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これ所有してました!LISTコマンドで表示されるプログラムのスクロールスピードを英数、カナキーで制御でき、止めるのはBREAKキーでした。ところがスピードを調節するキーとBREAKキーの組み合わせでリセットがかかるトンデモ設計で作成中のプログラム何回か飛ばしてしまったことありました
贔屓にしてた電気屋さんが私がパソコンに興味津々であることを知って1ヶ月お貸ししますよと言ってくださってベーシックマスターJr.を貸して下さったことがあります。打ち込んだプログラムをカセットに保存してお返ししましたが我が家ではパソコンの購入なんて夢のまた夢だった時代に貴重な体験をさせて頂きその後の進路にも影響を与えてくれました。
小学生のころ、シャープに勤めていた親戚から初代を譲ってもらって遊んでました。日本で最古級の個人用マシンなのに筐体もキーボードもしっかりしていたのは当時でも感心しましたね(業務用端末的でもある)。その分、先の親戚から見せてもらったMZ-80K、個人的に買ったM5やMSX2はキーボードが貧弱だなあと思ってました。
健康だけ気をつけて 無理しないで、 がんばってほしいです
昔はデパートにPC売り場があって、そこでPET-2001を初めてみたのですが、その傍にMZ-80K2が鎮座していてシャープBASICも含め、これがお手本だったのかと感心したものです。そんな感じで街の小さな電気屋さんに、ベーシックマスターレベルⅡが置いてあったのですが、後にも先にも日立のPCを見たのはそれが最後でした。そもそもお店で取り扱ってくれなかったんですよね。レベルⅢマーク5やS1は安くて魅力的でしたが、シャープユーザーだった私には無縁の存在でした。結局代表的なソフトが1本もないPCが、売れるわけがないということですね。
次世代を担うべくして開発されたレベル3が高価すぎたのよ。30万円をわずかに切る価格、FM8ですら23万円弱だったのに。当時としてはすごいスペックでみんな注目してたけど、高すぎて買えないtと手をこまねいていたところに彗星のように現れたFM8の方が遥かにハイスペックかつ安かったものだからそれにとどめを刺された。ハイレゾグラフィック (とはいっても640*200程度だった) はあったものの色指定は横8ドットごとにしか指定できなかった。これを知ったときはかなり失望したw あとインターレス表示だったはずで、これが目の負担が重かった。インターレスのちらつきを抑えるための長残光のディスプレイで、画面をキャラクタが高速に動き回るようなゲームはかなり厳しかった。ひらがな表示できてもねえ、あんまり嬉しくなかったなwwikipediaにもある通り全体的にBASICの出来が悪かったのもあると思う。
光栄の処女作川中島の合戦はレベル3が最初でしたね。ちゃっくんぽっぷもレベル3で作られたものをタイトーが買い取りました。電波新聞社のアーケード移植でFM向けに多くを移植された方はレベル3出身でした。
レベル3はFM-8に吹っ飛ばされた
たしか中学のクラブ活動で見たPCがこれだったと思います。スイッチが所謂白物家電とおなじですからねー。ちなみに日立製作所というと、洗浄のほうのど真ん中に芯の様な「からまん棒」とかいうのがあった洗濯機(もちろん二層式)のcmがいまだに印象的でしたがあれは80年代前半ですから、それよりも前になりますね。
開発の経緯や部門を見てると新日本電気(後の日本電気HE)が中心になって開発した、PC-6000シリーズやPC-8000シリーズが頭に浮かんでくる。当時は個人向けの事業なんて儲かる訳無いとか言われてたけど、その後のパソコンブームを見れば先見の明は十分あったかな。今じゃ、こんな冒険出来ないだろうけど・・・。
日立が日本のパソコンを開拓したんだなぁ
日立とモトローラの関係も愛憎まみれていて面白いですね。
この時代のパソコン雑誌にゲームのプログラムが掲載されないと厳しいかもね。
日立はその後MSXに移行することになるが、ここでもあまりぱっとしなかった感じ。
これ所有してました!LISTコマンドで表示されるプログラムのスクロールスピードを英数、カナキーで制御でき、止めるのはBREAKキーでした。ところがスピードを調節するキーとBREAKキーの組み合わせでリセットがかかるトンデモ設計で作成中のプログラム何回か飛ばしてしまったことありました
贔屓にしてた電気屋さんが私がパソコンに興味津々であることを知って1ヶ月お貸ししますよと言ってくださって
ベーシックマスターJr.を貸して下さったことがあります。打ち込んだプログラムをカセットに保存してお返ししましたが
我が家ではパソコンの購入なんて夢のまた夢だった時代に貴重な体験をさせて頂きその後の進路にも影響を与えてくれました。
小学生のころ、シャープに勤めていた親戚から初代を譲ってもらって遊んでました。日本で最古級の個人用マシンなのに筐体もキーボードもしっかりしていたのは当時でも感心しましたね(業務用端末的でもある)。その分、先の親戚から見せてもらったMZ-80K、個人的に買ったM5やMSX2はキーボードが貧弱だなあと思ってました。
健康だけ気をつけて 無理しないで、 がんばってほしいです
昔はデパートにPC売り場があって、そこでPET-2001を初めてみたのですが、その傍にMZ-80K2が鎮座していてシャープBASICも含め、これがお手本だったのかと感心したものです。そんな感じで街の小さな電気屋さんに、ベーシックマスターレベルⅡが置いてあったのですが、後にも先にも日立のPCを見たのはそれが最後でした。そもそもお店で取り扱ってくれなかったんですよね。
レベルⅢマーク5やS1は安くて魅力的でしたが、シャープユーザーだった私には無縁の存在でした。結局代表的なソフトが1本もないPCが、売れるわけがないということですね。
次世代を担うべくして開発されたレベル3が高価すぎたのよ。30万円をわずかに切る価格、FM8ですら23万円弱だったのに。当時としてはすごいスペックでみんな注目してたけど、高すぎて買えないtと手をこまねいていたところに彗星のように現れたFM8の方が遥かにハイスペックかつ安かったものだからそれにとどめを刺された。
ハイレゾグラフィック (とはいっても640*200程度だった) はあったものの色指定は横8ドットごとにしか指定できなかった。これを知ったときはかなり失望したw あとインターレス表示だったはずで、これが目の負担が重かった。インターレスのちらつきを抑えるための長残光のディスプレイで、画面をキャラクタが高速に動き回るようなゲームはかなり厳しかった。ひらがな表示できてもねえ、あんまり嬉しくなかったなw
wikipediaにもある通り全体的にBASICの出来が悪かったのもあると思う。
光栄の処女作川中島の合戦はレベル3が最初でしたね。
ちゃっくんぽっぷもレベル3で作られたものをタイトーが買い取りました。
電波新聞社のアーケード移植でFM向けに多くを移植された方はレベル3出身でした。
レベル3はFM-8に吹っ飛ばされた
たしか中学のクラブ活動で見たPCがこれだったと思います。スイッチが所謂白物家電とおなじですからねー。
ちなみに日立製作所というと、洗浄のほうのど真ん中に芯の様な「からまん棒」とかいうのがあった洗濯機(もちろん二層式)のcmがいまだに印象的でしたがあれは80年代前半ですから、それよりも前になりますね。
開発の経緯や部門を見てると新日本電気(後の日本電気HE)が中心になって開発した、PC-6000シリーズやPC-8000シリーズが頭に浮かんでくる。
当時は個人向けの事業なんて儲かる訳無いとか言われてたけど、
その後のパソコンブームを見れば先見の明は十分あったかな。
今じゃ、こんな冒険出来ないだろうけど・・・。
日立が日本のパソコンを開拓したんだなぁ
日立とモトローラの関係も愛憎まみれていて面白いですね。
この時代のパソコン雑誌にゲームのプログラムが掲載されないと厳しいかもね。
日立はその後MSXに移行することになるが、ここでもあまりぱっとしなかった感じ。