唐の二代皇帝にして中華史上最高の名君「李世民」!

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  • Опубликовано: 11 сен 2024
  • ヒーローが語る英雄伝説に新たなヒーローが登場!!唐の太宗として世界史に名を残す「李世民」300年の王朝の礎を築いた名君の伝説がいま、語られる…。#李世民#大唐帝国#太宗

Комментарии • 11

  • @yugureyamanaka2730
    @yugureyamanaka2730 11 месяцев назад +2

    製作者様、 今年は多くの動画作成ありがとうございます。 次の年末の新作も期待しています。

  • @yugureyamanaka2730
    @yugureyamanaka2730 Год назад +4

    作者様こんにちは、●唐の第1次高句麗出兵の時に出来た兵法の用語があります。それは、瞞天過海(まんてんかかい)です。瞞天過海(まんてんかかい)とは、中国の兵法書に挙げられる兵法の一つで、「天を瞞きて海を過る」(てんを、あざむきて、うみをわたる)と訓読し、何食わない顔で敵を騙す兵法・計略を指します。唐の軍人の『張士貴』が、第1次の高句麗遠征(唐の高句麗出兵)の際に、第2代皇帝の「太宗」が海を恐れて乗船を拒んだのに対して、船に土を盛り陸上の屋敷のように仕立てて、天子(皇帝)を欺いて乗船させ、海を渡らせたという故事にちなみます。 張 士貴(ちょう しき)は、貞観18年(644年)、高句麗遠征(唐の高句麗出兵)において遼東道行軍総管をつとめ、冠軍大将軍に任ぜられました。●●この時に、『薛 仁貴』(せつ じんき)という軍人が面白い活躍をしています。彼は、若いころは貧しく、耕作を生業としていました。貞観19年(645年)、妻の「柳氏」の勧めにより、「張士貴」の行った兵の徴募に応じて、高句麗遠征(唐の高句麗出兵)に参加した。唐の軍勢が、敵の「安市城」を攻撃し、高句麗の将軍の「高延寿」らが20万の兵を率いて抗戦した。その時に、兵士だった「仁貴」は珍しい方法で目立つように手柄を立てようと考え、目立つ白衣を着て目印とし、戟を持ち、ふたつの弓を腰にかけて軍の先頭に立って突撃し、高句麗軍を破った。その姿が皇帝の太宗の目にとまって召し出され、褒賞を受けた。唐の遠征軍が都の「長安」に帰還すると、「仁貴」は、さらに出世して、右領軍中郎将に転じ、「宮城の北門」を守備した。

    • @yugureyamanaka2730
      @yugureyamanaka2730 Год назад +2

      補足です。唐の第1次高句麗遠征は、資料が多いです。第1次侵攻(西暦644から西暦645年)です。西暦642年に、高句麗では、対唐強硬派の「淵蓋蘇文」がクーデターを起こし、融和派の「栄留王」を殺して甥の「宝蔵王」を擁立した。唐は、その懲罰を名目に、西暦644年11月に高句麗への侵攻を開始した。西暦645年2月には、皇帝の太宗が直接親征する大規模な戦争となった。唐は水路と陸路の二面作戦をとった。「張亮」率いる水軍は高句麗の卑沙城を落したものの、その救援に向った高句麗水軍に大敗した。営州に集結した陸路の主力軍は、「李勣」を総司令官とし、尉遅敬徳・長孫無忌・薛仁貴・劉弘基・張倹・李道宗・契苾何力・閻立徳らが各隊を率い、これに契丹・奚からの援軍も伴って、高句麗領内に一気に攻め入った。緒戦では高句麗の城塞である蓋牟城・白巌城・遼東城を落し、さらに「安市城」(現在の遼寧省)を包囲した(安市城包囲戦)です。高句麗の将軍の「高延寿」と「高恵真」が、異民族の「靺鞨」の援軍とともに「安市城救援」に向かうと、「駐蹕山」で、唐と高句麗の両軍が衝突する大規模な会戦(野戦)となったが、結局は、唐軍が勝利した。●●この時に、前に説明した兵士の『薛 仁貴』(せつ じんき)が大活躍しました。その後に、高句麗の将軍の「高延寿」と「高恵真」は唐に降伏して官位を与えられています。しかし、「安市城」を守る守備部隊の将軍だった「楊万春」は、降伏を拒否し城内に立てこもって徹底抗戦を続けた。その後の、唐軍は高く強固な城壁に守られた「安市城」の攻略に手こずり、これを攻撃するため土山を築いたところ、これが崩壊して士卒に大きな被害を出し、結局この作戦は失敗に終わった。さらに唐軍は、新城と建安城の攻略にも失敗した。そうした中で、異民族の「鉄勒」が唐に侵入したとの知らせを受けた皇帝の太宗は、これから冬になると兵糧補給が困難になることもあり、これ以上の継戦は困難と判断したため、同年9月には退却を開始し、荒天や厳寒による被害を被りつつ撤退に成功したそうです。 唐軍は序盤は好調でしたが、後半になると苦戦して撤退に追い込まれました。

  • @daioh_gtonburi9204
    @daioh_gtonburi9204 11 месяцев назад +1

    13:50 諱を書いてる時点でOUTなんじゃ………

    • @yugureyamanaka2730
      @yugureyamanaka2730 11 месяцев назад +1

      ギャグでは、ギリギリセーフのようです。 唐の太宗が避諱を免ずる詔を下したようです。彼は、実利を優先したようです。
      中国では古来、親や主君などの目上に当たる者の諱(本名)を呼ぶことは極めて無礼なことと考えられていた(実名敬避)。特に皇帝およびその祖先の諱については、時代によって厳しさは異なるが、あらゆる臣下がその諱を口にしたり書いたりすることを慎重に避けた。ある王朝の皇帝に関する避諱の範囲はその時代のあらゆる言語表現に及び、例えば、避諱に触れる文字を含む人名や地名があったときには適宜諱に当たらない名前に改められ、更にはその諱字に通う音の字を改めること(嫌名(けんめい))さえも行われた。唐の太宗のように避諱を免ずる詔を下す君主もいた(太宗の諱が「世民」であり、いずれも平易・頻用の字であったため。後述)が、このような例はまれである。

    • @yugureyamanaka2730
      @yugureyamanaka2730 11 месяцев назад +2

      唐代においては、太宗は避諱を免ずる詔を出したものの、後裔や臣下は厳に使用を避けた。そのため、300年近くにわたって代用字として使用された「代」や「人」の方が一般的になり、後代にまで影響を与え続けた。●簡単に言えば、日本のドラマの3年B組金八先生に影響を与えたことになります。

    • @yugureyamanaka2730
      @yugureyamanaka2730 11 месяцев назад +1

      金八先生の台詞で、君たちいいですか〜。人という字はねぇ、ひとりの「人」がもうひとりの「人」を支えている字です。つまり、人と人が支え合ってるから人なんです。人は人によって支えられ、人の間で人間として磨かれていくんです。これにも、おちがあって、21世紀になって、武田鉄矢 衝撃の告白「違ったんだよね」金八先生の名言“「人」について、「人」という字は立っている人を横から見た字の形が変わったものです。と修正したそうです。40昭和の名言になってから40年後の修正だったようです

    • @thehero3594
      @thehero3594  11 месяцев назад +2

      yugureさん、コメントありがとうございます。日が空いてしまいましたが、現在新作を鋭意制作中ですので楽しみにしていてください!

    • @daioh_gtonburi9204
      @daioh_gtonburi9204 11 месяцев назад +2

      あー、大宗がそんな詔を出していたんですね。
      いつまで避諱が続いたかは気になったのですが、そこには気付きませんでした。