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面白い切り口ありがとうございます♪古事記は凄い書物ですね。暗号が散りばめられています。ダイレクトには書けないことを、単語にして残してあるのですね。それも、二重三重の意味を含めて…日本人は和歌を詠むことをとても大事にして来ましたが、まさにその思考です。時間・空間を自由に重ねて、いくつもの意味を伝えるのです。Kanji さま【出雲王国とヤマト政権】の後も、歴史はずっと続いています。続きの本を読んでいただくと、出雲王国がどのように滅び、その後、日本がどんな道を進んで行ったか、よく観えて来ます。ホヒ一族の立ち位置ですが、出雲にいながら、ずっと徐福族であるという意識は持っていたと感じます。出雲風土記に書かないのは、自分が実行犯なので、触れたくないのだろうと思います。なかったことにするのは、何も言わないことが1番です。時とともにみな、忘れてゆきます。国譲り神話は突拍子もないことや、不可解な表記が多いです。それは、出雲の伝承を知れば、全部意味があってそのように書かれているのだとストンと腑に落ちます。二王がなくなっても、出雲王国はまだ400年ほど続きます。江戸時代の倍近くまだまだ続いてゆくことを思えば、この時点は折り返し地点であり、国を譲ったわけではありません。何故、このシーンが国譲りとして描かれるか…それは、この事件が起ったことにより、ヤマト王権が創設されるからです。当時は出雲王家の分家の一つであり、小さな勢力であったものが、結果的に日本という国家へと発展してゆきます。正史を書くとき、どこから書くか…で、揉めに揉めたと思います。結果的に出雲王国は記載されないことになりました。これは出雲國造家の意志も大きく働いたと思われます。実行犯として永遠に名が残ってしまいます。それに、天皇家も、その周辺にいる豪族たちも、複雑な立ち位置です。ウケヒを繰り返しほとんどの氏族が親戚関係にあり、出雲側、徐福側どちらの血統も受け継いでいるからです。後に恨みを残さない表記を選んだのだと思います。それは、その後の日本人の和の精神を育む土台にもなったと思われます。正史は過去を書いたのではなく、未来を創ったのです。出雲王国を書かないという決定の上で、古事記の作者は丁寧に丁寧に出雲神話を描き、そのエッセンスを散りばめます。出雲の伝承と古事記は凸凹で綺麗に合致します。出雲王の系図もちゃんと古事記に記され、大国主の位置もピッタリです。八代目・八千矛王だとちゃんと主張されているのです。国譲り神話は、二王の事件を残すために描かれたものと思います。書けないことを豊かな創造力で、後世に残したのです。それは各地に残る神社の祀りのありようがそれを証明していますね。凄い文学的才能であると思います。その後の出雲王家とホヒ家は出雲における陰陽☯となり、常に太極の位置にあって、それ故に新しいものを生み出すエネルギーとなってゆきます。一見、敵同士に見えるものが、イノチを生み出すのです。古来から日本人は感覚的にそれを理解していました。ですので正史があのような表記になったのだと感じています。
いつもながらの有り難いコメントありがとうございますいろいろ深掘りしてみると面白いものですね何年か前に金太理を書いた本を読んだ事があって確かパク何とかさんが書いた本でしたで、出雲風土記を最終的に編纂されて方として風土記に書かれた彼の名前を見て妙に懐かしく思い出されました確かその内容は百済を救わなかった天智天皇の事とか柿本人麻呂とかの話だった様に記憶してて風土記の事は全く飛んでましたもう一度探して読んで見ようと思います横道の話ですいません今後ともよろしくお願いします
@@kanji-kun1280 さまお返事、ありがとうございます♪出雲風土記はわたしも部分的に検索程度で、読んでおりませんので、大きなことは言えませんが、大元出版の伝承を語る側からのお話ですと、出雲王国の歴史をなるべく封印すべく書かれているように見受けられます。それは、大和朝廷のためではなく、自らを護るためであったと感じられます。ホヒ家は二王の枯死事件と実際の出雲王国滅亡時にそれを誘導するかのような振る舞いをし、2度に渡って出雲を裏切ります。國造になっても信用がなかったわけで、その反対に、旧王家は表向きは王ではなくなりましたが、出雲族の結束は固く、地下組織としてずっと機能し続けたのです。膨大な量の伝承がまるで見てきたかのように伝わっているのも、出雲散家という組織が延々と情報を届けており、それも又、歴史の一部であったと感じます。國造家にとって旧出雲王家は目の上のたんこぶであったでしょう。出雲風土記はホヒ家が王家の痕跡を消し、自らが出雲の主であるように出雲の民に染み込ませるよう書かれている一面があります。例えば、神魂神社は東王家の王宮でありました。ですが、天穂日命の降臨地とされています。野見宿禰は第18代の出雲王になるはずの、富大田彦という人ですが、田道間守を追い払った功績により、イクメ王(垂仁)から、宿禰の称号を貰います。ホヒ家のウカツヌクは、富大田彦がホヒ家の人間であると猛アピールをして、出雲國造の地位を獲得するのです。そのため、野見宿禰は天穂日命の後裔と現在でもあらゆるところに記載されています。このように、本来、出雲王家である箇所に、ホヒ一族が被されるように出雲風土記も作られた一面があるというのも事実ではないかと思います。ホヒ家が東出雲王家の使用人として大庭に住んでいたのなら、天穂日命が降臨したというのも、半分はあたっていますが。後に、徐々に権力を増し、旧王家の娘を嫁に請うようになり、ホヒ家と旧王家は血縁関係になって、名実共に裏表状態になります。両者の確執はずっと続いています。身内ほど厄介なものはないのですよ。ですが、面白いのは、王家もホヒ家を排除せず、ホヒ家も出雲の中心に居続けたことです。現在、出雲といえば出雲大社ですが、王宮を去ってからの富家の拠点であった熊野大社のほうが格上です。それを、出雲大社をここまで有名にしたのは、ホヒ一族の功績でしょう。自らを護るための行動であっても、出雲のための祈りはずっと続けて来られたと思います。常に、歴史の中枢におられた一族であると思います。
ホヒは謎の多い一族ですね。大事件の実行犯となり富家で奴と呼ばれる身分の低い下僕になりながらも、後には出雲のための仕事をして血縁を通じ影響力を持ちました。出雲の主王と副王を始末すれば和国の王になれると短絡的に考え、発覚後は秦に逃げ帰った徐福(ホアカリ)に比べれば、出雲の地に馴染み、実務的にも優秀な人物だったのであろう事は想像できます。
そう思いますね末裔は出雲の風土記の編纂も実質的責任者でしたから後々まで功績は大きいですよねどんな人物だったのか興味深いですコメントありがとうございました
先生、先生その通りです古事記は勝手に作った神話形式にしたものです。さまざまな地域の口伝は正直に出来事書いています。出雲にしても飛騨にしても茨城にしても、出雲は大和族の征服の関わってしまった地域の民族です富家とか口伝に出来事を忠実に書いています。他の国々も側面から現場を観察できたと思います出来事書いています。
見学しに来る人々いて、気持ちの悪くなる雰囲気だったらないです。遺骨が20個発見されてますし漁師の漁に使う道具庫にされている様です
実は後で分かった事ですが猪目洞窟より西の鷺の浦から岬に出た所にやはり凄い洞窟があって陸からは行け無い所、本当はそこだったのでは無いかと言われています今出雲海岸、稲佐の浜の日御碕寄りに遊覧船があってそこの船は宇龍の港の船なのでその船を出してもらって行って見ようかて思っているところです
@@kanji-kun1280 先生、熱心ですね。しかし出雲族の主に対する殺し方残酷だし残虐ですよね⁉️どうか?安全に怪我とか無く無事に様子を観察されて下さい。番組楽しみにしています。
大事件です。それを古事記に美しい話しにして大国主の願い叶えたのが出雲大社行く高い高い建設し丸く収まってますね。古事記は大小説ですね
古事記は最高の文学作品であると梅原猛さんが言われていました
@@kanji-kun1280 古事記派、研究者先生と大体は大学教授と、古史古伝、ホツマツタエ研究派と分かれますね。古事記派研究者側は天皇さんの万世一系を固守する立場に立つ人々だから、大和朝廷族が天孫降臨族の末裔であると正面がら正統性を主張致します、ホツママツタエの研究者先生は側面がら大和の事を解説出来ますし古代から、アワ詞や大祓い詞や宇宙観、太陽と地球の関係で季節読んで農耕し収穫の喜びを分かち合い争い好まない人々と段々解明されてますね。どちらにしろ大和朝廷は、これから奈良、平安と時代の中で日本と言う国が出来き渡来の影響受けていろいろ干拓とか古墳建設や宮中作りなど、鉄から刀の鍛造技術など伝わり今の私達の近現代まで今も令和を向かえて、益々古事記の正統性を唄うと思いますよ。万世一系の天皇さん、いる国な限り、武士の時代に勝者が歴史書き変える原則は、古代から大和族の征服から始まっていたのです。しかし古史古伝は伝えて書くし ホツマツタエも事実残しました。神話の領域から人間が天照の血を持つ者と出雲の血を持つ者に分かれ征服されて徐福の特殊部隊に大国主と事代主さんの命取ったけども、伝えてられます。都合の悪い物は排除し大和の都合の良い小説を作成し正史にされました
武力に増さる侵略国側が侵攻して相手国に領土割譲させたと云う話しだ現代の戦争でも主なパターン
敬わないと成らない尊が反対になっていますよね⁉️殺しに着た連中が神社で崇拝されるとは、古事記は平和に譲った事なっているから、神社建てて敬わなわらせた気がする
徐福は歴史を見る上で厄介ですね。日本書紀、古事記よりは、出雲口伝は詳細に書かれている。ウエツフミも同様ですね。いずもの国譲りは、伊勢津彦の国譲りとも言われてますね。
コメントありがとうございます確かに徐福は厄介ですけど避けても通れないのも更にやっかいですよね出雲で更に更に厄介なのが風土記ですよね今まで縁も興味も無かったですが、これも避けて通れないですが面白い事に風土記から見えてくる記紀と大和朝廷もまた更に面白いですね何にしても掘れば掘るほど面白味と不思議と疑問がドンドン湧いてくる一番厄介なのは実はそこなんでしょうね困ったもんですありがとうございましたこれからよろしくお願いします
BC218年頃、五十猛が誕生後まもなく斉国に帰国した徐福(化身・スサノオ)は、BC210年頃佐賀県伊万里に再渡来し、物部族の元祖となって倭国を動かすことになる。
大体その様な事だろうと私も思いますありがとうございます
古代出雲王国って、ツーングース系だとか、呉の流れを組む東テイ人だとかの話しがある。出雲大社は灯台で、海洋民族だったみたいな話しを聞きたい。記紀とか風土記だとかの話しは、大分新しい話し。
ご期待に添えてない様ですいません私も記紀や風土記の話はそれほどしたい訳では無いですがリアル神社ではどうしても避けて通れない所ですのでご理解くださいあと、出雲大社が灯台だったとかは全く地形から見ても有り得ないと思います海洋民族については日本に来るにはどっからにしても海からですから海の民が必要です、ので広い意味で海洋民族と言えるでしょうがその歴史と民族種は余りにも複雑で記録も無く私なんかの手に負える代物では無く全くご期待に添えそうにもありませんその様な事ですいませんですコメントありがとうございました
稲佐の浜とは書いてありません。阿波の伊奈佐の小浜を調べて下さい。国譲りの時の三人の使者や大国主、事代主、建見名方の延喜式神社が揃ってて国譲りの舞台になります。阿波の伊奈佐の小浜は古事記に記載されてる通りの漢字で稲佐の浜とは書いていません。
いつもコメントありがとうございます国譲りのお話しですが私は創作のお伽話だと思っていますので竜宮城のお話と同じですですが、その中で意図や狙いやメッセージ?又は暗号?はあろうかとおもいますそこを考察するのが想像力だろうと思うのでそれが面白いのだと思っていますのでその舞台が何処かとかの話は竜宮城が何処かの論争と同じだと思います更に言えば、古事記神話で出てくる、高天原、黄泉の国、常世の国又はイザナギの左目からアマテラス、右目からツキヨミ、鼻からスサノーこれらも全て現実ですか?現実でない所の舞台が何処か?そんな舞台があることの方がむしろ怪しいでしょう「記紀の国譲り神話の舞台とされている場所だそうです」という事で日本中どこでも何箇所あっても何の問題も無い事だと思いますよ何故なら元の話が現実ではない架空の創造のお伽話だからですもちろん阿波にだってあって良いと思いますので是非頑張ってくださいコメントありがとうございましたこれからもよろしくお願いします
面白い切り口
ありがとうございます♪
古事記は凄い書物ですね。
暗号が散りばめられています。
ダイレクトには書けないことを、
単語にして残してあるのですね。
それも、
二重三重の意味を含めて…
日本人は
和歌を詠むことを
とても大事にして来ましたが、
まさにその思考です。
時間・空間を自由に重ねて、
いくつもの意味を伝えるのです。
Kanji さま
【出雲王国とヤマト政権】の後も、
歴史はずっと続いています。
続きの本を読んでいただくと、
出雲王国がどのように滅び、
その後、日本が
どんな道を進んで行ったか、
よく観えて来ます。
ホヒ一族の立ち位置ですが、
出雲にいながら、
ずっと徐福族であるという意識は
持っていたと感じます。
出雲風土記に書かないのは、
自分が実行犯なので、
触れたくないのだろうと思います。
なかったことにするのは、
何も言わないことが1番です。
時とともに
みな、忘れてゆきます。
国譲り神話は
突拍子もないことや、
不可解な表記が多いです。
それは、
出雲の伝承を知れば、
全部意味があって
そのように書かれているのだと
ストンと腑に落ちます。
二王がなくなっても、
出雲王国はまだ400年ほど続きます。
江戸時代の倍近く
まだまだ続いてゆくことを思えば、
この時点は折り返し地点であり、
国を譲ったわけではありません。
何故、このシーンが
国譲りとして描かれるか…
それは、
この事件が起ったことにより、
ヤマト王権が創設されるからです。
当時は出雲王家の分家の一つであり、
小さな勢力であったものが、
結果的に日本という国家へと
発展してゆきます。
正史を書くとき、
どこから書くか…
で、揉めに揉めたと思います。
結果的に
出雲王国は記載されないことに
なりました。
これは
出雲國造家の意志も
大きく働いたと思われます。
実行犯として
永遠に名が残ってしまいます。
それに、天皇家も、
その周辺にいる豪族たちも、
複雑な立ち位置です。
ウケヒを繰り返し
ほとんどの氏族が親戚関係にあり、
出雲側、徐福側
どちらの血統も
受け継いでいるからです。
後に恨みを残さない表記を
選んだのだと思います。
それは、
その後の日本人の
和の精神を育む土台にも
なったと思われます。
正史は過去を書いたのではなく、
未来を創ったのです。
出雲王国を書かない
という決定の上で、
古事記の作者は
丁寧に丁寧に出雲神話を描き、
そのエッセンスを散りばめます。
出雲の伝承と
古事記は凸凹で綺麗に合致します。
出雲王の系図も
ちゃんと古事記に記され、
大国主の位置もピッタリです。
八代目・八千矛王だと
ちゃんと主張されているのです。
国譲り神話は、
二王の事件を残すために
描かれたものと思います。
書けないことを
豊かな創造力で、
後世に残したのです。
それは
各地に残る神社の
祀りのありようが
それを証明していますね。
凄い文学的才能であると思います。
その後の出雲王家とホヒ家は
出雲における陰陽☯となり、
常に太極の位置にあって、
それ故に新しいものを生み出す
エネルギーとなってゆきます。
一見、敵同士に見えるものが、
イノチを生み出すのです。
古来から日本人は
感覚的にそれを理解していました。
ですので
正史があのような表記になったのだと
感じています。
いつもながらの有り難いコメントありがとうございます
いろいろ深掘りしてみると面白いものですね
何年か前に金太理を書いた本を読んだ事があって確かパク何とかさんが書いた本でした
で、出雲風土記を最終的に編纂されて方として風土記に書かれた彼の名前を見て
妙に懐かしく思い出されました
確かその内容は百済を救わなかった天智天皇の事とか柿本人麻呂とかの話だった様に
記憶してて風土記の事は全く飛んでました
もう一度探して読んで見ようと思います
横道の話ですいません
今後ともよろしくお願いします
@@kanji-kun1280 さま
お返事、ありがとうございます♪
出雲風土記は
わたしも部分的に検索程度で、
読んでおりませんので、
大きなことは言えませんが、
大元出版の伝承を語る側からのお話ですと、
出雲王国の歴史を
なるべく封印すべく
書かれているように
見受けられます。
それは、
大和朝廷のためではなく、
自らを護るためであったと
感じられます。
ホヒ家は
二王の枯死事件と
実際の出雲王国滅亡時に
それを誘導するかのような振る舞いをし、
2度に渡って出雲を裏切ります。
國造になっても
信用がなかったわけで、
その反対に、
旧王家は表向きは
王ではなくなりましたが、
出雲族の結束は固く、
地下組織としてずっと
機能し続けたのです。
膨大な量の伝承が
まるで見てきたかのように
伝わっているのも、
出雲散家という組織が
延々と情報を届けており、
それも又、歴史の一部であったと
感じます。
國造家にとって
旧出雲王家は目の上の
たんこぶであったでしょう。
出雲風土記は
ホヒ家が王家の痕跡を消し、
自らが出雲の主であるように
出雲の民に染み込ませるよう
書かれている一面があります。
例えば、
神魂神社は
東王家の王宮でありました。
ですが、
天穂日命の降臨地とされています。
野見宿禰は
第18代の出雲王になるはずの、
富大田彦という人ですが、
田道間守を追い払った功績により、
イクメ王(垂仁)から、
宿禰の称号を貰います。
ホヒ家のウカツヌクは、
富大田彦が
ホヒ家の人間であると
猛アピールをして、
出雲國造の地位を
獲得するのです。
そのため、
野見宿禰は天穂日命の後裔と
現在でもあらゆるところに
記載されています。
このように、
本来、出雲王家である箇所に、
ホヒ一族が被されるように
出雲風土記も作られた一面が
あるというのも事実ではないかと
思います。
ホヒ家が
東出雲王家の使用人として
大庭に住んでいたのなら、
天穂日命が降臨したというのも、
半分はあたっていますが。
後に、徐々に権力を増し、
旧王家の娘を嫁に請うようになり、
ホヒ家と旧王家は
血縁関係になって、
名実共に裏表状態になります。
両者の確執は
ずっと続いています。
身内ほど厄介なものは
ないのですよ。
ですが、面白いのは、
王家もホヒ家を排除せず、
ホヒ家も出雲の中心に
居続けたことです。
現在、出雲といえば
出雲大社ですが、
王宮を去ってからの
富家の拠点であった
熊野大社のほうが格上です。
それを、
出雲大社をここまで有名にしたのは、
ホヒ一族の功績でしょう。
自らを護るための行動であっても、
出雲のための祈りは
ずっと続けて来られたと思います。
常に、歴史の中枢に
おられた一族であると思います。
ホヒは謎の多い一族ですね。大事件の実行犯となり富家で奴と呼ばれる身分の低い下僕になりながらも、
後には出雲のための仕事をして血縁を通じ影響力を持ちました。出雲の主王と副王を始末すれば和国の王に
なれると短絡的に考え、発覚後は秦に逃げ帰った徐福(ホアカリ)に比べれば、出雲の地に馴染み、実務的にも
優秀な人物だったのであろう事は想像できます。
そう思いますね
末裔は出雲の風土記の編纂も実質的責任者でしたから後々まで功績は大きいですよね
どんな人物だったのか興味深いです
コメントありがとうございました
先生、先生その通りです
古事記は勝手に作った神話形式にしたものです。さまざまな地域の口伝は正直に出来事書いています。出雲にしても飛騨にしても茨城にしても、出雲は大和族の征服の関わってしまった地域の民族です富家とか口伝に出来事を忠実に書いています。他の国々も側面から現場を観察できたと思います出来事書いています。
見学しに来る人々いて、気持ちの悪くなる雰囲気だったらないです。遺骨が20個発見されてますし漁師の漁に使う道具庫にされている様です
実は後で分かった事ですが
猪目洞窟より西の鷺の浦から岬に出た所にやはり凄い洞窟があって陸からは行け無い所、本当はそこだったのでは無いかと言われています
今出雲海岸、稲佐の浜の日御碕寄りに遊覧船があってそこの船は宇龍の港の船なのでその船を出してもらって行って見ようかて思っているところです
@@kanji-kun1280
先生、熱心ですね。しかし出雲族の主に対する殺し方残酷だし残虐ですよね⁉️どうか?安全に怪我とか無く無事に様子を観察されて下さい。
番組楽しみにしています。
大事件です。それを古事記に美しい話しにして大国主の願い叶えたのが出雲大社行く高い高い建設し丸く収まってますね。古事記は大小説ですね
古事記は最高の文学作品である
と梅原猛さんが言われていました
@@kanji-kun1280
古事記派、研究者先生と大体は大学教授と、古史古伝、ホツマツタエ研究派と分かれますね。
古事記派研究者側は天皇さんの万世一系を固守する立場に立つ人々だから、大和朝廷族が天孫降臨族の末裔であると正面がら正統性を主張致します、ホツママツタエの研究者先生は側面がら大和の事を解説出来ますし古代から、アワ詞や大祓い詞や宇宙観、太陽と地球の関係で季節読んで農耕し収穫の喜びを分かち合い争い好まない人々と段々解明されてますね。どちらにしろ大和朝廷は、これから奈良、平安と時代の中で日本と言う国が出来き渡来の影響受けていろいろ干拓とか古墳建設や宮中作りなど、鉄から刀の鍛造技術など伝わり今の私達の近現代まで今も令和を向かえて、益々古事記の正統性を唄うと思いますよ。万世一系の天皇さん、いる国な限り、武士の時代に勝者が歴史書き変える原則は、古代から大和族の征服から始まっていたのです。しかし古史古伝は伝えて書くし ホツマツタエも事実残しました。神話の領域から人間が天照の血を持つ者と出雲の血を持つ者に分かれ征服されて徐福の特殊部隊に大国主と事代主さんの命取ったけども、伝えてられます。都合の悪い物は排除し大和の都合の良い小説を作成し正史にされました
武力に増さる侵略国側が侵攻して相手国に領土割譲させたと云う話しだ
現代の戦争でも主なパターン
敬わないと成らない尊が反対になっていますよね⁉️
殺しに着た連中が神社で崇拝されるとは、古事記は平和に譲った事なっているから、神社建てて敬わなわらせた気がする
徐福は歴史を見る上で厄介ですね。日本書紀、古事記よりは、出雲口伝は詳細に書かれている。ウエツフミも同様ですね。いずもの国譲りは、伊勢津彦の国譲りとも言われてますね。
コメントありがとうございます
確かに徐福は厄介ですけど避けても通れないのも更にやっかいですよね
出雲で更に更に厄介なのが風土記ですよね
今まで縁も興味も無かったですが、これも避けて通れない
ですが面白い事に風土記から見えてくる記紀と大和朝廷もまた更に面白いですね
何にしても掘れば掘るほど面白味と不思議と疑問がドンドン湧いてくる
一番厄介なのは実はそこなんでしょうね
困ったもんです
ありがとうございました
これからよろしくお願いします
BC218年頃、五十猛が誕生後まもなく斉国に帰国した徐福(化身・スサノオ)は、BC210年頃佐賀県伊万里に再渡来し、物部族の元祖となって倭国を動かすことになる。
大体その様な事だろうと私も思います
ありがとうございます
古代出雲王国って、ツーングース系だとか、呉の流れを組む東テイ人だとかの話しがある。出雲大社は灯台で、海洋民族だったみたいな話しを聞きたい。記紀とか風土記だとかの話しは、大分新しい話し。
ご期待に添えてない様ですいません
私も記紀や風土記の話はそれほどしたい訳では無いですが
リアル神社ではどうしても避けて通れない所ですのでご理解ください
あと、出雲大社が灯台だったとかは全く地形から見ても有り得ないと思います
海洋民族については日本に来るにはどっからにしても海からですから
海の民が必要です、ので広い意味で海洋民族と言えるでしょうが
その歴史と民族種は余りにも複雑で記録も無く私なんかの手に負える代物では
無く全くご期待に添えそうにもありません
その様な事ですいませんです
コメントありがとうございました
稲佐の浜とは書いてありません。阿波の伊奈佐の小浜を調べて下さい。国譲りの時の三人の使者や大国主、事代主、建見名方の延喜式神社が揃ってて国譲りの舞台になります。阿波の伊奈佐の小浜は古事記に記載されてる通りの漢字で稲佐の浜とは書いていません。
いつもコメントありがとうございます
国譲りのお話しですが私は創作のお伽話だと思っていますので
竜宮城のお話と同じです
ですが、その中で意図や狙いやメッセージ?又は暗号?はあろうかとおもいます
そこを考察するのが想像力だろうと思うのでそれが面白いのだと思っています
のでその舞台が何処かとかの話は竜宮城が何処かの論争と同じだと思います
更に言えば、古事記神話で出てくる、高天原、黄泉の国、常世の国
又はイザナギの左目からアマテラス、右目からツキヨミ、鼻からスサノー
これらも全て現実ですか?
現実でない所の舞台が何処か?そんな舞台があることの方がむしろ怪しいでしょう
「記紀の国譲り神話の舞台とされている場所だそうです」
という事で日本中どこでも何箇所あっても何の問題も無い事だと思いますよ
何故なら元の話が現実ではない架空の創造のお伽話だからです
もちろん阿波にだってあって良いと思いますので是非頑張ってください
コメントありがとうございました
これからもよろしくお願いします