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伊賀上野城紹介していただきありがとうございます。大変わかりやすい解説でした。
かいのすけさん今晩は未完成の城ですがこの高石垣は一見の価値がありますね分かり安い解説ありがとうございます👍
ありがとうございます。高石垣の上はかなり怖かったです!
高虎はわが故郷伊予の今治城でも有名だし興味ある武将です。伊賀上野は行ってみたい。今回も面白い動画ありがとう。
今治はキレイなお城ですね!またよろしくお願いします。
淡水魚のメダカと海水魚の鯛なんかが共存する不思議な堀があるんでしたっけ⁉️一度行ったんですが夏で意識朦朧でしたw北海道の人間にはかなりきつかった。今治焼き鳥食いたかった( ; ; )
木津川流域で育ったので、上野城や忍者屋敷には子供の頃よく遊びに行きました(^^)司馬遼太郎氏の「城塞」によれば家康は、上野城のそばを流れる木津川に軍船を浮かべれば、1日で大坂に到着できる地の利を見込んで、高虎をこの地に封じたとか…また東京の上野はかつて高虎が整備したので、伊賀上野から地名をそのままもらったそうですね!
約7年前に行ったことがあります。また行きたくなったな😊高石垣を上からのぞき込む時は、四つん這いで覗きました。そうすれば多少恐怖心は和らぐかも。。
確かに!です。あそこは危険です。もし落ちたら‥しか考えられません。
up有り難うございます。家康は、豊臣方に攻められたら、秀忠は井伊の彦根に入り自分は藤堂の上野に逃げ込むとしていました。包囲網のうち篠山城や名古屋城は方形の曲輪で同様の縄張りで上野城も途中までその痕跡がある様に見えます。後世、高虎は主君を数度替えてあざといとかズル賢いとか言われたようですが、これは江戸時代の儒教の影響で二君に見えずの発想によるもの。戦国の世はかいのすけさんの仰るようにどの主君に仕えるかを嗅ぎ分ける力は必要でした。なお、高虎は戦国の世を終わらせる大名として「厭離穢土欣求浄土」の家康を選んだのは正解でした。高虎は家康の晩年、江戸城表や駿府城表に屋敷を賜り家康の相手をし、また秀忠家光の相談相手にもなるよう命じられていたことからも家康の信頼は絶大だったようですね。あの高石垣は私も覗きましたが目が回りました。
ありがとうございます。上野東照宮の家康像の隣には天海と高虎がいると聞いたことがあります。よほど家康に重用されていたのですね。魅力的な武将だと思いました!またよろしくお願いします。
藤堂家は家康の遺言のおかげで幕末まで続いたが、鳥羽・伏見の戦いであっさりと幕府・徳川家を裏切ったとか…(^^;)
その代わり、散々悪評を受けたらしいですが…(^^;
@@垣内成夫 確かに、幕府側を断り、官軍側についたわけですが、高虎が作った日光東照宮の破壊の指示を官軍から受けましたが、断ったそうです。当時幕府側についた大名が官軍に攻められ、ひどい状況になっている事を考えると良い判断であったと思います。
@@なんえい さんそれは存じませんでした。ありがとうございます!
あくまで人に付くことを良しとする人だったんだろうなーと
赤城城も たかとらが築上
三重と和歌山の県境の方でしょうか。一度足を運んでみたいです!
鳥羽伏見の戦いで、あっさり裏切ったなどとされていますが、関連諸書を渉猟すると随分違う様です。いち早く交渉に
伊賀上野城紹介していただきありがとうございます。
大変わかりやすい解説でした。
かいのすけさん今晩は未完成の城ですがこの高石垣は一見の価値がありますね分かり安い解説ありがとうございます👍
ありがとうございます。高石垣の上はかなり怖かったです!
高虎はわが故郷伊予の今治城でも有名だし興味ある武将です。伊賀上野は行ってみたい。今回も面白い動画ありがとう。
今治はキレイなお城ですね!またよろしくお願いします。
淡水魚のメダカと海水魚の鯛なんかが共存する不思議な堀があるんでしたっけ⁉️
一度行ったんですが夏で意識朦朧でしたw
北海道の人間にはかなりきつかった。
今治焼き鳥食いたかった( ; ; )
木津川流域で育ったので、上野城や忍者屋敷には子供の頃よく遊びに行きました(^^)
司馬遼太郎氏の「城塞」によれば家康は、上野城のそばを流れる木津川に軍船を浮かべれば、1日で大坂に到着できる地の利を見込んで、高虎をこの地に封じたとか…
また東京の上野はかつて高虎が整備したので、伊賀上野から地名をそのままもらったそうですね!
約7年前に行ったことがあります。また行きたくなったな😊
高石垣を上からのぞき込む時は、四つん這いで覗きました。そうすれば多少恐怖心は和らぐかも。。
確かに!です。あそこは危険です。もし落ちたら‥しか考えられません。
up有り難うございます。家康は、豊臣方に攻められたら、秀忠は井伊の彦根に入り自分は藤堂の上野に逃げ込むとしていました。包囲網のうち篠山城や名古屋城は方形の曲輪で同様の縄張りで上野城も途中までその痕跡がある様に見えます。
後世、高虎は主君を数度替えてあざといとかズル賢いとか言われたようですが、これは江戸時代の儒教の影響で二君に見えずの発想によるもの。戦国の世はかいのすけさんの仰るようにどの主君に仕えるかを嗅ぎ分ける力は必要でした。なお、高虎は戦国の世を終わらせる大名として「厭離穢土欣求浄土」の家康を選んだのは正解でした。高虎は家康の晩年、江戸城表や駿府城表に屋敷を賜り家康の相手をし、また秀忠家光の相談相手にもなるよう命じられていたことからも家康の信頼は絶大だったようですね。あの高石垣は私も覗きましたが目が回りました。
ありがとうございます。上野東照宮の家康像の隣には天海と高虎がいると聞いたことがあります。よほど家康に重用されていたのですね。魅力的な武将だと思いました!またよろしくお願いします。
藤堂家は家康の遺言のおかげで幕末まで続いたが、鳥羽・伏見の戦いであっさりと幕府・徳川家を裏切ったとか…(^^;)
その代わり、散々悪評を受けたらしいですが…(^^;
@@垣内成夫
確かに、幕府側を断り、官軍側についたわけですが、高虎が作った日光東照宮の破壊の指示を官軍から受けましたが、断ったそうです。当時幕府側についた大名が官軍に攻められ、ひどい状況になっている事を考えると良い判断であったと思います。
@@なんえい さん
それは存じませんでした。
ありがとうございます!
あくまで人に付くことを良しとする人だったんだろうなーと
赤城城も たかとらが築上
三重と和歌山の県境の方でしょうか。一度足を運んでみたいです!
鳥羽伏見の戦いで、あっさり裏切ったなどとされていますが、関連諸書を渉猟すると随分違う様です。いち早く交渉に