No.632_城跡巡り 羽城址(愛知県碧南市)

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  • Опубликовано: 15 сен 2024
  • 2024年7月21日(日)
    羽城(はじょう)
    所 在:愛知県碧南市羽根町1丁目
    34.8773142, 136.9842305
    駐車場:なし
    別 名:大浜城、大浜古城、大浜陣屋
    【羽城】
    ⚫︎天正4年(1576)、徳川家康は舟手の要害として大浜に砦を築き、長田重元に守らせた。この城を羽城と称したのは字名の羽根がそのいわれで、東西90m、南北106mの長方形であった。西側は今では埋めたてられて海岸線も遠くなっているが、当時は海に面していた。
     この地で生まれた永井直勝が在城したが、天正12年、長久手の合戦の功で東端に移り、同18年には常陸国笠間城三万二千石に移ったので、その頃廃城になったという。
     しかし、稲熊氏の在城したという大浜古城との関係は明らかでない。
    (日本城郭大系9 272ページ)
    ⚫︎徳川家康は織田氏を助けて三河一帯を領したが、天正4年(1576)に舟手要害のため大浜に砦を築いて、長田重吉、重元兄弟に守らせた。字名の羽根が羽城の跡であると、古文書に記してある。しかし、稲熊氏の在住した大浜古城との関係ははっきりしない。羽城は、東西50間、南北60間の長方形で、四方は海に臨んだ台地上にあった。
    (日本城郭全集7 177ページより)
    【大浜古城】
    ⚫︎天文17年(1548)4月、山﨑城城主松平信孝は松平広忠にそむき、織田氏に属して岡崎城を攻めようとした。
     この時、上田兵庫元俊は明大寺において信孝勢を破り、その功績により大浜において領地を与えられた。
     翌18年10月、天野孫三郎が大浜において五十貫文を領し、その後、稲熊氏が住んだ。この時の砦を大浜古城と称した。
     永禄3年(1560)、桶狭間合戦の後、稲熊氏は加茂郡大島郷に移り、大浜古城は廃城になったという。『碧南郡誌』『三河国二葉松』によれば「初め稲熊氏之に住し、次に天文年中天野孫三郎これに拠り、五十貫文を領す、次に永井直勝又は藤井隼人これに居る」とある。しかし、城の位置や同じ大浜にある羽城との関係は、はっきりしない。
    (日本城郭大系9 271ページ)
    ⚫︎天文17年(1548)4月、上田兵庫元俊が今川義元から大浜に領地を与えられ、翌18年10月には、天野孫七郎が大浜で五十貫文を領し、のち、稲熊氏が住んだ。このときの砦を大浜古城という。永禄3年(1561)、今川義元の戦死後、稲熊氏は加茂郡大島郷に移ったので、城は荒廃したという。城の位置は判然としない。
    (日本城郭全集7 61ページより)
    ⚫︎まとめ
    天文17年(1548)4月、松平信孝勢を破った上田兵庫元俊はその功績により今川義元から大浜に領地を与えられました。この時の砦を大浜古城といい、その後、天野孫三郎、稲熊氏が住んだとされています。
    稲熊氏は、永禄3年(1560)の桶狭間合戦後、加茂郡大島郷に移ったため、大浜古城は廃城となっています。
    時は流れ、天正4年(1576)、舟手の要害として徳川家康の命により大浜に砦が築かれ、長田重元が在城していますが、この時は字名の羽根から羽城と称されました。
    城の規模は東西90m、南北106mの長方形であったと伝わります。
    ただ、大浜古城と羽城が同一なのかはっきりしていませんが、同じ場所に築かれたのではないかと考えられています。

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