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白虎隊士の像。「目にしたのは煙の中で見え隠れする鶴ヶ城」という解説がありますが、そもそも、全員が自刃(1人は蘇生し行方不明)したのだから、誰も真相を知らない筈なのに、鶴ヶ城が燃えたと勘違いし、自刃したという話をでっち上げた、カネのためのなら何でもアリの会津観光史学を象徴するモニュメントになってしまいました。後に蘇生した飯沼貞吉は長州藩士に庇護され、電信技士として活躍、そして、証言を残した。即ち、城が燃えたというのはテキトーな作り話であり、「鶴ケ城に入ることはできようが、もし敵に捕まると、容保公や先祖に対して申し開きができないという一心で自刃の道を選んだ」ことが判明しています。そして、飯沼貞吉は仙台で死去。飯盛山には遺品(歯と髪)を葬った墓がありますが、他の白虎隊の墓から離れたところに立っています。そして、白虎隊の隊長、日向内記は若い隊士を置き去りにして一人で城に逃げ、生き永らえたが、そのことを恥じたのか、喜多方でひっそり暮らしたとされています。
小栗上野介様。初めまして。白虎隊墓守の五代目、飯盛山の飯盛尚子と申します。色々と間違えた史料や世間の無知なガイドのせいで自己解釈をされこんがらがっておられるようで精神的に病んでおられましたらすみません。お察し致します。貞吉は行方不明にはなられておりません。真実を伝えると貞吉に都合が悪くなってしまうので伝えずに噂をまとめた無知な方が作った真実に基づいた少し作り話になっております。貞吉が長州へ行った本当の理由も自身の自伝にも遺せなかったでしょう。それは、ご自身の子孫たちの為でもあります。とはいっても、そもそも白虎隊が二十名しかいないという先入観で皆さんが勝手に解釈されている方が多いことに、飯盛山で参拝の皆さんとお話するとこちらが驚いてしまっております。どうしても飯盛山で自刃された白虎隊のお話がクローズアップされてしまい、他の白虎隊のお話を皆さんが知らないということに誤解が生じてしまうのでしょう。白虎隊は343名おられます。この飯盛山のお話は、貞吉のお話をもとに語り継がれ、そして貞吉のように生き残られ子孫を沢山残されている生き残っている過半数以上の白虎隊が後々責められ叩かれないように、どちらも悪く云われないお話になっておりますので、実際は城が燃えていると勘違いはしておりませんし、自刃されたのも十九名ではなく十六名。ですので、この動画も勘違いとは伝えておりません。生き残ったほとんどの白虎隊の為についた少しの優しい嘘を『でっち上げ』『金儲け』という解釈でとらえるほど心が荒んでしまったあなたに心からお見舞い申し上げます。本当の史実は、今は皆さん長生きされても既に亡くなられておりますので、そうした方々に死んでまでムチを打つような心の持ち主にはあまり歴史を語って欲しくないものですね。史実は、直接亡くなられた白虎隊を知り埋葬禁止令を破り埋葬した私の祖先や蘇生した貞吉と直接話をしている同じ祖先を持つ墓守しか知りません。このお話は、墓守が語る本当のお話として差し障りないくらいで別でRUclipsを制作中です。あなたの文献やガイドの話の知識と実際関わり真実をしる私のお話とすり寄せたいお気持ちがあれば、そして都合の悪いお話を聞いても既に亡くなられた方々を叩くようなことが無ければどうぞ私のところへおいで下さい。そして、白虎隊の遺骨御霊の眠る墓前へ白虎隊に会いに来られ手を合わせてあげて下さい。
@@飯盛星藍 ご返信有難うございます。私は30年ほど前に会津若松の観光をしましたが、飯盛山では「かなりきつい階段ですので有料のベルトコンベアに乗りましょう」という録音が流れる中、白虎隊士に申し訳ない気がして、敢えて、階段を上りました。そして、会津観光のハイライトの白虎隊士の墓や城下を眺める隊士の像を案内してもらいました。隊士の像の前では、ガイドさんが、ここ(像から少し離れた地点)から城下が見えますが、城下が焼失したときに、お城が燃えたように早合点してしまったので、容保公や家族と一緒に死のうと命を絶った」と言ったお話を聞かせてもらいました。しかし、「会津の上士を中心としたインテリの若者が、そんな勘違いをするのかな?もう少し、本当に城が燃えているか、調べてたら、こんな悲劇は生まれなかったのにとその時は、ふと、そんな感想を持ちました。ただ、後に飯沼の顛末記が話題になり、「鶴ケ城に入ることはできようが、もし敵に捕まると、容保公や先祖に対して申し開きができないという一心で自刃の道を選んだ」(因みに顛末記の原文も自刃となっている)、即ち、彼ら皆で議論をし、極限まで考え抜いた末の結論であることが判明しました。若き隊士たちの勘違いという当時の会津の観光ガイド(そしてそのストーリーに沿った像)や資料に書かれたことが事実でなかったことに、白虎隊士の名誉が守れた気がして安心しました。貴方の言われるような少しばかり嘘を言ってよいと言う理屈では、自刃した白虎隊士を貶めることになります。また、他の生き残った白虎隊士の死を選ばなかったという選択をした若者を守るなんて、会津の敗戦から1世紀近くになっても、その嘘を言い続け、多くの観光客にそれを伝えたことは、やはりおかしいでしょう。さて、自決した白虎隊士の数字については、国立国会図書館が全国の図書館等と協同で構築している、レファレンスのデータベースがありますが、「白虎隊士中二番隊の20人が自刃、19人が亡くなったが1人が生き残った。資料によってはまず16人が自刃し、ついで4人が自決したとするものと、先に3人、その後17人と書いてあるものがある。自刃した場所を「飯森山」と書いている資料がある。」と書かれてあり、国会図書館の公開データが間違っていると仰るなら、しっかりした資料等に基づいて、是非とも修正するように動かれてください。もし、自刃が16人でその他3人は自刃以外だということであれば、因みにこの国会図書館の資料の異説の「自決」は当時使われていない言葉ですが、互いが刺し違えたとか、銃(薬物はないだろう)で命を絶ったと言う区別を殊更強調する必要性はありますか?悲劇の若者は19人と生き残った飯沼貞吉であり、16人説を唱える貴方は悲劇を矮小化していませんか?因みに『補修會津白虎隊十九士傳』は、そんなことに拘らず、単に 飯盛山で亡くなった19人についての氏名と略伝、附記として「蘇生者」1人の氏名と略伝が記されていますが、悲劇は16人でなくあくまでも19名と飯沼貞吉で良いのではないでしょうか?ついでに飯沼貞吉は密かに実家には自分が生存していることを手紙で伝えていますが、勿論、密かにご家族とお会いになった可能性はあるかもしれませんが、殆どの会津の方々には知らなかったと認識しています。行方不明ではないと断言する貴方の説をとるなら、それを知っていた会津の方々が、飯沼一家を不忠だとして冷遇したしたと言うことでしょうか?生き残ったほとんどの白虎隊の為についた少しの優しい嘘と言うのは主語は誰ですか?また教えて下さいね。
@@飯盛星藍 ところで、白虎隊の悲劇の原因は何だとお考えですか?墓守である貴方なら、裏付けのある深遠なお考えがあるのでしょう。是非、お聞かせください。薩長土や岩倉具視のせいと言うのは、会津観光史学の面々と最近の明治維新陰謀説で小説以外、殆ど聞かれなくなりましたが、観光史学については、後述します。また、優柔不断な徳川慶喜の裏切りだということを言われることも多いですが、本来は、藩祖保科公の遺訓に沿うならば、慶喜を説得ないし、従うべきで、慶喜の謹慎の邪魔をし続けたことは、会津藩主としての歴史上、最大級の不忠だと思いますが、、、。白虎隊隊長(白虎士中二番隊頭)の日向内記の敵前逃亡?飯沼貞吉の残した手記には、批判こそないが、ちょっと恨みがましく書かれているように思います。日向隊頭のことは会津の方はどう考えていらっしゃるのでしょうか?中間管理職としては苦しいので同情すべきところもあるのですが、二本松少年隊は隊長が早々に戦死してしまい、悲劇を大きくしてしまったところがありますので、やはり、日向の責任は重いでしょう。私の感覚では、藩祖保科正之の遺訓、特に、「大君(将軍家)の義、一心大切に忠勤を存すべく、列国(他藩)の例を以て自ら処るべからず、若し二心を懐かば、則ち我が子孫にあらず、面々決して従うべからず」に縛られ過ぎたという意見も根強いですが、、ただ、容保公は徳川慶喜の謹慎の姿勢に対し、不満を明らかにし、やがて、慶喜から遠ざけられるが、その後も、上野や宇都宮外に兵を差し向けるなど、慶喜の意向を無視し続けた。藩祖の遺訓を守らなかったのです。寧ろ、藩祖保科正之は徳川の幕藩体制の完成者であり、殉死を禁止、焼失した江戸城天守閣の再建をさせないなどの例があるように、極めて、柔軟な大政治家でした。会津藩士はその家訓の背景にある藩祖の合理的な精神こそ学ぶべきだったように思うが、そうはさせない会津藩の組織が問題だったのではないかと考えています。即ち、保科正之は信州高遠から引き連れてきた「高遠以来」の家来を重用し、以来、会津藩の家老は9家(内藤、北原、西郷など)に生まれた者でないとわずかの例外を除いてその家老職に就くことはできなかった。少数支配は史上最大の帝国を築いたジンギスカンの例を見る前もなく、厳しい身分制度をつくり、さらに「ならぬものはならぬ」という議論を封じる藩風が出来上がる。薩長土と異なり、個別の戦闘は別にして、下級士族が活躍する場面が、なかったこともそれを裏付けます。さて、白虎隊の悲壮な覚悟と悲劇はいつしか美談となり、会津にムッソリーニ(会津ではローマ市民からの贈り物と表現しているようですが)とナチスドイツから記念碑が贈られました。そして、ナチス党内の青年組織ヒトラーユーゲントという若者たちまでが会津を訪れました。また、会津出身の畑俊六は元帥陸軍大将、A級戦犯(終身刑)、陸軍の横暴の片棒を担いだという非難を生涯受け続けることとなった彼は、いわゆる「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」で有名な戦陣訓の発案者ですが、この戦陣訓の文言は白虎隊士が自刃した理由と重なります。若い隊士に罪はないどころか、彼らなりに十分議論を重ねて出した崇高な気持ちだったと思いますが、そんな白虎隊の美談が独り歩きしてしまったのが、彼らにとって、一番の悲劇ではなかったかと思ってしまいます。
@@飯盛星藍 俗に会津観光史学と言われる捏造についてもお考えを教えて下さい。昭和60年代の新人物往来社の「歴史読本」のキャンペーンと司馬遼太郎が会津でシンポを行ったのが起因となり、更に当時会津若松市の観光部長であった故宮崎十三八氏と白虎隊記念館長 故早川喜代治氏が「観光の目玉にと」と会津が今でも山口・鹿児島に恨みを持つような観光キャンペーンをはるようになったのが発端。更に、会津びいきの作家(早乙女・星・宮崎各氏)による史実歪曲が、史実を知らない一般の人々を洗脳し、会津こそ正義で、薩長土などは悪とレッテルを貼ってしまった。最近ではどちらも正義と言った議論もありますが、会津観光史観は本当に悪質で歴史を歪めたように思います。少し、以下、極力、事実がどうだったのか確認しながら、調べたものなのですが、羅列させて頂きます。①王政復古から小御所会議での旧幕府に対する薩摩の無理難題を反故にすることに成功していた徳川慶喜の命に逆らって大軍を京都に送り、鳥羽伏見という最悪の戦いのきっかけをつくった。②鳥羽伏見以降、慶喜と朝廷に逆らって、謹慎もせず、上野や宇都宮戦争に兵を差し向けた。③世良修蔵の手紙の捏造(仙台戊辰史)し、仙台藩を激高させ、世良を含め、勝見善太郎や松野儀助、従者繁蔵、野村十郎、中村小次郎を殺害し、公家の奥羽鎮撫総督・九条道孝と醍醐忠敬が監禁した。④仙台藩家老の但木土佐が戦争回避に動き、会津藩と交渉、会津藩も新政府が求めていた「会津藩が全面的に降伏する」ことで合意を得たが、その数日後に会津藩が方針を転換して降伏を拒否し、明治新政府に、謝罪を拒否する回答書を示した。⑤先制攻撃をしたのは会津で、西郷頼母を総督として、幕府直轄領であった白河城を占領。⑥会津では薩長の内、薩摩に対しては西南戦争で恨みを果たしたが、長州は今でも許せない?と言いう声が根強いが、会津戦争の主力は薩土であり、長州の主力は北越戦争で手間取り、山縣有朋が会津に入ったのは会津の降伏の僅か4日前である。長州の蛮行は記録として残っていないし、新政府の残虐行為のほぼ全ては会津観光史学(会津若松市の商工観光部長であった宮崎十三八氏や白虎隊記念館長 早川喜代治氏、さらに、早乙女貢・星亮一などの小説家)等による捏造・誇張が多い。・白河以北一山百文と言って東北を馬鹿にした?(原敬が扇動演説の中で創作したという説が有力で、実際に薩長出身者がこの言葉を使い、誰かを嘲笑したというような資料・根拠はない)・会津藩士が埋葬されなかった(埋葬されたと言う具体的な記録「戦死屍取仕末金銭入用帳」が出てきている)・新保雪子が大垣藩に凌辱された(元白虎隊士で東大総長にまでなった山川健次郎が新保雪子に関して調べ直したところ、中野竹子戦死地と同じ涙橋で雪子が戦死した)・白虎隊も婦女隊の悲劇も、銃砲飛び交う中、薙刀で戦わるような決定をした会津藩の首脳の頑迷さが原因。・武川 信臣は 家老内藤信順の三男。彰義隊に呼応し、新政府に捕縛され「君と親の重きめぐみにくらぶれば 千引の石の責はものかは」という言う句を残した。獄中で「容保公と親の為に拷問もものとせず」なんて書いてしまうと、主君と親に累が及ぶから、こんなこと書くわけがないでしょう。現物はあるのですか?あるとしたら、それはそれで、不忠者ですが、、。⑦長年の放漫財政に加え、京都守護職就任以降の出費もあり、会津領民に重税を課しただけでなく、新潟や福島でも会津は蛮行・略奪を繰り返した。(郷土史だけでも新潟市・新津市・水原町・五泉市・小千谷市・十日町・燕市・見附市、二本松市、郡山市)、二本松に対する軍事行動は、方針が定まらない同藩への威嚇だったようですが。ただ、ビスマルクに北海道を売ろうと会津が交渉していたことが、プロシア側の資料で明らかになったことには驚きました。⑧他に例のない空前の贋金づくりを行いました。江戸深川下屋敷・若松城内西御丸蝋蔵に鋳造所を設け密造、藩への上納額は60万両(1千億円超)に達した。
@@飯盛星藍 朝敵となった会津はその後冷遇されたと言う方が多いのですが、しかし、飯沼貞吉(白虎隊の集団自決の唯一の蘇生者)は長州藩士の楢崎頼三に、山川健次郎(東大総長)も長州藩士の奥平謙介に養育されます。また、健次郎の兄の浩は土佐藩の谷干城に重用され、陸軍少将(男爵)に、さらに会津の下級武士だった出羽重遠は薩摩の東郷平八郎や山本権兵衛に可愛がられ、当時としては殆どいなかった海軍大将にまで昇りつめる。日下義雄は飯盛山で自刃した石田和助の兄だが、長州の井上馨の知遇を得て海外留学、その後、長崎県知事や福島県知事を歴任する。維新の立役者である薩長土肥以外で、会津ほど厚遇されたことは殆どないだろう。悠仁親王にもつながる池上四郎(元大阪市長)も井上馨が支援した。山本覚馬は薩摩藩に助けられ、後に、長州の槇村正直京都府知事の支援がないと同志社の設立もなかったかもしれない。妹の八重が新島襄と結婚したのもこの槇村の紹介。山田英夫は、松平容保の三男で、長州出身の乃木に可愛がられ、軍事参議官副官(乃木希典陸軍大将附)後に、陸軍中佐ですが、英夫は山田梅子(長州の山田顕義の長女)を妻とし、山田伯爵家を継いだのです。その他にも事例が多いのですが、こんな話もあります。長州藩の奥平謙輔が盟友、前原一誠とともに萩の乱を起こしたとき、維新前後の恩義を感じた会津藩士の実に14名がそれに呼応、千葉県庁を襲撃しようとし、失敗、首謀者の永岡久茂は獄死、井口慎次郎、中原成業、竹村俊秀3名が斬罪となり、中根米七切腹(思案橋事件)したのです。長州藩が凄惨な蛮行を行ったなら、命を懸けて、萩の乱に呼応しますかね。最後に山川健次郎らを養育した長州藩士、奥平謙輔はかつて西国を周遊していた秋月悌二朗と長州で出会い、意気投合。会津藩降伏後となりますが、奥平は猪苗代に謹慎中の秋月に「会津藩と敵対し戦わなければならなかった不幸を嘆き、会津藩の徳川幕府に対する忠義を讃え、今後は朝廷の為に尽くして欲しい」と言う内容の手紙を送った。因みに手紙を届けたは、河井善順という会津の真龍寺の僧侶。手紙を受け取った秋月は謙輔を会津藩への理解者として見込み、越後に居る謙輔を密かに訪ね、藩主父子の助命や会津藩士の将来について頼んだ。謙輔は秋月の期待に応えるよう努力すると約束し、さらに二人の会津少年(のちの東大総長山川健次郎と陸軍少佐になる小川亮)を書生として預かった。ついでながら、手紙を届けた川井善順は会津の真龍寺の僧侶で修学のために一時、京都の西本願寺に入るが、その際、本願寺は禁門の変の際に敗走した長州藩士を匿ったために西本願寺が京都守護職松平容保によって攻撃されそうになった際に、会津出身である善順が知己の会津藩士らに懇願して攻撃を中止させたことのある長州藩の恩人だったのです。
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豊さん
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白虎隊士の像。「目にしたのは煙の中で見え隠れする鶴ヶ城」という解説がありますが、そもそも、全員が自刃(1人は蘇生し行方不明)したのだから、誰も真相を知らない筈なのに、鶴ヶ城が燃えたと勘違いし、自刃したという話をでっち上げた、カネのためのなら何でもアリの会津観光史学を象徴するモニュメントになってしまいました。
後に蘇生した飯沼貞吉は長州藩士に庇護され、電信技士として活躍、そして、証言を残した。即ち、城が燃えたというのはテキトーな作り話であり、「鶴ケ城に入ることはできようが、もし敵に捕まると、容保公や先祖に対して申し開きができないという一心で自刃の道を選んだ」ことが判明しています。そして、飯沼貞吉は仙台で死去。飯盛山には遺品(歯と髪)を葬った墓がありますが、他の白虎隊の墓から離れたところに立っています。そして、白虎隊の隊長、日向内記は若い隊士を置き去りにして一人で城に逃げ、生き永らえたが、そのことを恥じたのか、喜多方でひっそり暮らしたとされています。
小栗上野介様。
初めまして。
白虎隊墓守の五代目、飯盛山の飯盛尚子と申します。
色々と間違えた史料や世間の無知なガイドのせいで自己解釈をされこんがらがっておられるようで精神的に病んでおられましたらすみません。お察し致します。
貞吉は行方不明にはなられておりません。真実を伝えると貞吉に都合が悪くなってしまうので伝えずに噂をまとめた無知な方が作った真実に基づいた少し作り話になっております。貞吉が長州へ行った本当の理由も自身の自伝にも遺せなかったでしょう。それは、ご自身の子孫たちの為でもあります。
とはいっても、そもそも白虎隊が二十名しかいないという先入観で皆さんが勝手に解釈されている方が多いことに、飯盛山で参拝の皆さんとお話するとこちらが驚いてしまっております。
どうしても飯盛山で自刃された白虎隊のお話がクローズアップされてしまい、他の白虎隊のお話を皆さんが知らないということに誤解が生じてしまうのでしょう。
白虎隊は343名おられます。
この飯盛山のお話は、貞吉のお話をもとに語り継がれ、そして貞吉のように生き残られ子孫を沢山残されている生き残っている過半数以上の白虎隊が後々責められ叩かれないように、どちらも悪く云われないお話になっておりますので、実際は城が燃えていると勘違いはしておりませんし、自刃されたのも十九名ではなく十六名。
ですので、この動画も勘違いとは伝えておりません。
生き残ったほとんどの白虎隊の為についた少しの優しい嘘を『でっち上げ』『金儲け』という解釈でとらえるほど心が荒んでしまったあなたに心からお見舞い申し上げます。
本当の史実は、今は皆さん長生きされても既に亡くなられておりますので、そうした方々に死んでまでムチを打つような心の持ち主にはあまり歴史を語って欲しくないものですね。
史実は、直接亡くなられた白虎隊を知り埋葬禁止令を破り埋葬した私の祖先や蘇生した貞吉と直接話をしている同じ祖先を持つ墓守しか知りません。
このお話は、墓守が語る本当のお話として差し障りないくらいで別でRUclipsを制作中です。
あなたの文献やガイドの話の知識と実際関わり真実をしる私のお話とすり寄せたいお気持ちがあれば、そして都合の悪いお話を聞いても既に亡くなられた方々を叩くようなことが無ければどうぞ私のところへおいで下さい。
そして、白虎隊の遺骨御霊の眠る墓前へ白虎隊に会いに来られ手を合わせてあげて下さい。
@@飯盛星藍
ご返信有難うございます。
私は30年ほど前に会津若松の観光をしましたが、飯盛山では「かなりきつい階段ですので有料のベルトコンベアに乗りましょう」という録音が流れる中、白虎隊士に申し訳ない気がして、敢えて、階段を上りました。そして、会津観光のハイライトの白虎隊士の墓や城下を眺める隊士の像を案内してもらいました。隊士の像の前では、ガイドさんが、ここ(像から少し離れた地点)から城下が見えますが、城下が焼失したときに、お城が燃えたように早合点してしまったので、容保公や家族と一緒に死のうと命を絶った」と言ったお話を聞かせてもらいました。しかし、「会津の上士を中心としたインテリの若者が、そんな勘違いをするのかな?もう少し、本当に城が燃えているか、調べてたら、こんな悲劇は生まれなかったのにとその時は、ふと、そんな感想を持ちました。ただ、後に飯沼の顛末記が話題になり、「鶴ケ城に入ることはできようが、もし敵に捕まると、容保公や先祖に対して申し開きができないという一心で自刃の道を選んだ」(因みに顛末記の原文も自刃となっている)、即ち、彼ら皆で議論をし、極限まで考え抜いた末の結論であることが判明しました。若き隊士たちの勘違いという当時の会津の観光ガイド(そしてそのストーリーに沿った像)や資料に書かれたことが事実でなかったことに、白虎隊士の名誉が守れた気がして安心しました。貴方の言われるような少しばかり嘘を言ってよいと言う理屈では、自刃した白虎隊士を貶めることになります。また、他の生き残った白虎隊士の死を選ばなかったという選択をした若者を守るなんて、会津の敗戦から1世紀近くになっても、その嘘を言い続け、多くの観光客にそれを伝えたことは、やはりおかしいでしょう。
さて、自決した白虎隊士の数字については、国立国会図書館が全国の図書館等と協同で構築している、レファレンスのデータベースがありますが、「白虎隊士中二番隊の20人が自刃、19人が亡くなったが1人が生き残った。資料によってはまず16人が自刃し、ついで4人が自決したとするものと、先に3人、その後17人と書いてあるものがある。自刃した場所を「飯森山」と書いている資料がある。」と書かれてあり、国会図書館の公開データが間違っていると仰るなら、しっかりした資料等に基づいて、是非とも修正するように動かれてください。
もし、自刃が16人でその他3人は自刃以外だということであれば、因みにこの国会図書館の資料の異説の「自決」は当時使われていない言葉ですが、互いが刺し違えたとか、銃(薬物はないだろう)で命を絶ったと言う区別を殊更強調する必要性はありますか?悲劇の若者は19人と生き残った飯沼貞吉であり、16人説を唱える貴方は悲劇を矮小化していませんか?因みに『補修會津白虎隊十九士傳』は、そんなことに拘らず、単に 飯盛山で亡くなった19人についての氏名と略伝、附記として「蘇生者」1人の氏名と略伝が記されていますが、悲劇は16人でなくあくまでも19名と飯沼貞吉で良いのではないでしょうか?
ついでに飯沼貞吉は密かに実家には自分が生存していることを手紙で伝えていますが、勿論、密かにご家族とお会いになった可能性はあるかもしれませんが、殆どの会津の方々には知らなかったと認識しています。行方不明ではないと断言する貴方の説をとるなら、それを知っていた会津の方々が、飯沼一家を不忠だとして冷遇したしたと言うことでしょうか?生き残ったほとんどの白虎隊の為についた少しの優しい嘘と言うのは主語は誰ですか?また教えて下さいね。
@@飯盛星藍 ところで、白虎隊の悲劇の原因は何だとお考えですか?墓守である貴方なら、裏付けのある深遠なお考えがあるのでしょう。是非、お聞かせください。
薩長土や岩倉具視のせいと言うのは、会津観光史学の面々と最近の明治維新陰謀説で小説以外、殆ど聞かれなくなりましたが、観光史学については、後述します。また、優柔不断な徳川慶喜の裏切りだということを言われることも多いですが、本来は、藩祖保科公の遺訓に沿うならば、慶喜を説得ないし、従うべきで、慶喜の謹慎の邪魔をし続けたことは、会津藩主としての歴史上、最大級の不忠だと思いますが、、、。
白虎隊隊長(白虎士中二番隊頭)の日向内記の敵前逃亡?飯沼貞吉の残した手記には、批判こそないが、ちょっと恨みがましく書かれているように思います。日向隊頭のことは会津の方はどう考えていらっしゃるのでしょうか?中間管理職としては苦しいので同情すべきところもあるのですが、二本松少年隊は隊長が早々に戦死してしまい、悲劇を大きくしてしまったところがありますので、やはり、日向の責任は重いでしょう。
私の感覚では、藩祖保科正之の遺訓、特に、「大君(将軍家)の義、一心大切に忠勤を存すべく、列国(他藩)の例を以て自ら処るべからず、若し二心を懐かば、則ち我が子孫にあらず、面々決して従うべからず」に縛られ過ぎたという意見も根強いですが、、ただ、容保公は徳川慶喜の謹慎の姿勢に対し、不満を明らかにし、やがて、慶喜から遠ざけられるが、その後も、上野や宇都宮外に兵を差し向けるなど、慶喜の意向を無視し続けた。藩祖の遺訓を守らなかったのです。
寧ろ、藩祖保科正之は徳川の幕藩体制の完成者であり、殉死を禁止、焼失した江戸城天守閣の再建をさせないなどの例があるように、極めて、柔軟な大政治家でした。会津藩士はその家訓の背景にある藩祖の合理的な精神こそ学ぶべきだったように思うが、そうはさせない会津藩の組織が問題だったのではないかと考えています。
即ち、保科正之は信州高遠から引き連れてきた「高遠以来」の家来を重用し、以来、会津藩の家老は9家(内藤、北原、西郷など)に生まれた者でないとわずかの例外を除いてその家老職に就くことはできなかった。少数支配は史上最大の帝国を築いたジンギスカンの例を見る前もなく、厳しい身分制度をつくり、さらに「ならぬものはならぬ」という議論を封じる藩風が出来上がる。薩長土と異なり、個別の戦闘は別にして、下級士族が活躍する場面が、なかったこともそれを裏付けます。
さて、白虎隊の悲壮な覚悟と悲劇はいつしか美談となり、会津にムッソリーニ(会津ではローマ市民からの贈り物と表現しているようですが)とナチスドイツから記念碑が贈られました。そして、ナチス党内の青年組織ヒトラーユーゲントという若者たちまでが会津を訪れました。また、会津出身の畑俊六は元帥陸軍大将、A級戦犯(終身刑)、陸軍の横暴の片棒を担いだという非難を生涯受け続けることとなった彼は、いわゆる「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」で有名な戦陣訓の発案者ですが、この戦陣訓の文言は白虎隊士が自刃した理由と重なります。若い隊士に罪はないどころか、彼らなりに十分議論を重ねて出した崇高な気持ちだったと思いますが、そんな白虎隊の美談が独り歩きしてしまったのが、彼らにとって、一番の悲劇ではなかったかと思ってしまいます。
@@飯盛星藍 俗に会津観光史学と言われる捏造についてもお考えを教えて下さい。昭和60年代の新人物往来社の「歴史読本」のキャンペーンと司馬遼太郎が会津でシンポを行ったのが起因となり、
更に当時会津若松市の観光部長であった故宮崎十三八氏と白虎隊記念館長 故早川喜代治氏が「観光の目玉にと」と会津が今でも山口・鹿児島に恨みを持つような観光キャンペーンをはるようになったのが発端。
更に、会津びいきの作家(早乙女・星・宮崎各氏)による史実歪曲が、史実を知らない一般の人々を洗脳し、会津こそ正義で、薩長土などは悪とレッテルを貼ってしまった。最近ではどちらも正義と言った議論もありますが、会津観光史観は本当に悪質で歴史を歪めたように思います。少し、以下、極力、事実がどうだったのか確認しながら、調べたものなのですが、羅列させて頂きます。
①王政復古から小御所会議での旧幕府に対する薩摩の無理難題を反故にすることに成功していた徳川慶喜の命に逆らって大軍を京都に送り、鳥羽伏見という最悪の戦いのきっかけをつくった。
②鳥羽伏見以降、慶喜と朝廷に逆らって、謹慎もせず、上野や宇都宮戦争に兵を差し向けた。
③世良修蔵の手紙の捏造(仙台戊辰史)し、仙台藩を激高させ、世良を含め、勝見善太郎や松野儀助、従者繁蔵、野村十郎、中村小次郎を殺害し、公家の奥羽鎮撫総督・九条道孝と醍醐忠敬が監禁した。
④仙台藩家老の但木土佐が戦争回避に動き、会津藩と交渉、会津藩も新政府が求めていた「会津藩が全面的に降伏する」ことで合意を得たが、その数日後に会津藩が方針を転換して降伏を拒否し、明治新政府に、謝罪を拒否する回答書を示した。
⑤先制攻撃をしたのは会津で、西郷頼母を総督として、幕府直轄領であった白河城を占領。
⑥会津では薩長の内、薩摩に対しては西南戦争で恨みを果たしたが、長州は今でも許せない?と言いう声が根強いが、会津戦争の主力は薩土であり、長州の主力は北越戦争で手間取り、山縣有朋が会津に入ったのは会津の降伏の僅か4日前である。長州の蛮行は記録として残っていないし、新政府の残虐行為のほぼ全ては会津観光史学(会津若松市の商工観光部長であった宮崎十三八氏や白虎隊記念館長 早川喜代治氏、さらに、早乙女貢・星亮一などの小説家)等による捏造・誇張が多い。
・白河以北一山百文と言って東北を馬鹿にした?(原敬が扇動演説の中で創作したという説が有力で、実際に薩長出身者がこの言葉を使い、誰かを嘲笑したというような資料・根拠はない)
・会津藩士が埋葬されなかった(埋葬されたと言う具体的な記録「戦死屍取仕末金銭入用帳」が出てきている)
・新保雪子が大垣藩に凌辱された(元白虎隊士で東大総長にまでなった山川健次郎が新保雪子に関して調べ直したところ、中野竹子戦死地と同じ涙橋で雪子が戦死した)
・白虎隊も婦女隊の悲劇も、銃砲飛び交う中、薙刀で戦わるような決定をした会津藩の首脳の頑迷さが原因。
・武川 信臣は 家老内藤信順の三男。彰義隊に呼応し、新政府に捕縛され「君と親の重きめぐみにくらぶれば 千引の石の責はものかは」という言う句を残した。獄中で「容保公と親の為に拷問もものとせず」なんて書いてしまうと、主君と親に累が及ぶから、こんなこと書くわけがないでしょう。現物はあるのですか?あるとしたら、それはそれで、不忠者ですが、、。
⑦長年の放漫財政に加え、京都守護職就任以降の出費もあり、会津領民に重税を課しただけでなく、新潟や福島でも会津は蛮行・略奪を繰り返した。(郷土史だけでも新潟市・新津市・水原町・五泉市・小千谷市・十日町・燕市・見附市、二本松市、郡山市)、二本松に対する軍事行動は、方針が定まらない同藩への威嚇だったようですが。ただ、ビスマルクに北海道を売ろうと会津が交渉していたことが、プロシア側の資料で明らかになったことには驚きました。
⑧他に例のない空前の贋金づくりを行いました。江戸深川下屋敷・若松城内西御丸蝋蔵に鋳造所を設け密造、藩への上納額は60万両(1千億円超)に達した。
@@飯盛星藍 朝敵となった会津はその後冷遇されたと言う方が多いのですが、しかし、飯沼貞吉(白虎隊の集団自決の唯一の蘇生者)は長州藩士の楢崎頼三に、山川健次郎(東大総長)も長州藩士の奥平謙介に養育されます。また、健次郎の兄の浩は土佐藩の谷干城に重用され、陸軍少将(男爵)に、さらに会津の下級武士だった出羽重遠は薩摩の東郷平八郎や山本権兵衛に可愛がられ、当時としては殆どいなかった海軍大将にまで昇りつめる。日下義雄は飯盛山で自刃した石田和助の兄だが、長州の井上馨の知遇を得て海外留学、その後、長崎県知事や福島県知事を歴任する。維新の立役者である薩長土肥以外で、会津ほど厚遇されたことは殆どないだろう。悠仁親王にもつながる池上四郎(元大阪市長)も井上馨が支援した。山本覚馬は薩摩藩に助けられ、後に、長州の槇村正直京都府知事の支援がないと同志社の設立もなかったかもしれない。妹の八重が新島襄と結婚したのもこの槇村の紹介。山田英夫は、松平容保の三男で、長州出身の乃木に可愛がられ、軍事参議官副官(乃木希典陸軍大将附)後に、陸軍中佐ですが、英夫は山田梅子(長州の山田顕義の長女)を妻とし、山田伯爵家を継いだのです。
その他にも事例が多いのですが、こんな話もあります。長州藩の奥平謙輔が盟友、前原一誠とともに萩の乱を起こしたとき、維新前後の恩義を感じた会津藩士の実に14名がそれに呼応、千葉県庁を襲撃しようとし、失敗、首謀者の永岡久茂は獄死、井口慎次郎、中原成業、竹村俊秀3名が斬罪となり、中根米七切腹(思案橋事件)したのです。長州藩が凄惨な蛮行を行ったなら、命を懸けて、萩の乱に呼応しますかね。
最後に山川健次郎らを養育した長州藩士、奥平謙輔はかつて西国を周遊していた秋月悌二朗と長州で出会い、意気投合。会津藩降伏後となりますが、奥平は猪苗代に謹慎中の秋月に「会津藩と敵対し戦わなければならなかった不幸を嘆き、会津藩の徳川幕府に対する忠義を讃え、今後は朝廷の為に尽くして欲しい」と言う内容の手紙を送った。因みに手紙を届けたは、河井善順という会津の真龍寺の僧侶。
手紙を受け取った秋月は謙輔を会津藩への理解者として見込み、越後に居る謙輔を密かに訪ね、藩主父子の助命や会津藩士の将来について頼んだ。謙輔は秋月の期待に応えるよう努力すると約束し、さらに二人の会津少年(のちの東大総長山川健次郎と陸軍少佐になる小川亮)を書生として預かった。
ついでながら、手紙を届けた川井善順は会津の真龍寺の僧侶で修学のために一時、京都の西本願寺に入るが、その際、本願寺は禁門の変の際に敗走した長州藩士を匿ったために西本願寺が京都守護職松平容保によって攻撃されそうになった際に、会津出身である善順が知己の会津藩士らに懇願して攻撃を中止させたことのある長州藩の恩人だったのです。