3分でわかる二宮忠八【日本の航空技術の先駆者】

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  • Опубликовано: 25 окт 2024
  • 明治から昭和にかけての実業家であり、日本の航空技術の先駆者として知られる二宮忠八について勉強していきましょう。
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    こんにちは。人からわかる3分技術史。
    今日は二宮忠八について勉強していきましょう。
    二宮忠八。1866年生まれ。明治から昭和にかけての実業家であり、日本の航空技術の先駆者として知られます。
    忠八は、徳川14代将軍家茂統治下の慶応2年、現在の愛媛県にあたる伊予国の八幡浜に生まれました。
    家は江戸中期から続く海産物問屋であり、裕福な幼少期を過ごしました。しかし忠八6歳頃に、二人の兄が店の資金を遊びに使い込み、実家は破産。そのため小学校を出てのち、徒弟として呉服屋で働くこととなりました。
    その後の忠八は仕事を転々としますが、そのなかで、趣味として凧作りをはじめます。凧は平安期に日本に伝わり、江戸時代には広く遊ばれていました。
    1887年、21歳の忠八は徴兵されて陸軍に入隊。忠八の転機となったのはそれから間も無い訓練中のことでした。
    ある日忠八は訓練中に、空飛ぶカラスを見て、空を飛ぶ原理を考え始めたと言われます。それまでに、海外ではグライダーや飛行船が登場し、国内でも1877年には初代島津源蔵が有人気球による飛行を成功させるなど、人が空を飛ぶことが現実味を持ち始めていました。
    そして1891年、25歳頃の忠八が制作したのが「烏型飛行器」です。烏型飛行器は全長35センチほどの飛行模型であり、ゴム動力により30メートル飛行したと言われます。
    続いて1894年に考案したのが「玉虫型飛行器」です。
    しかしいずれにおいても、これらを実作して飛行するには、動力源が不足していました。
    その後忠八は退役すると、開発費を自力で稼ぐために大日本製薬に勤めることとなりました。しかし1903年、アメリカのライト兄弟が世界初の有人飛行に成功。それにショックを受けた忠八は、制作中の飛行器を自ら破壊します。それ以後忠八は、飛行器の開発から一切手を引くこととなりました。
    1936年、忠八は胃癌により70歳で亡くなります。後年の忠八は、実業家として製薬会社の重役を歴任したのち、航空事故の犠牲者を弔うため、京都八幡市に飛行神社を建立しました。
    現在では忠八の功績は再評価され、日本の航空技術の先駆者の一人として知られています。
    以上!

Комментарии • 1

  • @秋山泰幸
    @秋山泰幸 7 месяцев назад +1

    こちらからすみません❗
    意義あり❗「日本」の「航空先駆者」というなら「江戸時代」の浮田幸吉「ハングライダー」こそ先では?