柳昇・三平・円丈 古典?新作?個性が物凄い噺家

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  • Опубликовано: 10 окт 2024
  • 0:48 悲しみの大須 38:37犬の目 1:06:19特効薬
    「悲しみの大須」
    名古屋に限らず中京地区唯一の寄席でビートたけしや明石家さんまらがまだ売れない駆け出し時代に出演している客が少ないことでも有名な寄席「大須演芸場」を題材に三遊亭円丈が自らも出演した経験や大須の芸人たちのエピソードを新作落語にまとめた
    「犬の目」
    目を患った男が友達から洗井シャボンという目医者を紹介されて治療に行く。シャボン先生は男の両目をくり抜いて薬を溶かした湯につけて洗い、入れようとするが入らない。どうやら薬の湯につけ過ぎて目がふやけたらしいので日当たりのいい縁側に干して目が元の大きさになるのを待っていると庭の木戸から犬が入って来て目を食べてしまった・・・
    「特効薬」
    国民の何十人に一人は精神的な異常者がいるというので精神科の受診をした。「佐々木さんどうぞ。どうしました?」「夢を見るのですが、乗り物の夢ばかりなんです」「誰でも夢は見るよ」「毎回違う自動車に乗っているんです」「タダだろ。良いじゃないか、私は車大好きだから」「その自動車が崖から落ちるとか、ひっくり返るとか、正面衝突する様な場面で、恐くて寝てられないのです。それを治して欲しいのです」「それは脳に欠陥があるんだ。この病気は治せば良くなるが、治さなければ良くならないな。どうする?」「治して欲しいです」「治療には上と並がある」と言われ内容を聞くと・・・
    三代目 三遊亭 圓丈
    新作落語において多くの作品を残し、後進の新作落語家に大きな影響を与えたことで知られる。圓丈の真打昇進の際に師匠の圓生が以前その名前を名乗り売れなかった落語家を代数に入れる必要は無いからお前が初代だ。と発言した事から落語協会公式においては「初代」という位置づけになっていたが、本人は三代目を名乗っていた。師匠・六代目三遊亭圓生が新作を嫌っていたこともあり古典落語を演じることが多かったが1980年代以降はもっぱら新作派として知られる。その演目のほとんどは自作だった。当時の新作は柳家金語楼の流れを汲む人情噺風の落語が主流であったが圓丈は“こうした新作がすでに古臭くなっている”と考え独自の「実験落語」を創作。SF小説のような奇想天外な世界観を持つ新作落語を数多く編み出しファンを獲得した。
    初代 林家 三平
    二つ目の時点で既に時代の寵児、そして落語協会の次代を支える若手の筆頭となっていた。真打への昇進ともなれば落語協会としてもやはり前座名でない立派な名を与える必要があった。五代目小さんは自らの前名で柳派の出世名である「柳家小三治」を三平に譲る事を考えた。これは柳派の正式な一員として育てる事を約束するようなものである。そして都合のいいことに三平本人の父の前名でもあった。一方、師匠七代目橘家圓蔵もまた自らの前名「月の家圓鏡」を三平に名乗らせたいという意向を持ち、さまざまな画策を行った。圓蔵は圓蔵で三平を橘家のホープ、そして自らの後継としたかったのである。三平は師匠圓蔵案(師匠の名を襲名)を一貫して拒み続けた。しかも小さん案(父の名を襲名)も受け入れず結局どの名跡も襲名することはなく「林家三平」のままで真打となったのである。そして三平の名を一代で大看板にした。
    五代目 春風亭 柳昇
    戦後に講釈師を志したが戦友に6代目春風亭柳橋の息子がおり、その縁で柳橋に入門した
    戦争で手を怪我したため手の表現が多い古典落語では成功はおぼつかないと考え、新作落語一本に絞って活動した。年齢を重ねるごとに老人然とした風貌になり、しなびた声・口調に変わっていったが、これがとぼけた味となり、新作派の大御所として地位を確固たるものとしていく。80歳を過ぎても高座やテレビへの出演を積極的に続け生涯現役の噺家であった
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    落語の蔵: / @repli455
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