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岡将男
Япония
Добавлен 28 окт 2012
ゆうなぎ鉄道保守工事
久しぶりに全線のレールのヤスリがけ、接触不良箇所のメンテナンスを実施。
百間鉄道部分の岡山城西櫓下のレールは、トンネル状になってる。その継ぎ目部分が接触不良。度々外に持ち出して運転するから、木の部分がたわむからだろう。石垣部分を取り外してメンテしたが、石垣は取り外しできるように改造。
実物でもおなじだが、壊れやすい所はてを掛け、改造も必要。
百間鉄道部分の岡山城西櫓下のレールは、トンネル状になってる。その継ぎ目部分が接触不良。度々外に持ち出して運転するから、木の部分がたわむからだろう。石垣部分を取り外してメンテしたが、石垣は取り外しできるように改造。
実物でもおなじだが、壊れやすい所はてを掛け、改造も必要。
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ゆうなぎ鉄道は、毎日が保守。
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ゆうなぎ鉄道はすべて移動を考慮して、畳一枚に分割が可能。しかし、その分補強材を押さえて軽量化してあり、経年変化で木材がたわみ、接触不良もおこし。今日は百間レイアウトな接触がわるく、調べると設置位置がずれていて、木がたわんでいた。
ゆうなぎ鉄道夜景2024-1020
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久しぶりにビデオカメラで夜景を撮影してみた。どうしても暗いと映像は荒いが、夜汽車の風景はいつも癒やされる。EF57は初期KATO、客車も特急つばめでほとんどKATO。食堂車のみGMで、室内灯がつけられない。 レイアウトの昭和52年TMS発表の部分などは、いわゆる麦球という電灯。手前の方は発光ダイオードで、半分くらいはポポンのシステムだが、高く付くので、抵抗を自前で付けたものもある。
今夜のゆうなぎ鉄道、裏側
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50年前に出来たその裏に、仮設でさらに外周線をはしらせている。まだまだあちこち、かんせいしない、それが鉄道模型のいいところ。実物と同じように、再開発が続く。
今夜のゆうなぎ鉄道
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ありゃま、久しぶりに24系25型を走らせたら、連結が外れて、プッシュプルになってしまった。連結器のチェックも大事だねえ。たまたま今月のラクダ瓦版には、そんなことも書いてある。
ゆうなぎ鉄道全景
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たまには、全景を撮影しておこう。日頃は動かさない、内周エンドレスは昭和50年から製作した部分で、165系を走らす。デュアルキャブコントロール方式。外周線は二本とも、ブロックコントロール。デュアルキャブは配線が複雑で、拡張するのは大変。 レイアウト設計時には、沢山のポイントを設置したくなるが、ポイントマシン設置とその配線は大変なことになる。 結局手の届く範囲やヤードは手動でいい。あおまポイントは23個設置してあるが、動くのは13位で、50年ならまあ、よく持ってる方だろう。
今晩のゆうなぎ鉄道
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山陰線を走っていたDD54はヨーロッパ風のデザインで、大変気に入っていたが、見たことはあるかないか、わからない。オハ60を引かせた見た。70系スカ色は福塩線を走ってたらしいが、これは見たことある。 キハ80系は、大阪からかもめとか、なは・日向で、岡山駅を通過していたからよくみた。岡山から大阪のマッハ模型に買出しに行ったとき、食堂車キシ80を利用したな。中学3年のとき、55年まえ。
今日は敢えて逆光のゆうなぎ鉄道。客車は紙製の自作の、オハ60、45年前に作った。
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今日は敢えて逆光のゆうなぎ鉄道。客車は紙製の自作の、オハ60、45年前に作った。
今夜のゆうなぎ鉄道は、153系改造のキハ65系ディーゼル急行。当時は車両数が少なく、色々改造したものだ。
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今夜のゆうなぎ鉄道は、153系改造のキハ65系ディーゼル急行。当時は車両数が少なく、色々改造したものだ。
ゆうなぎ鉄道、毎晩の試運転。動かしてないと壊れるし、メンテや経年変化の補修、
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ゆうなぎ鉄道、毎晩の試運転。動かしてないと壊れるし、メンテや経年変化の補修、
二つのレイアウトのサイズを教えてください。
ゆうなぎ鉄道部分は、2384mm×2074mm 百閒阿房鉄道部分は、1824mm×912mm 8畳の部屋のど真ん中にあります
ありがとうございます。
そういえば、イベント会場に設置されたりしていましたね。前に、金谷さんのブログで拝見したことがあります。実際には無いですが、そういう仕組みにされていたのですね。 今なら、メイキングの様子も、RUclips動画として、すごく興味を持たれるでしょうけれど、すごく早い時期に作られているから、動画を意識したコマドリとかは、されていないのでしょう。 やはり、アナログの写真は、現像まで含めてのお金でしたから、非日常な「ハレ」の日の写真ばかり、私のアルバムにもあり、家の周りの道、遊んでいた場所など、本当は見てみたい場所はなかなか残っていません。 デジカメになると、パラパラ動画にできるよう意識して、ストーリーを考えつつ、何枚か余分に撮って、繋ぎのシーンも入れられるようにするようになりましたが、ここ10年ぐらいのこと。 それまでは 動画は動画として、ビデオカメラを回していました。だから、記念公演の時のカメラも、先輩から頼まれ、岡さんの前に座ることになりましたが・・・。専属の方が来られていて、あまり役に立たずでした。
夕方、地元駅に着く列車の場合、外が暗くても、さほど感慨はないのですが、長距離の列車で外が真っ暗闇の中を走り続けている夜行列車に、乗っているときは、ひたすら寂しい気分になっていたこと、思い出しました。どうしてなんでしょうね。 通常のモーターの他に、車内にこれだけの灯りですと、最初から、そうした容量も計算して、配線されていたんだな、と感じました。 蛍光灯の光の色、白熱灯の光の色、そして、暗い建物もある・・・・確かに、あの頃の夜景の中を走っているんだな、と思い出されます。 良いですね。 麦球、最初に使ったのは、鉄人28号のプラモデル、途中で作れなくなり、同級生の女の子の歳の離れたお兄さんに作ってもらった小学一年の時でした。 小さな石灯籠を焼いて作り、仕込みましたが、暗いので、箱庭にまで作り上げられず投げていたものが数日前見つかりました。時間がある時、LEDに入れ替えたいと思います。 最近、乾燥してから、粘土を彫る技術が身に付いてきたので、そんな技法で石灯籠も作ってみたいと思います。 篆刻を少し習いました。ただ、油断すると、やはり、折れてしまいます。石よりは、脆いです。土を捻って作ると、表面が滑らかすぎて、質感がイマイチでした。
意識して、蛍光色と白熱色を混ぜていますよ。明るさも抵抗で゜コントロールできます。電気容量を計算しているわけではないですが、足りなければコンセントが増えるだけです。
子の時代のローカル主役といば51系電車の宇野線・赤穂線目立ったが姿が重い出すが映ったないのは残念
旧型電車には興味が無かったから、写していないのだろうと思うけど、鮮明に覚えていますよ。外にも写真とかあるかもしれないので、探してみます。
いいなあ・・・・
裏側、ありがとうございます。消えた車両が、どのようにして、また、別のところから出てくるか。想像はしていましたが、実際に見ると、スッキリしました。「腑に落ちた」という現象でしょうか。 わかっている、と、実際見た、は、違いますね。 サンダーバード3号・・・があるように見えましたが・・・。
サンダーバード2号はあるよ!でかい!
@@岡将男 様、それは、素晴らしいです。ワタシモ、2号は、買ってもらいましたが、普通サイズです。4号もあり、動くのですが、2号の中には入りません。2号にセットされていたのは、航空機事故で車輪がわりに走った三台の台車達、のミニサイズです。
拝見しました、やすきち模型部屋を観ている様です
やすきち模型部屋、のぞいてきました。なるほどいいですねえ。
小学生の時に鉄道模型趣味に掲載された記事を何度も読みました。古墳が懐かしい😂こんなに発展してたんですね。凄いです!
ありがとうございます。若いときの成功体験として、その後のLRT推進運動の糧になってますよ。 racda-okayama.org/ 特急電車大好きだったから、水戸岡さんにMOMOのデザインを頼んだのはもう23年前だな。ゆうなぎ鉄道に着手してのは49年前ですよ。
お返事ありがとうございます。憧れのレイアウトの作者様と連絡がとれるなんて!感動です😂
@@ueue476 わかるわかる、最初のTMSの取材には、大阪の中尾豊さんが来られて、大感動したものですよ。47年たって、僕の方がもっと年になりましたね。
またまたお返事ありがとうございます。鉄道模型に夢中だった頃を思い出します。質問なんですがよろしいでしょうか?当時のTMSの記事の中で153系か165系が走っていましたが、あれは自作だったのでしょうか?まだKATOからも発売されてなかったので、羨望の眼差しで見ていました😊
@@ueue476 あれは、窓を抜かないで、紙で作った。先頭はグリーンマックスの113系の頭を使ったかも。
今は、成人した娘が、小さい頃、クリスマスのイルミネーションの横を車で通るたび、反応したり、紅葉が見事な木の横を通ると、「真っ赤だな、真っ赤だな」と口ずさんだりしていましたが、私は、小さい頃、この、「コンテナ列車」に反応して、「コンテナ、コンテナ・・・」と連呼していた事、思い出しました。 何年か前、外国の列車動画などが、目次に出てきている事があったのですが、何キロも続く貨物列車って、壮観ですね。 今回も、列車の運行に、記憶を刺激されたり、穏やかな気持ちにさせられたりと、いい時間を過ごさせてもらいました。 昔、箱庭用に、ミニ石灯籠を粘土で作り、焼いたものが、出てきました。麦球をエナメル線で仕込んでいるのですが、多分、光量が少なくて、気に入らず途中で投げた記憶があります。LEDの小さな球を大量に買ってしまっているので、リード線を半田付けして、光らせてみて、適度な光量だったら何かに利用したいなと、考えています。 電気工作の材料も、買い付けたものの、なかなか取り掛かれなくて、今は、庭に、小さな窯を作っています。大きい薪の窯だと、なかなか焚けないので、小さいのが欲しくなり、経費をかけずにありあわせのもので作り始め、体力の衰えを感じ、最後の窯になるかな、って思いつつ、しています。
ものを作る、工夫してチャレンジするのは面白いね。この数年、久しぶりに電気工作をして、2mm角の発光ダイオードを買ってきて、三灯式信号機を作って、電子制御しようと、マイコンやプログラムも触ってみたけれど、1基作って、中断。交差点の4基を作るのには、あまりに目が見えないし、指が動かない。 焼き物は、特殊器台復刻をやって、その面白さはわかるけれど、体力が無理だね。親父が、有名になる前の備前焼にはまっていて、よく窯元に連れて行かれた。新幹線開通以前だな。
@@岡将男 さま、LEDの単体に、リード線を半田付けするのは、難しいですね。 50個単位で安く買って、少しくらい失敗してもと、挑戦し始めましたが、成功率低くて、線付きの値段に近づいています。 最近、ダイソーの眼鏡型虫眼鏡、2倍を買いましたが、焦点深度は浅いけれど、よく見えますし、両手が使えて楽なのですが(財布にも優しかった)、30分が限度ですね。 視神経と、調節筋肉が疲れすぎます。 もし、ミニチュア用の焼き物が必要でしたら、声をかけてください。 もう、プロは引退して、陶芸クラブでのんびり遊んでいますので、腕も落ちてはいますが、時間はありますので、挑戦してみたいです。 数年前、森の学校に1/10サイズの近くの前方後円墳復刻の話があり、円筒埴輪の1/10サイズも作る感じになっていましたが、土砂の量と価格で、そのまま流れました。 20cmくらいの高さなら、作りやすいけれど、1/100サイズだと、2cm。これは、技術的に難易度高いです。粘土が軽いために、動いてしまい、削りなど、電動ロクロですと難しいです。 陶棺もそうですが、特殊器台も、作るのも焼くのも、巨大ですから、難しいですね。 森の学校の穴窯クラスですと、無理です。 可真の発掘された穴窯なら、可能かもしれないです。
有難う御座います 実はここ10年くらい作っては壊しでレイアウト作ってますが壊す理由がポイントの接触不良なんですよ(笑)で最近フレキシブルレールの魅力に嵌りましてどうせならPECOのポイントに変えようかと思ってますがお値段以上に耐久性有るのですね
今の組レールの耐久性は、KATOにしろTOMIXにしろ、普及させるため、畳の上で組んだり外したりするのを前提にしているから、短期間で壊れるのは当たり前ですね。 PECOのポイントマシンはバネも強いので、16V位の電圧で電磁磁石を動かす。転換はきっちりできます。固定レイアウト前提だから、設計思想が違いますね。それで僕の場合は二個だけTOMIXのポイントを使ってるけれど、転換ミスが数年で出ている。
総社駅って40年くらい前には駅前にホテルニュー吉備路ってありましたよね。岡山 倉敷旅行して宿泊した記憶あります。
あったねえ。おそらくうちの親族がやっていた、医院の後がホテルになった。
初めまして 昔のTMSで見ましたが今なお現役で 発展されてるのですね。線路 特にポイントのメンテナンス 交換などは何か特別な事されてますか❓
ポイントのメンテナンスは、PECOなので、先端レールの接触不良の時は、ヤスリで磨いたり、アルコールで拭き取る。それでもだめなら、先端部をやや折り曲げて、接触を強める。 しかしアルコールを使っていると、根元のバネ部分のプラスチックがおおむね25年くらいでは、割れてくるね。その場合は、接着剤垂らしたり、補強のプラスチックを入れたりして、バネを支える。 それでも駄目なら、ポイントの取り替え。前後のパラスを剥がしたりして、抜き取るのが大変。まあ交換そのものは3時間くらいで出来てしまうが、全体をばらしてやらないと出来ない位置もある。今まで交換したのは5カ所くらい。
キハ82,スカ線、湘南電車、DF50 有難うございます50年前!感激です 2:45
古くからの車両ばかりだから、あれこれ出して、修理していますよ。中には部品が無かったりする場合、作ったりしています。壊れても全部、部品に分解してありますから、何とかなるものです。
広大なレイアウトですな もっと至近距離からの映像見て観たいです
スマホで気楽に撮ってますが。久しぶりにビデオ出して、短いカットで編集してみますよ。
今日も、朝から、見せていただきました。 最初に目に入る天満屋のロゴ、広島に住み始めた時、買い物に行ったのが天満屋と農協購買部でした。 それにしても、改めて見ると、巨大な施設ですね。どこをどう通っているのか、隠れた部分を想像して楽しんでいます。
最初はCMCにしていたけれど、天満屋のロゴを切り抜いて作って、総社駅前にあった、天満屋ストアー総社駅前店をモデルにしているよ。
@@岡将男 様、説明ありがとうございます。 総社は、新入社員教育が終わって、広島営業所岡山出張所に赴任して、最初に担当させてもらった地域(笠岡〜玉島、総社から今の高梁市地域)なので、土地勘はある方なのですが、病院、医院のことばかりしか、見ていませんでした。 その頃写した国土地理院の航空写真で、確かめてみます。
昭和50年の空中写真で確かめました。屋上にパラソルがいくつか広がっているビルが、駅の北東にあるようなので、それかなと、思いました。 が、その後の地図ですと、森下病院に。私が訪れていたのは、昭和57年夏ぐらいからですから、すでに、病院に変わっていたかも知れません。長野病院に行き、ここがあの・・・とか、思っていた頃です。
久しぶりに幾つか動画を見て見ました。逆行。特撮のテクニックの一つです。こういうのもありですね。(^^)
毎晩寝る前に模型部屋に入って、少し動かす事が多いのだけれど、真夜中だから夜景を楽しむために、部屋のライトを消して、間接照明でうっすらと見えるようにして、夜景を楽しむ。 逆光は初めてやってみましたよ、西日が当たる部屋なので、ちょくちょく面白いとは感じていたけれど。
@@岡将男 私も旅行の時とかに偶然良い写真が撮れたりする時がありますが、光の加減とかって、いろいろ奥深いものがあります。
本当に、すごい作品群です。各々のディテールも細かいし、統一感もすごいなと、見るたびに思わされます。 今日、「保守」というキーワードで気になったのが、「動き」に関するメンテナンスだけでなく、埃など、どうされているのだろうかということ。 私の主な収集品は、陶器ですから、最終的には、洗えば済みますが、並べたままの状態の時は、作品と作品の間にはまったホコリに苦慮しています。陶器より細かい凹凸、質量の軽いものが多い状態、本当に大変なのでしょうね。
ホコリ対策は、何もやってません。ただ模型専用の部屋ですから、毎日寝る前に10分ほど入るだけですね。日常生活がないので、ホコリは立ちませんが、数年に一度は、掃除機を持って、屋根の上や道路を、ホウキのように、太い筆でなでながら、吸引します。レール周辺だけ吸い取ることもありますが、これはホコリをモーターにかむと、ギアが壊れるから。ギアの調子が悪くなれば、車両を分解掃除しますね。 まあそうやって、一番古い部分は49年。 レールは汚れが酷いと、紙やすりで削り、あるいはアルコールをしみこませた綿棒とか、スクレーパーで汚れを取る。しかし一番簡単なのは、指でレールをこすり取る。空気中には油分があり、車両が走ると、スパークして、レール表面にスパークで空気中の油分が炭素になって、溜まるのです。だから指先の体が持つ油分で拭き取ることになる。こんなことやってるのは、僕くらいかも。指先がすぐ真っ黒になるが、ティッシュでふくと取れる。 保守するには、きっちり、理屈を理解することです。
@@岡将男 様、今回も、詳しいお話ありがとうございます。 私は、近い世代なので、未来に繋ぐことは、少ししかできませんが、読んだ若い人に、共有してもらいたいなと思います。 蛇足ですが、私の手のひらの油、ハンドルのスポンジ部分を溶かしたり、漫画雑誌の表紙の印刷を溶かしたりしてしまいます。 ですから、ステン鍋の汚れを磨いてとる時に手で擦っています。 唾液は、オムツかぶれに効きました。母親の方はダメでした。 人の殻型からの分泌液、結構神秘ですね。
すごいですね。 今回は、建物の方に、注目させてもらいました。これを一つずつ作られたのですね。懐かしいような建物も、散見しました。 同級生が、近代化建築?の残されている写真を撮り歩いているので、それを整理するためのネット上のページを作ったのですが、そこに入ってくる建物とかでみたようなものが、あちこちに並んでいて、民家そのものも、力強い建築の時代のものがあって、住んでみたくなります。(私は、熊山町の田舎暮らしなので、違う雰囲気の街並みに魅力を感じます。) そのページはこちらで。よかったら、みてください。友人が、自分で追加できる仕組みなので、どんどん増えていました。しばらくみていないうちに。 www.akaiwa-city.com/cgi-local/mg3album/kh_index.html
Cool :)
sanks
この世界の中の「物語」、色々想像してしまいます。
20大後半、四国によく行っていました。金曜の夕方から出かけ、日曜は暗くなってからフェリーに乗り帰ってきていました。私は、この景色の中を走っていたんだなと、なんだか俯瞰して見ている感じがして懐かしいです。 若い頃から、箱庭を作りたい、ミニチュア作りたいという気持ちはありましたが、何こ度につけ、実行力がなくて、手をつけないまま、この世から消えそうです。 実現されているのをみと、「やはり」すごいなぁ、と思います。講演でお聞きした「1000時間の・・・」話もそうですし。
実物は、まだ、みさせていただいていないですが、動画で見るだけでも、すごいですね。 車の無い母子家庭でしたので、幼少期の家族旅行は、祖母を含めた3人でいつも列車でした。潮干狩りを含めてよく行った赤穂岬は、国鉄、片鉄、国鉄と乗り継ぎで、かなり遅くまで蒸気機関車に乗れた記憶があります。寝台列車で九州に行った時は、目が覚めたら長崎でした。その頃の思い出が蘇るような、風景ジオラマも素敵です。
レイアウトを計画した昭和50年ころ、単なる鉄道模型を走らせるだけでなく、時代設定と地域設定を設計時からきっちりや婁方向付けがありました。Nゲージ草創期の、最初の本格的鉄道模型レイアウトの一つだと思います。 最初の「古墳のある風景」は岡山県南の、亜幹線の駅、総社駅あたりの昭和40年代という設定。昭和52年に鉄道模型趣味に発表。外周線は昭和60年に鉄道模型趣味に発表したから、昭和60年代の設定。 別にある内田百閒阿房鉄道は、岡山城と旭川、百閒生家と操山の瓶井の多宝塔を再現してあり、大正から昭和の岡山がテーマ。全体に地面や崖は、吉備地方の風化花崗岩の色にさています。木も落葉樹主体。 片鉄は乗ったことが無いけれど、蒸気機関車が走ってましたね。赤穂線の伊部で見たけれど、あれは貨物を引っ張っていた。赤穂線は昭和37年開業で、それと同時に西大寺軽便鉄道が廃止されたから、覚えてます。 赤穂岬は小学校時代にも行ったが、最近も泊まったなあ。中学の修学旅行は長崎で、寝台列車だったけれど、C57という蒸気機関車が現役だった。昭和44年。まあそういう思い出を描いているつもりです。
@@岡将男 様、とても詳しい説明ありがとうございます。一度読みましたが、時間をおいて、何回か読ませていただきつつ、動画も見させていただく必要を感じました。色々な場面について、教えていただきましたから、その辺りの古地図とか、航空写真も、参考にして行って(国土地理院ページに)、そうしてまた、動画に戻ると言うことをしたいなと思いました。 熊山からですと、熊山ー和気(山陽本線)、乗り換えて、片上鉄道で終点片上駅。そこから歩いて、高架上の西片上駅(赤穂線)ー赤穂駅で、行っていました。帰りはこの逆ですので、取ったアサリをぶら下げて駅間移動は、疲れもあり長く感じました。 蒸気機関車の水と石炭の補給設備は、和気駅の一番南側ホームの東端にあったと思います。北へ乗った記憶はありません。 片上側からの峠越えがすごく低速になり、飛び降りて走り、また飛び乗りたい衝動が記憶にあります。おそらく、錯覚でそれほど遅くはないと思いますけれど。
Good. So much work!
その後、製鉄は成功しましたでしょうか?
確かに、鉄を付近だ塊は出来たようだが、製鉄に成功したというわけでは無いと思う。磁石にちょっとついたというレベルじゃあないかな。
井原鉄道線が電化して電車急行が走っている。しかも153系だ~😊
確かに、井原鉄道の単線高架部分を意識して、作っていますよ。全体的には、吉備の総社周辺をイメージして制作してますからね。
おお、いい感じのレイアウトですね。雰囲気あります。
サンキュー。Nゲージとしては、国内最古参だと思いますよ、1975年から制作してますからね。まだトミックスやKATOの組レールを売って無くて、ピコのフレキシブルレールとポイントを使ってます。緩和曲線が入るから、カーブは自然に見えます。 高架線だけは、トミックスの組レールを使用していて、取り外せます。
Boah, eine bombastische Anlage. Sehr schön gestaltet.
Danke
Hervorragende Arbeit. Danke für's Zeigen. Das ist ein ABO wert - genau meine Wellenlänge :-)
Danke Ich habe deine Modelleisenbahn gesehen
カトーのキハ20、キハ25、キハユ二26は当時確か850円、動力車でも2650円でしたので、小学生の私でもおこずかいで買える価格でした。地元の伯備線でも当時走っていましたので、とても馴染深くたくさん集めていた記憶が蘇ります。懐かしいの一言です。 ゆうなぎ鉄道さんのレイアウトも高架線とか増線されて随分賑やかになっていますね😊 井原鉄道、水島臨海鉄道のイメージと見て取れました。
2650円、機関車が3980円だったかな。最初に買ったコキフ10000は450円だった。 高架線は、井原鉄道を意識してますよ。
TMSに出ていた、古墳があって駅前の街並を拡張したレイアウトですね。 懐かしいです、というか、現存しているのが奇跡です。
そうですねえ、この古墳の部分を制作始めたのは1975年で、TMSに発表したのが1977年ですね。おそらくそのまま走ってるのは、日本ではほとんど無いと思いますね。 スポンジの木なんかは、ボロボロになって、2度植え替えています。建物の内部照明はムギ球ですよ。砂なんかは旭川の砂をふるい落として作った。まだ素材さえ売ってない時代ですよ。
It must have been amazing, very beautiful, and looking at it made me very happy.😊😊😊
Thanks
8ミリ映画の機材と…昔の修学旅行って何を持ってきても自由だったんだ。俺ら世代なんて今の時代便利なスマホでさえ持ってきたら没収沙汰やからな。
まだビデオカメラも無い時代だから、誰も持ち込むなんて発想そのものが無かったかもな。まあしかし、おおらかな時代だよ。世の中に弁護士なんかあまりいないし、訴訟なんかもほとんど無かった。公害もまだ問題になって無かったし、交通事故で何万人も死んでいた時代だよ。強制保険さえなかったはず。
流石 その当時三高の一つ朝日の皆さん賢こそうですね。日本の一番いい時を生きてきた方々いいですね。あの岡山駅めちゃくちゃ懐かしかった。
大正年間のデザイン、重厚でなコンクリートだったね。上野駅のデザインと似ていた。中はひんやりとしていて、日本食堂のレストランがあったなあ。
50年前は流石に草
急にオススメに出てきた。いつの時代も修学旅行は最高だね。
舟木一夫の修学旅行が聞こえます……
岡山から先の新幹線も山陽自動車道も中国自動車道もない時代。懐かしい限りです。
ツッパリいない
何人かは突っ張っていたけどね。
この動画見てると耳にキーンと高い音が聞こえる…?
すげぇ
この年の8月生まれですが、凄く貴重な映像ですね!
その時代の世相がわかるよね
50年前の修学旅行の映像が残っているって凄いですね いくら歳をとっても容姿は当時の記憶のまま変わらないですから
確かに、スマホが出るまで、修学旅行をスマホで撮るなんて、余りないかも。ビデオは幼稚園や小学校の幼稚園はたくさんあるだろうが。
当時はスマホやパソコンがないだけで日常必要なものは揃っていましたね。 電車、バス、タクシー、電話、カラーテレビ普通に揃っていましたよ。 まぁテレビの画質や車の車内設備は現在が上ですけど 当時は特に不満はなかったです。 この当時の生徒さんたちはもう60歳代後半になりますね。
基本的に、大体の文明の利器はあったが、ゲーム機とパソコンは無かったよ。電卓は10万円したなあ。
な,なんだこれ
なんかおすすめ出てきた、すごい時代を感じるいい貴重な映像だ
もう半世紀以上前か
今の70歳位の人の時代か。
映像の方々はたぶん私の母親と同世代か少し上の方々のはず、母から「今の若い子達と違って、娯楽がなかったから修学旅行が本当に楽しみで〜」と聞かされていました。 今だったら電車やバスの中でみんなスマホ見てるんだろうなと… こちらの映像を母に見せたら、学校も場所も違いますが💦当時を思い出してホテルの大きなガラス扉を見たこと無かったクラスメイト達が、走ってガラスにぶつかって割れて大怪我しただとか大浴場に興奮して飛び込んで火傷して骨折して運ばれた😅とか…思い出したようにペラペラ話し出して懐かしかったようです。 電車の中ではしゃぐ子達を見て可愛いと思うようになったなんて自分も年を取ったなと🥹 ありがとうございましたm(_ _)m
僕らの世代は、まだまだ自家用車や電話が普及していなくて、旅行もみんなが行ってる時代ではなかった。
VLOGか
ちょーーー進学校!ー!!! 進学校は素晴らしい!
この学年は特に優秀だと言われて、100番以内はどこを受けても良かった。自主性が重んじられる校風で、結構遊んでる奴もいた。ガチガチじゃない方が、伸びるやつは伸びる。
とっても楽しかったです! 同行のプロのカメラマンの記録映像ではなく修学旅行に参加した生徒の主さまの映像だと知り楽しさが倍増しました! 笑顔のかわいらしい皆さんも70前後の立派な大人になってると思うと感慨深いです。 貴重なビデオどうもありがとうございました。
ありがとう。公開から10年、撮影から51年、こんなに見られるとは驚き。確かに当時写真でさえも高校生には気楽では無かった。同行カメラマンもいちかもしれないけれど、高校生の自由な表情は、いつの時代もかわらないだろう。
同級生同士だからこそ撮れる表情という感じですごいいいですよね👍