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同じように西軍に与していながら本領安堵された九州の大名だと対馬の宗氏がいるけど明や朝鮮とのパイプ役としてのノウハウや伝手を期待されてたのは島津と状況が似てますよね 家康は鎖国体制作ったように誤解されがちだけどウィリアムアダムスを配下にして保護したりと割と外交に対しては積極的ですよね
やっぱ義久、義弘の関係性大好きだわ。それに忠恒もいい味出してる。日新斎がいった評価で、義久、義弘と家久の違い、歳久自体といまいちしっくりこなかったけど。このチャンネルでしっくりきた。知れば知るほど義弘と同じくらい義久が好きになった。義弘が愚直過ぎていくら政治的な手腕がなかったとはいえ、関わった大名からこんだけ評価されているんだから人を惹きつける力はもの凄かったはず。その義弘がいる中でも義弘含めて島津家の家臣たちの間での代表はずっと義久だったのはそれだけの理由があったんだな。義弘ができない部分を自分がして、家の為に動く。多分家臣みんなわかっていたんだろうな。ただ人任せな人じゃなくて演じている部分もあると。義弘を一貫して守っている部分もあるし、別動画だけど歳久を弔ったのもいいし、異母兄弟である家久にかけたとされる言葉もいい。人一倍愚直で抜群に人を惹きつける義弘は凄いし、一見ただ人任せにしているように見えて後から振り返ると状況に応じた必要な役割を一貫して通していた義久も中々できることじゃない。結果この二人がいて忠恒にまとめることに成功してるし、それがのちの薩摩藩につながり強いまとまりを生み、ひいては倒幕のエネルギーにもつながってる。大げさなこというと、この兄弟が出てきたことは日本の歴史にとっても本当に大きかったんだなと思う。
超重要指名手配犯の宇喜多秀家を匿ってるのが霞んでる…
根っこの部分では①九州は遠すぎだし、最悪九州を統一するような幕府にあだなす輩が出ても中央勢で討伐できる事実②加藤や黒田もそれなりに爆弾なので島津を消すより対抗馬としていがみ合っている方が具合がよいというのが大きそう。特に②は上杉を潰さず生かして最上を優遇→伊達への対抗馬と同じ狙い
若手の突き上げを制御できない 上層部の戦略や政略を理解しないで 自分の意のままになるように強行論を唱える ものすごいを既視感を感じます
太平洋戦争・・・・・・・・・・
結局最初から最後まで「家臣団」がすべての発端
何度も言われていたけど、結局戦国時代を通じて前支配的政治を続けてしまったのが島津家という存在なんだろうな戦国時代自体が織田信長が主体で取り上げられる事が大きく権威や武力は信長から家臣に貸し与えるもの認識が当たり前の様に思えていたけど他の大名では個々で力と発言権を持っていて、当主には絶対的な力がないというのがデフォだったのかもね
@@佐竹ラスベガス 近世大名的な権力と発言権がないのがデフォってのは確かにそうかもしれないですね。強い大名家が主体的に取り上げられるから錯覚してしまう部分なのかもしれないですね。
まあ、今回の件はかなり時間がかかったけど、家康も秀吉に臣従する際も似たようなところがあったからなぁ。
根暗だけど政治手腕はピカイチの長男政治は出来ないけどカリスマあふれる次男困ったちゃんだけど妙に可愛げがあって愛されやすい息子
宗家も島津家も「潰してしまうと他に代えが効かない存在」という部分で助かった一面があったということですね。島津の場合は征伐や取り潰しだと、徹底抗戦しそうで面倒だからという側面も強そうだけど※島津の引き口は無駄ではなかったと思う
よく考えると三河者も面倒で頑固で自分勝手で面倒臭くて家康死ぬほど苦労してましたね…。家康も秀吉傘下になる時にクソほど家中を纏めるのに苦労(数正や小笠原出奔)しましたが、意外と共感していた可能性が?
投稿お疲れ様です。藩主家の立場が脆弱だと人吉藩の相良家は島津家の様に鎌倉時代から続くお家でしたが藩主家と家臣団の距離が近すぎてごたごたが続いて江戸時代を通じて藩主の暗殺や幕末近くまでお家騒動で揉めていたとか福島正則が島津家に便宜を図ったのは善意だけではなく徳川家康への牽制と自分以外に豊臣家を助ける勢力を増やすつもりだったのではとも言われますね。銀子とお米を福島正則に借りた島津家ですが弁済したとは記録が見えないので踏み倒した様だというお話を聞いて調所広郷さん以前から島津家クオリティとして借金を力技で何とかしていたんでしょうね
もしここで大規模な内乱が発生した場合長宗我部ルートもあると思うと、上洛まで上手く家臣を抑えることができたのはさすが義久といったところですね。福島正則も掘り下げると色々出てきそうな人物です。一般的には武辺者なイメージですが、関ヶ原合戦直前の毛利と徳川の和睦の分書にも福島正則の名前があるので外交取次の手腕もあったのかも。ちなみに光成先生の著作を読んでから、自分は毛利徳川間の交渉は黒田〜吉川ルートとは別に福島〜福原ルートがあったという仮説を立てています。
島津さんちの戦国ファイナル、知りませんでしたがなかなか劇的だったんですね😮‥!
観てるぜ!
島津家も宗氏も惟宗氏で、鎌倉以来の血統が現代まで繋がっているという共通点
小説だと、関ケ原の壮絶な退却劇を目の当たりにして島津家に尊敬を抱いた、みたいな書き方をされる福島正則ですが、実際に破格の便宜をはかっていたんですね。為になりました。
3:08 これは東国武士の性質なのよ。平将門も任地で悪政をしいた挙句に政府の倉庫を襲撃した明らかに悪いヤツの藤原玄明をかくまったりと、悪人でも多少地位があったら誰でも助けてしまうのよ
信長と家康の大きな違いが出ていて、転封か改易かはわかりませんが、信長なら薩摩も対馬も直轄領にして、代官を置いたでしょうね。そもそも島津征伐は起こらなかった可能性が高いし、朝鮮の役も、秀吉とは展開がまったく違ったでしょうけど。
毛利がお咎めなしだったのに、大坂城から退去した途端に減封されてるからね。ちゃんと家康からお墨付きをの書面を得ないと毛利と同じく騙される可能性は、島津は意識してたんでしょう。疑心暗鬼になってたのは自然。
まあ自分に従う姿勢を見せる忠恒を承認した方が簡単だしね。忠恒が家中統制に失敗すればそれを理由に潰せばいいし。
動画楽しみにしていました結局の所、家康の寛大さと打算さがなければいつ潰れても可笑しくない程の、三殿政治のグダグダさを嫌と言う程見せられましたね……義久も事情があるとはいえ、乱世だからこそ許された様な人物ですね……現代にいても政治家としては世間の不興を買って長続きしなさそう後島津とは関係ないですが、秀吉子飼いの三成、清正、正則が秀吉亡き後、バラバラになっていくの成り上がり故の層の薄さを感じますね
伊集院忠真一族郎党を皆殺しにするってどんだけ親父の伊集院忠棟の毒が回ってたんだよ……。(18:08)まあどのみち、伊集院忠棟家は忠棟が忠恒にブッ殺された時点(17:47)でいつかは消される運命にあったんだろうけどさ……。
不気味な程、家康は島津の肩を持つね。
家臣団を統率しきれなかったのは島津の守護大名としての構造的欠陥ではあるんだろうけど、戦国末期で守護出自の大名家はもう数えるほどしか残っていないのよね
島津家伝統のご神意きた‼️義久さんはまるで「北の将軍さま」みたいで、家康との面会も「鴻門の会」をイメージしていた感じですかね〜。忠恒さんがいてくれて良かった。伊集院家は、結果論的に色々タイミングが悪かったですね。関ヶ原前なら出奔しても、奉公構えもされずに他家で召し抱えられるチャンスはあったとは思うけどね〜。解説ありがとうございます‼️
ヨーロッパで言うところの辺境伯みたいなもんだからあまり弱体化させ過ぎると国外的にヤバかったというところまで考えた…のかな?
でもここで時間をかけて満額回答プラス琉球の勢力を維持した薩摩が幕末において多大な力持ってるのも仕方ないよな
素直に上洛して打首ってパターンが多かったからそら警戒するよ
豊臣の家臣であると言う意識でしょうか😅
伊集院忠真を島津忠恒はどういう風に見てたんだろうなぁ。同い年で、忠恒の同母きょうだいの中で唯一生きている妹を妻にしてる存在だし。
このシリーズ完結したら次は本州最北端の津軽為信の津軽家を南部氏からの独立や三成とのあれこれなんか聞いてみたいですね😆
晩年の義久と義弘は、仲悪いのが残念。
日本一めんどくさい薩摩の扱いは幕末明治までも発揮する
もともと島津は徳川につきたかってのでは。二条城に島津が入城していたら西軍は落とせ無かった可能性がある。
今までの解説で島津義弘は石田三成が後ろ盾になってたりと色々深い中だったからそれは無いと思うけど。
細川幽斎ばりの外交手腕を持っていたならば可能性はあったかも。
島津の二条城入城要請は元々無い定期、江戸時代の島津家譜2次史料から勝手に記録してるだけ明治の島津史観が今日まで影響してるせいなのか。
義久公「計画通り(キリッ」
福島正則の墓が鹿児島薩摩半島の加世田というところにあるらしいそこに伝わる伝承では正則は薩摩に来て余生を医師として過ごしそこで死んだというなぜ鹿児島に福島正則?大して関わり無いのに、と思ってたけどこの動画見て薩摩と正則の関係性が知れてよかったそれでも正則の薩摩落ちは真田幸村が薩摩に落ち延びた並みの怪しい話だけど
島津は地理的に南端で仮に武力征伐となると金も兵糧も相当かかるし、城もシラスの土壌を生かした堅城が多々あり人的被害は計り知れない。また義久の書状等での粘り・外交上手が活きた。再三の家康からの上洛命令をのらりくらりと…それから家康的には一刻も早く海外貿易をしたかった。島津と敵対したままだと貿易船沈められますからね。
77万石では?😊
62万石+10万石(琉球分)で72万石。その後の再検地の高直しで77万石です。
秀吉は大規模遠征が得意だったが、家康にはそんな能力がない。 島津征伐出来ないだけだよ。 だって関ヶ原で大規模遠征を実現できる石田三成らの奉行衆をやっちまったやん。 大坂の陣でも2週間ぽっちの籠城戦で兵糧の調達を各大名に丸投げして、食料の奪い合いを起こして混乱を起こしている。 家康が得意なのは1日で決着がつく野戦だけ。
琉球に対する島津朝鮮に対する宗田舎の土豪出身である徳川家からすれば守護大名時代から外交をしていた歴史があるからです薩摩や対馬に代官を派遣して徳川家が外交を行うのは不可能だったでしょうまた徳川家康は本拠地を留守にして九州にまで遠征するのは物理的・政治的に不可能私の先祖は羽柴秀吉の九州征服戦争後に人質として伏見に、秀吉死後は徳川家康に引渡されて江戸にいました関ヶ原合戦時に島津家は重臣の人質が数人いた為西軍側に立つ意識は無かったのです島津家は重臣の合議制で治世が行われていた為鎌倉時代以来の重臣を見殺しにしたら当主の座から引き摺り下ろされる可能性がありました伏見城籠城の手柄を独り占めしたい鳥居元忠に入城を拒否された島津家は仕方なく西軍と行動を共にしただけで西軍として戦ってないという意識でした豊臣姓を賜って羽柴家臣だった義久や義弘は徳川家康とは同格という意識も強かったでしょう
遠いから、まいいかぁ。と、家康は楽観的に赦免した。
同じように西軍に与していながら本領安堵された九州の大名だと対馬の宗氏がいるけど明や朝鮮とのパイプ役としてのノウハウや伝手を期待されてたのは島津と状況が似てますよね 家康は鎖国体制作ったように誤解されがちだけどウィリアムアダムスを配下にして保護したりと割と外交に対しては積極的ですよね
やっぱ義久、義弘の関係性大好きだわ。それに忠恒もいい味出してる。
日新斎がいった評価で、義久、義弘と家久の違い、歳久自体といまいちしっくりこなかったけど。このチャンネルでしっくりきた。知れば知るほど義弘と同じくらい義久が好きになった。
義弘が愚直過ぎていくら政治的な手腕がなかったとはいえ、関わった大名からこんだけ評価されているんだから人を惹きつける力はもの凄かったはず。その義弘がいる中でも義弘含めて島津家の家臣たちの間での代表はずっと義久だったのはそれだけの理由があったんだな。義弘ができない部分を自分がして、家の為に動く。多分家臣みんなわかっていたんだろうな。ただ人任せな人じゃなくて演じている部分もあると。義弘を一貫して守っている部分もあるし、別動画だけど歳久を弔ったのもいいし、異母兄弟である家久にかけたとされる言葉もいい。
人一倍愚直で抜群に人を惹きつける義弘は凄いし、一見ただ人任せにしているように見えて後から振り返ると状況に応じた必要な役割を一貫して通していた義久も中々できることじゃない。
結果この二人がいて忠恒にまとめることに成功してるし、それがのちの薩摩藩につながり強いまとまりを生み、ひいては倒幕のエネルギーにもつながってる。
大げさなこというと、この兄弟が出てきたことは日本の歴史にとっても本当に大きかったんだなと思う。
超重要指名手配犯の宇喜多秀家を匿ってるのが霞んでる…
根っこの部分では
①九州は遠すぎだし、最悪九州を統一するような幕府にあだなす輩が出ても中央勢で討伐できる事実
②加藤や黒田もそれなりに爆弾なので島津を消すより対抗馬としていがみ合っている方が具合がよい
というのが大きそう。
特に②は上杉を潰さず生かして最上を優遇→伊達への対抗馬と同じ狙い
若手の突き上げを制御できない 上層部の戦略や政略を理解しないで 自分の意のままになるように強行論を唱える ものすごいを既視感を感じます
太平洋戦争・・・・・・・・・・
結局最初から最後まで「家臣団」がすべての発端
何度も言われていたけど、結局戦国時代を通じて前支配的政治を続けてしまったのが島津家という存在なんだろうな
戦国時代自体が織田信長が主体で取り上げられる事が大きく
権威や武力は信長から家臣に貸し与えるもの認識が当たり前の様に思えていたけど
他の大名では個々で力と発言権を持っていて、当主には絶対的な力がないというのがデフォだったのかもね
@@佐竹ラスベガス 近世大名的な権力と発言権がないのがデフォってのは確かにそうかもしれないですね。強い大名家が主体的に取り上げられるから錯覚してしまう部分なのかもしれないですね。
まあ、今回の件はかなり時間がかかったけど、家康も秀吉に臣従する際も似たようなところがあったからなぁ。
根暗だけど政治手腕はピカイチの長男
政治は出来ないけどカリスマあふれる次男
困ったちゃんだけど妙に可愛げがあって愛されやすい息子
宗家も島津家も「潰してしまうと他に代えが効かない存在」という部分で助かった一面があったということですね。
島津の場合は征伐や取り潰しだと、徹底抗戦しそうで面倒だからという側面も強そうだけど
※島津の引き口は無駄ではなかったと思う
よく考えると三河者も面倒で頑固で自分勝手で面倒臭くて家康死ぬほど苦労してましたね…。家康も秀吉傘下になる時にクソほど家中を纏めるのに苦労(数正や小笠原出奔)しましたが、意外と共感していた可能性が?
投稿お疲れ様です。藩主家の立場が脆弱だと人吉藩の相良家は島津家の様に鎌倉時代から続くお家でしたが藩主家と家臣団の距離が近すぎてごたごたが続いて江戸時代を通じて藩主の暗殺や幕末近くまでお家騒動で揉めていたとか
福島正則が島津家に便宜を図ったのは善意だけではなく徳川家康への牽制と自分以外に豊臣家を助ける勢力を増やすつもりだったのではとも言われますね。銀子とお米を福島正則に借りた島津家ですが弁済したとは記録が見えないので踏み倒した様だというお話を聞いて調所広郷さん以前から島津家クオリティとして借金を力技で何とかしていたんでしょうね
もしここで大規模な内乱が発生した場合長宗我部ルートもあると思うと、上洛まで上手く家臣を抑えることができたのはさすが義久といったところですね。
福島正則も掘り下げると色々出てきそうな人物です。一般的には武辺者なイメージですが、関ヶ原合戦直前の毛利と徳川の和睦の分書にも福島正則の名前があるので外交取次の手腕もあったのかも。ちなみに光成先生の著作を読んでから、自分は毛利徳川間の交渉は黒田〜吉川ルートとは別に福島〜福原ルートがあったという仮説を立てています。
島津さんちの戦国ファイナル、知りませんでしたがなかなか劇的だったんですね😮‥!
観てるぜ!
島津家も宗氏も惟宗氏で、鎌倉以来の血統が現代まで繋がっているという共通点
小説だと、関ケ原の壮絶な退却劇を目の当たりにして島津家に尊敬を抱いた、みたいな書き方をされる福島正則ですが、実際に破格の便宜をはかっていたんですね。為になりました。
3:08 これは東国武士の性質なのよ。平将門も任地で悪政をしいた挙句に政府の倉庫を襲撃した明らかに悪いヤツの藤原玄明をかくまったりと、悪人でも多少地位があったら誰でも助けてしまうのよ
信長と家康の大きな違いが出ていて、転封か改易かはわかりませんが、信長なら薩摩も対馬も直轄領にして、代官を置いたでしょうね。そもそも島津征伐は起こらなかった可能性が高いし、朝鮮の役も、秀吉とは展開がまったく違ったでしょうけど。
毛利がお咎めなしだったのに、大坂城から退去した途端に減封されてるからね。
ちゃんと家康からお墨付きをの書面を得ないと毛利と同じく騙される可能性は、島津は意識してたんでしょう。疑心暗鬼になってたのは自然。
まあ自分に従う姿勢を見せる忠恒を承認した方が簡単だしね。忠恒が家中統制に失敗すればそれを理由に潰せばいいし。
動画楽しみにしていました
結局の所、家康の寛大さと打算さがなければいつ潰れても可笑しくない程の、三殿政治のグダグダさを嫌と言う程見せられましたね……
義久も事情があるとはいえ、乱世だからこそ許された様な人物ですね……
現代にいても政治家としては世間の不興を買って長続きしなさそう
後島津とは関係ないですが、秀吉子飼いの三成、清正、正則が秀吉亡き後、バラバラになっていくの
成り上がり故の層の薄さを感じますね
伊集院忠真一族郎党を皆殺しにするってどんだけ親父の伊集院忠棟の毒が回ってたんだよ……。(18:08)
まあどのみち、伊集院忠棟家は忠棟が忠恒にブッ殺された時点(17:47)でいつかは消される運命にあったんだろうけどさ……。
不気味な程、家康は島津の肩を持つね。
家臣団を統率しきれなかったのは島津の守護大名としての構造的欠陥ではあるんだろうけど、戦国末期で守護出自の大名家はもう数えるほどしか残っていないのよね
島津家伝統のご神意きた‼️
義久さんはまるで「北の将軍さま」みたいで、家康との面会も「鴻門の会」をイメージしていた感じですかね〜。
忠恒さんがいてくれて良かった。
伊集院家は、結果論的に色々タイミングが悪かったですね。
関ヶ原前なら出奔しても、奉公構えもされずに他家で召し抱えられるチャンスはあったとは思うけどね〜。
解説ありがとうございます‼️
ヨーロッパで言うところの辺境伯みたいなもんだからあまり弱体化させ過ぎると国外的にヤバかったというところまで考えた…のかな?
でもここで時間をかけて満額回答プラス琉球の勢力を維持した薩摩が幕末において多大な力持ってるのも仕方ないよな
素直に上洛して打首ってパターンが多かったからそら警戒するよ
豊臣の家臣であると言う意識でしょうか😅
伊集院忠真を島津忠恒はどういう風に見てたんだろうなぁ。
同い年で、忠恒の同母きょうだいの中で唯一生きている妹を妻にしてる存在だし。
このシリーズ完結したら次は本州最北端の津軽為信の津軽家を南部氏からの独立や三成とのあれこれなんか聞いてみたいですね😆
晩年の義久と義弘は、仲悪いのが残念。
日本一めんどくさい薩摩の扱いは幕末明治までも発揮する
もともと島津は徳川につきたかってのでは。二条城に島津が入城していたら西軍は落とせ無かった可能性がある。
今までの解説で島津義弘は石田三成が後ろ盾になってたりと色々深い中だったからそれは無いと思うけど。
細川幽斎ばりの外交手腕を持っていたならば可能性はあったかも。
島津の二条城入城要請は元々無い定期、江戸時代の島津家譜2次史料から勝手に記録してるだけ明治の島津史観が今日まで影響してるせいなのか。
義久公「計画通り(キリッ」
福島正則の墓が鹿児島薩摩半島の加世田というところにあるらしい
そこに伝わる伝承では正則は薩摩に来て余生を医師として過ごしそこで死んだという
なぜ鹿児島に福島正則?
大して関わり無いのに、と思ってたけどこの動画見て薩摩と正則の関係性が知れてよかった
それでも正則の薩摩落ちは真田幸村が薩摩に落ち延びた並みの怪しい話だけど
島津は地理的に南端で仮に武力征伐となると金も兵糧も相当かかるし、城もシラスの土壌を生かした堅城が多々あり人的被害は計り知れない。
また義久の書状等での粘り・外交上手が活きた。再三の家康からの上洛命令をのらりくらりと…
それから家康的には一刻も早く海外貿易をしたかった。
島津と敵対したままだと貿易船沈められますからね。
77万石では?😊
62万石+10万石(琉球分)で72万石。その後の再検地の高直しで77万石です。
秀吉は大規模遠征が得意だったが、家康にはそんな能力がない。 島津征伐出来ないだけだよ。 だって関ヶ原で大規模遠征を実現できる石田三成らの奉行衆をやっちまったやん。 大坂の陣でも2週間ぽっちの籠城戦で兵糧の調達を各大名に丸投げして、食料の奪い合いを起こして混乱を起こしている。 家康が得意なのは1日で決着がつく野戦だけ。
琉球に対する島津
朝鮮に対する宗
田舎の土豪出身である徳川家からすれば守護大名時代から外交をしていた歴史があるからです
薩摩や対馬に代官を派遣して徳川家が外交を行うのは不可能だったでしょう
また徳川家康は本拠地を留守にして九州にまで遠征するのは物理的・政治的に不可能
私の先祖は羽柴秀吉の九州征服戦争後に人質として伏見に、秀吉死後は徳川家康に引渡されて江戸にいました
関ヶ原合戦時に島津家は重臣の人質が数人いた為西軍側に立つ意識は無かったのです
島津家は重臣の合議制で治世が行われていた為鎌倉時代以来の重臣を見殺しにしたら当主の座から引き摺り下ろされる可能性がありました
伏見城籠城の手柄を独り占めしたい鳥居元忠に入城を拒否された島津家は仕方なく西軍と行動を共にしただけで西軍として戦ってないという意識でした
豊臣姓を賜って羽柴家臣だった義久や義弘は徳川家康とは同格という意識も強かったでしょう
遠いから、まいいかぁ。と、家康は楽観的に赦免した。