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▪おすすめの動画・【嘘でしょ…】三国志の主役"五虎将軍"の残念すぎる最期ruclips.net/video/nWn3hlJ6plU/видео.html・魏・蜀・呉の結末|結末を知らないまま大人になった方へruclips.net/video/u42dYG5rtiY/видео.html・【予想外】蜀の家臣の残念な最期TOP15【三国志】ruclips.net/video/rbFkcxUyU1k/видео.html・【男のロマン】泣く子も黙る三国志の最強武将ランキングTOP15ruclips.net/video/r_bzzRo6MP4/видео.html・【衝撃】三国志で言葉を失うほど悲惨な死に方した人ランキングTOP12ruclips.net/video/jCZKdV4Xpy0/видео.html・【絶叫】歴史を変えてしまった三国志戦犯キャラTOP12ruclips.net/video/NB2_fkskM_4/видео.html・【完全版】歴史を180度変えた天才軍師TOP12【三国志】ruclips.net/video/opkYdchjhoI/видео.html
生涯戦績をどうカウントするか難しいですが、戦術的には蜀攻めで記録のある限り、白帝、江州、江陽、徳陽を落とし張裔を会戦で破る。その後、南征では高定を破って斬り、孟獲と7戦して7勝、北伐では馬謖が敗れたのを皮切りに派遣軍は総崩れだが、本隊は西県を落とす。続いて陳倉を二十日包囲して撤退、王双と会戦して斬る。武都、陰平に軍を派遣して本隊は郭淮を攻めると敵は撤退。続いて曹真が攻めてくるも先鋒の夏侯覇を撃退した後、敵は大雨で撤退、陽谿で魏延を派遣し郭淮、費耀を破る続いて鹵城に攻め落とし郭淮、戴陵や費耀を上邽で破る。司馬懿が諸葛亮を張郃は王平を攻めて撃退される。大雨で李厳が補給嫌い撤退、張郃を討ち取る。五丈原に布陣し司馬懿が孟琰の陣を撃退するのを救援、司馬懿は陣を落とせず撤退、以降、魏軍は出てこず病没。没後追撃をかけた司馬懿は蜀軍が戦う気配を見せると撤退。荊州四郡攻めにも参加してると見られるがこの戦役は完全に記録が散逸
後半は局地的な戦闘ばかりで、戦略目標を達成したか否かだと全敗な気がする。そう考えるとなんか陳寿の恣意的な解釈というか、諸葛亮びいきなところが透けて見える気がするんだよね…。
@@NY-cz5to 四次北伐の後は諸葛亮は褒斜道の終端付近の斜谷口に邸閣を設けているので褒斜道のほぼ全体は漢の勢力圏にしてる。五次でも渭水や武功水を超えて東進してるので勢力圏自体は拡大し続けてますね三国がある程度固まってからは圧倒的優勢を築いて曹操や陸遜なども侵攻戦では戦果がないので他時代との比較は難しいが諸葛亮は三国時代きっての将ではあるでしょう
@@卯金刀-n1q諸葛亮は奇計が苦手であることから、法正や龐統、賈詡、郭嘉といった参謀たちと比較して格がひとつ落ちるが、国力を鑑みて、その堅実な戦いぶりは評価するほかないと思う。才能がありすぎるが故に、苦手な事も人並み以上にできてしまい、人材の少ない蜀漢では全部やらなければならなくなった、いわゆる中小企業で寝る時間を惜しんで働いた人。司馬懿は大企業で爪を隠し続けた人。
@@Sken3698 傅幹:「諸葛亮達治知變(変」,正而有謀,而為之相。」彭羕 「足下,當世伊、呂也,宜善與主公計事,濟其大猷」張温「然諸葛亮達見計數,必知神慮屈申之宜」 張輔:「樂毅諸葛孔明之優劣。奇策泉涌,智謀從橫。」これは陳寿以前、同時代の評ですが変化を知り謀が有、と奇策泉が沸くとしてます。陳寿自身も疑問文で投げかけただけで最終的に魏を滅ぼせなかったのは知力で争えるようなことがらではなく天命だったのだと語ってます・亮時年二十七、乃建奇策、身使孫權、求援吳會。 諸葛氏集には奇策をたてて呉に使いに行ったと陳寿自身が書いてるが本伝に詳細はなし・殆不免周瑜之手!天下智謀之士、所見略同耳。時孔明諫孤莫行、其意獨篤、亦慮此也。 江表伝にある劉備が周瑜の美人計に気付かなかったのをホウ統に後から本当にあったと聞かされ。孔明だ けがそれに気づいていて、天下智謀之士は同じ策略が見えるのかと嘆息する。劉備に言わせると周瑜孔明 は同じ天下智謀之士・使觀於營陳之閒、~亮笑、縱使更戰、七縱七禽、而亮猶遣獲。 華陽国志等にある捕らえた孟獲にわざと自軍陣営を見せて油断させてから戦う。いわゆる瞞天過海の策・蜀相諸葛亮惡其反覆,又慮其為患。達與魏興太守申儀有隙,亮欲促其事,乃遣郭模詐降,過儀,因漏泄其 謀。 晋書にある孟達と申儀の隙に付け込み偽降の将を送り込んで、わざと謀反を漏らす無中生有の策・揚聲由斜谷道取郿、使趙雲鄧芝爲疑軍據箕谷、魏大將軍曹真舉衆拒之。亮身率諸軍攻祁山、~南安、天 水、安定三郡叛魏、應亮、關中響震。諸葛亮伝他の趙雲らを疑軍として郿を攻めると虚報を流して曹真を つり出し祁山を急襲した、声東撃西の策・蜀軍乘高布伏、弓弩亂發、矢中郃髀。 魏略にある撤退時にわざと高所を通って伏兵を設けて張郃を討ち取った、調虎離山の策 諸葛亮は謀略や策略を駆使してます龐統や賈詡らも特に奇策を出しているわけではなく賈詡等も濡須口や 漢中では何も策を出せず負けています
登録しました。こんなに長い動画を作るのは尊敬します。頑張って下さい
ありがとうございます!
三顧の礼は劉備に名士への習慣礼儀を伝える事が目的だと思います。天下三分の計は当時の名士ではよく考えられた物だと思われます。周瑜や甘寧も天下二分の計を主張してましたし。劉備は諸葛亮が初の名人層の人物だったので重用され、そのネットワークを活用できるようになったおかげで彼の飛躍に繋がった
7緊7縦は日程的にあり得ないフィクションだとされていますし、事実であったと信じたいですね~との研究者のコメントもあります。
諸葛亮を武官と思うから間違いで、諸葛亮は本来は優秀な内政官です。ただ、蜀には軍を率いる人が少ないから時々軍を率いていただけで、実際に戦うのは武官達でいいのが本来かと。
諸葛亮が内政に集中できていたらどんな活躍をしていたのか気になりますね。
政治家、戦略家としては一流、武官としては二流だけど、まぁ、政治家・戦略家として一流なだけでもめちゃくちゃすごいことよww
諸葛孔明は戦略家で司馬懿は戦術家に見える
素晴らしい視点ですね。それぞれ得意とする範囲が違ったのは確かだと思いました。
孔明って演義や漫画のせいで天才軍師のイメージがあるが軍略なら法正や龐統の方が優れてると言っていい。彼は超優秀な内政家であり、䔥何みたいな人だっから!法正や龐統に軍事を任せ、馬良と共に内政に専念できていれば蜀が天下とれてたかも。一人で全てやるなんていくら孔明が超人だとしても無理!
私も彼は蕭何タイプかと思いました。ただ彼自身は自分を楽毅・管仲に喩えたそうですからやりたいこととニーズに差があったのかもしれませんね。早期に亡くなった重臣が悔やまれます。
三顧の礼に関しては儒教の思想的に考えると採用や昇進などの持ちかけにはまず辞退して謙遜するのが通例だったとか。2度目も辞退するべきかはともかく【一度辞退して、それでも「ぜひお願いします!」と強く求められて応じる】というのが理想形だったようです。もっともこの時代には朝廷が賄賂を受け取って実績のない人物に官職を売りまくっておりこの思想も形骸化していたようで・・・本来は相手から強く要望されたから。という名分を得ることで付加価値をつけることで品格を高めようとしていたのでしょう。つまり三顧の礼は「見え見えではあるが品格を持った仕官をするのに必要な行為」だったと思われます。一部には劉備もその目的を理解していたからこそわざわざ三顧の礼を演じたという説もあるようです。自分が面会を申し出たのに応じなかったから、という理由で役人を滅多打ちにしてしまうようなわがまま劉備ちゃんが敢えて応じたのだからきっと名士を得るためには三顧の礼は通過儀礼として必要だったのでしょう
なるほど!お互いにわかっていて…という話だったわけですね。謙遜文化にも通ずる所があって面白いです。
葛家は古代から名門だったのでそんなプライドがあったのでしょう。本当に先を考えれば曹操に仕えた方が楽なのにわざわざ劉備に仕えたのは宦官の末裔に跪くのは矜持が許さなかったんだろうと勝手に思っています
確かに曹操の血筋が卑しかったからというのはあるかもしれませんね。そう考えると諸葛亮の性格の掴み方がまた変わってくると思うと大変面白い視点だと思いました。ありがとうございます。
諸葛亮の悲劇は、漢初の蕭何・韓信・張良の役割を一人でこなそうとしたこと。
本当におっしゃる通りで蜀には樊噲になれる人物こそいれど張良や韓信になりうる人物と早期に別れてしまったのですよね。
三顧の礼、本当に自分を欲しているか試したのだと思いますよ。無職の諸葛亮ですが、今さら就職しても自分の意見を聞いてくれる主人に当たるかどうかですから、本当に必要にされる人を選びたかったと言う事かと。最後、北伐の時に所持する財産を書いていますが、一国の丞相にはありえないぐらい質素ですから、自分の考えで働ける場所が欲しかったのかと。
なるほど。素敵な視点です。待遇や報酬よりも自分の思想と合致しているかを試したのですね。そう考えると出師表であれだけ熱量の入った文章が書けるのも頷けます。
@@sangokushi_kaisetu 諸葛亮の凄いところはその才能以上に、私腹を肥やさなかった事かと思います。蜀の全権を手にしても、一族の財産は桑畑があるからそれで充分食べていけると言っており、実際に諸葛亮の子孫はその桑畑を耕している訳ですので。
諸葛亮は無官とはいえ、実の姉たちを送り込んで劉表や龐統などと親戚関係になっている荊州でも屈指の若手名士なので、劉備を新野に駐屯させている劉表からも双方に薦めていたかも知れませんね。劉備としては諸葛亮一人を拾い上げる事で、そのぶ厚い人脈により無尽蔵に人材発掘できるので、諸葛亮の隆中策は別としてどうしても彼が必要だったでしょう。天下三分の計で知られる隆中策の方は劉備は無視(居候先の劉表を裏切るどころか難攻不落の襄樊まで少数の兵力と曹操の大軍に怯えながら迅速に占領する荒唐無稽な計画なので、無視されて当然です)しており、あれが曲がりなりにも実現するのは劉備の死後ですから。
諸葛亮の死後240年に南蛮反乱で向寵が戦死してます
覇者は王よりくらいは下ばい~(=^・ω・^)σ
最強なら天下統一しなきゃね😅
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生涯戦績をどうカウントするか難しいですが、戦術的には蜀攻めで記録のある限り、白帝、江州、江陽、徳陽を落とし張裔を会戦で破る。
その後、南征では高定を破って斬り、孟獲と7戦して7勝、北伐では馬謖が敗れたのを皮切りに派遣軍は総崩れだが、本隊は西県を落とす。
続いて陳倉を二十日包囲して撤退、王双と会戦して斬る。武都、陰平に軍を派遣して本隊は郭淮を攻めると敵は撤退。
続いて曹真が攻めてくるも先鋒の夏侯覇を撃退した後、敵は大雨で撤退、陽谿で魏延を派遣し郭淮、費耀を破る
続いて鹵城に攻め落とし郭淮、戴陵や費耀を上邽で破る。
司馬懿が諸葛亮を張郃は王平を攻めて撃退される。大雨で李厳が補給嫌い撤退、張郃を討ち取る。
五丈原に布陣し司馬懿が孟琰の陣を撃退するのを救援、司馬懿は陣を落とせず撤退、以降、魏軍は出てこず病没。
没後追撃をかけた司馬懿は蜀軍が戦う気配を見せると撤退。
荊州四郡攻めにも参加してると見られるがこの戦役は完全に記録が散逸
後半は局地的な戦闘ばかりで、戦略目標を達成したか否かだと全敗な気がする。
そう考えるとなんか陳寿の恣意的な解釈というか、諸葛亮びいきなところが透けて見える気がするんだよね…。
@@NY-cz5to
四次北伐の後は諸葛亮は褒斜道の終端付近の斜谷口に邸閣を設けているので褒斜道のほぼ全体は漢の勢力圏にしてる。
五次でも渭水や武功水を超えて東進してるので勢力圏自体は拡大し続けてますね
三国がある程度固まってからは圧倒的優勢を築いて曹操や陸遜なども侵攻戦では戦果がないので他時代との比較は難しいが諸葛亮は三国時代きっての将ではあるでしょう
@@卯金刀-n1q諸葛亮は奇計が苦手であることから、法正や龐統、賈詡、郭嘉といった参謀たちと比較して格がひとつ落ちるが、国力を鑑みて、その堅実な戦いぶりは評価するほかないと思う。才能がありすぎるが故に、苦手な事も人並み以上にできてしまい、人材の少ない蜀漢では全部やらなければならなくなった、いわゆる中小企業で寝る時間を惜しんで働いた人。司馬懿は大企業で爪を隠し続けた人。
@@Sken3698
傅幹:「諸葛亮達治知變(変」,正而有謀,而為之相。」
彭羕 「足下,當世伊、呂也,宜善與主公計事,濟其大猷」
張温「然諸葛亮達見計數,必知神慮屈申之宜」
張輔:「樂毅諸葛孔明之優劣。奇策泉涌,智謀從橫。」
これは陳寿以前、同時代の評ですが変化を知り謀が有、と奇策泉が沸くとしてます。
陳寿自身も疑問文で投げかけただけで最終的に魏を滅ぼせなかったのは知力で争えるようなことがらではなく天命だったのだと語ってます
・亮時年二十七、乃建奇策、身使孫權、求援吳會。
諸葛氏集には奇策をたてて呉に使いに行ったと陳寿自身が書いてるが本伝に詳細はなし
・殆不免周瑜之手!天下智謀之士、所見略同耳。時孔明諫孤莫行、其意獨篤、亦慮此也。
江表伝にある劉備が周瑜の美人計に気付かなかったのをホウ統に後から本当にあったと聞かされ。孔明だ
けがそれに気づいていて、天下智謀之士は同じ策略が見えるのかと嘆息する。劉備に言わせると周瑜孔明
は同じ天下智謀之士
・使觀於營陳之閒、~亮笑、縱使更戰、七縱七禽、而亮猶遣獲。
華陽国志等にある捕らえた孟獲にわざと自軍陣営を見せて油断させてから戦う。いわゆる瞞天過海の策
・蜀相諸葛亮惡其反覆,又慮其為患。達與魏興太守申儀有隙,亮欲促其事,乃遣郭模詐降,過儀,因漏泄其
謀。
晋書にある孟達と申儀の隙に付け込み偽降の将を送り込んで、わざと謀反を漏らす無中生有の策
・揚聲由斜谷道取郿、使趙雲鄧芝爲疑軍據箕谷、魏大將軍曹真舉衆拒之。亮身率諸軍攻祁山、~南安、天
水、安定三郡叛魏、應亮、關中響震。諸葛亮伝他の趙雲らを疑軍として郿を攻めると虚報を流して曹真を
つり出し祁山を急襲した、声東撃西の策
・蜀軍乘高布伏、弓弩亂發、矢中郃髀。
魏略にある撤退時にわざと高所を通って伏兵を設けて張郃を討ち取った、調虎離山の策
諸葛亮は謀略や策略を駆使してます龐統や賈詡らも特に奇策を出しているわけではなく賈詡等も濡須口や
漢中では何も策を出せず負けています
登録しました。こんなに長い動画を作るのは尊敬します。頑張って下さい
ありがとうございます!
三顧の礼は劉備に名士への習慣礼儀を伝える事が目的だと思います。
天下三分の計は当時の名士ではよく考えられた物だと思われます。周瑜や甘寧も天下二分の計を主張してましたし。
劉備は諸葛亮が初の名人層の人物だったので重用され、そのネットワークを活用できるようになったおかげで彼の飛躍に繋がった
7緊7縦は日程的にあり得ないフィクションだとされていますし、事実であったと信じたいですね~との研究者のコメントもあります。
諸葛亮を武官と思うから間違いで、諸葛亮は本来は優秀な内政官です。
ただ、蜀には軍を率いる人が少ないから時々軍を率いていただけで、実際に戦うのは武官達でいいのが本来かと。
諸葛亮が内政に集中できていたらどんな活躍をしていたのか気になりますね。
政治家、戦略家としては一流、武官としては二流だけど、まぁ、政治家・戦略家として一流なだけでもめちゃくちゃすごいことよww
諸葛孔明は戦略家で司馬懿は戦術家に見える
素晴らしい視点ですね。それぞれ得意とする範囲が違ったのは確かだと思いました。
孔明って演義や漫画のせいで天才軍師のイメージがあるが軍略なら法正や龐統の方が優れてると言っていい。彼は超優秀な内政家であり、䔥何みたいな人だっから!
法正や龐統に軍事を任せ、馬良と共に内政に専念できていれば蜀が天下とれてたかも。一人で全てやるなんていくら孔明が超人だとしても無理!
私も彼は蕭何タイプかと思いました。ただ彼自身は自分を楽毅・管仲に喩えたそうですからやりたいこととニーズに差があったのかもしれませんね。早期に亡くなった重臣が悔やまれます。
三顧の礼に関しては儒教の思想的に考えると
採用や昇進などの持ちかけにはまず辞退して謙遜するのが通例だったとか。
2度目も辞退するべきかはともかく
【一度辞退して、それでも「ぜひお願いします!」と強く求められて応じる】というのが理想形だったようです。
もっともこの時代には朝廷が賄賂を受け取って実績のない人物に官職を売りまくっておりこの思想も形骸化していたようで・・・
本来は
相手から強く要望されたから。という名分を得ることで付加価値をつけることで品格を高めようとしていたのでしょう。
つまり三顧の礼は「見え見えではあるが品格を持った仕官をするのに必要な行為」だったと思われます。
一部には劉備もその目的を理解していたからこそわざわざ三顧の礼を演じたという説もあるようです。
自分が面会を申し出たのに応じなかったから、という理由で役人を滅多打ちにしてしまうようなわがまま劉備ちゃんが敢えて応じたのだからきっと名士を得るためには三顧の礼は通過儀礼として必要だったのでしょう
なるほど!お互いにわかっていて…という話だったわけですね。
謙遜文化にも通ずる所があって面白いです。
葛家は古代から名門だったのでそんなプライドがあったのでしょう。
本当に先を考えれば曹操に仕えた方が楽なのにわざわざ劉備に仕えたのは
宦官の末裔に跪くのは矜持が許さなかったんだろうと勝手に思っています
確かに曹操の血筋が卑しかったからというのはあるかもしれませんね。そう考えると諸葛亮の性格の掴み方がまた変わってくると思うと大変面白い視点だと思いました。ありがとうございます。
諸葛亮の悲劇は、漢初の蕭何・韓信・張良の役割を一人でこなそうとしたこと。
本当におっしゃる通りで蜀には樊噲になれる人物こそいれど張良や韓信になりうる人物と早期に別れてしまったのですよね。
三顧の礼、本当に自分を欲しているか試したのだと思いますよ。無職の諸葛亮ですが、今さら就職しても自分の意見を聞いてくれる主人に当たるかどうかですから、本当に必要にされる人を選びたかったと言う事かと。
最後、北伐の時に所持する財産を書いていますが、一国の丞相にはありえないぐらい質素ですから、自分の考えで働ける場所が欲しかったのかと。
なるほど。素敵な視点です。待遇や報酬よりも自分の思想と合致しているかを試したのですね。
そう考えると出師表であれだけ熱量の入った文章が書けるのも頷けます。
@@sangokushi_kaisetu 諸葛亮の凄いところはその才能以上に、私腹を肥やさなかった事かと思います。蜀の全権を手にしても、一族の財産は桑畑があるからそれで充分食べていけると言っており、実際に諸葛亮の子孫はその桑畑を耕している訳ですので。
諸葛亮は無官とはいえ、実の姉たちを送り込んで劉表や龐統などと親戚関係になっている荊州でも屈指の若手名士なので、劉備を新野に駐屯させている劉表からも双方に薦めていたかも知れませんね。
劉備としては諸葛亮一人を拾い上げる事で、そのぶ厚い人脈により無尽蔵に人材発掘できるので、諸葛亮の隆中策は別としてどうしても彼が必要だったでしょう。
天下三分の計で知られる隆中策の方は劉備は無視(居候先の劉表を裏切るどころか難攻不落の襄樊まで少数の兵力と曹操の大軍に怯えながら迅速に占領する荒唐無稽な計画なので、無視されて当然です)しており、あれが曲がりなりにも実現するのは劉備の死後ですから。
諸葛亮の死後240年に南蛮反乱で向寵が戦死してます
覇者は王よりくらいは下ばい
~(=^・ω・^)σ
最強なら天下統一しなきゃね😅