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ありがとうございます!
お返事が遅れてしまい失礼いたしました。こちらこそ、ありがとうございます!スーパーサンクス嬉しいです!とても励みになります!参考文献の購入に使わせていただきますね!
今回も、とてもわかりやすい解説をありがとうございます!
自身に忠誠心があるかどうかではなく 存在そのものが驚異になった結果か
日本史を習うたびに殆ど記述がないのが不思議で不満でした。判官びいきとは義経に由来する言葉だと言われていますが、自分にとっては範頼がまさにそれです。こんなこと言うのも変ですが、丁寧なご解説に何か溜飲が下がる思いです。ありがとうございました。
義経は遊撃軍 範頼は本軍 組織を維持しながら戦略を実行することを行った
聞き取りやすいし、分かりやすかったです。次も期待してます!
範頼はいわば理想の上司って感じだったから北条も邪魔だったかも
有難うございます。
かつては範頼は義経の兄の一人程度にしか取りあげられて来なかった感があります。それだけに大河での存在感は新鮮でしたが、戦こそ縁の下の力持ちが重要であることが着目されて来始めた証しかもしれません。それにしても、頼朝の功臣粛清は、漢の高祖劉邦に似ているようにおもえてなりません。
後の足利尊氏と直義が争っているから、排除するって、あながち間違ってないのが何とも。
優れた武将の脇には目立たず地味な印象ながら有能な弟がいることが多いですよね天下人である豊臣秀吉における秀長とかはその例ですよねそういう人ってトップである兄の考えや気持ちも理解できるし、配下の武将のことも理解できるから、そこをつなぐパイプ役として上手く機能するからなのかもしれないただ、器が小さかったり、自身の血統に重きを置きすぎるトップでは、そんな優秀な弟を疎ましく思って潰すパターンが多いのも事実ですがそういう行動をとるグループは、弟を失脚させた後はすぐに衰退するけど
声がイケメンすぎる
平家方の三種の神器はレプリカなのに何で欲しがったのでしょう?
生かしていたら万寿の地位が脅かされるから?秀吉が秀次の子を根絶やしにしたようなものかと。それで豊臣家は滅亡した
蒲殿は性格的にそんな事はしないと思う。徳川家綱を補佐した叔父の保科正之の様な存在になっていたと思う。鎌倉殿も失敗した…。
狡兎死して走狗煮らる軍事に長けた兄弟は邪魔になったということですね。
義経と範頼が生きてたら最強やったという事やな。そうなると、逆に北条が嫉妬すれか??
わかりやすい解説を有難うございました。鎌倉殿では、何やかや言って、嫉妬心という貰い事故にはかなわないと思いました。上総の介しかり、義経しかり。選ぶべき道は出家だったのでしょうか。
忠誠の塊なのに、カバちゃんに謀反と言いがかりをつけた兄ちゃん。
カバちゃん、そそのかされたというか押しが弱いもんね。
性格はいい人。「鎌倉殿の13人」では小泉孝太郎演じる平宗盛と性格が似てる。
そして、小四郎が止めに入ったが頼朝が言う事を聞かないので、小四郎が引き下がる。。。凄い演出です。小四郎は柔軟性がある執権のタマだなあ。
多田行綱が山手から攻めたという新説を取り上げているのは新鮮です。
豊臣秀次と同じ、嫡男可愛さで粛清である。
それはそうなんだけど、その辺をなあなあで済ませてお家騒動になることも珍しくないですし。というか、源氏は身内で争うことが多かったりもするから疑い深くなるのはやむを得ない所もあったと思います。
@@大鳥居めとん なんで摂津源氏は穏やかだったのかな…
源氏が滅びたのは自業自得。頼朝が愚か過ぎる。
そうですね…義経と範頼が存命なら北条に則られずに済んだのに
足利も一応源氏やで(ある意味、室町幕府は天下を源氏に取り返した)。
範頼は九州遠征時には帰るという豪族を引き留めたり、手柄を譲ったり、なにか中間管理職的な苦労を感じます確かに謀反を起こす気は無くとも多くの信認を得ている事に恐ろしさは感じるだろなとは思いますね勝手な想像ですが「私が後います」云々では生真面目というか相手を安心させる(今まで部下にしてきた方法かも)方法論が仇になったのかな?とか想像したりします
昨日見たから見に来た カバ殿生きてたらな
あくまでも、義経や頼朝の動きや源平合戦の話からの推測であるが、頼朝はまともな戦いで自ら率いた軍でまともな勝利を挙げた事はほとんどなく、義経は奇策や奇襲で勝利を挙げるタイプの武将で正攻法で戦い勝利に導けるのは範頼が3人のなかでは一番だろうとみる。一の谷の勝利はもちろん、壇ノ浦の勝利も九州側をおさえ平家の退路を塞ぎ、九州側の陸地からの弓矢の援軍の存在は大きかったのではないか、東側は義経らに攻め込まれており、流されて九州側の陸地に迫ると陸から範頼らの弓矢の攻撃にさらされる、もう逃げ道がないとして海に自害をする流れを作ったのではないかと思う。 頼朝は東北の藤原氏も倒し強い敵はいなくなり自らを脅かす存在は見方の謀反しかないと思い込んだため一番の見方の弟をすべて亡き者にしたんだろうね、後にそれが自分の勢力の滅亡につながり、助けてくれる存在を自ら消してしまった事に気付くんだろうけど時は遅しだったんだろうね。
義経、範頼を殺したことは結果的に自分の手足を切りましたね
カバな弟とバカな兄貴か結局、その能力を頼朝に恐れられたんだな。なまじっか血がつながった兄弟だけに、自分にとって代わられる危険はアカの他人より大きいよな
他人より身内の方が信じられると思う。源氏は身内を殺す人が多い。足利尊氏は鎌倉幕府滅亡時に間接的とはいえ義兄(妻の兄)の北条守時を殺した。
ノリちゃん、かっこえぇ(;_;)💦
範頼の力量が、凄いと思われます
結局最後はバトルロワイヤル
皆で一致団結していれば鎌倉幕府は安泰だったのに。
流人だった頼朝は古くから使えている家人が居ないので、朝廷や有力武将の調略でいつ権力の座から追い落とされるか分からない状況もありましたからね。特に平家滅亡後は頼朝を担いで戦う相手も居らず、恩賞として貰える土地も無くなったので、過去の恩賞に対する不満を持つ者を中心に謀反を考えてもおかしく無いと、頼朝は悟っていた筈です。少しでもその兆候があれば、断ち切りたいと思うのも当然かも知れませんね。そこまで思いが至らなかった、範頼や義経にも問題があったと思います。
義経は朝廷から官位をもらうにしても頼朝の許可を取ってからにすべきだった。戦は強いが気くばりが足りないな。蒲殿は自分から見ても頼朝に対する忠誠、周囲に対して細かい気くばりもできてる。あの一言も義姉を慰める為に言っただけなのに。頼朝は弁解をきちんと聞くべきだった。生かしておけば子供らのよき後見人となった男なのに…。
加えて曽我事件には範頼の家来も加わっていたそうですからしらないとはいえ、ここで身内であろうと責任を取らせないと頼朝派の御家人の離反に繋がりかねなかった部分もあったと思います、梶原景時あたりはご兄弟とて信賞必罰を徹底しないと御家人が離れますくらい言ったでしょうね
@@義和菊池 さん 範頼は義経追討を命じられた時、自分には出来ないと断ったそうなので情にも厚かったと思います
@@獅子原鱗 いい人ですね。仕えるなら頼朝より蒲殿に仕えたいですね。
@@義和菊池 さん 私もですよ……あまり描かれることはないけど義経の事を本当に鎌倉で理解してたのも彼ぐらいかもですね
範頼の死は頼朝の子孫の滅亡に繋がった
どの道、阿野全成と一緒に頼家に殺されていたんじゃない?
長州藩の武士や庄屋には範頼の子孫いますよ?室町時代以降、石見吉見氏が国人として大内氏の家老格として活躍しました。大内家臣の国人層やその分家家臣が関ヶ原以降帰農したり毛利に支えて明治まで尊属しました。
@@鼻毛-b8q 吉見氏は毛利家の家臣にいました。江戸時代初期に毛利輝元に反抗した為に確か当主が殺されたと思います。その後吉川から養子に吉見に入った人が吉川家に戻って御家断絶したと思います。
@@kinnginnrimeiku 頼家時代を生き抜けば、穏和な実朝には信用され寿命を全う出来そうに感じます。
19日の鎌倉殿放映楽しみです。
これは蒲だけではなく義経も含めたの話だが、頼朝には戦場の大きな実績がないから、実績残した弟が自分よりも持ち上げられること、そして自分の子の代に謀反の旗頭になられる、取って代わられるのを恐れたのだろう。まだまだ年長者というだけで何者であっても敬われる時代ではないし。頼朝のコンプレックスだと思いたい。
足利尊氏よりは疑心暗鬼が強いか源頼朝は
範頼が優秀なのは頼朝が目立たないから自分より優秀な者は消してしまおう!頼朝って心が狭そうだから弟達が目立つのは嫌だったろう!弟達がいなかったら頼朝なんて大したことない男で終わったと思う
ただ政治力だけは飛び抜けていたと思う。
才能の方面が違うんじゃないかな?軍事面は義経や範頼の方が上だろうけど、兄弟達の中でも政治力は頼朝がずば抜けてる。武田信義や木曽義仲、平家、奥州藤原氏と頼朝にライバルがいる間は義経や範頼は大切な戦力だったけど、ライバルを潰した後は、頼朝自身に権力を一元化させるために反頼朝勢力が現れた際に担ぎ上げられやすい義経や範頼が危険視される存在になったって感じですよね
平家は一族仲良く、源氏は身内も側近も殺す、、、。そして自分も 自分の子供も殺された。
範頼と、義経の似顔絵を比べても、範頼の方がわりと美麗で賢そうな雰囲気が見て取れる。
義経の肖像画は江戸時代のものです
曽我兄弟の仇討の時に、頼朝死亡の虚報をわざと流したんじゃないのかなー?
蒲殿が流すとは思えない。誰が流したのか?予想では北条時政あたりかな?
物堅い性格で慎重な仕事が出来たのは間違いなさそうで後継者足り得る血筋は間違いないけれど、情報操作の件は深読みしすぎな感があり反幕府御家人の受け皿になっていたかはわからないので判断は微妙なところ。
義経記などで見られる「卑しい出自で源氏の血脈を名乗るのもおこがましい上に無能な愚人」なんて結局は酷い印象操作でしかないんですね
後見役にピッタリだと思うけど、自分がもし頼朝なら計画するから頼朝の行動もわかる
この時代背景を考えれば身内であっても疑心暗鬼にはなるよね。相手を信じられなければまた自分も信じてはもらえない。今の世もまたしかり。
そもそも源氏は身内争いを繰り返してるからねぇ
末裔の吉見氏が、大江広元の末裔にあたる毛利輝元によって誅殺されたのは不思議な巡り会わせとも言えますね。
うわそうなの?だから歴史はおもしろい。
総司令官(範頼)に無断で部隊長(義経)が抜け駆けししかもそれが評価されちゃうのが、日露戦争のあとの日本軍に横行していたのと軌を一にしていて嫌ですね。判官贔屓のような俗論が冷静な専門的議論より優先しちゃうのはまずいです
ロイエンタール
数百年後、家康が嫡男を次の将軍にってのがようやくできたんだね。
足利尊氏も、義詮に将軍職を継いでます。
恐れるのもいいけど、直系の子孫が簡単に途切れすぎ。頼朝夫婦が子供を作るのも育てるのもド下手糞だったから鎌倉幕府はさっさととっととガタガタになった。
頼朝夫婦は子作りは上手い。ただ育て方には問題がある。息子二人の性格が足して二で割れば立派な将軍になっていた。兄は自己主張が強い、弟は優しい。これが二人の性格の通説。
マサコが何となく父親に加担してる気がする。
安心してください。私がいますよ😠✨
本当に蒲殿が言ったのかな?大江広元か北条政子あたりが話をでっち上げて、頼朝に吹き込んでいたのかな?と思う。
その発言も自分が鎌倉幕府のトップに立つというよりも、頼朝が死んだという疑惑の中で謀反が起きたとしても、鎌倉は私が守りますってニュアンスで言ったんじゃないかと予想してます
安心してください。履いてますよ。
@@kzbangkok7596 安村🩲は草
為朝は?
頼朝が挙兵する10年前に朝廷から謀叛人として討伐命令が下り、自害した後首を跳ねられ、都で晒し首の辱しめを受けました。
論文やらなんやらの書き方と研究のしかたを知っている人がつくるとこうなるね
ありがとうございます!
お返事が遅れてしまい失礼いたしました。
こちらこそ、ありがとうございます!
スーパーサンクス嬉しいです!とても励みになります!参考文献の購入に使わせていただきますね!
今回も、とてもわかりやすい解説をありがとうございます!
自身に忠誠心があるかどうかではなく 存在そのものが驚異になった結果か
日本史を習うたびに殆ど記述がないのが不思議で不満でした。
判官びいきとは義経に由来する言葉だと言われていますが、自分にとっては範頼がまさにそれです。
こんなこと言うのも変ですが、丁寧なご解説に何か溜飲が下がる思いです。ありがとうございました。
義経は遊撃軍 範頼は本軍 組織を維持しながら戦略を実行することを行った
聞き取りやすいし、分かりやすかったです。次も期待してます!
範頼はいわば理想の上司って感じだったから北条も邪魔だったかも
有難うございます。
かつては範頼は義経の兄の一人程度にしか取りあげられて来なかった感があります。それだけに大河での存在感は新鮮でしたが、戦こそ縁の下の力持ちが重要であることが着目されて来始めた証しかもしれません。それにしても、頼朝の功臣粛清は、漢の高祖劉邦に似ているようにおもえてなりません。
後の足利尊氏と直義が争っているから、排除するって、あながち間違ってないのが何とも。
優れた武将の脇には目立たず地味な印象ながら有能な弟がいることが多いですよね
天下人である豊臣秀吉における秀長とかはその例ですよね
そういう人ってトップである兄の考えや気持ちも理解できるし、配下の武将のことも理解できるから、そこをつなぐパイプ役として上手く機能するからなのかもしれない
ただ、器が小さかったり、自身の血統に重きを置きすぎるトップでは、そんな優秀な弟を疎ましく思って潰すパターンが多いのも事実ですが
そういう行動をとるグループは、弟を失脚させた後はすぐに衰退するけど
声がイケメンすぎる
平家方の三種の神器はレプリカなのに何で欲しがったのでしょう?
生かしていたら万寿の地位が脅かされるから?秀吉が秀次の子を根絶やしにしたようなものかと。それで豊臣家は滅亡した
蒲殿は性格的にそんな事はしないと思う。徳川家綱を補佐した叔父の保科正之の様な存在になっていたと思う。鎌倉殿も失敗した…。
狡兎死して走狗煮らる
軍事に長けた兄弟は邪魔になったということですね。
義経と範頼が生きてたら最強やったという事やな。
そうなると、逆に北条が嫉妬すれか??
わかりやすい解説を有難うございました。鎌倉殿では、何やかや言って、嫉妬心という貰い事故にはかなわないと思いました。上総の介しかり、義経しかり。選ぶべき道は出家だったのでしょうか。
忠誠の塊なのに、カバちゃんに謀反と言いがかりをつけた兄ちゃん。
カバちゃん、そそのかされたというか押しが弱いもんね。
性格はいい人。「鎌倉殿の13人」では小泉孝太郎演じる平宗盛と性格が似てる。
そして、小四郎が止めに入ったが頼朝が言う事を聞かないので、小四郎が引き下がる。。。凄い演出です。小四郎は柔軟性がある執権のタマだなあ。
多田行綱が山手から攻めたという新説を取り上げているのは新鮮です。
豊臣秀次と同じ、嫡男可愛さで粛清である。
それはそうなんだけど、その辺をなあなあで済ませてお家騒動になることも珍しくないですし。
というか、源氏は身内で争うことが多かったりもするから疑い深くなるのはやむを得ない所もあったと思います。
@@大鳥居めとん なんで摂津源氏は穏やかだったのかな…
源氏が滅びたのは自業自得。頼朝が愚か過ぎる。
そうですね…義経と範頼が存命なら北条に則られずに済んだのに
足利も一応源氏やで(ある意味、室町幕府は天下を源氏に取り返した)。
範頼は九州遠征時には帰るという豪族を引き留めたり、手柄を譲ったり、なにか中間管理職的な苦労を感じます
確かに謀反を起こす気は無くとも多くの信認を得ている事に恐ろしさは感じるだろなとは思いますね
勝手な想像ですが「私が後います」云々では生真面目というか相手を安心させる(今まで部下にしてきた方法かも
)方法論が仇になったのかな?とか想像したりします
昨日見たから見に来た カバ殿生きてたらな
あくまでも、義経や頼朝の動きや源平合戦の話からの推測であるが、頼朝はまともな戦いで自ら率いた軍でまともな勝利を挙げた事はほとんどなく、義経は奇策や奇襲で勝利を挙げるタイプの武将で正攻法で戦い勝利に導けるのは範頼が3人のなかでは一番だろうとみる。一の谷の勝利はもちろん、壇ノ浦の勝利も九州側をおさえ平家の退路を塞ぎ、九州側の陸地からの弓矢の援軍の存在は大きかったのではないか、東側は義経らに攻め込まれており、流されて九州側の陸地に迫ると陸から範頼らの弓矢の攻撃にさらされる、もう逃げ道がないとして海に自害をする流れを作ったのではないかと思う。
頼朝は東北の藤原氏も倒し強い敵はいなくなり自らを脅かす存在は見方の謀反しかないと思い込んだため一番の見方の弟をすべて亡き者にしたんだろうね、後にそれが自分の勢力の滅亡につながり、助けてくれる存在を自ら消してしまった事に気付くんだろうけど時は遅しだったんだろうね。
義経、範頼を殺したことは結果的に自分の手足を切りましたね
カバな弟とバカな兄貴か
結局、その能力を頼朝に恐れられたんだな。なまじっか血がつながった兄弟だけに、自分にとって代わられる危険はアカの他人より大きいよな
他人より身内の方が信じられると思う。源氏は身内を殺す人が多い。足利尊氏は鎌倉幕府滅亡時に間接的とはいえ義兄(妻の兄)の北条守時を殺した。
ノリちゃん、かっこえぇ(;_;)💦
範頼の力量が、凄いと思われます
結局最後はバトルロワイヤル
皆で一致団結していれば鎌倉幕府は安泰だったのに。
流人だった頼朝は古くから使えている家人が居ないので、朝廷や有力武将の調略でいつ権力の座から追い落とされるか分からない状況もありましたからね。
特に平家滅亡後は頼朝を担いで戦う相手も居らず、恩賞として貰える土地も無くなったので、過去の恩賞に対する不満を持つ者を中心に謀反を考えてもおかしく無いと、頼朝は悟っていた筈です。
少しでもその兆候があれば、断ち切りたいと思うのも当然かも知れませんね。
そこまで思いが至らなかった、範頼や義経にも問題があったと思います。
義経は朝廷から官位をもらうにしても頼朝の許可を取ってからにすべきだった。戦は強いが気くばりが足りないな。蒲殿は自分から見ても頼朝に対する忠誠、周囲に対して細かい気くばりもできてる。あの一言も義姉を慰める為に言っただけなのに。頼朝は弁解をきちんと聞くべきだった。生かしておけば子供らのよき後見人となった男なのに…。
加えて曽我事件には範頼の家来も加わっていたそうですからしらないとはいえ、ここで身内であろうと責任を取らせないと頼朝派の御家人の離反に繋がりかねなかった部分もあったと思います、梶原景時あたりはご兄弟とて信賞必罰を徹底しないと御家人が離れますくらい言ったでしょうね
@@義和菊池 さん 範頼は義経追討を命じられた時、自分には出来ないと断ったそうなので情にも厚かったと思います
@@獅子原鱗 いい人ですね。仕えるなら頼朝より蒲殿に仕えたいですね。
@@義和菊池 さん 私もですよ……あまり描かれることはないけど義経の事を本当に鎌倉で理解してたのも彼ぐらいかもですね
範頼の死は頼朝の子孫の滅亡に繋がった
どの道、阿野全成と一緒に頼家に殺されていたんじゃない?
長州藩の武士や庄屋には範頼の子孫いますよ?
室町時代以降、石見吉見氏が国人として大内氏の家老格として活躍しました。
大内家臣の国人層やその分家家臣が関ヶ原以降帰農したり毛利に支えて明治まで尊属しました。
@@鼻毛-b8q 吉見氏は毛利家の家臣にいました。江戸時代初期に毛利輝元に反抗した為に確か当主が殺されたと思います。その後吉川から養子に吉見に入った人が吉川家に戻って御家断絶したと思います。
@@kinnginnrimeiku 頼家時代を生き抜けば、穏和な実朝には信用され寿命を全う出来そうに感じます。
19日の鎌倉殿放映楽しみです。
これは蒲だけではなく義経も含めたの話だが、頼朝には戦場の大きな実績がないから、実績残した弟が自分よりも持ち上げられること、そして自分の子の代に謀反の旗頭になられる、取って代わられるのを恐れたのだろう。まだまだ年長者というだけで何者であっても敬われる時代ではないし。頼朝のコンプレックスだと思いたい。
足利尊氏よりは疑心暗鬼が強いか源頼朝は
範頼が優秀なのは頼朝が目立たないから自分より優秀な者は消してしまおう!
頼朝って心が狭そうだから弟達が目立つのは嫌だったろう!
弟達がいなかったら頼朝なんて大したことない男で終わったと思う
ただ政治力だけは飛び抜けていたと思う。
才能の方面が違うんじゃないかな?軍事面は義経や範頼の方が上だろうけど、兄弟達の中でも政治力は頼朝がずば抜けてる。武田信義や木曽義仲、平家、奥州藤原氏と頼朝にライバルがいる間は義経や範頼は大切な戦力だったけど、ライバルを潰した後は、頼朝自身に権力を一元化させるために反頼朝勢力が現れた際に担ぎ上げられやすい義経や範頼が危険視される存在になったって感じですよね
平家は一族仲良く、源氏は身内も側近も殺す、、、。
そして自分も 自分の子供も殺された。
範頼と、義経の似顔絵を比べても、範頼の方がわりと美麗で賢そうな雰囲気が見て取れる。
義経の肖像画は江戸時代のものです
曽我兄弟の仇討の時に、頼朝死亡の虚報をわざと流したんじゃないのかなー?
蒲殿が流すとは思えない。誰が流したのか?予想では北条時政あたりかな?
物堅い性格で慎重な仕事が出来たのは間違いなさそうで後継者足り得る血筋は間違いないけれど、情報操作の件は深読みしすぎな感があり反幕府御家人の受け皿になっていたかはわからないので判断は微妙なところ。
義経記などで見られる「卑しい出自で源氏の血脈を名乗るのもおこがましい上に無能な愚人」
なんて結局は酷い印象操作でしかないんですね
後見役にピッタリだと思うけど、自分がもし頼朝なら計画するから頼朝の行動もわかる
この時代背景を考えれば身内であっても疑心暗鬼にはなるよね。相手を信じられなければまた自分も信じてはもらえない。今の世もまたしかり。
そもそも源氏は身内争いを繰り返してるからねぇ
末裔の吉見氏が、大江広元の末裔にあたる毛利輝元によって誅殺されたのは不思議な巡り会わせとも言えますね。
うわそうなの?だから歴史はおもしろい。
総司令官(範頼)に無断で部隊長(義経)が抜け駆けししかもそれが評価されちゃうのが、日露戦争のあとの日本軍に横行していたのと軌を一にしていて嫌ですね。判官贔屓のような俗論が冷静な専門的議論より優先しちゃうのはまずいです
ロイエンタール
数百年後、家康が嫡男を次の将軍にってのがようやくできたんだね。
足利尊氏も、義詮に将軍職を継いでます。
恐れるのもいいけど、直系の子孫が簡単に途切れすぎ。頼朝夫婦が子供を作るのも育てるのもド下手糞だったから鎌倉幕府はさっさととっととガタガタになった。
頼朝夫婦は子作りは上手い。ただ育て方には問題がある。息子二人の性格が足して二で割れば立派な将軍になっていた。兄は自己主張が強い、弟は優しい。これが二人の性格の通説。
マサコが何となく父親に加担してる気がする。
安心してください。私がいますよ😠✨
本当に蒲殿が言ったのかな?大江広元か北条政子あたりが話をでっち上げて、頼朝に吹き込んでいたのかな?と思う。
その発言も自分が鎌倉幕府のトップに立つというよりも、頼朝が死んだという疑惑の中で謀反が起きたとしても、鎌倉は私が守りますってニュアンスで言ったんじゃないかと予想してます
安心してください。履いてますよ。
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為朝は?
頼朝が挙兵する10年前に朝廷から謀叛人として討伐命令が下り、自害した後首を跳ねられ、都で晒し首の辱しめを受けました。
論文やらなんやらの書き方と研究のしかたを知っている人がつくるとこうなるね
有難うございます。