【ゆっくり解説】狂気の殿様「松平忠直」は本当に暴君だったのか?

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  • Опубликовано: 5 ноя 2024

Комментарии • 11

  • @user-hideyasu
    @user-hideyasu 6 дней назад +8

    忠直卿の子孫の者です。ありがとうございました。

    • @すーちゃん-k8i
      @すーちゃん-k8i 6 дней назад

      諸葛孔明の子孫は1万3000人以上いるらしいですね。
      自称自認、思い込みも含めてのことでしょうが。

  • @ズコック-f4n
    @ズコック-f4n 4 дня назад +1

    忠直はキリシタンの可能性がありましたから越前〜越後の領民達の旗印の利用または奥州の伊達政宗に呼応する可能性があったかもしれませんね〜
    確か高山右近、政宗経由だとポルトガル、スペイン系の旧派で幕府友好のイギリスとは敵対してましたから

    • @アフサラールジャラル
      @アフサラールジャラル 3 дня назад +1

      確か漫画の『AMAKUSA1637』はその説で天草で蜂起したキリシタン一党が指導者として担ぎ出そう(当時は豊後に配流)としました。

  • @wa33785
    @wa33785 4 дня назад +1

    忠直と勝姫の子光長は家康存命中唯一の男系曾孫。叔父と交代に越後(髙田)1/3減封となったが、26万石を開墾で40万石位まで上げている(後年の米処新潟県)。尾張、紀伊、水戸、越後、で御四家とまで言われたが、越後騒動で改易。綱吉の私怨による再審が無ければ😔。その後光長は93才まで生きた。旧髙田市(現上越市)には、光長髙田入府時、越前から連れて来た飴屋の粟飴が現在でも名物土産。

  • @武闘派のび太
    @武闘派のび太 6 дней назад +1

    家康から見れば、忠直は「坊主憎けりゃ袈裟までも」の感覚で「秀康憎けりゃ忠直までも」だったのかもしれない。家康は子の一人忠輝にも冷たかったようだから、こういうところに家康の冷淡が垣間見える気がするのは考えすぎか。

  • @snow_nankou
    @snow_nankou 6 дней назад +1

    家康、秀忠の秀康への憎悪の犠牲者

  • @アフサラールジャラル
    @アフサラールジャラル 3 дня назад

    お父さんの結城秀康が剛毅な人で豊臣側の大名にも人望があったのが不幸だった気がしますね。

  • @ダイスケ-i9n
    @ダイスケ-i9n 3 дня назад

    僕、暴君

  • @いでたかゆき-r8i
    @いでたかゆき-r8i 6 дней назад +1

    ーコメです