【長編】船木誠勝の平成を30年分振り返ってみました
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- Опубликовано: 6 фев 2025
- まずは新日本プロレスを辞めるところから。平成19年には大事件が起きました。令和の船木誠勝も宜しくお願いいたします。
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第2次UWFに入団、UWFを離脱してプロフェッショナルレスリング藤原組の旗揚げに参加、メガネスーパー傘下で超安定生活、パンクラスを旗揚げ〜悩みぬいた7年間、「コロシアム2000」でヒクソン・グレイシーと対戦、地元青森県で「船木誠勝 引退記念興行」を開催、俳優業という新しい挑戦、前田さんとの和解、柴田勝頼との出会い、K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!!で現役に復帰、全日本プロレスの両国大会でプロレスに復帰、46歳で初めてフリーランスに、大阪へ移住〜かねてから構想していたパーソナルトレーニングスタジオの立ち上げ、大仁田さんを相手に初めての電流爆破、松竹芸能に所属。などなど
本当の船木さんの、人間性が表れた神回だと思いました!
強い男の少しの弱気を惜しみなくさらけ出すstyleは最高に、格好良いです。今でも応援してます🍀
船木さんが振り返った平成の30年間。
デビュー当時からファンの私も自分の人生重ねて、30年を走馬灯の様に振り替えることとなりました。
今が一番幸せというのは、ファンも嬉しく、そんな人生をおくられてる船木さんを尊敬し、学ぶことが沢山ありました。
令和での活躍も期待し応援しています!
船木さんの正直な人柄がうかがえて、良いお話でした。
クールでカッコいい、ヒーロー船木と思っていた人が、実は、不安とか恐怖と戦っていたんですね。いろいろあるけども、前に進むしかないんだなぁ、ってことを、改めて、感じました
舟木さんの人柄が伺える総括でした。自身にいつも厳しくあられるお姿に感動を覚えます。有難う御座います!
「電流爆破」・・・アレはあれで大仁田もどうやって自分を上げていくか、考えに考えた危険なショーですね。確か大仁田も中学を出てレスラーになった環境だったと記憶する。でも自分の好きなこと、やりたいことにまっすぐ進んだ者だけが持つ、損得を計算できない爽やかな熱さ!は十分に伝わってきます。どこに進んでも、思うようにいかないのが殆どです。でも一番好きな事でひとつの元号を生きた!なんて素晴らしいですよ。自分の周りを見ても、金を儲けた人は「儲けた苦しみ?」があるようです。無い人は無い辛さもね。結局、選んだ道をブレずに歩いてる人が一番幸せみたいです。いい内容の動画でした。
いいと歳の取りかたをしてますね。羨ましい限りです。
乗り越えて来た修羅場の数が人生を豊かにしている
船木さんの言葉はどれもとても深いですね。
『お前もまさしく強敵(とも)だった』by・・北斗のケンシロウ!!
そんな名言が飛びだしそうです。笑
喋りがとてもお上手です。ラジオでじっくり人にお話を聴かせるお仕事にも適性をお持ちなような気がします。新たな新境地を開拓されることを陰よりお祈りしています。
学生の頃からのファンです。
平成の時代を自分の人生と重ね合わせながら見せてもらいました。
これからもカッコいい船木見せてください。
平成元年3月小学五年生
私は初めて週刊プロレスを買いプロレスファンになった。週プロを買ったことが私の初めての自我だったかもしれない。
そして
その表紙が船木優治UWF入りだった。
新日本プロレス、骨法、UWF、
藤原組、モーリス・スミス、
パンクラス、ハイブリッド、
明日また生きるぞ、
ヒクソン・グレイシー、
俳優、プロレス回帰、MMA、
金網、電流爆破、パーソナルトレーナー、大阪、松竹芸能…。
格闘技復帰後すぐは正直カッコ悪いなと思った。
しかしあれから10数年。
よく頑張った。尊敬する。
アクシデントとはいえ永田裕志に顔面骨折させられた。
ルッテン戦が一度目。
競技生活で二度顔面骨折した人いるかな?
電流爆破も金だけでできないっしょ!
船木はクリーンなイメージばかりではない。
あの話の真相は?とか昔は聞きたかったが今はもうどうでも良くなってきた。
これからも大阪で頑張って欲しい。
ちなみにあの頃若手だったのは
ますだおかだの事ですね。
船木選手が30年前、新日本に残っていたら、プロレス界の流れは、かなり変わってたでしょうね。でもまさか船木選手が大仁田選手と同じリングに上がるとは、30年前想像できませんでした❗またいろんな話お願いします‼
泣けました、船木さんのご苦労が少しだろうけど伝わりました!
電流爆破マッチは、正直しないで欲しかったですが仕方なさも理解出来たかな?…新日に入られて17の頃?にデビューされた時にあの素早い動きに即ファンに成りました!
吹田ICで大森さんの横で火薬ご飯とうどんを食べてましたね、大森さんの正面にいた自分はドキドキでしたw
あの時、写メいただきありがとうございました!
興味深いお話、ありがとうございました‼️
船木さんの若い頃からのことを思い出しながら拝聴しました。
私は船木さんと同い年なのでいろいろと感慨深いものがあります。
平成の世が終わり、新しい御世「令和」の時代に船木さんがどう生きていくのか、自分と重ね合わせながら拝見させていただきます。
・・・しかし、船木さん・・・話し上手ですねwww
ホントにうらやましい人生。若いうちから好きでプロレスを始めて、色んな団体で色んな人たちとのつながりができて、家庭も持って、俳優までやって、もちろん波はあったんだろうが、そこからもう一回格闘技にプロレス、そしてパーソナルトレーナーにユーチューバー、またタレントとしても大手に所属。もちろんん結果論であってものすごい努力や才能もあったんだろうけど、これだけやりたいことをやれている人生ってそうはないだろう。やってきたことだけを見れば一般人の2人分、3人分にもなるんじゃないか。良い星のもとに生まれたというか運がいいんだろうな。
ところで後ろの「よろん島のきび酢」について、いい加減気になるから宣伝だったらそれはそれで一度紹介してほしい。
今が一番幸せっていいね。
船木さんの格闘技の世界であたえた影響は絶大です。ヒクソン戦は本当に紙一重だったので、リターンマッチがあれば勝利していたと思います。生死をかけた試合のため残念です。人格的にも魅力が出ておられるので船木さんの発信に興味深く感じます。
船木さん、今が良くて良かったですね♪
1秒も目を離せませんでした。
本当にいい30年でしたね。
そう思わせてくださったことに、心から感謝したいと思います!
素晴らしいお話、ありがとうございましたm(_ _)m
船木さんの絶頂期時代じゃないですか!
マサ斎藤さんがヨーロッパ遠征を勧めたのが、船木さんのプロレススタイルを確立させたんですね。
亡くなった名レスラー(マサさん、小鉄さん、星野勘太郎さん)について話して欲しいですね。
29:39 グっときた…。自分もがんばる
船木選手はヒクソン戦など色々な名勝負を生んできましたが、個人的に一番衝撃の試合だったのは当時三冠王者だった最強の秋山準を4分37秒ハイブリッドブラスターで秒殺勝ちして船木選手が三冠王者になった試合は凄い印象に残りました笑
船木さんありがとう!
令和にお世話になります、深いなあ。
こちらこそ有難うございました。私も45歳になりますが、公私とも色々経験でき、今まで充実した人生送れたのは、大袈裟でなく船木さんの存在がかなり大きいです。身体が強くなく全てにおいて自信なかった私が、ハイブリッド肉体改造法との出会いで肉体を鍛練し自信がつき、様々な事にチャレンジし自信をもつことができました。お世話になりました。。。船木さんのパーソナル是非受けたいです。藤沢在住なんですが、大阪まで通うのは厳しいですね・・関東で受けれないでしょうか・・
工場現場で働いていた時期があるほど、仕事のない苦しい時代があったのよね。
43:00 w
44:44 いろんな現場に復帰されて
浦島太郎状態がパート3までありました。
色々な才能を持ち器用な方だが結果的にどれも中途半端な結果になってる。一ファンとしてはパンクラス時代に若くして引退したのがとても残念だった。あの時前田はとてももったいないしもし俺だったら辞めないと言っていた。その後やった俳優業で大成すれば良かったがそうでなかった。あの時ファンだった自分は38歳の色々な意味で復帰戦は見ていられなかった。今となっては今後も3つの仕事を掛け持ちしていくスタイルという事だったが一ファンとしてはやはりあの時辞めないで欲しかった。今30年の振り返り話を聞いてもやはりそう思います。
これからの活躍を応援しております。
今が一番っかっこいい
週刊プロレスの表紙に「二十歳の決断」と書かれていてUWF移籍の記事が懐かしい(^-^)
良いお話でした👍 (^o^)
ありがとうございました。
ヒクソン戦の話をもっとしてほしかったです。
ヒクソンを開始すぐに絞め落とす時に時間が早すぎると、、、
電流爆破に対する最後のコメントは最高です。船木さんの表情を見て笑ってしまいました。
ヒクソン側はめちゃめちゃ船木戦を評価してるんだよね、実は一番ヤバイ試合だったみたいですね
そりゃ目が見えない状況に追い込まれてましたからね。
私も船木さんと
同い年です
デビュー当時より存じております。最後のくだり
今思えばこんにちの自粛騒動を予見していたとしか
おもえません
解説とかコメンテーターになったほうが良いと思うのですよ
話が上手いというか、分かり易いというか
これは記しておかねばなるまい。
92年くらいのワールドプロレスリングで馳が第三世代を1人ずつ紹介してるシーンがあった。
しかしそれはテレビ用なのか本当なのかわからなかった。
でもその中で猪木が理解していたのは石澤、中西だけではなかったか?
ギリ永田裕志は覚えていても、
小原、西村、大谷、高岩などは覚えていないだろう。
その中で猪木直々三日間のスケジュールを割いてまで引き止めたのは船木のスター性によるものに他ならない。
私は思う。
20年後は遅かったかもしれない。
しかし、UWFに行かなくて新日本プロレスに船木が残っていたのなら?…という課題は
ブロディがそのまま生きていたならという例は大袈裟だろうか?
ガチヤオなんかは今や通り過ぎた今、
2人は何かを残したのだろうか?
平成元年の船木誠勝って本出して欲しいくらい私にはたまらないものがある。
元年の誠勝は9月の長野の藤原戦のみ。
その後札幌の前田戦は骨折キャンセル
田村は前田に眼窩底骨折。
4月博多の復帰戦鈴木みのるとの
ほぼガチンコ戦。
わずか十日後武藤凱旋
2ヶ月後三沢が鶴田に勝利。
週プロ週ゴンすみずみまで読んだわ。
俳優業では熱血刑事役が似合いそうですね。
一時期はヘルメット被って現場仕事してるって聞いた時は『あの船木が…』いたたまれへん気持ちやった。
それが
パーソナルトレーナー!
第二の天職ですやん!
パーソナルトレーナー は ジムの指導員とは 違うからね。
正しくは 金持ちの専属指導員の事やからね。しかも 船木さんクラスで年間のべ1000回 やと かなりの高収入でしょ💴。金持ちは金持ちを紹介してくれるし、(金持ち同士の会話は だいたいゴルフかトレーニング)ましてやそれが船木さんやったら あれよおれよという間に大忙しの大繁盛でしょ!
羨ましい!
あっ、なるほど、いつものその部屋をベースに指導されてるんですね。
まさか島田紳助さんも会員さんと違います?
うたけ赤城もこか