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ゲーテの格言で自分の心を探って見たら誰でもおかしいところがあるというの あったように思います。誰でも心の中に癖があり、自己チュウに思えます。よく世界情勢はどうか、日本の行く末はどうなるのかいっても、そんなことよりも正直いえば 誰でも自分大好きで自分のことしか興味ないかも知れません(家族とかの問題はありますが おおざっぱに言わせてもらえばの話です。) アウグスティヌス「取って読め」と繰り返し隣の子供の声を聞き 、聖書開いて回心されたらしいですが、その後の活躍と影響から察すると本当に神の啓示だったかもと思ってしまいます。
ご感想ありがとうございます。人間の無力さは誰でもある程度共感できるところではありますよね。それを徹底的に突き詰めるのが人類にとって幸福なのかどうかはわかりませんが笑
アウグスティヌスさんは、自分に正直な人だったのかな?親鸞と被りますね。今回の話は、とても面白かったです。哲学者が生身の人間としてどう生きたのか?そこを、思想から探る面白さについて、ネオさんから学びました。
コメントありがとうございます。そうですね『告白』という作品は自らの在り方を神に向かって語り掛けるという作品なので、正直に語らないならば神に対してウソをつくということになりますからね。
アウグスチヌスの「告白」を山田晶訳で読んだが価値があるのは時間論だけだ!
お話し面白かったです。「告解」なんてカトリックの慣習は、「誤った意志」つまり「罪」を聖職者に告白する事で赦されると繋がるのかなと感じました。江戸時代(豊臣政権時も)キリスト教(カトリック)が禁教になり、聖職者が国外退去させられた事で、信者の方々は「神の恩寵」に預かれなくなり(自由意志による救済は無理だから)、救済されなくて苦難の道を歩んだと学びました。その際に私は、心の中で祈っているだけでは何故ダメなのかなと感じていましたが、そういった疑問が解消された気がしました。「私は徹底的に、無力な存在である。」というカトリックの背景にある人間観を知ると腑に落ちますね。
興味深いお話をありがとうございます。近世日本におけるキリスト教のあり方については私はほとんど知りませんが、ご推察のように自由意志の無力という人間観が根底にあるかもしれませんね。
アウグスティヌスはまだ古代ローマ時代😡西ローマ帝国崩壊してないからまだ中世じゃない😡
コメントありがとうございます。一般的な(あるいは世界史的な)時代区分については確かにご指摘のようにアウグスティヌスは古代人と言えるのですが、哲学史においてはもう少し緩やかと言いますか、色々な区切り方があります。たとえば年代だけでいえば、453年のアカデメイア閉鎖を以て古代哲学の終わりとする考えもあれば、8世紀や9世紀、カロリングルネサンスあたりを中世哲学の始まりとする考えもあります。他方、内容的な区切り方もありまして、キリスト教思想にかかわる哲学者を中世哲学に含めることも多々行われています。このような考え方ですと、アウグスティヌスは中世哲学の範疇に入ります。実際の書籍でも中世哲学と銘打ってアウグスティヌスを論じる例は多くあるかと存じます。したがって、今回私はこちらを採用しました。私が何の根拠もなくアウグスティヌスを中世に含めているのではないということをご理解いただければ幸いです。
@@neomin 453年から中世ならばアウグスティヌスは430年に亡くなってるのでやはり古代!キリスト教思想家=中世ならば、パウロを例に出すのは極端にしても、1世紀の使徒教父や2世紀のギリシャ教父まてもが中世になってしまう!それは流石に暴論では!あなたが無根拠に出鱈目を話してるのでは?と思って書いたわけではなく、アウグスティヌスって中世だよねっていう一定の風潮に一石を投じたいのです私は。
ご返信ありがとうございます。アウグスティヌスを中世に含めるという風潮に違和感があるということですね。それは確かにおっしゃるとおりで、したがってアウグスティヌスや、いわゆる教父哲学を古代末期に含めるという考え方ももちろんあります。教父哲学は「のちの中世哲学の前提となる思想」という説明の仕方がもっとも穏当で正確かもしれませんね。
ゲーテの格言で自分の心を探って見たら誰でもおかしいところがあるというの あったように思います。誰でも心の中に癖があり、自己チュウに思えます。よく世界情勢はどうか、日本の行く末はどうなるのかいっても、そんなことよりも正直いえば 誰でも自分大好きで自分のことしか興味ないかも知れません(家族とかの問題はありますが おおざっぱに言わせてもらえばの話です。) アウグスティヌス「取って読め」と繰り返し隣の子供の声を聞き 、聖書開いて回心されたらしいですが、その後の活躍と影響から察すると本当に神の啓示だったかもと思ってしまいます。
ご感想ありがとうございます。人間の無力さは誰でもある程度共感できるところではありますよね。それを徹底的に突き詰めるのが人類にとって幸福なのかどうかはわかりませんが笑
アウグスティヌスさんは、自分に正直な人だったのかな?親鸞と被りますね。今回の話は、とても面白かったです。哲学者が生身の人間としてどう生きたのか?そこを、思想から探る面白さについて、ネオさんから学びました。
コメントありがとうございます。そうですね『告白』という作品は自らの在り方を神に向かって語り掛けるという作品なので、正直に語らないならば神に対してウソをつくということになりますからね。
アウグスチヌスの「告白」を山田晶訳で読んだが価値があるのは時間論だけだ!
お話し面白かったです。「告解」なんてカトリックの慣習は、「誤った意志」つまり「罪」を聖職者に告白する事で赦されると繋がるのかなと感じました。江戸時代(豊臣政権時も)キリスト教(カトリック)が禁教になり、聖職者が国外退去させられた事で、信者の方々は「神の恩寵」に預かれなくなり(自由意志による救済は無理だから)、救済されなくて苦難の道を歩んだと学びました。その際に私は、心の中で祈っているだけでは何故ダメなのかなと感じていましたが、そういった疑問が解消された気がしました。「私は徹底的に、無力な存在である。」というカトリックの背景にある人間観を知ると腑に落ちますね。
興味深いお話をありがとうございます。近世日本におけるキリスト教のあり方については私はほとんど知りませんが、ご推察のように自由意志の無力という人間観が根底にあるかもしれませんね。
アウグスティヌスはまだ古代ローマ時代😡
西ローマ帝国崩壊してないからまだ中世じゃない😡
コメントありがとうございます。一般的な(あるいは世界史的な)時代区分については確かにご指摘のようにアウグスティヌスは古代人と言えるのですが、哲学史においてはもう少し緩やかと言いますか、色々な区切り方があります。
たとえば年代だけでいえば、453年のアカデメイア閉鎖を以て古代哲学の終わりとする考えもあれば、8世紀や9世紀、カロリングルネサンスあたりを中世哲学の始まりとする考えもあります。
他方、内容的な区切り方もありまして、キリスト教思想にかかわる哲学者を中世哲学に含めることも多々行われています。このような考え方ですと、アウグスティヌスは中世哲学の範疇に入ります。実際の書籍でも中世哲学と銘打ってアウグスティヌスを論じる例は多くあるかと存じます。したがって、今回私はこちらを採用しました。私が何の根拠もなくアウグスティヌスを中世に含めているのではないということをご理解いただければ幸いです。
@@neomin 453年から中世ならばアウグスティヌスは430年に亡くなってるのでやはり古代!
キリスト教思想家=中世ならば、パウロを例に出すのは極端にしても、1世紀の使徒教父や2世紀のギリシャ教父まてもが中世になってしまう!それは流石に暴論では!
あなたが無根拠に出鱈目を話してるのでは?と思って書いたわけではなく、アウグスティヌスって中世だよねっていう一定の風潮に一石を投じたいのです私は。
ご返信ありがとうございます。アウグスティヌスを中世に含めるという風潮に違和感があるということですね。それは確かにおっしゃるとおりで、したがってアウグスティヌスや、いわゆる教父哲学を古代末期に含めるという考え方ももちろんあります。
教父哲学は「のちの中世哲学の前提となる思想」という説明の仕方がもっとも穏当で正確かもしれませんね。