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南部氏って複雑ですよね。分かり易くするとこうです。青森県全体が元々南部氏の領地で、戦国期に津軽地方を任されていた南部氏の一族津軽為信が謀反反乱して津軽で独立、以降南部氏と関係が最悪になる訳です。その後、三戸南部氏が盛岡に移って盛岡南部氏(盛岡藩)八戸の根城南部氏が遠野に移って遠野南部氏(盛岡藩の筆頭家老)となります(もりおか歴史文化館で聞いた話しだと最近の研究で南部氏の本家は八戸根城南部氏との事)そして1664年に盛岡藩の殿様が跡継ぎを決めず亡くなったので、幕府の裁定で盛岡藩10万石のうち盛岡藩を8万石に、新しく八戸藩を2万石に分けたというわけです。戊辰戦争の敗戦責任で、盛岡は八戸に救われましたね。八戸藩から明治新政府へ、盛岡藩に対する救済の嘆願がなければ現在の盛岡市は無かったでしょう。それだけ八戸と盛岡のつながりは強固だったわけです。そう考えると八戸市は岩手県に入るべきでした。八戸市は人口22万人と多く、岩手県にとってもメリットがあったかと思います。戊辰戦争で盛岡、八戸の旧南部藩が、旧幕府軍の「奥羽越列藩同盟」に属したがため青森県と岩手県に分断されたのです。もし八戸市が岩手県だったら、岩手県はもっと経済力があったと思うのは私だけでしょうか?
チンチロリンさん!もう僕が知りたいことや思ってること、たくさんコメントいただきましてありがとうございます!歴史的には遠野とつながっているので遠野もゆっくり歩いてみたいんです。今となってはどうしようもありませんがほんとに八戸が岩手だったらなぁと強く思います。八戸と盛岡の絆は令和の今でも生き続けると思いますし、僕も八戸を愛しながら生きていきたいと思います。また、こういったことがもっとたくさんの人に伝わればいいと思っています。
@@蝦夷チャンネル 返信ありがとうございます。南部藩の歴史は本当に面白いです。大浦南部氏(津軽氏)の反乱独立、九戸政実の乱、三戸(盛岡)南部氏と八戸根城南部氏の関係、南部と伊達の藩境抗争、盛岡藩と八戸藩の成立、相馬大作事件や奥羽越列藩同盟など歴史好きにはたまらないです。南部藩は盛岡、八戸と言う2大都市があり、それだけ栄えていたんだと思います。青森県では津軽、南部の微妙な関係から、津軽の青森と弘前の人が八戸に来ても喜んで帰ることは少ない(?)のですが、盛岡の人が八戸に来ると本当に満足して帰られますね。盛岡の人は「やはり八戸は盛岡と同じ南部なんだなあ」と感慨深く思うみたいです。最後にマニアックな話しですが、盛岡藩と八戸藩の家紋は丸に向鶴で、根城南部氏(遠野南部氏)の家紋は丸が無い向鶴です。これは本家筋になった三戸(盛岡)南部氏に対し、八戸の根城南部氏が遠慮して丸の向鶴紋を辞退したということです。今度遠野に行かれた際は、遠野神社の丸が無い向鶴紋に注目してください。またぜひ八戸にいらしてくださいね。
今年の3年ぶり?くらいに7月17日(日)は八戸酒造さんで、蔵祭りと言うイベントがあるので、ぜひチェックしてみてください♪イベント自体はチケット制で、チケットでお酒を買って飲みながら出店でフードを購入できるカンジになってます!運が良ければ蔵見学もできますょ(*・∀︎-)b
👍👍
南部氏って複雑ですよね。分かり易くするとこうです。
青森県全体が元々南部氏の領地で、戦国期に津軽地方を任されていた南部氏の一族津軽為信が謀反反乱して津軽で独立、
以降南部氏と関係が最悪になる訳です。
その後、
三戸南部氏が盛岡に移って盛岡南部氏(盛岡藩)
八戸の根城南部氏が遠野に移って遠野南部氏(盛岡藩の筆頭家老)
となります(もりおか歴史文化館で聞いた話しだと最近の研究で南部氏の本家は八戸根城南部氏との事)
そして1664年に盛岡藩の殿様が跡継ぎを決めず亡くなったので、幕府の裁定で盛岡藩10万石のうち盛岡藩を8万石に、
新しく八戸藩を2万石に分けたというわけです。
戊辰戦争の敗戦責任で、盛岡は八戸に救われましたね。八戸藩から明治新政府へ、盛岡藩に対する救済の嘆願がなければ
現在の盛岡市は無かったでしょう。それだけ八戸と盛岡のつながりは強固だったわけです。
そう考えると八戸市は岩手県に入るべきでした。八戸市は人口22万人と多く、岩手県にとってもメリットがあったかと
思います。
戊辰戦争で盛岡、八戸の旧南部藩が、旧幕府軍の「奥羽越列藩同盟」に属したがため青森県と岩手県に分断されたのです。
もし八戸市が岩手県だったら、岩手県はもっと経済力があったと思うのは私だけでしょうか?
チンチロリンさん!もう僕が知りたいことや思ってること、たくさんコメントいただきましてありがとうございます!歴史的には遠野とつながっているので遠野もゆっくり歩いてみたいんです。今となってはどうしようもありませんがほんとに八戸が岩手だったらなぁと強く思います。八戸と盛岡の絆は令和の今でも生き続けると思いますし、僕も八戸を愛しながら生きていきたいと思います。また、こういったことがもっとたくさんの人に伝わればいいと思っています。
@@蝦夷チャンネル 返信ありがとうございます。南部藩の歴史は本当に面白いです。大浦南部氏(津軽氏)の反乱独立、九戸政実の乱、三戸(盛岡)南部氏と八戸根城南部氏の関係、南部と伊達の藩境抗争、盛岡藩と八戸藩の成立、相馬大作事件や奥羽越列藩同盟など歴史好きにはたまらないです。南部藩は盛岡、八戸と言う2大都市があり、それだけ栄えていたんだと思います。青森県では津軽、南部の微妙な関係から、津軽の青森と弘前の人が八戸に来ても喜んで帰ることは少ない(?)のですが、盛岡の人が八戸に来ると本当に満足して帰られますね。盛岡の人は「やはり八戸は盛岡と同じ南部なんだなあ」と感慨深く思うみたいです。最後にマニアックな話しですが、盛岡藩と八戸藩の家紋は丸に向鶴で、根城南部氏(遠野南部氏)の家紋は丸が無い向鶴です。これは本家筋になった三戸(盛岡)南部氏に対し、八戸の根城南部氏が遠慮して丸の向鶴紋を辞退したということです。今度遠野に行かれた際は、遠野神社の丸が無い向鶴紋に注目してください。またぜひ八戸にいらしてくださいね。
今年の3年ぶり?くらいに7月17日(日)は八戸酒造さんで、蔵祭りと言うイベントがあるので、ぜひチェックしてみてください♪
イベント自体はチケット制で、チケットでお酒を買って飲みながら出店でフードを購入できるカンジになってます!
運が良ければ蔵見学もできますょ(*・∀︎-)b
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