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懐かしいですね。当時は宮津線が国鉄〜JR西日本に変わるのと急行丹後・わかさと連結、切り離し作業がありましたね。舞鶴線電化当初も京都行のタンゴディスカバリーが同じ様に東舞鶴発と久美浜方面からの連結、切り離し作業をしていました。
コメントありがとうございます。わかさと丹後の入替連結作業、なかなか手間なことだったけど懐かしいですね。
いつも心に刺さる動画有難う御座います。当時小4、ウネウネしながら入駅、駅の案内放送、記憶してます。乗ったら早速サッシ窓開けて見送りの人と話したり握手したりしたもんです。新婚さんを送る万歳三唱も当時ありました。この頃は到着から発車まで賑やかでしたね。ムチャクチャ懐かしいです。
コメントありがとうございます!懐かしいですよね!当時の記憶はいまも忘れないですね。
皆 タイへ行きました😃
丹後号はル―トが複雑で利用する事はなかったですが網野には毎年12月行っていますよこのキハのクロスシ―トで食べる駅弁が最高なんですよ
コメントありがとうございます。駅弁!いいですね
懐かしい動画です。私の記憶違いでなければ、この頃の急行丹後8号は豊岡からではなく、網野からだったと思います。急行丹後1号が京都発、網野行きと敦賀行きで、網野到着後に折り返し急行丹後8号となり網野発、京都行きだったと記憶しています。丹後の祖母宅へ行く時に、いつも行きは急行丹後1号で網野まで、帰りは急行丹後8号で京都まで帰っていたので。記憶が違っていたらすいません。長編成の良い時代でしたね~。
コメントありがとうございます!そうですね。おそらく、網野ですね。すみません。
@@hay-channel7579 重箱の隅をつつくようなコメントをして申し訳ありません。コメントしようか迷ったのですが・・・、申し訳ありません。国鉄時代は本当に良かったですね。昭和56年の56豪雪の時に、祖母が京都から丹後に帰りました。その時も祖母が急行丹後1号に乗って帰った記憶があります。網野駅の公衆電話から祖母が電話をかけてきました。その時に電話にたまたま私が出て、物凄い大雪で家に帰ることが出来ない、と泣きながら電話がありました。当時は除雪車も無かったですしバスも止まっていました。祖母宅は網野駅から丹海バスに1時間揺られ、更に徒歩30~40分かかる所なので、どうやって家に帰ったのだろうと、今になってから思います。その日は帰ることが出来なかったと思いますが、もしかして歩いて帰ったのか・・・。動画の最後の方(2:55)で雪が降っているのが良く見えたので、その当時を思い出しました。ありがとうございます。
@@ケンケン-b3w いえいえありがとうございます!当時の記録がなかなかなくて、いろいろ教えていただいたほうが助かります。
いいえ。従来までの東舞鶴発着急行「丹後」2.11号が同じく東舞鶴発着特急「あさしお」2.11号に格上げされたのは1985年3月14日ダイヤ改正のことでしたから、この「丹後」8号は網野発ではなく、宮津線経由豊岡発が正当です。網野発であれば急行「丹後」10号が正当でしたが、先程の1985年3月14日ダイヤ改正で東舞鶴発着急行「丹後」1往復が特急「あさしお」に格上げされたことを受けまして、その時に網野発は8号へ変更されました。
京都方面からの宮津線直通列車は綾部・西舞鶴両駅における構内配線の都合上、進行方向が2度逆転します(現在は福知山から向きを変えずしてそのまま宮福線へ入るようになったため、宮津で1度だけ進行方向が逆転します)。また、その折り返しの急行「丹後」5号も2度の進行方向逆転を経て宮津線内は普通列車に化けますが、これもやはり豊岡到着の際には構内配線の都合というか、隣の「コウノトリの郷」(2015年3月31日までは「但馬三江」)発車から豊岡到着までは和田山・福知山方面を向いて入線することになるため、京都発車の時点で先頭に立っていた貫通ホロの付いた車両は、豊岡到着時点で最前部(和田山・福知山寄り)を向くという、本来福知山・和田山経由で運行する3.10号とは逆向きでの到着となります。
また懐かしい動画ありがとうございます。「駅」お見送り別れの場所でしたね。今となってはそんな風情はほぼありませんが。宮津丹波が4両だったけど大体このくらいはつないでましたね。大社の全盛期は10両編成でしたか?しかし「名ミオ」って広域運用でしたね。
コメントありがとうございます!駅にははじまりやわかれのシーンがありましたね。
「福フチ」(福知山鉄道管理局傘下・福知山機関区)だって例外ではありません。京都・大阪を中心に最も遠くは気動車・客車を問わず福井県敦賀市は敦賀駅まで遠征するという広域運用は確かにありました(但し客車の牽引はDE10が担当)。
豊岡から宮津線経由京都行き結構な長旅。
コメントありがとうございます!そうなんです。わざわざ宮津線と舞鶴線経由するので、何度も方向転換します。
実質的にこの列車は西舞鶴~京都間で「丹後」8号と「わかさ」2号の異なる愛称を繋ぎ、現在の特急「まいづる」「はしだて」(2代目)などに通ずる、いわゆる「2層建て列車」です(但し分割・併合の実施は2003年10月以降綾部に移っていますが)。
@@hay-channel7579 最晩年の特急「あさしお」3・12号(京都~西舞鶴・宮津線経由城崎間)の1往復は構内配線の関係上、綾部・西舞鶴・豊岡の3駅でそれぞれ進行方向が逆転します。
懐かしいですね。当時は宮津線が国鉄〜JR西日本に変わるのと急行丹後・わかさと連結、切り離し作業がありましたね。舞鶴線電化当初も京都行のタンゴディスカバリーが同じ様に東舞鶴発と久美浜方面からの連結、切り離し作業をしていました。
コメントありがとうございます。わかさと丹後の入替連結作業、なかなか手間なことだったけど懐かしいですね。
いつも心に刺さる動画有難う御座います。
当時小4、ウネウネしながら入駅、駅の案内放送、記憶してます。乗ったら早速サッシ窓開けて見送りの人と話したり握手したりしたもんです。新婚さんを送る万歳三唱も当時ありました。この頃は到着から発車まで賑やかでしたね。
ムチャクチャ懐かしいです。
コメントありがとうございます!懐かしいですよね!当時の記憶はいまも忘れないですね。
皆 タイへ行きました😃
丹後号はル―トが複雑で利用する事は
なかったですが
網野には毎年12月行っていますよ
このキハのクロスシ―トで食べる駅弁が最高なんですよ
コメントありがとうございます。駅弁!いいですね
懐かしい動画です。
私の記憶違いでなければ、この頃の急行丹後8号は豊岡からではなく、網野からだったと思います。
急行丹後1号が京都発、網野行きと敦賀行きで、網野到着後に折り返し急行丹後8号となり網野発、京都行きだったと記憶しています。
丹後の祖母宅へ行く時に、いつも行きは急行丹後1号で網野まで、帰りは急行丹後8号で京都まで帰っていたので。
記憶が違っていたらすいません。
長編成の良い時代でしたね~。
コメントありがとうございます!そうですね。おそらく、網野ですね。すみません。
@@hay-channel7579 重箱の隅をつつくようなコメントをして申し訳ありません。
コメントしようか迷ったのですが・・・、申し訳ありません。
国鉄時代は本当に良かったですね。
昭和56年の56豪雪の時に、祖母が京都から丹後に帰りました。
その時も祖母が急行丹後1号に乗って帰った記憶があります。
網野駅の公衆電話から祖母が電話をかけてきました。
その時に電話にたまたま私が出て、物凄い大雪で家に帰ることが出来ない、と泣きながら電話がありました。
当時は除雪車も無かったですしバスも止まっていました。
祖母宅は網野駅から丹海バスに1時間揺られ、更に徒歩30~40分かかる所なので、どうやって家に帰ったのだろうと、今になってから思います。
その日は帰ることが出来なかったと思いますが、もしかして歩いて帰ったのか・・・。
動画の最後の方(2:55)で雪が降っているのが良く見えたので、その当時を思い出しました。
ありがとうございます。
@@ケンケン-b3w
いえいえありがとうございます!当時の記録がなかなかなくて、いろいろ教えていただいたほうが助かります。
いいえ。従来までの東舞鶴発着急行「丹後」2.11号が同じく東舞鶴発着特急「あさしお」2.11号に格上げされたのは1985年3月14日ダイヤ改正のことでしたから、この「丹後」8号は網野発ではなく、宮津線経由豊岡発が正当です。網野発であれば急行「丹後」10号が正当でしたが、先程の1985年3月14日ダイヤ改正で東舞鶴発着急行「丹後」1往復が特急「あさしお」に格上げされたことを受けまして、その時に網野発は8号へ変更されました。
京都方面からの宮津線直通列車は綾部・西舞鶴両駅における構内配線の都合上、進行方向が2度逆転します(現在は福知山から向きを変えずしてそのまま宮福線へ入るようになったため、宮津で1度だけ進行方向が逆転します)。
また、その折り返しの急行「丹後」5号も2度の進行方向逆転を経て宮津線内は普通列車に化けますが、これもやはり豊岡到着の際には構内配線の都合というか、隣の「コウノトリの郷」(2015年3月31日までは「但馬三江」)発車から豊岡到着までは和田山・福知山方面を向いて入線することになるため、京都発車の時点で先頭に立っていた貫通ホロの付いた車両は、豊岡到着時点で最前部(和田山・福知山寄り)を向くという、本来福知山・和田山経由で運行する3.10号とは逆向きでの到着となります。
また懐かしい動画ありがとうございます。
「駅」お見送り別れの場所でしたね。今となってはそんな風情はほぼありませんが。
宮津丹波が4両だったけど大体このくらいはつないでましたね。
大社の全盛期は10両編成でしたか?しかし「名ミオ」って広域運用でしたね。
コメントありがとうございます!駅にははじまりやわかれのシーンがありましたね。
「福フチ」(福知山鉄道管理局傘下・福知山機関区)だって例外ではありません。京都・大阪を中心に最も遠くは気動車・客車を問わず福井県敦賀市は敦賀駅まで遠征するという広域運用は確かにありました(但し客車の牽引はDE10が担当)。
豊岡から宮津線経由京都行き結構な長旅。
コメントありがとうございます!そうなんです。わざわざ宮津線と舞鶴線経由するので、何度も方向転換します。
実質的にこの列車は西舞鶴~京都間で「丹後」8号と「わかさ」2号の異なる愛称を繋ぎ、現在の特急「まいづる」「はしだて」(2代目)などに通ずる、いわゆる「2層建て列車」です(但し分割・併合の実施は2003年10月以降綾部に移っていますが)。
@@hay-channel7579
最晩年の特急「あさしお」3・12号(京都~西舞鶴・宮津線経由城崎間)の1往復は構内配線の関係上、綾部・西舞鶴・豊岡の3駅でそれぞれ進行方向が逆転します。