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さおりさん今日の衣装素敵ですね。上杉転封の背景、個人的には父祖からの越後への地縁と分断したい秀吉の戦略かなと思ってましたがそれ以外の理由について改めて勉強になりました。
宮城生まれで米沢市や会津若松や上越市に暮らした経験を持つ自分は上杉や伊達や直江や保科や蒲生は馴染みの武将。
徳川伊達最上は代々の家臣団の結束が強い それに対抗するには負けず劣らずの家格と家臣団を備える家である必要があるので上杉家は適任だったと でも秀吉の上杉の力を削ぐ意図もあったと思う 上杉、佐竹、真田、東海道の豊臣恩顧大名達で徳川を抑え込んでほしいという秀吉の思いと裏腹にいざ戦となればグダグダ… さぞ無念でしょうね
東海道の福島,池田,浅野は徳川に恩もあるかな。
会津と米沢は宇喜多秀家に与えれば加賀の前田、越後の上杉とともに徳川、最上、伊達に対抗出来たでしょうね、欲を言えば真田に信濃1国を与えていれば完璧でした。
徳川と伊達に睨みを利かせる重要地会津を、任せられるのは、 上杉景勝以外いませんね😄
最上は豊臣から徳川に靡いて当たり前
娘の駒姫が秀次切腹に連座して処刑されましたからね。
@@りつでん その通りです
秀吉は兼続に米沢35万石を与えて欲しがったので、会津転封もやむ終えないですね。出来れば氏郷には別の所で景勝にもっと早く会津へ転封させればと思いますね。
家康関東転封のち織田信雄はそれを断って改易されたのだが、蒲生氏郷に(無理筋で上杉景勝でも)家康旧領を与えていたら東山道東海道に德川領に直接長い国境線を接する大大名が存在するため天下取りは難しかったでしょう。現に山形最上領や岩出山伊達領や越後堀領が貼り付いている會津上杉領比べ、常陸佐竹領以外50万石クラスの大名と直接接して居なかった家康は国境(くにざかい)を巡る争いも殆どなく内政に力を入れ関ケ原決戦までの力を蓄えることが出来たと思います。
東海道のような街道筋の国に数十万石クラスの大名を置く事は、徳川への抑えになると共にその大名の謀反のリスクも抱えるので、信用のおける上杉さんでも、難しかったんじゃ無いかと思います。とはいえ、徳川対策としては利にかなってますよね。
転封から10年という基盤作りの時間があったのも幸いしただろう。
ある大河ドラマでは徳川家康が何かした場合上杉景勝が背後から攻めろと豊臣秀吉から言われてました
上杉謙信は跡継ぎを決めなかったので弱体化を招いた
ご先祖が景虎派の足軽だったそうで、地元のお城も景虎派で最後は兼続軍に敗戦したそうです。大変勉強になります。ありがとうございます。400年経っても景虎様への思いがあるのはふしぎですね。^0^
会津は守りは良いけど、攻めに出られる場所ではないですよね。冬は全く動けないし。時系列がおかしなこと言いますけど、上杉を当初から豊臣を支えると東国の柱として信任しているなら、徳川に関東を与えた時に上州を上杉に与えて北から徳川を抑えることを考えていたほうが良かったのでは。真田には沼田の代わりに北信松代あたり与えて上杉の与力化して、常陸は佐竹が居る。そうなれば下野の武将たちも上杉佐竹の与力化するだろうし。北関東で徳川を抑えられたかなと妄想します。
流石に初めの方から味方だった上杉景勝に対して減給的なことはちょっと
徳川に対抗するでわないと思います。東北は伊達と最上、いずれも秀次事件の失意者(つまり不審な人物)。徳川と前田(大阪と伏見で)、毛利と宇喜多、お互い牽制の狙いだうう。会津転封は上杉とて予想外です。堀秀治にて『越後に移封された際、前国主の上杉景勝の家老である直江兼続が前半歳の租税を徴したので、返還を求めたが、上杉氏はこれを拒否した』。上杉景勝はかなり怒っていると思います。しかし、これで堀氏との関係は悪くなり。その後、堀秀治は上杉は謀反の企ありと家康に伝え、さらに藤田の出奔もあり、会津征伐のきっかけとなだ。
従属のとこを従軍と言ってました
まぁ上杉以外は理由も無さそうではあるかな
会津に島津を移封したらどうなったのだろうか?
島津激おこ、、、の可能性も。でも島津兄弟を分断する意味で、義弘独立移封とかなら。
@@大仏親方 普通なら島津ブチ切れ徹底抗戦ルートになるだろう。島津義久に本領安堵で次弟の義弘に別で所領を与えるならあり得るかな?それでも会津はないかな・・・とは思います。
越後から会津に転封加増じゃなくて、越後+会津だったら徳川も伊達、最上も牽制できたのにな〜って考えてしまう。まー、ありえないけど
そこまで大大名になってしまうと、上杉自体が脅威になってしまいますし、難しいでしょうね。でも考えてしまいますね。
会津は誰でも欲しがる土地。あそこは生産力が桁違い。当時の宮城県の仙台は沼地。福島県中通りは荒れ地。会津は絶えず猪苗代からの水を利用でき、東北でありながら盆地によって「やませ」の影響を受けにくい。縄文時代から人が住んでいて、遺構が多数残る土地、しかも会津には鮭が遡上してきていた。敵は会津まで来るのに苦労する、味方は穀倉地帯の会津で耐えることができる。となればそこに信頼のおける武将を置くのは必定。そして豊臣政権はおそらく上杉景勝の資金力をアテにして「神指城」などの城砦を完成させ、徳川と対抗することを望んでいた。まぁ現実的には上杉景勝は、土豪統治に関して下手で資材と人材を集めきれずに城が未完のままで徳川に宣戦布告。おそらく日時は豊臣政権側と事前で計画していたのだろうと思うが・・・。
日本史を通じて会津を担当した統治者は概ね碌な目にあっていない。
徳川家康を封じ込めるなら「駿河・遠江に上杉景勝を移封」すべきです。
徳川だけじゃなくて、伊達や最上を牽制監視する役割もあったから。
蒲生さんがお亡くなりに痛いですね景勝では戦線を支えきれませんでしたね 米沢は蒲生さんがいればね と残念ですわ
伊達の抑えとアイヌへの対策でしょう。水戸では心許なかったとおもえてならない
家康を警戒していたはずの秀吉はなぜ家康を大老として政権に参画させたのでしょう。信頼もしていたのでしょうか。
さおりしか勝たん
こんばんは
さおりさんは素敵ですが、もう少し小さい画面でも良いような・・・
いや、全画面でも‼️
さおりさん今日の衣装素敵ですね。上杉転封の背景、個人的には父祖からの越後への地縁と分断したい秀吉の戦略かなと思ってましたがそれ以外の理由について改めて勉強になりました。
宮城生まれで米沢市や会津若松や上越市に暮らした経験を持つ自分は上杉や伊達や直江や保科や蒲生は馴染みの武将。
徳川伊達最上は代々の家臣団の結束が強い それに対抗するには負けず劣らずの家格と家臣団を備える家である必要があるので上杉家は適任だったと でも秀吉の上杉の力を削ぐ意図もあったと思う
上杉、佐竹、真田、東海道の豊臣恩顧大名達で徳川を抑え込んでほしいという秀吉の思いと裏腹にいざ戦となればグダグダ… さぞ無念でしょうね
東海道の福島,池田,浅野は徳川に恩もあるかな。
会津と米沢は宇喜多秀家に与えれば加賀の前田、越後の上杉とともに徳川、最上、伊達に対抗出来たでしょうね、欲を言えば真田に信濃1国を与えていれば完璧でした。
徳川と伊達に睨みを利かせる重要地会津を、
任せられるのは、 上杉景勝以外いませんね😄
最上は豊臣から徳川に靡いて当たり前
娘の駒姫が秀次切腹に連座して処刑されましたからね。
@@りつでん その通りです
秀吉は兼続に米沢35万石を与えて
欲しがったので、
会津転封もやむ終えないですね。
出来れば氏郷には別の所で
景勝にもっと早く会津へ転封させればと
思いますね。
家康関東転封のち織田信雄はそれを断って改易されたのだが、蒲生氏郷に(無理筋で上杉景勝でも)家康旧領を与えていたら東山道東海道に德川領に直接長い国境線を接する大大名が存在するため天下取りは難しかったでしょう。現に山形最上領や岩出山伊達領や越後堀領が貼り付いている會津上杉領比べ、常陸佐竹領以外50万石クラスの大名と直接接して居なかった家康は国境(くにざかい)を巡る争いも殆どなく内政に力を入れ関ケ原決戦までの力を蓄えることが出来たと思います。
東海道のような街道筋の国に数十万石クラスの大名を置く事は、徳川への抑えになると共に
その大名の謀反のリスクも抱えるので、信用のおける上杉さんでも、難しかったんじゃ無いかと思います。
とはいえ、徳川対策としては利にかなってますよね。
転封から10年という基盤作りの時間があったのも幸いしただろう。
ある大河ドラマでは徳川家康が何かした場合上杉景勝が背後から攻めろと豊臣秀吉から言われてました
上杉謙信は跡継ぎを決めなかったので弱体化を招いた
ご先祖が景虎派の足軽だったそうで、地元のお城も景虎派で最後は兼続軍に敗戦したそうです。大変勉強になります。ありがとうございます。400年経っても景虎様への思いがあるのはふしぎですね。^0^
会津は守りは良いけど、攻めに出られる場所ではないですよね。冬は全く動けないし。時系列がおかしなこと言いますけど、上杉を当初から豊臣を支えると東国の柱として信任しているなら、徳川に関東を与えた時に上州を上杉に与えて北から徳川を抑えることを考えていたほうが良かったのでは。真田には沼田の代わりに北信松代あたり与えて上杉の与力化して、常陸は佐竹が居る。そうなれば下野の武将たちも上杉佐竹の与力化するだろうし。北関東で徳川を抑えられたかなと妄想します。
流石に初めの方から味方だった上杉景勝に対して減給的なことはちょっと
徳川に対抗するでわないと思います。東北は伊達と最上、いずれも秀次事件の失意者(つまり不審な人物)。
徳川と前田(大阪と伏見で)、毛利と宇喜多、お互い牽制の狙いだうう。
会津転封は上杉とて予想外です。堀秀治にて『越後に移封された際、前国主の上杉景勝の家老である直江兼続が前半歳の租税を徴したので、返還を求めたが、上杉氏はこれを拒否した』。上杉景勝はかなり怒っていると思います。しかし、これで堀氏との関係は悪くなり。その後、堀秀治は上杉は謀反の企ありと家康に伝え、さらに藤田の出奔もあり、会津征伐のきっかけとなだ。
従属のとこを従軍と言ってました
まぁ上杉以外は理由も無さそうではあるかな
会津に島津を移封したらどうなったのだろうか?
島津激おこ、、、の可能性も。
でも島津兄弟を分断する意味で、義弘独立移封とかなら。
@@大仏親方 普通なら島津ブチ切れ徹底抗戦ルートになるだろう。
島津義久に本領安堵で次弟の義弘に別で所領を与えるならあり得るかな?
それでも会津はないかな・・・とは思います。
越後から会津に転封加増じゃなくて、越後+会津だったら徳川も伊達、最上も牽制できたのにな〜って考えてしまう。
まー、ありえないけど
そこまで大大名になってしまうと、上杉自体が脅威になってしまいますし、難しいでしょうね。
でも考えてしまいますね。
会津は誰でも欲しがる土地。あそこは生産力が桁違い。
当時の宮城県の仙台は沼地。福島県中通りは荒れ地。会津は絶えず猪苗代からの水を利用でき、東北でありながら盆地によって「やませ」の影響を受けにくい。
縄文時代から人が住んでいて、遺構が多数残る土地、しかも会津には鮭が遡上してきていた。
敵は会津まで来るのに苦労する、味方は穀倉地帯の会津で耐えることができる。
となればそこに信頼のおける武将を置くのは必定。
そして豊臣政権はおそらく上杉景勝の資金力をアテにして「神指城」などの城砦を完成させ、徳川と対抗することを望んでいた。
まぁ現実的には上杉景勝は、土豪統治に関して下手で資材と人材を集めきれずに城が未完のままで徳川に宣戦布告。おそらく日時は豊臣政権側と事前で計画していたのだろうと思うが・・・。
日本史を通じて会津を担当した統治者は概ね碌な目にあっていない。
徳川家康を封じ込めるなら「駿河・遠江に上杉景勝を移封」すべきです。
徳川だけじゃなくて、伊達や最上を牽制監視する役割もあったから。
蒲生さんがお亡くなりに痛いですね
景勝では戦線を支えきれませんでしたね 米沢は蒲生さんがいればね と残念ですわ
伊達の抑えとアイヌへの対策でしょう。水戸では心許なかったとおもえてならない
家康を警戒していたはずの秀吉はなぜ家康を大老として政権に参画させたのでしょう。信頼もしていたのでしょうか。
さおりしか勝たん
こんばんは
さおりさんは素敵ですが、もう少し小さい画面でも良いような・・・
いや、全画面でも‼️