GHQに消されかけた日本の武道|小名木善行

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  • Опубликовано: 10 янв 2025

Комментарии • 27

  • @こばやしあきら-o6p
    @こばやしあきら-o6p 3 месяца назад +6

    いやー 日本はカッコいい 日本をカッコよくなお話ありがとうございました。

  • @HightouchNetpro
    @HightouchNetpro 3 месяца назад +6

    香取に住んでいます。
    近くに香取
    神道流を継いでる人がいますが、
    とても落ち着きがあり、人として芯があるなっていう気がします。

  • @Black_Cat_Kuro
    @Black_Cat_Kuro 3 месяца назад +2

    ジャーナリストの落合信彦が、アメリカ留学時代に喧嘩がめっぽう強いアメリカ人の大男と決闘した際、空手でいとも簡単に相手を倒してしまい、見に来ていた大勢のアメリカ人が驚愕し、「空手を習わしてくれ!」と言っていたエピソードを彷彿しました。その後、落合信彦は、実際に空手教室も開いていました。

  • @徳見信
    @徳見信 3 месяца назад +9

    武士のDNAは永遠に不滅です。

  • @クレハ-c3y
    @クレハ-c3y 3 месяца назад +4

    将棋もghqに消されかけましたよね。
    升田幸三がいなかったら将棋は無くなっていたかもしれなかった…彼のような偉大な日本人が存在してくれたことを誇りに思います。日本人は素晴らしい!

  • @とほかみえみため山下白雨-h5g
    @とほかみえみため山下白雨-h5g 3 месяца назад +4

    国井 善弥
    (國井 善彌、くにい ぜんや、1894年1月20日 - 1966年8月17日)は、昭和の日本の武術家。鹿島神流第十八代宗家。福島県いわき市常磐関船町宿内出身。本名は道之。昭和の今武蔵と呼ばれた。
    人物
    祖父の16代国井新作、父の17代国井英三により、幼少期から家伝の鹿島神流(鹿島神伝直心影流)を教わる。父の命で19歳で外に出て佐々木正之進から新陰流剣術、栖原邦泰から馬庭念流剣術、妙道流柔術を師事。鹿島神流を大成させる。
    その後、第1次世界大戦に徴兵され、卓越した武術が軍内で評判となり、陸軍戸山学校の教官に任じられる。中山博道らと共に古流武術を組み直し、戸山流片手軍刀術を開発。成果を上げたことにより校庭に本人の銅像が建立された[1]。
    退役後、東京都北区滝野川に道場を開き、「道場破り歓迎」の看板を掲げ「他流試合勝手たるべきこと」とし、幾多の他流試合を相手の望む通りの条件で受けながらも勝ち続け、生涯不敗であったという[2]。剣や棒など武器を取らせても、武器を持たない柔道家や空手家から挑戦を受けても、國井は戦う前から勝負が決しているかのごとく一本を取るのが常であった。武道界からは異端視されたが、日本古武道の強さを体現した武人だった。
    墓所はいわき市常磐関船町にある勝蔵院。葬儀は神葬祭で行われた。
    弟子
    関文威(鹿島神流第十九代師範家、筑波大学名誉教授)、田中茂穂 (武道家)、稲葉稔 (武道家)、野口弘行、平澤誠太郎ほか。
    エピソード
    『大菩薩峠』机竜之助のモデル
    中里介山は、「音無しの構え」を得意とする、国井に出会ったことで『大菩薩峠』の主人公、机竜之助を書いたという説がある[3]。
    GHQ教官との試合
    太平洋戦争(大東亜戦争)終戦後、GHQから米海兵隊の銃剣術の教官と日本の武道家との試合の申し出があった。日本武道の誇りと名誉がかかった一戦であり、おいそれと負けるわけにはいかない。このため対戦する武道家は実戦名人であることが求められた。また、米海兵隊の銃剣術教官は徒手での格闘術も訓練されているため、剣術のみではなく武器を持たない場合でも強いことが求められた。この条件に、政治家(国務大臣)であり武道家(弘前藩伝の小野派一刀流剣術・神夢想林崎流居合・直元流大長刀術の宗家)でもあった笹森順造は、武道家の間では異端とされていた國井善弥に白羽の矢を立てた。國井は木刀を持って銃剣を持った米海兵隊教官との立会いに臨む。試合が開始されるやいなや國井は相手の攻撃を見切って木刀で制し身動きの取れない状態へと持ち込む。これは圧倒的な実力差であり、米海兵隊教官に負けを認めさせるに十分であった。この試合が実施された当時、GHQは武道が軍国主義の発達に関連したと考え、武道教育禁止の措置を取っていたため、後年、この試合が武道教育禁止の措置の解除のきっかけとなったという話が広まったが、この試合の結果と武道教育禁止の措置の解除に関係があるかどうかは定かでない。ただし、日本武道の名誉をかけた一戦に実戦名人として國井善弥が選ばれたことは特筆すべき点である[4]。
    佐々木正之進の内弟子として
    修行時代、新陰流免許皆伝の佐々木正之進という武術家の内弟子になった。内弟子になった次の日から、佐々木は國井に「何を持って来い、何もついでに」という指示を出す。「何」と言われてもまったく見当が付かないが、これは相手の思っているところを察知する心眼獲得のための修行だったのだという。師の命令は次第に「何を何して、何は何々」と曖昧さを増すようになったが、國井はかなりの確率で師の意思を掴むことができるようになった。この修行が立会いにおいて、相手の動きを事前に読みきる能力に活かされたという。
    奉納演武出入り禁止
    明治神宮での奉納演武の際、他流派に立会いを求めたため、その後数年奉納演武に出入り禁止になった。
    その他
    鹿島神流十八代宗家を名乗るも、過去の古文書がすべて失伝しており、国井が学んだ新陰流などを元に新しく作られた流派ではないかとする説もある(詳細は鹿島神流を参照)。

  • @とほかみえみため山下白雨-h5g
    @とほかみえみため山下白雨-h5g 3 месяца назад +1

    建御雷神
    (たけみかづち、タケミカヅチノオ)は、日本神話に登場する神。
    概要
    「地震のおかげで普請が増え、大工が儲けて大喜びしている」という、地震よけの歌にかこつけた風刺画(安政2年10月の瓦版)。ナマズを抑えるのは鹿島神ことタケミカヅチ[1]
    『古事記』では建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)、建御雷神(たけみかづちのかみ)、別名に建布都神(たけふつのかみ)、豊布都神(とよふつのかみ)と記され、『日本書紀』では武甕槌神、武甕雷神と表記される。『先代旧事本紀』では建甕槌之男神、武甕雷男神、建雷命などとも表記される。
    また、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)の主神として祀られていることから鹿島神(かしまのかみ)とも呼ばれる[2]。
    雷神、かつ剣の神とされる[3]。後述するように建御名方神と並んで相撲の元祖ともされる神である。また鯰絵では、要石に住まう日本に地震を引き起こす大鯰を御するはずの存在として多くの例で描かれている。
    古事記・日本書紀における記述
    神産み
    神産みにおいて伊邪那岐命(伊弉諾尊・いざなぎ)が火神火之夜芸速男神(カグツチ)の首を切り落とした際、十束剣「天之尾羽張」(アメノオハバリ)の根元についた血が岩に飛び散って生まれた三神の一柱である[4]。剣のまたの名は伊都尾羽張(イツノオハバリ)という[5]。『日本書紀』では、このとき甕速日神(ミカハヤヒノカミ)という建御雷の租が生まれたという伝承と、建御雷も生まれたという伝承を併記している[6]。
    ・経津主神
    (ふつぬしのかみ、旧字体:經津主󠄁神󠄀)は日本神話に登場する神である。『日本書紀』のみに登場し、『古事記』には登場しない。別名はイワイヌシ(イハヒヌシ)で、斎主神または伊波比主神と表記される。『出雲国風土記』や『出雲国造神賀詞』では布都怒志命(ふつぬしのみこと、布都努志命とも)、『肥前国風土記』では物部経津主之神(もののべのふつぬしのかみ)として登場する。『常陸国風土記』に出てくる普都大神(ふつのおおかみ)とも同視される。
    香取神宮(千葉県香取市)の祭神であることから、香取神、香取大明神、香取さま等とも呼ばれる。経津主神は、香取神宮を総本社とする日本各地の香取神社で祀られている。
    『釈日本紀』などに引用されている『天書』逸文では、経津主神は鎮星(土星)の精とされる[1]。経津主神は平柳星宮神社など、栃木県に160社以上ある星宮神社の一部で祀られている。
    ・鹿島神宮
    (かしまじんぐう、鹿嶋神宮)は、茨城県鹿嶋市宮中にある神社。式内社(名神大社)、常陸国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
    全国にある鹿島神社の総本社。千葉県香取市の香取神宮、茨城県神栖市の息栖神社とともに東国三社の一社[1]。また、宮中の四方拝で遥拝される一社である。
    概要
    茨城県南東部、北浦と鹿島灘に挟まれた鹿島台地上に鎮座する。古くは『常陸国風土記』に鎮座が確認される東国随一の古社であり、日本神話で大国主の国譲りの際に活躍する武甕槌神(建御雷神、タケミカヅチ)を祭神とすることで知られる。古代には朝廷から蝦夷の平定神として、また藤原氏から氏神として崇敬された。その神威は中世に武家の世に移って以後も続き、歴代の武家政権からは武神として崇敬された。現在も武道では篤く信仰される神社である。
    ・香取神宮
    (かとりじんぐう)は、千葉県香取市香取にある神社。式内社(名神大社)、下総国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
    関東地方を中心として全国にある香取神社の総本社。茨城県鹿嶋市の鹿島神宮、茨城県神栖市の息栖神社とともに東国三社の一社[1]。また、宮中の四方拝で遥拝される一社である。

  • @Hide-kx8uu
    @Hide-kx8uu 3 месяца назад +5

    自分も若い頃に剣道習いたかった…

    • @FUJI-HYOHE
      @FUJI-HYOHE 2 месяца назад

      若年層の剣道はただのスポーツです

  • @oshibori5960
    @oshibori5960 3 месяца назад +7

    結美大学でSMに言及されるとは思いませんでした👍

    • @秀-e8g
      @秀-e8g 3 месяца назад

      SMの意味を解説してほしい😅

  • @syakariki1111
    @syakariki1111 3 месяца назад +2

    確かマッカーサーに陳情しに行ったのは尾形郷一と言う人物だったと思います。

  • @奇怪体操
    @奇怪体操 3 месяца назад +3

    日本少林寺拳法開祖.宗道臣は
    「中国伝来の踊る宗教です」とハッタリをGHQに登録し
     復員兵や武道経験者を集め
    自前の八光流柔術と軍隊で身に付けた戦闘術と中国で習った拳法を簡素化したものを訓練し
     街に出て三国人から日本の市民を守る為に警備していました

  • @小林義和絵画ちゃんねる
    @小林義和絵画ちゃんねる 3 месяца назад

    ぜひ、ヒロ渡邊先生と対談してほしい

  • @とほかみえみため山下白雨-h5g
    @とほかみえみため山下白雨-h5g 3 месяца назад +1

    鹿島神流
    (かしましんりゅう)とは、日本の古流武術の流派。鹿島古流、鹿島中古流とも、剣術と柔術を中心に、抜刀術、薙刀術、懐剣術、杖術、槍術、棒術なども行う総合武術である[1]。鹿島神流(鹿島古流、鹿島中古流)の遣い手には、塚原卜伝の父祖伝来をはじめ、昭和時代に「今武蔵」(昭和の宮本武蔵という意味)という異名で称された國井善弥[2]や、筑波大学名誉教授の關文威[3]などがいる。
    概要
    鹿島神宮に古くから伝わったとされる「鹿島の太刀」を元としている[4]。これは鹿島神宮祭神の武甕槌大神が悪神を鎮める際に使用した技がその始まりであるとして、抜刀術の「祓太刀」がその名残だという[4]。また、建御名方神との力くらべの際に武甕槌大神が使った技が柔術の「霊気之法」の始まりとしている[1]。流祖は松本備前守紀政元[4]。戦国時代、松本備前守紀政元は鹿島大神に祈願すると剣術の極意を記した「天狗書」を賜った[4]。鹿島神流師範家に代々伝わる「天狗書」は松本備前守紀政元の直筆であるとし、師範家の証と位置づけている[4]。松本備前守紀政元はまた、「一ノ太刀(いちのたち)」の発案者であるとされている[3]。上記の祈願の際には國井源八郎と交流の結果國井を後見人として流派を開き、以降國井家が宗家を、上泉伊勢守を始めとする松本備前守の弟子たちが代々師範家を受け継いだ[4]。師範家は幕府からの弾圧を避けるため流派名を変え神影流などと名乗ったという[2]。第十二代宗家國井大善が直心影流の小野清右衛門より免状をもらった時点で宗家と師範家とが統合しこれは第十八代國井善弥まで続いた[4]。2018年3月9日現在、宗家は第十九代國井正勝、師範家は第十九代關文威となっている[1]。
    鹿島神流の武術は、哲学的基本原理「五ヶ之法定」と物理的基本原理「方円曲直鋭」とからすべてが構成されている[4]。さらに「表裏一体」の観点から、柔術を始め他のあらゆる武具を用いた術も剣術とほぼ同じように行うことが出来るとされている[4]。
    第十九代師範家關文威によって「鹿島神流」流派名は、商標として登録されている[1]。
    鹿島神流の武術
    鹿島神流の武術は次のようなものとなっている[1][4]。
    剣術
    基本太刀
    裏太刀
    相心組太刀
    実戦太刀組
    合戦太刀
    鍔競・倒打
    抜刀術
    薙刀太刀合
    槍術立合
    鎖鎌立合
    杖術
    杖立合
    懐剣術
    薙刀術
    槍術
    柔術
    霊気投
    居捕
    立業
    投業
    組業具足捕
    捕手返
    後業

    • @とほかみえみため山下白雨-h5g
      @とほかみえみため山下白雨-h5g 3 месяца назад

      鹿島神流の教育理念
      鹿島神流の教育理念は「抑々 鹿島神流は徒に倒敵破邪の愉悦を好むものに非ず 天ヶ下御冶召し給ふ大御心に副ひ奉るの士を培ふに在り」というものとなっており、その過程は「初にして体を整へ 中にして心気人倫を養ひ 極めては宇宙創元の理を悟るに至る可し」と表されている[5]。
      ここにおいて剣術を中心とした武芸十八般の教育は、初等教育達成課題「初にして体を整へ」として位置付けられている[5]。
      道統
      2018年3月9日時点において、鹿島神流の道統は次のようなものとなっている[1]。
      宗家 師範家
      初代 國井源八郎景継 松本備前守紀政元
      二代 國井源五郎源景清 上泉伊勢守藤原秀綱
      三代 國井弥太郎源政輝 奥山休賀斎平公重
      四代 國井弥五郎源義時 小笠原源信斎源長治
      五代 國井弥司郎源善政 神谷伝心斎平真光
      六代 國井弥八郎源政家 高橋直翁斎源重治
      七代 國井小五郎源政氏 山田一風斎源光徳
      八代 國井新五郎源氏家 長沼四郎左衛門藤原国郷
      九代 國井善八郎源隆政 長沼四郎左衛門藤原徳郷
      十代 國井新八郎源義継 本岡忠八藤原因質
      十一代 國井源太郎源義利 小野清右衛門平成誠
      十二代 國井大善源栗山
      十三代 國井善太郎源栗山
      十四代 國井善太夫
      十五代 國井善五郎
      十六代 國井新作
      十七代 國井英三
      十八代 國井善弥源道之
      十九代 國井正勝 關文威
      鹿島神流に関する話
      念流に関連する話
      初代宗家國井源八郎景継は鹿島神流を興すにあたり、「念流を学ぶも心を充たすものなく、自らは鹿島大神を奉祈して、一心に修霊に力め遂に一流を顕し」たとのことである[3]。この記述に因り、第十八代國井善弥も、大原政蔵が責任者であった念流御徒町道場において、昭和元年から三年間、念流の修行を行ったとのことである[3]。
      雑誌『月刊空手道』の別冊『極意』における國井家へのインタビュー記事[6]にて、「國井先生は念流を少し学ばれているけど、それも『神流が如何に優れているか』ということを試すために習ったんですよ。」との発言が、同席した國井善弥高弟の平澤誠太郎によってなされている。
      昭和13年6月26日発行の週刊朝日”古武道の真髄を語る”にて、念流の増尾寅次郎と国井道之(善弥)の念流の演武写真が掲載されている。
      直心影流に関連する話
      鹿島神流第十九代師範家の關文威[3]によると、「善弥にとっての國井家相伝鹿島神流の内容が、國井宗家としての鹿島神流と本岡忠八藤原因質の系統の直心影流との師範家との融合によって形成されているので、國井家相伝鹿島神流と直心影流は他流ではない」とのことである。
      道統:軽米克尊「直心影流に関する研究」から抜粋引用し略して記載。
      ・直心流・神谷伝心斎(1582-1663?) 「紙屋伝心六十七歳ニテ一流見出シ、直心流ト極メ致御伝授ニ付、改兵法之根元」 15の流派を学びそこから直心流を作った。 伝書に 「八相」「一当」「重端一身」「右天左天」という 4 本の形名があり、小笠原源信斎の『真之心陰兵法目録』の形名と共通していることから ある程度影響があり、学んだ流派の一つだろうと推察。
      ・直心正統流・高橋弾正左衛門重治(1610‐1690?)  神谷伝心斎の33人の弟子の一人。他の弟子の剣術を批判。自流を「直心正統流」と名乗り、区別化を図った。
      ・直心正統流二代・山田平左衛門光徳(1638‐1716?)  著書『兵法雑記』にて「高橋弾正左衛門は自流を世に広め、免状を 20 人余りの者に授けたが、終に正しい理を持つ真実の修行者が いなくなってしまったという。 このような経緯から光徳は自身が世に功を立てるような人間ではないものの、この直心正統流の二代を相続した。 そして、今年70歳になり、余命が十分ではないが一道の廃絶を嘆く余りに後継者を残すことを願い、このことに残りの命を費やす」と記す。
      後世の伝承では山田平左衛門光徳が直心影流を名乗ったとされているが 『兵法雑記』の記述から70歳まで「直心正統流二代」を名乗り、 この70歳の時に流儀の免状・裏書を長沼国郷に授けたということが明らかになっている。 つまり長沼国郷は山田平左衛門光徳から直心影流ではなく直心正統流を継承している。
      ・直心影流・長沼四郎左衛門国郷(1688‐1767) 直心影流の創始者(流名を直心影流に改めた)  直心正統流と直心影流の目録を比較すると、しない打ち込み稽古の基本の形である十之形の「龍尾」から「曲尺」までの項目が 新しく追加されていることが確認できる。 この形に加え「相尺之事」「留三段之事」「切落之事」「吟味之事」の習が更に追加されている。 これらの項目は直心正統流二代・山田平左衛門光徳の『兵法雑記』には確認できず、長沼国郷の『直心影流目録口伝書』に記述されているため、 直心影流の成立にあたり、長沼国郷によって付け加えられたものであると考えられる。 流祖松本備前守の存在も、高橋、山田の代では元祖神谷氏伝心だったが長沼国郷になってから改変されたと考えられる。
      鹿島神流「日本武道の淵源 鹿島神流」では鹿島神伝、松本備前守から始まったことを記載しており、その武道真理の説明では、 応用真理という名で直心影流の目録の内容が記載されている。特に「相尺」「留三段」「切落」「吟味」というのは直心正統流に 長沼国郷が付け加えた内容であるので直心影流の影響を受けたと推察される。  
      現代武道に関連する話
      雑誌『月刊空手道』の別冊『極意』における國井家へのインタビュー記事[6]にて、「合気道なんかもかなり影響を受けていると思いますよ。実際、先生の所に技を撮影にきたりしてました。武田惣角さんのときは中条流から大東流に移行する時、鹿島神流の技を少し習っています。植芝盛平さんは剣は習わなかったけど稽古されていますから。」との発言が、同席した國井善弥高弟の平澤誠太郎によってなされている。

  • @秀-e8g
    @秀-e8g 3 месяца назад +1

    ○○の子は○○の子😅この辺りが聖書記述者の発想に似ている😂

  • @kzmars
    @kzmars 3 месяца назад +1

    香取神道流は500年ぐらい 流祖は飯篠長威斎家直