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キユ25などの取扱便郵便車が早くから冷房車だったのは別に官尊民卑なんかではなく、窓を開けてると郵便物が車外に吸い出される危険がある為夏場でも窓を開けられず、また仕訳係員の発汗による郵便物の汚損を防止する意味合いが強かった
国鉄急行型は一番好きな車両達でした。「旅」が一番似合う車両達だったと思います。
@@續賢治 そうにゃ。👍
日帰り・1泊のお出かけで色々な線区を乗りキハ58系に乗車しました。動画にもあった電化後の紀勢本線きのくにも含め、紀伊半島を走った紀州・はまゆう・かすが・平安・くまの・しらはま・志摩や長距離を走った大社・赤倉、京都北部、若狭湾周辺でわかさ・丹後などの乗車歴があります。晩年はキハ75系置き換え前の快速みえや亀山-加茂間のワンマン普通など思い出の多い列車です。
冷房化と同時に冷却水装置が設置され、あのぺらぺら紙コップで英気を養った記憶が懐かしいですにゃ。デッキのアルミ仕切扉と縦書き指定席表示も。
こんばんは。一番印象に残っているキハ58使用列車は常磐線の急行ときわでした。ほとんどのときわが急行型電車使用のところ、水郡線直通の奥久慈と併結する列車は架線下DC運用でした。1980年代になっても上野駅にこの形式が乗り入れていたというのも今では感慨深いです。
「映える(ばえる)」という言葉はキハ58系の急行色のためにある...
昔々子供の頃、白浜で夏休みを過ごすためキハ58系急行きのくにに乗りました。エアコンの効きが悪く、ほとんどの乗客が窓を開けていたので、巡回していた車掌が閉めてました。旅行での移動はほとんど特急だったのでキハ58系乗車経験はきのくにくらいです。昔の国鉄車両はボロかったけど旅情溢れてましたね
富士急行から有田鉄道に譲渡された物は路線廃止後も保存されています入線時エンジンが1つ下ろされているのでキハ28相当の性能になっていたそうです 現在はエンジンの破損で自走は出来ず展示運転のさいは機関車に牽引されています
中学時代の修学旅行で乗車したのを覚えてます。セノハチでエンジン全開喘ぎながらも難所を越える場面で密かに感動しました。
横浜で育ったのでキハ58系には縁がなく、最初に乗ったのは九州旅行時の急行火の山号でした。キロ28には磐越西線で急行あがのの編成を使った普通列車で乗った事があります。
電化されていたにもかかわらず、架線の下を走り続けた急行しらゆき(金沢~青森)の秋田~青森北上線経由で(青森~仙台)の秋田~仙台の急行きたかみ陸羽東線経由で(青森~仙台)の秋田~青森の急行千秋奥羽本線経由秋田~青森急行むつなど色々乗りましたが、当時、トイレがたれ流しだったのは大人になるまでわかりませんでした。
子供の頃、大阪に住んでいました。天王寺駅から祖母の家へ行く際、停車中のきのくに号に遭遇した時は、いつもこれを眺めてから普通電車に乗っていました。確か1番線で、繁忙期には11両編成の列車もあったように記憶しています。鉄道全盛期の良い思い出です
片町線に入ったキハ58は当初キハ35と組んでいたので冷房車なのに冷房が使えないという極悪編成でしたね。後に相方をキハ28にして冷房が使えるようになりましたが。
やっぱり名古屋~新潟の全線電化区間を走行した急行「赤倉」と、松本~大糸線経由~金沢の「白馬」それと循環急行「すわ」「のべやま」が印象深いな(住んでるエリアがバレる😅)
キハ58系を採り上げて頂き有難うございます。m(_ _)m全国津々浦々で出会えたキハ58系、急行運用での乗車経験は「しらゆき」「白馬」「奥只見」「ちどり」の4列車のみで殆どの乗車経験がローカル運用でしたが、いずれも楽しい思い出の一つでした。4:09〜5:25 キハ57は屋代から長野電鉄を経由して湯田中へも乗入れていました。1963(昭和38)年の碓氷峠の粘着式切替及び長野電化後も1966(昭和41)年の直江津への電化延伸迄は信越本線急行の運用があったと記憶しています。6:07 「おもいで」は東北地区からの修学旅行臨でした。この他に、九州地区からの修学旅行臨で「とびうめ」が設定されていました。(存在を知ったのは保育社刊カラーブックスでしたが…💦)10:44 運転区間全線の電化後も引き続き気動車で運転された「架線下DC急行」ではこの他に金沢〜青森間の「しらゆき」、名古屋〜新潟間(中央西線・篠ノ井線・信越本線経由)の「赤倉」等がありました。前者は先述の「白馬」の様な非電化区間直通の急行を併結していた事、後者は担当していた新ニイ(新潟運転所、現・新潟車両センター)配置の165系電車の所要輌数が不足していたのが理由。(「57-11」ダイヤ改正で幕張から新潟に165系が転入して「赤倉」は電車化されて「60-3」改正まで運転された)11:05 普通列車への転用が増えるにつれて車内をセミクロスシートに改装した車輌も多く見られましたね。中には姫路に配属されて播但線で運用された5500番台の様にオールロングシートとなった車輌も…。この他、キハ58系の歴史で特筆されるのは「簡易冷房車」でしょうか。これは自車給電可能なキロ28の冷房装置を数基停止させて隣に連結したキハ58(AU13型クーラを3基だけ装備)の冷房を稼働させるものでした。後述の1輌を除いて後に他車と同様にクーラが増設されましたが、唯一「キハ58 637」だけは冷房が撤去された為、屋根上は冷房準備車の様に蓋が有りながら車内には吹出口が残っていたので初乗車時には驚いたものでした。晩年は長野に配置されて飯山線で運用され、塗装もフランス語のロゴが入った「飯山色」となっていました。長々と失礼しました…。💦また我々アラフィフ世代の琴線をくすぐる様な企画に期待しています。🤗
キハ58の思い出は小学校の修学旅行ですね。別の小学校と2校で貸し切り、国鉄川西池田駅から福知山線、大阪駅、京都駅、草津線、関西本線、参宮線で行きは伊勢市まで、帰りは鳥羽から乗ってます。当時、近鉄沿線はあおぞら号があったから近鉄沿線の人たちがうらやましいと思ってましたね😊車窓からは東海道線の新快速117系とか103系なんかが走っていたような記憶です。福知山線はまだ単線非電化で川西池田駅も現在の場所よりも西側にあり能勢電の国鉄川西前駅もあったと思います。大山はよく走っているのを覚えてます🎉
私は阪和線沿線だったので阪和貨物経由で伊勢でしたね当時、鉄ではなかったので、そんなに普段乗れない所を通って居ると言う感動は無かったです
やっぱカッコイイなぁ〜
[みささ],[だいせん]…何れも乗車しました.当時は普通列車=旧型客車の時代でありDC急行自体が輝いて見えた✴
なるほどキハ57は、善光寺御開帳。👋😃1961(昭和36)年は、丑年ですね。☀️😃❗丑年と未年が御開帳です。😌🎁🎂
九州の弓張号では車内で吊り下げ式の指定席表示を見たことがあります
キハ58は急行えびのと急行くまがわを思い出します。
2025年1月21日で、事実上の廃刊となる休刊が、発表された鉄道ジャーナル誌1986年8月特集(国鉄気動車特集)にも、掲載されているキハ58系です⁉️キハ65系ともに、急行列車として活躍しました。私にとっては、国鉄気動車列車では、キハ58系を使用した快速みえは、キハ82系特急南紀ともに、想い出深い列車ですね⁉️💕😊
アスベストはよく聞きますね😮 琴電の元阪神5000系や名鉄7000系もそうやし😢
冷房化では、2台エンジンのキハ58は床下が一杯で電源が詰めなかったので、1台エンジンで床下に余裕があるキハ28に電源用のエンジンと発電機を積み、自車+1両の2両に給電した。このため、キハ65が割り当てられなかった路線では必ずキハ58+28で運用され、キハ58のみの場合に比べてパワー不足が否めなかった。紀勢西線の普通列車もそうで、難所の荷坂峠の上り坂ではエンジンをフルパワーで吹かしても、自転車より遅い速度しか出なかったということがあった。
違いますね!キハ28型2000番台は自車も含めて3両まで冷房の給電が可能ですよ!キロ28型2000番台や、キハ65型も同様です。
3輌分給電可能な4VK電源セット装備のキハ28 2000番台やキロ28 2000番台及びキハ65が配置されていなかったり、配置があっても編成内に組み込まれていなかったりするとキハ58・57の冷房装置が使用不能で「宝の持ち腐れ」と化していましたね…。💦(そのためキハ58には冷房と扇風機の両方が装備されていた)キハ58・57の冷房装置が「宝の持ち腐れ」と化した一例がキハ110系投入前の小海線。担当していた中込機関区(現・小海線営業所)の配属車は全てキハ58・57・52といった2エンジン車でした。名古屋〜新潟間を中央西線・篠ノ井線・信越本線経由で結んだ「赤倉」も急勾配対応の為にグリーン車🍀以外全てキハ58という構成で、グリーン車🍀以外で冷房車が充当されたのは名古屋方の指定席車2輌のみという状況…。(3号車のキロ28に電源セット装備の2000番台を充当)
小中高修学旅行、家族旅行、陸路での個人旅行全てに利用した車両
予讃本線の急行うわじまと土讃本線の急行あしずりと高徳本線の急行阿波と小松島線の急行よしの川と阪和線の急行きのくにしか乗ってないです
キハ58好きすぎ鉄道ビジネスカジュアル最高
キユ25などの取扱便郵便車が早くから冷房車だったのは別に官尊民卑なんかではなく、窓を開けてると郵便物が車外に吸い出される危険がある為夏場でも窓を開けられず、また仕訳係員の発汗による郵便物の汚損を防止する意味合いが強かった
国鉄急行型は一番好きな車両達でした。「旅」が一番似合う車両達だったと思います。
@@續賢治 そうにゃ。👍
日帰り・1泊のお出かけで色々な線区を乗りキハ58系に乗車しました。動画にもあった電化後の紀勢本線きのくにも含め、紀伊半島を走った紀州・はまゆう・かすが・平安・くまの・しらはま・志摩や長距離を走った大社・赤倉、京都北部、若狭湾周辺でわかさ・丹後などの乗車歴があります。晩年はキハ75系置き換え前の快速みえや亀山-加茂間のワンマン普通など思い出の多い列車です。
冷房化と同時に冷却水装置が設置され、あのぺらぺら紙コップで英気を養った記憶が懐かしいですにゃ。デッキのアルミ仕切扉と縦書き指定席表示も。
こんばんは。一番印象に残っているキハ58使用列車は常磐線の急行ときわでした。ほとんどのときわが急行型電車使用のところ、水郡線直通の奥久慈と併結する列車は架線下DC運用でした。1980年代になっても上野駅にこの形式が乗り入れていたというのも今では感慨深いです。
「映える(ばえる)」という言葉はキハ58系の急行色のためにある...
昔々子供の頃、白浜で夏休みを過ごすためキハ58系急行きのくにに乗りました。エアコンの効きが悪く、ほとんどの乗客が窓を開けていたので、巡回していた車掌が閉めてました。旅行での移動はほとんど特急だったのでキハ58系乗車経験はきのくにくらいです。昔の国鉄車両はボロかったけど旅情溢れてましたね
富士急行から有田鉄道に譲渡された物は路線廃止後も保存されています
入線時エンジンが1つ下ろされているのでキハ28相当の性能になっていたそうです 現在はエンジンの破損で自走は出来ず展示運転のさいは機関車に牽引されています
中学時代の修学旅行で
乗車したのを覚えてます。
セノハチでエンジン全開
喘ぎながらも難所を越える
場面で密かに感動しました。
横浜で育ったのでキハ58系には縁がなく、最初に乗ったのは九州旅行時の急行火の山号でした。キロ28には磐越西線で急行あがのの編成を使った普通列車で乗った事があります。
電化されていたにもかかわらず、架線の下を走り続けた急行しらゆき(金沢~青森)の秋田~青森
北上線経由で(青森~仙台)の秋田~仙台の急行きたかみ
陸羽東線経由で(青森~仙台)の秋田~青森の急行千秋
奥羽本線経由秋田~青森急行むつ
など色々乗りましたが、
当時、トイレがたれ流しだったのは大人になるまでわかりませんでした。
子供の頃、大阪に住んでいました。天王寺駅から祖母の家へ行く際、停車中のきのくに号に遭遇した時は、いつもこれを眺めてから普通電車に乗っていました。確か1番線で、繁忙期には11両編成の列車もあっ
たように記憶しています。鉄道全盛期の良い思い出です
片町線に入ったキハ58は当初キハ35と組んでいたので冷房車なのに冷房が使えないという極悪編成でしたね。後に相方をキハ28にして冷房が使えるようになりましたが。
やっぱり名古屋~新潟の全線電化区間を走行した急行「赤倉」と、松本~大糸線経由~金沢の「白馬」
それと循環急行「すわ」「のべやま」が印象深いな(住んでるエリアがバレる😅)
キハ58系を採り上げて頂き有難うございます。m(_ _)m
全国津々浦々で出会えたキハ58系、急行運用での乗車経験は「しらゆき」「白馬」「奥只見」「ちどり」の4列車のみで殆どの乗車経験がローカル運用でしたが、いずれも楽しい思い出の一つでした。
4:09〜5:25 キハ57は屋代から長野電鉄を経由して湯田中へも乗入れていました。
1963(昭和38)年の碓氷峠の粘着式切替及び長野電化後も1966(昭和41)年の直江津への電化延伸迄は信越本線急行の運用があったと記憶しています。
6:07 「おもいで」は東北地区からの修学旅行臨でした。
この他に、九州地区からの修学旅行臨で「とびうめ」が設定されていました。
(存在を知ったのは保育社刊カラーブックスでしたが…💦)
10:44 運転区間全線の電化後も引き続き気動車で運転された「架線下DC急行」ではこの他に金沢〜青森間の「しらゆき」、名古屋〜新潟間(中央西線・篠ノ井線・信越本線経由)の「赤倉」等がありました。
前者は先述の「白馬」の様な非電化区間直通の急行を併結していた事、後者は担当していた新ニイ(新潟運転所、現・新潟車両センター)配置の165系電車の所要輌数が不足していたのが理由。
(「57-11」ダイヤ改正で幕張から新潟に165系が転入して「赤倉」は電車化されて「60-3」改正まで運転された)
11:05 普通列車への転用が増えるにつれて車内をセミクロスシートに改装した車輌も多く見られましたね。
中には姫路に配属されて播但線で運用された5500番台の様にオールロングシートとなった車輌も…。
この他、キハ58系の歴史で特筆されるのは「簡易冷房車」でしょうか。
これは自車給電可能なキロ28の冷房装置を数基停止させて隣に連結したキハ58(AU13型クーラを3基だけ装備)の冷房を稼働させるものでした。
後述の1輌を除いて後に他車と同様にクーラが増設されましたが、唯一「キハ58 637」だけは冷房が撤去された為、屋根上は冷房準備車の様に蓋が有りながら車内には吹出口が残っていたので初乗車時には驚いたものでした。
晩年は長野に配置されて飯山線で運用され、塗装もフランス語のロゴが入った「飯山色」となっていました。
長々と失礼しました…。💦
また我々アラフィフ世代の琴線をくすぐる様な企画に期待しています。🤗
キハ58の思い出は小学校の修学旅行ですね。別の小学校と2校で貸し切り、国鉄川西池田駅から福知山線、大阪駅、京都駅、草津線、関西本線、参宮線で行きは伊勢市まで、帰りは鳥羽から乗ってます。当時、近鉄沿線はあおぞら号があったから近鉄沿線の人たちがうらやましいと思ってましたね😊車窓からは東海道線の新快速117系とか103系なんかが走っていたような記憶です。福知山線はまだ単線非電化で川西池田駅も現在の場所よりも西側にあり能勢電の国鉄川西前駅もあったと思います。大山はよく走っているのを覚えてます🎉
私は阪和線沿線だったので阪和貨物経由で伊勢でしたね
当時、鉄ではなかったので、そんなに普段乗れない所を通って居ると言う感動は無かったです
やっぱカッコイイなぁ〜
[みささ],[だいせん]…何れも乗車しました.当時は普通列車=旧型客車の時代でありDC急行自体が輝いて見えた✴
なるほどキハ57は、善光寺御開帳。👋😃
1961(昭和36)年は、丑年ですね。☀️😃❗
丑年と未年が御開帳です。😌🎁🎂
九州の弓張号では車内で吊り下げ式の指定席表示を見たことがあります
キハ58は急行えびのと急行くまがわを思い出します。
2025年1月21日で、事実上の廃刊となる休刊が、発表された鉄道ジャーナル誌1986年8月特集(国鉄気動車特集)にも、掲載されているキハ58系です⁉️
キハ65系ともに、急行列車として活躍しました。
私にとっては、国鉄気動車列車では、キハ58系を使用した快速みえは、キハ82系特急南紀ともに、想い出深い列車ですね⁉️💕😊
アスベストはよく聞きますね😮 琴電の元阪神5000系や名鉄7000系もそうやし😢
冷房化では、2台エンジンのキハ58は床下が一杯で電源が詰めなかったので、1台エンジンで床下に余裕があるキハ28に電源用のエンジンと発電機を積み、自車+1両の2両に給電した。
このため、キハ65が割り当てられなかった路線では必ずキハ58+28で運用され、キハ58のみの場合に比べてパワー不足が否めなかった。
紀勢西線の普通列車もそうで、難所の荷坂峠の上り坂ではエンジンをフルパワーで吹かしても、自転車より遅い速度しか出なかったということがあった。
違いますね!キハ28型2000番台は自車も含めて3両まで冷房の給電が可能ですよ!キロ28型2000番台や、キハ65型も同様です。
3輌分給電可能な4VK電源セット装備のキハ28 2000番台やキロ28 2000番台及びキハ65が配置されていなかったり、配置があっても編成内に組み込まれていなかったりするとキハ58・57の冷房装置が使用不能で「宝の持ち腐れ」と化していましたね…。💦
(そのためキハ58には冷房と扇風機の両方が装備されていた)
キハ58・57の冷房装置が「宝の持ち腐れ」と化した一例がキハ110系投入前の小海線。
担当していた中込機関区(現・小海線営業所)の配属車は全てキハ58・57・52といった2エンジン車でした。
名古屋〜新潟間を中央西線・篠ノ井線・信越本線経由で結んだ「赤倉」も急勾配対応の為にグリーン車🍀以外全てキハ58という構成で、グリーン車🍀以外で冷房車が充当されたのは名古屋方の指定席車2輌のみという状況…。
(3号車のキロ28に電源セット装備の2000番台を充当)
小中高修学旅行、家族旅行、陸路での個人旅行全てに利用した車両
予讃本線の急行うわじまと土讃本線の急行あしずりと高徳本線の急行阿波と
小松島線の急行よしの川と阪和線の急行きのくにしか乗ってないです
キハ58好きすぎ
鉄道ビジネスカジュアル最高