3分でわかる古田織部(人から分かる3分美術史190)

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  • Опубликовано: 20 янв 2025
  • こんにちは。人から分かる3分美術史。
    今日は古田織部について勉強していきましょう。
    古田織部重然。1543年生まれ。戦国時代の武将であり、千利休の跡を継いだ天下一の茶人として知られます。
    織部は、室町12代将軍足利義晴時代の天文12年に、美濃国に生まれました。
    古田氏は美濃国の守護大名であった土岐氏に仕える家系であり、織部24歳頃から織田信長に仕えるようになりました。
    1576年の荒木村重の謀反の際には、織部は自身の義兄弟であった中川清秀と高山右近を降伏させ、その後も武功を立てていきました。
    そんななか、織部が茶の湯に興味を持ち始めたのは、30代半ばの頃に清秀の影響を受けてのことだと言われます。
    当時の茶の湯は、「幽玄」を好しとする東山文化の影響のもと、千利休の時代を迎えていました。
    1583年、織部40歳の頃に豊臣秀吉が主催する茶会に出席。そこで織部は利休と出会ったといわれます。そして織部はまもなく利休の弟子となり、利休が1591年に亡くなると、次第に「織部好み」と呼ばれる独自の美意識を生み出していきます。
    織部好みの作品を見ていきましょう。
    「織部筒茶碗 銘 冬枯」。白と黒の釉薬で塗り分けられており、大きく描かれた文様が特徴となっています。
    「古伊賀水指 銘 破袋」。大きなひび割れがあり水差としては用を為しませんが、その実用性を超越した力強い造形を織部は高く評価しました。
    1615年、織部は73歳で亡くなります。後年の織部は、豊臣秀吉のもとで勢力を得て、天下一の茶人として知られるようになりました。秀吉の死後は徳川家康に仕えましたが、大坂夏の陣の際に豊臣方への内通の疑いをかけられ切腹することとなりました。
    その作風は織部焼などに受け継がれ、現在においても、戦国時代から江戸初期にかけて独自の美意識を生み出した茶人として知られています。
    以上!

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