Mihara City, Hiroshima Prefecture, former site of “Japanese Red Cross Society/Itozaki Hospital”

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  • Опубликовано: 27 ноя 2024

Комментарии • 32

  • @勝彦-t3o
    @勝彦-t3o 9 месяцев назад +7

    35年前にはまだ木造の建物がありました。廃屋の中には薬ビンや注射器にカルテなどもありました。肝だめしで夜中に友人と行ったことあります。かなり怖いです。

  • @脇歩-t4b
    @脇歩-t4b 9 месяцев назад +5

    中学生のときは建物があり、同級生と探検ごっこで建物内にはいりました
    食器、カルテ、肺のホルマリン漬け、病室には当時の週刊誌や手紙がありました

    • @石田玲-v3g
      @石田玲-v3g 8 месяцев назад

      ホルマリン漬けは怖いですね。

  • @n4589
    @n4589 9 месяцев назад +10

    昔、母から近所の青年がこちらの療養所に入られて元気になって帰ってこられたという話を聞いていました
    よくドライブをする道のそばにその療養所があったとは
    ここから見える景色が多くの患者さんの支えになっただろうことがよくわかりますね

    • @vs2226
      @vs2226  9 месяцев назад +2

      成年が療養されて元気になったという実話があったということですか。貴重なお話ですね。

  • @maxterhecht
    @maxterhecht 9 месяцев назад +20

    結核療養所には、鹿屋に中学時代の同級生の母親に面会に付いて行った思い出があるな。あの頃は、肺病と言って、今の癌以上に恐れられていたものだ。

  • @橘未央-b6e
    @橘未央-b6e 9 месяцев назад +10

    曾ては、空気の綺麗な風光明媚な場所に結核病院やサナトリウムがありましたね。
    目の前には線路。きっと、元気になった暁には列車に乗って家族の元に帰る事を夢見て治療を頑張った患者さんも居たのかもしれませんね。
    建物は無くなっても、当時は当たり前に多かったガラス製の薬瓶に琺瑯製の尿瓶。昭和の頃の現役だった病院の残滓ですね。目の前の海は、どれだけの患者さん達を見守ってきたのでしょうか?
    何も語らないけれど、悲喜こもごもの日々や生死をずっと見続けてきたんですね……。

  • @光くるち
    @光くるち 9 месяцев назад +10

    ここは長い間放置されてましたね。まだ建物がある時に行きましたが、古いカルテなどが散乱してました。

    • @vs2226
      @vs2226  9 месяцев назад +2

      建物がある時に行ったんですか?それ、貴重な体験ですね。

  • @jk2508-s9c
    @jk2508-s9c 9 месяцев назад +9

    毎週楽しみに視聴させていただいてます。
    病院としての役目を終えたとは言え歴史ある場所ですから、この先も何らかの形で残して行ってほしいですねえ。

    • @vs2226
      @vs2226  9 месяцев назад +3

      今の三原市長が気が付けば、もう少し良くなると思います。

  • @カツヤ-s3h
    @カツヤ-s3h 9 месяцев назад +9

    当方が20代の頃 肝試し的みたいな感じで 行った事があります。
    確か2階建の作りで古いカルテや薬品のビン?が散乱してたり ベッドのマットレスがあったような…
    国道沿いなので 通る度に 入って行く人を見掛けてましたね。
    しばらくして噂で聞いたのですが 霊に取り憑かれた女の子が居て それから侵入禁止になって柵が建てられたとか… あくまでも噂ですけど。
    貴重な配信ありがとうございます。

  • @user-yv8jt4eg7jChalenisi
    @user-yv8jt4eg7jChalenisi 9 месяцев назад +3

    昔の病院跡地、建物の一部が残ってるだけでも素晴らしいですね。

  • @user-mossan_skb
    @user-mossan_skb 9 месяцев назад +8

    山陽道が無い時代、帰省に通る時にはまだ木造の建物がありました。80年代半ばまではあったのではないでしょうか。

  • @user-od8qw2nb1j
    @user-od8qw2nb1j 9 месяцев назад +5

    糸崎病院、中学生の頃行ったことがあります。

  • @KyururuProject
    @KyururuProject 9 месяцев назад +2

    コメント失礼します。
    いつも楽しく見させてもらってます。
    この跡地はネットなどでよく目にしており、「糸崎」を通るたびにこの病院跡のことを思い出しておりました。
    写真ではなく、動画で見ることができてよかったです。
    時間の経過とともに動画内に映っていた瓦礫や薬品等も風化していくと思うのですが、せめて石碑はもうちょっとわかりやすく管理してもいいのでは…なんて思いながら見させてもらいました。
    これからも楽しく、勉強になる動画を期待しております!

    • @vs2226
      @vs2226  9 месяцев назад

      糸崎病院跡地は、市でもっとしっかりと管理してほしいですね。せっかくの歴史が埋もれてしまっています。これからも勉強になる動画を出せるようにしたいと思います。

  • @浅田良二
    @浅田良二 9 месяцев назад +9

    三原市糸崎にこの様な施設があったのですね、知りませんでした。

  • @月猫0163
    @月猫0163 9 месяцев назад +1

    建物はすっかり無いのに、残置物がある不思議。
    お疲れ様でした

  • @ももルナ-w2e
    @ももルナ-w2e 9 месяцев назад +8

    悲しい病院跡ですね。糸崎病院はそういう歴史があったこそ記念碑があるのですね。

    • @vs2226
      @vs2226  9 месяцев назад +2

      草に埋もれた記念碑が、その歴史を語っていますね。

  • @ヘンリー2世-d6v
    @ヘンリー2世-d6v 9 месяцев назад +4

    一中出身の知り合いからよく肝試しをしていたと聞いたことがあります。

  • @毛玉29Q
    @毛玉29Q 9 месяцев назад +8

    金属の物は差込式トイレ(おまる)( 'ω')みたいですね、ある意味貴重かも
    毎回楽しみに拝見してますฅ^•ω•^ฅ

  • @石田玲-v3g
    @石田玲-v3g 8 месяцев назад +3

    知らんかったです、糸崎に(いわゆる)サナトリウムがあったこと。
    若い人には分かりづらいと思いますが、(スプレプト)マイシンなどの抗生剤が普及するまで結核は治療の難しい病気でした。
    古い文学などで『肺病病み(死語)』の代表格だったのです。
    当のわたくしも50代半ぱですが、実感はありません。
    中島みゆきサンの『遍路('77)』という曲皆様ご存知でしょうか? 歌詞に
    はじめてわたしに スミレの花束くれた人は
    サナトリウムに消え
    それきり戻って来なかった…
    と、ありました。

    • @vs2226
      @vs2226  8 месяцев назад +1

      中島みゆきの「遍路」を初めて知りました。確かににサナトリウムという言葉が出てきますね。

  • @ササカカオル子
    @ササカカオル子 9 месяцев назад +8

    結核…薬が行き渡るまで空気のいいところで静かに静養が治療?だったようですね。たくさんの患者がいたと思いますが、芸術家が取り上げられることが多かった気がします。今も静か、7分くらいのところに濃い緑が群生してるのはこれから花咲く水仙でしょうか?もうとっくに忘れられた遺構、忘れられていいのか悪いのか。お疲れさまでした(^-^ゞ

  • @ashxxx-maria
    @ashxxx-maria 9 месяцев назад +3

    なにげにアイコンが変わってますね、ネコちゃんは御存命なのですかね?^ ^

    • @vs2226
      @vs2226  9 месяцев назад +2

      いえ、もういませんよ。

    • @ashxxx-maria
      @ashxxx-maria 9 месяцев назад

      ごめんなさい、要らん事言いました…

    • @vs2226
      @vs2226  9 месяцев назад +2

      いなくなってもう10年位になりますが、20年近く生きたんですよ。