江戸東京写真帳109:葛西神社、矢切の渡し、柴又帝釈天

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  • Опубликовано: 10 сен 2024
  • 散歩写真#スライドショー 、10時過ぎに千代田線、金町駅に着く。北口に出て、#葛西神社 に向かう。途中、#金蓮院 に入る。ラカンマキがある。裏に墓地が広がる。葛西神社は、江戸川の土手に近く、高くなっている。七五三の家族連れが多く、境内で撮影している。#江戸川 は、意外に大河だと感じる。土手を歩き、常磐線、水戸街道をくぐる。金町浄水場の取水塔が二つ見える。運動場の向こうに柴又公園が見える。#矢切の渡し は、川沿いの茂みの間にあり、丁度、船が出て行く。櫓で漕いで、猪牙船のようであった。ぼんやり船が帰って来るのを待って、数人が集まって乗り込む。船頭がおしゃべりしながら、櫓で漕いで静かに川を渡る。途中からエンジンで岸辺に着けた。対岸は畑のようで何もない感じだが、また船に乗り込む。今度は船外機で、静かな水面を、上流へ遡る。川遊びを体感したようだ。土手沿いを、#寅さん記念館 、#山田洋次ミュージアム に行く。寅さんの生い立ち、映画セット、昭和の町並みのジオラマ、柴又鉄道の模型などを見る。山田洋次ミュージアムに移動する。大船撮影所のジオラマがあって、山田洋次の映画を紹介している。小津安二郎の特別企画、ビデオは、観なかった。監督のゆかりある人々、エピソードの紹介など見る。出て、京成金町線の柴又駅から#帝釈天参道 を歩いて、#柴又帝釈天 に行く。人が多い。二天門から入って、帝釈堂に参る。瑞龍の松が枝を伸ばしている。祖師堂、観音菩薩像(富士下山仏)を見る。拝殿を入って内殿外側の装飾彫刻を見て、大客殿、邃渓園、回廊を回って見る。参道の亀屋で、天丼を食べる。ちんどん屋の音がして、二天門に向かう。参道を柴又駅まで行く。京成高砂駅まで歩いて電車に乗る。
     法護山金剛宝寺 金蓮院、真言宗豊山派。新四国四箇領八十八箇所霊場第31番札所。 永正年間(1504-1521)、賢秀によって開山された。度々火災に遭ったが、寺宝の弘法大師の肖像画は難を逃れ、「火伏の大師」と言われる。
     葛西神社、創建は平安末期、元暦2年(1185)。上葛西、下葛西合わせた三十三郷(葛飾区、江戸川区、墨田区、江東区、足立区の一部)の総鎮、葛西三郎清重の信仰により、香取神宮の分霊を祀った。葛西御厨の神域にある。至徳4年(1387)の官符によると、御厨在住の領家である占部氏が、往還の人馬から関銭など徴収して神宮の用途に充てていた。金町、小鮎(小合)、猿俣(猿町)、飯塚の四郷は、古来より21年ごとに香取神宮の造営を携わっている。
     葛西神社は、祭囃子発祥の地と言われる。祭囃子、葛西囃子は、城東地域(東京東部)に伝わる郷土芸能。起源は、享保年間、葛西神社の神官、能勢環(のせたまき)が、敬神の和歌に合わせ、音律を工夫した和歌囃子とした。宝暦3年(1753)頃より、関東代官、伊奈半左衛門(伊奈半十郎)忠順が、天下泰平、五穀豊穣を祈願し、一家和合、青少年の善導を目的として奨励した。毎年各地で葛西囃子代表者の選出会が催され、神田明神の将軍家御上覧祭りに推薦し、大流行した。葛西周辺地より、神田祭で囃子の奉仕をする形式を取っていたが、技能を身に付けた神田の氏子達の手で、お囃子が行われ、以来、神田囃子、深川囃子、関東周辺に広まり、秩父、川越、石岡、また東北地方、東海地方の囃子の流儀を生んだ。葛西囃子は嘉永年間、浦賀に黒船が渡来した事と相まって衰退し、幕末から明治維新へ、変遷を遂げる社会的動乱の中で衰微した。時代の変化による世人の嗜好が、変化した。
     矢切の渡し、小説「野菊の墓」、歌謡曲「矢切の渡し」で有名、現存する江戸川の農民渡船で、矢切と葛飾区柴又を結ぶ。徳川幕府は江戸防衛のため、川に橋を架けなかった。街道の渡し舟は、厳しく管理されたが、対岸に農地を持つ農民の渡船は許された。旅人の中に街道の経由がはばかられ、農民に扮装して川を渡る者もあった。歌謡曲の冒頭「連れて逃げてよ」はこの描写かもしれない。
     猪牙舟(ちょきぶね)、猪の牙のように、舳先が細長く尖った屋根なしの小さい舟。江戸市中の河川で使われた。長さが約30尺、幅4尺6寸と細長く、船底をしぼってあるため左右に揺れやすい。櫓で漕いで、速度が速く、狭い河川でも動きやすい。明暦年間に押送船の船頭、長吉が考案した「長吉船」、形が猪の牙に似て、猪牙と書くようになったという。小早いことをチョロ、チョキともいった。
     葛飾柴又寅さん記念館、江戸川の高規格堤防の整備事業で、河川敷と法面が一体で整備され「柴又公園」が設立された。記念館は、公園の真下に作られた。別棟にはレンタサイクルセンターが設置される。映画「男はつらいよ」の世界をコーナー別に展示、松竹大船撮影所から移設した「くるまや」「朝日印刷所」のセット、実物の衣装、革カバンなど展示する。監督の山田洋次を顕彰する「山田洋次ミュージアム」が併設される。山田洋次が多くの時間を過ごした松竹大船撮影所のジオラマが置かれ、映画作品など紹介される。
     帝釈天参道は、1629年(寛永6)に開山した柴又帝釈天にある。1779年(安永8)、庚申の日に、行方不明だった本尊が発見され、帝釈天への参拝客が増える。参道の店は人々で賑わい、近隣農家の副業として茶店などが増える。映画「男はつらいよ」のブームで、観光地化、建物の増築や建て替えなどがなされ、参道街並みを保護する条例で、街並みが保たれた。参道に、草だんご、せんべい、どら焼き、最中、佃煮、川魚料理など店が並ぶ。店頭で、だんごを作ったり、せんべいを焼く。「男はつらいよ」寅さんの実家は団子屋。川に囲まれた葛飾は、川魚料理が盛んで、老舗の「川千家」、うなぎや鯉といった川魚の料理を食べられる。参道自体が「男はつらいよ」のロケ地、寅さんの実家は、草だんご屋「とらや」、「川千家」や天ぷら屋「大和家」は、スタッフやキャストの休憩場所として、「高木家老舗」など、ゆかりのスポットがたくさんある。参道から少し歩けば、「柴又葛飾寅さん記念館」、「山田洋次ミュージアム」が隣接する。「山本亭」は、和洋折衷の建築と美しい庭で、ドラマのロケ地として使われる。
     柴又帝釈天、経栄山題経寺、日蓮宗。旧本山は大本山中山法華経寺。「帝釈天」は、仏教の守護神。江戸初期の寛永6年(1629)、禅那院日忠、題経院日栄によって開創された。18世紀末、9世住職の日敬(にっきょう)の頃から、当寺の帝釈天が信仰を集め、「柴又帝釈天」となった。縁日は、庚申の日、庚申信仰と関連して参詣人を集めた。近代以降、夏目漱石の「彼岸過迄」など、文芸作品に登場し、東京近郊の名所として扱われた。人気映画「男はつらいよ」の渥美清が演じる、車寅次郎(寅さん)ゆかりの寺として知られる。年始や庚申の日(縁日)は非常に賑わう。
     「柴又帝釈天」の通称で呼ばれ、日蓮宗寺院。本尊は、祖師堂に安置する「大曼荼羅」、「南無妙法蓮華経」の題目を大書し、その周囲に諸々の仏、菩薩、天、神などの名を書したものである。「帝釈天と毘沙門天は別々の尊格であり、柴又七福神の毘沙門天は、帝釈天の脇に安置される多聞天(毘沙門天)を指すと解される。
     室町時代(15世紀)の観音菩薩坐像が伝来する。背中面腰部の銘文に、尾張国海西郡津嶋(愛知県津島市)在住の人物を願主とし、大宮司、親時が関わり造立された。「甲斐国志」に、室町時代の明応2年(1493)、富士山頂の東賽ノ河原に奉納された「十一面観音ノ鉄像」の存在が記され、本像の銘文と一致、同一の像である可能性が考えられる。明治維新後、神仏分離令による廃仏毀釈の影響で、富士山周辺の仏像も破却や山内から移転の憂き目にあった。本像も下ろされ、柴又帝釈天に移座された。
     題経寺の創建は、江戸初期の寛永6年(1629)、開山は、中山法華経寺(千葉県市川市)19世の禅那院日忠とされる。実際に寺を開いたのは、日忠の弟子、題経院日栄である。本堂右手にある釈迦堂(開山堂)に、日栄の木像が安置される。中興の祖、9世住職の亨貞院日敬(こうていいんにっきょう)で、行方不明になっていた「帝釈天の板本尊」を発見した。宗祖日蓮が自ら刻んだ、伝承の帝釈天の板本尊が、長年所在不明になっていたが、本堂の修理を行い、棟木の上から、片面に「南無妙法蓮華経」の題目と法華経薬王品の要文、片面に剣を持った帝釈天像を表したものが発見された。安永8年(1779)の庚申の日で、60日に一度の庚申の日が、縁日となった。日敬は、板本尊を背負って江戸の町を歩き、天明の大飢饉に苦しむ人々に拝ませ、効験があったため、柴又帝釈天への信仰が広まった。柴又帝釈天が著名になり、門前町が形成された。近隣にある川魚料理の老舗も、この頃(18世紀末)の創業を伝える。
     京成電鉄柴又駅前から参道が伸びて、両側に名物の草だんごや塩せんべいを売る店、老舗の川魚料理店などが軒を連ねる。参道の突き当たりに、二天門が建ち、正面に帝釈堂、右に祖師堂(旧本堂)、その右手前に釈迦堂(開山堂)、本堂裏手に大客殿が建つ。明治以降の建築である。二天門、帝釈堂は、彩色を施さない素木造、細部に精巧な装飾彫刻が施される。
     二天門、明治29年(1896)の建立。入母屋造瓦葺の楼門。屋根には唐破風と千鳥破風を付す。柱上の貫などに、浮き彫りの装飾彫刻を施す。初層左右に、四天王の増長天、広目天の二天を安置し、門の名はこれに由来する。二天像は平安時代の作、門の建立に、妙国寺(大阪府堺市)から寄贈された。
     帝釈堂、境内正面、拝殿と奥の内殿から成り、入母屋造瓦葺で、拝殿屋根には唐破風と千鳥破風を付す。内殿は大正4年(1915)、拝殿は昭和4年(1929)の完成。内殿に帝釈天の板本尊を安置し、左右に四天王の持国天と多聞天(毘沙門天)を安置する。内殿外側に、全面に浮き彫りの装飾彫刻が施される。
     帝釈堂内殿の外部は、装飾彫刻で覆われて、胴羽目板の法華経説話の浮き彫り10面がある。法華経に説かれる代表的な説話10話を選び、視覚化したもの。大正11年(1922)から昭和9年(1934)に、加藤寅之助ら10人の彫刻師が、1面ずつ分担制作した。この羽目板の上方には十二支と天人、下方には千羽鶴が表され、高欄(縁)より下の部分には花鳥および亀を浮き彫りで表す。 
     祖師堂(本堂)、帝釈堂の右に建つ。本尊は大曼荼羅である。
     釈迦堂(開山堂)、本堂の右に建つ。江戸末期に建立され、寺内最古の建築、奈良時代の釈迦如来立像と、開山日栄、中興の祖日敬の木像を安置する。
     大客殿、本堂の裏。昭和4年(1929)の完成、入母屋造瓦葺、平屋建の細長い建築である。座敷4室を左右1列に配し、庭に面し、ガラス障子を立て込んだ廊下がある。座敷の奥に「頂経の間」の「南天の床柱」は、滋賀県の伊吹山にあった樹齢約1,500年の南天の自然木を使用した。
     邃渓園(すいけいえん)、池泉式庭園、昭和40年(1965)、向島の庭師、永井楽山による。周囲に設けられた屋根付きの廊下から見ることができる。
    チンドン屋、チンドン太鼓、楽器を「チンチン、ドンドン、チンドンドン」と鳴らして人目を集め、地域の商品や店舗などの宣伝を行う。締太鼓と鉦を組み合わせたチンドン太鼓の演奏、諸芸や奇抜な衣装によって街を廻り、地域、店舗へ人を呼び込む。 また集客した上で宣伝の口上やビラまき、商品の購入を促す。 街を廻る宣伝を「街廻り」、店頭で行う宣伝を「居付き」という。「ビラまき」は、チラシ、ティッシュなどを配布し、「背負いビラ」と呼ばれる店名やサービス内容が書かれたポスターを背負い、またチンドン太鼓の前に取りつける。
    ニコンZ6 レンズ24-70mm使用する

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