Размер видео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показать панель управления
Автовоспроизведение
Автоповтор
いつも楽しみに見ていますもしよろしかったら 史実の可能が高い いろいろな武将の面白逸話をまとめた動画なんてのを見てみたいです。
とても今迄解説有り難うございます😊学校よりわかりやすいです、何時も聞いてました、後2回で終わりですが最高などうする家康を観ます💜
面白いです! 分かりやすいです!
やはり、家康は懐深く、豊臣を最後まで、生き延びさせる方法を考えていたんですね(力は削ぎ落として)
なるほど。たしかに。しかしながらワシはそうは思いませぬ。裏切り者の狸親父に飼い殺しにされるくらいなら勇ましく戦いの中で散られた秀頼公は武人でござった。亡き太閤殿下もお認めになって下さる筈。
一応、家康は秀吉の義弟だから秀頼は家康から見たら甥に当たり親戚関係なのだから本気で滅ぼすつもりは無いが茶々の存在があり対抗意識があるので仕方なくみたいな流れでは?
夏の陣で真田幸村の籠った処が、冬の陣の家康の本陣の茶臼山だときいています。真田丸は2つあったようですね。
家康が源氏を称したのは秀吉生前からで天正16年には源家康となっている様です。 ですから、豊臣からの独立心というより、秀吉が、本当は源氏を名乗りたいけど、三河守任官の為に仕方なく藤原氏を名乗っていた家康に対する飴と鞭の飴として源氏を名乗らせたんじゃないか..と
『姓』は天皇下賜されたもので『名字』は自分で名付けたもの違いはルビに『○○の』が付くのが姓、付かないのが名字です。なので『豊臣朝臣羽柴秀吉(とよとみのあそんはしばひでよし)』とか『源朝臣徳川家康(みなもとのあそんとくがわいえやす)』となります。下の名前は『諱』冒頭の姓の所で解説して欲しかったです。(時間の関係上省いたのでしょうけど)浪人5人衆は最初3人衆(元大名家)と呼ばれてたけど大名並の領地を以前は与えられていた陪臣(大名の家臣)だった後藤と明石も加えて5人衆と呼ばれたという説があります。冬の陣勃発前に京や近江、紀伊や奈良で迎撃してたらどうなってたんでしょうね。『惜しいかな、後世の人、真田を云って毛利を云わず』
黒田長政の後藤又兵衛(基次)に対する嫌がらせは、今の基準で考えると独禁法違反ですね……。
戦国時代編が終わってしまいましたか。ここから先が腕の見せ所ですね。
徳川の覇権を確立した大坂の役。最後の将軍慶喜が、鳥羽伏見の戦いで、自軍の兵を置き去りにして江戸に逃げ帰ったのも大坂城。何かの縁があるのかもね。
そう言えばかつて石山本願寺のあった場所……
自分が知る限り戦国時代の市街地戦は上田城籠城戦と大坂の陣だけなんだよなぁ江戸城総攻撃は勝海舟によって防いだけど
説明もうまいけど、字が綺麗!
右筆がおられます😊
武士道さん大坂の陣の解説ありがとうございます_(._.)_織田信雄面白っw真田幸村を初め大阪城に残った武将達の心意気には胸を打たれるぅ〰️😣色んな仮説があるのは 散って逝った者に魅力があったからなんでしょうねぇ。男のロマンだ🇯🇵
どういう経緯にせよ秀次を死なせた時点で豊臣家は終わってたのかもしれませんね。秀頼を後見・補佐できる血族の成年男子がいなくなり、関白の地位まで空席にしてしまった。寿命間近の太閤秀吉にはもはやどうすることも出来なかった。
字がとても綺麗で、説明も分かりやすくて20分があっという間でした。私は幕末時代が好きなので、動画楽しみにしています(^ ^)
時間あれば拝見して学ばせて頂いております。とてもわかり易くためになるお話ホンマにありがとうございます😀
秀次さえ殺さなければ、、、と思ってしまいますね💦歴史は変わっていたのかな〜
どうもどこの動画も関ヶ原から大坂の陣までの流れが大雑把すぎるんだよな理由が浪人と鐘だけってことはないでしょ
ですね、NHKで分析をやってましたが家康の有力家臣も別れていて、家康の行動と同じで最初は穏健派が主流だった様です。その後は主戦派が仕掛けた罠説もありますね🎉🎉😮😮
大野治長は鴫野・今福の戦いで上杉軍とたたかいました。上杉軍は鉄砲隊を率いてました。治長は鉄砲隊に対して槍で戦おうとしていたので同僚に呆れられてました。
冬の陣終盤、御台様に言われるがまま講和を結ぼうとして、徹底抗戦派の弟の治房から暗殺未遂を起こされていますからね。
わかりやすい説明いつもありがとうございます!これからも楽しみにしています🖐️
大坂の陣は家康の集大成やな。のちのち面倒くさくなりそうな“浪人衆を一箇所に集めて豊臣家ごと潰そう”とか考えてそう。
我らが上杉家臣の水原さんは大坂冬の陣で徳川秀忠から感状を戴いた際に、秀忠の前で堂々と感状を開封して読み、傍らの本多正信を見やって「景勝公のみならず、陪臣の身である私にまでこんな名誉を戴けるとは、謙信公以来の上杉の武名をあげられて光栄です!」と言ってから陣を退出したらしい。当時においては下賜された感状をその場で開くという行為は、重大な儀礼違反であったようです。しかも退出後「こたびの戦は子供の石合戦のようなもので、怖くも骨折りとも思わななんだ。謙信公の元で戦場を駆け回っていた頃は、今日死ぬか明日死ぬかと思いながら必死に戦ってきたが、一度も感状など貰えた事はなかった。こんな花見同然の合戦で感状をいただけるとは、おかしなことだ」と大笑いして人に語ったそうです。
上杉家は我が主君石田治部少輔三成とともに打倒家康で動いて下さったので好きですぞ。狸めが没したのちにも上杉鷹山など名君を世に輩出された名門でござるな!
秀吉が亡くなるまでの10年弱の動きが、先の運命を決定づけていたのではと思うと、なんとも皮肉ですね。
大河ドラマとしての戦のシーンはおおよそ2年ぐらいは無くなるのかな
秀次さえ切腹させなければ豊臣家は存続できたのに秀吉は浅はか過ぎました家康と幼い秀頼では勝負に成らないことくらいわかりそうなものですが
太閤殿下は御年齢とともに焦りもあったと思われますからな。治部殿も苦心なさっておいででした。
近年の研究では、秀吉は蟄居謹慎のみを求めていたが、秀次は納得できず潔白を証明するため自ら切腹した、という考え方が主流です。
豊臣時代の大阪城、見て見たかった。秀忠がキーパーソンと思います。関ケ原の遅参もあり、汚名返上したかった。大阪では始終強硬路線だったようです。鐘の件とか、ヤ●ザなみのイチャもんw
常高院様が「姉上や秀頼様、その御子息の命はお守りください!」と何度も進言なさったのに約束を守らず、大層腹を立てられていたと聞きますね。狸親父めと同じく腹黒い奴です😡
明石全登はたけのりと読んでいました。読み方いろいろあるんかな。
「大坂の陣」は様々な諸説があるので、戦国時代を描いた大河ドラマの中で、どれも似通う所が無いというイメージがあります。とある作品では、織田有楽斎が登場していなかったり、淀殿と秀頼が自害したとされる山里曲輪が自爆するもの有れば無い物もあったり、更には、千姫の救出の仕方/され方が違っていたりなど、はっきり言ってこんがらがります。どれを採用するのか、その監督や脚本の能力次第ですね。もちろん、ドラマなので、作風や演出の違い、視聴者層も考慮しなければならないと思いますが。近々で大河ドラマの中で繊細且つ詳細的に描いているのは「真田丸」ではないかと個人的に考えています。まぁ、三谷色に染まっているので、キャラクターのほとんどが変人行動をする者達が多い点は、目を瞑るとして。「大坂の陣」は謎が多いんですよね。約400年前の出来事なので、まだまだ解明されていない事がこれから先見つかって行く事を期待してます。
髷が家康くんみたい!!
武士道さん信雄好きですよね。
信長の死後も細々と織田家を存続させた奴だから、ワシも好き
水野勝成さんと伊達のまーくんとDQN対決の場外乱闘の途中で消された神保相茂さん
もう大阪陣か一年は早いねついでに島原の乱も
豊臣秀頼に嫁いだ千姫は、どうなったのですか?大阪城落城の時に徳川家に帰れる事が出来たのですか❓
千姫は救出されて生き延びてますね。その後、桑名藩の本多氏に嫁いで再婚したようです。
ありがとうございます😊
やはり分かっていましたか。徳川家康が別に豊臣を滅ぼすつもりではなかったってことを
信雄は、いいですね。いや、世渡りが上手いですわ。
木村重成が入って5人衆、明石全登を入れて6人衆じゃなかったでしたっけ?秀頼は大野治長の子供かどうかわからないですけど、少なくても秀吉の子供じゃないと言われていますよね。側室がたくさんいたにもかかわらず一人も子供ができなかったこと、秀吉の右手親指が2本あって遺伝子的に障害があったと言われていることから、秀吉は不妊症だったと言われています。
長浜城主時代にも子供が生まれていたらしいぞ。
関東だから、源にしたのではないでしょうか豊臣羽柴家康だったとは、、、知りませんでした徳川の名前の由来や、いつからや、誰が本人が?考えたのでしょうかそれを知りたいです
九度山は「くどさん」でなく「くどやま」ですね
これ毎回忘れます
おもしろい^_
大坂の陣で散った豊臣側の侍たちは、屈服して生き恥を晒すより、侍としての死を選んだ事に共感しますね。信雄は侍としてのプライドを捨てたチキン野郎としか思わないけど。他にも生きる為に身内を死に追いやった方々もいますけど、 幸村や又兵衛は同じ男として尊敬しますね。これからも、彼等の生きざまはずっと語り継がれていくと思う。
秀頼は最後まで城の中、家康は最後まで最前線。この辺が違いますよね。ま、豊臣家は公家を狙っていたのだろうけど、担がれる恐れから、家康は許さなかったんでしょうね。その後も天草四郎やら駿河大納言やら天皇やら、反乱には必ずお神輿が必要だからなー。
秀次を殺さなければって意見をよく聞くけど、最近の有力な説に秀次は無実を証明する為に自ら腹を切った説がありますね!
信雄は私も大好きです。今川氏真よりは男らしいですし似たようなとこもあり憎めないですよね。
二条城の会見については、テロップだけじゃなく、深く話して欲しかったが
大阪の冬の陣夏の陣は大河ドラマの真田丸で観ました堺雅人さんの幸村役は凛々しくて格好良かったです🐈大阪夏の陣では幸村がだった一人で家康本陣迄行くぐらい格好いい凛々しくていいシーンだった🐈私は大河ドラマの真田丸は最終回迄観てました‼️ちなみに余談ですか🐈豊臣ひでよりの奥さんは家康さんの孫娘千姫さんだったよ🦁当時ひでよりさん11才千姫さん七才今なら未成年者だから親の承諾いるけど戦国ではひてよしさんがなくなる前に家康さんに千姫さん七才なったらひでよりさんに嫁いでねと約束したんだすなわち千姫さん生まれてすぐひでよりさんの許嫁なったんだでも夏の陣で悲しい話だった
真田の手柄と呼ばれるものの半分くらいは毛利勝永や後藤又兵衛の手柄なんですがね。戦国BASARAなどで主役をはっているし絵柄的にもサマになるのでドラマやマンガでは真田一色ですが、ぜひ他の武将達も調べてみると面白いですぞ!あ、石田治部少輔三成もお願いします!!!
織田信雄も大阪城内にいたんですね。城内の様子を徳川に知らせていたということですが、織田有楽も大阪城内にあり徳川に通じ同じ様なことをしていましたね。あの信長の縁者としての振る舞いとしては何だか情けないですね。
信長が突然変異だっただけで他の奴らは凡人。だけど信雄は凡人なりに策を巡らせて織田家を5万石程度の小さな大名として存続させて、信長の血を現在まで残している。 凡人の信雄にとって、英雄である父の血を残すことだけが唯一の生きる意味であり、そのためにはどんな姑息な手も使うという強い意志があったのかもしれません。
ちなみに有楽斎はマジモンのクズです。 主君信忠を見捨てて逃亡した挙げ句、「どさくさに紛れてレアな茶器沢山ゲットできてラッキー!」 とか抜かした忠義の欠片も無いゴミです。
源氏長者
家康が先か、秀忠が先か
どうする家康でどう描くんだろ?
夏の陣の際、真田信繁は場外に撃って出る策を提案したと言われていますがどのような策だったのでしょうか?大河ドラマ真田丸で真田昌幸が信繁に託した内容の策なのでしょうか?また、仮に撃って出る策が採用されていたらどうなっていたと考えられるでしょうか?徳川の天下に変わりはないでしょうけど。
わかり易いけど、この二年後の今はもっと面白いどうがみてるで。
元々織田氏の家臣の秀吉の息子が、主家筋の同盟者に頭を下げるの当たり前なんだけど。
二条城まで赴いて頭下げたじゃん?
長束正家
これはあくまでこの人の考え方です。これを史実と思ってはいけません。一つの仮定としておきましょう。
左様。あの狸親父めが豊臣を残そうとなんて思うわけがなかろう!我が主君石田治部少輔三成に対する仕打ちを忘れたか!がわたくしめの見解。みんな違ってみんないいでござるな。
@@石田治部少輔三成が家 以前関ヶ原の古戦場に行きました。一番売れてたグッツが大一大万大吉のTシャツでした。わたしももってます。
@@石田治部少輔三成が家 ただ三成くんが戦ったおかげで豊臣滅ぼしやすくなったのは事実だからなあ結果論でしかないけど
家康が成長した秀頼と謁見した時に、家康は、凛々しい姿の秀頼を見て、脅威を感じたという。秀頼が成人したら、秀頼に従う大名が多数現れると感じた家康は、秀頼を何とか大阪城より排除して、地方の一大名にしようと画策したが、淀君の大反対もあり、秀頼は、家康の意見を無視した。そして早めに秀頼の殺害を試みた。しかし難攻不落の大阪城を一気に攻め落とすことは、極めて困難と察した家康は、一旦講和し、大阪城の総堀を埋めて裸城にし、後は、夏の陣で、易易と大阪城を落城させ、秀頼と淀君を自害させた。家康の泣くまで待とうホトトギスが奏功し、盤石の徳川政権の誕生となった。
「徳川家康は豊臣を滅ぼす気は無かった」って動画の中で言ってないじゃん。一体何を言い出すんだ?と思って全部見てしまった。
^^ ♥♥♥♥
戦国時代がおわるー!さみしい😢髪のびましたねー!武士ぽい!(笑)
方広寺事件の黒幕は、家康のブレーンの謎の男・天海(あの光秀と筆跡が似てるらしい)説あり。秀頼母子は、爆死でした。秀頼生存説、本当ならば、逃亡先は、あの島津氏。
徳川家康の性格って、とても短気で陰湿、潔癖症だったと思います。石田三成の佐和山城など、彦根城の材料にするだけなら、あんなに石垣を破壊する必要もないし、秀吉の建てた大阪城、駿府城もいったん更地にしてから作り直すなど、気に入らないものは徹底的に排除してますね。信長が極悪非道で短気というのは、徳川時代の作り話の可能性が高いと思います。
まあ家康の短気ぶりは信長以上だという話を聞いてますからね・・・
こんばんは!初めまして 松元弘美と言います 宜しくお願いいたします鳴かぬなら殺してしまえホトトギス…織田信長鳴かぬなら鳴かせてみようホトトギス…豊臣秀吉鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス…徳川家康これを見る限り、家康の性格は、我慢強く忍耐力があるようですが、実際は違うようですね 性格的には、短気で瞬間湯沸し器のように、感情を爆発させたと本にありましたしかし、家康は、自分の欠点を理解していて、周囲になだめられ、落ち着きを取り戻し、冷静な判断を下すパターンにより、苦境を乗り切ったようです江戸時代の基礎を作った人なので、やはり偉大な人間ですよね
@@島津つむぎ 私は家康については、江戸時代を作った実績があるので、偉大な人物ではあるけど、後世に伝わるほどの名君ではないと思ってます。意外にも織田信長って同盟を反故にしたりしないし、弟が裏切っても1回は許してますし、比叡山や長嶋一向宗に対しても、手紙を何回も送って交渉してます。いきなり問答無用で攻めたりはしてないです。この辺りは割と常識があります。また、藤吉郎とおねの夫婦喧嘩の仲裁に自ら手紙を出してるあたり、そこらの大名よりよほど人間的な優しさを感じます。一方家康は、信長との同盟こそ生涯続きましたが、その後は北条との同盟を反故にして秀吉に下り、秀吉の死後はその約束を守らずやりたい放題です。大阪夏の陣後の大阪は徳川による略奪で地獄絵図だったといいます。これらを踏まえると、信長はそれほど無茶苦茶やってたわけではなく、むしろ家康の方が自分のためには汚いことでも平気でやるように見えてきます。まあ、これは家康がやったわけではなくその死後に、家康を美化するために信長を悪者に仕立て上げ公算が高いです。徳川家康は確かに偉大かも知れませんが、北条氏康などは目安箱を作ったり、税制改革によって、当時最も低い税率を維持し、民からはとても信頼されていました。ゆえに、軍備よりも防御優先となってしまったために勢力拡大が鈍化したという説もあります。しかし、没落してしまったし、大河の主人公にはなれなくても、北条氏康は誠の名君と言えるのではないでしょうか?まあ、まとまりが無い文でしたがが、研究が進むにつれ新しい事実が分かってくると、事実、創作含めてますます歴史が面白くなってきますね(笑)
@@tomo328ci さんこんばんは!返信、有難う御座います!信長が、秀吉の正室・おねさんに手紙を書いた件は、知っていました 秀吉が、女好きで困っていると、おねが信長に相談したら…信長から、温かい励ましの手紙を頂いたとか『魔王・信長』と言う印象が強いですが、案外と女心を知っているんだなと思いました信長は怖いけど、優しい1面を見ました徳川家康の件、教えて下さり、有難う御座います 今後、参考になりました 私は、歴史は、かじった程度しか解らないので 大和田先生の動画を見たりして、歴史の勉強しています今夜の『比叡山に棲む魔物』楽しみですね
@@tomo328ci 信長は信長で黒田官兵衛が裏切ったと勘違いして息子を殺すように指示したり尼子の残党を見捨てるように指示したりと冷酷な判断も下す人物なので甘い人間というわけでもないです家康が国力の違いを判断して秀吉に下ったのは大名としては至極当然でしょう、その後家康は秀吉と北条の間を仲介して何度も北条に秀吉に臣従するように説得したのに北条は忠告を聞かずに滅ぼされたので家康は義理を果たしたと言えるはずちなみに実は秀吉の方が主君の血縁に対しやりたい放題していますお市を殺し、信孝と信長の側室を殺すように内意があったという説が定説になっているし信雄に至っては北条戦で活躍したにも関わらず実質減封の国替えを命じられてそれを断ると改易をさせられるという理不尽ぶりでこの間8年で織田は一族で30万石程度の勢力に落とされました家康は15年間豊臣家を65万石の大名として認めてきましたし大坂の陣の原因と言われている徳川の請求も今までの特別扱いを見直す程度の内容で他の大名からしてみれば理不尽と言えるほどの内容でもないです後当時の名君というのは民に優しい統治者のことを言うのではなく国を立派に治める人物のことを指します、無論北条氏康も名君ですが北条征伐後に荒れ果てた旧北条領を家康は特に大きな一揆も起こさずに治め後の大都市江戸の基礎を作ったのだから十分名君と言えると思います色々言いましたが3英雄も信玄や謙信などの大名も戦国を生き残るには時に冷酷な判断を下す必要を求められるので一括りに残酷なことをやった人物は名君ではないと言ってしまったら戦国大名に名君は一人もいなくなってしまいますので戦国大名の評価は清濁併せて飲むことが重要だと個人的に思います
タイトルに矛盾を感じます。家康が本当にそう思っていたら、秀忠を従わせる事は、出来た筈。
滅ぼす気はなかったって本当でしょうか?大虐殺まで行っていますよね。
天下人だから両方のパターンを考えてたんじゃないかな?大坂の陣の数年前から戦準備に外国から大量に大筒や弾薬輸入してるし、大阪城攻略作戦は事前に練ってたと思うよ
家康が好きな人は大体秀吉を引き合いに出し、家康の非道な行為を責められると、「秀吉は残虐非道だった」と言いますが関係ないですね。秀吉も非道、家康も非道です。家康信者の厄介な点は、この家康が非道であるという点を認めようとしない事にあると思います。
俺正直徳川よりも豊臣のほうが好き
ぜひその勢いで石田も好きになって下さい♡
いつも楽しみに見ています
もしよろしかったら 史実の可能が高い いろいろな武将の面白逸話をまとめた動画なんてのを見てみたいです。
とても今迄解説有り難うございます😊学校よりわかりやすいです、何時も聞いてました、後2回で終わりですが最高などうする家康を観ます💜
面白いです! 分かりやすいです!
やはり、家康は懐深く、豊臣を最後まで、生き延びさせる方法を考えていたんですね(力は削ぎ落として)
なるほど。たしかに。
しかしながらワシはそうは思いませぬ。
裏切り者の狸親父に飼い殺しにされるくらいなら勇ましく戦いの中で散られた秀頼公は武人でござった。
亡き太閤殿下もお認めになって下さる筈。
一応、家康は秀吉の義弟だから
秀頼は家康から見たら甥に当たり
親戚関係なのだから本気で滅ぼす
つもりは無いが茶々の存在があり
対抗意識があるので仕方なくみたいな流れでは?
夏の陣で真田幸村の籠った処が、冬の陣の家康の本陣の茶臼山だときいています。真田丸は2つあったようですね。
家康が源氏を称したのは秀吉生前からで天正16年には源家康となっている様です。
ですから、豊臣からの独立心というより、秀吉が、本当は源氏を名乗りたいけど、三河守任官の為に仕方なく藤原氏を名乗っていた家康に対する飴と鞭の飴として源氏を名乗らせたんじゃないか..と
『姓』は天皇下賜されたもので
『名字』は自分で名付けたもの
違いはルビに『○○の』が付くのが姓、付かないのが名字です。
なので『豊臣朝臣羽柴秀吉(とよとみのあそんはしばひでよし)』とか『源朝臣徳川家康(みなもとのあそんとくがわいえやす)』となります。
下の名前は『諱』
冒頭の姓の所で解説して欲しかったです。(時間の関係上省いたのでしょうけど)
浪人5人衆は最初3人衆(元大名家)と呼ばれてたけど大名並の領地を以前は与えられていた陪臣(大名の家臣)だった後藤と明石も加えて5人衆と呼ばれたという説があります。
冬の陣勃発前に京や近江、紀伊や奈良で迎撃してたらどうなってたんでしょうね。
『惜しいかな、後世の人、真田を云って毛利を云わず』
黒田長政の後藤又兵衛(基次)に対する嫌がらせは、今の基準で考えると独禁法違反ですね……。
戦国時代編が終わってしまいましたか。ここから先が腕の見せ所ですね。
徳川の覇権を確立した大坂の役。最後の将軍慶喜が、鳥羽伏見の戦いで、自軍の兵を置き去りにして江戸に逃げ帰ったのも大坂城。何かの縁があるのかもね。
そう言えばかつて石山本願寺のあった場所……
自分が知る限り戦国時代の市街地戦は上田城籠城戦と大坂の陣だけなんだよなぁ
江戸城総攻撃は勝海舟によって防いだけど
説明もうまいけど、字が綺麗!
右筆がおられます😊
武士道さん大坂の陣の解説ありがとうございます_(._.)_
織田信雄面白っw
真田幸村を初め大阪城に残った武将達の心意気には胸を打たれるぅ〰️😣
色んな仮説があるのは 散って逝った者に魅力があったからなんでしょうねぇ。
男のロマンだ🇯🇵
どういう経緯にせよ秀次を死なせた時点で
豊臣家は終わってたのかもしれませんね。
秀頼を後見・補佐できる血族の成年男子がいなくなり、
関白の地位まで空席にしてしまった。
寿命間近の太閤秀吉には
もはやどうすることも出来なかった。
字がとても綺麗で、説明も分かりやすくて20分があっという間でした。
私は幕末時代が好きなので、動画楽しみにしています(^ ^)
時間あれば拝見して学ばせて頂いております。
とてもわかり易くためになるお話ホンマにありがとうございます😀
秀次さえ殺さなければ、、、と思ってしまいますね💦歴史は変わっていたのかな〜
どうもどこの動画も
関ヶ原から大坂の陣までの
流れが大雑把すぎるんだよな
理由が浪人と鐘だけってことはないでしょ
ですね、NHKで分析をやってましたが家康の有力家臣も別れていて、家康の行動と同じで最初は穏健派が主流だった様です。その後は主戦派が仕掛けた罠説もありますね🎉🎉😮😮
大野治長は鴫野・今福の戦いで上杉軍とたたかいました。上杉軍は鉄砲隊を率いてました。治長は鉄砲隊に対して槍で戦おうとしていたので同僚に呆れられてました。
冬の陣終盤、御台様に言われるがまま講和を結ぼうとして、徹底抗戦派の弟の治房から暗殺未遂を起こされていますからね。
わかりやすい説明いつもありがとうございます!これからも楽しみにしています🖐️
大坂の陣は家康の集大成やな。
のちのち面倒くさくなりそうな“浪人衆を一箇所に集めて豊臣家ごと潰そう”とか考えてそう。
我らが上杉家臣の水原さんは大坂冬の陣で徳川秀忠から感状を戴いた際に、秀忠の前で堂々と感状を開封して読み、傍らの本多正信を見やって「景勝公のみならず、陪臣の身である私にまでこんな名誉を戴けるとは、謙信公以来の上杉の武名をあげられて光栄です!」と言ってから陣を退出したらしい。当時においては下賜された感状をその場で開くという行為は、重大な儀礼違反であったようです。しかも退出後「こたびの戦は子供の石合戦のようなもので、怖くも骨折りとも思わななんだ。謙信公の元で戦場を駆け回っていた頃は、今日死ぬか明日死ぬかと思いながら必死に戦ってきたが、一度も感状など貰えた事はなかった。こんな花見同然の合戦で感状をいただけるとは、おかしなことだ」と大笑いして人に語ったそうです。
上杉家は我が主君石田治部少輔三成とともに打倒家康で動いて下さったので好きですぞ。
狸めが没したのちにも上杉鷹山など名君を世に輩出された名門でござるな!
秀吉が亡くなるまでの10年弱の動きが、先の運命を決定づけていたのではと思うと、なんとも皮肉ですね。
大河ドラマとしての戦のシーンはおおよそ2年ぐらいは無くなるのかな
秀次さえ切腹させなければ豊臣家は存続できたのに秀吉は浅はか過ぎました
家康と幼い秀頼では勝負に成らないことくらいわかりそうなものですが
太閤殿下は御年齢とともに焦りもあったと思われますからな。
治部殿も苦心なさっておいででした。
近年の研究では、秀吉は蟄居謹慎のみを求めていたが、秀次は納得できず潔白を証明するため自ら切腹した、という考え方が主流です。
豊臣時代の大阪城、見て見たかった。
秀忠がキーパーソンと思います。関ケ原の遅参もあり、汚名返上したかった。大阪では始終強硬路線だったようです。鐘の件とか、ヤ●ザなみのイチャもんw
常高院様が「姉上や秀頼様、その御子息の命はお守りください!」と何度も進言なさったのに約束を守らず、大層腹を立てられていたと聞きますね。
狸親父めと同じく腹黒い奴です😡
明石全登はたけのりと読んでいました。読み方いろいろあるんかな。
「大坂の陣」は様々な諸説があるので、戦国時代を描いた大河ドラマの中で、どれも似通う所が無いというイメージがあります。
とある作品では、織田有楽斎が登場していなかったり、淀殿と秀頼が自害したとされる山里曲輪が自爆するもの有れば無い物もあったり、更には、千姫の救出の仕方/され方が違っていたりなど、はっきり言ってこんがらがります。
どれを採用するのか、その監督や脚本の能力次第ですね。
もちろん、ドラマなので、作風や演出の違い、視聴者層も考慮しなければならないと思いますが。
近々で大河ドラマの中で繊細且つ詳細的に描いているのは「真田丸」ではないかと個人的に考えています。
まぁ、三谷色に染まっているので、キャラクターのほとんどが変人行動をする者達が多い点は、目を瞑るとして。
「大坂の陣」は謎が多いんですよね。
約400年前の出来事なので、まだまだ解明されていない事がこれから先見つかって行く事を期待してます。
髷が家康くんみたい!!
武士道さん信雄好きですよね。
信長の死後も細々と織田家を存続させた奴だから、ワシも好き
水野勝成さんと伊達のまーくんとDQN対決の場外乱闘の途中で消された
神保相茂さん
もう大阪陣か一年は早いね
ついでに島原の乱も
豊臣秀頼に嫁いだ千姫は、どうなったのですか?
大阪城落城の時に徳川家に帰れる事が出来たのですか❓
千姫は救出されて生き延びてますね。その後、桑名藩の本多氏に嫁いで再婚したようです。
ありがとうございます😊
やはり分かっていましたか。
徳川家康が別に豊臣を滅ぼすつもりではなかったってことを
信雄は、いいですね。
いや、世渡りが上手いですわ。
木村重成が入って5人衆、明石全登を入れて6人衆じゃなかったでしたっけ?
秀頼は大野治長の子供かどうかわからないですけど、
少なくても秀吉の子供じゃないと言われていますよね。
側室がたくさんいたにもかかわらず一人も子供ができなかったこと、
秀吉の右手親指が2本あって遺伝子的に障害があったと言われていることから、
秀吉は不妊症だったと言われています。
長浜城主時代にも子供が生まれていたらしいぞ。
関東だから、源にしたのではないでしょうか
豊臣羽柴家康だったとは、、、知りませんでした
徳川の名前の由来や、いつからや、誰が本人が?考えたのでしょうか
それを知りたいです
九度山は「くどさん」でなく「くどやま」ですね
これ毎回忘れます
おもしろい^_
大坂の陣で散った豊臣側の侍たちは、屈服して生き恥を晒すより、侍としての死を選んだ事に共感しますね。信雄は侍としてのプライドを捨てたチキン野郎としか思わないけど。他にも生きる為に身内を死に追いやった方々もいますけど、 幸村や又兵衛は同じ男として尊敬しますね。これからも、彼等の生きざまはずっと語り継がれていくと思う。
秀頼は最後まで城の中、家康は最後まで最前線。この辺が違いますよね。ま、豊臣家は公家を狙っていたのだろうけど、担がれる恐れから、家康は許さなかったんでしょうね。その後も天草四郎やら駿河大納言やら天皇やら、反乱には必ずお神輿が必要だからなー。
秀次を殺さなければって意見をよく聞くけど、最近の有力な説に秀次は無実を証明する為に自ら腹を切った説がありますね!
信雄は私も大好きです。
今川氏真よりは男らしいですし似たようなとこもあり憎めないですよね。
二条城の会見については、テロップだけじゃなく、深く話して欲しかったが
大阪の冬の陣夏の陣は大河ドラマの真田丸で観ました堺雅人さんの幸村役は凛々しくて格好良かったです🐈大阪夏の陣では幸村がだった一人で家康本陣迄行くぐらい格好いい凛々しくていいシーンだった🐈私は大河ドラマの真田丸は最終回迄観てました‼️ちなみに余談ですか🐈豊臣ひでよりの奥さんは家康さんの孫娘千姫さんだったよ🦁当時ひでよりさん11才千姫さん七才今なら未成年者だから親の承諾いるけど戦国ではひてよしさんがなくなる前に家康さんに千姫さん七才なったらひでよりさんに嫁いでねと約束したんだすなわち千姫さん生まれてすぐひでよりさんの許嫁なったんだでも夏の陣で悲しい話だった
真田の手柄と呼ばれるものの半分くらいは毛利勝永や後藤又兵衛の手柄なんですがね。
戦国BASARAなどで主役をはっているし絵柄的にもサマになるのでドラマやマンガでは真田一色ですが、ぜひ他の武将達も調べてみると面白いですぞ!
あ、石田治部少輔三成もお願いします!!!
織田信雄も大阪城内にいたんですね。
城内の様子を徳川に知らせていたということですが、織田有楽も大阪城内にあり徳川に通じ同じ様なことをしていましたね。
あの信長の縁者としての振る舞いとしては何だか情けないですね。
信長が突然変異だっただけで他の奴らは凡人。だけど信雄は凡人なりに策を巡らせて織田家を5万石程度の小さな大名として存続させて、信長の血を現在まで残している。
凡人の信雄にとって、英雄である父の血を残すことだけが唯一の生きる意味であり、そのためにはどんな姑息な手も使うという強い意志があったのかもしれません。
ちなみに有楽斎はマジモンのクズです。
主君信忠を見捨てて逃亡した挙げ句、
「どさくさに紛れてレアな茶器沢山ゲットできてラッキー!」
とか抜かした忠義の欠片も無いゴミです。
源氏長者
家康が先か、秀忠が先か
どうする家康でどう描くんだろ?
夏の陣の際、真田信繁は場外に撃って出る策を提案したと言われていますがどのような策だったのでしょうか?大河ドラマ真田丸で真田昌幸が信繁に託した内容の策なのでしょうか?
また、仮に撃って出る策が採用されていたらどうなっていたと考えられるでしょうか?徳川の天下に変わりはないでしょうけど。
わかり易いけど、この二年後の今はもっと面白いどうがみてるで。
元々織田氏の家臣の秀吉の息子が、主家筋の同盟者に頭を下げるの当たり前なんだけど。
二条城まで赴いて頭下げたじゃん?
長束正家
これはあくまでこの人の考え方です。これを史実と思ってはいけません。一つの仮定としておきましょう。
左様。
あの狸親父めが豊臣を残そうとなんて思うわけがなかろう!我が主君石田治部少輔三成に対する仕打ちを忘れたか!がわたくしめの見解。
みんな違ってみんないいでござるな。
@@石田治部少輔三成が家 以前関ヶ原の古戦場に行きました。一番売れてたグッツが大一大万大吉のTシャツでした。わたしももってます。
@@石田治部少輔三成が家 ただ三成くんが戦ったおかげで豊臣滅ぼしやすくなったのは事実だからなあ結果論でしかないけど
家康が成長した秀頼と謁見した時に、家康は、凛々しい姿の秀頼を見て、脅威を感じたという。秀頼が成人したら、秀頼に従う大名が多数現れると感じた家康は、秀頼を何とか大阪城より排除して、地方の一大名にしようと画策したが、淀君の大反対もあり、秀頼は、家康の意見を無視した。そして早めに秀頼の殺害を試みた。しかし難攻不落の大阪城を一気に攻め落とすことは、極めて困難と察した家康は、一旦講和し、大阪城の総堀を埋めて裸城にし、後は、夏の陣で、易易と大阪城を落城させ、秀頼と淀君を自害させた。家康の泣くまで待とうホトトギスが奏功し、盤石の徳川政権の誕生となった。
「徳川家康は豊臣を滅ぼす気は無かった」って動画の中で言ってないじゃん。
一体何を言い出すんだ?と思って全部見てしまった。
^^ ♥♥♥♥
戦国時代がおわるー!さみしい😢髪のびましたねー!武士ぽい!(笑)
方広寺事件の黒幕は、家康のブレーンの謎の男・天海(あの光秀と筆跡が似てるらしい)説あり。
秀頼母子は、爆死でした。
秀頼生存説、本当ならば、逃亡先は、あの島津氏。
徳川家康の性格って、とても短気で陰湿、潔癖症だったと思います。
石田三成の佐和山城など、彦根城の材料にするだけなら、あんなに石垣を破壊する必要もないし、
秀吉の建てた大阪城、駿府城もいったん更地にしてから作り直すなど、
気に入らないものは徹底的に排除してますね。
信長が極悪非道で短気というのは、徳川時代の作り話の可能性が高いと思います。
まあ家康の短気ぶりは信長以上だという話を聞いてますからね・・・
こんばんは!初めまして 松元弘美と言います 宜しくお願いいたします
鳴かぬなら殺してしまえホトトギス…織田信長
鳴かぬなら鳴かせてみようホトトギス…豊臣秀吉
鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス…徳川家康
これを見る限り、家康の性格は、我慢強く忍耐力があるようですが、実際は違うようですね
性格的には、短気で瞬間湯沸し器のように、感情を爆発させたと本にありました
しかし、家康は、自分の欠点を理解していて、周囲になだめられ、落ち着きを取り戻し、冷静な判断を下すパターンにより、苦境を乗り切ったようです
江戸時代の基礎を作った人なので、やはり偉大な人間ですよね
@@島津つむぎ 私は家康については、江戸時代を作った実績があるので、偉大な人物ではあるけど、後世に伝わるほどの名君ではないと思ってます。
意外にも織田信長って同盟を反故にしたりしないし、弟が裏切っても1回は許してますし、比叡山や長嶋一向宗に対しても、手紙を何回も送って交渉してます。いきなり問答無用で攻めたりはしてないです。
この辺りは割と常識があります。
また、藤吉郎とおねの夫婦喧嘩の仲裁に自ら手紙を出してるあたり、そこらの大名よりよほど人間的な優しさを感じます。
一方家康は、信長との同盟こそ生涯続きましたが、その後は北条との同盟を反故にして秀吉に下り、秀吉の死後はその約束を守らずやりたい放題です。
大阪夏の陣後の大阪は徳川による略奪で地獄絵図だったといいます。
これらを踏まえると、信長はそれほど無茶苦茶やってたわけではなく、むしろ家康の方が自分のためには汚いことでも平気でやるように見えてきます。
まあ、これは家康がやったわけではなくその死後に、家康を美化するために信長を悪者に仕立て上げ公算が高いです。
徳川家康は確かに偉大かも知れませんが、北条氏康などは目安箱を作ったり、税制改革によって、当時最も低い税率を維持し、民からはとても信頼されていました。ゆえに、軍備よりも防御優先となってしまったために勢力拡大が鈍化したという説もあります。しかし、没落してしまったし、大河の主人公にはなれなくても、北条氏康は誠の名君と言えるのではないでしょうか?
まあ、まとまりが無い文でしたがが、研究が進むにつれ新しい事実が分かってくると、事実、創作含めてますます歴史が面白くなってきますね(笑)
@@tomo328ci さん
こんばんは!返信、有難う御座います!信長が、秀吉の正室・おねさんに手紙を書いた件は、知っていました 秀吉が、女好きで困っていると、おねが信長に相談したら…信長から、温かい励ましの手紙を頂いたとか
『魔王・信長』と言う印象が強いですが、案外と女心を知っているんだなと思いました
信長は怖いけど、優しい1面を見ました
徳川家康の件、教えて下さり、有難う御座います 今後、参考になりました 私は、歴史は、かじった程度しか解らないので
大和田先生の動画を見たりして、歴史の勉強しています
今夜の『比叡山に棲む魔物』楽しみですね
@@tomo328ci 信長は信長で黒田官兵衛が裏切ったと勘違いして息子を殺すように指示したり尼子の残党を見捨てるように指示したりと冷酷な判断も下す人物なので甘い人間というわけでもないです
家康が国力の違いを判断して秀吉に下ったのは大名としては至極当然でしょう、その後家康は秀吉と北条の間を仲介して何度も北条に秀吉に臣従するように説得したのに北条は忠告を聞かずに滅ぼされたので家康は義理を果たしたと言えるはず
ちなみに実は秀吉の方が主君の血縁に対しやりたい放題しています
お市を殺し、信孝と信長の側室を殺すように内意があったという説が定説になっているし信雄に至っては北条戦で活躍したにも関わらず実質減封の国替えを命じられてそれを断ると改易をさせられるという理不尽ぶりでこの間8年で織田は一族で30万石程度の勢力に落とされました
家康は15年間豊臣家を65万石の大名として認めてきましたし大坂の陣の原因と言われている徳川の請求も今までの特別扱いを見直す程度の内容で他の大名からしてみれば理不尽と言えるほどの内容でもないです
後当時の名君というのは民に優しい統治者のことを言うのではなく国を立派に治める人物のことを指します、無論北条氏康も名君ですが北条征伐後に荒れ果てた旧北条領を家康は特に大きな一揆も起こさずに治め後の大都市江戸の基礎を作ったのだから十分名君と言えると思います
色々言いましたが3英雄も信玄や謙信などの大名も戦国を生き残るには時に冷酷な判断を下す必要を求められるので
一括りに残酷なことをやった人物は名君ではないと言ってしまったら戦国大名に名君は一人もいなくなってしまいますので戦国大名の評価は清濁併せて飲むことが重要だと個人的に思います
タイトルに矛盾を感じます。家康が本当にそう思っていたら、秀忠を従わせる事は、出来た筈。
滅ぼす気はなかったって本当でしょうか?大虐殺まで行っていますよね。
天下人だから両方のパターンを考えてたんじゃないかな?
大坂の陣の数年前から戦準備に外国から大量に大筒や弾薬輸入してるし、大阪城攻略作戦は事前に練ってたと思うよ
家康が好きな人は大体秀吉を引き合いに出し、家康の非道な行為を責められると、「秀吉は残虐非道だった」と言いますが関係ないですね。
秀吉も非道、家康も非道です。
家康信者の厄介な点は、この家康が非道であるという点を認めようとしない事にあると思います。
俺正直徳川よりも豊臣のほうが好き
ぜひその勢いで石田も好きになって下さい♡