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無塩さんの動画一つひとつに、毎回深い共感と感銘を受けています。さまざまなコメントが寄せられていると思いますが、あなたの発信を心から待ち望んでいる人たちは、ここに無駄な言葉を残さずとも、静かに共感し、深く内省しています。どうかご自身のペースを大切に、これからも素晴らしい動画を届けていただけることを楽しみにしています。
知性が利己的であるという考えは目から鱗でした。よく考えてみると、イエスやブッダも自分自身で本を書いているわけではないので、言語以前の純粋な良心に従って行動していたのではないかと思いました。人を思いやるという一見すると当たり前の感情を、私たちは理屈を抜きにして取り戻さなければならないですね…。人を苦しめようとする人も、もしかすると誰かから苦しめられた経験があるかも知れないので、そうならないような世の中を目指して、身近なところから道徳を実践して行こうと思います。
えらそうでも良いと思います!無塩さんのお話を聴くだけで心が豊かになるような気がします
自分を見つめるきっかけになるから嬉しいありがとうございます
無塩さん初めまして!お化粧について語られている動画から無塩さんを知って以来大ファンで、いつも動画を楽しみに拝見させて頂いております。RUclipsにコメントを書いたことが無かったのですが、どうしても気持ちをお伝えしたくてコメントをさせていただきました。前回と今回の動画併せて、無塩さんのご考察に深く共感をいたしました。お話を受けて、倫理的な強さというのは「内的動機によって起こされる行動」なのかなと思いました。その逆に外的動機はいわゆる日本人が大好きな同調圧力、極めて他人軸な行為なのかなと。資本主義が蔓延した欲望の時代に、自らの内的動機である良質な感情を根拠に動くことが、仰るように良い世の中を作って行くことに繋がるのだろうと、私も思いました。自分に理解できないものやわからないものを十把一絡げに「感情的だ」と揶揄する昨今の冷笑ムーブ、私も常々疑問に思っていました。主観になりますが理論とは、むしろ質のいい感情を飼い慣らした先にあるものだと思っています。その中で、ただ世の中に溢れる情報を食い尽くし、ロジカルであることをアイデンティティとしてしまう人が非常に多く、自ら思考せず知識量だけで人様のことを「未熟」と断定してしまう方が、浅はかだと思うのです。アンチコメは、そういう方々のコンプレックスやルサンチマンを刺激されてしまったためについたのではないかと思います。私もいつもこのようなことを考えていますが、やはり批判が怖くて、どこにも発信できずにいましたが、無塩さんの動画を見て勇気をもらい、少しずつですが文章を書き始めました。批判のコメント(すべては確認はしていないので申し訳ないのですが)も寄せられているとのことですが、私は偉そうなどと1ミリも感じませんでした。むしろお若いのにしっかりとご自分の考えを持ち、発信をされていることに、感銘を受けました。今後とも、陰ながら応援しております🙇♀️御身のご安全とご健康が第一ですので何卒ご無理はなさらず、ご自愛頂ければと存じます。次回の動画も、楽しみにさせて頂きます♪
無塩さん 初めまして!私は鬱で生き辛さを感じてから、いろんな哲学入門書を読んでいます。今、興味があるのはカント、ニーチェ、フーコーといったところです。日常では哲学的な話ができないので、無塩さんの思考はとてもありがたいです😊これからも無理されず、無塩さんのペースで発信されることを楽しみにしています🍀
あまり気にしすぎない方が良いと思います。物事や思想や生き方を深く知ろうとする考え方に共感しています。色々な考え方の人が存在していてどうしてもわかり合えない人というのは意外と多いように感じます。そんな人達が時には攻撃的に見えても耳を貸す必要も理解する姿勢も必要ないです。それぞれの正しさを追及すればよいと私は思いますよ。そういう考え方もあるんですねー程度で、、楽観的過ぎかな。。
議論は進められない。道徳には誠実さが絶対条件。
めちゃくちゃおもしろい。
初めまして、数日前から拝見しています。この様に言葉にしようとする態度が誠実だなと思いますし、聞くのも好きです。ご自身のペースで続けてくだされば嬉しいです。
内側の道徳の何割が本当に内側の道徳なんだろうかというふうに考えてしまった。人を助けようと思う心は本当に生得的な道徳なのだろうか。子供の頃に刷り込まれた社会のための道徳でないとどうして言い切れるだろうか。
本能で生きてるアリですら7割がサボって生きているらしいけど、その7割のために死ぬまで働く3割に自分はなろうと思えるだろうか?思えなかった時点でこの欲望社会に対抗することは不可能だと思う
緩くしても良いのです。責任は個人レベル。個の確立。
良いことばかりしたがるもんで、悪い人間が仰山できた。善くあろうとするのは善なんよ。
動画ありがとう!僕は内側の道徳が人生の一番大切なものだと思っている。でも最近僕なかなかサボってるような気がする。君の動画を見て大切なことを思い出せてよかった。社会と人間の想像力に生み出された嘘を全部見抜いて、真実にたどり着くことは僕の唯一の夢です。
何か意見を述べることに対して偉そうと述べる事が結構不思議だなと思いました。たしかに、話し方って大切だとは思いますが、ただ意見を述べているだけですし、偉そうなのがダメな場合は、なぜ偉そうだと問題なのか説明すべきだと思います。そもそも理想とする社会像や人の姿を誰もが持っていると思います。これを口に出すと争いの元と思われがちですが、それは暴力まで行く場合、あるいは絶対的に交われない考え方である場合だと思います。人が社会や国際問題に対して意見を言うと何かと偉そうと言われがちな気がします。それはその人にとっての世界が自分にとどまっているからではないかと思います。実際はその問題が自分や国の行先に大きく関わることなのにです。国や社会が破綻すれば今の平凡な日常が無くなるのは自然なことな気がします。社会とか主語が大きいことを語ると何かと叩かれやすいですが、ならどうやって意見を述べれば良いのか分かりません。偉そうと意見より、賛同できないなら、できない訳を述べる。必要なのは議論であって論破ではない。そんなことを繰り返して、より良い集団を形成しようと試みるはずなのに、それをやめてしまうと権力がのさばります。そうして無関心な間に、無理に交わらないものを許容して、伝えることも諦めた結果、諸外国の権力によって搾取されているのが現状かと。それほどに銀行を作って資本を牛耳った人々の力が強いということも現状が相当ひどいことも理解していますが、道徳の普及はそれらに対抗する一つの方法かと、最近は道徳ないとか人づてに聞きましたが😅色々書いてまとまりが悪くなりましたが、偉そうと言われても、思考の過程を説明しているなら気にしなくてよい気がします。道徳について、大変面白い動画で勉強になりました。頑張ってください🙌
苦しみってマッチングアプリでイイねしてもらえないとか、似合う服が無いとか、高くて買えないとか、そういうものから、病気の苦しみまで、色々あるけど。大前提として質の高い教育が無ければ全て徒労になる気がする。
これは反論ではなく僕個人男としての体験という事で…人に優しくしたいと内から思えるには平均以上の裕福な生活で鬱屈が無い事、もしくは、本来の気質が備わってようやく湧き出るものかなと。人には色んな背景があって、酷い事をしても心が痛まない様な奴は僕の友達の中にも居たりします。ATMのお話にて、急かして来た男性がもし僕の友達だとしても道徳ってハッキリしてないので善悪は説けません。「おいお前格好悪いぞ」って印象付けの言葉を投げて次回が無い様にと種を撒く位しか出来ないです。道徳時代に寄せて行く事は素晴らしい考えだと思いますが、具体的な行動にはどの様なものがあるでしょうか?
私もこういった話が大好きなので、聞いていてとても楽しかったです!今日の動画の内容に関わることが書いてある本を紹介させてください。(感想が聞きたいなぁ…w)・『感情の哲学入門講義』源河 亨 内容:内側の道徳の源となる「感情」について。・『「みんな違ってみんないい」のか?--相対主義と普遍主義の問題』山口裕之内容:外側の道徳(社会の道徳規範)は内側の道徳(感情由来の個人の道徳判断)を材料にして作られる、など。・『哲学入門』戸田山和久内容:人間がより原始的な生物から進化してきた過程で、道徳や責任の基礎となる「自由」がどのように進化によって獲得されてきたか、など。おまけ(私の世界観)・世界を「事実」と「価値」に分けて表現すると、人間は、事実は知覚によって認識し、価値は感情によって認識している。・事実の例:「目の前に蛇がいる。(視覚による認識)」・価値の例:「目の前の蛇は危険だ。(恐怖という感情による認識)」
他民族多文化強制社会で道徳がどうなってゆくのか見ものですね。
人間の内側には『良くなりたい』『良くしたい』って言う衝動があると思いませんか。その衝動が、外側の何とリンクしてしまうかで、その人間の選択に影響を及ぼしているように見えます。今話題の松本氏、長渕氏、中居氏などは、『モテる事はカッコいい』とか『こう言うのがモテだ』とか『モテない男は惨めだ』などの、自分の外側の領域にある、メディアによって人工的に作られた社会通念と、『良くなりたい』という内側からの衝動が繋がってしまった結果なのではないかと。内側と外側が両輪になって、人間はどんな風にでもなっていってしまうのだと思います。気をつけていないと、ヤバい生き物にもなるんですよね。逆に『主体性を重んじる事は不可欠』『尊厳を傷つけてはならない』『愛とは最上級に大事にする行為』などの社会通念と繋がれば、人間はそのための選択、決定、実行をするのだと思います。この世界にメディアが何を吹聴するのかで、人間はどうにでも流される生き物である、という可能性もあります。メディアで何を吹聴するのかの決定権を持っている人が、この世界を動かしているのだと言う風に、私には見えます。無塩さんは、とても思慮深くて聡明な方だと思います。私は無塩さんのコンテンツを楽しく拝聴しています。ありがとうございます🙏❤️
面白かったです。応援してます。
内側の道徳もあると思いますが、内側の邪悪さを外側の道徳や理論が縛っている側面もあると思います。
一個前の動画で知って、コメントしてからこの動画を見ました。前の動画のコメントでは自分なりにここが違うのでは?という趣旨のことを書きましたが、それはより「良い社会になるためには」という前提で書きました。そのこと自体を明記していなかったですが、もちろん個人に対する攻撃ではないので、反論コメントを見かけても気を病まないでいて下さるとありがたいです😢(頭で分かっていても難しいかもしれませんが…)ナルシズムとか意味分からんコメは、目に入った瞬間に無視か削除でいいと思います。無塩さんみたいに自分の頭で考えれて、自分の意見を表明出来る人は素晴らしいと思います。声も落ち着いてて好きです。では、ここから動画の内容で気になったところを書こうと思います笑内側の道徳には善悪がないが、何をすべきで、何をするべきでないかが分かる。という部分が気になりました。それに善悪をつければ、人によってそれが違うので道徳は曖昧になると書かれていたのであれば、人は個人個人で内側の道徳が違うということは前提だと思うのですが、にも関わらず内側の道徳に従えば良いというのがよく分かりませんでした。前回の動画からずっと僕が違和感を感じていた理由で、これかもって思ったのが、無塩さんが性善説を元に話しているから?かもです。遺伝的に決定する善悪(社会が勝手に決める)はかなり割合は少ないと思いますが、物心がつくまでの幼少期の体験によって作られる価値観というのはかなり個人によって差がつくと考えています。なので個人的には、いわゆる善側に寄った価値観の人が多いとは思いますが、悪(と社会に見なされてしまう)側の価値観を持った人も無視出来ない程度の割合で社会に存在していると思っています。生き残るための犯罪が身近にある壮絶な環境で育った人とかです。なので、人の内側の道徳心に従った方が良いという意見に違和感があるんだろうなと思いました。僕は結構理屈を捏ね回すのが好きなのですが、動画の始めにあった、人を殺してはいけない理由がないということについて、僕はそれを正しいと考えています。そもそも人を殺すこと自体は悪ではないが、大多数の人にとって、共感できる理由無く殺人をする者が同じコミュニティにいると不利益を被るので、ルールとして懲役or死刑を採用している、と考えてます。大半の法律やルールはこれだと思っているので、基本的には大多数の人orその法律を決めた時の権力者を守るために作られたものという認識です。なので、道徳も同様に大多数の人にとって有利になるように植え付けられる教育だ思っています。なので僕の考える道徳は本の定義だと内側の道徳でもあり、外側の道徳でもあります。義務教育以前に親や周囲から教えられること、もしくはそれらを反面教師にしたものが内側の道徳、義務教育以後に教えられるのが外側の道徳です。内側の道徳であっても、それが構成される段階で他者の影響があるので、人類全員が漏れなく善人でないと、内側の道徳による社会のコントロールは難しいのではないかと思いました。人それぞれ意見が違うので何が正しいとかは無いと思いますけどね。考える機会をくださってありがとうございます😊
急におすすめに出てきました😮前回に引き続きすごいおもしろい話で見入っちゃいました!あと、本を読まずに暗誦されてるのもすごいですね無理のない程度に今後の更新を楽しみにしています〜後半のことに関しては、ラインホールド・ニーバーの道徳的人間と非道徳的社会とかどうですか?いろんな方に本を紹介されて大変だと思いますが、ぜひ読んでみてください!ちなみに、このコメントは今後おもしろい話に展開する材料を、と思い善意でしてますが、文字や論理だけになると攻撃的、上から目線にも見えますよね😢どれだけ個人が自省的で道徳的でも、人と関わるところに予想だにしない問題が生じるってのが、ほんと厄介です。
こんな面白いチャンネル登録するに決まってrrる!
感情や勝手な思い込みではなく、思考を通した黄金率良いですね‼︎是非、内側の道徳が生まれたのはどうしてか、その先の話しが聞きたいです。コミュニティを築く動物なら今後知性を持って道徳心を持つのでしょうか?
慈悲の心ですね。ただ行き着くと殺生をしない、ベジタリアンに行き着くと思います。仏教のように
「内側の道徳」という表現に違和感。内側から出てくるものを「道徳」と「欲望」に分けることはできないでしょう。「人を助けたい」と思うのも「人を殺したい」と思うのも単なる欲でしかなくて、それを善悪に分けるには言葉の力が必須。だから道徳というものは言葉という形式で表現されるものてなければならない。
他人の目を気にして外側の道徳を自分で作り、「譲るべき」で席を譲る人もいれば、内側の道徳で「譲りたい」(助けたい?)で席を譲る人もいる。生き方が「こうあるべき」という他人軸か、「こうしたい」という自分軸かでも道徳は変わりそう。苦しみを少なくしたいという意識が無意識下で嫌なコメントなどの苦しみを探すセンサーのようになってしまっている可能性があるかもしれない。自分の目的意識に関連しているから「苦しみ」と思うものが大きく見えてしまうのでは。「苦しみを少なく」の良いイメージの固定観念が無意識下で何が起こっているかを気づきづらくしているような気がする。
うちの近所には、話し声やエンジン音が聞こえただけで、嫌がらせをやめろと威圧してくる人がいまして、その方の苦しみに寄り添うのは無理だなぁって思います。反論すると激昂し、傾聴すると無限に時間を奪われた末に裏切り者と罵られます。
無塩さんが偉そうなつもりで配信していなくても、そう受け取る視聴者さんもいる偉そうと受け取った視聴者さんの不快感を無塩さんが払拭する必要は一切ないけど、自分の知らぬところで意図しないことで苦は生じる仏教で言えば一切皆苦巡り巡って苦に帰る容赦ない世界に感じるでも、”この世は苦しみ”ということは、苦が世界のスタンダードな状態ということであれば、ひとときの幸せも楽も一層ありがたく感じるのではないでしょうか自分の心が平穏になれば、他人に優しく赦すことができると思います
自分の内側の倫理を他の人に伝えるために論理を使って説明すると全く説明できなくて、論理を使って考えているうちにいつしか自分がXにいるような論破思考になっていって、はっとすることがある。内側の倫理を他人に伝えるまたは社会の欲望主義に抵抗するためには、物語しかないんじゃないかなと思いました。吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』みたいな。
毎度のことながら貴重な言論をありがとうございます!ゴッホで思い出したんですけど、「自罰」って内側の道徳からなるものなのですかね?(耳切りの話ではなくて杖の話です) 一見すれば自分を卑下することで相対的に他者の評価を上げていたり、本来他人が下すべき倫理に則った「罰」を代行したりする素晴らしい行為に見えるのですが、社会的には「メンヘラ」だとか「おかしい」などと表現されることが疑問です。私も内側の道徳を尊重したいタイプの人間なのでこの蟠りを解きたいのですが、やはり現代社会がおかしいのでしょうか?現代社会を構成する人々が外側の道徳(固定観念?)に洗脳されている所為なのでしょうか?
ロックですね
クリシュナムルティなども同じことを言ってますね。内なる世界の安定ですかね。私自身は、自由度の高い世界から私自身が自ら画一的な世界を見てしまうことから苦しみが生まれると思ってます。外に答えを探しても見つからない。→私自身が答えを探すからです。その都度、解決するには、自らを顧みることだけだと。ある意味では、思考の放棄による認識バイアスの正常化ということでしょうか。
言語依存的な部分があるのだと考えます。行動よりまず思考的な習慣とも言えるかも。少なくともそういうタイプに限定した話。例えば、腹が立った時、因果で納得するより身体を眺めてた方が感情が収まり易い気がします。末梢血管のキュッとした感じや心拍数が増した感覚など。私は食レポが下手なのですが、感情の説明も同じぐらい苦手です。うまく言えない。それでも、何とか果をひねり出そうとする。その結果、過度に一般化したり自己か他者を卑下するような結論が起こりやすいのだと思います。道徳的な事柄でも身体は反応しているかも。立腹時はブレーキの為ですが、善いことであればアクセルとしての働きだと見做していいのかもしれないと思いました。
こういうのは、身近な人や家族とか友人とかに対して愛をもって接することが全てなような気がするな。人の心の歪みは案外こういうところから生まれる。まあ、こういうことを繰り返していくとただ身内に優しいだけの、いわゆる「ヤクザ」になってしまいかねないが。
人の苦しみや他者の裏切りみたいなことを考えていくと、結局、社会構造やゲームの話になってしまって、とりとめがないな。実存的に考えている節はある。
理屈はあくまでも道具だと思うので目的にはなり得ないんですよね。一方で道徳は、例えば他者の不道徳を攻撃する手段となる時それは「外側の」に属するが、「内側の」と言っている方は道具にはなり得ないので、これがより本質に近いと考えました。自分個人は、本能のままに振る舞った時に無意識に道徳的になっている状態、境地というのが理想かなぁ、と思います道徳にせよ理性にせよ本能にせよ、人類が百人前後の集団しか築かなかった時代の社会規範の中で培った習性なんじゃないでしょうか。今や人類の規模は当時の数千万倍、数億倍にも膨れてしまって、本能に刻まれた規範はどんどん薄まっていって、言語化すると「道徳」という陳腐な言葉にしかならなくて、そういったことが生きずらさ、閉塞感につながっているのかなぁ、などと想像します。「それ」は本来なんだったのか?、ってことなんですよね…
良識が先天的に与えられると信じてる人の本ってこと?
知性が利己的って利己的って知性が利己的ってこと?
なんでこのチャンネルをおすすめしてくるんだよRUclips君
自分を生かすのが道徳、あー、アインシュタインも不完全だしお釈迦様もじゃなかったっけ
結構編集されてる
なんか全員道徳心がある前提で話してるけどさ刑務所に行って連続殺人犯に「内側の道徳心を高めよう!」って説いてみれば分かるよ
日本人の徳は武士道精神に全てある。
さなゆ
道徳というか、「言葉の世界」の話しですよね。僕は幼少期に「言葉の世界」に入れなかったです。だから、疎外されてドロップアウトしたってことです。でも、なぜか能力的には恵まれて 今は落ち着いています。人の中で生きてこなかったので、共感性はありません。
心は強いと思ってたけど自強他弱なのかな、自弱他弱と比べると見えてる範囲が多いので。気になるのは他の影響を受け過ぎている事です。本Aが駄目だった時、本Bを求めてしまう辺りとかです。他弱を直すには自分で問題解決する能力開放度を上げて行く他ありません。
「偉そうについて仮説」:道徳を破った暴虐者の部分は道徳に限らないとすると、人としての成長(人としての基本)が平均より高くなった状態(偉い)が「偉そう」を形成していく。これは自分の経験にも当てはまる。自分の場合は「なんでそんなに偉そうなの?」と言われたら心の中で「偉そうなんじゃ無くて偉いんだよお前より」と呟いておく。
「偉そうへの対応」:常識に縛られるのか、常識の中の憧れを目指すのか、自分を飾らずに行くのか、それ以外を求めるのか?は予め決めておいた方が気が楽だと思うよ。
聖書を読むのがオススメ聖書は気になった所から読んで下さい聖書解説のyoutuberも沢山いますから
う〜ん「苦しみを少なくしたいっていうゴールがある」って言ってますけど、なんかゴールが曖昧で果てのない目標じゃないですかね?今より少なくなったら終わりなのか、それとも少なくなったら次はもっとより少なくしたいのか最終的にはこの世を天国にしたいのかよく分かりませんが…人生というのは基本的に苦しいものです。みんな魂の修行の為に現世に生まれているので、この世が天国のようになってしまったら修行になりません。なのでこの世はこれから先もずっとクソみたいな社会が続きます。多分クソみたいな社会を維持する為のNPCみたいな人間もいるかもしれません。ただ現代の日本はかなり恵まれてて生きる分には余裕があります昔みたいに明日食べる物も無いなんてことはありません。むしろ生きるの楽勝超イージーモードです。だからこそ…余裕があるからこそ心を病むんですよ生命維持に余裕が無い状態ではそれに集中する必要があるし心を病んでいる暇はありません「小人閑居して不善をなす」なんていう言葉がありますが、暇だから余裕があるから余計なことを考えるんだと思います
ゴールというより方針というイメージなんじゃないですかね?この壮大なテーマに対してゴールを明確に設定するのは不可能だと個人的には思います。仮に明確にゴールを設定し、例えばもしそのゴールを達成した場合、人類はその先進歩しなくていい、というのも違和感があります。なので、一歩ずつ不幸を減らしていきましょう、というのは方向性としては間違ってはないと思います。そのうえで、コメントされたようにもし暇すぎることが不幸をもたらしているのであれば、人口を減らしたり技術に制限をかけることも人類の進む先の一つの方向になるのではないでしょうか?
@@satori-5000 不幸を減らしたいなら不幸という思い込みをなくせばいいと思います先にも述べたように昔は食べ物があるだけで幸せという価値観があったはずですが、現代ではそれが当たり前になって逆に不幸を感じることに積極的になってる方が多いように感じます「気にしない力」というのを磨くのがいいと思います。人口を減らしたり技術を制限する必要はありませんむしろ技術の進歩や何か夢中になれるものがあれば不幸を感じることはないと思います
@@ニャンティコア そういった解釈力、精神性を個人で磨くことも生きやすくする手段としてはあると思います。私も仏教や哲学などを独学ですが学んでいて、個人としては現状に不満はないです。ちなみに反出生主義者でもなく子供もいるタイプの人間です。その一方で、不幸を積極的に感じにいく人が多い現状は変えた方が良いと考えていて、この問題は個々人の精神性に原因があるのではなく、経済的な理由など構造的な原因に由来すると考えています。構造に問題があるのであれば、まずは構造に手を打つのがベターではないでしょうか。構造を変えていくには長い月日を要しますから並行して精神性を磨いて、個々人で対処することは間違ってないと思いますが、人類の方針として構造的に不幸を感じることが少なくなるよう働きかけることも間違ってないと思います。
@@satori-5000う〜ん、構造?不幸の理由を他人や環境の所為にしてるんですか?他責思考では幸せになれないと思いますけど、誰も不幸にならない世の中を作りたいならNARUTOのうちはマダラみたいに無限月読でもしますか?価値観が多様化した現代では幸せの形も人それぞれですし、みんな勝手に幸せになって勝手に不幸になりますよそれこそ人類の方針なんてものを決めるなんて神様でもしないですよ
無塩さんの動画一つひとつに、毎回深い共感と感銘を受けています。
さまざまなコメントが寄せられていると思いますが、あなたの発信を心から待ち望んでいる人たちは、ここに無駄な言葉を残さずとも、静かに共感し、深く内省しています。
どうかご自身のペースを大切に、これからも素晴らしい動画を届けていただけることを楽しみにしています。
知性が利己的であるという考えは目から鱗でした。よく考えてみると、イエスやブッダも自分自身で本を書いているわけではないので、言語以前の純粋な良心に従って行動していたのではないかと思いました。人を思いやるという一見すると当たり前の感情を、私たちは理屈を抜きにして取り戻さなければならないですね…。人を苦しめようとする人も、もしかすると誰かから苦しめられた経験があるかも知れないので、そうならないような世の中を目指して、身近なところから道徳を実践して行こうと思います。
えらそうでも良いと思います!
無塩さんのお話を聴くだけで心が豊かになるような気がします
自分を見つめるきっかけになるから嬉しいありがとうございます
無塩さん初めまして!お化粧について語られている動画から無塩さんを知って以来大ファンで、いつも動画を楽しみに拝見させて頂いております。RUclipsにコメントを書いたことが無かったのですが、どうしても気持ちをお伝えしたくてコメントをさせていただきました。
前回と今回の動画併せて、無塩さんのご考察に深く共感をいたしました。お話を受けて、倫理的な強さというのは「内的動機によって起こされる行動」なのかなと思いました。その逆に外的動機はいわゆる日本人が大好きな同調圧力、極めて他人軸な行為なのかなと。資本主義が蔓延した欲望の時代に、自らの内的動機である良質な感情を根拠に動くことが、仰るように良い世の中を作って行くことに繋がるのだろうと、私も思いました。
自分に理解できないものやわからないものを十把一絡げに「感情的だ」と揶揄する昨今の冷笑ムーブ、私も常々疑問に思っていました。主観になりますが理論とは、むしろ質のいい感情を飼い慣らした先にあるものだと思っています。その中で、ただ世の中に溢れる情報を食い尽くし、ロジカルであることをアイデンティティとしてしまう人が非常に多く、自ら思考せず知識量だけで人様のことを「未熟」と断定してしまう方が、浅はかだと思うのです。アンチコメは、そういう方々のコンプレックスやルサンチマンを刺激されてしまったためについたのではないかと思います。
私もいつもこのようなことを考えていますが、やはり批判が怖くて、どこにも発信できずにいましたが、無塩さんの動画を見て勇気をもらい、少しずつですが文章を書き始めました。批判のコメント(すべては確認はしていないので申し訳ないのですが)も寄せられているとのことですが、私は偉そうなどと1ミリも感じませんでした。むしろお若いのにしっかりとご自分の考えを持ち、発信をされていることに、感銘を受けました。今後とも、陰ながら応援しております🙇♀️
御身のご安全とご健康が第一ですので何卒ご無理はなさらず、ご自愛頂ければと存じます。次回の動画も、楽しみにさせて頂きます♪
無塩さん 初めまして!
私は鬱で生き辛さを感じてから、いろんな哲学入門書を読んでいます。
今、興味があるのはカント、ニーチェ、フーコーといったところです。
日常では哲学的な話ができないので、無塩さんの思考はとてもありがたいです😊
これからも無理されず、無塩さんのペースで発信されることを楽しみにしています🍀
あまり気にしすぎない方が良いと思います。物事や思想や生き方を深く知ろうとする考え方に共感しています。
色々な考え方の人が存在していてどうしてもわかり合えない人というのは意外と多いように感じます。そんな人達が時には攻撃的に見えても耳を貸す必要も理解する姿勢も必要ないです。
それぞれの正しさを追及すればよいと私は思いますよ。
そういう考え方もあるんですねー程度で、、楽観的過ぎかな。。
議論は進められない。道徳には誠実さが絶対条件。
めちゃくちゃおもしろい。
初めまして、数日前から拝見しています。
この様に言葉にしようとする態度が誠実だなと思いますし、聞くのも好きです。
ご自身のペースで続けてくだされば嬉しいです。
内側の道徳の何割が本当に内側の道徳なんだろうかというふうに考えてしまった。人を助けようと思う心は本当に生得的な道徳なのだろうか。子供の頃に刷り込まれた社会のための道徳でないとどうして言い切れるだろうか。
本能で生きてるアリですら7割がサボって生きているらしいけど、その7割のために死ぬまで働く3割に自分はなろうと思えるだろうか?
思えなかった時点でこの欲望社会に対抗することは不可能だと思う
緩くしても良いのです。責任は個人レベル。個の確立。
良いことばかりしたがるもんで、悪い人間が仰山できた。善くあろうとするのは善なんよ。
動画ありがとう!僕は内側の道徳が人生の一番大切なものだと思っている。でも最近僕なかなかサボってるような気がする。君の動画を見て大切なことを思い出せてよかった。社会と人間の想像力に生み出された嘘を全部見抜いて、真実にたどり着くことは僕の唯一の夢です。
何か意見を述べることに対して偉そうと述べる事が結構不思議だなと思いました。
たしかに、話し方って大切だとは思いますが、ただ意見を述べているだけですし、偉そうなのがダメな場合は、なぜ偉そうだと問題なのか説明すべきだと思います。
そもそも理想とする社会像や人の姿を誰もが持っていると思います。これを口に出すと争いの元と思われがちですが、それは暴力まで行く場合、あるいは絶対的に交われない考え方である場合だと思います。
人が社会や国際問題に対して意見を言うと何かと偉そうと言われがちな気がします。それはその人にとっての世界が自分にとどまっているからではないかと思います。実際はその問題が自分や国の行先に大きく関わることなのにです。国や社会が破綻すれば今の平凡な日常が無くなるのは自然なことな気がします。社会とか主語が大きいことを語ると何かと叩かれやすいですが、ならどうやって意見を述べれば良いのか分かりません。偉そうと意見より、賛同できないなら、できない訳を述べる。必要なのは議論であって論破ではない。そんなことを繰り返して、より良い集団を形成しようと試みるはずなのに、それをやめてしまうと権力がのさばります。
そうして無関心な間に、無理に交わらないものを許容して、伝えることも諦めた結果、諸外国の権力によって搾取されているのが現状かと。それほどに銀行を作って資本を牛耳った人々の力が強いということも現状が相当ひどいことも理解していますが、道徳の普及はそれらに対抗する一つの方法かと、最近は道徳ないとか人づてに聞きましたが😅
色々書いてまとまりが悪くなりましたが、偉そうと言われても、思考の過程を説明しているなら気にしなくてよい気がします。
道徳について、大変面白い動画で勉強になりました。頑張ってください🙌
苦しみってマッチングアプリでイイねしてもらえないとか、似合う服が無いとか、高くて買えないとか、そういうものから、病気の苦しみまで、色々あるけど。大前提として質の高い教育が無ければ全て徒労になる気がする。
これは反論ではなく僕個人男としての体験という事で…
人に優しくしたいと内から思えるには平均以上の裕福な生活で鬱屈が無い事、もしくは、本来の気質が備わってようやく湧き出るものかなと。
人には色んな背景があって、酷い事をしても心が痛まない様な奴は僕の友達の中にも居たりします。
ATMのお話にて、急かして来た男性がもし僕の友達だとしても道徳ってハッキリしてないので善悪は説けません。「おいお前格好悪いぞ」って印象付けの言葉を投げて次回が無い様にと種を撒く位しか出来ないです。
道徳時代に寄せて行く事は素晴らしい考えだと思いますが、具体的な行動にはどの様なものがあるでしょうか?
私もこういった話が大好きなので、聞いていてとても楽しかったです!
今日の動画の内容に関わることが書いてある本を紹介させてください。(感想が聞きたいなぁ…w)
・『感情の哲学入門講義』源河 亨
内容:内側の道徳の源となる「感情」について。
・『「みんな違ってみんないい」のか?--相対主義と普遍主義の問題』山口裕之
内容:外側の道徳(社会の道徳規範)は内側の道徳(感情由来の個人の道徳判断)を材料にして作られる、など。
・『哲学入門』戸田山和久
内容:人間がより原始的な生物から進化してきた過程で、道徳や責任の基礎となる「自由」がどのように進化によって獲得されてきたか、など。
おまけ(私の世界観)
・世界を「事実」と「価値」に分けて表現すると、人間は、事実は知覚によって認識し、価値は感情によって認識している。
・事実の例:「目の前に蛇がいる。(視覚による認識)」
・価値の例:「目の前の蛇は危険だ。(恐怖という感情による認識)」
他民族多文化強制社会で道徳がどうなってゆくのか見ものですね。
人間の内側には『良くなりたい』『良くしたい』って言う衝動があると思いませんか。その衝動が、外側の何とリンクしてしまうかで、その人間の選択に影響を及ぼしているように見えます。
今話題の松本氏、長渕氏、中居氏などは、『モテる事はカッコいい』とか『こう言うのがモテだ』とか『モテない男は惨めだ』などの、自分の外側の領域にある、メディアによって人工的に作られた社会通念と、『良くなりたい』という内側からの衝動が繋がってしまった結果なのではないかと。
内側と外側が両輪になって、人間はどんな風にでもなっていってしまうのだと思います。気をつけていないと、ヤバい生き物にもなるんですよね。逆に『主体性を重んじる事は不可欠』『尊厳を傷つけてはならない』『愛とは最上級に大事にする行為』などの社会通念と繋がれば、人間はそのための選択、決定、実行をするのだと思います。
この世界にメディアが何を吹聴するのかで、人間はどうにでも流される生き物である、という可能性もあります。メディアで何を吹聴するのかの決定権を持っている人が、この世界を動かしているのだと言う風に、私には見えます。
無塩さんは、とても思慮深くて聡明な方だと思います。私は無塩さんのコンテンツを楽しく拝聴しています。ありがとうございます🙏❤️
面白かったです。応援してます。
内側の道徳もあると思いますが、内側の邪悪さを外側の道徳や理論が縛っている側面もあると思います。
一個前の動画で知って、コメントしてからこの動画を見ました。
前の動画のコメントでは自分なりにここが違うのでは?という趣旨のことを書きましたが、それはより「良い社会になるためには」という前提で書きました。
そのこと自体を明記していなかったですが、もちろん個人に対する攻撃ではないので、反論コメントを見かけても気を病まないでいて下さるとありがたいです😢
(頭で分かっていても難しいかもしれませんが…)
ナルシズムとか意味分からんコメは、目に入った瞬間に無視か削除でいいと思います。
無塩さんみたいに自分の頭で考えれて、自分の意見を表明出来る人は素晴らしいと思います。
声も落ち着いてて好きです。
では、ここから動画の内容で気になったところを書こうと思います笑
内側の道徳には善悪がないが、何をすべきで、何をするべきでないかが分かる。という部分が気になりました。
それに善悪をつければ、人によってそれが違うので道徳は曖昧になると書かれていたのであれば、人は個人個人で内側の道徳が違うということは前提だと思うのですが、にも関わらず内側の道徳に従えば良いというのがよく分かりませんでした。
前回の動画からずっと僕が違和感を感じていた理由で、これかもって思ったのが、無塩さんが性善説を元に話しているから?かもです。
遺伝的に決定する善悪(社会が勝手に決める)はかなり割合は少ないと思いますが、物心がつくまでの幼少期の体験によって作られる価値観というのはかなり個人によって差がつくと考えています。
なので個人的には、いわゆる善側に寄った価値観の人が多いとは思いますが、悪(と社会に見なされてしまう)側の価値観を持った人も無視出来ない程度の割合で社会に存在していると思っています。
生き残るための犯罪が身近にある壮絶な環境で育った人とかです。
なので、人の内側の道徳心に従った方が良いという意見に違和感があるんだろうなと思いました。
僕は結構理屈を捏ね回すのが好きなのですが、動画の始めにあった、人を殺してはいけない理由がないということについて、僕はそれを正しいと考えています。
そもそも人を殺すこと自体は悪ではないが、大多数の人にとって、共感できる理由無く殺人をする者が同じコミュニティにいると不利益を被るので、ルールとして懲役or死刑を採用している、と考えてます。
大半の法律やルールはこれだと思っているので、基本的には大多数の人orその法律を決めた時の権力者を守るために作られたものという認識です。
なので、道徳も同様に大多数の人にとって有利になるように植え付けられる教育だ思っています。
なので僕の考える道徳は本の定義だと内側の道徳でもあり、外側の道徳でもあります。
義務教育以前に親や周囲から教えられること、もしくはそれらを反面教師にしたものが内側の道徳、義務教育以後に教えられるのが外側の道徳です。
内側の道徳であっても、それが構成される段階で他者の影響があるので、人類全員が漏れなく善人でないと、内側の道徳による社会のコントロールは難しいのではないかと思いました。
人それぞれ意見が違うので何が正しいとかは無いと思いますけどね。
考える機会をくださってありがとうございます😊
急におすすめに出てきました😮
前回に引き続きすごいおもしろい話で見入っちゃいました!
あと、本を読まずに暗誦されてるのもすごいですね
無理のない程度に今後の更新を楽しみにしています〜
後半のことに関しては、
ラインホールド・ニーバーの道徳的人間と非道徳的社会とかどうですか?
いろんな方に本を紹介されて大変だと思いますが、ぜひ読んでみてください!
ちなみに、このコメントは今後おもしろい話に展開する材料を、と思い善意でしてますが、
文字や論理だけになると攻撃的、上から目線にも見えますよね😢
どれだけ個人が自省的で道徳的でも、人と関わるところに予想だにしない問題が生じるってのが、ほんと厄介です。
こんな面白いチャンネル登録するに決まってrrる!
感情や勝手な思い込みではなく、思考を通した黄金率良いですね‼︎
是非、内側の道徳が生まれたのはどうしてか、その先の話しが聞きたいです。
コミュニティを築く動物なら今後知性を持って道徳心を持つのでしょうか?
慈悲の心ですね。ただ行き着くと殺生をしない、ベジタリアンに行き着くと思います。仏教のように
「内側の道徳」という表現に違和感。内側から出てくるものを「道徳」と「欲望」に分けることはできないでしょう。「人を助けたい」と思うのも「人を殺したい」と思うのも単なる欲でしかなくて、それを善悪に分けるには言葉の力が必須。だから道徳というものは言葉という形式で表現されるものてなければならない。
他人の目を気にして外側の道徳を自分で作り、「譲るべき」で席を譲る人もいれば、内側の道徳で「譲りたい」(助けたい?)で席を譲る人もいる。生き方が「こうあるべき」という他人軸か、「こうしたい」という自分軸かでも道徳は変わりそう。
苦しみを少なくしたいという意識が無意識下で嫌なコメントなどの苦しみを探すセンサーのようになってしまっている可能性があるかもしれない。自分の目的意識に関連しているから「苦しみ」と思うものが大きく見えてしまうのでは。
「苦しみを少なく」の良いイメージの固定観念が無意識下で何が起こっているかを気づきづらくしているような気がする。
うちの近所には、話し声やエンジン音が聞こえただけで、嫌がらせをやめろと威圧してくる人がいまして、その方の苦しみに寄り添うのは無理だなぁって思います。
反論すると激昂し、傾聴すると無限に時間を奪われた末に裏切り者と罵られます。
無塩さんが偉そうなつもりで配信していなくても、そう受け取る視聴者さんもいる
偉そうと受け取った視聴者さんの不快感を無塩さんが払拭する必要は一切ないけど、自分の知らぬところで意図しないことで苦は生じる
仏教で言えば一切皆苦
巡り巡って苦に帰る
容赦ない世界に感じる
でも、”この世は苦しみ”ということは、苦が世界のスタンダードな状態ということ
であれば、ひとときの幸せも楽も一層ありがたく感じるのではないでしょうか
自分の心が平穏になれば、他人に優しく赦すことができると思います
自分の内側の倫理を他の人に伝えるために論理を使って説明すると全く説明できなくて、論理を使って考えているうちにいつしか自分がXにいるような論破思考になっていって、はっとすることがある。
内側の倫理を他人に伝えるまたは社会の欲望主義に抵抗するためには、物語しかないんじゃないかなと思いました。吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』みたいな。
毎度のことながら貴重な言論をありがとうございます!ゴッホで思い出したんですけど、「自罰」って内側の道徳からなるものなのですかね?(耳切りの話ではなくて杖の話です) 一見すれば自分を卑下することで相対的に他者の評価を上げていたり、本来他人が下すべき倫理に則った「罰」を代行したりする素晴らしい行為に見えるのですが、社会的には「メンヘラ」だとか「おかしい」などと表現されることが疑問です。私も内側の道徳を尊重したいタイプの人間なのでこの蟠りを解きたいのですが、やはり現代社会がおかしいのでしょうか?現代社会を構成する人々が外側の道徳(固定観念?)に洗脳されている所為なのでしょうか?
ロックですね
クリシュナムルティなども同じことを言ってますね。
内なる世界の安定ですかね。
私自身は、自由度の高い世界から私自身が自ら画一的な世界を見てしまうことから苦しみが生まれると思ってます。
外に答えを探しても見つからない。→私自身が答えを探すからです。
その都度、解決するには、自らを顧みることだけだと。
ある意味では、思考の放棄による認識バイアスの正常化ということでしょうか。
言語依存的な部分があるのだと考えます。行動よりまず思考的な習慣とも言えるかも。少なくともそういうタイプに限定した話。
例えば、腹が立った時、因果で納得するより身体を眺めてた方が感情が収まり易い気がします。末梢血管のキュッとした感じや心拍数が増した感覚など。
私は食レポが下手なのですが、感情の説明も同じぐらい苦手です。うまく言えない。それでも、何とか果をひねり出そうとする。その結果、過度に一般化したり自己か他者を卑下するような結論が起こりやすいのだと思います。
道徳的な事柄でも身体は反応しているかも。立腹時はブレーキの為ですが、善いことであればアクセルとしての働きだと見做していいのかもしれないと思いました。
こういうのは、身近な人や家族とか友人とかに対して愛をもって接することが全てなような気がするな。
人の心の歪みは案外こういうところから生まれる。
まあ、こういうことを繰り返していくとただ身内に優しいだけの、いわゆる「ヤクザ」になってしまいかねないが。
人の苦しみや他者の裏切りみたいなことを考えていくと、結局、社会構造やゲームの話になってしまって、とりとめがないな。
実存的に考えている節はある。
理屈はあくまでも道具だと思うので目的にはなり得ないんですよね。一方で道徳は、例えば他者の不道徳を攻撃する手段となる時それは「外側の」に属するが、「内側の」と言っている方は道具にはなり得ないので、これがより本質に近いと考えました。自分個人は、本能のままに振る舞った時に無意識に道徳的になっている状態、境地というのが理想かなぁ、と思います
道徳にせよ理性にせよ本能にせよ、人類が百人前後の集団しか築かなかった時代の社会規範の中で培った習性なんじゃないでしょうか。今や人類の規模は当時の数千万倍、数億倍にも膨れてしまって、本能に刻まれた規範はどんどん薄まっていって、言語化すると「道徳」という陳腐な言葉にしかならなくて、そういったことが生きずらさ、閉塞感につながっているのかなぁ、などと想像します。「それ」は本来なんだったのか?、ってことなんですよね…
良識が先天的に与えられると信じてる人の本ってこと?
知性が利己的って利己的って知性が利己的ってこと?
なんでこのチャンネルをおすすめしてくるんだよRUclips君
自分を生かすのが道徳、あー、アインシュタインも不完全だしお釈迦様もじゃなかったっけ
結構編集されてる
なんか全員道徳心がある前提で話してるけどさ
刑務所に行って連続殺人犯に「内側の道徳心を高めよう!」って説いてみれば分かるよ
日本人の徳は武士道精神に全てある。
さなゆ
道徳というか、「言葉の世界」の話しですよね。
僕は幼少期に「言葉の世界」に入れなかったです。
だから、疎外されてドロップアウトしたってことです。
でも、なぜか能力的には恵まれて 今は落ち着いています。
人の中で生きてこなかったので、共感性はありません。
心は強いと思ってたけど自強他弱なのかな、自弱他弱と比べると見えてる範囲が多いので。気になるのは他の影響を受け過ぎている事です。本Aが駄目だった時、本Bを求めてしまう辺りとかです。他弱を直すには自分で問題解決する能力開放度を上げて行く他ありません。
「偉そうについて仮説」:道徳を破った暴虐者の部分は道徳に限らないとすると、人としての成長(人としての基本)が平均より高くなった状態(偉い)が「偉そう」を形成していく。これは自分の経験にも当てはまる。自分の場合は「なんでそんなに偉そうなの?」と言われたら心の中で「偉そうなんじゃ無くて偉いんだよお前より」と呟いておく。
「偉そうへの対応」:常識に縛られるのか、常識の中の憧れを目指すのか、自分を飾らずに行くのか、それ以外を求めるのか?は予め決めておいた方が気が楽だと思うよ。
聖書を読むのがオススメ
聖書は気になった所から読んで下さい
聖書解説のyoutuberも沢山いますから
う〜ん「苦しみを少なくしたいっていうゴールがある」って言ってますけど、なんかゴールが曖昧で果てのない目標じゃないですかね?
今より少なくなったら終わりなのか、それとも少なくなったら次はもっとより少なくしたいのか最終的にはこの世を天国にしたいのかよく分かりませんが…
人生というのは基本的に苦しいものです。
みんな魂の修行の為に現世に生まれているので、この世が天国のようになってしまったら修行になりません。
なのでこの世はこれから先もずっとクソみたいな社会が続きます。多分クソみたいな社会を維持する為のNPCみたいな人間もいるかもしれません。
ただ現代の日本はかなり恵まれてて生きる分には余裕があります
昔みたいに明日食べる物も無いなんてことはありません。むしろ生きるの楽勝超イージーモードです。
だからこそ…余裕があるからこそ心を病むんですよ
生命維持に余裕が無い状態ではそれに集中する必要があるし心を病んでいる暇はありません
「小人閑居して不善をなす」なんていう言葉がありますが、暇だから余裕があるから余計なことを考えるんだと思います
ゴールというより方針というイメージなんじゃないですかね?
この壮大なテーマに対してゴールを明確に設定するのは不可能だと個人的には思います。仮に明確にゴールを設定し、例えばもしそのゴールを達成した場合、人類はその先進歩しなくていい、というのも違和感があります。
なので、一歩ずつ不幸を減らしていきましょう、というのは方向性としては間違ってはないと思います。
そのうえで、コメントされたようにもし暇すぎることが不幸をもたらしているのであれば、人口を減らしたり技術に制限をかけることも人類の進む先の一つの方向になるのではないでしょうか?
@@satori-5000 不幸を減らしたいなら不幸という思い込みをなくせばいいと思います
先にも述べたように昔は食べ物があるだけで幸せという価値観があったはずですが、現代ではそれが当たり前になって逆に不幸を感じることに積極的になってる方が多いように感じます
「気にしない力」というのを磨くのがいいと思います。人口を減らしたり技術を制限する必要はありません
むしろ技術の進歩や何か夢中になれるものがあれば不幸を感じることはないと思います
@@ニャンティコア
そういった解釈力、精神性を個人で磨くことも生きやすくする手段としてはあると思います。
私も仏教や哲学などを独学ですが学んでいて、個人としては現状に不満はないです。ちなみに反出生主義者でもなく子供もいるタイプの人間です。
その一方で、不幸を積極的に感じにいく人が多い現状は変えた方が良いと考えていて、この問題は個々人の精神性に原因があるのではなく、経済的な理由など構造的な原因に由来すると考えています。
構造に問題があるのであれば、まずは構造に手を打つのがベターではないでしょうか。
構造を変えていくには長い月日を要しますから並行して精神性を磨いて、個々人で対処することは間違ってないと思いますが、人類の方針として構造的に不幸を感じることが少なくなるよう働きかけることも間違ってないと思います。
@@satori-5000う〜ん、構造?不幸の理由を他人や環境の所為にしてるんですか?
他責思考では幸せになれないと思いますけど、誰も不幸にならない世の中を作りたいならNARUTOのうちはマダラみたいに無限月読でもしますか?
価値観が多様化した現代では幸せの形も人それぞれですし、みんな勝手に幸せになって勝手に不幸になりますよ
それこそ人類の方針なんてものを決めるなんて神様でもしないですよ