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弟が優秀だと、例え本人にその気が無くとも、上杉謙信のケースのように「凡庸な兄より弟の方を当主に」と周りが担ぎ上げ、お家騒動に発展する事が多い。そうならないよう、弟としての分を弁え、兄のサポートに徹するのも才能の一つ。
@黒いみWikiさん 父親から家督を譲られる予定だったのに晴信に味方して父親追放するぐらいだからね
香宗我部親泰も兄・元親を助けた優秀な弟
武田信繁と豊臣秀長。このどちらか一人が長生きしてたら、歴史はかなり変わってたと思う。
三好長慶の弟の、三好実休(義賢)が頭に浮かんだ
安宅冬康は?
@@織田上総介三郎信-j5z なんなら全員優秀ってことで
確かに、実休の戦死後三好は傾いて行った気がします。
@@松ちゃん工房 もしかしたら十河の死が全てを狂わしたのかもしれない
@@matukawatositane 運命はこの信長を味方する
秀長が一番好き
島津は次男義弘の勇猛さや活躍ばかりが目立つが、長男義久や他の兄弟も優秀だった事が今日伝わる“島津最強伝説“を生んだと言っても良い
普通なら、義久にとって最大のライバルである義弘にあらぬ嫌疑をかけて、真っ先に討ってもおかしくないのが戦国の世ですからね。
@@hiiro1967 優秀な弟達に嫉妬せず、反心を抱かせなかった義久の器が大きかったんだしょうね。
上杉謙信、毛利元就、今川義元も本来は家督を継ぐ予定ではなかった優秀な弟がいるのは兄にもしものことがあった場合、本当に有利です
徳川幕府の2代将軍秀忠もその子である3代家光も、戦乱の世であれば家督継承は無かっただろうな
後、前田利家や島津忠恒もですね。
真田昌幸(三男)自身も優れた弟なんだよなぁ
戦国では無いし、母親も違うが徳川家光は保科正之を大信頼しており良き兄弟関係だったとか。
なお、忠長笑
@@GHQ-gl1qx 残念な弟代表格笑笑
北条氏照、氏邦、氏規三兄弟がいないのが残念。
ホントですね。あと祖父世代でも北條氏綱の弟で玄庵がいるなど、一族がみな有能ですね。
残念でなりません。
やっぱ秀長、両川、義弘は外せないよな
優秀な弟に叔父としても活躍してくれたら秀長・信繁・忠吉
武田典廐信繁が、特に秀逸ですね。個性的な兄と名門の誇り高き親類衆や家臣のパイプ役を担った重要人物‼️謙信公もその死を惜しんだらしいですね。
毛利は穂井田元清や天野元政、小早川秀包といった、両川以外の弟たちも名将との評判が高いですね。特に秀包。あと、三好長慶、三好実休、安宅冬康、十河一存の4兄弟もなかなかに出来人揃いだと思います。
最近、別のチャンネルで知ったけど、北条早雲の弟、伊勢弥次郎もなかなかの武将のようです。
ユキムラチャンネルですね!
ありがとうございます。
島津家は凄いよね四兄弟もそうだけど従兄弟の島津忠長もまた優秀な武将で家臣達も猛将や知将などがそろった強者ぞろいばっかだから好きだね
武田信玄には信繁の下にもう一人の弟、信廉(のぶかど)がいました。顔が信玄に似ていたため、影武者を務めることがあり、信玄が三方原の戦い後に急死した際にも影武者を務め、信玄の死を隠したそうです。
ただ武田信廉は甲州征伐の際、拠点の大島城を守らずに退去してるのがマイナスだな。
@堂島大吾(1988) 勝頼から見て、頼れる優秀な弟ですよね。
@@kobannekoni4577 というより、甲州征伐でまともに織田に抵抗したのは仁科盛信くらいでしたね・・・
小牧長久手の戦いで局地戦ではありますが甥の秀次が家康に敗れ秀吉は大激怒 その時秀長が秀次を庇い咎を受けることはなかったのですが 続く紀州征伐で秀長は秀次のために後見として力を貸して信頼を回復させてますよね 秀吉を怒らせ秀長にとりなしを依頼して事なきを得た人達も多かったでしょうね
秀長が死んだと聞いて、家康は内心大喜びだったのではないかと思う。
@@Okuhiro.Ochiki 秀吉「ま、まだ前田利家がいるから大丈夫!!」
戦国時代以外なら、頼朝&義経、高氏&直義も捨て難い
霊山城主さんだ。
北条氏規を推したい
島津は義久、義弘、歳久、家久の4兄弟全部優秀だからなあおまけに祖父の日新斎、父親の貴久、義弘の息子の忠恒、家久の息子の豊久・・・おまけに幕末まで生き残るまさに暗君なし!
個人的には豊臣秀長や高台院が脇固めていたことが、豊臣秀吉の大きな幸運の一つだと思っています。動画に出ていない弟と言えば、前田利家や真田昌幸もそう。彼らは家督を継いでいますが。後徳川秀忠は結城秀康の弟と言う紹介より、松平信康の弟の方がよかったな。
そうですね信康の弟という方がコンセプトにあっていましたねまたは、秀忠の弟、松平忠吉の方で話もできます家康の後継者として秀忠と共に秀康と共に名前が上がり、唯一の秀忠の同母弟であるとか途絶えた家康の叔母の家を継ぎ、清洲、尾張と織田家のイメージを払拭したとか、井伊と共に一番やリをしたとか没したあと他の弟が尾張に入ったとか話はあります
知名度は決して高くないけど「優秀な兄弟」というなら他の方も書かれている北条氏規かな。有能な武将というだけでなく先見の明があったという点。他の兄弟が切腹だったのに彼は敵側からも「殺すには惜しい人物」ということで命が助かり、彼の子供はのちに一万六千石の大名に取り立てられた。最後の北条宗家の当主氏直は結局早くなくなっているから彼がいなかったら小田原北条氏は滅んでいたと思う。
たしか大阪狭山に移されたのでしたっけ、北条氏規は。
@@土屋真一-r1p 、そうですね。最終的に一万石になっています。その子の氏盛が藩祖となっています。
宗瑞公、氏綱公、氏康公と共に好きな人物です。
このタイトルを見て、そういえば秀忠も弟だからいるかなと思っていたら当たった。
@堂島大吾(1988) 同じ立場の人は歴史上何人かいる。井伊直弼も14男で藩主になったけど、兄の中に家臣の養子になった人がいたから結果的に兄が家臣の立場になった。
@堂島大吾(1988) 当時は分家の養子になった兄がいたのに何故か宗春が後を継いだ。だから兄が分家当主で弟が本家当主になった。
野暮なことですが、真田信繁(源次郎)は側室の子だったから次男になったのであって、信之(源三郎)よりも早く生まれた説もありますね。
秀長かなあ 羽柴家の名番頭のような人物で秀吉がまだ一定の理性を保てたのもこの人がいたから。秀吉の死後も存命なら三成のような官吏が幅をきかすこともなかったかもしれないし、大きく歴史は変わったと思う。
秀長が生きていたら、豊臣家をまとめあげ、福島正則、加藤清正らも動揺しなかったでしょう秀次も生きていただろうから秀秋もあういう行動はとらないでしょう結局、家康も時期を待つしかなかったと思います
島津義弘一択、最強の弟。毛利三兄弟は仲が悪いと言われたから確かに秀長はわかる。真田信繁は普段は優しく無口なおじさんで外見も冴えない、しかし戦場に出たら180度人が変わったとか。(十勇士は講談の嘘だけど)
上杉謙信が無いのが意外でした
真田左衛門佐幸村(源二郎)が好き
豊臣秀長の経歴を見ると、血縁ゆえのお飾りの大将ではなく、軍務・政務・外交交渉と本当に働きまくっている。40代半ばからすでに病気がちだったのは、過労の影響も大きいんじゃないでしょうか。
兄より優秀な弟だとぉ!
武田信繁と豊臣秀長の生死は一族の命運が…。😅あと時代は違いますが、楠木正成の弟の正季も優秀でしたよね❗️👍
武田信繁は父信虎が兄晴信を廃嫡したがっていても躊躇なく晴信に従っていた姿が特に好き。小早川隆景は豊臣家の大老の一人だったのに何故か触れられなかったのがちょっと残念。兄を支えた弟ってなると結構な人数になると思いますが、終始兄を支えてきたってなると今回の動画はかなり良かったけど、真田信繁と徳川秀忠は何か違う気がする。まだ後北条家だったり三好家を入れてたほうが今回のテーマ的には良かったんじゃないかな?
当主に対して弟だからこそ可能だった働きがあるんだと思う。今回名前が上がった武将は弟って枠じゃなくても大人物として取り上げられて然るべき。
同じ弟でも、武田信廉と武田信繁では大きく異なる。やはり、信繁の戦死は武田家にとって本当に痛手だったはず。分を弁えて自分の役割に徹した信繁には高評価です。
優秀な弟といえば『私』の名が挙がるのは当然ですね。知勇兼備・義・仁・孝…人徳もあった希有な武将。川中島で散らなかったら…信玄公以降も遺臣と勝頼ら諏訪衆との緩衝材として家臣団をまとめ長篠も戦いを避けただろう。
さすが真の武士<もののふ>。。。
長篠の場合は戦わざるを得ないと私は思ってます。勝頼が家督継承した前後の武田家の状況信玄が信長に謙信との和睦仲介を頼んでおきながら家康を攻めた為に信長を謙信への手紙に「武田とは金輪際手を結ばない」と書く程に激怒させたらしいから、外交での織田との関係修復は無理。その為、織田から鉄砲や鉄砲の弾を作る為の鉛、鉄砲を使う為に必要な火薬の原料、硝石が手に入りにくくなる経済封鎖を受けている。徳川との関係修復も三方ヶ原の戦いや信玄と家康が共同で今川を攻めた際の今川領を分ける時の約束を信玄が欲を出して破った為に無理(家康も武田に無断で今川と和睦したり、上杉や北条と結んで武田包囲網を作ろうとしたり、信長に武田と手を切るように何度も求めていたらしいからどっちもどっちだが)。浅井家、朝倉家が滅ぼされ、伊勢長島の一向一揆が鎮圧されて武田と対織田で連携できる相手がいなくなっている。 本願寺顕如がまだ畿内で織田と争っているようだが、敗れるのは時間の問題。こんな状況の中で長篠の戦いを避けても、家康はともかく信長は家康の援軍要請に応えて長篠城防衛に成功したからそれでよしとし、「武田は織田・徳川の後詰めが来ただけで恐れをなし、戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出した腰抜け」と喧伝してくるでしょう。そうなったら三河や遠江、東美濃の国衆達に「武田に味方しても自分達が織田や徳川に攻められたら尻尾を巻いて逃げる。 一方で徳川は奥平の後詰めに織田と一緒に来てくれた。 しかも奥平は武田の城攻めに耐えた。 武田は頼りにならない上に弱い。 ならば自分達も奥平と同様に織田や徳川に味方した方が得になりそうだ」と思われ、国衆達が武田から離反していたでしょう。甲斐や信濃の国衆達も信玄や信虎、それ以前からの重税(「お金の流れで見る戦国時代」という現代の本や、「妙法寺記」という古文書に書かれている)で困窮する中わざわざ遠征したのに、戦果無しに撤退したのでは恩賞が貰えない。戦の費用は家臣や国衆達の負担であり、その出費を取り返す為に城下町や村で乱取りをしたり、人を攫って売り飛ばすのにそれができなくなる。 しかも武田領の金山は当時の技術ではほとんど金が取れなくなるほど掘り尽くしていたらしいから、家臣や国衆達の出費を補填できない。山県昌景や馬場信春らも、武田信廉や穴山梅雪らも陪臣(家臣の家臣)や兵として動員する領地の民に恩賞を出さなければならない立場であり、自分達が恩賞を貰えなかったり、乱取りを許可する事ができなければ、陪臣や民達に恩賞を与える事ができない。 そうなったら陪臣や民達から武田家に対する不満が出る。当時の武士達は面子や血筋を重んじる者が多かったらしい。 しかも武田家は鎌倉時代から続く甲斐源氏の名門。 一方で信長の織田家は元は守護代の家臣筋、徳川も三河の土豪出身。 武田から見たら織田や徳川は素性の怪しく身分も低い卑しくて格下の家柄の相手。そんな相手に戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出したと喧伝されたら、武田家だけでなく家臣や国衆達の面子も丸潰れになってしまう。長篠で撤退していたら、「重税で生活が苦しい中わざわざ遠征したのに何の恩賞も無しか。 これじゃあ俺や陪臣、民達はどうやって食べていけばいいんだ。 しかも戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出したと素性の怪しく卑しい家柄の織田や徳川に喧伝されて俺達の面子は丸潰れだ。 戦っていれば勝って乱取りできたのに」と風にお金の無駄遣い、骨折り損のくたびれもうけに終わった家臣や国衆達が不満を抱いて何をしでかすか分からない。今後出兵に応じなくなるかもしれない、反乱を起こすかもしれない、別の武田家の人間を担ぎ出して勝頼を追放するか殺そうとするかもしれない、史実より早く織田や徳川に寝返る者が出てくるかもしれない。そうして武田領に大混乱が生じたらその隙をついて織田や徳川、更には上杉や北条に侵攻されて武田家が史実より早く滅亡する事になったかもしれない。仮に撤退して国衆達の離反が加速しなかったとしても、武田と織田の国力差は更に開いて大きくなる一方。 仕切り直した時には今以上に領土を広げて国力を上げた織田が今以上の兵を率いて徳川の後詰めに来るかもしれない、それどころか織田の方から武田領に侵攻してくるかもしれない。 そうなったら徳川も呼応して侵攻してくるからもう打つ手はない。先述したように信玄の行動のせいで周辺諸国の武田家への信用は地に落ち、国力差が隔絶している織田家と敵対してしまい経済封鎖を受けていて、浅井家、朝倉家が滅ぼされ、伊勢長島の一向一揆が鎮圧されて武田と対織田で連携できる相手がいなくなっている状況を打開するにはやはりまだ織田が畿内で本願寺勢力と戦っていて、武田相手に全軍を向ける状況ではない今のうちに信長や家康を討ち取る、討ち取れずとも織田・徳川軍に痛手を与えて、「織田など恐れるほどの相手ではない」と喧伝しなければならなかったと思います。信繁が生きていたらそれを理解し、なんとか織田相手に痛手を与える方法を模索すると思います。そもそも義信事件が起きなかったかもしれないし、義信事件が起きたとしても、勝頼への権威付けや権力移譲をしっかり行うように信玄に進言していたでしょうね。 それと同時に自分の息子である信豊への権力移譲も進めるとかしているでしょう。
内藤宗勝とか?義弘は優秀すぎて最後の方は島津に3人当主がいるみたいな状態になってしまったのがなぁ
松永久秀の出世も「弟(宗勝=松永長頼)の七光り」みたいに言われることがありますしね。
『弟』オールスターで軍団作ったら『信長の野望』でも即、全国制覇やね。
伊勢北条家を取り上げて欲しかったですな。
豊臣秀長は優秀ですよね〜
秀忠は弟だけど実質嫡子扱いだからちょっと違うかと。
実質的には嫡男ですねその息子家光の弟忠長は優秀でしたが兄に疎まれました。
家康の子で有能と言えば結城秀康でしょ。家康からの扱いは酷くて凄く可哀想だけど。長男信康も。
上杉房能
北条早雲の四男がいるじゃん!
個人的には朝倉宗滴かなぁ
足利尊氏も弟が優秀だったような
直義は優秀過ぎて最期尊氏に毒殺されてます。
直義は優秀だったけど、高師直と政争してしましたのがちょっと・・・・
戦国時代の優秀な弟と聞いてパッと思いつくのは豊臣秀長かなぁ
織田信忠「優秀な弟が居る方々を羨ましく思う次第」
信孝は優秀
立花宗茂の弟の高橋統増もぜひ
ワイの十河一存は……
前田利家は出世したな。
てんきゅうすきええ
元春と隆景ばかり言われて悲しいかな。保井田元清の事は誰も言わない…(幸村ばかりで勝永は誰も言わない的なノリで) 勝頼も間が悪くなければ義信に尽くした弟枠に乗ってたんかねぇ。真田信伊(昌幸の弟)も深沢城攻めで北条綱成の旗指物奪ったり上杉や徳川に潜り込んだりなのに地味(誉め言葉) 昌幸も三男だからある種弟枠でもあるし、矢沢頼綱も弟枠よね(幸隆…幸綱の弟)
真田信尹は早くから家康に従っていましたが、あまり出世できず旗本どまりでしたね。勝頼は、まず家督譲ろうとしなかった信玄が悪いとも思えます。
家光の弟保科正之が入っていない。
正之は世界史レベルでも希少な「庶子でありながら兄からその息子の将来を託され、政権簒奪はもちろん傀儡化もせずに政権を盤石にしたうえで自身は一家臣として生涯を終えた」という英傑で江戸時代初期の人だからね。
僕の中ではダントツで古典厩信繁。川中島での戦死がなければその後の嫡男義信の叛乱も長篠の敗戦も武田家の滅亡もなかったと思われます。早すぎる死が惜しまれます…🥺
信玄の弟である信繁が川中島で討ち死にしなかったら、間違いなく、義信事件は起きていなかったと思う。きっと信玄を諫め、義信に自害の道を選ばせるまでに、追い詰めることもなかったはず。秀吉の弟である秀長が病死しなかったら、間違いなく、秀吉陣営から官兵衛や小六が離れることはなかったと思う。秀吉だけでなく、三成や淀殿のストッパーになりえたのは間違いない。そうすると、少なくとも、家康存命中に関ヶ原は起こらなかった可能性が高いと思う。毛利三兄弟の末っ子、隆景があと1年長生きしていれば、輝元は間違いなく西軍総大将にはならなかった。三成からの誘いを断り、多分、毛利のために老体に鞭打ち、秀秋ではなく自らが参陣したはず。そうすると秀秋の裏切りも起こらず、関ヶ原は膠着状態になったはず。で、そうこうしているうちに、九州から官兵衛軍が関ヶ原に到着して、また戦国時代に逆戻りになっていたのではないか。
秀長、信繁が2人が飛び抜けてると思う元春、隆景の弟2人は最強の2人じゃないかな隆景にあともう少し長生きしていれば関ヶ原はなく徳川の時代がこんなすんなりこなかったろうな。。島津に関しては兄弟全員チートだからなぁ、、特に天才家久はお兄ちゃん3人が本当に上手く接したって感じ
ほとんど同感なのですが、どっちの信繁なのでしょう?武田、真田、二人いますからね。
@@hana_no_wemahi 武田の方です^_^真田も、すごいけどなんか一発屋なんで、笑笑
@@りょう-d6d 完全に同意します。真田信繁は兄と家の為ではなく、父の遺志に従って行動し、その名声を残してますからね。勿論それも凄いことですが。
@@hana_no_wemahi 真田信繁が大人気だけど普通に考えたら父親の方が数倍すごいんで、、笑笑
@@りょう-d6d これもまた完全に同意見です。私は真田昌幸が大好きです。信繁(幸村)も好きですけどね。
全然解説してないの草
この人歴史などは全く知らない長子相続は江戸時代に入ってからの事戦国時代は長子相続ではない親が決めては重臣たちが反対したなら長子相続は無理ほとんどが全く歴史も知らない人間笑いました。
弟が優秀だと、例え本人にその気が無くとも、上杉謙信のケースのように「凡庸な兄より弟の方を当主に」と周りが担ぎ上げ、お家騒動に発展する事が多い。そうならないよう、弟としての分を弁え、兄のサポートに徹するのも才能の一つ。
@黒いみWikiさん
父親から家督を譲られる予定だったのに
晴信に味方して父親追放するぐらいだからね
香宗我部親泰も兄・元親を助けた優秀な弟
武田信繁と豊臣秀長。このどちらか一人が長生きしてたら、歴史はかなり変わってたと思う。
三好長慶の弟の、三好実休(義賢)が頭に浮かんだ
安宅冬康は?
@@織田上総介三郎信-j5z なんなら全員優秀ってことで
確かに、実休の戦死後三好は傾いて行った気がします。
@@松ちゃん工房 もしかしたら十河の死が全てを狂わしたのかもしれない
@@matukawatositane 運命はこの信長を味方する
秀長が一番好き
島津は次男義弘の勇猛さや活躍ばかりが目立つが、長男義久や他の兄弟も優秀だった事が今日伝わる“島津最強伝説“を生んだと言っても良い
普通なら、義久にとって最大のライバルである義弘にあらぬ嫌疑をかけて、
真っ先に討ってもおかしくないのが戦国の世ですからね。
@@hiiro1967 優秀な弟達に嫉妬せず、反心を抱かせなかった義久の器が大きかったんだしょうね。
上杉謙信、毛利元就、今川義元も本来は家督を継ぐ予定ではなかった
優秀な弟がいるのは兄にもしものことがあった場合、本当に有利です
徳川幕府の2代将軍秀忠もその子である3代家光も、戦乱の世であれば家督継承は無かっただろうな
後、前田利家や島津忠恒もですね。
真田昌幸(三男)自身も優れた弟なんだよなぁ
戦国では無いし、母親も違うが徳川家光は保科正之を大信頼しており良き兄弟関係だったとか。
なお、忠長笑
@@GHQ-gl1qx 残念な弟代表格笑笑
北条氏照、氏邦、氏規三兄弟がいないのが残念。
ホントですね。あと祖父世代でも北條氏綱の弟で玄庵がいるなど、一族がみな有能ですね。
残念でなりません。
やっぱ秀長、両川、義弘は外せないよな
優秀な弟に
叔父としても
活躍してくれたら
秀長・信繁・忠吉
武田典廐信繁が、特に秀逸ですね。
個性的な兄と名門の誇り高き親類衆や
家臣のパイプ役を担った重要人物‼️
謙信公もその死を惜しんだらしいですね。
毛利は穂井田元清や天野元政、小早川秀包といった、両川以外の弟たちも名将との評判が高いですね。特に秀包。
あと、三好長慶、三好実休、安宅冬康、十河一存の4兄弟もなかなかに出来人揃いだと思います。
最近、別のチャンネルで知ったけど、北条早雲の弟、伊勢弥次郎もなかなかの武将のようです。
ユキムラチャンネルですね!
ありがとうございます。
島津家は凄いよね四兄弟もそうだけど従兄弟の島津忠長もまた優秀な武将で家臣達も猛将や知将などがそろった強者ぞろいばっかだから好きだね
武田信玄には信繁の下にもう一人の弟、信廉(のぶかど)がいました。
顔が信玄に似ていたため、影武者を務めることがあり、信玄が三方原の戦い後に急死した際にも影武者を務め、信玄の死を隠したそうです。
ただ武田信廉は甲州征伐の際、拠点の大島城を守らずに退去してるのがマイナスだな。
@堂島大吾(1988) 勝頼から見て、頼れる優秀な弟ですよね。
@@kobannekoni4577 というより、甲州征伐でまともに織田に抵抗したのは仁科盛信くらいでしたね・・・
小牧長久手の戦いで局地戦ではありますが甥の秀次が家康に敗れ秀吉は大激怒 その時秀長が秀次を庇い咎を受けることはなかったのですが 続く紀州征伐で秀長は秀次のために後見として力を貸して信頼を回復させてますよね 秀吉を怒らせ秀長にとりなしを依頼して事なきを得た人達も多かったでしょうね
秀長が死んだと聞いて、家康は内心大喜びだったのではないかと思う。
@@Okuhiro.Ochiki 秀吉「ま、まだ前田利家がいるから大丈夫!!」
戦国時代以外なら、頼朝&義経、高氏&直義も捨て難い
霊山城主さんだ。
北条氏規を推したい
島津は義久、義弘、歳久、家久の4兄弟全部優秀だからなあ
おまけに祖父の日新斎、父親の貴久、義弘の息子の忠恒、家久の息子の豊久・・・おまけに幕末まで生き残るまさに暗君なし!
個人的には豊臣秀長や高台院が脇固めていたことが、豊臣秀吉の大きな幸運の一つだと思っています。
動画に出ていない弟と言えば、前田利家や真田昌幸もそう。彼らは家督を継いでいますが。
後徳川秀忠は結城秀康の弟と言う紹介より、松平信康の弟の方がよかったな。
そうですね
信康の弟という方がコンセプトにあっていましたね
または、秀忠の弟、松平忠吉の方で話もできます
家康の後継者として秀忠と共に秀康と共に名前が上がり、唯一の秀忠の同母弟であるとか
途絶えた家康の叔母の家を継ぎ、清洲、尾張と織田家のイメージを払拭したとか、井伊と共に一番やリをしたとか
没したあと他の弟が尾張に入ったとか
話はあります
知名度は決して高くないけど「優秀な兄弟」というなら他の方も書かれている
北条氏規かな。有能な武将というだけでなく先見の明があったという点。
他の兄弟が切腹だったのに彼は敵側からも「殺すには惜しい人物」ということで
命が助かり、彼の子供はのちに一万六千石の大名に取り立てられた。
最後の北条宗家の当主氏直は結局早くなくなっているから彼がいなかったら
小田原北条氏は滅んでいたと思う。
たしか大阪狭山に移されたのでしたっけ、北条氏規は。
@@土屋真一-r1p 、そうですね。最終的に一万石になっています。その子の氏盛が藩祖となっています。
宗瑞公、氏綱公、氏康公と共に好きな人物です。
このタイトルを見て、そういえば秀忠も弟だからいるかなと思っていたら当たった。
@堂島大吾(1988) 同じ立場の人は歴史上何人かいる。井伊直弼も14男で藩主になったけど、兄の中に家臣の養子になった人がいたから結果的に兄が家臣の立場になった。
@堂島大吾(1988) 当時は分家の養子になった兄がいたのに何故か宗春が後を継いだ。だから兄が分家当主で弟が本家当主になった。
野暮なことですが、真田信繁(源次郎)は側室の子だったから次男になったのであって、信之(源三郎)よりも早く生まれた説もありますね。
秀長かなあ 羽柴家の名番頭のような人物で秀吉がまだ一定の理性を保てたのもこの人がいたから。秀吉の死後も存命なら三成のような官吏が幅をきかすこともなかったかもしれないし、大きく歴史は変わったと思う。
秀長が生きていたら、豊臣家をまとめあげ、福島正則、加藤清正らも動揺しなかったでしょう
秀次も生きていただろうから秀秋もあういう行動はとらないでしょう
結局、家康も時期を待つしかなかったと思います
島津義弘一択、最強の弟。
毛利三兄弟は仲が悪いと言われたから
確かに秀長はわかる。
真田信繁は普段は優しく無口なおじさんで外見も冴えない、しかし戦場に出たら180度人が変わったとか。(十勇士は講談の嘘だけど)
上杉謙信が無いのが意外でした
真田左衛門佐幸村(源二郎)が好き
豊臣秀長の経歴を見ると、血縁ゆえのお飾りの大将ではなく、軍務・政務・外交交渉と本当に働きまくっている。
40代半ばからすでに病気がちだったのは、過労の影響も大きいんじゃないでしょうか。
兄より優秀な弟だとぉ!
武田信繁と豊臣秀長の生死は一族の命運が…。😅
あと時代は違いますが、楠木正成の弟の正季も優秀でしたよね❗️👍
武田信繁は父信虎が兄晴信を廃嫡したがっていても躊躇なく晴信に従っていた姿が特に好き。
小早川隆景は豊臣家の大老の一人だったのに何故か触れられなかったのがちょっと残念。
兄を支えた弟ってなると結構な人数になると思いますが、終始兄を支えてきたってなると
今回の動画はかなり良かったけど、真田信繁と徳川秀忠は何か違う気がする。
まだ後北条家だったり三好家を入れてたほうが今回のテーマ的には良かったんじゃないかな?
当主に対して弟だからこそ可能だった働きがあるんだと思う。今回名前が上がった武将は弟って枠じゃなくても大人物として取り上げられて然るべき。
同じ弟でも、武田信廉と武田信繁では大きく異なる。やはり、信繁の戦死は武田家にとって本当に痛手だったはず。分を弁えて自分の役割に徹した信繁には高評価です。
優秀な弟といえば『私』の名が挙がるのは当然ですね。知勇兼備・義・仁・孝…人徳もあった希有な武将。川中島で散らなかったら…信玄公以降も遺臣と勝頼ら諏訪衆との緩衝材として家臣団をまとめ長篠も戦いを避けただろう。
さすが真の武士<もののふ>。。。
長篠の場合は戦わざるを得ないと私は思ってます。
勝頼が家督継承した前後の武田家の状況
信玄が信長に謙信との和睦仲介を頼んでおきながら家康を攻めた為に信長を謙信への手紙に「武田とは金輪際手を結ばない」と書く程に激怒させたらしいから、外交での織田との関係修復は無理。
その為、織田から鉄砲や鉄砲の弾を作る為の鉛、鉄砲を使う為に必要な火薬の原料、硝石が手に入りにくくなる経済封鎖を受けている。
徳川との関係修復も三方ヶ原の戦いや信玄と家康が共同で今川を攻めた際の今川領を分ける時の約束を信玄が欲を出して破った為に無理(家康も武田に無断で今川と和睦したり、上杉や北条と結んで武田包囲網を作ろうとしたり、信長に武田と手を切るように何度も求めていたらしいからどっちもどっちだが)。
浅井家、朝倉家が滅ぼされ、伊勢長島の一向一揆が鎮圧されて武田と対織田で連携できる相手がいなくなっている。 本願寺顕如がまだ畿内で織田と争っているようだが、敗れるのは時間の問題。
こんな状況の中で長篠の戦いを避けても、家康はともかく信長は家康の援軍要請に応えて長篠城防衛に成功したからそれでよしとし、「武田は織田・徳川の後詰めが来ただけで恐れをなし、戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出した腰抜け」と喧伝してくるでしょう。
そうなったら三河や遠江、東美濃の国衆達に「武田に味方しても自分達が織田や徳川に攻められたら尻尾を巻いて逃げる。 一方で徳川は奥平の後詰めに織田と一緒に来てくれた。 しかも奥平は武田の城攻めに耐えた。 武田は頼りにならない上に弱い。 ならば自分達も奥平と同様に織田や徳川に味方した方が得になりそうだ」と思われ、国衆達が武田から離反していたでしょう。
甲斐や信濃の国衆達も信玄や信虎、それ以前からの重税(「お金の流れで見る戦国時代」という現代の本や、「妙法寺記」という古文書に書かれている)で困窮する中わざわざ遠征したのに、戦果無しに撤退したのでは恩賞が貰えない。
戦の費用は家臣や国衆達の負担であり、その出費を取り返す為に城下町や村で乱取りをしたり、人を攫って売り飛ばすのにそれができなくなる。 しかも武田領の金山は当時の技術ではほとんど金が取れなくなるほど掘り尽くしていたらしいから、家臣や国衆達の出費を補填できない。
山県昌景や馬場信春らも、武田信廉や穴山梅雪らも陪臣(家臣の家臣)や兵として動員する領地の民に恩賞を出さなければならない立場であり、自分達が恩賞を貰えなかったり、乱取りを許可する事ができなければ、陪臣や民達に恩賞を与える事ができない。 そうなったら陪臣や民達から武田家に対する不満が出る。
当時の武士達は面子や血筋を重んじる者が多かったらしい。 しかも武田家は鎌倉時代から続く甲斐源氏の名門。 一方で信長の織田家は元は守護代の家臣筋、徳川も三河の土豪出身。 武田から見たら織田や徳川は素性の怪しく身分も低い卑しくて格下の家柄の相手。
そんな相手に戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出したと喧伝されたら、武田家だけでなく家臣や国衆達の面子も丸潰れになってしまう。
長篠で撤退していたら、「重税で生活が苦しい中わざわざ遠征したのに何の恩賞も無しか。 これじゃあ俺や陪臣、民達はどうやって食べていけばいいんだ。 しかも戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出したと素性の怪しく卑しい家柄の織田や徳川に喧伝されて俺達の面子は丸潰れだ。 戦っていれば勝って乱取りできたのに」と風にお金の無駄遣い、骨折り損のくたびれもうけに終わった家臣や国衆達が不満を抱いて何をしでかすか分からない。
今後出兵に応じなくなるかもしれない、反乱を起こすかもしれない、別の武田家の人間を担ぎ出して勝頼を追放するか殺そうとするかもしれない、史実より早く織田や徳川に寝返る者が出てくるかもしれない。
そうして武田領に大混乱が生じたらその隙をついて織田や徳川、更には上杉や北条に侵攻されて武田家が史実より早く滅亡する事になったかもしれない。
仮に撤退して国衆達の離反が加速しなかったとしても、武田と織田の国力差は更に開いて大きくなる一方。 仕切り直した時には今以上に領土を広げて国力を上げた織田が今以上の兵を率いて徳川の後詰めに来るかもしれない、それどころか織田の方から武田領に侵攻してくるかもしれない。 そうなったら徳川も呼応して侵攻してくるからもう打つ手はない。
先述したように信玄の行動のせいで周辺諸国の武田家への信用は地に落ち、国力差が隔絶している織田家と敵対してしまい経済封鎖を受けていて、浅井家、朝倉家が滅ぼされ、伊勢長島の一向一揆が鎮圧されて武田と対織田で連携できる相手がいなくなっている状況を打開するにはやはりまだ織田が畿内で本願寺勢力と戦っていて、武田相手に全軍を向ける状況ではない今のうちに信長や家康を討ち取る、討ち取れずとも織田・徳川軍に痛手を与えて、「織田など恐れるほどの相手ではない」と喧伝しなければならなかったと思います。
信繁が生きていたらそれを理解し、なんとか織田相手に痛手を与える方法を模索すると思います。
そもそも義信事件が起きなかったかもしれないし、義信事件が起きたとしても、勝頼への権威付けや権力移譲をしっかり行うように信玄に進言していたでしょうね。 それと同時に自分の息子である信豊への権力移譲も進めるとかしているでしょう。
内藤宗勝とか?
義弘は優秀すぎて最後の方は島津に3人当主がいるみたいな状態になってしまったのがなぁ
松永久秀の出世も「弟(宗勝=松永長頼)の七光り」みたいに言われることがありますしね。
『弟』オールスターで軍団作ったら『信長の野望』でも即、全国制覇やね。
伊勢北条家を取り上げて欲しかったですな。
豊臣秀長は優秀ですよね〜
秀忠は弟だけど実質嫡子扱いだからちょっと違うかと。
実質的には嫡男ですね
その息子家光の弟忠長は優秀でしたが兄に疎まれました。
家康の子で有能と言えば結城秀康でしょ。家康からの扱いは酷くて凄く可哀想だけど。長男信康も。
上杉房能
北条早雲の四男がいるじゃん!
ありがとうございます。
個人的には朝倉宗滴かなぁ
足利尊氏も弟が優秀だったような
直義は優秀過ぎて最期尊氏に毒殺されてます。
直義は優秀だったけど、高師直と政争してしましたのがちょっと・・・・
戦国時代の優秀な弟と聞いてパッと思いつくのは豊臣秀長かなぁ
織田信忠「優秀な弟が居る方々を羨ましく思う次第」
信孝は優秀
立花宗茂の弟の高橋統増もぜひ
ワイの十河一存は……
前田利家は出世したな。
てんきゅうすきええ
元春と隆景ばかり言われて悲しいかな。保井田元清の事は誰も言わない…(幸村ばかりで勝永は誰も言わない的なノリで) 勝頼も間が悪くなければ義信に尽くした弟枠に乗ってたんかねぇ。
真田信伊(昌幸の弟)も深沢城攻めで北条綱成の旗指物奪ったり上杉や徳川に潜り込んだりなのに地味(誉め言葉) 昌幸も三男だからある種弟枠でもあるし、矢沢頼綱も弟枠よね(幸隆…幸綱の弟)
真田信尹は早くから家康に従っていましたが、あまり出世できず旗本どまりでしたね。
勝頼は、まず家督譲ろうとしなかった信玄が悪いとも思えます。
家光の弟保科正之が入っていない。
正之は世界史レベルでも希少な
「庶子でありながら兄からその息子の将来を託され、政権簒奪はもちろん傀儡化もせずに政権を盤石に
したうえで自身は一家臣として生涯を終えた」という英傑で江戸時代初期の人だからね。
僕の中ではダントツで古典厩信繁。川中島での戦死がなければその後の嫡男義信の叛乱も長篠の敗戦も武田家の滅亡もなかったと思われます。早すぎる死が惜しまれます…🥺
信玄の弟である信繁が川中島で討ち死にしなかったら、間違いなく、義信事件は起きていなかったと思う。
きっと信玄を諫め、義信に自害の道を選ばせるまでに、追い詰めることもなかったはず。
秀吉の弟である秀長が病死しなかったら、
間違いなく、秀吉陣営から官兵衛や小六が離れることはなかったと思う。
秀吉だけでなく、三成や淀殿のストッパーになりえたのは間違いない。
そうすると、少なくとも、家康存命中に関ヶ原は起こらなかった可能性が高いと思う。
毛利三兄弟の末っ子、隆景があと1年長生きしていれば、
輝元は間違いなく西軍総大将にはならなかった。
三成からの誘いを断り、多分、毛利のために老体に鞭打ち、秀秋ではなく自らが参陣したはず。
そうすると秀秋の裏切りも起こらず、関ヶ原は膠着状態になったはず。
で、そうこうしているうちに、九州から官兵衛軍が関ヶ原に到着して、
また戦国時代に逆戻りになっていたのではないか。
秀長、信繁が2人が飛び抜けてると思う
元春、隆景の弟2人は最強の2人じゃないかな
隆景にあともう少し長生きしていれば
関ヶ原はなく徳川の時代がこんなすんなりこなかったろうな。。
島津に関しては兄弟全員チートだからなぁ、、
特に天才家久はお兄ちゃん3人が本当に上手く接したって感じ
ほとんど同感なのですが、どっちの信繁なのでしょう?武田、真田、二人いますからね。
@@hana_no_wemahi 武田の方です^_^
真田も、すごいけどなんか一発屋なんで、笑笑
@@りょう-d6d 完全に同意します。真田信繁は兄と家の為ではなく、父の遺志に従って行動し、その名声を残してますからね。勿論それも凄いことですが。
@@hana_no_wemahi
真田信繁が大人気だけど普通に考えたら父親の方が数倍すごいんで、、笑笑
@@りょう-d6d これもまた完全に同意見です。私は真田昌幸が大好きです。信繁(幸村)も好きですけどね。
全然解説してないの草
この人歴史などは全く知らない
長子相続は江戸時代に入ってからの
事
戦国時代は長子相続ではない
親が決めては重臣たちが反対したなら
長子相続は無理
ほとんどが全く歴史も知らない人間
笑いました。