三軒茶屋教会礼拝説教「救い主を礼拝する人生」2024年12月29日

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  • Опубликовано: 24 янв 2025
  • 2024年12月29日 礼拝式説教
    マタイによる福音書2章1~12節
    「救い主を礼拝する人生」
    日本ナザレン教団三軒茶屋教会
    牧師 石川博詞
    <説教から> 今年も恵みの内にクリスマスの諸々の集いを行うことができ感謝です。アドベントの礼拝式、コンサート、讃美祝会、そしてキャンドルライト・サービスと、それぞれの集まりの中で私たちは、聖書から神様の救いの良き知らせを聞きました。そうして、主なる神様が、罪人でしかない私たちをどこまでも愛していてくださっていることを知ったのです。
     しかし、私たちはただ聞いて知っただけで終わるわけにはいきません。神の独り子、救い主イエス・キリストが私たち罪人に与えられたのですから、これからの私たちの人生のあり方が問われているのです。そこで、マタイによる福音書2章から「東の方からやって来た占星術の学者たち」の決断と行動を通して、今週と次週の二度にわたり、聖霊の導きを頂いて教えられたいと思います。クリスマスの良い知らせを受けた私たちが、それにどう応答していくのか、それが私たちに今求められているからです。
     ところで、東の方から占星術の学者たちが、御子イエス様を礼拝しにやって来たことを記すこの箇所は、クリスマスの度に必ず読まれていますが、あらためて読み返しますと、本当に不思議な出来事だなと思います。そもそも彼らは星を見て、どうしてそれがユダヤ人の王の誕生だと受け止めることができたのでしょう。彼らが旧約聖書の預言書を熟知しているようには思えないのです。なぜならヘロデ王を訪ねた彼らは、イエス様がお生まれになった場所について尋ねています。ヘロデ王が祭司長たちや律法学者たちに問うて、ようやく預言書のミカ書5章1節から、その具体的な場所が「ユダヤのベツレヘム」だと明らかにされました。ということは、やはり占星術の学者たちは、ユダヤ教社会の外にいた人々であったのでしょう。旧約聖書の預言書を熟知しており、救い主が到来する日を待ち望んでいる者であるならば、わざわざヘロデ王に尋ねるまでもなかったと思います。そんな彼らが、なぜ厳しい旅をしてまで、主イエス・キリストを拝みに行こうとしたのでしょうか。不思議です。彼らの生き方、考え方を知りたいと思います。そうした疑問を晴らすキーワードが、実はこの箇所の中にあります。それが3節の「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。」の「不安を抱いた」です。ユダヤ教の聖なる都エルサレムに住んでいた人々ならば、主なる神様が星を輝かせて示してくださっている待望の知らせを、誰よりも先に受け止めることができたはずです。なのに彼らは、その知らせを喜ぶどころか、不安を抱いてしまいました。不安を抱くということは、そんな変化などいらない、現状のままがいいという思いの表れです。すなわち「不安を抱いた」とは、神様よりも、自分たちこそが不変でありたいという、自己中心的な思いの表れです。それに対して東の占星術の学者たちは、西を指して輝く星を見て、ユダの方角に大きな変革が起こったと受け止めました。変革とは、新たな王の誕生であり、神様が星を出現させて知らせる程重要な大変革でだと受け止たのです。そこで拝みに行くことを決断したのでした。彼らを突き動かしたこうした姿勢こそ、謙虚な探究心と、疑うことのない希望だったのです。謙虚な心と、疑いなき希望は、エルサレムの人々の自己中心的な思いとは真逆のものでした。
     とはいえ、遠い異国へ旅危をするためには、具体的に自分たちの時間や資産を費やさなければなりません。それでも彼らが行かずにおれなかったのは、自分たちの都合を中心とすることなく、真実を求めて止まぬ謙虚な心と疑いなき希望があったからです。ですから、占星術の学者たちの行動をよく見ることは、私たちの信仰の重要な道しるべとなるのです。
     では、占星術の学者たちがどのような決断をし、どう行動をしたのかを示す動詞の言葉をリストアップしてみましょう。まず2節で彼らは「東方でその方の星を見たので、拝みに来た」と言っています。「見て」「拝みに来た」すなわち示された真理の元へ向かうことを、彼らは最優先したのです。主を礼拝することよりも大切なことなど、この世にないと受け止めたのです。それは私たちクリスチャンが、主を礼拝し讃美すること以上に尊ぶべきことはないと確信しているのと同じです。生涯の目的が、主を礼拝し、讃美するためにあるとの確信です。そして、占星術の学者たちの行動を表す動詞は、その後も次のように続きます。9節には「出かけ」とあり、11節には「家に入り」「ひれ伏して幼子を拝み」「贈り物を献げた」とあります。それは、私たちクリスチャンの人生が、救い主イエス・キリストを讃美し礼拝するために教会を目指して出かけ、悔い改め、自らを献げ続けることを繰り返すためにあるということです。
     東の方からやって来た占星術の学者たちは、主なる神様を礼拝するために人生を献げ、また自分たちの国へと帰って行きました。私たちの人生も同じです。救い主イエス・キリストを礼拝し続ける日々の到着地点は天の御国だからです。このようにハッキリとした人生に迷いはありません。
     それとは正反対に、救い主イエス・キリストの誕生を知らされたヘロデ王とエルサレムの人々は不安を抱きました。彼らには、これからの自分たちの人生の意味、目標となる到達地点が分かっていなかったのです。しかし、私たちクリスチャンは、違います。10節を見ると「学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」あります。救い主イエス・キリストを礼拝する人生は、喜びにあふれる人生なのです。
     先週の祈祷会では詩編27篇1~4節を読みました。救い主イエス・キリストを礼拝する私たちの人生は、まさにこの詩編の思いそのものです。誰をも恐れることなく、確信を持って、生涯、主に感謝し、讃美し、主の愛を語り伝え続けて歩んで行くのです
     主なる神様の御恵みをお祈りします。アーメン。

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