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63歳になる者ですが、子供の頃!憧れのスーパーヒーローです。
自分は近鉄ファンだが、有藤さんを非難、批判するつもりは毛頭ないし、悪者扱いするのも"筋違い"と思っている。あの当時のロッテはとにかく近鉄に弱く、西武ファンからいつも「おまえら、近鉄から"金"受け取ってんだろ!?」と、ヤジられていたらしい。だから、本当なら消化試合で来季を見越して若手を起用するつもりでいたのを、牛島さんを急遽1軍に戻したりと、とにかく"最下位"確定のチームなりのベストメンバー、レギュラーメンバーで臨まないと近鉄に対しても西武に対しても失礼だという意識を持たれておられたのだ。しかしいざフタを開ければ、仰木さんや太さんまでが若手と一緒になってヤジの応酬、佐藤兼伊知さんの死球出塁に対しての仰木さんの失言にとうとうロッテの選手達も怒りに火を着け顕わにし出した始末だったのだ。大石さんと古川さんの一件にしても、有藤さんはあくまで監督として審判に確認をするための"カタチ"としての抗議のつもりが、またしても仰木さんが余計な発言をしたことで溜まっていた怒りが爆発した結果だったのだ。有藤さんは"時間切れ"のことは全然知らなかったらしいし、栗橋さんは後年、優勝できなかったのは、若手と監督が一緒になってヤジを言い過ぎて相手を怒らせたから、だからあの日は"瞬間湯沸器"の山本功児さんはもちろん、愛甲さんに普段は大人しい袴田さんまでが打席に入ると3塁側ベンチを絶えず睨みつけていたと話されていたし、金村さんですらあの時自分達は若かった、"大人"気なかったと後に有藤さんに謝罪していた…。高沢さんのことについても、本当は第一試合だけ出場させて"率"を稼がせてベンチに下げるつもりが、吉井さんが荒れていて審判の判定に逆情したために急遽阿波野さんの登板になったことで高沢さんが打席に回るハメになったことで、第二試合も出場させる結果となったまでだ。高沢さんは後年、その後ロッテは西宮で"阪急ブレーブス"としての最後の試合で対戦することとなり、松永さんが敬遠策を採られたことでかなり批判され、自分はタイトルを獲るべきではなかったのではないだろうかと悩んだこともあったが、その度にベンチで有藤さんや打撃コーチの浜村さんが絶えず電卓を弾いて"率"を計算してくれたこと、そして阿波野さんからホームランを打ったことで有藤さんからおまえは実力でタイトルを獲ったんだぞ言ってもらえたことを思い出すようにしていたとも話されていた…。長々とコメントして申し訳ないが、物事の核心に迫ることも本質を探ることもしようともせずに、ただ"一人"の人間を攻撃するのはやめて欲しいと思う。最後に、有藤さんはこうも話されていた。「近鉄が優勝してたらしてたで、西武ファンから"八百長"だ、"イカサマ"だと言われてただろう。とにかくあの時のオレは、何かしら誰かに非難される運命だったんだよ…。ただ言えることは、"あの"試合はあくまで"引き分け"だったんだよ…。」
有藤道世さんは1985年にパ・リーグ大卒選手では史上初の2000本安打到達者(史上20人目)
1980年代の名選手です。観衆が少ないのが信じられません。よく、川崎球場や後楽園球場の日ハム戦を観に行きました。在阪球団(阪急、近鉄、南海)の応援団のヤジがよく聞こえましたね。
Mrロッテ、5ツールプレイヤー、あと一歩で350本塁打300盗塁だった。
最初の平和台球場の試合のお客様の少ないこと…。それをみた後で川崎球場を見たら「何だ?川崎球場結構観客いるじゃん!」と思いました😂
南海主催の平和台ゲーム何て、その後の福岡ダイエーを予感させる様なゲームですね。
というか、当時のロッテの監督が稲尾さんでしたから、福岡にプロ野球球団を…ということで平和台での試合が多かったのかな?と思いますね。
その後福岡へ行ったんはホークスで、2004年皮肉にもそのホークスとオリオンズの後身のマリーンズの合併話があったほど。結局双方の反対で(マリーンズフロントは乗り気やったけどファンが猛反対)つぶれ1リーグ制も頓挫したっけなぁ❗️
63歳になる者ですが、子供の頃!憧れのスーパーヒーローです。
自分は近鉄ファンだが、有藤さんを非難、批判するつもりは毛頭ないし、悪者扱いするのも"筋違い"と思っている。
あの当時のロッテはとにかく近鉄に弱く、西武ファンからいつも
「おまえら、近鉄から"金"受け取ってんだろ!?」
と、ヤジられていたらしい。
だから、本当なら消化試合で来季を見越して若手を起用するつもりでいたのを、牛島さんを急遽1軍に戻したりと、とにかく"最下位"確定のチームなりのベストメンバー、レギュラーメンバーで臨まないと近鉄に対しても西武に対しても失礼だという意識を持たれておられたのだ。
しかしいざフタを開ければ、仰木さんや太さんまでが若手と一緒になってヤジの応酬、佐藤兼伊知さんの死球出塁に対しての仰木さんの失言にとうとうロッテの選手達も怒りに火を着け顕わにし出した始末だったのだ。
大石さんと古川さんの一件にしても、有藤さんはあくまで監督として審判に確認をするための"カタチ"としての抗議のつもりが、またしても仰木さんが余計な発言をしたことで溜まっていた怒りが爆発した結果だったのだ。
有藤さんは"時間切れ"のことは全然知らなかったらしいし、栗橋さんは後年、優勝できなかったのは、若手と監督が一緒になってヤジを言い過ぎて相手を怒らせたから、だからあの日は"瞬間湯沸器"の山本功児さんはもちろん、愛甲さんに普段は大人しい袴田さんまでが打席に入ると3塁側ベンチを絶えず睨みつけていたと話されていたし、金村さんですらあの時自分達は若かった、"大人"気なかったと後に有藤さんに謝罪していた…。
高沢さんのことについても、本当は第一試合だけ出場させて"率"を稼がせてベンチに下げるつもりが、吉井さんが荒れていて審判の判定に逆情したために急遽阿波野さんの登板になったことで高沢さんが打席に回るハメになったことで、第二試合も出場させる結果となったまでだ。
高沢さんは後年、その後ロッテは西宮で"阪急ブレーブス"としての最後の試合で対戦することとなり、松永さんが敬遠策を採られたことでかなり批判され、自分はタイトルを獲るべきではなかったのではないだろうかと悩んだこともあったが、その度にベンチで有藤さんや打撃コーチの浜村さんが絶えず電卓を弾いて"率"を計算してくれたこと、そして阿波野さんからホームランを打ったことで有藤さんからおまえは実力でタイトルを獲ったんだぞ言ってもらえたことを思い出すようにしていたとも話されていた…。
長々とコメントして申し訳ないが、物事の核心に迫ることも本質を探ることもしようともせずに、ただ"一人"の人間を攻撃するのはやめて欲しいと思う。
最後に、有藤さんはこうも話されていた。
「近鉄が優勝してたらしてたで、西武ファンから"八百長"だ、"イカサマ"だと言われてただろう。とにかくあの時のオレは、何かしら誰かに非難される運命だったんだよ…。
ただ言えることは、"あの"試合はあくまで"引き分け"だったんだよ…。」
有藤道世さんは1985年にパ・リーグ大卒選手では史上初の2000本安打到達者(史上20人目)
1980年代の名選手です。観衆が少ないのが信じられません。よく、川崎球場や後楽園球場の日ハム戦を観に行きました。在阪球団(阪急、近鉄、南海)の応援団のヤジがよく聞こえましたね。
Mrロッテ、5ツールプレイヤー、あと一歩で350本塁打300盗塁だった。
最初の平和台球場の試合のお客様の少ないこと…。それをみた後で川崎球場を見たら「何だ?川崎球場結構観客いるじゃん!」と思いました😂
南海主催の平和台ゲーム何て、その後の福岡ダイエーを予感させる様なゲームですね。
というか、当時のロッテの監督が稲尾さんでしたから、福岡にプロ野球球団を…ということで平和台での試合が多かったのかな?と思いますね。
その後福岡へ行ったんはホークスで、2004年皮肉にもそのホークスとオリオンズの後身のマリーンズの合併話があったほど。結局双方の反対で(マリーンズフロントは乗り気やったけどファンが猛反対)つぶれ1リーグ制も頓挫したっけなぁ❗️