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25年に亘る海外工事生活で45度から−40度の中で過酷に耐え切れずに、何人もの仲間が辞めて行きました。当時この歌がいつも頭の片隅に浮んで来て必死で仕事を完成させて来ました。異国の丘を唄うと目頭が熱くなる思いです。この時代の方々の心の中が万分の一位は判った感じがします。無事に日本国に戻れたことを感謝する今日この頃です。畳の上で我が人生を終われるかなと想って居ます🇯🇵
お疲れ様でございました。🙇
戦争を知らない世代でラッキーと油断しておりましたコロナ禍で、しかも異国住まいです。畳が無いので日本からゴザかムシロを取り寄せないといけないかなあとか思うこの頃です。🙄
海外で現地工事中です。昭和も終わりの方の生まれですが、海外生活してると時代は変われどみんなこんな気持ちなのですね。日本に帰りたい
らぱろましますねともしちゃね
らぱろま
10才くらいの時にシベリア抑留にいったじいちゃんと一緒にカラオケで歌って途中で悲しくて自分が泣きだしてじいちゃんも思い出して2人で泣いたのを思いだした。
じいちゃんとカラオケ行きたかったです🎤同期の桜とかねー。きゃー🫣
孫と一緒に歌う異国の丘・・・ お爺ちゃん孝行しましたね・・・。
いい歌ですね。涙が出ます。
寒かったんだろうな、辛かったんだろうな、帰りたかったんだろうな。祖国の土を~のところで涙があふれた。兵隊さん、本当に本当にお疲れ様です。
お疲れ様って軽いな。抑留者は心身ともに辛い思いをしたのに。
お疲れ様でいいのでは?
わたしのおじいさんが、良区異国の丘を歌ってた。宇都宮勉が!果たして何者か?分かりますか?教えてください。😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂
この歌は涙無しでは聴けません。私の叔父もシベリヤの長いこと抑留されて居りました。是非、継承して頂きたいですね。
日本の兵隊さん。本当に長い間ご苦労様でした。貴方達のおかげで今の日本が有ります。本当に有り難う御座います。
満ち足りた現代を生きるとき 今を築いてくれた 先人のご苦労を決して忘れないでほしい
聞くたびに涙が出て止まりません。どんな思いでシベリアの抑留を耐えてこられたのかと思います。我々が今あるのは尊い先人の犠牲があったからこそです。そのことを決して忘れてはなりません。
叔父は10年のシベリア抑留を体験しました、よく聴かされました。先日舞鶴市引揚者記念館を訪ねました
俺のおじいちゃんもシベリアで過ごしたらしいですが、酷いもんだと聞きました。アジア人差別が酷いのなのんの暴力なんて当たり前だったらしいです。
そのとおりと思います
@@つーじROM専乃木大将が負けたロシアの大将を気付かったことがロシア人には通じなかったんだろうか😡❌💢❓❓
お疲れ様でした。今を生きる日本人として、本当に頭の下がる思いです。
涙が止まらんです・・・
確かに、、、そうですね。
私は 戦後25年生まれですけど 当時のモノクロ写真を見ると目頭が熱くなります
この人達がいて今の自分達がいる。感謝しかありません。敬礼
そうですね、この方達がいて今の日本自分達がいるのが分からない奴らがいる事が悲しいです😭
子供の頃の思い出だけど、祖父がこの歌を聴いて涙ぐんでいた。大陸で亡くなった戦友のことを最後まで忘れないと言っていた。
日本の為若い命をかけて戦ってくれた先人達に感謝です。皆さまのおかげで今の日本があります。
その前に「無謀な戦争」が何故起きたかを問わないと亡くなった人は浮かばれません
戦争は絶対したらいかんこんな思いを二度としたくない先人に感謝しながらなみだを流しています
軍人さん、御国の為にありがとうございます。お陰で私達が生きていられます。英霊の御霊よ、どうか安らかに。
祖父がいつも口ずさんでいた歌でした。見つけられたことにちょっと感動しています。イントロのロシア民謡っぽいメロディー、心に沁みます。歌も然り。
今から約40年前、吉田正がこの曲を歌った映像が残されています。涙が出ますね。
あの大戦を戦われた方には、頭が下がる。戦後、復員した後は懸命に働いて復興の基礎を築いた。この世代は最強の世代だと思う。
大和男児 どの 自分の祖父もエラブカ捕虜収容所で3年間を過ごし、昭和23年8月14日 興安丸にて舞鶴東港に引き揚げてまいりました。
Chu2007pae ありがとうございます
Chu2007pae苦労されたんですよね。シベリアの労働はさぞ辛かったでしょう。舞鶴港についた時の安堵感は、半端ではなかったでしょうね。
思えば大正世代は苦難と受難の連続でしたね。私の両親は共に赤紙召集を受けました。父は昭和16年、母は19年でした。父はインド洋で、母は中国で終戦を迎えました。母は赤十字から従軍看護婦で召集された軍属でした。2人とも70を超えたあたりから戦争当時の話をポツポツとしてくれていました。相当辛かったのは言ってましたね。ちなみに母は例の従軍慰安婦については完全否定しています。当時衛星管理の立場から、かなりの慰安婦さんとの交流があったそうで、大半は日本人で、おそらく日本では良家の出の人たちが経済的理由から来ていたと言ってました。後、現地では多くの勧誘のビラがあちらこちらで貼ってあったとも言ってます。母は現在95才元気に暮らしています。
あの大東亜戦争をアジア解放とお国の自衛の為に戦った先輩方に敬礼/(-_-)
異国の土になった兵隊さんに感謝しております。海外に在住していると、なおさら感謝の念がつのります。
asakusacat 何を感謝するのでしょうか。
先人のおかげでこんな平和な世の中があるのわ本当に感謝しないといけないですね。
asakusacat ... 異国の土になった兵隊さんに感謝って?それより日本が攻撃してきたその各国の地元の人に聞いた方がよい。その人たちが貴方の兵士たちに対し感謝をもっているのか。
@@伝説の日本兵 頭悪そうな文章
私は戦争を全く知らない世代ですが、このような歌を聴くと涙が自然と出ます。先人達は日本を護り、アジアを解放するという大義を掲げて世界を敵に回して戦ったのだと私は思います。しかしながら今の教育では彼らがまるで野蛮人で侵略者かつ犯罪者のように扱われており、あまりにも酷すぎて耐えられません。これが敗戦国の宿命ですが、本当に悔しいです、先祖に会わせる顔がありません。
Stts IchiroM17 同感です。
従兄にアジアを守るなんて気持は微塵もなかったと信じている。引っ張り出されただけだ。送り出した奴らが、隠匿物資を使って、作り上げたのが今の金の亡者集団の国だ。恥を知らん日本人も奴らにつくられた。!
共感しかできません…
地域によるみたいですね。私はゆとり教育を受けた世代ですが、私が生まれ育った自治体では幼稚園から高校まで普通に日の丸はあげるし、敬礼はしていたし君が代も歌ったと東京の方に話したらびっくりされました。聞いた話だと、軍国主義は良くないうんたらで第二次大戦の話はもちろん教えない上に童謡も知らないし国旗掲揚もしなかったんですって(>_.
素晴らしい歌ですね。シベリアに抑留された私の父もこの歌に励まされ生き延びたのだと思います。
兵隊さんの皆さん、大変なご苦労をなされましたね。今の日本は、あなたたちご先祖様のおかげです。ありがとうございます。どうぞ、靖国で安らかにお休みください。
lasciatesperanza さんへ、兵士だけではありません、真面目に暮らしていた一般人が、スターリンのようなでたらめな独裁者によって連れ去られ、命を落としました、今21世紀の独裁者たちがまた暗躍しかかっています、絶対に彼らの暴挙を許してはなりません
酒井良政 ... スターリンはどの関係があるのか。海外で戦争をやるのにその日本の若い兵士を出したのはスターリンでしたか。
今は靖国神社ですが、後々は大本門寺(本門戒壇)所属靖国寺ですね
この人たちが、居たから今の日本が・・・
外国への戦争がなくて、ずっと日本において頑張っていたなら、どんな世界だろうね。
台湾の日本語世代として感謝します、僕たちも日本が懐かしいと何時でも心の奥に刻み付けています。mirai2012様、今後もよろしくお願いします。
曲もだけど映像が貴重。当時の日本兵の人間らしさがよく分かる
兵士たちの万感こもった表情に圧倒されます。これは、後の世代に語り継ぐべき、第一級歴史的資料ですね。
多くの歌手が歌っていますが 中村耕造さんが一番心にしみて何回も聴いています。
二度と「異国の丘」のようなことには、絶対に、なってはいけない。戦地において倒れた、すべての皆様に哀悼の真を捧げます。
同感です
Minamitaifu 同感です。当時の政府が言いつのっていた理想郷は満州国にはなかった。そうした宣伝に手を貸して、若い人々を満州国に送り込んだ人たちのなかには、戦後、そのことに強い後悔と慚愧の念を抱いていた人が少なからずいた。
全ては日蓮大聖人に700年間も背く罰だった。日蓮大聖人に帰依して本門事の戒壇を建立すれば、世界政府が日本に出来ます。そうすると全て解決します。
世界😠💨嫌われ3国の🇷🇺は又々やってますからね~🇺🇦住民ツングースク(極寒)の地へ連行----NATOは💩ばっかり🤣アハハ~徹底的にやらないと---
偏見まみれの個人的な意見だけど二次大戦でナチス並みに非難されるべき非人道国家はソ連だと思ってる
偏見ではない、正論だ。ロシアは法を破り、今も破り続けている。
「道」の字はいらないな。奴らは人間じゃないから。非人国家だよ。あと、貴方に偏見はないよ。その通りだよ。
偏見でも何でもない、あなたの仰る通りですよ。わたしが未だにロシア人を信用できないのは、ポツダム宣言を受諾し、日本が敗戦したあとで一方的に日ソ不可侵条約を破って満州に攻め込んできたその蛮行と、北方領土を占領しているからです。こんな統計があります。第一次大戦までの歴史で、国際条約を破った国の一覧がありました。一位はロシア、二位はドイツ、三位はフランスです。現代では、中国がダントツの一位でしょうね。
ヒトラー〉スターリン〉毛沢東〉ポル・ポト
アメリカもだぞ
NHKラジオで「尋ね人」の時間がありましたね。遠い昔を思い出します。
戦後生まれですけど、この歌を聴くと何故か涙が出てきます。
このうたは軍歌ではありません。 敗戦後ソヴィトの不当に拘束され、シベリヤで強制労働させられた旧日本兵が故郷を思い浮かべ、歌った悲しい歌です。
旧日本兵が故郷を思い浮かべっていう時点で軍人の歌なので、軍歌に分類されるのでは?
「軍隊の士気を高めるための歌。また、愛国心などをうたった歌」を軍歌といいます。したがって、この歌は軍歌ではありません。
定義上そうであっても一般的にどう見るかは辞典に載っている定義とは違うということを知るべきですね。
追記:ちなみに定義は軍隊の士気を高めるための歌。また、愛国心・軍隊生活などをうたった歌。 (デジタル大辞泉参照)とあります。軍隊生活にこの歌詞の内容は該当すると考えられますね。よって軍歌と分類されても何も不思議はありません。
バカがいるな。兵士が故郷を思い浮かべっていう時点で軍人の歌とか。所謂志願した職業軍人より招集された普通の兄ちゃんおっちゃん達の方が多い。家族を残し兵役につき、祖国へ帰る日を待ち望んだ彼等の気持ちにお前の余計な屁理屈を入れてカテゴライズすんなよ。072なら他所でやれ。
我很喜歡這一首歌曲。對於【被征召】當【士兵】的青年,無論是哪一國的【士兵】,我都很心疼,不論他們是【自願】還是【非自願】,都是要【服從】。到前線。他們不是死,就是幸運的、能活著回來,但也有可能是變成【殘廢】的回來。吉田正先生、増田幸治先生、佐伯孝夫先生,也應是有很多感觸,才會做出此曲,寫出如此讓人感動的歌詞。2020-12-02
這首歌則是講,日本戰敗後,被 俄國人俘虜到 西伯利亞 苦寒之地 的集中營的日兵
@@David-jx5jk我说怎么一股苏联喀秋莎味
なぜか涙がでてきますありがとうの涙
私は元自衛官です。故郷に帰って来られずに不遇の死を遂げた若者がたくさんいます。私達は彼らの生きたかった未来を生きています。何としても日本を守りきりましょう。それが青春を奪われた彼らへのせめてもの弔いです。
国体を維持しようとする軍部に振り回され、死んだ日本兵はどうなるんだ。これから戦争をすることなんて望んではいない。
摩文仁賢和 ... 誰から日本を守りたいですか?変な政治家?新型の財閥?軍事主義の回復から?
自分元自衛官です全くその通りです
@@安藤輝三 3:00
人格者で知られた大叔父が何故「ソ連」「ロシア」に嫌悪感を露わにするのかが不思議だった。好き嫌いが無いのにイモだけが食べられないのも不思議だった。その理由が判ったのは私が大人になってからだ。
細かいことだがその芋は何ですか、収容所の食事で芋の塊があるスープが出るのは奇跡に近いと抑留者から聞いた記憶があります。
@@tamotsusuzuki6473 じゃがいも(馬鈴薯)ではないですか?
父は、ロ助と同じくらいカボチャが嫌いでした。その理由がわかったのは、つい最近です。
シベリア抑留経験のあった父は生前、この歌もよく歌っていました。3番「倒れちゃならない 祖国の土に 辿り着くまでその日まで」の歌詞に胸がつまります。この思いを抱きつつ異国の土になった方々がどれほどいらっしゃるのでしょう。
本当にご苦労様でした。
おじいちゃんが好きです。ありがとう。感謝です。
最後に担架が。祖国を前に・・。帰りたかったんだろう。帰りたっかったんだろう。帰りたっかんだろう。祖国の土を・・。
名曲はいつの時代でも色あせることなく、聴く人の心を揺さぶります。軍歌か歌謡曲かなどということはどうでもいいことです。吉田 正という作曲家の才能をあらためて、感じさせられました。
大東亜合唱団です。曲と映像が非常にマッチしていて素晴らしい作品です。
今の日本があるのも兵隊さんのお陰ですありがとうございました。
終戦記念日に、聴かせていただき、昔はTVで懐かしの歌とかやってたり、親、祖父母が聴いてたりで、好きな曲です。聴かせていただき、泣けてきます。有難うございました。
I am Indian but I love Japanese patriotic songs and it's mighty,great and glorious imperial army that show west the power of Asia.
今の日本は完全にアジアの世界を作る気はなく、米国傘下で西側の一員です。
有り難う🙏
いいね。素敵な名曲ですね。
国の為に 妻子に分かれ戦った方々 終戦後つらい抑留生活 皆様が他のおかげで今の平和日本が有ります 只々感謝有るのみ 曲を聴くたび 目頭が熱くなります
戦後生まれですが 兵隊さんの気持ちを思うと涙が止まりません。安らかにお眠り下さい。
長嶋茂雄さんも好きなこの曲を聴く度に涙が流れて来ます。負けたが故に極寒の地に『抑留』された方々。どれだけ故国に帰りたかったでしょう。いまだに『謝罪』1つしないばかりか新たに平然と隣国を侵略した無法国家の存在に強い怒りを新しくしました。
これが軍歌かどうかは別にして、戦争を語るうえで貴重な歌です。いい歌です。
軍歌じゃないと思います吉田正がシベリア抑留中に創った曲ですから
軍歌ではないが軍歌だとしてもいいやん。
祖父の兄は、戦後満州でソ連軍の捕虜となり刑法第58条適用の国家反逆罪で重労働25年の実刑判決を受けシベリアに11年間抑留されて昭和31年の12月に最終の帰還船で帰還しました。 この歌を聴くと、その話を涙ながらに語ってくれた祖父のことを思い出します。
蔵相 どの 最後の帰還船は昭和38年9月7日入港の白山丸ですが。失礼ですがおじい様の記憶違いでは、、、
Chu2008pae様、昭和31年の興安丸が最終じゃないのですか?昭和38年のソースはどこからでしょうか?何人でどの船ですか?
6459dhyさん 太原や撫順で戦犯にされた方々の帰還は、その辺りまで続いていたそうですが、もしかしたらそちらの方と勘違いなさっているのかもしれません。
昭和19年生横合いから失礼します。帰還船についてネットで調べたところ1抑留者の最終帰還船は昭和31年12月26日舞鶴入港の興安丸です。ナホトカからの帰還になります。2それ以降の帰還船は塘沽・真岡(樺太)からの帰還で最終は昭和33年(1958年)9月7日入港の真岡からの白山丸の帰還と思われます。昭和38年(1963年)9月7日入港の白山丸は下記資料にはありません。私の父は1947年10月2日高砂丸でナホトカから帰還しました。入手した兵籍簿と下記資料の入港帰還日付が一致しており、まず信頼できる資料と思います。townreview.web.fc2.com/townreview/hikiagmemory2.htmlなお1957年以降に見られる塘沽とは中国天津市の直轄地区。真岡は樺太の真岡と思われます。ついでに付け加えれば「コロ島」とは北京と瀋陽の中間にある交通の要衝です。(補足)ウィキペディア葫芦島在留日本人大送還ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%AB%E8%8A%A6%E5%B3%B6%E5%9C%A8%E7%95%99%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E5%A4%A7%E9%80%81%E9%82%84真岡郵便電信局事件ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E5%B2%A1%E9%83%B5%E4%BE%BF%E9%9B%BB%E4%BF%A1%E5%B1%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6シベリア抑留ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%8A%91%E7%95%99日本共産党委員長志位和夫の伯父志位正二などソ連のスパイとなり、戦後日本で諜報活動を行ったものもいる志位正二ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E4%BD%8D%E6%AD%A3%E4%BA%8C
Tohdo Masazumi 様 詳しく調べて頂きありがとうございます。 自分の親戚は、祖父の兄が二人抑留されていたそうで、一人は昭和23年の夏頃に帰還し、もう一人は昭和24年に戦犯(資本主義幇助罪)として強制労働25年の判決を受け昭和31年12月26日の帰還まで受刑し帰還された。 なので、この歌を聴く度に先の大戦で若くして異国の地へと散っていかれた英霊の方々の分まで生きなければならないと言う気持ちで日々を生きております。
私、昭和26年生まれ、親父は昭和19年の国民総動員で徴兵猶予の農家長男(山形)だが出兵。敗戦で部隊が朝鮮に集合後行方不明、シベリア生活。「朝おきてみると隣が死んでた」って生活、ある日帰国と言われても信用できないまま列車が福島の「郡山」に着いたとき、初めて「家」に帰ったと思ったって、それが昭和24年、だから私がいる。
この歌を聞くと抑留された方々でも祖国のチを踏めずに亡くなられ方々のご冥福をお祈りします。歌手の青木光一さんも三波春夫さんも抑留経験者ですがその抑留の辛さを心に秘めて良い歌を沢山歌ってくださいましたね。
涙がでますね。ありがとうございます
緊張感を保つ若者が日本人の素晴らしい処だが、気楽な現代の若者にこの神妙な顔付きは無い。
切ない歌ですね、親の気持ちは計り知れないものだったでしょうね😢😢
入院最中よく聴いて勇気付けられました
あんな時代なのに、当時の若い人達、何て純真無垢で明るいのでしょう。これが真の大和魂でしょうか?😄😃😀😊
とても良い歌ですね。
祖国日本に、やっと帰って来れた・・・。しかし、この映像を見る限り、誰一人として、まったく笑顔が無い。なぜだろうか?私の叔父さんも、ラーゲリに入れられて強制労働させられました。満州派遣軍陸軍中尉です。栄養失調が原因で、肝臓を壊し、最後に肝硬変で亡くなった。東洋レーヨンに戦後復帰した。
♬ ~夢も寒かろ冷たかろ~♩♬来る日も来る日も、寝るのも命がけだったんですね。大変、ご苦労様でございました。感謝しております。
朝起きると、自分の隣の寝台で寝ていた戦友が、誰に看取られることも無く冷たくなっていた。と言いう話は良く聞きます。
この曲と連鎖してラジオから流れていた帰還者の消息などの放送を思い出します。いつの日か、無くなりましたが、。
戦争を体験し戦争後、日本に帰るためにどれだけ辛い思い・辛い作業をしたでしょうか・・・。学校で何が有ったかを教えるべきだと思います。ぜひお願いしたい。
たとえ離れても家族を想う心は離れなかったでしょう
このような純真無垢な若い兵士達の笑顔と覚悟と行動を写したフィルムを見る度に涙が溢れてくる。何も知らされずに負け戦であることも知らされずに、最後まで神州不滅を信じ、最後の最後まで戦いぬいた兵士達に、心からの有り難う、感謝の意を捧げます。しかし、負けるべき戦争であることが解っていながら、戦争へと導いた人間だけは許せぬ。
我是台灣人,聽到這首歌心中有無限的感傷…二戰日本戰敗,這些軍人落漠的被遣送回國,但我那位被日軍徵召的舅舅呢?已葬身在菲律賓海域,永遠回不了家…
今は亡き父が海軍の志願兵で行きました。よくこの歌を歌っていました。先人の方々が祖国の為、に戦って頂いたおかげで今の平和な日本があると思います。私は戦後生まれで戦後の苦しい時代はよく判りませんが通った小学校に戦前の校舎の焼けたあとの土台が残っていた記憶があります。やはり戦争はいけないと思っています。しかし、先の大戦は結果としてアジアを白人からの解放と独立ができたこは歴史が証明しています。戦いに敗れ祖国に帰った時は大変だったと思います。この先人の方々のおかげで今の平和な日本があり、日本人であることに誇りを感じます。
私の亡父はシベリアの冬を三度超えて生還した。ソ連におもねた連中は一冬で帰ったそうだ。「何でおれは帰れないのだろう」と思ったそうだ。会社の総務の大先輩、逆立ちしても足もとにも及ばないAさんのお父上は帰国できなかった。このためAさんは散々苦労された。さすがにこのことは苦しい思いをさせてしまうので話すのはタブーとされていた。酒席でご一緒させていただいたときに、どういうわけかこの話題になり、親父が三回冬を越えた話をした。Aさんは「そうか、君のお父さんもシベリアか。帰ってこられて本当によかったなあ」とコメントされた。それ以来、この大先輩には散々目をかけていただけたと思う。感謝しかない。
0:49 兵隊さんがマスクしてて親近感をおぼえます😷
吉田正は茨城県日立の出身で亡父の学友だったそうです。父は南方へ出兵し命からがら帰還したそうですが、、、。日立市に有るかみね公園へは毎年夏休みに東京から海水浴がてらに小学生の頃行っていましたがそこに吉田正音楽記念館ができたようです。実はかみね神社の裏の小さな階段(地元の人でも知っている人はまず居ない)を利用すると地続きに母の生家があります。バレルかな~笑~でも良い歌ですね。
何度ここに来てこの歌を聴いたか分からない。動画の中の戸惑った表情の人物は今と変わらない日本人。この人たちのお陰で今の自分達があるとこの歌を聴くたびいつも実感します。自分たちも子供達に変わらない日本を残こしていくためにはしっかりしなくてはと思います。
この歌、従兄を想って涙が滲み、最後まで歌えない。!遺体も還らぬままだ。!
この映像に出ていた人達で、何人が生きて日本に戻って来れたのか😢そう思うと、悲しいです🤧今、ロシアのウクライナヘの侵略戦争の戦場の映像を見て、昔の日本の兵士達の苦労を、思い浮かべています🥺
映像の中の人たちは、日本に帰着できた人たちです。
懐かしい曲ですね~異国の丘 あの時代は、 アメリカと日と 戦争あり 怖かったです 私の家の下 地下に防空ごうがあり 浜に逃げたり 怖かった 記憶がありますね。 この歌は 懐かしいけど あの時代を 思い出しますと 自然に涙が😢が出ます。戦後は、右足の無い方 左足の無い方 右手の無い方 左手の方無い方 多くいました 辛かった 時代でした。戦争は 怖いです。他の国も 戦争はやめて欲しいですね
私達、🍀幸せで、この肩達にほんと、申し訳ございません。涙💧でいっぱいです😢貴方様方の、おかげで今の日本は、幸せ🍀です。お悔やみ申し上げます🙏無念です。
異国の地で祖国に帰れるのがいつかも分からないってのはめちゃ辛かっただろうなぁ…。
ドリフの素人のど自慢ってネタで加トちゃんが歌ってて知りました!
俺もですw
ありがとうございます、わかりやすく、よく理解できます。
良い動画みせていただきましたありがとうございました。頑張ってくださいね
先ほどテレビ番組「昭和歌」で「異国の丘」を聞いていたら父親の叔父さんの事が思い出して泣けてきました。叔父さんは満州の 歩兵部隊で終戦の少し前にソ連軍に捕虜になり昭和 22年までシベリアに 抑留されていました。食べがないので野草やネズミまで食べたそうです。仲間が 次々に死んでゆく中で祖国日本の「ふるさと」を歌いながら 極寒のシベリア 鉄道の作業をしていたそうです。
大正生まれの母が淋しそうに口ずさんでいたあの頃の話は聞いていたがMASA しく、美空ひばりの(川の流れのように)は、あの世代を歌った😢先人に感謝します
親父のことを思い出して心にしみます。
slhs0083様、アップありがとうございました。私の祖父は民間人でしたが、奉天で現地召集を受けた後出兵し終戦を迎え、シベリアで抑留されました。体が強い人ではなかったので、病に倒れてなくなったらしいと聞いています。でもそれはソ連側の報告なので、本当の事は分からずじまいです。あったことのない祖父ですが、でもももしかしたら祖父も、この歌を歌っていたのかもしれないと思うと歌を通して祖父に近づけたような気持ちになりました。
この異国の丘を聞くたびに 亡き父を思い出します 戦争体験を話す時 涙して それを言ってたよくよく 祖国に帰ってこれたものだと父は言っていました戦争は2度と起こしてはいけません
私は、介護士利用者さんと歌の時間では、異国の丘を良く歌っていました、此の歌には皆して勇気付けられ昔話にお年寄りは戦争の話をされでした、戦争を知らない私も感動しました😊
당시 NHK의 아마추어 노래자랑 대회는 각 방면에서 호평을 받고 있는데, 1947년 8월 8일 대회에는 소련에서 돌아온 나카무라 고조라는 한 청년이 마이크 앞에 서서 '이국의 언덕'이라는 노래를 부르며 합격을 알리는 종이 울렸고 나카무라의 기량과 함께 노래 자체의 특이성 때문에 대단한 반향을 일으켰다.
😅 0:02 😂まに 0:02
忘れては行けないない事後世に残さないと行けない事今はこれに比べれば大した事ない
オカリナで吹いてますが感涙溢れます。
異国の地でこの様に耐えられた方には感謝しかありません。この人たちのお蔭で日本の今があると思います。それに比べ戦争を自分達の利権の為に進めて何の責任も取らない輩達に憤慨します
Preciosos e queridos irmãos jamais esquecido
BS1で放映された「女たちのシベリア抑留」をみた。終戦間際に日ソ不可侵条約を破って旧ソ連が参戦し弱った日本兵60万人近くと日本女性数百名がシベリアなどに抑留した。極寒の地で地獄のような酷い重労働を強いられ5万人以上が命を奪われた。日本人は旧ソ連の抑留兵の歴史や実態をもっと知るべきだ。
一隅を照らす! 今年は「赤紙で徴兵された従軍看護婦」をNHKで見た。勉強をしないネトウヨが犬HKとバカの一つ覚えみたいに叫び、こうした番組を見ることなしに「反日番組」と叫ぶ。大河ドラマもなかなか日本の歴史を見つめる上で参考になる。沖縄戦ではかつては、スパイ容疑で日本兵に虐殺された側の沖縄の人々と、殺した兵士達とが今では毎年交流し「…当時のことを識らないものには私達のこうした関係もわからないだろう…」と言っていたのが極めて印象深かった。NHKも変わりつつあり…また歴史の過去を識る上では、他番組の人気タレントのお笑いだけの番組よりは深いと思うこの頃です。
NHKの海外BS報道特集はかなり勉強になる。ばかげた民放の芸能人番組しか見ない今の若者は、今後の日本がどう諸外国と対峙していかなくてはならないのかを全く識ることもできない。
+seiji shino こいつネトウヨなのかパヨクなのかこれもうわかんねえな
みんな日本人、ちゃんと日本の歴史を知って欲しい。お祖父さんは何も語ら無かったけれど、勉強の糸口は そこにあるのに。
せっかく、戦争が終わったのに…この歌を口ずさみながら異国の地で懐かしい祖国へ帰ることも許されず眠ったままの多くの先人((+_+))。
たまりません。困ります。助けてよ!
私の父はシベリアで戦病死です、遺骨収集にゆきましたら、待っていたかのようでした、晴天、焼骨式は雪化粧で迎え、追悼文を読み上げると涙雨、帰りは真っ赤な夕陽、感動でした
数年前に亡くなったの父が この歌喜んで聴いて 誠に、有難う御座います!
遠い厳寒の地の果てで、はるか遠くの故国を思う気持ちが伝わってくる歌です。気持が引き締められます。
「流行りものは廃れもの」といいますが、永遠に廃れないものも、その中には確実に存在するのです。シベリア抑留中の日本軍兵士、増田幸治が作詞、吉田正が作曲したこの歌は、まさにその金字塔でしょう。昭和21年に行われた戦後第一回目のNHK素人のど自慢で初めて披露されました。当時、楽譜も何もないところからアコーディオンの伴奏もできないため、シベリア帰りの元兵士がアカペラで歌ったところ、「観客、審査員の別なく暫し茫然と涙に暮れてしまい、合格の鐘鳴らず、十数秒遅れで狂ったように連打された」と記録にはあります。戦後のあの辛い時代を代表する名曲です。わたしたちは、兵隊さんに感謝の気持ちを忘れてはなりません。この歌を歌うとき、わたしはいつも北朝鮮に拉致された人々の身の上を想わないではいられません。
大事なのは日本の為に散っていった方々の思いと、こういった歌を後世に受け継ついでゆかせることです。
父が好きでしたね。ありがとうございます
泣けて来る
もう60年以上前、駅の地下通路で傷痍軍人のオジサン達がよく歌ってたっけ。
25年に亘る海外工事生活で45度から−40度の中で過酷に耐え切れずに、何人もの仲間が辞めて行きました。当時この歌がいつも頭の片隅に浮んで来て必死で仕事を完成させて来ました。異国の丘を唄うと目頭が熱くなる思いです。この時代の方々の心の中が万分の一位は判った感じがします。無事に日本国に戻れたことを感謝する今日この頃です。畳の上で我が人生を終われるかなと想って居ます🇯🇵
お疲れ様でございました。🙇
戦争を知らない世代でラッキーと油断しておりましたコロナ禍で、しかも異国住まいです。畳が無いので日本からゴザかムシロを取り寄せないといけないかなあとか思うこの頃です。🙄
海外で現地工事中です。
昭和も終わりの方の生まれですが、
海外生活してると時代は変われどみんなこんな気持ちなのですね。
日本に帰りたい
らぱろましますねともしちゃね
らぱろま
10才くらいの時にシベリア抑留にいったじいちゃんと一緒にカラオケで歌って途中で悲しくて自分が泣きだしてじいちゃんも思い出して2人で泣いたのを思いだした。
じいちゃんとカラオケ行きたかったです🎤同期の桜とかねー。きゃー🫣
孫と一緒に歌う異国の丘・・・ お爺ちゃん孝行しましたね・・・。
いい歌ですね。涙が出ます。
寒かったんだろうな、辛かったんだろうな、帰りたかったんだろうな。祖国の土を~のところで涙があふれた。兵隊さん、本当に本当にお疲れ様です。
お疲れ様って軽いな。
抑留者は心身ともに辛い思いをしたのに。
お疲れ様でいいのでは?
わたしのおじいさんが、良区異国の丘を歌ってた。宇都宮勉が!果たして何者か?分かりますか?教えてください。😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂
この歌は涙無しでは聴けません。
私の叔父もシベリヤの長いこと抑留されて居りました。
是非、継承して頂きたいですね。
日本の兵隊さん。本当に長い間ご苦労様でした。
貴方達のおかげで今の日本が有ります。本当に有り難う御座います。
満ち足りた現代を生きるとき 今を築いてくれた 先人のご苦労を決して忘れないでほしい
聞くたびに涙が出て止まりません。どんな思いでシベリアの抑留を耐えてこられたのかと思います。我々が今あるのは尊い先人の犠牲があったからこそです。そのことを決して忘れてはなりません。
叔父は10年のシベリア抑留を体験しました、よく聴かされました。
先日舞鶴市引揚者記念館を訪ねました
俺のおじいちゃんもシベリアで過ごしたらしいですが、酷いもんだと聞きました。アジア人差別が酷いのなのんの暴力なんて当たり前だったらしいです。
そのとおりと思います
@@つーじROM専乃木大将が負けたロシアの大将を気付かったことがロシア人には通じなかったんだろうか😡❌💢❓❓
お疲れ様でした。今を生きる日本人として、本当に頭の下がる思いです。
涙が止まらんです・・・
確かに、、、そうですね。
私は 戦後25年生まれですけど 当時のモノクロ写真を見ると目頭が熱くなります
この人達がいて今の自分達がいる。感謝しかありません。敬礼
そうですね、この方達がいて今の日本自分達がいるのが分からない奴らがいる事が悲しいです😭
子供の頃の思い出だけど、祖父がこの歌を聴いて涙ぐんでいた。大陸で亡くなった戦友のことを最後まで忘れないと言っていた。
日本の為若い命をかけて戦ってくれた先人達に感謝です。皆さまのおかげで今の日本があります。
その前に「無謀な戦争」が何故起きたかを問わないと亡くなった人は浮かばれません
戦争は絶対したらいかん
こんな思いを二度としたくない先人に感謝しながらなみだを流しています
軍人さん、御国の為にありがとうございます。
お陰で私達が生きていられます。
英霊の御霊よ、どうか安らかに。
祖父がいつも口ずさんでいた歌でした。見つけられたことにちょっと感動しています。イントロのロシア民謡っぽいメロディー、心に沁みます。歌も然り。
今から約40年前、吉田正がこの曲を歌った映像が残されています。涙が出ますね。
あの大戦を戦われた方には、頭が下がる。戦後、復員した後は懸命に働いて復興の基礎を築いた。
この世代は最強の世代だと思う。
大和男児 どの 自分の祖父もエラブカ捕虜収容所で3年間を過ごし、昭和23年8月14日 興安丸にて舞鶴東港に引き揚げてまいりました。
Chu2007pae ありがとうございます
Chu2007pae
苦労されたんですよね。
シベリアの労働はさぞ辛かったでしょう。
舞鶴港についた時の安堵感は、半端ではなかったでしょうね。
思えば大正世代は苦難と受難の連続でしたね。私の両親は共に赤紙召集を受けました。父は昭和16年、母は19年でした。父はインド洋で、母は中国で終戦を迎えました。母は赤十字から従軍看護婦で召集された軍属でした。2人とも70を超えたあたりから戦争当時の話をポツポツとしてくれていました。相当辛かったのは言ってましたね。ちなみに母は例の従軍慰安婦については完全否定しています。当時衛星管理の立場から、かなりの慰安婦さんとの交流があったそうで、大半は日本人で、おそらく日本では良家の出の人たちが経済的理由から来ていたと言ってました。後、現地では多くの勧誘のビラがあちらこちらで貼ってあったとも言ってます。母は現在95才元気に暮らしています。
あの大東亜戦争をアジア解放とお国の自衛の為に戦った先輩方に敬礼/(-_-)
異国の土になった兵隊さんに感謝しております。
海外に在住していると、なおさら感謝の念がつのります。
asakusacat
何を感謝するのでしょうか。
先人のおかげでこんな平和な世の中があるのわ本当に感謝しないといけないですね。
asakusacat ... 異国の土になった兵隊さんに感謝って?それより日本が攻撃してきたその各国の地元の人に聞いた方がよい。その人たちが貴方の兵士たちに対し感謝をもっているのか。
@@伝説の日本兵 頭悪そうな文章
私は戦争を全く知らない世代ですが、このような歌を聴くと涙が自然と出ます。
先人達は日本を護り、アジアを解放するという大義を掲げて世界を敵に回して戦ったのだと私は思います。
しかしながら今の教育では彼らがまるで野蛮人で侵略者かつ犯罪者のように扱われており、あまりにも酷すぎて耐えられません。
これが敗戦国の宿命ですが、本当に悔しいです、先祖に会わせる顔がありません。
Stts IchiroM17 同感です。
従兄にアジアを守るなんて気持は微塵もなかったと信じている。引っ張り出されただけだ。
送り出した奴らが、隠匿物資を使って、作り上げたのが
今の金の亡者集団の国だ。恥を知らん日本人も奴らにつくられた。!
共感しかできません…
地域によるみたいですね。私はゆとり教育を受けた世代ですが、私が生まれ育った自治体では幼稚園から高校まで普通に日の丸はあげるし、敬礼はしていたし君が代も歌ったと東京の方に話したらびっくりされました。
聞いた話だと、軍国主義は良くないうんたらで第二次大戦の話はもちろん教えない上に童謡も知らないし国旗掲揚もしなかったんですって(>_.
素晴らしい歌ですね。シベリアに抑留された私の父もこの歌に励まされ生き延びたのだと思います。
兵隊さんの皆さん、大変なご苦労をなされましたね。
今の日本は、あなたたちご先祖様のおかげです。
ありがとうございます。
どうぞ、靖国で安らかにお休みください。
lasciatesperanza さんへ、兵士だけではありません、真面目に暮らしていた一般人が、スターリンのようなでたらめな独裁者によって連れ去られ、命を落としました、今21世紀の独裁者たちがまた暗躍しかかっています、絶対に彼らの暴挙を許してはなりません
酒井良政 ... スターリンはどの関係があるのか。海外で戦争をやるのにその日本の若い兵士を出したのはスターリンでしたか。
今は靖国神社ですが、後々は大本門寺(本門戒壇)所属靖国寺ですね
この人たちが、居たから今の日本が・・・
外国への戦争がなくて、ずっと日本において頑張っていたなら、どんな世界だろうね。
台湾の日本語世代として感謝します、僕たちも日本が懐かしいと何時でも心の奥に刻み付けています。mirai2012様、今後もよろしくお願いします。
曲もだけど映像が貴重。当時の日本兵の人間らしさがよく分かる
兵士たちの万感こもった表情に圧倒されます。これは、後の世代に語り継ぐべき、第一級歴史的資料ですね。
多くの歌手が歌っていますが 中村耕造さんが一番心にしみて何回も聴いています。
二度と「異国の丘」のようなことには、絶対に、なってはいけない。
戦地において倒れた、すべての皆様に哀悼の真を捧げます。
同感です
Minamitaifu
同感です。当時の政府が言いつのっていた理想郷は満州国にはなかった。そうした宣伝に手を貸して、若い人々を満州国に送り込んだ人たちのなかには、戦後、そのことに強い後悔と慚愧の念を抱いていた人が少なからずいた。
全ては日蓮大聖人に700年間も背く罰だった。日蓮大聖人に帰依して本門事の戒壇を建立すれば、世界政府が日本に出来ます。そうすると全て解決します。
世界😠💨嫌われ3国の🇷🇺は又々やってますからね~🇺🇦住民ツングースク(極寒)の地へ連行----NATOは💩ばっかり🤣アハハ~徹底的にやらないと---
偏見まみれの個人的な意見だけど二次大戦でナチス並みに非難されるべき非人道国家はソ連だと思ってる
偏見ではない、正論だ。ロシアは法を破り、今も破り続けている。
「道」の字はいらないな。
奴らは人間じゃないから。非人国家だよ。
あと、貴方に偏見はないよ。その通りだよ。
偏見でも何でもない、あなたの仰る通りですよ。
わたしが未だにロシア人を信用できないのは、
ポツダム宣言を受諾し、日本が敗戦したあとで
一方的に日ソ不可侵条約を破って満州に攻め込んできたその蛮行と、北方領土を占領しているからです。
こんな統計があります。
第一次大戦までの歴史で、国際条約を破った国の
一覧がありました。
一位はロシア、二位はドイツ、三位はフランスです。
現代では、中国がダントツの一位でしょうね。
ヒトラー〉スターリン〉毛沢東〉ポル・ポト
アメリカもだぞ
NHKラジオで「尋ね人」の時間がありましたね。遠い昔を思い出します。
戦後生まれですけど、この歌を聴くと何故か涙が出てきます。
このうたは軍歌ではありません。 敗戦後ソヴィトの不当に拘束され、シベリヤで強制労働させられた旧日本兵が故郷を思い浮かべ、歌った悲しい歌です。
旧日本兵が故郷を思い浮かべっていう時点で軍人の歌なので、軍歌に分類されるのでは?
「軍隊の士気を高めるための歌。また、愛国心などをうたった歌」を軍歌といいます。
したがって、この歌は軍歌ではありません。
定義上そうであっても一般的にどう見るかは辞典に載っている定義とは違うということを知るべきですね。
追記:ちなみに定義は軍隊の士気を高めるための歌。また、愛国心・軍隊生活などをうたった歌。 (デジタル大辞泉参照)とあります。軍隊生活にこの歌詞の内容は該当すると考えられますね。よって軍歌と分類されても何も不思議はありません。
バカがいるな。兵士が故郷を思い浮かべっていう時点で軍人の歌とか。所謂志願した職業軍人より招集された普通の兄ちゃんおっちゃん達の方が多い。家族を残し兵役につき、祖国へ帰る日を待ち望んだ彼等の気持ちにお前の余計な屁理屈を入れてカテゴライズすんなよ。072なら他所でやれ。
我很喜歡這一首歌曲。對於【被征召】當【士兵】的青年,無論是哪一國的【士兵】,
我都很心疼,不論他們是【自願】還是【非自願】,都是要【服從】。到前線。他們不是死,就是幸運的、能活著回來,但也有可能是變成【殘廢】的回來。吉田正先生、増田幸治先生、佐伯孝夫先生,也應是有很多感觸,才會做出此曲,寫出如此讓人感動的歌詞。2020-12-02
這首歌則是講,日本戰敗後,被 俄國人俘虜到 西伯利亞 苦寒之地 的集中營的日兵
@@David-jx5jk我说怎么一股苏联喀秋莎味
なぜか涙がでてきます
ありがとうの涙
私は元自衛官です。
故郷に帰って来られずに不遇の死を遂げた若者がたくさんいます。
私達は彼らの生きたかった未来を生きています。
何としても日本を守りきりましょう。
それが青春を奪われた彼らへのせめてもの弔いです。
国体を維持しようとする軍部に振り回され、死んだ日本兵はどうなるんだ。これから戦争をすることなんて望んではいない。
摩文仁賢和 ... 誰から日本を守りたいですか?変な政治家?新型の財閥?軍事主義の回復から?
自分元自衛官です全くその通りです
@@安藤輝三 3:00
人格者で知られた大叔父が何故「ソ連」「ロシア」に
嫌悪感を露わにするのかが不思議だった。
好き嫌いが無いのにイモだけが食べられないのも
不思議だった。
その理由が判ったのは私が大人になってからだ。
細かいことだがその芋は何ですか、収容所の食事で芋の塊があるスープが出るのは奇跡に近いと抑留者から聞いた記憶があります。
@@tamotsusuzuki6473
じゃがいも(馬鈴薯)ではないですか?
父は、ロ助と同じくらいカボチャが嫌いでした。
その理由がわかったのは、つい最近です。
シベリア抑留経験のあった父は生前、この歌もよく歌っていました。3番「倒れちゃならない 祖国の土に 辿り着くまでその日まで」の歌詞に胸がつまります。この思いを抱きつつ異国の土になった方々がどれほどいらっしゃるのでしょう。
本当にご苦労様でした。
おじいちゃんが好きです。ありがとう。
感謝です。
最後に担架が。祖国を前に・・。帰りたかったんだろう。帰りたっかったんだろう。帰りたっかんだろう。祖国の土を・・。
名曲はいつの時代でも色あせることなく、聴く人の心を揺さぶります。
軍歌か歌謡曲かなどということはどうでもいいことです。
吉田 正という作曲家の才能をあらためて、感じさせられました。
大東亜合唱団です。曲と映像が非常にマッチしていて素晴らしい作品です。
今の日本があるのも兵隊さんのお陰ですありがとうございました。
終戦記念日に、聴かせていただき、昔はTVで懐かしの歌とかやってたり、親、祖父母が聴いてたりで、好きな曲です。聴かせていただき、泣けてきます。有難うございました。
I am Indian but I love Japanese patriotic songs and it's mighty,great and glorious imperial army that show west the power of Asia.
今の日本は完全にアジアの世界を作る気はなく、米国傘下で西側の一員です。
有り難う🙏
いいね。素敵な名曲ですね。
国の為に 妻子に分かれ戦った方々 終戦後つらい抑留生活 皆様が他のおかげで今の平和日本が有ります 只々感謝有るのみ 曲を聴くたび 目頭が熱くなります
戦後生まれですが 兵隊さんの気持ちを思うと涙が止まりません。安らかにお眠り下さい。
長嶋茂雄さんも好きなこの曲を聴く度に涙が流れて来ます。負けたが故に極寒の地に『抑留』された方々。どれだけ故国に帰りたかったでしょう。いまだに『謝罪』1つしないばかりか新たに平然と隣国を侵略した無法国家の存在に強い怒りを新しくしました。
これが軍歌かどうかは別にして、戦争を語るうえで貴重な歌です。いい歌です。
軍歌じゃないと思います吉田正がシベリア抑留中に創った曲ですから
軍歌ではないが軍歌だとしてもいいやん。
祖父の兄は、戦後満州でソ連軍の捕虜となり刑法第58条適用の国家反逆罪で重労働25年の実刑判決を受けシベリアに11年間抑留されて昭和31年の12月に最終の帰還船で帰還しました。
この歌を聴くと、その話を涙ながらに語ってくれた祖父のことを思い出します。
蔵相 どの 最後の帰還船は昭和38年9月7日入港の白山丸ですが。失礼ですがおじい様の記憶違いでは、、、
Chu2008pae様、昭和31年の興安丸が最終じゃないのですか?昭和38年のソースはどこからでしょうか?何人でどの船ですか?
6459dhyさん
太原や撫順で戦犯にされた方々の帰還は、その辺りまで続いていたそうですが、もしかしたらそちらの方と勘違いなさっているのかもしれません。
昭和19年生
横合いから失礼します。
帰還船についてネットで調べたところ
1抑留者の最終帰還船は昭和31年12月26日舞鶴入港の
興安丸です。ナホトカからの帰還になります。
2それ以降の帰還船は塘沽・真岡(樺太)からの
帰還で最終は昭和33年(1958年)9月7日入港の真岡からの
白山丸の帰還と思われます。
昭和38年(1963年)9月7日入港の白山丸は
下記資料にはありません。
私の父は1947年10月2日高砂丸でナホトカから帰還しました。
入手した兵籍簿と下記資料の入港帰還日付が一致しており、
まず信頼できる資料と思います。
townreview.web.fc2.com/townreview/hikiagmemory2.html
なお1957年以降に見られる塘沽とは中国天津市の直轄地区。
真岡は樺太の真岡と思われます。
ついでに付け加えれば「コロ島」とは北京と瀋陽の中間にある交通の要衝
です。
(補足)ウィキペディア葫芦島在留日本人大送還
ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%AB%E8%8A%A6%E5%B3%B6%E5%9C%A8%E7%95%99%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E5%A4%A7%E9%80%81%E9%82%84
真岡郵便電信局事件
ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E5%B2%A1%E9%83%B5%E4%BE%BF%E9%9B%BB%E4%BF%A1%E5%B1%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6
シベリア抑留
ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%8A%91%E7%95%99
日本共産党委員長志位和夫の伯父志位正二などソ連のスパイとなり、戦後日本で諜報活動を行ったものもいる
志位正二
ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E4%BD%8D%E6%AD%A3%E4%BA%8C
Tohdo Masazumi 様
詳しく調べて頂きありがとうございます。
自分の親戚は、祖父の兄が二人抑留されていたそうで、一人は昭和23年の夏頃に帰還し、もう一人は昭和24年に戦犯(資本主義幇助罪)として強制労働25年の判決を受け昭和31年12月26日の帰還まで受刑し帰還された。
なので、この歌を聴く度に先の大戦で若くして異国の地へと散っていかれた英霊の方々の分まで生きなければならないと言う気持ちで日々を生きております。
私、昭和26年生まれ、親父は昭和19年の国民総動員で徴兵猶予の農家長男(山形)だが出兵。敗戦で部隊が朝鮮に集合後行方不明、シベリア生活。
「朝おきてみると隣が死んでた」って生活、ある日帰国と言われても信用できないまま列車が福島の「郡山」に着いたとき、初めて「家」に帰ったと思ったって、それが昭和24年、だから私がいる。
この歌を聞くと抑留された方々でも祖国のチを踏めずに亡くなられ方々のご冥福をお祈りします。
歌手の青木光一さんも三波春夫さんも抑留経験者ですがその抑留の辛さを心に秘めて良い歌を沢山歌ってくださいましたね。
涙がでますね。ありがとうございます
緊張感を保つ若者が日本人の素晴らしい処だが、気楽な現代の若者にこの神妙な顔付きは無い。
切ない歌ですね、親の気持ちは計り知れないものだったでしょうね😢😢
入院最中よく聴いて勇気付けられました
あんな時代なのに、当時の若い人達、何て純真無垢で明るいのでしょう。これが真の大和魂でしょうか?😄😃😀😊
とても良い歌ですね。
祖国日本に、やっと帰って来れた・・・。
しかし、この映像を見る限り、誰一人として、まったく笑顔が無い。
なぜだろうか?
私の叔父さんも、ラーゲリに入れられて強制労働させられました。満州派遣軍陸軍中尉です。栄養失調が原因で、肝臓を壊し、最後に肝硬変で亡くなった。東洋レーヨンに戦後復帰した。
♬ ~夢も寒かろ冷たかろ~♩♬
来る日も来る日も、寝るのも命がけだったんですね。
大変、ご苦労様でございました。感謝しております。
朝起きると、自分の隣の寝台で寝ていた戦友が、誰に看取られることも無く冷たくなっていた。
と言いう話は良く聞きます。
この曲と連鎖してラジオから流れていた帰還者の消息などの放送を思い出します。
いつの日か、無くなりましたが、。
戦争を体験し戦争後、日本に帰るためにどれだけ辛い思い・辛い作業をしたでしょうか・・・。
学校で何が有ったかを教えるべきだと思います。
ぜひお願いしたい。
たとえ離れても家族を想う心は離れなかったでしょう
このような純真無垢な若い兵士達の笑顔と覚悟と行動を写したフィルムを見る度に涙が溢れてくる。何も知らされずに負け戦であることも知らされずに、最後まで神州不滅を信じ、最後の最後まで戦いぬいた兵士達に、心からの有り難う、感謝の意を捧げます。しかし、負けるべき戦争であることが解っていながら、戦争へと導いた人間だけは許せぬ。
我是台灣人,聽到這首歌心中有無限的感傷…二戰日本戰敗,這些軍人落漠的被遣送回國,但我那位被日軍徵召的舅舅呢?已葬身在菲律賓海域,永遠回不了家…
今は亡き父が海軍の志願兵で行きました。よくこの歌を歌っていました。先人の方々が祖国の為、に戦って頂いたおかげで今の平和な日本があると思います。私は戦後生まれで戦後の苦しい時代はよく判りませんが通った小学校に戦前の校舎の焼けたあとの土台が残っていた記憶があります。やはり戦争はいけないと思っています。しかし、先の大戦は結果としてアジアを白人からの解放と独立ができたこは歴史が証明しています。戦いに敗れ祖国に帰った時は大変だったと思います。この先人の方々のおかげで今の平和な日本があり、日本人であることに誇りを感じます。
私の亡父はシベリアの冬を三度超えて生還した。ソ連におもねた連中は一冬で帰ったそうだ。「何でおれは帰れないのだろう」と思ったそうだ。会社の総務の大先輩、逆立ちしても足もとにも及ばないAさんのお父上は帰国できなかった。このためAさんは散々苦労された。さすがにこのことは苦しい思いをさせてしまうので話すのはタブーとされていた。酒席でご一緒させていただいたときに、どういうわけかこの話題になり、親父が三回冬を越えた話をした。Aさんは「そうか、君のお父さんもシベリアか。帰ってこられて本当によかったなあ」とコメントされた。それ以来、この大先輩には散々目をかけていただけたと思う。感謝しかない。
0:49 兵隊さんがマスクしてて親近感をおぼえます😷
吉田正は茨城県日立の出身で亡父の学友だったそうです。父は南方へ出兵し命からがら帰還したそうですが、、、。日立市に有るかみね公園へは毎年夏休みに東京から海水浴がてらに小学生の頃行っていましたがそこに吉田正音楽記念館ができたようです。実はかみね神社の裏の小さな階段(地元の人でも知っている人はまず居ない)を利用すると地続きに母の生家があります。バレルかな~笑~でも良い歌ですね。
何度ここに来てこの歌を聴いたか分からない。
動画の中の戸惑った表情の人物は今と変わらない日本人。
この人たちのお陰で今の自分達があるとこの歌を聴くたびいつも実感します。
自分たちも子供達に変わらない日本を残こしていくためにはしっかりしなくてはと思います。
この歌、従兄を想って涙が滲み、最後まで歌えない。!
遺体も還らぬままだ。!
この映像に出ていた人達で、何人が生きて日本に戻って来れたのか😢そう思うと、悲しいです🤧今、ロシアのウクライナヘの侵略戦争の戦場の映像を見て、昔の日本の兵士達の苦労を、思い浮かべています🥺
映像の中の人たちは、日本に帰着できた人たちです。
懐かしい曲ですね~異国の丘 あの時代は、 アメリカと日と 戦争あり 怖かったです 私の家の下 地下に防空ごうがあり 浜に逃げたり 怖かった 記憶がありますね。 この歌は 懐かしいけど あの時代を 思い出しますと 自然に涙が😢が出ます。戦後は、右足の無い方 左足の無い方 右手の無い方 左手の方無い方 多くいました 辛かった 時代でした。戦争は
怖いです。他の国も 戦争はやめて欲しいですね
私達、🍀幸せで、この肩達にほんと、申し訳ございません。涙💧でいっぱいです😢貴方様方の、おかげで今の日本は、幸せ🍀です。お悔やみ申し上げます🙏無念です。
異国の地で祖国に帰れるのがいつかも分からないってのはめちゃ辛かっただろうなぁ…。
ドリフの素人のど自慢ってネタで加トちゃんが歌ってて知りました!
俺もですw
ありがとうございます、わかりやすく、よく理解できます。
良い動画みせていただきましたありがとうございました。頑張ってくださいね
先ほどテレビ番組「昭和歌」で「異国の丘」を聞いていたら父親の叔父さんの事が思い出して泣けてきました。叔父さんは満州の 歩兵部隊で終戦の少し前にソ連軍に捕虜になり昭和 22年までシベリアに 抑留されていました。食べがないので野草やネズミまで食べたそうです。仲間が 次々に死んでゆく中で祖国日本の「ふるさと」を歌いながら 極寒のシベリア 鉄道の作業をしていたそうです。
大正生まれの母が淋しそうに口ずさんでいたあの頃の話は聞いていたがMASA しく、美空ひばりの(川の流れのように)は、あの世代を歌った😢先人に感謝します
親父のことを思い出して心にしみます。
slhs0083様、アップありがとうございました。私の祖父は民間人でしたが、奉天で現地召集を受けた後出兵し終戦を迎え、シベリアで抑留されました。体が強い人ではなかったので、病に倒れてなくなったらしいと聞いています。でもそれはソ連側の報告なので、本当の事は分からずじまいです。あったことのない祖父ですが、でもももしかしたら祖父も、この歌を歌っていたのかもしれないと思うと歌を通して祖父に近づけたような気持ちになりました。
この異国の丘を聞くたびに 亡き父を思い出します 戦争体験を話す時 涙して それを言ってたよくよく 祖国に帰ってこれたものだと父は言っていました戦争は2度と起こしてはいけません
私は、介護士利用者さんと歌の時間では、異国の丘を良く歌っていました、此の歌には皆して勇気付けられ昔話にお年寄りは戦争の話をされでした、戦争を知らない私も感動しました😊
당시 NHK의 아마추어 노래자랑 대회는 각 방면에서 호평을 받고 있는데, 1947년 8월 8일 대회에는 소련에서 돌아온 나카무라 고조라는 한 청년이 마이크 앞에 서서 '이국의 언덕'이라는 노래를 부르며 합격을 알리는 종이 울렸고 나카무라의 기량과 함께 노래 자체의 특이성 때문에 대단한 반향을 일으켰다.
😅 0:02 😂
まに 0:02
忘れては行けないない事後世に残さないと行けない事
今はこれに比べれば大した事ない
オカリナで吹いてますが感涙溢れます。
異国の地でこの様に耐えられた方には感謝しかありません。この人たちのお蔭で日本の今があると思います。それに比べ戦争を自分達の利権の為に進めて何の責任も取らない輩達に憤慨します
Preciosos e queridos irmãos jamais esquecido
BS1で放映された「女たちのシベリア抑留」をみた。終戦間際に日ソ不可侵条約を破って旧ソ連が参戦し弱った日本兵60万人近くと日本女性数百名がシベリアなどに抑留した。極寒の地で地獄のような酷い重労働を強いられ5万人以上が命を奪われた。日本人は旧ソ連の抑留兵の歴史や実態をもっと知るべきだ。
一隅を照らす! 今年は「赤紙で徴兵された従軍看護婦」をNHKで見た。勉強をしないネトウヨが犬HKとバカの一つ覚えみたいに叫び、こうした番組を見ることなしに「反日番組」と叫ぶ。大河ドラマもなかなか日本の歴史を見つめる上で参考になる。沖縄戦ではかつては、スパイ容疑で日本兵に虐殺された側の沖縄の人々と、殺した兵士達とが今では毎年交流し「…当時のことを識らないものには私達のこうした関係もわからないだろう…」と言っていたのが極めて印象深かった。NHKも変わりつつあり…また歴史の過去を識る上では、他番組の人気タレントのお笑いだけの番組よりは深いと思うこの頃です。
NHKの海外BS報道特集はかなり勉強になる。ばかげた民放の芸能人番組しか見ない今の若者は、今後の日本がどう諸外国と対峙していかなくてはならないのかを全く識ることもできない。
+seiji shino こいつネトウヨなのかパヨクなのかこれもうわかんねえな
みんな日本人、ちゃんと日本の歴史を知って欲しい。
お祖父さんは何も語ら無かったけれど、勉強の糸口は そこにあるのに。
せっかく、戦争が終わったのに…この歌を口ずさみながら異国の地で懐かしい祖国へ帰ることも許されず眠ったままの多くの先人((+_+))。
たまりません。困ります。助けてよ!
私の父はシベリアで戦病死です、遺骨収集にゆきましたら、待っていたかのようでした、晴天、焼骨式は雪化粧で迎え、追悼文を読み上げると涙雨、帰りは真っ赤な夕陽、感動でした
数年前に亡くなったの父が この歌喜んで聴いて 誠に、有難う御座います!
遠い厳寒の地の果てで、はるか遠くの故国を思う気持ちが伝わってくる歌です。
気持が引き締められます。
「流行りものは廃れもの」といいますが、
永遠に廃れないものも、その中には確実に存在するのです。
シベリア抑留中の日本軍兵士、増田幸治が作詞、吉田正が作曲したこの歌は、まさにその金字塔でしょう。
昭和21年に行われた戦後第一回目のNHK素人のど自慢で初めて披露されました。
当時、楽譜も何もないところからアコーディオンの伴奏もできないため、シベリア帰りの元兵士がアカペラで歌ったところ、
「観客、審査員の別なく暫し茫然と涙に暮れてしまい、
合格の鐘鳴らず、十数秒遅れで狂ったように連打された」
と記録にはあります。
戦後のあの辛い時代を代表する名曲です。
わたしたちは、兵隊さんに感謝の気持ちを忘れてはなりません。
この歌を歌うとき、わたしはいつも北朝鮮に拉致された人々の身の上を想わないではいられません。
大事なのは日本の為に散っていった方々の思いと、こういった歌を後世に受け継ついでゆかせることです。
父が好きでしたね。ありがとうございます
泣けて来る
もう60年以上前、駅の地下通路で傷痍軍人のオジサン達がよく歌ってたっけ。