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まだまだ2期諦めずに待ってるぞー!!
OPもEDも好きだった
そんなにたくさんの作品を見てを観てる訳じゃないけど、オリジナルアニメの第一話にあれだけワクワクしたのは無い次回が楽しみで仕方なかった
岩代太郎さんの手掛けるBGMもいいんだよなぁ
主役機が量産機なのに優秀で個性的なAIと歴代のロボットアニメでも上位に入りそうな性能なのが良かった(対人レーザーの極悪さとか)。
最後の怒涛の戦闘からのチェインバーのくたばれ、ブリキ野郎はなんども泣ける。本当に復活してくれ
チェインバーがレドを緊急離脱させる直前にレドに言った「この星で生きなさい」は涙腺崩壊
あのシーンマジでホントにズルい…泣かないわけがないじゃん…
本当の名作だよ。いつバズってもおかしくない。
貝楽天はコンビニで売ってたからね仕方ないね。ナウシカラピュタじゃなくて、未来少年コナンな。コナン+フルメタ(ナムサク)で船団もの(マクロスFあたり?)
男と男の友情物語だったと思うが?純真な少年と男らしいロボットの友情物語。
第13話の「生存せよ、探究せよ、その命に最大の成果を期待する。」このセリフが、圧倒的な重みをもつ。テーマ性という点では、日本のアニメ史上最も社会科学(社会思想)における、<人の生き方を提示した>最高傑作と評したい作品だ。 そもそも原作者が、紹介されていない。オケアヌスとか書いてあるが、神話の神様の名前を出しているだけ。 これまでの、そしてその後に登場しているアニメ作品を見ても、この作品のような物語の展開の在り方、つまり、弁証法的叙述は、まず見られない。 「弁証法」とは、ヘーゲル論理学における思考様式のこと。また、弁証法という用語は、文学部や経済学部の論理学などの科目の中で登場する。最近では、大学院修士課程以上でなければ、取り上げることが見られなくなったと言ってもよいだろう。 弁証法を社会科学とりわけ経済学に適用したのが、カール・マルクスという19世紀の哲学者・思想家・経済学者。 日本では、戦前から戦後の一定期間にかけて、「人間性の発展」や「自己実現」「全人格的発展」「全面的人間性の発展」と言う表現が、用いられた。高校生の倫理社会などの科目で取り上げられるマズローの欲求の五段階の最後の欲求が、この自己実現ということになる。就職試験などに時々当住する用語と言ってもよいかもしれない。 高校生や大学生になって、いざ社会に出て、自分の足で立って、自分の力で生きなければならなくなったとき、つまり、どんな仕事に就けばよいのかと悩むときに、何を通じて生きていくのかと言う課題に多くの若者は、直面する。「何を通じて生きるのか」具体的には「どんな職業に就くべきなのか」ということとして、意識されるようになる。 第13話のなかで、レドが、「俺は、死に方はわかっても、生き方がわからない。」と言っているが、この「生き方」というセリフが、「何を通じて生きるのか」そして、それによりどのようにして自己を実現して言うのか、という若者として、人としての悩みを打ち明けたセリフと言ってもいいだろう。 特に第13話にこの物語が、弁証法で語られていたことをはっきりと語っているシーンがいくつもある。というか、この13話で作者が、主張したいこと、あるいは、言いたいことが、そしてこの作品のメインテーマが表現されていると断言できる。そのために延々と12話を語ってきたと言っても言い過ぎになはらないだろう。 ストライカーが「私は、人類啓発支援システム、すなわち、『神』と呼ばれる存在である」と言うセリフがあるが、このセリフこそが、オケアヌスという原作者が、フォイエルバッハの『キリスト教の本質』で述べられている「疎外」を用いて、この物語を弁証法的展開の下で語ってきたことを示していると言える。 この物語の中で弁証法で描かれている関係として、次のことが言えるだろう。すなわち、レドとチェインバー、また、このレドとチェインバーの両者の関係を通じてのそれぞれの成長、つまり、レドの成長過程とチェンバーの変化。ストライカーとそれに支配されている人々。 13話におけるチェンバーのセリフの変化が、とりわけ印象的である言いたい。第一話などで見られるチェンバーの決まり文句は、「私はパイロット啓発支援システム、貴方が、より多くに成果を獲得することで、私の存在意義は達成される」、ここでのより多くの成果とは、ヒディアーズを倒すことである。このセリフが、13話では、「生存せよ、探究せよ、その命に最大の成果を期待する。」つまり、「その命に最大の成果」へと変化していることに気づく。「その命」いうセリフが、付け加わっている。この「その命」の一言が、チェンバーの中にみる成長を指示しているとともに、この物語を通じてのレドの「全面的人間性の発展」あるいは人としての成長の弁証法的展開を示している表現であると強調したい。 日本のアニメ史上でこれほどまでに社会思想における「全人格的発展」や弁証法を取り入れた作品は、存在しなかったと思う。
読んでて思ったこと①弁証法の歴史とかの説明要らないんじゃね?中身の説明するか、いっそ説明しない方が話の通りが良い気がする。②新しい考え方を持つようになって、最初と似て非なる発言をする弁証法的展開が盛り上がるのはわかる。でもまぁ1王道の一つであって、言うほどこのアニメ特有か?「弁証法」って言うけど要するに対立意見から何かが生まれるって話よな。それ自体はアニメでもよくある話では?AIロボットとパイロットでそれしてるのは珍しいかも。しかも主人公がいた組織が不穏そうだし、チェインバー何考えてるかわかりづらくて、視聴中はレドを処分したりするのではというスリルもあったな
「①弁証法の歴史とかの説明要らないんじゃね?」とのことですが、まさにその通りですよ。だから、原作者が、オケアヌス って書いてあるわけですよ。弁証法がどうのこうのとかそういうことよりも、見て楽しんでほしいというのが、作者の意図でしょう。 とはいえ、フォイエルバッハの『キリスト教の本質』やカール・マルクスの思想などを学んだことのある者には、この物語が弁証法的展開で描かれていることが、一目瞭然であって、これほど明確に社会思想の知識を背後に隠して作成されたアニメ作品は、日本アニメ史上においてなかったと私は強く言いたい。 さらに言えば、「人」あるいは「人として生きるということ」を弁証法の展開の下で描いているということです。物語を通じて、つまり、レドとチェインバーとの弁証法的関係の下で、主人公のレドが、次第に「人」として成長していくという展開が極めて明確に描かれているということです。しかし、視聴している多くの人々には、そんなことはわからないでしょうし、理解する必要も、弁証法や「自己実現」などを意識する必要もないのです。 「チェインバー何考えてるかわかりづらくて」とのことですが、チェインバーは、レドの鏡ですよ。第13話でチェインバーがストライカーに対して言ったセリフに「レド少尉は、この想定外の環境において、常に人として思考し、判断した。よって、当機もまた今なお正常に機能している。」とあります。なんでレド少尉が人として思考し、判断することと、チェインバーが正常に機能することと関係あるのでしょうか?それは、チェインバーが、レドの鏡だからですよ。つまり、チェインバーは、レド(an sich)にとっての対立物(für sich)の関係にあるということです。毛沢東の『矛盾論』の用語を用いれば、レドが、矛盾(対立物)の主要な側面に位置付けられることに対して、チェインバーは、矛盾の(対立物の)副次的側面にあるということです。レドとチェインバーの両者があって、初めて一つの存在として成り立っているということです(構造的矛盾)。だから、チェインバーが、爆発して消滅したことで、この13話で構成された物語は、終了するわけです。しかし、そのことは、レド自身が、否定の否定(an sich ~für sich~an und für sich)というトリアーデ(3つの関係)を経て、大人になっていったということです。チェインバーのセリフでは「彼に支援は必要ない」と表現さている状態になったということです(過程的矛盾)。 この物語は、レドとチェインバーの関係(構造的矛盾と過程的矛盾)、ストライカーとそれに依存する人々との関係(つまり、「神」という人間にとって疎遠なものとしての関係、いわゆる『疎外』die Entfremdung)、という複数の弁証法的構図で構成されていると言えるでしょう。 付け加えれば、チェインバーのセリフの「レド少尉は、この想定外の環境において、常に人として思考し、判断した。」とは、クジライカの子供たちを殺してしまったことに対して、そのことを極めて強く嫌悪し、クジライカを殺すことに対して「俺にはできない」と深い苦悩の末結論を出したことに現れていると言えるでしょう。チェインバーとの対話の中で「もとは人間だった」とレドは言い、クジライカに対して共感の念を抱くようになったと言えるでしょう。このことが、クーゲル大佐とは異なり、レドが、より人として思考し、判断したと言えるでしょう。 『「弁証法」って言うけど要するに対立意見から何かが生まれるって話よな。それ自体はアニメでもよくある話では?』については、この物語ほど、弁証法を全面的に採用して構成し、かつ、「人」の成長を弁証法で描いた作品は、これまで見たことがないと私には強く感じ取れたのです。
あ、すみません、①に関してはガルガンティアではなく貴方のコメントに対してのコメントですw弁証法の説明始ま…らんのかい!ってなったので。歴史の話は前フリかと思ったら、すぐ終わって話戻ったのにびっくりしただけです。いや、いいんですけどね。次に、「チェインバーなに考えてるのか分かりづらくて」についてですが、これはもっと単純な感想です。顔をピクリとも動かさない相棒とか、放送当時は腹の底が読みづらい感もあってハラハラしたので…。謎の未来ロボに人間の文脈をどこまで適用できるのか…そして、チェインバーは「鏡」というか対比関係ぐらいかなぁと。生きる理由を教わったと涙を流すレド少尉が生き延びるのと、レド少尉の可能性に万歳ってことで命を対価にするチェインバーは対比的に感じますね。レドとチェインバーは共に過ごし、対話し、変化してきましたが、ここに来て敵との戦いを通して全く違う向き合い方をしているように思えます。「鏡」と表現するほど一致していたり真逆だったりしないかなぁと思いました。それにレドとチェインバーの両者があって初めて一つの存在、とは言いますが、話の中盤で別行動した回もあり、ちょっと言いすぎなようにも感じます。それに、「レドの鏡」が、「くたばれ、ブリキ野郎」と言うのは違和感、これはだいぶ個を確立してないか?遊戯王だって遊戯とアテムの弁証法、まどかは劇場版で叛逆する弁証法では?なんか結局、モノは言いようみたいなとこある気がする。当てはめて喋ってみれば結構当てはまっちゃうような〜
小説で一応スッキリ終わらせたからなでも宇宙での戦いは続いてるだろうからそっちを主眼にしたロボットアニメ作って欲しいマシンキャリバーいいデザインしてるし
キングゲイナー&エウレカセブン[…寧(むし)ろ女の子にもお薦め出来るんだよなぁ〜…]
イボルバーさん、地球脱出時にはまだ知性あったのに、どうしてああなった…。生物としては成功でも、人としてはやっぱダメだろ。あそこまでして生き残りたいとは思わんわ。
まだまだ2期諦めずに待ってるぞー!!
OPもEDも好きだった
そんなにたくさんの作品を見てを観てる訳じゃないけど、オリジナルアニメの第一話にあれだけワクワクしたのは無い
次回が楽しみで仕方なかった
岩代太郎さんの手掛けるBGMもいいんだよなぁ
主役機が量産機なのに優秀で個性的なAIと歴代のロボットアニメでも上位に入りそうな性能なのが良かった(対人レーザーの極悪さとか)。
最後の怒涛の戦闘からのチェインバーのくたばれ、ブリキ野郎はなんども泣ける。本当に復活してくれ
チェインバーがレドを緊急離脱させる直前にレドに言った「この星で生きなさい」は涙腺崩壊
あのシーンマジでホントにズルい…泣かないわけがないじゃん…
本当の名作だよ。いつバズってもおかしくない。
貝楽天はコンビニで売ってたからね仕方ないね。
ナウシカラピュタじゃなくて、未来少年コナンな。コナン+フルメタ(ナムサク)で船団もの(マクロスFあたり?)
男と男の友情物語だったと思うが?純真な少年と男らしいロボットの友情物語。
第13話の「生存せよ、探究せよ、その命に最大の成果を期待する。」このセリフが、圧倒的な重みをもつ。テーマ性という点では、日本のアニメ史上最も社会科学(社会思想)における、<人の生き方を提示した>最高傑作と評したい作品だ。
そもそも原作者が、紹介されていない。オケアヌスとか書いてあるが、神話の神様の名前を出しているだけ。
これまでの、そしてその後に登場しているアニメ作品を見ても、この作品のような物語の展開の在り方、つまり、弁証法的叙述は、まず見られない。
「弁証法」とは、ヘーゲル論理学における思考様式のこと。また、弁証法という用語は、文学部や経済学部の論理学などの科目の中で登場する。最近では、大学院修士課程以上でなければ、取り上げることが見られなくなったと言ってもよいだろう。
弁証法を社会科学とりわけ経済学に適用したのが、カール・マルクスという19世紀の哲学者・思想家・経済学者。
日本では、戦前から戦後の一定期間にかけて、「人間性の発展」や「自己実現」「全人格的発展」「全面的人間性の発展」と言う表現が、用いられた。高校生の倫理社会などの科目で取り上げられるマズローの欲求の五段階の最後の欲求が、この自己実現ということになる。就職試験などに時々当住する用語と言ってもよいかもしれない。
高校生や大学生になって、いざ社会に出て、自分の足で立って、自分の力で生きなければならなくなったとき、つまり、どんな仕事に就けばよいのかと悩むときに、何を通じて生きていくのかと言う課題に多くの若者は、直面する。「何を通じて生きるのか」具体的には「どんな職業に就くべきなのか」ということとして、意識されるようになる。
第13話のなかで、レドが、「俺は、死に方はわかっても、生き方がわからない。」と言っているが、この「生き方」というセリフが、「何を通じて生きるのか」そして、それによりどのようにして自己を実現して言うのか、という若者として、人としての悩みを打ち明けたセリフと言ってもいいだろう。
特に第13話にこの物語が、弁証法で語られていたことをはっきりと語っているシーンがいくつもある。というか、この13話で作者が、主張したいこと、あるいは、言いたいことが、そしてこの作品のメインテーマが表現されていると断言できる。そのために延々と12話を語ってきたと言っても言い過ぎになはらないだろう。
ストライカーが「私は、人類啓発支援システム、すなわち、『神』と呼ばれる存在である」と言うセリフがあるが、このセリフこそが、オケアヌスという原作者が、フォイエルバッハの『キリスト教の本質』で述べられている「疎外」を用いて、この物語を弁証法的展開の下で語ってきたことを示していると言える。
この物語の中で弁証法で描かれている関係として、次のことが言えるだろう。すなわち、レドとチェインバー、また、このレドとチェインバーの両者の関係を通じてのそれぞれの成長、つまり、レドの成長過程とチェンバーの変化。ストライカーとそれに支配されている人々。
13話におけるチェンバーのセリフの変化が、とりわけ印象的である言いたい。第一話などで見られるチェンバーの決まり文句は、「私はパイロット啓発支援システム、貴方が、より多くに成果を獲得することで、私の存在意義は達成される」、ここでのより多くの成果とは、ヒディアーズを倒すことである。このセリフが、13話では、「生存せよ、探究せよ、その命に最大の成果を期待する。」つまり、「その命に最大の成果」へと変化していることに気づく。「その命」いうセリフが、付け加わっている。この「その命」の一言が、チェンバーの中にみる成長を指示しているとともに、この物語を通じてのレドの「全面的人間性の発展」あるいは人としての成長の弁証法的展開を示している表現であると強調したい。
日本のアニメ史上でこれほどまでに社会思想における「全人格的発展」や弁証法を取り入れた作品は、存在しなかったと思う。
読んでて思ったこと
①弁証法の歴史とかの説明要らないんじゃね?中身の説明するか、いっそ説明しない方が話の通りが良い気がする。
②新しい考え方を持つようになって、最初と似て非なる発言をする弁証法的展開が盛り上がるのはわかる。でもまぁ1王道の一つであって、言うほどこのアニメ特有か?
「弁証法」って言うけど要するに対立意見から何かが生まれるって話よな。それ自体はアニメでもよくある話では?
AIロボットとパイロットでそれしてるのは珍しいかも。しかも主人公がいた組織が不穏そうだし、チェインバー何考えてるかわかりづらくて、視聴中はレドを処分したりするのではというスリルもあったな
「①弁証法の歴史とかの説明要らないんじゃね?」とのことですが、まさにその通りですよ。だから、原作者が、オケアヌス って書いてあるわけですよ。弁証法がどうのこうのとかそういうことよりも、見て楽しんでほしいというのが、作者の意図でしょう。
とはいえ、フォイエルバッハの『キリスト教の本質』やカール・マルクスの思想などを学んだことのある者には、この物語が弁証法的展開で描かれていることが、一目瞭然であって、これほど明確に社会思想の知識を背後に隠して作成されたアニメ作品は、日本アニメ史上においてなかったと私は強く言いたい。
さらに言えば、「人」あるいは「人として生きるということ」を弁証法の展開の下で描いているということです。物語を通じて、つまり、レドとチェインバーとの弁証法的関係の下で、主人公のレドが、次第に「人」として成長していくという展開が極めて明確に描かれているということです。しかし、視聴している多くの人々には、そんなことはわからないでしょうし、理解する必要も、弁証法や「自己実現」などを意識する必要もないのです。
「チェインバー何考えてるかわかりづらくて」とのことですが、チェインバーは、レドの鏡ですよ。第13話でチェインバーがストライカーに対して言ったセリフに「レド少尉は、この想定外の環境において、常に人として思考し、判断した。よって、当機もまた今なお正常に機能している。」とあります。なんでレド少尉が人として思考し、判断することと、チェインバーが正常に機能することと関係あるのでしょうか?それは、チェインバーが、レドの鏡だからですよ。つまり、チェインバーは、レド(an sich)にとっての対立物(für sich)の関係にあるということです。毛沢東の『矛盾論』の用語を用いれば、レドが、矛盾(対立物)の主要な側面に位置付けられることに対して、チェインバーは、矛盾の(対立物の)副次的側面にあるということです。レドとチェインバーの両者があって、初めて一つの存在として成り立っているということです(構造的矛盾)。だから、チェインバーが、爆発して消滅したことで、この13話で構成された物語は、終了するわけです。しかし、そのことは、レド自身が、否定の否定(an sich ~für sich~an und für sich)というトリアーデ(3つの関係)を経て、大人になっていったということです。チェインバーのセリフでは「彼に支援は必要ない」と表現さている状態になったということです(過程的矛盾)。
この物語は、レドとチェインバーの関係(構造的矛盾と過程的矛盾)、ストライカーとそれに依存する人々との関係(つまり、「神」という人間にとって疎遠なものとしての関係、いわゆる『疎外』die Entfremdung)、という複数の弁証法的構図で構成されていると言えるでしょう。
付け加えれば、チェインバーのセリフの「レド少尉は、この想定外の環境において、常に人として思考し、判断した。」とは、クジライカの子供たちを殺してしまったことに対して、そのことを極めて強く嫌悪し、クジライカを殺すことに対して「俺にはできない」と深い苦悩の末結論を出したことに現れていると言えるでしょう。チェインバーとの対話の中で「もとは人間だった」とレドは言い、クジライカに対して共感の念を抱くようになったと言えるでしょう。このことが、クーゲル大佐とは異なり、レドが、より人として思考し、判断したと言えるでしょう。
『「弁証法」って言うけど要するに対立意見から何かが生まれるって話よな。それ自体はアニメでもよくある話では?』については、この物語ほど、弁証法を全面的に採用して構成し、かつ、「人」の成長を弁証法で描いた作品は、これまで見たことがないと私には強く感じ取れたのです。
あ、すみません、①に関してはガルガンティアではなく貴方のコメントに対してのコメントですw弁証法の説明始ま…らんのかい!ってなったので。
歴史の話は前フリかと思ったら、すぐ終わって話戻ったのにびっくりしただけです。
いや、いいんですけどね。
次に、「チェインバーなに考えてるのか分かりづらくて」についてですが、これはもっと単純な感想です。
顔をピクリとも動かさない相棒とか、放送当時は腹の底が読みづらい感もあってハラハラしたので…。謎の未来ロボに人間の文脈をどこまで適用できるのか…
そして、チェインバーは「鏡」というか対比関係ぐらいかなぁと。
生きる理由を教わったと涙を流すレド少尉が生き延びるのと、レド少尉の可能性に万歳ってことで命を対価にするチェインバーは対比的に感じますね。
レドとチェインバーは共に過ごし、対話し、変化してきましたが、ここに来て敵との戦いを通して全く違う向き合い方をしているように思えます。「鏡」と表現するほど一致していたり真逆だったりしないかなぁと思いました。それにレドとチェインバーの両者があって初めて一つの存在、とは言いますが、話の中盤で別行動した回もあり、ちょっと言いすぎなようにも感じます。
それに、「レドの鏡」が、「くたばれ、ブリキ野郎」と言うのは違和感、これはだいぶ個を確立してないか?
遊戯王だって遊戯とアテムの弁証法、まどかは劇場版で叛逆する弁証法では?なんか結局、モノは言いようみたいなとこある気がする。当てはめて喋ってみれば結構当てはまっちゃうような〜
小説で一応スッキリ終わらせたからな
でも宇宙での戦いは続いてるだろうからそっちを主眼にしたロボットアニメ作って欲しい
マシンキャリバーいいデザインしてるし
キングゲイナー&エウレカセブン[…寧(むし)ろ女の子にもお薦め出来るんだよなぁ〜…]
イボルバーさん、地球脱出時にはまだ知性あったのに、どうしてああなった…。
生物としては成功でも、人としてはやっぱダメだろ。あそこまでして生き残りたいとは思わんわ。