Размер видео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показать панель управления
Автовоспроизведение
Автоповтор
ヌシさん、OPでっかい!
説は面白いけど屏風絵にらしきものがないしね
今回も面白かったです
周囲の山々が城塞化されていた形跡が発見されて、「西軍は最初から関ケ原で迎え撃つつもりで万端整えていたのだろう」ていう説はかなり昔に聞いたことある。
科学の進歩凄い航空レーザー測量で過去の事実を調べる時代が来るとは
大谷吉継は、もっと前で陣取っていたとも言われる。だから大物で戦死したのは大谷吉継だけだったと。
3年前、関ヶ原古戦場行った時の1番の思い出は福島正則の陣跡が民家の裏の狭いところにポツンとあって家族でと恐る恐る行ったらいきなり新幹線ビューって来てめっちゃびっくりした笑
この番組見てました飛行機を飛ばして、目視では木々で確認できない地形が鮮明にわかり、すごいなあと思いました色んな城跡で測量することで、当時のお城のおおまかな配置までわかるんですよね
新発見あったと思ったら千田先生の話しをそのまま紹介か
秀明君が、西軍にとって呪い祟ったのね。吉川君の盛った文書?なようです?が、
秀頼、輝元が居ない西軍に、どっちみち勝ち目は無い。
1332年頃佐竹義春が築城したと伝わります。戦国時代に美濃竹中氏の家臣が配置されていました。織田信長が浅井朝倉氏滅亡後に廃城❗大正時代には陸軍の玉の火薬庫にされていましたよ。
玉城って赤色立体図またはスーパー地形図で見ると、とても即席で造れるような城ではないんですよね。松尾古城と同じく、元々あそこに中世の山城があったのではないでしょうか。
調べたらNHKの番組をみて現地行かれた方沢山いらっしゃるようですね。現地の説明では南北朝時代に作られた城となっているようです。
1332年頃佐竹義春が築城したと伝わります。
石田三成の陣に入れ代わり立ち代わり党軍主力が攻め寄せたって何度も聞いていたが、それをすべて撃退したというのを、ずっと違和感を持っていました。もちろん、奮戦力闘したのはしたと思うんですが、そんなに何度も跳ね返せるのか。間断なく押し寄せる敵に対して、あまりにも強力すぎないかと。攻城戦だったと考えると腑に落ちるようにも感じます。
関ヶ原町玉にあったから玉城ではないですか?
さおりさん、いつもどこで撮影してるんですか?背景から察するにお寺のようなところ?
今回の話は中々でしたね。これだから歴史は面白いんですよねぇ😁
同じネタで2番組やってたね。NHKの意気込みが半端なかったw
これ、奈良大の外岡教授(元敦賀博物館長)の新説ですよね?本来であれば、大谷吉継が開戦1日前まで陣所にしてた城山に秀頼を招く段取りだったとか、そうでなかったとか。わざわざ地形調査までしてましたね。
施設上の歴史新事実発見はわかるが、島津や吉川の動向理由まで新しい解釈を持ち込むには今の道徳観念や生活環境観念を捨て去り当時の道徳観や生活環境観をきちんと把握した上で新解釈を提案すべきと思ったりして。
さおりさんのライブ見たいt
日本史は、詳しく無いから、この仮説は初めて知りました。この仮説の現地調査が、進みさまざまな角度から検証され、新たな、史実が、誕生するって事になればと考えると、ワクワクします\(^o^)/
そもそも関ケ原自体が、古代の武器製造拠点であり軍事的要衝玉城の地点や、松尾山に織田時代にでも防壁が築かれていてもおかしくない。そして実際にある。松尾山も小早川が陣地を構築したのではなく、それ以前からあったものだし、小早川は先に着陣した連中を追い出している。日本各地、特に戦乱機運が高かった地域では、峠・国境にはいくつも城塞が見られる。もう、車で走っていてもそれは何となく見て取れるほどだ。そして、実際に存在する。(のちに確認する)あとは規模の問題である。ただ、ホントに石田三成が豊臣秀頼を担ぐのであれば安土城を拠点に、佐和山城を捨て駒に使うべきであっただろう。安土城、観音寺城はもとより、八幡山城、長命寺、水茎岡山城、あと、一つ無名の城塞あとがあるが大湿地帯を防壁に琵琶湖水運を握りさえすれば東軍を完全に足止めが可能であった。東軍本隊が合流しても、毛利輝元が出陣していれば勢力は拮抗し、和議は必至の情勢になっていた。
思い付きの逆説珍説の類ではなく、こうして科学的なデータの裏付けを取りながら組み立てられた新説はとても興味深いです。少なからぬ一次史料自体が後年創作や捻じ曲げられたものだとなったら、真実を掘り起こすのは並大抵の事ではないですね。今後の研究に期待大です。
関ヶ原町には玉交差点がありますね
夜襲しかけようとするのは義弘らしいと思うけどなぁ
お疲れ様です沙織さん今日もよろしくお願いします(^_-)-☆
先日、私もこの城の存在を知ると同時に三成は始まる前に敗けを認識したのだろうなと。後は、様々な裏切りや様子見も前提としていたと思うと侘しくて仕方がなかったです。
さおりさん今日もべっぴんさん❤️
そもそも関ヶ原の戦いにおける東軍西軍の別は秀次事件が決定打になったと言えるでしょう。石田三成は豊臣秀次と懇意だった小早川秀秋を最初から味方に引き入れるつもりはありませんでしたし、上杉の会津移封も秀次に娘を嫁がせた最上征伐を目的としたものです。
小山評定に後に東→西へ寝返った田丸直昌はその事実が確認されていない大谷隊の小早川への猛攻時に裏切って大谷勢の負けを確定させた四将(脇坂・朽木・小川・赤座)のうち朽木と赤座は関ヶ原本線に出陣していなかった説もあり細かい武将迄見ていくとどれだけ正しい話で残るのだろうか
英雄たちの選択で千田先生にやってもらいたいー
別番組だけど千田先生がっつりでてたよ
@@monoris2008 ほんとっすか!みたい!
こんな一大歴史イベントでもまだまだ分からないことだらけだからやっぱタイムマシンがいるな
自決に追い込んだ細川ガラシャへの痛切の念から玉城と名付けたのでしょうか。新説ありがとうございます。
秀吉の真似をして忍城に水攻めを仕掛けた三成ですから、またまた秀吉の真似で戦場に城を建てたかっただけじゃないのか?
また、大河ドラマの話の内容も少しは代わりますね⁉
さおりさんこんばんは。今回も分かりやすいナレーションありがとうm(_ _)m新たな新説勉強になります。
タマ屋ぁー
面白い説ですね。にわかには信じ難いですが😅
玉城(たまきたましろたまひめでん)は冷泉姫(島左近)が徳川を笑わせるために作った。つまり島左近の化粧室。しかし、本多は、壬申の乱の趣向と聞いていたから、わざわざもてなしに応じたのに、何か、この有り様は、山城攻めでは無いか!と、怒り狂ったふりをして、戦さの検分役すなわち審判団の小早川隊に襲い掛かった。島左近は「うちは冷泉姫なるぞ?けわいなやつめ、いなかぶと!」と、覆面を取り去った。大谷刑部は関ヶ原以前に病死済み。老女になっていた島左近が生前、大谷刑部に参戦交渉したが、大谷は同意しなかった。ならば、と、大谷を石田は暗殺した。そのため、関ヶ原では島左近は大谷刑部のフリをできた。吉川は、豊臣に侵食された小早川が毛利本家も乗っとるのを防いだ。
さおりさん、相変わらず、美人だよ!城があったと思う場所を発掘調査してみたら!!
ヌシさん、OPでっかい!
説は面白いけど屏風絵にらしきものがないしね
今回も面白かったです
周囲の山々が城塞化されていた形跡が発見されて、「西軍は最初から関ケ原で迎え撃つつもりで万端整えていたのだろう」ていう説はかなり昔に聞いたことある。
科学の進歩凄い
航空レーザー測量で過去の事実を調べる時代が来るとは
大谷吉継は、もっと前で陣取っていたとも言われる。
だから大物で戦死したのは大谷吉継だけだったと。
3年前、関ヶ原古戦場行った時の1番の思い出は福島正則の陣跡が民家の裏の狭いところにポツンとあって家族でと恐る恐る行ったらいきなり新幹線ビューって来てめっちゃびっくりした笑
この番組見てました
飛行機を飛ばして、目視では木々で確認できない地形が鮮明にわかり、すごいなあと思いました
色んな城跡で測量することで、当時のお城のおおまかな配置までわかるんですよね
新発見あったと思ったら千田先生の話しをそのまま紹介か
秀明君が、西軍にとって呪い祟ったのね。吉川君の盛った文書?なようです?が、
秀頼、輝元が居ない西軍に、どっちみち勝ち目は無い。
1332年頃佐竹義春が築城したと伝わります。戦国時代に美濃竹中氏の家臣が配置されていました。織田信長が浅井朝倉氏滅亡後に廃城❗大正時代には陸軍の玉の火薬庫にされていましたよ。
玉城って赤色立体図またはスーパー地形図で見ると、とても即席で造れるような城ではないんですよね。松尾古城と同じく、元々あそこに中世の山城があったのではないでしょうか。
調べたらNHKの番組をみて現地行かれた方沢山いらっしゃるようですね。
現地の説明では南北朝時代に作られた城となっているようです。
1332年頃佐竹義春が築城したと伝わります。
石田三成の陣に入れ代わり立ち代わり党軍主力が攻め寄せたって何度も聞いていたが、
それをすべて撃退したというのを、ずっと違和感を持っていました。
もちろん、奮戦力闘したのはしたと思うんですが、そんなに何度も跳ね返せるのか。間断なく押し寄せる敵に対して、あまりにも強力すぎないかと。攻城戦だったと考えると腑に落ちるようにも感じます。
関ヶ原町玉にあったから玉城ではないですか?
さおりさん、いつもどこで撮影してるんですか?背景から察するにお寺のようなところ?
今回の話は中々でしたね。
これだから歴史は面白いんですよねぇ😁
同じネタで2番組やってたね。
NHKの意気込みが半端なかったw
これ、奈良大の外岡教授(元敦賀博物館長)の新説ですよね?本来であれば、大谷吉継が開戦1日前まで陣所にしてた城山に秀頼を招く段取りだったとか、そうでなかったとか。わざわざ地形調査までしてましたね。
施設上の歴史新事実発見はわかるが、島津や吉川の動向理由まで新しい解釈を持ち込むには今の道徳観念や生活環境観念を捨て去り当時の道徳観や生活環境観をきちんと把握した上で新解釈を提案すべきと思ったりして。
さおりさんのライブ見たいt
日本史は、詳しく無いから、この仮説は初めて知りました。この仮説の現地調査が、進みさまざまな角度から検証され、新たな、史実が、誕生するって事になればと考えると、ワクワクします\(^o^)/
そもそも関ケ原自体が、古代の武器製造拠点であり軍事的要衝
玉城の地点や、松尾山に織田時代にでも防壁が築かれていてもおかしくない。
そして実際にある。松尾山も小早川が陣地を構築したのではなく、それ以前からあったものだし、小早川は先に着陣した連中を追い出している。
日本各地、特に戦乱機運が高かった地域では、峠・国境にはいくつも城塞が見られる。
もう、車で走っていてもそれは何となく見て取れるほどだ。そして、実際に存在する。(のちに確認する)
あとは規模の問題である。
ただ、ホントに石田三成が豊臣秀頼を担ぐのであれば
安土城を拠点に、佐和山城を捨て駒に使うべきであっただろう。
安土城、観音寺城はもとより、八幡山城、長命寺、水茎岡山城、あと、一つ無名の城塞あとがあるが大湿地帯を防壁に
琵琶湖水運を握りさえすれば東軍を完全に足止めが可能であった。
東軍本隊が合流しても、毛利輝元が出陣していれば
勢力は拮抗し、和議は必至の情勢になっていた。
思い付きの逆説珍説の類ではなく、こうして科学的なデータの裏付けを取りながら組み立てられた新説はとても興味深いです。少なからぬ一次史料自体が後年創作や捻じ曲げられたものだとなったら、真実を掘り起こすのは並大抵の事ではないですね。今後の研究に期待大です。
関ヶ原町には玉交差点がありますね
夜襲しかけようとするのは義弘らしいと思うけどなぁ
お疲れ様です沙織さん今日もよろしくお願いします(^_-)-☆
先日、私もこの城の存在を知ると同時に三成は始まる前に敗けを認識したのだろうなと。
後は、様々な裏切りや様子見も前提としていたと思うと侘しくて仕方がなかったです。
さおりさん今日もべっぴんさん❤️
そもそも関ヶ原の戦いにおける東軍西軍の別は秀次事件が決定打になったと言えるでしょう。石田三成は豊臣秀次と懇意だった小早川秀秋を最初から味方に引き入れるつもりはありませんでしたし、上杉の会津移封も秀次に娘を嫁がせた最上征伐を目的としたものです。
小山評定に後に東→西へ寝返った田丸直昌はその事実が確認されていない
大谷隊の小早川への猛攻時に裏切って大谷勢の負けを確定させた四将(脇坂・朽木・小川・赤座)のうち朽木と赤座は関ヶ原本線に出陣していなかった説もあり
細かい武将迄見ていくとどれだけ正しい話で残るのだろうか
英雄たちの選択で千田先生にやってもらいたいー
別番組だけど千田先生がっつりでてたよ
@@monoris2008 ほんとっすか!
みたい!
こんな一大歴史イベントでもまだまだ分からないことだらけだからやっぱタイムマシンがいるな
自決に追い込んだ細川ガラシャへの痛切の念から玉城と名付けたのでしょうか。新説ありがとうございます。
秀吉の真似をして忍城に水攻めを仕掛けた三成ですから、またまた秀吉の真似で戦場に城を建てたかっただけじゃないのか?
また、大河ドラマの話の内容も少しは代わりますね⁉
さおりさんこんばんは。
今回も分かりやすいナレーションありがとうm(_ _)m
新たな新説勉強になります。
タマ屋ぁー
面白い説ですね。にわかには信じ難いですが😅
玉城(たまきたましろたまひめでん)は冷泉姫(島左近)が徳川を笑わせるために作った。つまり島左近の化粧室。しかし、本多は、壬申の乱の趣向と聞いていたから、わざわざもてなしに応じたのに、何か、この有り様は、山城攻めでは無いか!と、怒り狂ったふりをして、戦さの検分役すなわち審判団の小早川隊に襲い掛かった。島左近は「うちは冷泉姫なるぞ?けわいなやつめ、いなかぶと!」と、覆面を取り去った。大谷刑部は関ヶ原以前に病死済み。老女になっていた島左近が生前、大谷刑部に参戦交渉したが、大谷は同意しなかった。ならば、と、大谷を石田は暗殺した。そのため、関ヶ原では島左近は大谷刑部のフリをできた。吉川は、豊臣に侵食された小早川が毛利本家も乗っとるのを防いだ。
さおりさん、相変わらず、美人だよ!
城があったと思う場所を発掘調査してみたら!!