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国替えの配置が完璧すぎる
東軍の家康子飼いの武将以外は加増されているが上手いこと京都や江戸から遠ざけられて僻地に飛ばされているの凄いよな
石高は悪魔で数字だけ譜代の家臣は幕府の要職について権力を持ち、既に開発整備された管理の楽な領地を与えられたので家康は絶妙なバランス感覚を持っていたと思う
なんだかんだ名家は一万石で大名復帰させてあげる家康優しいよな。あとは無駄に改易させて反対勢力が増えるくらいなら、情けをかけてあげて支配下に入れたほうがいいもんな。どうせ一万石では反乱も起こせんし。
とくに立花家と丹羽家の大名復帰は、家康には感謝してもしきれないほどの「大恩赦」でしたね。どちらも最終的には10万石まで知行が増え、うち立花家は旧領地の筑後柳川に戻っています。
【朗報】東軍の武将、人間形態から軍艦にトランスフォームが可能
こういう資料・データはあるようでない気がしました。配置の妙など、数字だけではわからない話が一杯ありますが、まずは数字で全体像を確認するというのも面白いし、手順としては正しいと思いました。適切なコメントも多いので、それを踏まえて、この続きでどのようにお作りになられるのか、楽しみにしています。それにしてもですが、これは日本の統治の特殊性なのかどうか、かなりの地理的移動=異動がありますね。家臣団も含めて移動はたいへん、農民、商人などは新しい統治者がどんな連中なのか、戦々恐々だっただろうと思います。明治維新後の難治県の苦労話のように、統治者と住民双方の悲喜交々物語も面白そうです。
加増と言いながら上手く中央や要所から遠ざけてる。その辺りの手腕を見ると家康は抜群の政治センスを持ってると思う。
秀吉が東海地方の5ヶ国から当時は未開の地・関八州へ家康を追いやったみたいに(笑)
@@user-52-mickeyしかし関東は縄文時代から平均寿命が長い土地とされるぐらい関東平野が住みやすいし、三河の家臣を家康の元から離れさせたかったがかえって心を1つにさせてしまった故に結果論だが大失敗だったと言える笑
「家康」を「秀吉」に変えても成り立つ文章で草
あとは毛利を東北あたりに飛ばしておけば。まあ260年安泰だったから成功か。
祖父・元就が築き上げた、中国地方大半という版図、輝元には荷が重かったようにも思える。それでも両川の叔父が健在の頃はなんとか保っていたが、元春が死に、何よりも知恵者の小林隆景が関ヶ原の数年前に亡くなったのが痛い。もう何年か長生きしていれば、毛利家の命運、違うものになっていたかもしれない。
小林→小早川の間違いです。
小早川隆景が死んだからこそ家康は本格的に動き出したとされとるよね。前田利家よりも小早川隆景の方が恐ろしかったらしいし
元就も後継者の輝元が決して有能ではない事はわかっていたらしいですよね。「毛利は天下国家に関わってはならん」的な遺言を残しているそうですし。両川の叔父達が生きていれば西軍総大将に担ぎ出される事はなかったかも知れませんね。
@@ヒストレイン川埋め立てられてて笑った
小早川隆景が生きていれば西軍の総大将に輝元がなることはなかった。毛利も120万石を維持できただろうに・・・惜しい😅輝元>叔父上、西軍の総大将になりたいです。 隆景>グーパンチ 輝元>グフゥ〜(痛泣) 戦いが起こることなく毛利家は安泰でしたとさ・・・
大幅加増が将来の改易のフリにしか見えない怖さ
福島とか加藤とか・・・
最上とか...
同じ10万石といっても、畿内、関東、九州・奥羽とではそれぞれ政治的意味が大きく異なると思う。
そうなんですよね。8代将軍吉宗の代に、姫路藩15万石の榊原政岑が吉原の花魁を身受けしたことで吉宗の逆鱗に触れ、越後高田藩15万石に国替えとなります。姫路と高田で同じ15万石の表高ながらも、姫路は瀬戸内海面した温暖な気候、一方の越後高田は越後国内でも特に積雪の多い地域なので実高は姫路より相当少なかったらしいです。
関ヶ原はあくまで豊臣家臣同士の揉め事みたいに聞くけど、この時点で徳川が豊臣の石高を決められるんだな。豊臣と徳川の力関係が逆転したのって、どのタイミングなんだろ?
前田が死んだあお
こうして見ると、結城秀康は関ケ原に行かずに江戸の留守を守っただけで下総結城10万石→越前北ノ庄67万石まで加増されたのが異質ですね。やはり「秀忠の兄」ということで特別扱いされたのでしょうかね。
そしてなにより外様扱いなんですよね結城秀康に関してもあんまり信用していないことの表れとも見える
家康の次男でーす。
一応対上杉南下防衛軍の総大将なんですけどね
秀吉の養子になったという経歴はデメリットなんだろうね。でも、秀康が危篤の時は高僧を呼んで祈祷させるとかもしてたし息子として愛してなかったわけじゃないと思う。
結城は養子とはいえ室町の名族にして、加賀の前田の壁、梅毒での早死もあるので結構な評価です。京にも近く敦賀もあり越前は当時は要地中の要地です。
関ケ原は家康の完全勝利、わずか半日で決着。しかも徳川本隊は無傷のまま。反抗する大名は家康の命令ひとつで、お家断絶、この安定が265年間も戦の無い日本国の平和となった。
大幅に加増されたあとことごとく回収される未来が…あとは表高はあくまで目安の数字であって立地がとにかく大切。
何度も見てしまう程気に入っています。分かりやすいです。この動画のbgmの名前を教えて下さい。
弔い合戦って曲です
@@keine-d9t ありがとうございます。
組織のリーダーにとって人事のセンスが如何に大事かよくわかる
毛利とかはこういう大減封でむしろ近世大名にランクアップして生き残れたからその辺は良し悪しよね。最上とか加藤は加増されたがゆえに統率取れんくなって取りつぶしになっちゃったし、黒田とかもお家騒動で危なかったし…
長政は頑張ったそのあとがね黒田家は…
博多は長いこと東アジアにおける日本の貿易の中心なのにそこを抑えてる家が勢力拡大しないのは何故だ?毛利はどちらかといえば石見銀山が言われるし
@@八坂良太郎 石見銀山はもう全部掘られてるから
@@八坂良太郎 日明交易のノウハウが大寧寺の変で全部灰に… 大内義長が復活させようとしたけどダメだった(偽使として追い返される)から密貿易でひっそりと交易するしかなくなった後は筑前の国人らは独立志向も強く(秋月、筑紫、原田、高橋、麻生、宗像等)しょっちゅう裏切るから統治も大変秋月種実は立花道雪の弟葬るくらい強いし、筑紫広門は島津義久が泣いて悔しがらせた話もある九州版真田昌幸
@@nachi_nachi 黒田は、途中で血筋が途絶えていますからね。幕末なんか、島津家の男系に変わってしまっています。
ちな、防長2カ国は吉川広家に恩賞として与えられるはずだった(毛利本家は改易)のを、広家が家康に泣きついて毛利本家の領国にしてもらった、らしい。
吉川広家の出陣ブロックがすごいな。大戦功だ。これは徳川家康も広家の意向を聞かざるを得ない。
関ヶ原の戦いで東軍について大幅に加増されたのに後に取り潰しにあった外様大名が多い。肥後加藤、会津加藤、福島、最上、蒲生、堀、田中、堀尾、中村など。お家騒動や後継者不在が主な理由ですが、幕府にとっては外様大名は邪魔なだけだから取り潰す理由が見つかったらこれ幸いと感じていたのではないか。
ほとんど言い掛かりぽっいけどね。
会津加藤と堀は、傍流が幕末まで大名として残っていますね。最上は大名の座から転落して「交代寄合」として残りました。
逆に譜代は加増が抑えられる代わりに後代がお家騒動を起こしても転封・減封で済む例があった特に鳥居家
外様は取り潰す理由は、基本的にただの不祥事だぞ。幕府の意向なんてものはない。
負けたからしょーがないとは言えマイナス80万石はキツかっただろうなぁ
蟹の家紋かわいいな🦀
寺沢広高ですね。おそらくあらゆる家紋の中では一番の「かわいさ」でしょう。
取り潰された大名も多い中、毛利は良く残ったと思います。
吉川広家が家康に擦り寄ったおかげ…逆を言えば毛利家が本気出したらワンチャン勝てたのに
@@ruger2961 その吉川家ですが、江戸時代は本家・毛利家から冷遇されたようです。長州藩内で3万石→6万石の知行をもらい、江戸に毛利家とは別の屋敷を持ち、参勤交代の義務を負う、いわば大名に準ずる扱いを幕府から受けながら、毛利家より立藩の推挙が出なかったために正式な「大名」になれませんでした。
@@toyo-rex4899 毛利家はほんとにダメ。吉川家ががんばったのにな。幕府的には本当は吉川家が大名でよかったのに、それを蹴って毛利家再興を願い出たんだよ。
@@WearstFaker そうなんですよね。関ケ原後の仕置きで、毛利輝元は改易・吉川広家は周防長門2か国の所領を賜る予定になっていたのが、広家が毛利本家に遠慮して自分がもらうはずだった所領を毛利本家・秀就に「譲渡」しちゃったんです。一応、吉川家は長州藩の一門家臣の中では最大の知行をもらっていますが、関ケ原での顛末があってか、幕末まで本家から立藩の推挙を得られないままでした。
@@toyo-rex4899 まあ吉川広家の関ヶ原の判断次第で西軍がどう考えても絶対勝ってたからね。主家を差し置いて自分が防長二カ国を受け取る訳にはいかないし。実際萩(山口)の毛利と岩国の吉川の事情は現代にも続いてて、岩国はめちゃくちゃ広島寄りの地域で山口県らしさは無いですよね。萩と会津若松程じゃ無いですけど色々問題抱えてますね。
毛利はそれでも明治には公爵で割と裕福な華族として挙げられてたみたいですね。
そりゃ一応幕府倒したしね
@@道連れ冬将軍 毛利は平安藤原→鎌倉大江→戦国毛利→長州→明治中枢→戦後名家閥と、有史以来唯一無比の勝ち組血統 最強氏族だろ
譜代には役職を、外様には土地を(ただし鉢植え)って、よう考えられたシステムだなって思う。幕末はアレだけど
もし、真剣に領国開発していたら、周防長門2か国で済まなかっただろうな。実質新田開発と貿易等で100万石になってたらしいし、幕末だがな。
ただ事業の失敗で膨大な借金で、重税を課して民衆が一揆をおこしたり士族の内乱の危機だった。幕末には、そのはけ口として幕府の責任にした。
移封の際に家臣達が浪人や農民になってでも移封地について来てくれたのが大きいだろうな。
立花は秀忠時代に柳川旧領復帰
石高が増えれば増えるほど目を付けられ、負担も色々と押し付けられるから、格が高くなり過ぎると大変なことも多かった。上杉家など大幅に石高を削られてからも気位の高さだけ残ってしまって財政破綻していたし。上杉家は逃れたけれど、領国経営に失敗したと見做されればとり潰しが待っているしね。ハンパに小大名になるくらいなら、1万石いかないギリギリでゆとりある旗本やってる方が気楽だっただろう。
吉川広家はブロックしたのに改易されて何がしたかったんや
鍋島はしぶとい。西軍について本領安堵なんて?!
鍋島直茂の外交と知略を舐めちゃいけません。😅
勝ち組には大盤振る舞いやなー
正直毛利と上杉辺りが本気出せば本戦負けた後こんな簡単には統一されなかったと思うんだよな
上杉は直江兼続が指揮して戦えるかもしれないですが毛利は内通者吉川広家、裏切り者小早川秀秋と内輪揉めしたから毛利は無理かも。島津や宇喜多ならあり得たかもしれないですね。
@@まちかぶ日記 宇喜多はお家騒動で戸川・岡・花房といった直家以来の家老達が一斉出奔で完全崩壊、島津も内乱(庄内の乱)の爪痕でとても戦える状態じゃないのと義弘の子の忠恒と兄義久は反豊臣派だった(唐入りの反発で一揆→歳久を責任者として殺す羽目になったり後継者だった久保が現地で死んだり豊臣への遺恨は多数)上杉も関係改善派(藤田信吉等)と交戦派(直江)で揉めてたし最上が復讐に燃えてる状態。毛利は伊勢・近江・四国・九州に進出してる点では本気だけど秀元の別家創設で吉川と本家が揉めて家康が三成の吉川の転封命令の中止、秀元には遺父・元清の領地を輝元から引き出してもらった引け目もあったから全員本気出しようがない
@@フォード-i1w 〉最大の関ヶ原で内部崩壊した毛利よりは島津や宇喜多なら多少ある程度。どこの家もゴタゴタはあるが毛利は酷すぎる。最上は上杉に押され気味で伊達の援軍がなければ壊滅する一歩前だったから無理。
@@おさるの紋吉 さすがに上杉が秀忠と戦うのは兵力差的に厳しくない?笑まぁ伊達とかも悩んでたらしいし結局は流れの問題かな
外交力をもって自分以外の五大老を無力化し、毛利・上杉はもちろん島津にもまともに本戦参加させなかったことによって勝ちは確定してましたね。なおかつ、黒田官兵衛や伊達政宗が地方で暴れ回るリスクを抑えるために、関ヶ原を1日で終わらせる軍事力と小早川を寝返らせる交渉力。何回やっても誰も家康さんに勝てなかったと思います。むしろ石田さん島さん宇喜多さん大谷さんの精神力だけで、西軍は本当によく頑張った。騎馬武者の一騎討ちで勝敗を決する戦法で幕を開けた戦国時代は、やがて鉄砲を使った集団戦法に代わり、最後は、戦争行く前に準備したものが勝つということを家康さんが教えてくれて大円団を迎えた。
大体福島と加藤のせいで織田→豊臣系の大名は潰されガチなイメージだけど池田黒田細川前田浅野山内藤堂蜂須賀あたりはずっと大大名
前田家バケモンすぎる
「外様」は、経済的には豊かだけど僻地に飛ばされ幕政に参画できない「譜代」は、経済的には豊かではないが要地を与えられ幕政に参加する「親藩」は、そこそこ豊かでそこそこの領地で権力はないが権威(官位)を与えられる本当に見事な配置
大坂の陣 後 石高も 知りたいです^^
0:23 10石の加増って・・・
すみません、単純に10万石のミスです・・説明文に記載しておきます。ご指摘ありがとうございます。
毛利輝元が有能な武将で吉川、小早川をまとめる器が有れば勝てた。
10国の分部はコメント訂正されてるけど、10万石でも誤り10万石「の」加増なら4万+10万で14万石だろ10万石「に」加増でしょ
秀頼が減封させられた理由は何なんですか
すみません、正確には秀頼は「減封」という表現はおかしいですね。蔵入地を家康に分配されてしまった結果、大幅に減ったという感じですね。元々この動画に秀頼を含めるか迷っていたのですが、各大名を加増安堵改易減封で分類してしまってて秀頼の表現を変えることに失念しておりました。ご指摘ありがとうございます、後で説明文に追記しておきます。
豊臣政権という公儀から徳川政権という公儀への移行過程なので、羽柴家、徳川家としての石高を示すのは難しいところがありますね。徳川譜代の家臣も豊臣政権下では陪臣に過ぎなかったものが、徳川体制では他の外様と並ぶ「大名」として存在することになるわけですし。
小林隆景→小早川隆景です。
立花宗茂は旧領に復帰してますよ。
20年後に…
相変わらず家康のケチぶりがわかるよね(笑)譜代の家臣達にはほとんど加増させてない一方で、味方した豊臣恩顧の大名にはしっかり出してると見せて、西国に移して周りの安全を確保してるし、ホントしたたかな狸親父だわ(笑)
そうだよ鳥居元忠の息子に十万石までしか増加しかしてないし…元忠はあんなに頑張ったのに…
ただ実際に関ヶ原の戦いで活躍したのは外様が大半だから譜代よりは大盤振る舞いするのは当然(配置は言わずもがな)。まして秀吉も家臣(清正や三成など)の石高なんて多くて30万石もいかない。
関ヶ原の主力は外様大名だったんだから当たり前だろ
関ヶ原の合戦当時は家康譜代の家臣なだけで正式な豊臣家に従属する大名ではなかったからだよ
@@くーわく それはそうだけど、これは学生時代…大昔、史学部時代に教授にも聞いた気になる事なんだが…それなら、自身は250から400まで上げてるんだから、外様メインとか関係なく上げれるはずなのでは?と…それをろくに上げてないのはケチだから以外に無いですよね?と…その時の返答はその通りだよと(笑)
三河時代からの譜代大名に吝いのは今で言うやり甲斐搾取ですな収入ブラックでも忠誠心が揺るがない
その代わりに、幕府の要職に就任しますから文句は言えませんね。
一門だけ激甘なのが狸って感じ。
こうして観ると面白いですね、一つ気になったのは徳川家康の子供や家臣の領地は徳川家康250万石の中に含まれてるはず、子供や家臣の石高を別に紹介するなら徳川家康の石高をその分減らして紹介しないと勘違いする人がいそうですね。
長宗我部盛親って9万8千石だったような……
西軍でありながら没収されてない島津の外交がすごすぎる
最終的には軍事力を背景にした外交でしょうね。島津はほぼ無傷で戦力残していますし、気合いが違いますからね。しかも交渉中に鹿児島の近くを通る外国の貿易船を襲って、通さない様にして徳川に逆にプレッシャーを与えていたらしいですしね。本気で一戦交えるには、徳川としては世の中もまだまだ不安定な状況だし、鹿児島は遠いし、しかも強いしで………正直やりたくなかったんでしょうね。島津の厄介さは別格です。幕末の活躍も必然です。
鳥居元忠の件も影響してるからじゃない?本来なら東軍に付くのにアイツの独断で小早川と一緒に西軍に付いたんだから
何より領土が九州の端だったのが良かったんだろうね、京や大阪、江戸に近い所なら高確率で減封になってたと思うよ
義久兄貴戦国最後の大仕事
外交力というか、個人的に徳川家康と仲が良かったのと、徳川軍に実質的な損害を与えていないからそのままになっただけ。いわゆる「島津の退き口」は創作。
ちゃっかりまだ子どもの秀頼から切り取って1/3以下にするのしたたかやなどうやって淀殿を黙らせたんだろう
譜代の本田忠勝10万は少ないよな。警戒されてたんかな。
2つ程理由が考えられます。1つは権力,権限とお金(経済)等を分散する方針であった事。(一極に力が集中するのを嫌った為)2つはやはり昌幸,信繁親子の助命嘆願の影響です。特に1ですかね。他の方も言っていますが、外様大名は加増されても領土整備の為に更なる出費がある土地に転封されています。更に後々潰された外様大名の多い事
@@ベルウッド秀 でも本田忠勝なんて、秀吉における、「島津に負けなかった」仙石秀久ポジションですよね。切り込み隊長かつ猛将中の猛将。一個人的には20〜30万石以上でもおかしくないと思います。
次男・忠朝が大多喜領の半分5万石で立藩したから 一応 五万石加増されたようなもんだけど それでも少ないね
本多❤
関ヶ原の戦いの時に、家康と同い年位で大軍の指揮をとれる人物または名主になれる人物は居なくなってるよな、真田昌幸、黒田孝高、小早川隆景。羽柴秀長が存命なら徳川家康は出る幕なかたかもな
総大将が仮の毛利輝元、石田三成では士気が上がらんのでしょう。豊臣秀頼が西軍に担げば逆の結果もあったかもしれない。前田利家の死も押しいまれる。
刑死・・。無念
島津だけ減封なしてすごすぎ。これで生き残った薩摩が倒幕の要になるのが歴史のおもしろいところ。徳川は薩摩の力を完全にそぎ落とすべきだった。
水を差す様で申し訳ないけど島津が減封なしは島津が凄かったからではなく徳川にとって減封する程の価値がなかったからだと思うそもそも最初は東軍につこうとしたけど断られ成り行きで西軍につくけど西軍と意見衝突して関ヶ原は終盤を除いて静観最後は捨て肝戦法で華麗に逃げた潰そうと思えば潰せたし事実として黒田軍と立花軍と鍋島軍が島津に進攻しようとしていたけど止めたのは家康だった結局、潰す程何かした訳ではないし潰した所で京からも江戸からも遠い薩摩が欲しい大名もいない従属の意思は見せているので下手に刺激して面倒事になるより減封なしで済ませたのだと思う島津を潰しておかなかったから倒幕されたも200年も持てば幕府の圧勝だな幕府としては200年も島津を抑え込めた事になるのだから
確かにそうかもしれないでなかっとら今徳川家は、ないかも
島津義久の影響があったのでしょうかねぇ〜😮
宇喜多秀家て、戦国スイマーだっけ?
九州は島津対策なのか大幅加増されてる人多いね。
結果失敗
石高増も国替えは負担大きかった気が…でもなんで毛利、島津、上杉など西軍を全員改易しなかったのか…西軍の一部を残したが故に約260年後に毛利や島津にリベンジを果たされてるし。(下手してたら源氏を残した平家と同じ事になってた可能性もあった)
あれ?島津って77万石じゃなかった?
関ヶ原後に琉球攻略して77万石
@@はやて隊員-1351やっぱり関ヶ原の時とは、状況違ったか倒幕できたのか
信長や家康や秀吉は9999999兆石くらいあったのかな?超大富豪ってイメージがあります😮
津軽為信なくね
京極高次が出てない
流石に婚姻した輝政の代だけとはいえ畿内に近い位置(ていうか現代じゃ関西の枠組み)の位置に一国52万石で姫路城も持ってる池田家の優遇っぷりよ更に後に岡山鳥取を一族が治めて全盛期は計90万石という
輝政が姫路城主時代は、池田一族で合計100万石近い所領をもらい、「西国将軍」と呼ばれていました。
嫡子の池田利隆(母は輝政の前妻だが)に榊原康政の娘を秀忠の養女の上で嫁がせ、その間に生まれた池田光政にも本多忠刻と千姫の娘を秀忠の養女の上で嫁がせる池田家を徳川の下に取り込みたい意図が現れている
軍艦シュポシュポで草軍監じゃないのか
半日戦っただけで給料倍とか美味いよな
縁もゆかりも無い土地に飛ばされるけどなw
毛利輝元も島津と同じく穏便に済ませとけば今も徳川の世だったかもね
多分ロシアの植民地になってそうだけどな
なんで薩摩は減ってないんやろ
同じ九州の大名の黒田如水、加藤清正、立花宗茂が家康に島津家を改易しないようにはたらきかけてたからやで
関ケ原の時点ではまだ家康は「豊臣家の一武将」だったから。そもそも協力していた東軍のほとんどが豊臣家の重臣だったのも大きくて、わざわざ大動員して九州の端まで行くのは無理だった。それだったらそのままにしておいて、政治的に絞った方が早いからその方針転換があったはず。実際に、薩摩藩は江戸初期はやばいくらい財政難だったし。
石数そんなになかったのでは?関ヶ原後、琉球王国で石数増えたし
何で南部とか伊達出てるのに俺らの津軽出してないの??
4万石しかないから。
@@まつたけまつたけ-c8x 45000→47000に2000石の加増ですね。長男が西軍側だったり、三成の子供を匿ったり危ない橋を渡りましたが加増でよかったですね。
@@まつたけまつたけ-c8xそれでも出しなさい
鳥居元忠の功績で10石増加って、真実なら家康外道やん(笑)まーケチの王様やから有り得るけど(笑)
鳥居元忠の功績って、幕末まで影響するんですよね。後に鳥居家が当主の素行不良やお家騒動・後継者がいないなどで改易の危機に直面した際に「元忠の功績」としてお家存続が認められ、最終的には下野壬生3万石の大名として明治維新を迎えます。伏見城の戦いで血に塗られた城内の畳なんか、江戸城の櫓に飾られて登城した諸大名に見せていたそうです。「徳川家に、これだけ忠義心のある家臣がいたんですよ!」と自慢していたのが想像できます。
今の加藤は、ヤクルトスワローズ村上みたいだな
一堆背骨仔
250年後毛利と島津が反撃に出ますよ😮改易か東北にでも移転させておけばどうなっていただろうか❓😂
音声でも 説明してくれた方が 親切で御座るのぉ
島津が現状維持は草そりゃ倒幕されるわ
国替えの配置が完璧すぎる
東軍の家康子飼いの武将以外は加増されているが上手いこと京都や江戸から遠ざけられて僻地に飛ばされているの凄いよな
石高は悪魔で数字だけ
譜代の家臣は幕府の要職について権力を持ち、既に開発整備された管理の楽な領地を与えられたので家康は絶妙なバランス感覚を持っていたと思う
なんだかんだ名家は一万石で大名復帰させてあげる家康優しいよな。あとは無駄に改易させて反対勢力が増えるくらいなら、情けをかけてあげて支配下に入れたほうがいいもんな。どうせ一万石では反乱も起こせんし。
とくに立花家と丹羽家の大名復帰は、家康には感謝してもしきれないほどの「大恩赦」でしたね。
どちらも最終的には10万石まで知行が増え、うち立花家は旧領地の筑後柳川に戻っています。
【朗報】東軍の武将、人間形態から軍艦にトランスフォームが可能
こういう資料・データはあるようでない気がしました。配置の妙など、数字だけではわからない話が一杯ありますが、まずは数字で全体像を確認するというのも面白いし、手順としては正しいと思いました。適切なコメントも多いので、それを踏まえて、この続きでどのようにお作りになられるのか、楽しみにしています。それにしてもですが、これは日本の統治の特殊性なのかどうか、かなりの地理的移動=異動がありますね。家臣団も含めて移動はたいへん、農民、商人などは新しい統治者がどんな連中なのか、戦々恐々だっただろうと思います。明治維新後の難治県の苦労話のように、統治者と住民双方の悲喜交々物語も面白そうです。
加増と言いながら上手く中央や要所から遠ざけてる。その辺りの手腕を見ると家康は抜群の政治センスを持ってると思う。
秀吉が東海地方の5ヶ国から当時は未開の地・関八州へ家康を追いやったみたいに(笑)
@@user-52-mickeyしかし関東は縄文時代から平均寿命が長い土地とされるぐらい関東平野が住みやすいし、三河の家臣を家康の元から離れさせたかったがかえって心を1つにさせてしまった故に結果論だが大失敗だったと言える笑
「家康」を「秀吉」に変えても成り立つ文章で草
あとは毛利を東北あたりに飛ばしておけば。
まあ260年安泰だったから成功か。
祖父・元就が築き上げた、中国地方大半という版図、輝元には荷が重かったようにも思える。それでも両川の叔父が健在の頃はなんとか保っていたが、元春が死に、何よりも知恵者の小林隆景が関ヶ原の数年前に亡くなったのが痛い。もう何年か長生きしていれば、毛利家の命運、違うものになっていたかもしれない。
小林→小早川の間違いです。
小早川隆景が死んだからこそ家康は本格的に動き出したとされとるよね。
前田利家よりも小早川隆景の方が恐ろしかったらしいし
元就も後継者の輝元が決して有能ではない事はわかっていたらしいですよね。
「毛利は天下国家に関わってはならん」的な遺言を残しているそうですし。
両川の叔父達が生きていれば西軍総大将に担ぎ出される事はなかったかも知れませんね。
@@ヒストレイン川埋め立てられてて笑った
小早川隆景が生きていれば西軍の総大将に輝元がなることはなかった。
毛利も120万石を維持できただろうに・・・惜しい😅
輝元>叔父上、西軍の総大将になりたいです。 隆景>グーパンチ
輝元>グフゥ〜(痛泣) 戦いが起こることなく毛利家は安泰でしたとさ・・・
大幅加増が将来の改易のフリにしか見えない怖さ
福島とか加藤とか・・・
最上とか...
同じ10万石といっても、畿内、関東、九州・奥羽とではそれぞれ政治的意味が大きく異なると思う。
そうなんですよね。
8代将軍吉宗の代に、姫路藩15万石の榊原政岑が吉原の花魁を身受けしたことで吉宗の逆鱗に触れ、越後高田藩15万石に国替えとなります。
姫路と高田で同じ15万石の表高ながらも、姫路は瀬戸内海面した温暖な気候、一方の越後高田は越後国内でも特に積雪の多い地域なので実高は姫路より相当少なかったらしいです。
関ヶ原はあくまで豊臣家臣同士の揉め事みたいに聞くけど、この時点で徳川が豊臣の石高を決められるんだな。
豊臣と徳川の力関係が逆転したのって、どのタイミングなんだろ?
前田が死んだあお
こうして見ると、結城秀康は関ケ原に行かずに江戸の留守を守っただけで下総結城10万石→越前北ノ庄67万石まで加増されたのが異質ですね。
やはり「秀忠の兄」ということで特別扱いされたのでしょうかね。
そしてなにより外様扱いなんですよね結城秀康に関してもあんまり信用していないことの表れとも見える
家康の次男でーす。
一応対上杉南下防衛軍の総大将なんですけどね
秀吉の養子になったという経歴はデメリットなんだろうね。
でも、秀康が危篤の時は高僧を呼んで祈祷させるとかもしてたし息子として愛してなかったわけじゃないと思う。
結城は養子とはいえ室町の名族にして、加賀の前田の壁、梅毒での早死もあるので結構な評価です。京にも近く敦賀もあり越前は当時は要地中の要地です。
関ケ原は家康の完全勝利、わずか半日で決着。しかも徳川本隊は無傷のまま。反抗する大名は家康の命令ひとつで、お家断絶、この安定が265年間も戦の無い日本国の平和となった。
大幅に加増されたあとことごとく回収される未来が…
あとは表高はあくまで目安の数字であって立地がとにかく大切。
何度も見てしまう程気に入っています。分かりやすいです。この動画のbgmの名前を教えて下さい。
弔い合戦って曲です
@@keine-d9t
ありがとうございます。
組織のリーダーにとって人事のセンスが如何に大事かよくわかる
毛利とかはこういう大減封でむしろ近世大名にランクアップして生き残れたからその辺は良し悪しよね。
最上とか加藤は加増されたがゆえに統率取れんくなって取りつぶしになっちゃったし、黒田とかもお家騒動で危なかったし…
長政は頑張ったそのあとがね黒田家は…
博多は長いこと東アジアにおける日本の貿易の中心なのにそこを抑えてる家が勢力拡大しないのは何故だ?毛利はどちらかといえば石見銀山が言われるし
@@八坂良太郎 石見銀山はもう全部掘られてるから
@@八坂良太郎 日明交易のノウハウが大寧寺の変で全部灰に… 大内義長が復活させようとしたけどダメだった(偽使として追い返される)から密貿易でひっそりと交易するしかなくなった
後は筑前の国人らは独立志向も強く(秋月、筑紫、原田、高橋、麻生、宗像等)しょっちゅう裏切るから統治も大変
秋月種実は立花道雪の弟葬るくらい強いし、筑紫広門は島津義久が泣いて悔しがらせた話もある九州版真田昌幸
@@nachi_nachi 黒田は、途中で血筋が途絶えていますからね。
幕末なんか、島津家の男系に変わってしまっています。
ちな、防長2カ国は吉川広家に恩賞として与えられるはずだった(毛利本家は改易)のを、広家が家康に泣きついて毛利本家の領国にしてもらった、らしい。
吉川広家の出陣ブロックがすごいな。大戦功だ。
これは徳川家康も広家の意向を聞かざるを得ない。
関ヶ原の戦いで東軍について大幅に加増されたのに後に取り潰しにあった外様大名が多い。
肥後加藤、会津加藤、福島、最上、蒲生、堀、田中、堀尾、中村など。
お家騒動や後継者不在が主な理由ですが、幕府にとっては外様大名は邪魔なだけだから取り潰す理由が見つかったらこれ幸いと感じていたのではないか。
ほとんど言い掛かりぽっいけどね。
会津加藤と堀は、傍流が幕末まで大名として残っていますね。
最上は大名の座から転落して「交代寄合」として残りました。
逆に譜代は加増が抑えられる代わりに後代がお家騒動を起こしても転封・減封で済む例があった
特に鳥居家
外様は取り潰す理由は、基本的にただの不祥事だぞ。幕府の意向なんてものはない。
負けたからしょーがないとは言えマイナス80万石はキツかっただろうなぁ
蟹の家紋かわいいな🦀
寺沢広高ですね。おそらくあらゆる家紋の中では一番の「かわいさ」でしょう。
取り潰された大名も多い中、毛利は良く残ったと思います。
吉川広家が家康に擦り寄ったおかげ…逆を言えば毛利家が本気出したらワンチャン勝てたのに
@@ruger2961 その吉川家ですが、江戸時代は本家・毛利家から冷遇されたようです。
長州藩内で3万石→6万石の知行をもらい、江戸に毛利家とは別の屋敷を持ち、参勤交代の義務を負う、いわば大名に準ずる扱いを幕府から受けながら、毛利家より立藩の推挙が出なかったために正式な「大名」になれませんでした。
@@toyo-rex4899 毛利家はほんとにダメ。吉川家ががんばったのにな。
幕府的には本当は吉川家が大名でよかったのに、それを蹴って毛利家再興を願い出たんだよ。
@@WearstFaker そうなんですよね。
関ケ原後の仕置きで、毛利輝元は改易・吉川広家は周防長門2か国の所領を賜る予定になっていたのが、広家が毛利本家に遠慮して自分がもらうはずだった所領を毛利本家・秀就に「譲渡」しちゃったんです。
一応、吉川家は長州藩の一門家臣の中では最大の知行をもらっていますが、関ケ原での顛末があってか、幕末まで本家から立藩の推挙を得られないままでした。
@@toyo-rex4899
まあ吉川広家の関ヶ原の判断次第で西軍がどう考えても絶対勝ってたからね。
主家を差し置いて自分が防長二カ国を受け取る訳にはいかないし。
実際萩(山口)の毛利と岩国の吉川の事情は現代にも続いてて、岩国はめちゃくちゃ広島寄りの地域で山口県らしさは無いですよね。
萩と会津若松程じゃ無いですけど色々問題抱えてますね。
毛利はそれでも明治には公爵で割と裕福な華族として挙げられてたみたいですね。
そりゃ一応幕府倒したしね
@@道連れ冬将軍 毛利は平安藤原→鎌倉大江→戦国毛利→長州→明治中枢→戦後名家閥と、有史以来唯一無比の勝ち組血統 最強氏族だろ
譜代には役職を、外様には土地を(ただし鉢植え)って、よう考えられたシステムだなって思う。幕末はアレだけど
もし、真剣に領国開発していたら、周防長門2か国で済まなかっただろうな。
実質新田開発と貿易等で100万石になってたらしいし、幕末だがな。
ただ事業の失敗で膨大な借金で、重税を課して民衆が一揆をおこしたり士族の内乱の危機だった。
幕末には、そのはけ口として幕府の責任にした。
移封の際に家臣達が浪人や農民になってでも移封地について来てくれたのが大きいだろうな。
立花は秀忠時代に柳川旧領復帰
石高が増えれば増えるほど目を付けられ、負担も色々と押し付けられるから、格が高くなり過ぎると大変なことも多かった。
上杉家など大幅に石高を削られてからも気位の高さだけ残ってしまって財政破綻していたし。上杉家は逃れたけれど、領国経営に失敗したと見做されればとり潰しが待っているしね。
ハンパに小大名になるくらいなら、1万石いかないギリギリでゆとりある旗本やってる方が気楽だっただろう。
吉川広家はブロックしたのに改易されて何がしたかったんや
鍋島はしぶとい。西軍について本領安堵なんて?!
鍋島直茂の外交と知略を舐めちゃいけません。😅
勝ち組には大盤振る舞いやなー
正直毛利と上杉辺りが本気出せば本戦負けた後こんな簡単には統一されなかったと思うんだよな
上杉は直江兼続が指揮して戦えるかもしれないですが毛利は内通者吉川広家、裏切り者小早川秀秋と内輪揉めしたから毛利は無理かも。島津や宇喜多ならあり得たかもしれないですね。
@@まちかぶ日記 宇喜多はお家騒動で戸川・岡・花房といった直家以来の家老達が一斉出奔で完全崩壊、島津も内乱(庄内の乱)の爪痕でとても戦える状態じゃないのと義弘の子の忠恒と兄義久は反豊臣派だった(唐入りの反発で一揆→歳久を責任者として殺す羽目になったり後継者だった久保が現地で死んだり豊臣への遺恨は多数)
上杉も関係改善派(藤田信吉等)と交戦派(直江)で揉めてたし最上が復讐に燃えてる状態。毛利は伊勢・近江・四国・九州に進出してる点では本気だけど秀元の別家創設で吉川と本家が揉めて家康が三成の吉川の転封命令の中止、秀元には遺父・元清の領地を輝元から引き出してもらった引け目もあったから全員本気出しようがない
@@フォード-i1w 〉
最大の関ヶ原で内部崩壊した毛利よりは島津や宇喜多なら多少ある程度。どこの家もゴタゴタはあるが毛利は酷すぎる。
最上は上杉に押され気味で伊達の援軍がなければ壊滅する一歩前だったから無理。
@@おさるの紋吉 さすがに上杉が秀忠と戦うのは兵力差的に厳しくない?笑
まぁ伊達とかも悩んでたらしいし結局は流れの問題かな
外交力をもって自分以外の五大老を無力化し、毛利・上杉はもちろん島津にもまともに本戦参加させなかったことによって勝ちは確定してましたね。
なおかつ、黒田官兵衛や伊達政宗が地方で暴れ回るリスクを抑えるために、関ヶ原を1日で終わらせる軍事力と小早川を寝返らせる交渉力。
何回やっても誰も家康さんに勝てなかったと思います。むしろ石田さん島さん宇喜多さん大谷さんの精神力だけで、西軍は本当によく頑張った。
騎馬武者の一騎討ちで勝敗を決する戦法で幕を開けた戦国時代は、やがて鉄砲を使った集団戦法に代わり、最後は、戦争行く前に準備したものが勝つということを家康さんが教えてくれて大円団を迎えた。
大体福島と加藤のせいで織田→豊臣系の大名は潰されガチなイメージだけど
池田黒田細川前田浅野山内藤堂蜂須賀あたりはずっと大大名
前田家バケモンすぎる
「外様」は、経済的には豊かだけど僻地に飛ばされ幕政に参画できない
「譜代」は、経済的には豊かではないが要地を与えられ幕政に参加する
「親藩」は、そこそこ豊かでそこそこの領地で権力はないが権威(官位)を与えられる
本当に見事な配置
大坂の陣 後 石高も 知りたいです^^
0:23 10石の加増って・・・
すみません、単純に10万石のミスです・・
説明文に記載しておきます。ご指摘ありがとうございます。
毛利輝元が有能な武将で吉川、小早川をまとめる器が有れば勝てた。
10国の分部はコメント訂正されてるけど、10万石でも誤り
10万石「の」加増なら4万+10万で14万石だろ
10万石「に」加増でしょ
秀頼が減封させられた理由は何なんですか
すみません、正確には秀頼は「減封」という表現はおかしいですね。蔵入地を家康に分配されてしまった結果、大幅に減ったという感じですね。
元々この動画に秀頼を含めるか迷っていたのですが、各大名を加増安堵改易減封で分類してしまってて秀頼の表現を変えることに失念しておりました。
ご指摘ありがとうございます、後で説明文に追記しておきます。
豊臣政権という公儀から徳川政権という公儀への移行過程なので、羽柴家、徳川家としての石高を示すのは難しいところがありますね。
徳川譜代の家臣も豊臣政権下では陪臣に過ぎなかったものが、徳川体制では他の外様と並ぶ「大名」として存在することになるわけですし。
小林隆景→小早川隆景です。
立花宗茂は旧領に復帰してますよ。
20年後に…
相変わらず家康のケチぶりがわかるよね(笑)
譜代の家臣達にはほとんど加増させてない一方で、味方した豊臣恩顧の大名にはしっかり出してると見せて、西国に移して周りの安全を確保してるし、ホントしたたかな狸親父だわ(笑)
そうだよ鳥居元忠の息子に十万石までしか増加しかしてないし…元忠はあんなに頑張ったのに…
ただ実際に関ヶ原の戦いで活躍したのは外様が大半だから譜代よりは大盤振る舞いするのは当然(配置は言わずもがな)。まして秀吉も家臣(清正や三成など)の石高なんて多くて30万石もいかない。
関ヶ原の主力は外様大名だったんだから当たり前だろ
関ヶ原の合戦当時は家康譜代の家臣なだけで正式な豊臣家に従属する大名ではなかったからだよ
@@くーわく
それはそうだけど、これは学生時代…大昔、史学部時代に教授にも聞いた気になる事なんだが…それなら、自身は250から400まで上げてるんだから、外様メインとか関係なく上げれるはずなのでは?と…それをろくに上げてないのはケチだから以外に無いですよね?と…その時の返答はその通りだよと(笑)
三河時代からの譜代大名に吝いのは今で言うやり甲斐搾取ですな
収入ブラックでも忠誠心が揺るがない
その代わりに、幕府の要職に就任しますから文句は言えませんね。
一門だけ激甘なのが狸って感じ。
こうして観ると面白いですね、一つ気になったのは
徳川家康の子供や家臣の領地は徳川家康250万石の中に含まれてるはず、子供や家臣の石高を別に紹介するなら
徳川家康の石高をその分減らして紹介しないと勘違いする人がいそうですね。
長宗我部盛親って9万8千石だったような……
西軍でありながら没収されてない島津の外交がすごすぎる
最終的には軍事力を背景にした外交でしょうね。
島津はほぼ無傷で戦力残していますし、気合いが違いますからね。
しかも交渉中に鹿児島の近くを通る外国の貿易船を襲って、通さない様にして徳川に逆にプレッシャーを与えていたらしいですしね。
本気で一戦交えるには、徳川としては世の中もまだまだ不安定な状況だし、鹿児島は遠いし、しかも強いしで………正直やりたくなかったんでしょうね。
島津の厄介さは別格です。
幕末の活躍も必然です。
鳥居元忠の件も影響してるからじゃない?
本来なら東軍に付くのにアイツの独断で小早川と一緒に西軍に付いたんだから
何より領土が九州の端だったのが良かったんだろうね、京や大阪、江戸に近い所なら高確率で減封になってたと思うよ
義久兄貴戦国最後の大仕事
外交力というか、個人的に徳川家康と仲が良かったのと、徳川軍に実質的な損害を与えていないからそのままになっただけ。いわゆる「島津の退き口」は創作。
ちゃっかりまだ子どもの秀頼から切り取って1/3以下にするのしたたかやな
どうやって淀殿を黙らせたんだろう
譜代の本田忠勝10万は少ないよな。
警戒されてたんかな。
2つ程理由が考えられます。
1つは権力,権限とお金(経済)等を分散する方針であった事。(一極に力が集中するのを嫌った為)
2つはやはり昌幸,信繁親子の助命嘆願の影響です。
特に1ですかね。他の方も言っていますが、外様大名は加増されても領土整備の為に更なる出費がある土地に転封されています。更に後々潰された外様大名の多い事
@@ベルウッド秀
でも本田忠勝なんて、秀吉における、「島津に負けなかった」仙石秀久ポジションですよね。切り込み隊長かつ猛将中の猛将。
一個人的には20〜30万石以上でもおかしくないと思います。
次男・忠朝が大多喜領の半分5万石で立藩したから 一応 五万石加増されたようなもんだけど それでも少ないね
本多❤
関ヶ原の戦いの時に、家康と同い年位で大軍の指揮をとれる人物または名主になれる人物は居なくなってるよな、真田昌幸、黒田孝高、小早川隆景。
羽柴秀長が存命なら徳川家康は出る幕なかたかもな
総大将が仮の毛利輝元、石田三成では士気が上がらんのでしょう。
豊臣秀頼が西軍に担げば逆の結果もあったかもしれない。
前田利家の死も押しいまれる。
刑死・・。
無念
島津だけ減封なしてすごすぎ。
これで生き残った薩摩が倒幕の要になるのが歴史のおもしろいところ。
徳川は薩摩の力を完全にそぎ落とすべきだった。
水を差す様で申し訳ないけど
島津が減封なしは島津が凄かったからではなく徳川にとって減封する程の価値がなかったからだと思う
そもそも最初は東軍につこうとしたけど断られ成り行きで西軍につくけど西軍と意見衝突して関ヶ原は終盤を除いて静観
最後は捨て肝戦法で華麗に逃げた
潰そうと思えば潰せたし
事実として黒田軍と立花軍と鍋島軍が島津に進攻しようとしていたけど止めたのは家康だった
結局、潰す程何かした訳ではないし潰した所で京からも江戸からも遠い薩摩が欲しい大名もいない
従属の意思は見せているので下手に刺激して面倒事になるより減封なしで済ませたのだと思う
島津を潰しておかなかったから倒幕されたも200年も持てば幕府の圧勝だな
幕府としては200年も島津を抑え込めた事になるのだから
確かにそうかもしれない
でなかっとら今徳川家は、ないかも
島津義久の影響があったのでしょうかねぇ〜😮
宇喜多秀家て、戦国スイマーだっけ?
九州は島津対策なのか大幅加増されてる人多いね。
結果失敗
石高増も国替えは負担大きかった気が…
でもなんで毛利、島津、上杉など西軍を全員改易しなかったのか…
西軍の一部を残したが故に約260年後に毛利や島津にリベンジを果たされてるし。(下手してたら源氏を残した平家と同じ事になってた可能性もあった)
あれ?島津って77万石じゃなかった?
関ヶ原後に琉球攻略して77万石
@@はやて隊員-1351やっぱり関ヶ原の時とは、状況違ったか
倒幕できたのか
信長や家康や秀吉は9999999兆石くらいあったのかな?
超大富豪ってイメージがあります😮
津軽為信なくね
京極高次が出てない
流石に婚姻した輝政の代だけとはいえ
畿内に近い位置(ていうか現代じゃ関西の枠組み)の位置に一国52万石で姫路城も持ってる池田家の優遇っぷりよ
更に後に岡山鳥取を一族が治めて全盛期は計90万石という
輝政が姫路城主時代は、池田一族で合計100万石近い所領をもらい、「西国将軍」と呼ばれていました。
嫡子の池田利隆(母は輝政の前妻だが)に榊原康政の娘を秀忠の養女の上で嫁がせ、その間に生まれた池田光政にも本多忠刻と千姫の娘を秀忠の養女の上で嫁がせる
池田家を徳川の下に取り込みたい意図が現れている
軍艦シュポシュポで草
軍監じゃないのか
半日戦っただけで給料倍とか美味いよな
縁もゆかりも無い土地に飛ばされるけどなw
毛利輝元も島津と同じく穏便に済ませとけば今も徳川の世だったかもね
多分ロシアの植民地になってそうだけどな
なんで薩摩は減ってないんやろ
同じ九州の大名の黒田如水、加藤清正、立花宗茂が家康に島津家を改易しないようにはたらきかけてたからやで
関ケ原の時点ではまだ家康は「豊臣家の一武将」だったから。そもそも協力していた東軍のほとんどが豊臣家の重臣だったのも大きくて、わざわざ大動員して九州の端まで行くのは無理だった。
それだったらそのままにしておいて、政治的に絞った方が早いからその方針転換があったはず。
実際に、薩摩藩は江戸初期はやばいくらい財政難だったし。
石数そんなになかったのでは?
関ヶ原後、琉球王国で石数増えたし
何で南部とか伊達出てるのに俺らの津軽出してないの??
4万石しかないから。
@@まつたけまつたけ-c8x 45000→47000に2000石の加増ですね。長男が西軍側だったり、三成の子供を匿ったり危ない橋を渡りましたが加増でよかったですね。
@@まつたけまつたけ-c8xそれでも出しなさい
鳥居元忠の功績で10石増加って、真実なら家康外道やん(笑)まーケチの王様やから有り得るけど(笑)
鳥居元忠の功績って、幕末まで影響するんですよね。
後に鳥居家が当主の素行不良やお家騒動・後継者がいないなどで改易の危機に直面した際に「元忠の功績」としてお家存続が認められ、最終的には下野壬生3万石の大名として明治維新を迎えます。
伏見城の戦いで血に塗られた城内の畳なんか、江戸城の櫓に飾られて登城した諸大名に見せていたそうです。「徳川家に、これだけ忠義心のある家臣がいたんですよ!」と自慢していたのが想像できます。
今の加藤は、ヤクルトスワローズ村上みたいだな
一堆背骨仔
250年後毛利と島津が反撃に出ますよ😮改易か東北にでも移転させておけばどうなっていただろうか❓😂
音声でも 説明してくれた方が 親切で御座るのぉ
島津が現状維持は草
そりゃ倒幕されるわ