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聞いていて涙が出そうでした。物の溢れる今に慣れていると恐ろしい話にしか聞こえないのですが、確かに2、3代前の家族が経験して、生き延びて今の自分がいるんですよね。なんでも「もったいない」という母の言葉が少しだけ受け入れられる気がしました。
一番の原因は「物流の停滞」だと思う、 米どころの北陸・新潟などでは米は余るぐらい余ってただろうし、 北海道なら馬鈴薯・鮭・昆布なら捨てるほどある・・・みたいな・・・ ただ、それを移動させる手段、当時は鉄道と海運が麻痺してた、都市部では食料品の生産は少ないので困窮した・・・ 何故?物流が停滞したかというと、船は徴用され数が減った上に攻撃されて沈むなどあり、 また鉄道も軍需優先で物流に使用できる数が減った・・・というのが原因だろうな
その時点で終わってる戦争を起こしたプーチンも大日本帝国と同じゴールを目指してるのか?
祖母談母におぶられて、その肩越しに見たサーチライトに照らされる爆撃機の編隊は、とても綺麗だったそう。今日は白ご飯のお弁当だ!と喜んでいたら、芋の上にうっすらと米を敷きつめてあり、子供ながら母の知恵に感服したと。防空壕に入っている間は、瓶をついて玄米の脱穀をするのが子供の仕事だったと。黒檀の一家伝来のタンスを、線路の下の貸し倉庫に避難させていて、それだけが一家の財産だったと。人工甘味料の工場がやけて、父が商品にならなくなった物を貰ってきて、久方ぶりに食べた甘いおはぎ。その日が終戦の日だったと。
戦時中、学校では日の丸弁当しか食べられなかったってイメージがあるけど、弁当箱一杯の白米と高価な梅干し。終戦直後は、これすら贅沢品だったんだろうなあ。。。
終戦当時15歳だった祖父から聞いた話は、1 食べる物がなかった、お腹を空かせていたという記憶はあまりない。2 配給も時々は量が少なかったりなかったりしたこともあったがわりとちゃんと配給されていた。3 お弁当をつくってもらい友達と海水浴に行ったり、そこでバケツ一杯に小さなカニをとって食べたりした。4 勤労奉仕でセメント工場に行ったが、その時も工場がある街まで友達が漕ぐ伝馬船に揺られて海沿いに行ったりと今思えばのどかなものだった。5 むしろ終戦直後の方がひどかった。国全体が混乱していたから当然配給も滞る事が多くてあの時は食糧を持っている人が強かった。おおむねこんな話をしてくれたことがあります。教科書や学校で先生が言っていたこととは違うなあと当時子供ながらに思いました。祖父が住んでいたのが東北の小さな田舎街だったせいもあるでしょうが。
やはり地域ごとの事情もあるでしょうね。戦後の「ララ物資」のお陰で讃岐うどんが盛んになったり、群馬辺りでは(今では違法ですが)川魚を「ヤス突き」で子どもが当たり前に漁ったりしていましたから。
うちの祖母ちゃん家は戦時中に田んぼをもっていたので、初期の頃にはそこまで米には困らなかったけど、男手が兵隊にとられてた結果、地域のため池などのインフラ管理まで手が回らなくなり、田んぼに導水ができずに自分たちの田んぼの区画では終戦の年には米が作れなくなっていたらしい。本人は女学生だったので学徒動員で工場に行って作業をして、工場や学校の庭にサツマイモとか栽培していた。
いまは痴呆でボケてしまった曽祖父。小さいとき、寝れないときに戦争の話をされて更に眠れなくなっていました。当時は少し怖くてあんまり積極的には効かなかったら、曽祖父もいつの間にか話さなくなって、今になってそれらに興味を持つようになりましたが、今はもう何も語ってくれません。あのときもっと聞いとけばよかったなぁ。
軍歴証明書を取得してみては如何でしょうか。これを取得すると軍隊での経歴(階級や赴任地など)がわかります。ネットで調べれば申請方法がわかりますので、それを参考にして下さい。
当時、横須賀の海軍の施設に勤務していた、うちのばぁさん(故人)曰く、1943年頃まではまだ物があったが1944年から急になくなったと言っていたな。たった1年のうちに物がなくなり、国会議事堂前が畑になるなんて全く想像が出来なかったそうだ。
学校の授業でも、当時はとてもひもじい生活だった習ったけど、祖母の家は闇業者で、大阪っていう大都市に住んでいながら、毎日お腹いっぱい食べていたそうで子供心に現実とのギャップが凄くて、複雑な気持ちでした。
連合艦隊司令長官山本五十六の映画でも、戦争が進むにつれてどんどん食料が不足して、食卓もひもじくなるシーンがありましたね。
父「うちの祖父は国鉄の職員をしていたので、食料は優先的に配布されたぞ」自分「へーそうなんだ!食糧不足とか無かったんだね」父「一家で一日当たりカボチャ半分、またはジャガイモ4つ」「(啞然)……お米は?」「全部軍に持っていかれたので、見たことも無かった」
んで、軍も南方方面は腐ってウジが湧いてたり、量も足りない、届かずに沈むっていう…。大陸はまだマシって聞くね。
うちは農家の家だったので、食料は豊富だったそうです。戦時中は着物なんかの高級品と交換して財を築いたそうですが、戦後のハイパーインフレで失ったらしいです。
一方、確かアメリカは艦にアイスクリームが食べれないっていう理由だけで兵士達がストライキ起こしたって事例があったぐらいだからこの時点で勝ち目ないよなあ……
アメリカ海軍の艦隊にはアイスクリーム積んだ船とクリーニング船が付いていたそうな
そう聞くと本当に絶望しかないな…哀
その代わり日本軍は酒が飲めた
アイスの列に並ぶときは例え将軍といえど順番を守った漢、ハルゼー
ダイエーの創業者が兵隊としてフィリピンにて米軍基地を襲撃した際に、基地内にあるアイスクリーム製造機を見て驚愕したそうですね。
おいら、秋田に住んでいます。昔、ひいお祖母ちゃんが、食糧事情に関しては「自分らで食う分には困らなかった」って言ってましたね。疎開してきた家族を何組か見て来たみたいですが「彼らは、食い扶持を得る為に必死で働いていた」とも言ってました。あと、憲兵隊が時折来て、逃亡兵や徴兵逃れの人がいないか見に来た事があるみたいです。
だけどいじめしてたからなお立ち悪い時代
戦時中に産まれた母方の祖父は鶏(屠殺を強制された為)が苦手でしたね サツマイモに米が引っ付いてたものを食べたって表現が忘れられません 終戦5年後生の父方の祖父も芋が嫌いでした終戦というと蝉の鳴き声と太陽が降り注ぐ猛暑の中玉音放送が流れる、というようなイメージがありますが実際には大冷夏だったみたいですね徹底抗戦なんてしてたらぺんぺん草も残らなかったでしょう 家畜の餌だろうと駐留軍からの供給はとても有り難かったかもですね
わしのばあちゃんは満州に移住していたので食うものにはあまり困らなかったそうな。対して内地にいたじいちゃんからはステレオタイプのひもじい戦時体験話を聞いた。(なので今でも食べ残しとかにはすごくうるさい)配給って言うとあまりピンとこないけど、いうなれば購入制限だよね。つまり買い占め防止政策。今でも買い占めてメル○○とかいう闇市で転売して高値で売るやついるから今も昔もやることは変わらないなと。しかし最も恐ろしかったのは「近所の目」だったという。たまたま良いものが手に入っても「兵隊さんは前線で苦労しているのに」という決り文句で非難されるので人に見せるようなことはできなかった(手塚治虫「アドルフに告ぐ」でも主人公アドルフ・カウフマンの母由紀江が婦人会の人からそんなことを言われていた)が実際のところは「兵隊さん」の主語の裏には「私は」という主語が隠れていたのではないかとも思う。
コロナ禍下での自粛警察もきっと同じメンタルだったんでしょうね。(過去形なのは、今が緊急事態宣言も自粛も有名無実化し、議員も官僚もやりたい放題の戦後混乱期みたいだからです)
戦時中の日本「芋ばかりでつらいわー」第一次世界大戦下のドイツ「…こっちは芋食えなくてカブラで我慢してるのに…」
芋違い笑笑
どんな話でもいい。祖父母から聞いた経験も次の世代に積極的に語り継いでほしい。浅はかにも結論を急ぐ時代が来ている。将来の価値観はどうなるだろう。
中国が膨張主義になっている今、昭和20年みたいに都会人は田舎に疎開して芋なんかを自分で作ることになる可能性は十分ありますよ。その可能性を考えている国民がどれだけいるでしょう。
GHQに物資の必要量申請する時に、かなり多めに申請しておい!多いやろがいって突っ込まれた時にまともに計算できてたら、日本は戦争なんぞしておりません!で事なきを得た話が好き
まぁ、速攻かつ、ドイツの行動次第で勝てると試算されたとはいえ、逆にそれが無理だと破綻するって恐ろしさよ
@AZ1974さん何だかオリンピック開催のドタバタとIOCバッハへの盲従っぷり 、コロナ対策のガバガバ振りと重なる印象が強くて洒落になりません。
食糧不足が深刻化すると、配給の量をごまかし着服するなど不正が横行していたようですね。空襲の体験談は少なからず資料がありますが、物質的にも精神的にも余裕を失った人々の諍いなどはほとんど語られる事がありません。祖母が生前断片的に語ってくれましたが、人間は腹が減るとここまで浅ましくなれるのかとゾッとしたほど。飽食の時代に終わりの見えない窮乏を想像することは難しく、確かにお年寄り達の口が重いのは無理もないです。しかし大規模災害時の心構えになるよう、どこかに残しておいてもらいたいです。
トウモロコシごはん(たっぷりの甘いトウモロコシをコンソメで米と炊く。芯を入れると出汁が出て美味い。最後にバターをお好みで混ぜる)をうめえうめえって食べてたら祖母に母親が怒られてたな。「孫にこんなひもじい思いをさせるなんて!」って。でもそれつくったのわいやで・・・・ってなった。
いや、結構うまそうです
出しにがそう
@@CC-zh2uv めっちゃ美味しいんで、トウモロコシの季節になったらぜひ!缶詰で作る場合は缶詰の汁をいれると良いですよ!^▽^
昔の人にとってのトウモロコシはデントコーン(家畜の餌、芋っぽい味)
ホカホカ暖かそうでほんのり甘そうでバターの香りが伝わって来そうなのに、戦時下を生きた方には「代用食」の負のイメージが付いて回るのですね…
親父の実家にあった昭和19年の新聞に書いてあったカレーライスのレシピが、小麦粉を練ったうどん生地を米サイズに切って米の代用とするって内容だったのが印象的だった
よゐこが、無人島でやってるやつ‼️
チネリ米じゃんw
小麦粉がこの悲惨な当時手に入ったのかよって思う
こういう話を学校の授業で教わりたかったな
実家が農家でコメ野菜は不自由しなかったそうだが、肉系が欲しかった伯父の一人はカエルを捕まえて食べたそうで「アマガエルはまずかった」と呟いたそうだ。食用ガエルは取りつくされて残ってなかったとか。
ありがとうございます。平和だから、飯がお金で手にはいる、という言葉に、はっとしました。
昔、介護していた時に色々聞いて回ったんだけど、あの時代、幼少期に農家など食うに困らなかった(?)人の方が現在でも食事の好き嫌いが多かったね。都会の人とか結構なんでも食べる傾向にあったね。あくまで傾向だけど。
いつも大変勉強になります。ありがとうございます。
贅沢は(素)敵だ!
戦中の生活の衰退もそうだけども、軍事用に作ってた通信機とかの代金を企業に100%税金かけて回収したとかいう最高にクレイジーな話が一番怖い
雑穀米が流行りだした頃、ちょっと私もどんなもんか食べてみよう、とおもって、少し白米に混ぜて炊いてみたら、同居していた旦那の祖母から(そんな惨めったらしいもの入れないで💢)って怒られたわ。いやな記憶が甦ったのかもな。
うちの母は実家で酪農やってたから、雑穀とかふすまとか食べてると「牛の餌」って言って絶対食べない。
時代考えたらやっと今は食える時代に雑穀米やらなんてその時代の人からしたら生きるための食べ物だから馬鹿にしてるか!金あるのに食わせるのか!とだから出さないほうがいい
さつまいも🍠でも嫌な記憶がよみがえる事が多いらしく、今の高齢者施設ではさつまいもは好まれないそうです。
当時国民に配給されていたさつまいもは味が不味かったそうです。美味いのは航空機のアルコール燃料を造るのに回されていましたから。
うちの祖母もイナゴ捕まえて炒って食べたと言ってたので、田舎の農家でも食糧事情は厳しかったんだと思います。また、前テレビで戦争中の床屋さんの話が放送されていて、客の髪を梳くと、シラミが沢山でてきたと言ってたのが怖いなと思いました
誰だったか・・・法務関係の方が「ヤミを利用することはできん」って配給だけで凌いでたけど、餓死しちゃったんだよね・・・
確か裁判長だった気がする。
ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E8%89%AF%E5%BF%A0これかな。漢の死に方としてはアリかも知れんが、妻子持ちが何やってるのかって方が勝るなぁ。
清濁併せ持つ事が大人だろうに…
この世界の片隅にが1番日本の戦争と庶民の生活を描いている作品だと思う。
そういう作品のせいで、間接侵略や情報戦といった現代の戦争が見えにくくなっている。どんぱちさえ無ければ平和という先入観を植え付けられている。
よし よし この作品はあまり関係なく、現代の戦争は経済や情報等一般人の目に見えづらくなったからでは無いのでしょうか?
やんほぬ 毎日毎日、関連する報道がされているのに『見え難い』ということはないでしょう。『戦争=どんぱち』という先入観があるから、不感症になっている。見え難いのではなくて、見ていない。
るろうに剣心=戊辰戦争203高地=日露戦争硫黄島の戦い=第二次世界大戦の硫黄島メトロに乗って=第二次世界大戦の満州はだしのゲン=第二次世界大戦の広島カンゾー先生=第二次世界大戦の岡山男たちの大和=第二次世界大戦の呉、沖縄ガラスのウサギ=第二次世界大戦の東京少年時代=第二次世界大戦の富山
岸総理は侵略戦争と発言してる
会社にいた下請給仕のオバハンは、破れた衣類の類を捨ててもご丁寧に洗って縫って各人のロッカーに戻していたwww「迷惑行為だw」と若手社員から苦情が出ていた、「物を大事にしなさい」と言いたかったんだろうな
輸送船がやられたせいで本州の大都市では食糧難なのに北海道では日持ちしない海産物などの食糧が余って腐ってたってのは有名な話だな。
冷蔵庫ないの?
ないあるにわあるけど高級品
当時は氷だろ?
流通がやられるとキツいね
戦時中備蓄米は沢山有った。配給に出すのを制限したのは軍の方針。
父方のじいちゃん曾祖父ちゃんの世代は大分の土地持ちのそこそこの豪農で、しかも山奥に隠し田畑持ってたから食うものには困らなかったし、都会から来た人に物々交換で米や野菜や鶏卵をあげていたし、一族総出で闇市に米と野菜を卸しに行った時は大変儲かったと言っていたなぁ~。じいちゃん15歳の時に終戦だったから戦争には行ってないけど、曾祖父ちゃんの兄弟は何人か行って、むしろ訓練中や戦地の方がひもじかったと言っていたと、じいちゃんが曾祖父ちゃんの兄弟から聞いたことを又聞きしたことがありますw
男性に代わって祖母の妹が16歳にして路面電車の運転士をしてたらしい。広島電鉄が運営する広電家政女学校は朝夕ラッシュ時に電車運行業務を行えば授業料が免除になったとか。そしてあの日の朝も電車を運転していた祖母の妹は多くの同級生と供に原爆によって殉職したそう…。運転席に立ったまま、マスコンハンドルを握ったまま、真っ黒な炭のようになって…。
広島電鉄のあの車両に、そんな悲劇が秘められていたのですね…無知な自分を今恥じています。たまたま見掛けたトミカの広島電鉄650形路面電車を「ノスタルジックな味わいのある電車」って感覚で部屋に飾っておりました…
@@吉田啓嗣 自分も以前は「古い電車」くらいにしか思ってませんでした。原爆ドームだけが有名ですが、電車や百貨店やパン屋など今も現役で使われている被曝建造物は意外に多いようです。平成に入るまで公的な助成金は無く、小さな電鉄会社が、地方の百貨店が、街角のパン屋さんが自助努力だけで保存し続けてきた事はもっと知られても良いのでは?と感じます。
@@norealhero1951さんそう考えると、日本は明治~平成に至る迄つくづく「自助」の国だったのですね…国の公的な補助を必要とする(国が補助・保存すべき)歴史的遺産が広島~沖縄まで放ったらかしになったままの印象が強くなって来ました…
ちなみに、祖父はキビ(トウモロコシ)が飽いだって言ってました。沢山食べたらしいです。
昔戦時中の食事を再現して食べるって催しに参加した事があるんだけど、楠公飯にホタル飯、トウモロコシやふすまのパン、金魚の佃煮に藁いりこ入りの雑穀飯どれもまともに喰えるものはなかった、そら戦中に食べた人は絶対拒否するわなぁと思った記憶がありますな。そう言えば動画中に語られていた紙製のランドセルなんですが実物を手に取って見た事がありますローカルメイドの為色々とバリエーションがあるのですがクズ紙をプレス圧縮して昔の学校の教室にあった茶色のゴミ箱のように固くしたり、使い古されたふすまや反故紙を貼り重ねた物の上から防水のために柿渋や桐油を引いたもの、紙の上から布をはって補強した物まで様々ありますね見ていて涙ぐましさを感じます(笑)
死んだおじいちゃんは通信兵だったから前線に行かずにすんだって言ってた おじーちゃん死なないでくれてありがと
私の母方の叔父が通信兵でした。埼玉県の所沢市に居たようで⌈若い頃に所沢から新宿迄徒歩で移動した」という話をしてくれました。亡くなりましたが、とてもとても優しい叔父でした。
今じゃ白米が糖質制限される始末雑穀を買ってきたらばあちゃんめっちゃ嫌がってたな
大阪の下町に住んでた大正4年生まれの母方の婆さんに聞いた戦時中の話。爺さんが兵隊にとられて日中戦争へ。一応給料が出るもののそれだけでは足りなくて近郊の農村作業へ。爺さんは召集期限が来ても現地で即再招集。自治会から回覧板が回ってきて「国債を買いましょう」の呼びかけに応じて少ない収入から国債購入。周り近所の目もあって同調圧力で購入したけど当時の報道(新聞)で戦争に勝つと信じていたので、確実な投資目的という皮算用も多少はあったとのこと。食料に関しては農村へ今でいうところのパート作業に行っていたのでそこでのおすそ分けが非常に助かったとのこと。ただし近所には絶対内緒。その農村で闇米も購入していた。竹やり訓練、内心では馬鹿馬鹿しいと思いつつも近所の目もあるので積極的に参加。
戦中を生きた親戚に芋とカボチャ食べたくない人が、いましたね。
く、クリリンのことか~⤴
麦メシを見たくないってのもいますね当時を思い出したく無いそうで…
俺、黒い飯って聞いたよ。
@@ひろひろ-f6w 様黒い飯は脱穀が不十分だったせい。
句読点の使い方がガバガバだけどあっちの血が混ざってる方?
ウチは祖父がリアル戦争世代、親父も戦前に生まれたので、僕は戦中、戦後の悲惨な状況を叩き込まれて育ちました。特に祖父はロシア人とのハーフだった為、酷い差別を受けたらしいです。(まぁ、敵勢国家のハーフなら当時の日本では虐められるのは当然ですが..)
貴方イケメンそうねw
ドイツ人とのハーフと取り敢えず言っておけば良かった。
殺されても一切文句を言えない立ち位置だからね、今でもロシアって聞くと雑種も含めて絶対に許せないほど憎悪してるわ。
当時は「あいのこ」って呼ばれたみたいですね。あいのこと馬鹿にされててグレた不良で有名なのはジェリーフジオですね。あいのこと馬鹿にしてくるやつを片っ端からぶちのめしてたみたい。
@@みそ-b4y 今で言うミックス(雑種)ですよね、ハーフ(半ペタ)と言い日本語に訳すと強烈になる。ボクシングのスーパー・フライ・級(超ハエ級)とかね。
どちらかといえば超インフレになったのは、戦前戦中よりも終戦直後ではないですか?
たしかに終戦後の『ハイパーインフレ』は教科書に載るレベルで有名((^_^;))ですねただ戦前戦中のインフレも(戦後のものほどではないですが)実際当時の人々の生活に影響が出るレベルでは存在していたようで桂米朝の落語のマクラ話に日中戦争初期の頃のインフレに触れたもの(100円札を長屋の住民が初めて目にして・・・というというエピソード)があるそうです
実は東南アジアでもハイパーインフレは起こっていたらしいっすよ
太平洋戦争中の食料欠乏の話は耳に何とかのレベルで聞かされていたが、学校給食で月に1回「当時のすいとん」が出る日があって、その日は朝から憂鬱だった(この日だけは残しても文句が出なかった)。
当時のすいとんってそれただの材料費を安くする為やないかい!w
食糧が世界中であまりまくってる現代でやる事じゃない…
給食センターサボってんな
当時の食糧事情の酷さを体験させる為の実践教育ですね。
当時日本一の輸送会社の大阪商船の供出悲劇がすごい話です。。陶器の代用はガスコンロまであったんですよねー。手榴弾はもってます笑
動画投稿お疲れさまです、今回も勉強になりました。
父は農家の出身で家に畑があったから学校にはお弁当に吹かし芋を持って行ってたって聞きました。学校で芋がお金にすり替わっててそのお金でパン買って食べたって話も聞きました。
アラカンなんで、このテの話は耳にタコができるほど、親から聞かされたり実体験させられたけど、現在じゃアウトドアや半自給生活の知恵袋みたいな部分もあると思います。
ばーちゃんに当時の話を聞いた時「はやく行かないと(配給)なくなるから大変だった!」しか聞けなかったな
代用品の中で唯一使用価値があると思われるのは陶器式地雷です。感知器が効かないからまさに無敵。でもあとが困るでしょうね。
米軍は1945年3月から暗号名Starvation(スタベーション)と呼ばれるある戦略作戦を実行した。これは当方に言わせれば、東京空襲や広島・長崎の原爆投下と同じくらい悪質で、恐ろしい作戦だったと思う。どういうものかというと、下関海峡、瀬戸内海、朝鮮半島や中国大陸沿岸にこれでもかってなくらい、機雷を敷設しまくるというものだった。特に下関海峡には重点的に敷設され、総数の半分以上が敷設された。その目的は半島・大陸からの食糧や資源の供給ルートを遮断するというものであり、要は日本を飢え死にさせる事だった。結果として西日本の海上輸送路は殆ど遮断されたに等しいモノだった。おまけに英空軍が関門トンネルの破壊を目的に、現代においても通常型航空機用爆弾としては世界最大と言われる超大型爆弾「グランドスラム」を用意していたという。これが使われて本州と九州の輸送路が遮断された日には…ちなみにこの作戦が1年継続した場合、日本には700万人の餓死者が出ただろうという米海軍の分析結果がある。Starvationの意味は「飢餓」。暗号名と言いながらひねりも何もない。そこに恐ろしさがある。
恐ろしいって言ってもね・・・公共交通機関とかの戦略施設を攻撃して、飢餓にさせて降伏を狙うのは常套手段やからね・・・
@@かなつさあつさん 日本でも豊臣秀吉の鳥取城への兵糧攻めなどがありますね。
自分の親も、父が昭和2年生まれ、母が昭和9年生まれだったので、戦地の話はありませんでしたが、生活の話はよく聞きました。少しでも贅沢をしようとか、ワガママを言うと、特に母親の方から鉄拳制裁と、小言、戦時中体験を聞かされました(笑)
日本兵「あんまり食料ないけど捕虜に栄養あるしゴボウあげよ!」捕虜「木の根っ子食わすなんてあんまりや…。」
この捕虜に、ゴボウ食べさせた日本兵、BC級戦犯として、処罰されたのは、有名な話ですね。
戦後の食糧不足は輸送力不足が主な問題。
金が有れば買えたけれど、給料も安かったので何気に、自由に食事が出来る様に成るのは昭和40年からですね。
畳屋です。材料屋の年寄りから聞いた話ですが、戦後の頃は綿の畳縁の代わりに紙製の縁が有ったそう。その後、綿の縁が普及しだしたが、居間などの良く使う部屋には丈夫な革製の縁が普及。革縁は今でも使ってる家は有ります。なお、留置所や刑務所では縁無しの畳が主流だった(縁を解いて首吊り防止)
当時は兄弟姉妹が5~7.8人ぐらいは居たから、1個の卵を均等に分けて「卵かけご飯🍚」を食べた父の話を思い出しました。
今回のも面白かったです!
自分の家は北海道で農家だったから食料に困ることは全く無かったって言ってたなぁ…
確か、そんな農家には都会から列車に乗って行ったそうです。お金は信用がなくなっていたので当時効果だった腕時計とか宝石等を持って買い出しに行き米や野菜を背負って列車に乗ったら都会の近くで臨検が有り取り上げられてしまったそうです。
農家は困らないよね一番悲惨なのは両親亡くした孤児、疎開先から東京へ帰り、両親がいなく食べ物もない、🏠も無い孤児だけじゃないけど、戦後は悲惨だった戦中の悲惨さだけでなく、戦後の悲惨さも伝えてほしい
@@Nis-vl6xg 着物と交換が一番多かったんじゃないの?
自分も札幌、当時10歳の父がイモをかじりながら玉音放送を聞いていた記憶があると。母親、つまり自分の祖母が「日本負けた」と呟いて、ラジオの意味が分かったとか。
@中森明菜 私の祖母は着物を全て食べ物に変えたそうです。代金とは別に着物を持っていかないと、食料が手に入らなかったとか。それでも、父の一番下の弟は栄養失調で亡くなっています。
昨今の「SPOT!路上飲み」が「贅沢は素敵だ」と同じノリになってて好き
家人の戦争中エピソード「コーヒー牛乳」は、何度聞かされたか…。
昭和24年に食料事情落ち着いたのは、鉄道の復旧作業がある程度終わっていたのと田畑に墜落した飛行機から漏れた燃料等の除去が終わって安定的に農産物が生産出来る様に成った復員軍人が農業に復帰したので耕作面積も増えた。二毛作二期作も出来る様に成ったから供給が安定した。飛行機が墜落した水田は、土入れ替えるのに2年から3年かかる。其の間耕作不可能。
疎開先に選ばれた地域は農村部で作物以外に野草が豊富だったからひもじくはなかったそうだが都市部で育った子供にとっては美味しいとは思えなかったそうです。ただし貴重なたんぱく源としてはカエルさんだったそうで、泣きながら食べる子もいたとか。泣きながらでも食べないとタンパク質は絶対量が足りなくて疎開組を受け入れた農村部でも賄いきれなかったのでしょう。鶏卵はご馳走で、祖母の疎開先では風邪をひいたときには特別に用意してもらえたそうです。
親に出されたものは残すなと言われていたが本当にこれは正しかった。
戦前は完全に賄えていた米はどこに消えたのか謎だよね末期の徴兵率でも10%だから仮に軍用に20%貯蓄に30%、生産性低下で収穫が8割になったとしても30%は残るはずなんだけどそしてカボチャどこから湧いたし
盗まれたとか?
@@taaaaakaaaaa0000 調べてみたけど45年はともかく44年以前はほとんど収穫量減ってなかった
乾電池の外側が紙製のがあったよな。昭和40年代迄あったよ。
思い出した、そんなのが有った、
箱型で電極が上部左右にあって、舐めると舌がビリビリする奴ですね
その一方で高級軍人や政治家、主計科士官は備蓄米を職権でごまかして着服してたらふく食べ、徴用などで肉までふんだんに食卓にのぼっていたそうです。中曽根康弘が憲法変えて戦争したがったのは戦時中甘い汁を吸った思い出が忘れられないからです。
「星に碇に闇に顔」って云われた位ですからね。星=陸軍、碇=海軍、闇=闇ルートで高値購入、顔=官庁・議員とのコネ
戦時中は卵の殻もカルシウムとして食べていたらしいですね
「みかんの皮、カボチャの種は石臼で挽いて粉末に、卵の殻は砕いてそれぞれを塩と和えてふりかけとすれば、ビタミンとカルシウムを摂取できる」と昭和18年頃には国民向けに新聞・雑誌記事が出回り始めました。
私の祖父母は若くて戦後生まれなので戦争の話を身近な人から聞いたことがありませんこういう動画はありがたい
両親とも北海道の米農家だったので憲兵に徴収されていたようですが、境遇にはかなり差がありました。父の家 →自分たちが食べる一等米を山に隠し、残りを渡していたので困らなかった母の家 →収穫した米をほとんど渡してしまっていたので困っていた両親とも9人兄弟だったので母の家はかなり苦労したそうです。
徴兵や動員による労働人口を補う為の女性進出、連合国でも見られるね。この大戦で、物資に不自由しなかったのは唯一アメリカだけ。
南方でアメリカ軍の捕虜になった人の話だけど、当時はとらえた相手がろくに情報もとれない下っ端だと分かるとこっそり闇に葬られることも少なくなかったらしいんだがその部隊にはたまたま日本語と英語の両方話せる日系二世の方がいて、その人がうまくとりなしてくれたおかげで捕虜の身分になる事が出来たんだって。ボロボロの体はきれいに吹き清められ、ろくに手当てされないまま化膿し蛆が沸いていた傷は軍医の手で消毒され真新しい包帯を巻いてもらった。そして三食たっぷり出てくる食事を食べた兵士は直感的に「日本は負ける。間違いなくこの国には勝てない」と考えたんだそうだ。そんな国となんで戦争しちゃったのかね。
実はそのアメリカも一部の資源が足りてなかったそうなのでまぁ、無理だよねアメリカが煽ったのが原因だけどね
@@匿名希望-b9g そもそもアメリカは本来日本を攻める理由がないんですよね。日本も同じく。しかし、当時のアメリカ大統領は中国(今の中国とは別物)こそアジアで唯一の友人たり得る国で日本はそれを害する悪意を持つ猿どもだと考えていたらしいですからね。誰の入れ知恵かな?(あれ?そう言えば北方領土問題ってどんな経緯があったっけ?)結果として互いの首を絞めあって今現在においてもどちらも得をしない戦争になってしまいましたとさ。
@@匿名希望-b9g したくてした訳じゃないししなかったら植民地されて 終わりだ何もしないでやられるよりな
@@毒蛙 ソ連「ルーズベルトて優生学に憑りつかれたレイシストやん、政権内部にスパイ送り込んで手玉にとったろ」「お、日本も公家のボンボンが首相か。ブレーンにスパイ送り込んだろ」「日米ともスパイが焚き付けたらドンパチやりおった。同志討ちのあとは共産世界の春やで」そして戦後、戦勝国アメリカは本来やらなくてもいい戦争で日本を叩き潰したばかりに、日本が担っていった防共コストを負担することになり、朝鮮戦争、ベトナム戦争で多大な犠牲を払ったとさ
農林1号というサツマイモはすぐにとてつもなく巨大化するが甘みが薄く水っぽくとてつもなくまずい。
うちも母方が農家だったから食べ物に困った話は聞かなかったただ、おじいちゃんが引き上げられたときにおばあちゃんが餓え殺しにならないように食べ物を隠しちゃったから暴れたという話を聞いたことある。
小学生の頃学校の宿題で祖父母に戦時中の話を聞くってのがあったけどじいちゃんは何も話してくれなかったな…今思うと酷な事を聞いてしまってたんだな(´・ω・` )
私の祖父はいかに軍需産業で儲けたかを語ってくれまして、殆ど成金の自慢のような話を小学校の平和学習で発表して酷く教師に怒られた記憶があります田舎だったからか、軍需産業で儲けた工場、闇市や闇ルートで儲けた農業畜産関係者、戦争で苦労したお年寄りの差が激しく、、、教師が平和学習が指導計画どおりにいかない事にイライラしていた記憶しかないです
戦争を体験したと言っても、実際に兵士として戦場に出た方と国内で空襲にあった方とでは受け止め方に違いがあるのでしょう。私の祖父は父方も母方も戦地に行く事なく病気で亡くなっており、当時は戦地に行くだけの健康を保つのも大変な時代だったのだなと感じました。父は東京で空襲に遭い、志願するという友人を止めたそうです。日本はもう負ける。我々はその後の事を考えようと。いろいろな立場の方がいらっしゃると思いますが、その話しを聞く事が大切な事だと思います。そして話すことができない方の思いも感じることができればと思います。
うちの祖母もそうでした…。90歳を超えた今年、「遺言と思うて聞いてくれ」と戦争体験を語ってくれました…。
当時閉口令が敷かれていて、戦地での出来事は話してはいけない、という教えが有りました。
ラドルファスマンマ 現代の平和学習で、戦場でヤバい思いをした人とか空襲でヤバい思いをした人にのみフォーカスというかなんかしら光が当たっているのが問題なような気がします色んな立場の人がいたわけで、米軍相手に商売していた人、米国籍とか白人ハーフで苦労された人、海外に逃げた人、色々いるわけでして。。。 もちろん政府主導の平和学習なので、そして日本人の美学として?負けてる側に陽が当たるのはありがちかなぁ、って思うんですが、そういう意味では戦争勝ち組(言葉悪くてすみません!)の祖父の話を聴いて育って、なんやかんや現在ニッチとか日本は成長終わっていると狙って途上国でビジネス狙っている人間としては、そういう極限状態で売れたビジネスモデルを研究するとか、なんかしら悲しむとか悲観するだけじゃなくて今後に活かせるプラスのものをなんかしら、って思うんです(語彙力)
昭和16年生まれの母親の話では「バッタを焼いて食べてた」って言ってたなwわしらは確かに恵まれた時代に生まれ育っているwww
自宅で鶏を飼っていた方によると、「捕まえたバッタを糸に通して干しておいて鶏のエサにすると、良く肥って卵を毎朝産んだ」そうです…何羽か飼っていれば、動物性タンパク質は充実していたとも解釈出来ます。
そいえば、子供の頃まで米穀手帳あったし、小学6年生の修学旅行に米持参だったな!昭和26年うまれ。大東亜戦争からの影響の残りか!
樺太生まれで南方戦線に行った祖父は、米軍が来るまでは比較的のどかで町の食堂で食べてたが、来襲後に山へ籠ってからは山岳民族の畑レベルじゃ部隊を賄えないから自身も栄養失調で倒れていたところを捕らえられたとか。母方の祖母は疎開先が東北のお寺だから全く食に困らなかったと言ってた。クリーニング屋の娘だった父方の祖母(大正末の生まれ)は帝大喫茶部に居た本家のお姉さんにケーキ食べさせてもらったり遠足で多摩川に梨狩りや熱海へ行き、修学旅行は京都&奈良へ一週間だった戦争初期から、東京大空襲の翌日に震災慰霊碑がある最大被災地の横網町に住む親族を探しに焼け野原の中を進んだ話まで戦時中とはいえ色々と差を感じた(ちなみに唯一焼け残った被服廠で無事に再会できたらしい)あと、朝鮮の人が当時の日本人よりも体躯がガッシリしていたので重労働であった牛乳瓶配りをしていたと聞いた。孫世代的には戦中に牛乳あったんか!と驚いた。
爺様が妙に畑好きで、色んな作物作ってた理由がよくわかったwww
蕎麦は加熱しなくても食べられるので、蕎麦粉を水と醤油で溶いた物が蕎麦掻きとして食べられていたとか、芋やカボチャはタンパク質が無いので脚気も多かったと。あとフリマで陶器のキセルを買いました。
今のコロナ禍はこの戦時中の知恵を使えば克服できるように思う。目に見えぬ敵との戦い、旅行などに行く贅沢をするくらいなら、敵に勝つための行動を政府はなりふり構わずすべきだと思う。
赤いコウリャンを飯忘れちゃダメですぜ…(´;ω;`)疎開体験で「田舎に疎開して嬉しかったのは芋でも食べる事が出来た事」って聞いた小学校の時先生は山ヒルを乾かして粉末にしたものを団子にして食べてたって言ってた(戦中産まれ)祖母が学徒動員で長崎市の某工場で被爆したけど、その事を含め戦中の事を聞く勇気は無かった(母から聞いた)
確かこの時期の百貨店って売るものが無さすぎて逆に客から家財保護預かりというサービスをしてたらしい。空襲の度に家財道具を持ち歩くのも難しいでしょうし、この時期ならではの商売ですね。
そういや、新幹線も今やコロナ騒ぎのせいで、人間でなく物資を運んでいるとか。
『戦後、強くなったのは女性と靴下』といいますがこれは一般に戦後の、新憲法体制下での女性の社会進出と化学繊維の普及を指すわけですが今回の動画にあるように、戦中すでに事実として女性が社会を支えていたという下地と、戦中の代用繊維靴下があまりにもぼろかった(笑)という事実もこの言葉の背景にはあるのかもしれませんねw
女性の参政権が認められたり、地位が向上するのは、日本に限らず戦争に伴う産業への動員がきっかけなことが多い。戦時中、男並みに働いたんだから権利も寄越せってなるのが世界的潮流。
@@changnabe2606 イギリスの女性参政権なんかも運動自体はずっとあったんだけど直接のきっかけになったのは第一次世界大戦での女性の社会進出だといわれていますねもっと言えば男性の参政権拡大なんかも『徴兵義務』とのバーター関係だと言えるのかもしれませんね
諏訪の御柱に女が跨がれるようになったのも男手が徴兵に引っ張られて祭の担い手が不足したからだもんな
サツマイモを食べるとオナラが出る、という認識は戦時中作られた。単に食べ物が少ないと腸内の乳酸は殆ど吸収される。乳酸が無くなるとメタン細菌が活性化し、二酸化炭素とアンモニアから気体窒素とメタンが作られる。戦時中はサツマイモばかり食べていたからそういう認識に成っただけ。
@@changnabe2606 一番強くなったのは共産主義者では。
「勝ち組」って言葉は戦時中(だったかな?)と今とじゃ意味が違ってて、昔の意味だと「日本が負け確なのに勝つって思いこんでる人たち」のことで悪口だったって聞いたことありますねぇあと母方の爺さんは子供のころ満洲で生活してたらしい。父方のほうは長崎在住だったみたい(亡くなるまでずっと長崎在住)
Y S 有名なのはブラジルの日系人の話じゃないですか?
政府が勝手に総力戦へ進めたみたいな論調だけど、元はと言えば、初戦連勝に酔った国民が当時のマスコミ(新聞)と一緒になってイケイケドンドンだったはず。だから終戦記念日に、当時の年寄りが出て来て「昔は大変で」とか言い出すとちょっと複雑な気持ちになる。
そもそも軍部が戦果を改竄して、大本営発表するような悪質極まりない行為しなければ良かったのではwww
国民が情報を取捨選択できる立場であったならその主張もわかるけど…陛下にすら正しい情報が伝わってない状況でどこまで正確な判断ができたのかは疑問だなぁ
@@ヴィオ-w3c 戦時中に情報統制をするのは至極当たり前のこと。平時と戦時は違う。
@@link0shin 誰が情報統制について書いてるんだよ?お前は日本語が読めないのか?
コロナ禍でのオリンピック開催についての既存メディアの報道姿勢の忖度ぶりで多少追体験出来ますね
雑炊は好きだけど、毎日しかも生きるために量を重視につくるための雑炊は飽きるだろうし、もっと他のが欲しいと思う。好きなものを好きなように食べられる今が本当に幸せ。火垂るの墓で、雑炊飽きたと言っていた気持ちもわかる。
いつも投稿お疲れ様です。復員もあったので戦後の初期の方が食糧事情は厳しいのですね。お金を出せば物が買えるし、自由に届く。平和に暮らせるというのは有難いことなのですね。
ウチの曾爺さんや婆さんは戦時中に東京にいたけど、曾爺さんが軍需関連の仕事をしていたおかげで軍事物資の横流しがあって生き延びたそうな。当時の女学校の写真を見ると、みんなガリガリに痩せていたのにウチの婆さんだけブクブク太っていたと聞きました。今も太っているが…
ひでぇ婆さんだな
Q.食糧難だったんでしょ?A.別にQ.空襲あったんでしょ?A.燃えてたねえQ.アメリカ軍人がチョコレート投げてたんでしょ?A.外人は見たことないこれが田舎だ!
やっぱ田舎は最高やな!
都会と田舎の農家ではかなり状態はかわってましたね。じいちゃんはそれなりの町だったのでひもじかったし、空襲で爆撃機は飛んでくるわ艦載機が飛んできて機銃掃射は受けるわと語ってました。ばあちゃんは田舎の農家だったのであまり食べるのには困らなかったとの事、まぁ米はあまり食べれなかったみたいですが…空襲はあっちの方向が赤いからあの町が燃えてる、今日はあっちの方向だからあの町だ〜って言ってた。もう一人のばあちゃんはすいとんキライって言ってましたね、散々嫌な思いしたんでしょうね。もう一人のじいちゃんは鉄道敷設の為にビルマに従軍してました。物資はろくに無かったんでしょうけど
関西の小都市に住んでいた戦中生まれの両親はリーマン家庭ながら軒先で鶏やウサギを飼って食事の足しにしていたけど、ウサギはなかなか死ななくて祖父が大変そうだったって。んで父は80歳過ぎた今でも鶏は食べられない。やっぱり服より食べ物が一番鮮烈な記憶みたい。それでも結局疎開することになって、辛い思いをしたらしい。だから「火垂るの墓」は他人事じゃないしフィクションでもない。後期高齢者になってもパフェとか派手な甘味が大好きで、外食のたびに嬉々として注文している両親を見ると本当に平和はありがたいと思う。
金属製の日用品は回収されても武器にされず放置されたり、終戦直後に軍人たちが物資を全て盗んだりと、胸糞なことが多発した。徳富蘇峰の終戦日記に書かれてた。
頭が平和な団体「戦争の悲惨な経験を伝え、二度と戦争しない教育をします!」ワイ「ふーん?で君らのいう戦争の定義と、発生要因、など教えてよ?」お花畑「??武器をもって戦うこと?」教育してるやつらが戦争定義も起こる原因もわかってないのに、反戦教育が役に立つかよ
お花畑は分かってて言ってそう。
うん、うん、まさにその通りですね。こちらからの侵略しか戦争が無いと思考停止してる節があるよね。総力戦の戦争の悲惨な実態さだけをクローズアップしすぎてその原因に考察が及ぶ余地が少ないのは似たような失敗を繰り返す危険がありますよね。広島、長崎に落とされた原爆も全く戦争してない平和な国の都市に突然爆弾を落とされたごとく今現在の倫理観で断罪している感じだし、自分達自身が戦争をやらかした揚げ句、間接的に広島、長崎の市民を死に追いやったと言う事実が抜けてるんじゃないかと思う毎年8月の報道やメディアありませんか?「戦争は絶対にイカン‼…」とか「戦争の悲惨さを後世に伝える」はそこで思考停止して肝心の真の原因追及が薄まるので今現在となっては慎重に扱うべき言葉なのではないのかな~と思う(-_-)…まあ、実体験された世代の方々や戦後すぐの世代の方々はやむを得ないとしても、平和で豊かな戦後産まれの我々の世代はそれではいけないですよね。それこそあの戦争で死んでいった人々に対して申し訳がたたないのではないかと…。
また変なのが湧いて来た
田舎だったから周りはみんな農家で白い米の入った弁当を食べていたのに、自分1人だけジャガイモ弁当だったから学校行くのが嫌だったって、じいちゃんが言ってなぁ。
終戦の年に18で徴兵されたけどすぐ終戦になって助かった祖父は軍隊生活は辛かったけど腹いっぱい飯が食えたのは嬉しかったと言っていた。当時恋人だった祖母は太って帰ってきてがっかりしたと語っていた。まあ軍隊も時と場所によって食糧事情は大分違ったんだろうけど
私の実家では納品時に物々交換で金の代わりに米を貰っていたので米に全く困っておらずむしろ分けるほどあったそうですなので外聞を気にして弁当はワザワザ麦ごはんを別で炊いていたそうです
総力戦とは相手の総力を奪う戦いで、占領中が本番、進駐軍の支援などないどころか、進駐軍の費用は日本もちで、海外からの支援物資も止められ、食料の輸入もできなかった。飢餓は戦後に来て、主な理由は援護復興の禁止による物流途絶。
欲しがりません 勝つまでは…
一億総火の玉鬼畜米英
米穀通帳、1980年代まで有効だった。父親とよく配給倉庫へ行ったけど、同年代に話しても分かってもらえない。
聞いていて涙が出そうでした。
物の溢れる今に慣れていると恐ろしい話にしか聞こえないのですが、
確かに2、3代前の家族が経験して、生き延びて今の自分がいるんですよね。
なんでも「もったいない」という母の言葉が少しだけ受け入れられる気がしました。
一番の原因は「物流の停滞」だと思う、 米どころの北陸・新潟などでは米は余るぐらい余ってただろうし、 北海道なら馬鈴薯・鮭・昆布なら捨てるほどある・・・みたいな・・・ ただ、それを移動させる手段、当時は鉄道と海運が麻痺してた、都市部では食料品の生産は少ないので困窮した・・・ 何故?物流が停滞したかというと、船は徴用され数が減った上に攻撃されて沈むなどあり、 また鉄道も軍需優先で物流に使用できる数が減った・・・というのが原因だろうな
その時点で終わってる
戦争を起こしたプーチンも
大日本帝国と
同じゴールを目指してるのか?
祖母談
母におぶられて、その肩越しに見たサーチライトに照らされる爆撃機の編隊は、とても綺麗だったそう。
今日は白ご飯のお弁当だ!と喜んでいたら、芋の上にうっすらと米を敷きつめてあり、子供ながら母の知恵に感服したと。
防空壕に入っている間は、瓶をついて玄米の脱穀をするのが子供の仕事だったと。
黒檀の一家伝来のタンスを、線路の下の貸し倉庫に避難させていて、それだけが一家の財産だったと。
人工甘味料の工場がやけて、父が商品にならなくなった物を貰ってきて、久方ぶりに食べた甘いおはぎ。その日が終戦の日だったと。
戦時中、
学校では日の丸弁当しか食べられなかったってイメージがあるけど、
弁当箱一杯の白米と高価な梅干し。
終戦直後は、これすら贅沢品だったんだろうなあ。。。
終戦当時15歳だった祖父から聞いた話は、
1 食べる物がなかった、お腹を空かせていたという記憶はあまりない。
2 配給も時々は量が少なかったりなかったりしたこともあったがわりとちゃんと配給されていた。
3 お弁当をつくってもらい友達と海水浴に行ったり、そこでバケツ一杯に小さなカニをとって食べたりした。
4 勤労奉仕でセメント工場に行ったが、その時も工場がある街まで友達が漕ぐ伝馬船に揺られて海沿いに行ったりと今思えばのどかなものだった。
5 むしろ終戦直後の方がひどかった。国全体が混乱していたから当然配給も滞る事が多くてあの時は食糧を持っている人が強かった。
おおむねこんな話をしてくれたことがあります。教科書や学校で先生が言っていたこととは違うなあと当時子供ながらに思いました。祖父が住んでいたのが東北の小さな田舎街だったせいもあるでしょうが。
やはり地域ごとの事情もあるでしょうね。
戦後の「ララ物資」のお陰で讃岐うどんが盛んになったり、群馬辺りでは(今では違法ですが)川魚を「ヤス突き」で子どもが当たり前に漁ったりしていましたから。
うちの祖母ちゃん家は戦時中に田んぼをもっていたので、初期の頃にはそこまで米には困らなかったけど、男手が兵隊にとられてた結果、地域のため池などのインフラ管理まで手が回らなくなり、田んぼに導水ができずに自分たちの田んぼの区画では終戦の年には米が作れなくなっていたらしい。
本人は女学生だったので学徒動員で工場に行って作業をして、工場や学校の庭にサツマイモとか栽培していた。
いまは痴呆でボケてしまった曽祖父。
小さいとき、寝れないときに戦争の話をされて更に眠れなくなっていました。
当時は少し怖くてあんまり積極的には効かなかったら、曽祖父もいつの間にか話さなくなって、今になってそれらに興味を持つようになりましたが、今はもう何も語ってくれません。
あのときもっと聞いとけばよかったなぁ。
軍歴証明書を取得してみては如何でしょうか。これを取得すると軍隊での経歴(階級や赴任地など)がわかります。
ネットで調べれば申請方法がわかりますので、それを参考にして下さい。
当時、横須賀の海軍の施設に勤務していた、うちのばぁさん(故人)曰く、1943年頃まではまだ物があったが1944年から急になくなったと言っていたな。
たった1年のうちに物がなくなり、国会議事堂前が畑になるなんて全く想像が出来なかったそうだ。
学校の授業でも、当時はとても
ひもじい生活だった習ったけど、
祖母の家は闇業者で、大阪っていう
大都市に住んでいながら、毎日
お腹いっぱい食べていたそうで
子供心に現実とのギャップが
凄くて、複雑な気持ちでした。
連合艦隊司令長官山本五十六の映画でも、戦争が進むにつれてどんどん食料が不足して、食卓もひもじくなるシーンがありましたね。
父「うちの祖父は国鉄の職員をしていたので、食料は優先的に配布されたぞ」
自分「へーそうなんだ!食糧不足とか無かったんだね」
父「一家で一日当たりカボチャ半分、またはジャガイモ4つ」
「(啞然)……お米は?」「全部軍に持っていかれたので、見たことも無かった」
んで、軍も南方方面は腐ってウジが湧いてたり、量も足りない、届かずに沈むっていう…。大陸はまだマシって聞くね。
うちは農家の家だったので、食料は豊富だったそうです。戦時中は着物なんかの高級品と交換して財を築いたそうですが、戦後のハイパーインフレで失ったらしいです。
一方、確かアメリカは艦にアイスクリームが食べれないっていう理由だけで兵士達がストライキ起こしたって事例があったぐらいだからこの時点で勝ち目ないよなあ……
アメリカ海軍の艦隊にはアイスクリーム積んだ船とクリーニング船が付いていたそうな
そう聞くと本当に絶望しかないな…哀
その代わり日本軍は酒が飲めた
アイスの列に並ぶときは例え将軍といえど順番を守った漢、ハルゼー
ダイエーの創業者が兵隊としてフィリピンにて米軍基地を襲撃した際に、基地内にあるアイスクリーム製造機を見て驚愕したそうですね。
おいら、秋田に住んでいます。
昔、ひいお祖母ちゃんが、食糧事情に関しては
「自分らで食う分には困らなかった」
って言ってましたね。
疎開してきた家族を何組か見て来たみたいですが
「彼らは、食い扶持を得る為に必死で働いていた」
とも言ってました。
あと、憲兵隊が時折来て、逃亡兵や徴兵逃れの人がいないか
見に来た事があるみたいです。
だけどいじめしてたからなお立ち悪い時代
戦時中に産まれた母方の祖父は鶏(屠殺を強制された為)が苦手でしたね サツマイモに米が引っ付いてたものを食べたって表現が忘れられません 終戦5年後生の父方の祖父も芋が嫌いでした
終戦というと蝉の鳴き声と太陽が降り注ぐ猛暑の中玉音放送が流れる、というようなイメージがありますが実際には大冷夏だったみたいですね
徹底抗戦なんてしてたらぺんぺん草も残らなかったでしょう 家畜の餌だろうと駐留軍からの供給はとても有り難かったかもですね
わしのばあちゃんは満州に移住していたので食うものにはあまり困らなかったそうな。
対して内地にいたじいちゃんからはステレオタイプのひもじい戦時体験話を聞いた。(なので今でも食べ残しとかにはすごくうるさい)
配給って言うとあまりピンとこないけど、いうなれば購入制限だよね。つまり買い占め防止政策。今でも買い占めてメル○○とかいう闇市で転売して高値で売るやついるから今も昔もやることは変わらないなと。
しかし最も恐ろしかったのは「近所の目」だったという。たまたま良いものが手に入っても「兵隊さんは前線で苦労しているのに」という決り文句で非難されるので人に見せるようなことはできなかった(手塚治虫「アドルフに告ぐ」でも主人公アドルフ・カウフマンの母由紀江が婦人会の人からそんなことを言われていた)が実際のところは「兵隊さん」の主語の裏には「私は」という主語が隠れていたのではないかとも思う。
コロナ禍下での自粛警察もきっと同じメンタルだったんでしょうね。
(過去形なのは、今が緊急事態宣言も自粛も有名無実化し、議員も官僚もやりたい放題の戦後混乱期みたいだからです)
戦時中の日本「芋ばかりでつらいわー」
第一次世界大戦下のドイツ「…こっちは芋食えなくてカブラで我慢してるのに…」
芋違い笑笑
どんな話でもいい。祖父母から聞いた経験も次の世代に積極的に語り継いでほしい。
浅はかにも結論を急ぐ時代が来ている。将来の価値観はどうなるだろう。
中国が膨張主義になっている今、昭和20年みたいに都会人は田舎に疎開して芋なんかを自分で作ることになる可能性は十分ありますよ。その可能性を考えている国民がどれだけいるでしょう。
GHQに物資の必要量申請する時に、かなり多めに申請して
おい!多いやろがいって突っ込まれた時に
まともに計算できてたら、日本は戦争なんぞしておりません!
で事なきを得た話が好き
まぁ、速攻かつ、ドイツの行動次第で勝てると試算されたとはいえ、逆にそれが無理だと破綻するって恐ろしさよ
@AZ1974さん
何だかオリンピック開催のドタバタとIOCバッハへの盲従っぷり 、コロナ対策のガバガバ振りと重なる印象が強くて洒落になりません。
食糧不足が深刻化すると、配給の量をごまかし着服するなど不正が横行していたようですね。空襲の体験談は少なからず資料がありますが、物質的にも精神的にも余裕を失った人々の諍いなどはほとんど語られる事がありません。祖母が生前断片的に語ってくれましたが、人間は腹が減るとここまで浅ましくなれるのかとゾッとしたほど。飽食の時代に終わりの見えない窮乏を想像することは難しく、確かにお年寄り達の口が重いのは無理もないです。しかし大規模災害時の心構えになるよう、どこかに残しておいてもらいたいです。
トウモロコシごはん(たっぷりの甘いトウモロコシをコンソメで米と炊く。芯を入れると出汁が出て美味い。最後にバターをお好みで混ぜる)をうめえうめえって食べてたら祖母に母親が怒られてたな。「孫にこんなひもじい思いをさせるなんて!」って。でもそれつくったのわいやで・・・・ってなった。
いや、結構うまそうです
出しにがそう
@@CC-zh2uv めっちゃ美味しいんで、トウモロコシの季節になったらぜひ!缶詰で作る場合は缶詰の汁をいれると良いですよ!^▽^
昔の人にとってのトウモロコシは
デントコーン(家畜の餌、芋っぽい味)
ホカホカ暖かそうでほんのり甘そうでバターの香りが伝わって来そうなのに、戦時下を生きた方には「代用食」の負のイメージが付いて回るのですね…
親父の実家にあった昭和19年の新聞に書いてあったカレーライスのレシピが、小麦粉を練ったうどん生地を米サイズに切って米の代用とするって内容だったのが印象的だった
よゐこが、無人島でやってるやつ‼️
チネリ米じゃんw
小麦粉がこの悲惨な当時手に入ったのかよって思う
こういう話を学校の授業で教わりたかったな
実家が農家でコメ野菜は不自由しなかったそうだが、肉系が欲しかった伯父の一人はカエルを捕まえて食べたそうで「アマガエルはまずかった」と呟いたそうだ。
食用ガエルは取りつくされて残ってなかったとか。
ありがとうございます。平和だから、飯がお金で手にはいる、という言葉に、はっとしました。
昔、介護していた時に色々聞いて回ったんだけど、あの時代、幼少期に農家など食うに困らなかった(?)人の方が現在でも食事の好き嫌いが多かったね。
都会の人とか結構なんでも食べる傾向にあったね。あくまで傾向だけど。
いつも大変勉強になります。ありがとうございます。
贅沢は(素)敵だ!
戦中の生活の衰退もそうだけども、軍事用に作ってた通信機とかの代金を企業に100%税金かけて回収したとかいう最高にクレイジーな話が一番怖い
雑穀米が流行りだした頃、ちょっと私もどんなもんか食べてみよう、とおもって、少し白米に混ぜて炊いてみたら、同居していた旦那の祖母から
(そんな惨めったらしいもの入れないで💢)
って怒られたわ。いやな記憶が甦ったのかもな。
うちの母は実家で酪農やってたから、雑穀とかふすまとか食べてると「牛の餌」って言って絶対食べない。
時代考えたらやっと今は食える時代に雑穀米やらなんてその時代の人からしたら生きるための食べ物だから馬鹿にしてるか!金あるのに食わせるのか!と
だから出さないほうがいい
さつまいも🍠でも嫌な記憶がよみがえる事が多いらしく、今の高齢者施設ではさつまいもは好まれないそうです。
当時国民に配給されていたさつまいもは味が不味かったそうです。美味いのは航空機のアルコール燃料を造るのに回されていましたから。
うちの祖母もイナゴ捕まえて炒って食べたと言ってたので、田舎の農家でも食糧事情は厳しかったんだと思います。
また、前テレビで戦争中の床屋さんの話が放送されていて、客の髪を梳くと、シラミが沢山でてきたと言ってたのが怖いなと思いました
誰だったか・・・法務関係の方が「ヤミを利用することはできん」って配給だけで凌いでたけど、餓死しちゃったんだよね・・・
確か裁判長だった気がする。
ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E8%89%AF%E5%BF%A0
これかな。
漢の死に方としてはアリかも知れんが、妻子持ちが何やってるのかって方が勝るなぁ。
清濁併せ持つ事が大人だろうに…
この世界の片隅にが1番日本の戦争と庶民の生活を描いている作品だと思う。
そういう作品のせいで、間接侵略や情報戦といった現代の戦争が見えにくくなっている。どんぱちさえ無ければ平和という先入観を植え付けられている。
よし よし この作品はあまり関係なく、現代の戦争は経済や情報等一般人の目に見えづらくなったからでは無いのでしょうか?
やんほぬ
毎日毎日、関連する報道がされているのに『見え難い』ということはないでしょう。
『戦争=どんぱち』という先入観があるから、不感症になっている。見え難いのではなくて、見ていない。
るろうに剣心=戊辰戦争
203高地=日露戦争
硫黄島の戦い=第二次世界大戦の硫黄島
メトロに乗って=第二次世界大戦の満州
はだしのゲン=第二次世界大戦の広島
カンゾー先生=第二次世界大戦の岡山
男たちの大和=第二次世界大戦の呉、沖縄
ガラスのウサギ=第二次世界大戦の東京
少年時代=第二次世界大戦の富山
岸総理は侵略戦争と発言してる
会社にいた下請給仕のオバハンは、破れた衣類の類を捨ててもご丁寧に洗って縫って各人のロッカーに戻していたwww
「迷惑行為だw」と若手社員から苦情が出ていた、「物を大事にしなさい」と言いたかったんだろうな
輸送船がやられたせいで本州の大都市では食糧難なのに北海道では日持ちしない海産物などの食糧が余って腐ってたってのは有名な話だな。
冷蔵庫ないの?
ないあるにわあるけど高級品
当時は氷だろ?
流通がやられるとキツいね
戦時中備蓄米は沢山有った。
配給に出すのを制限したのは軍の方針。
父方のじいちゃん曾祖父ちゃんの世代は大分の土地持ちのそこそこの豪農で、しかも山奥に隠し田畑持ってたから食うものには困らなかったし、都会から来た人に物々交換で米や野菜や鶏卵をあげていたし、一族総出で闇市に米と野菜を卸しに行った時は大変儲かったと言っていたなぁ~。
じいちゃん15歳の時に終戦だったから戦争には行ってないけど、曾祖父ちゃんの兄弟は何人か行って、むしろ訓練中や戦地の方がひもじかったと言っていたと、じいちゃんが曾祖父ちゃんの兄弟から聞いたことを又聞きしたことがありますw
男性に代わって祖母の妹が16歳にして路面電車の運転士をしてたらしい。広島電鉄が運営する広電家政女学校は朝夕ラッシュ時に電車運行業務を行えば授業料が免除になったとか。
そしてあの日の朝も電車を運転していた祖母の妹は多くの同級生と供に原爆によって殉職したそう…。
運転席に立ったまま、マスコンハンドルを握ったまま、真っ黒な炭のようになって…。
広島電鉄のあの車両に、そんな悲劇が秘められていたのですね…
無知な自分を今恥じています。
たまたま見掛けたトミカの広島電鉄650形路面電車を「ノスタルジックな味わいのある電車」って感覚で部屋に飾っておりました…
@@吉田啓嗣 自分も以前は「古い電車」くらいにしか思ってませんでした。原爆ドームだけが有名ですが、電車や百貨店やパン屋など今も現役で使われている被曝建造物は意外に多いようです。平成に入るまで公的な助成金は無く、小さな電鉄会社が、地方の百貨店が、街角のパン屋さんが自助努力だけで保存し続けてきた事はもっと知られても良いのでは?と感じます。
@@norealhero1951さん
そう考えると、日本は明治~平成に至る迄つくづく「自助」の国だったのですね…
国の公的な補助を必要とする(国が補助・保存すべき)歴史的遺産が広島~沖縄まで放ったらかしになったままの印象が強くなって来ました…
ちなみに、祖父はキビ(トウモロコシ)が飽いだって言ってました。沢山食べたらしいです。
昔戦時中の食事を再現して食べるって催しに参加した事があるんだけど、楠公飯にホタル飯、トウモロコシやふすまのパン、金魚の佃煮に藁いりこ入りの雑穀飯どれもまともに喰えるものはなかった、
そら戦中に食べた人は絶対拒否するわなぁと思った記憶がありますな。
そう言えば動画中に語られていた紙製のランドセルなんですが実物を手に取って見た事があります
ローカルメイドの為色々とバリエーションがあるのですがクズ紙をプレス圧縮して昔の学校の教室にあった
茶色のゴミ箱のように固くしたり、使い古されたふすまや反故紙を貼り重ねた物の上から
防水のために柿渋や桐油を引いたもの、紙の上から布をはって補強した物まで様々ありますね
見ていて涙ぐましさを感じます(笑)
死んだおじいちゃんは通信兵だったから前線に行かずにすんだって言ってた おじーちゃん死なないでくれてありがと
私の母方の叔父が通信兵でした。埼玉県の所沢市に居たようで
⌈若い頃に所沢から新宿迄徒歩で移動した」という話をしてくれました。亡くなりましたが、とてもとても優しい叔父でした。
今じゃ白米が糖質制限される始末
雑穀を買ってきたらばあちゃんめっちゃ嫌がってたな
大阪の下町に住んでた大正4年生まれの母方の婆さんに聞いた戦時中の話。
爺さんが兵隊にとられて日中戦争へ。一応給料が出るもののそれだけでは足りなくて近郊の農村作業へ。爺さんは召集期限が来ても現地で即再招集。
自治会から回覧板が回ってきて「国債を買いましょう」の呼びかけに応じて少ない収入から国債購入。周り近所の目もあって同調圧力で購入したけど当時の報道(新聞)で戦争に勝つと信じていたので、確実な投資目的という皮算用も多少はあったとのこと。
食料に関しては農村へ今でいうところのパート作業に行っていたのでそこでのおすそ分けが非常に助かったとのこと。ただし近所には絶対内緒。その農村で闇米も購入していた。
竹やり訓練、内心では馬鹿馬鹿しいと思いつつも近所の目もあるので積極的に参加。
戦中を生きた親戚に芋とカボチャ食べたくない人が、いましたね。
く、クリリンのことか~⤴
麦メシを見たくないってのもいますね
当時を思い出したく無いそうで…
俺、黒い飯って聞いたよ。
@@ひろひろ-f6w 様
黒い飯は脱穀が不十分だったせい。
句読点の使い方がガバガバだけどあっちの血が混ざってる方?
ウチは祖父がリアル戦争世代、親父も戦前に生まれたので、僕は戦中、戦後の悲惨な状況を叩き込まれて育ちました。
特に祖父はロシア人とのハーフだった為、酷い差別を受けたらしいです。(まぁ、敵勢国家のハーフなら当時の日本では虐められるのは当然ですが..)
貴方イケメンそうねw
ドイツ人とのハーフと取り敢えず言っておけば良かった。
殺されても一切文句を言えない立ち位置だからね、今でもロシアって聞くと雑種も含めて絶対に許せないほど憎悪してるわ。
当時は「あいのこ」って呼ばれたみたいですね。
あいのこと馬鹿にされててグレた不良で有名なのはジェリーフジオですね。
あいのこと馬鹿にしてくるやつを片っ端からぶちのめしてたみたい。
@@みそ-b4y 今で言うミックス(雑種)ですよね、ハーフ(半ペタ)と言い日本語に訳すと強烈になる。
ボクシングのスーパー・フライ・級(超ハエ級)とかね。
どちらかといえば超インフレになったのは、戦前戦中よりも終戦直後ではないですか?
たしかに終戦後の『ハイパーインフレ』は教科書に載るレベルで有名((^_^;))ですね
ただ戦前戦中のインフレも(戦後のものほどではないですが)実際当時の人々の生活に影響が出るレベルでは存在していたようで
桂米朝の落語のマクラ話に日中戦争初期の頃のインフレに触れたもの(100円札を長屋の住民が初めて目にして・・・というというエピソード)があるそうです
実は東南アジアでもハイパーインフレは起こっていたらしいっすよ
太平洋戦争中の食料欠乏の話は耳に何とかのレベルで聞かされていたが、学校給食で月に1回「当時のすいとん」が出る日があって、その日は朝から憂鬱だった(この日だけは残しても文句が出なかった)。
当時のすいとんって
それただの材料費を安くする為やないかい!w
食糧が世界中であまりまくってる現代でやる事じゃない…
給食センターサボってんな
当時の食糧事情の酷さを体験させる為の実践教育ですね。
当時日本一の輸送会社の大阪商船の供出悲劇がすごい話です。。
陶器の代用はガスコンロまであったんですよねー。手榴弾はもってます笑
動画投稿お疲れさまです、今回も勉強になりました。
父は農家の出身で家に畑があったから学校にはお弁当に吹かし芋を持って行ってたって聞きました。
学校で芋がお金にすり替わっててそのお金でパン買って食べたって話も聞きました。
アラカンなんで、このテの話は耳にタコができるほど、親から聞かされたり実体験させられたけど、現在じゃアウトドアや半自給生活の知恵袋みたいな部分もあると思います。
ばーちゃんに当時の話を聞いた時「はやく行かないと(配給)なくなるから大変だった!」しか聞けなかったな
代用品の中で唯一使用価値があると思われるのは陶器式地雷です。
感知器が効かないからまさに無敵。
でもあとが困るでしょうね。
米軍は1945年3月から暗号名Starvation(スタベーション)と呼ばれるある戦略作戦を実行した。
これは当方に言わせれば、東京空襲や広島・長崎の原爆投下と同じくらい悪質で、恐ろしい作戦だったと思う。
どういうものかというと、下関海峡、瀬戸内海、朝鮮半島や中国大陸沿岸にこれでもかってなくらい、機雷を敷設
しまくるというものだった。特に下関海峡には重点的に敷設され、総数の半分以上が敷設された。
その目的は半島・大陸からの食糧や資源の供給ルートを遮断するというものであり、要は日本を飢え死にさせる事
だった。結果として西日本の海上輸送路は殆ど遮断されたに等しいモノだった。おまけに英空軍が関門トンネルの
破壊を目的に、現代においても通常型航空機用爆弾としては世界最大と言われる超大型爆弾「グランドスラム」を
用意していたという。これが使われて本州と九州の輸送路が遮断された日には…
ちなみにこの作戦が1年継続した場合、日本には700万人の餓死者が出ただろうという米海軍の分析結果がある。
Starvationの意味は「飢餓」。暗号名と言いながらひねりも何もない。そこに恐ろしさがある。
恐ろしいって言ってもね・・・
公共交通機関とかの戦略施設を攻撃して、飢餓にさせて降伏を狙うのは常套手段やからね・・・
@@かなつさあつさん 日本でも豊臣秀吉の鳥取城への兵糧攻めなどがありますね。
自分の親も、父が昭和2年生まれ、母が昭和9年生まれだったので、戦地の話はありませんでしたが、生活の話はよく聞きました。少しでも贅沢をしようとか、ワガママを言うと、特に母親の方から鉄拳制裁と、小言、戦時中体験を聞かされました(笑)
日本兵「あんまり食料ないけど捕虜に栄養あるしゴボウあげよ!」
捕虜「木の根っ子食わすなんてあんまりや…。」
この捕虜に、ゴボウ食べさせた日本兵、BC級戦犯として、処罰されたのは、有名な話ですね。
戦後の食糧不足は輸送力不足が主な問題。
金が有れば買えたけれど、給料も安かったので何気に、自由に食事が出来る様に成るのは昭和40年からですね。
畳屋です。
材料屋の年寄りから聞いた話ですが、戦後の頃は綿の畳縁の代わりに紙製の縁が有ったそう。
その後、綿の縁が普及しだしたが、居間などの良く使う部屋には丈夫な革製の縁が普及。
革縁は今でも使ってる家は有ります。
なお、留置所や刑務所では縁無しの畳が主流だった(縁を解いて首吊り防止)
当時は兄弟姉妹が5~7.8人ぐらいは居たから、1個の卵を均等に分けて「卵かけご飯🍚」を食べた父の話を思い出しました。
今回のも面白かったです!
自分の家は北海道で農家だったから食料に困ることは全く無かったって言ってたなぁ…
確か、そんな農家には都会から列車に乗って行ったそうです。お金は信用がなくなっていたので当時効果だった腕時計とか宝石等を持って買い出しに行き米や野菜を背負って列車に乗ったら都会の近くで臨検が有り取り上げられてしまったそうです。
農家は困らないよね
一番悲惨なのは両親亡くした孤児、疎開先から東京へ帰り、両親がいなく食べ物もない、
🏠も無い
孤児だけじゃないけど、戦後は悲惨だった
戦中の悲惨さだけでなく、戦後の悲惨さも伝えてほしい
@@Nis-vl6xg
着物と交換が一番多かったんじゃないの?
自分も札幌、当時10歳の父がイモをかじりながら玉音放送を聞いていた記憶があると。母親、つまり自分の祖母が「日本負けた」と呟いて、ラジオの意味が分かったとか。
@中森明菜
私の祖母は着物を全て食べ物に変えたそうです。
代金とは別に着物を持っていかないと、食料が手に入らなかったとか。
それでも、父の一番下の弟は栄養失調で亡くなっています。
昨今の「SPOT!路上飲み」が「贅沢は素敵だ」と同じノリになってて好き
家人の戦争中エピソード「コーヒー牛乳」は、何度聞かされたか…。
昭和24年に食料事情落ち着いたのは、鉄道の復旧作業がある程度終わっていたのと田畑に墜落した飛行機から漏れた燃料等の除去が終わって安定的に農産物が生産出来る様に成った復員軍人が農業に復帰したので耕作面積も増えた。
二毛作二期作も出来る様に成ったから供給が安定した。
飛行機が墜落した水田は、土入れ替えるのに2年から3年かかる。
其の間耕作不可能。
疎開先に選ばれた地域は農村部で作物以外に野草が豊富だったからひもじくはなかったそうだが
都市部で育った子供にとっては美味しいとは思えなかったそうです。
ただし貴重なたんぱく源としてはカエルさんだったそうで、泣きながら食べる子もいたとか。
泣きながらでも食べないとタンパク質は絶対量が足りなくて疎開組を受け入れた農村部でも
賄いきれなかったのでしょう。
鶏卵はご馳走で、祖母の疎開先では風邪をひいたときには特別に用意してもらえたそうです。
親に出されたものは残すなと言われていたが本当にこれは正しかった。
戦前は完全に賄えていた米はどこに消えたのか謎だよね
末期の徴兵率でも10%だから仮に軍用に20%貯蓄に30%、生産性低下で収穫が8割になったとしても30%は残るはずなんだけど
そしてカボチャどこから湧いたし
盗まれたとか?
@@taaaaakaaaaa0000 調べてみたけど45年はともかく44年以前はほとんど収穫量減ってなかった
乾電池の外側が紙製のがあったよな。昭和40年代迄あったよ。
思い出した、そんなのが有った、
箱型で電極が上部左右にあって、舐めると舌がビリビリする奴ですね
その一方で高級軍人や政治家、主計科士官は備蓄米を職権でごまかして着服してたらふく食べ、徴用などで肉までふんだんに食卓にのぼっていたそうです。
中曽根康弘が憲法変えて戦争したがったのは戦時中甘い汁を吸った思い出が忘れられないからです。
「星に碇に闇に顔」って云われた位ですからね。
星=陸軍、碇=海軍、闇=闇ルートで高値購入、顔=官庁・議員とのコネ
戦時中は卵の殻もカルシウムとして食べていた
らしいですね
「みかんの皮、カボチャの種は石臼で挽いて粉末に、卵の殻は砕いてそれぞれを塩と和えてふりかけとすれば、ビタミンとカルシウムを摂取できる」
と昭和18年頃には国民向けに新聞・雑誌記事が出回り始めました。
私の祖父母は若くて
戦後生まれなので
戦争の話を身近な人から聞いたことがありません
こういう動画はありがたい
両親とも北海道の米農家だったので憲兵に徴収されていたようですが、
境遇にはかなり差がありました。
父の家 →自分たちが食べる一等米を山に隠し、残りを渡していたので困らなかった
母の家 →収穫した米をほとんど渡してしまっていたので困っていた
両親とも9人兄弟だったので母の家はかなり苦労したそうです。
徴兵や動員による労働人口を補う為の女性進出、連合国でも見られるね。この大戦で、物資に不自由しなかったのは唯一アメリカだけ。
南方でアメリカ軍の捕虜になった人の話だけど、当時はとらえた相手がろくに情報もとれない下っ端だと分かるとこっそり闇に葬られることも少なくなかったらしいんだが
その部隊にはたまたま日本語と英語の両方話せる日系二世の方がいて、その人がうまくとりなしてくれたおかげで捕虜の身分になる事が出来たんだって。
ボロボロの体はきれいに吹き清められ、ろくに手当てされないまま化膿し蛆が沸いていた傷は軍医の手で消毒され真新しい包帯を巻いてもらった。
そして三食たっぷり出てくる食事を食べた兵士は直感的に「日本は負ける。間違いなくこの国には勝てない」と考えたんだそうだ。
そんな国となんで戦争しちゃったのかね。
実はそのアメリカも一部の資源が足りてなかったそうなので
まぁ、無理だよね
アメリカが煽ったのが原因だけどね
@@匿名希望-b9g そもそもアメリカは本来日本を攻める理由がないんですよね。日本も同じく。
しかし、当時のアメリカ大統領は中国(今の中国とは別物)こそアジアで唯一の友人たり得る国で日本はそれを害する悪意を持つ猿どもだと考えていたらしいですからね。誰の入れ知恵かな?(あれ?そう言えば北方領土問題ってどんな経緯があったっけ?)
結果として互いの首を絞めあって今現在においてもどちらも得をしない戦争になってしまいましたとさ。
@@匿名希望-b9g
したくてした訳じゃないし
しなかったら
植民地されて 終わりだ
何もしないでやられるよりな
@@毒蛙 ソ連「ルーズベルトて優生学に憑りつかれたレイシストやん、政権内部にスパイ送り込んで手玉にとったろ」
「お、日本も公家のボンボンが首相か。ブレーンにスパイ送り込んだろ」
「日米ともスパイが焚き付けたらドンパチやりおった。同志討ちのあとは共産世界の春やで」
そして戦後、戦勝国アメリカは本来やらなくてもいい戦争で日本を叩き潰したばかりに、日本が担っていった防共コストを負担することになり、朝鮮戦争、ベトナム戦争で多大な犠牲を払ったとさ
農林1号というサツマイモはすぐにとてつもなく巨大化するが甘みが薄く水っぽくとてつもなくまずい。
うちも母方が農家だったから食べ物に困った話は聞かなかった
ただ、おじいちゃんが引き上げられたときにおばあちゃんが餓え殺しにならないように
食べ物を隠しちゃったから暴れたという話を聞いたことある。
小学生の頃学校の宿題で祖父母に戦時中の話を聞くってのがあったけどじいちゃんは何も話してくれなかったな…今思うと酷な事を聞いてしまってたんだな(´・ω・` )
私の祖父はいかに軍需産業で儲けたかを語ってくれまして、殆ど成金の自慢のような話を小学校の平和学習で発表して酷く教師に怒られた記憶があります
田舎だったからか、軍需産業で儲けた工場、闇市や闇ルートで儲けた農業畜産関係者、戦争で苦労したお年寄りの差が激しく、、、教師が平和学習が指導計画どおりにいかない事にイライラしていた記憶しかないです
戦争を体験したと言っても、実際に兵士として戦場に出た方と国内で空襲にあった方とでは受け止め方に違いがあるのでしょう。
私の祖父は父方も母方も戦地に行く事なく病気で亡くなっており、当時は戦地に行くだけの健康を保つのも大変な時代だったのだなと感じました。
父は東京で空襲に遭い、志願するという友人を止めたそうです。
日本はもう負ける。我々はその後の事を考えようと。
いろいろな立場の方がいらっしゃると思いますが、その話しを聞く事が大切な事だと思います。
そして話すことができない方の思いも感じることができればと思います。
うちの祖母もそうでした…。90歳を超えた今年、「遺言と思うて聞いてくれ」と戦争体験を語ってくれました…。
当時閉口令が敷かれていて、戦地での出来事は話してはいけない、という教えが有りました。
ラドルファスマンマ
現代の平和学習で、戦場でヤバい思いをした人とか空襲でヤバい思いをした人にのみフォーカスというかなんかしら光が当たっているのが問題なような気がします
色んな立場の人がいたわけで、米軍相手に商売していた人、米国籍とか白人ハーフで苦労された人、海外に逃げた人、色々いるわけでして。。。 もちろん政府主導の平和学習なので、そして日本人の美学として?負けてる側に陽が当たるのはありがちかなぁ、って思うんですが、そういう意味では戦争勝ち組(言葉悪くてすみません!)の祖父の話を聴いて育って、なんやかんや現在ニッチとか日本は成長終わっていると狙って途上国でビジネス狙っている人間としては、
そういう極限状態で売れたビジネスモデルを研究するとか、なんかしら悲しむとか悲観するだけじゃなくて今後に活かせるプラスのものをなんかしら、って思うんです(語彙力)
昭和16年生まれの母親の話では「バッタを焼いて食べてた」って言ってたなw
わしらは確かに恵まれた時代に生まれ育っているwww
自宅で鶏を飼っていた方によると、「捕まえたバッタを糸に通して干しておいて鶏のエサにすると、良く肥って卵を毎朝産んだ」そうです…
何羽か飼っていれば、動物性タンパク質は充実していたとも解釈出来ます。
そいえば、子供の頃まで米穀手帳あったし、小学6年生の修学旅行に米持参だったな!昭和26年うまれ。大東亜戦争からの影響の残りか!
樺太生まれで南方戦線に行った祖父は、米軍が来るまでは比較的のどかで町の食堂で食べてたが、来襲後に山へ籠ってからは山岳民族の畑レベルじゃ部隊を賄えないから自身も栄養失調で倒れていたところを捕らえられたとか。
母方の祖母は疎開先が東北のお寺だから全く食に困らなかったと言ってた。
クリーニング屋の娘だった父方の祖母(大正末の生まれ)は帝大喫茶部に居た本家のお姉さんにケーキ食べさせてもらったり遠足で多摩川に梨狩りや熱海へ行き、修学旅行は京都&奈良へ一週間だった戦争初期から、東京大空襲の翌日に震災慰霊碑がある最大被災地の横網町に住む親族を探しに焼け野原の中を進んだ話まで戦時中とはいえ色々と差を感じた(ちなみに唯一焼け残った被服廠で無事に再会できたらしい)
あと、朝鮮の人が当時の日本人よりも体躯がガッシリしていたので重労働であった牛乳瓶配りをしていたと聞いた。孫世代的には戦中に牛乳あったんか!と驚いた。
爺様が妙に畑好きで、色んな作物作ってた理由がよくわかったwww
蕎麦は加熱しなくても食べられるので、蕎麦粉を水と醤油で溶いた物が蕎麦掻きとして食べられていたとか、芋やカボチャはタンパク質が無いので脚気も多かったと。あとフリマで陶器のキセルを買いました。
今のコロナ禍はこの戦時中の知恵を使えば克服できるように思う。目に見えぬ敵との戦い、旅行などに行く贅沢をするくらいなら、敵に勝つための行動を政府はなりふり構わずすべきだと思う。
赤いコウリャンを飯忘れちゃダメですぜ…(´;ω;`)
疎開体験で「田舎に疎開して嬉しかったのは芋でも食べる事が出来た事」って聞いた
小学校の時先生は山ヒルを乾かして粉末にしたものを団子にして食べてたって言ってた(戦中産まれ)
祖母が学徒動員で長崎市の某工場で被爆したけど、その事を含め戦中の事を聞く勇気は無かった(母から聞いた)
確かこの時期の百貨店って売るものが無さすぎて逆に客から家財保護預かりというサービスをしてたらしい。空襲の度に家財道具を持ち歩くのも難しいでしょうし、この時期ならではの商売ですね。
そういや、新幹線も今やコロナ騒ぎのせいで、人間でなく物資を運んでいるとか。
『戦後、強くなったのは女性と靴下』といいますが
これは一般に戦後の、新憲法体制下での女性の社会進出と化学繊維の普及を指すわけですが
今回の動画にあるように、戦中すでに事実として女性が社会を支えていたという下地と、戦中の代用繊維靴下があまりにもぼろかった(笑)という事実もこの言葉の背景にはあるのかもしれませんねw
女性の参政権が認められたり、地位が向上するのは、日本に限らず戦争に伴う産業への動員がきっかけなことが多い。戦時中、男並みに働いたんだから権利も寄越せってなるのが世界的潮流。
@@changnabe2606 イギリスの女性参政権なんかも運動自体はずっとあったんだけど直接のきっかけになったのは第一次世界大戦での女性の社会進出だといわれていますね
もっと言えば男性の参政権拡大なんかも『徴兵義務』とのバーター関係だと言えるのかもしれませんね
諏訪の御柱に女が跨がれるようになったのも男手が徴兵に引っ張られて祭の担い手が不足したからだもんな
サツマイモを食べるとオナラが出る、という認識は戦時中作られた。
単に食べ物が少ないと腸内の乳酸は殆ど吸収される。
乳酸が無くなるとメタン細菌が活性化し、二酸化炭素とアンモニアから気体窒素とメタンが作られる。
戦時中はサツマイモばかり食べていたからそういう認識に成っただけ。
@@changnabe2606 一番強くなったのは共産主義者では。
「勝ち組」って言葉は戦時中(だったかな?)と今とじゃ意味が違ってて、昔の意味だと「日本が負け確なのに勝つって思いこんでる人たち」のことで悪口だったって聞いたことありますねぇ
あと母方の爺さんは子供のころ満洲で生活してたらしい。父方のほうは長崎在住だったみたい(亡くなるまでずっと長崎在住)
Y S 有名なのはブラジルの日系人の話じゃないですか?
政府が勝手に総力戦へ進めたみたいな論調だけど、元はと言えば、初戦連勝に酔った国民が当時のマスコミ(新聞)と一緒になってイケイケドンドンだったはず。だから終戦記念日に、当時の年寄りが出て来て「昔は大変で」とか言い出すとちょっと複雑な気持ちになる。
そもそも軍部が戦果を改竄して、大本営発表するような悪質極まりない行為しなければ良かったのではwww
国民が情報を取捨選択できる立場であったならその主張もわかるけど…
陛下にすら正しい情報が伝わってない状況でどこまで正確な判断ができたのかは疑問だなぁ
@@ヴィオ-w3c 戦時中に情報統制をするのは至極当たり前のこと。平時と戦時は違う。
@@link0shin
誰が情報統制について書いてるんだよ?
お前は日本語が読めないのか?
コロナ禍でのオリンピック開催についての既存メディアの報道姿勢の忖度ぶりで多少追体験出来ますね
雑炊は好きだけど、毎日しかも生きるために量を重視につくるための雑炊は飽きるだろうし、もっと他のが欲しいと思う。好きなものを好きなように食べられる今が本当に幸せ。火垂るの墓で、雑炊飽きたと言っていた気持ちもわかる。
いつも投稿お疲れ様です。復員もあったので戦後の初期の方が食糧事情は厳しいのですね。お金を出せば物が買えるし、自由に届く。平和に暮らせるというのは有難いことなのですね。
ウチの曾爺さんや婆さんは戦時中に東京にいたけど、曾爺さんが軍需関連の仕事をしていたおかげで軍事物資の横流しがあって生き延びたそうな。当時の女学校の写真を見ると、みんなガリガリに痩せていたのにウチの婆さんだけブクブク太っていたと聞きました。今も太っているが…
ひでぇ婆さんだな
Q.食糧難だったんでしょ?
A.別に
Q.空襲あったんでしょ?
A.燃えてたねえ
Q.アメリカ軍人がチョコレート投げてたんでしょ?
A.外人は見たことない
これが田舎だ!
やっぱ田舎は最高やな!
都会と田舎の農家ではかなり状態はかわってましたね。じいちゃんはそれなりの町だったのでひもじかったし、空襲で爆撃機は飛んでくるわ艦載機が飛んできて機銃掃射は受けるわと語ってました。
ばあちゃんは田舎の農家だったのであまり食べるのには困らなかったとの事、まぁ米はあまり食べれなかったみたいですが…空襲はあっちの方向が赤いからあの町が燃えてる、今日はあっちの方向だからあの町だ〜って言ってた。
もう一人のばあちゃんはすいとんキライって言ってましたね、散々嫌な思いしたんでしょうね。
もう一人のじいちゃんは鉄道敷設の為にビルマに従軍してました。物資はろくに無かったんでしょうけど
関西の小都市に住んでいた戦中生まれの両親はリーマン家庭ながら軒先で鶏やウサギを飼って食事の足しにしていたけど、ウサギはなかなか死ななくて祖父が大変そうだったって。
んで父は80歳過ぎた今でも鶏は食べられない。
やっぱり服より食べ物が一番鮮烈な記憶みたい。
それでも結局疎開することになって、辛い思いをしたらしい。
だから「火垂るの墓」は他人事じゃないしフィクションでもない。
後期高齢者になってもパフェとか派手な甘味が大好きで、外食のたびに嬉々として注文している両親を見ると本当に平和はありがたいと思う。
金属製の日用品は回収されても武器にされず放置されたり、終戦直後に軍人たちが物資を全て盗んだりと、胸糞なことが多発した。
徳富蘇峰の終戦日記に書かれてた。
頭が平和な団体「戦争の悲惨な経験を伝え、二度と戦争しない教育をします!」
ワイ「ふーん?で君らのいう戦争の定義と、発生要因、など教えてよ?」
お花畑「??武器をもって戦うこと?」
教育してるやつらが戦争定義も起こる原因もわかってないのに、反戦教育が役に立つかよ
お花畑は分かってて言ってそう。
うん、うん、まさにその通りですね。
こちらからの侵略しか戦争が無いと思考停止してる節があるよね。
総力戦の戦争の悲惨な実態さだけをクローズアップしすぎてその原因に考察が及ぶ余地が少ないのは似たような失敗を繰り返す危険がありますよね。
広島、長崎に落とされた原爆も全く戦争してない平和な国の都市に突然爆弾を落とされたごとく今現在の倫理観で断罪している感じだし、自分達自身が戦争をやらかした揚げ句、間接的に広島、長崎の市民を死に追いやったと言う事実が抜けてるんじゃないかと思う毎年8月の報道やメディアありませんか?
「戦争は絶対にイカン‼…」とか「戦争の悲惨さを後世に伝える」はそこで思考停止して肝心の真の原因追及が薄まるので今現在となっては慎重に扱うべき言葉なのではないのかな~と思う(-_-)…
まあ、実体験された世代の方々や戦後すぐの世代の方々はやむを得ないとしても、平和で豊かな戦後産まれの我々の世代はそれではいけないですよね。
それこそあの戦争で死んでいった人々に対して申し訳がたたないのではないかと…。
また変なのが湧いて来た
田舎だったから周りはみんな農家で白い米の入った弁当を食べていたのに、自分1人だけジャガイモ弁当だったから学校行くのが嫌だったって、じいちゃんが言ってなぁ。
終戦の年に18で徴兵されたけどすぐ終戦になって助かった祖父は軍隊生活は辛かったけど腹いっぱい飯が食えたのは嬉しかったと言っていた。当時恋人だった祖母は太って帰ってきてがっかりしたと語っていた。まあ軍隊も時と場所によって食糧事情は大分違ったんだろうけど
私の実家では納品時に物々交換で金の代わりに米を貰っていたので米に全く困っておらずむしろ分けるほどあったそうです
なので外聞を気にして弁当はワザワザ麦ごはんを別で炊いていたそうです
総力戦とは相手の総力を奪う戦いで、占領中が本番、進駐軍の支援などないどころか、進駐軍の費用は日本もちで、海外からの支援物資も止められ、食料の輸入もできなかった。
飢餓は戦後に来て、主な理由は援護復興の禁止による物流途絶。
欲しがりません 勝つまでは…
一億総火の玉
鬼畜米英
米穀通帳、1980年代まで有効だった。父親とよく配給倉庫へ行ったけど、同年代に話しても分かってもらえない。