を知る人がほぼ居なくなってしまうんだよな。
聞いておけることは聞きつくしておかないと。
戦死された方々の分まで見届けられたのだと個人的に思いました。😌
今の日本の若者に、見てほしいです。
日本の為に命を掛けて守って下さり本当に本当にありがとうございます。
皆様の命に応える為に二度と戦争が起きない様に防衛力を上げて世界と共に平和を実現し日本という国を世界に誇れる様に出来る様に頑張ります
大東亜戦争以降は完全独立出来ていない🇯🇵🙏🏼 アジア解放 世界最高峰のパスポートの意味は? 先人様 合掌
日本は、本当に独立した主権国家か?
守れては無いよ東京大空襲広島長崎原爆これでも守れたと言いますか?。日本は連勝連敗だったのにミッドウェー海戦で負けてからのアメリカの反撃は凄まじかったです!
私の祖父は昭和19年12月 落下傘部隊として マレーシア沖にて戦死しました。27歳の若さでした。父は当時7歳。その父も11年前に亡くなりました。戦争は平和を崩してしまう。そんな気持ちになりました。
栗林中将は教養が高く、歌の作詞とかもしていますね。情の人だったのでしょう。
豊島さんが戦後沈黙していた理由はわかります。生き残って申し訳ない、の一点だったのでしょう。数奇な運命の人ですね。
手先の器用さが生かしたってすごいな
今、平和な日本に生きてる
私達は幸せです。
戦争は、悲惨です。
早く今の 戦争が、終わる事を、願ってやみません。
ANNnewsCHでもコメントさせて頂きましたが、
(「報道ステーションSUNDAY」で2015年8月に放送されたもの)
あれから少し詳細が分かりましたので整理してコメントさせて頂きます。
豊島氏の硫黄島から帰還された日ですが
動画中の証言の1月半ばとは1月16日であると思います。
実は私の伯父は硫黄島で戦死しており
硫黄島への最後の補充将校として、
木更津基地から一式陸攻に乗り
昭和20年1月16日に着任しているのです。
(参謀部付:陸軍将校なのに海軍部隊を指揮したようです)
当時は既に制空権は米国に奪われ、決死の硫黄島空輸飛行で
昭和20年になってからは、この1月16日と2月10日しか成功していません。
金田八郎氏の「硫黄島戦記」の記録にも
補充将校の空輸とかが1月10日頃と2月10日頃と記載があり
1月10日頃とは1月16日であると思われ
〇 1月16日は主に補充将校の空輸
〇 2月10日は物資と傷病兵の輸送
<5機向かうも根本正良氏の一機のみが帰還し15名の傷病兵を運ぶ>
www.aramant.com/chuukou/page04_04.html#anchor1
中攻と共に 最後の硫黄島空輸往復行(物資と傷病兵の輸送) 根本正良
以上の様に、昭和20年になってから
内地(木更津)から硫黄島への空輸が成功したのは
1月16日と2月10日だけなのです。
説明が長くなりましたが
伯父は最後の補充将校として1月16日に硫黄島へ着任
その帰り便で、豊島氏は帰還されたのだと思います。
伯父はその帰り便に最後の手紙(はがき)を託しました。
着任後直ぐに急ぎ鉛筆で走り書きし
「今着いた暑い。慰問袋送れ」のみ書き記してますが
慌ただしい様子が伺え(殴り書きのような)
途中で鉛筆が折れた事がわかります。。
この事実は最近気が付いたのですが
先年亡くなった父に伝えたかったですが
今年の盆には伝えたいと思います。
何分にも戦争故、人の生死をどう分けたのかは
知る由もありませんが
このような奇遇が戦後70年以上たってわかるとは
思いもしませんでしたが
私ににとっては、豊島氏は実に貴重な証言者の一人になりました。
重い口を開かれ証言されるのは
さぞ勇気が必要だった事でしょう。
その証言をされた豊島氏へ厚く感謝申し上げると共に
この硫黄島へ眠る英霊の御霊に感謝申し上げ
心より深くお祈りする次第でございます。
合掌
※追記:
別途陸軍の方でも、飛行部隊収容他で1月8日、2月4日等空輸がある
高級副官 小元久米治氏は師団長命令で東京連絡の為2月4日離島し帰京。
2月14日再び帰島を目指すも、2月13日に硫黄島へ向かった輸送機が撃墜される等
帰島は叶わず、そのまま東部管区軍司令部付に転捕となり生存された
戦後、硫黄島協会の副会長として遺骨収集、慰霊の活動をされる
第109師団司令部編成に伯父の名を見い出す事ができるのは
小元久米治氏が作成した師団司令部の編成表名簿があるからである。
素晴らしお話。日本人の志がありますね。ありがとうございます。
一方的に美化しても英霊の方々は浮かばれません。「玉砕」の名の元に人命が軽んじられたのもまた日本人の志だったのですから。
@@マスカルポーネ地平線
美化なんてしていない。彼ら先人がいたからこそ今、私達はこの世に生きている。感謝の気持ち。そして後発の人達に繋げていくのが使命。決して中国領日本にしてはならない。
先輩方、大変な時期を過ごされ懸命に日本を守ってくれたおかげで今の暮らしができていると思いました。ありがとうございます。心よりご冥福をお祈りします。安らかに眠って下さい。
敢えて大胆な仮説を一つ。栗林中将(当時)に本土への単独一時帰国報告命令が出ていたのではないか?
栗林中将は小笠原兵団の司令官で、小笠原兵団の司令部は父島にあった。だから栗林は父島から指揮を執るのが自然であった。米軍が上陸してくることが明らかとなった後で第一線の硫黄島で指揮を執ることを決断したのは、東京の上層部の指示ではなく栗林の自主的な判断であった。栗林は陸軍大学を二番で出た俊才であったが、理論だけでなく実際に様々な実務で高度な実力を発揮した帝国陸軍でもトップクラスの人材であった。一般中学から陸軍士官学校に進学した少数派で、幼年学校出身でないというだけの理由で、エリートがドイツに駐在することが多かった当時、米国駐在を命じられるなど一種傍系に追いやられていた。他方で陸軍内部で栗林の実力を知る人々は、みすみす硫黄島で戦死させるよりもっと大きな局面,即ち本土決戦で力を発揮してほしいと考えていたはずである。硫黄島攻略に起用された米海兵隊は11万超と日本側(陸軍・海軍陸戦隊合計2万強)の5倍に及ぶ兵力を誇り、空母16隻、戦艦8隻、巡洋艦15隻、駆逐艦77隻に上る大艦隊の支援を受けての攻略であった。軽く3・4日で片付けるという想定であったが、実際には40日近くてこずって約7000名の戦死者、2万近い負傷者を出した。これは栗林の戦略家としての類い希な能力によるものであることは明らかで、米軍側も栗林の能力・人格を高く評価している。だからこそクリント・イーストウッドは栗林を題材にした映画「硫黄島からの手紙」を製作したのである。
そういうわけで栗林だけは硫黄島から東京に出張させて、その間に米軍が上陸したので戻れなくなったという筋書きにしようと考えた参謀がいたのではないか?そのまま済し崩し的に東京で本土決戦の戦略を練らせようとしていた可能性は十分あったのではないか。こういう計画策定に関して栗林の右に出る者はいなかったからだ。硫黄島の現場で部下と共に戦死する覚悟を決めていた栗林は自分の身代わりに、自分の(もしくは幕僚の)恩賜の金時計(栗林は少なくとも陸軍では恩賜の時計はもらっていないようだ。)を修理して認められ、かつ責任感の強い好人物として名前を知られていた若者、豊島氏を日本に送り返したのではないだろうか。そういう話(東京出張命令)がなかったら、貴重な燃料を使って東京から飛行機をわざわざ飛ばす理由など到底考えられない。豊島氏の帰国を決めた「上官の名前を明かすことができない」という妙な話も辻褄があう。東京の参謀本部から見れば、東京への一時帰国命令を断るというのは戦場での抗命=重大な規律違反に相当するからだ。が、死ぬ覚悟を決めた軍人に怖いものはない。
むろん今となっては事実は誰にも分からないが,あり得ない話ではないように思う。
貴方の推論は事実と思われる。名将なら当然の行いではないでしょうか。
私も同様に致します。皆と一緒にいたい。
@@tarouman1 当時硫黄島配備の第26戦車連隊長を指揮していた西竹一大佐は1932年のロスアンゼルス五輪馬術障害飛越競技で金メダル(日本が馬術で獲得した史上唯一の金メダル)を取った世界的有名人で、ロスアンゼルスの名誉市民でした。米軍は拡声器で洞窟に立てこもっていた西に、幾度となく「バロン西(西は男爵だった)、貴殿を死なせるには忍びない。お願いだから降伏してほしい。」と呼びかけましたが、日本人というものをまるで理解していなかったことがよく分かります。
ずっと話さずにいたことを突然、話された。おそらく、先はもう長くないと悟られたのでしょう。だからこそ、元気な内にこの時の出来事だけは、きちんと話してから旅立ちたかったのだと思います。
ご冥福をお祈り致します。
ABEMAドキュメンタリーの実力は凄い。
豊島さん、本当にお疲れ様でした。
生きて家族の住む故郷へ帰ることが出来るという喜びと激戦の地に仲間を残して今尚生き永らえているという罪悪感との葛藤…
栗林大将はじめ硫黄島を枕に斃れた多くの戦友を想いながらどのようなお気持ちで生きて来られたのか、戦争を経験せず現代の平和な思考でしか生きて来たことがない我々には到底計り知れません。我々が理解しようとするには烏滸がましく、恐縮の限りです。
しかし、その想いに共感することは出来なくとも、知ることは出来ました。私は現代に生きる日本人として、豊島さん達のように我が祖国を死に物狂いで護って下さった先人の方々や故郷から遠く離れた戦地で散った数多の英霊に敬意を払い、日本人としての誇りを持って家族や友人、仲間への友愛を尊び、生活したいと思います。
中隊長から、預かって時計をなおして、最高司令官の物
だったんですね。本当に、胸が、いっぱいになります。
父が硫黄島で捕虜になりハワイ経由でアメリカ本土に連行された帰還兵。数十年前に東京在住の父の戦友宅に案内した時の会話の一部です。父の話によるとアメリカ軍が硫黄島上陸直前に上官から「アメリカ軍は捕虜の扱いは日本とは違うから万一の場合は捕虜になるように」と勧めたそうです。思うに上官は国際情勢の詳しい方ではなかったのではと思います。
なら、その上官は栗林中将ですよ。栗林中将は駐在武官としてアメリカに住んでいた事もあるので。
映像ありがとうございます
私も猿頭政治屋よりも彼を助けたい、
日本にとって必要だから。
豊島さんが102歳で再度硫黄島に行かれた時の気持ちを考えると、、言葉無くすよね!
心から感謝あるのみです。
出来れば、我が郷里の誇り、市丸中将にも触れて欲しかった。
”ルーズベルトニ与フル書”、日本人が明治維新からどのような思いで立ち向かったのか。
かの書を改めて拝読し、当時の海軍にもこんな大局的視野、先見の明を持った名将が存在したことは語り継がないといけないです。
最後には散華されましたが、計画どおりこの手紙が米兵の手に渡り、本国の新聞にも掲載された奇跡。
米国社会に与えた衝撃は如何なるものだったか知りたいものです。
奇しくも某の祖母の出身が唐津だと訊いておりますので、市丸提督の遺志に思いを馳せ、またそちらへ訪ねてみたいと希望しております。
豊島さんがこの2年後にウクライナとロシアが戦争するとは思わなかっただろうなぁ
いつか日本も中国戦に巻き込まれるかもしれない😢
平和を願って…🕊
じーちゃんも戦地でのことハッキリ覚えていたんだよね。
それまで一切話さなかったのに、晩年になって色々と話してくれたのも一緒。
てか、戦争経験者の動画ってたまに失礼だったりふざけたコメントあるけど、そんなコメントできる神経わからん。
日本の未来のため、子々孫々を守るために極限下で戦った先人達には感謝しかありません。
歴史に『たられば』を言っても仕方ない!戦争を吹っ掛けなければどうなったのかは誰にもわからない事、しかし事実として今の平和な日本で暮らせてるのは先人達のおかげです。
105歳まで長生きされたというのは生きなければという思いがあったのかとおもいます。
例え、玉砕で全員〇んでも、この戦いを生きて誰かが伝えてくれなければ
戦後にこの戦争の悲惨さを後世に知る者がいなくなってしまう
栗林閣下の心中を察すると涙が出ます・
どうせ負ける戦なら、降伏して生きている人全員で祖国に帰りたかったはずです
今の日本は80年を経て再び隣国からの侵攻の危機の瀕している
硫黄島で戦死した兵士の方々のためにも、日本国民が一致団結して
日本を侵略の魔の手から守る事こそが、亡くなった方への恩返しだと思います
月並みな事しか言えない。硫黄島に残された御英霊の御遺骨が全て回収される事を心より願っております。
極限の食糧不足の中、死体に沸いたウジを食べていたという話を聞きました。
今、好きなものを腹いっぱい食べられる環境を作ってくれた先人たちに感謝します。
大伯父が、硫黄島で戦死しました。早くに成仏も出来ているので、自分が生きていること、平和であることが当たり前だとまでは思いませんが、有り難いことなのだとふと忘れてしまっているときがあると思います。日々が平和であることに常に感謝しながら、暮らしていけたらなと思います。
感謝の気持ちで生きると長生きできる。
ハーバード留学組の栗林を生きて帰れない硫黄島に送る大本営のいやらしさ
栗林中将は合計して5年くらいアメリカに留学してましたから、そうとうのアメリカ通でしたね。そういう方をわざわざ硫黄島に送り込むのは...。悲しいことです。
実際に硫黄島は親欧米派の墓場だったそうで、バロン西をはじめ、銀行員や商社勤務等の当時のホワイトカラーも多数送られていたそうな。
兵士の平均年齢は30歳を超えていたと。米軍兵士の証言で、英語では投降を呼びかけると英語で拒否する罵声が帰って来たというのを聴いた事があります。
日本を守る、ほんとかっこよすぎる
本で読んだ話だけど、硫黄島の下級兵士は皆、栗林中将を見たことがあり、中にはタバコをもらい、火まで着けてもらったなんて人もいたそうな。
日本の為に戦った全ての先人の皆様に心から感謝致します🙏どうか安らかに💐🍶🍙
行きたくて行った島じゃない。死にたくて行った島じゃない。願わくば滑走路の下に眠る遺骨を掘り起こし、弔ってやりたい。
素晴らしい番組をありがとうございます
涙が出ました、戦争と言う醜い争い。
もう二度とこういう事は起きてもらいたくないですね。
言ってみれば我々はその亡くなった方々の子や孫なのかもしれません。
この戦争で亡くなったすべての日本への方々は今の我々の平和を夢見て命を落としてくれた。
その彼らのためにも人生を精一杯大事にいきたいと思います。
動画の配信を、ありがとうございます。
私の亡父のゴルフ仲間に硫黄島からの帰還陸軍兵だった方がいました。終戦となり隊長の少尉?が降伏しようと言ったとき激昂したその方はその上官を殺して戦いを続けようと思ったそうです。しかし思いとどまって米軍に投降、酷熱のうえに水が極端に少ない(わずかな汚れた水しかなかったとのこと)戦闘が続いたため知らず知らずのうちに極度の疲労に達していたらしく出会った米兵がタバコをくれたのだが吸った瞬間昏倒した、そんな話をしていたそうです。
とても胸が締め付けられる
今となっては真相はわからないですが、栗林中将の人柄と信じたい。
日本の為にあるべき命を捨てて礎になったご英霊の方々が今があると思います。
本当に戦争でなくなった全ての方々にご冥福を…
硫黄島をいおうとうってナレーションが言っているのを聞いてとても嬉しかった。
いおうじまってあまり言ってほしくない。
帰還目的は、考えれば分かること。
1硫黄島守備隊の健闘惨状歴史を後世に語り継ぐこと。
2帰国して、敗戦後の日本を立て直すこと。
目下の硫黄島戦では戦えなくても手術すれば後の戦いで戦功を挙げる可能性があるから帰還させたのだと自分は思いました。日本の敗戦が早かったことで、期せずして、仰った通りの効果をもたらしたというわけです。
尊い。合掌
誰にも戦争をしてほしくない。誰にも戦ってほしくない。
誰にも戦いで死んでほしくない。