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武蔵野線の車両の流れ101系→103系→201系→205系→209系500番台→E231系こう見てると、中央・総武緩行線と同じですね。
当時の武蔵野線は、とっても新しい国鉄路線だったのですね。
当時は、「ギャンブル列車」と言われてましたね。公営ギャンブルの最寄り駅が多いです。
松戸にいた15年前くらいの頃ニートで暇だったから資格の参考書読みながらこれのって暇つぶししてたな懐かしい
4:36にて、通勤新線(埼京線)の通6駅(武蔵浦和駅)予定地が出てきたけど、いつも混雑してる武蔵浦和駅がこんな光景だったとは、若い人たちに見せてあげたいモノです。
小学生の時、貨物列車最後尾の黒い車両に乗る仕事を将来の夢としていたが…夢砕けました
武蔵野線と京葉線、いまだに新しい路線というイメージを持っている。もう少なくとも30年以上は経ってるのに。
武蔵野線は2023年で開業50年になりますね。
武蔵野線本来の目的は貨物線だからおまけで営業を開始した旅客は本数が極端に少なかったんですよね。今は貨物線の性格は残っていますがおまけの方の役割が大きくになりました。101系の6両編成がのどかに走っていた時代。電車に乗り損なったら30分待ちは当たり前。冷房は当然付いていないので夏になれば窓は全開。でも高速走行時のMT46の音は本当にいい音でしたよ。
ビュンビュン飛ばしてた南浦和~西浦和間ほかが懐かしいです。
新秋~西国間の、2つあるながあ~いトンネルを通過してるさい、マド開いてるときには、メッチャ大騒音でした。あと、たて坑の照明表示や、所々にある退避スペースも、今も変わらないのが印象的です。
相変わらず武蔵野線は毎時10分感覚で運行していて、中央総武・山手みたいに5分感覚運行ではないため、積み残しがあとを断たないどころか、毎年ビックサイトでコミケ及び幕張メッセのイベントが開催されると、府中本町~海浜幕張間及び府中本町~新木場間が超満員で積み残しが発生してしまい、どこの駅も入場制限になりかねない事態になってしまいます‼️複々線にするといってもそんな余裕はありません‼️
まぁ武蔵野線って沿線地域的に東京のベッドタウンだらけで通勤も通学も増えたからなぁ~( ̄~ ̄;)外環貨物線の運命が生んだ通勤路線になってしまった・・・
1978年10月の延伸開通から1979年春まで新松戸駅⇔西船橋駅を利用していました。夜、新松戸から西船橋へ帰る場合、22時10分前後の1本を逃すと、22時45分くらいまでナシという地獄路線でした。常磐線下りからの乗り継ぎも悪かったです。6:15 1日当たり37往復ですか!😂
武蔵野線を使って通学していました。車窓の風景、懐かしく思い出されます。
日中のダイヤが25分から50分間隔だった頃ですね。
爺さんに連れられて新秋津から府中競馬に行ったとき、日曜なもんだから、待てども待てども貨物ばかり通過していたのを覚えています。
一時間に2,3本で101系ばっかだった頃が懐かしいなぁ~
そんな状況で東所沢止まりが来る絶望感。
今でも山手線などのお下がり車輌(205系)が見られる東京近郊屈指の路線で知られてるし。。。
40分間隔から20分間隔、12分間隔を経て10分間隔になりましたな
新秋津に住んでいる親戚の所に行った時、電車が来るまで駅で随分待った記憶がある。
武蔵野操車場が存在していた時の映像ですね。今はショッピングモールがあったり、住宅地になったりと。そして国鉄時代の車両が終焉を間も無く迎えますね。時代を感じさせるものばっかりです。最早絶滅車のオンパレード状態ww
武蔵浦和駅などの開業前の貴重な映像です。
シンプルな自動改札機が懐かしい。
新松戸までだったんだ~
開業当時は府中本町~新松戸間でしたね。
俺も驚き
吉川美南と新三郷も
通学で使っていた頃、午前中で授業が終わって帰ろうと思うと13:00~14:00は1時間に1本のみ。乗り遅れると50分待ちでした。朝も15分間隔。1本乗り遅れると遅刻だったので必死になって自転車走らせていました。今はレイクタウン駅が出来たので歩いています。
親戚が京王電車の沿線だったので、かつて武州・大宮にわが家があった頃は、大宮より京浜東北・根岸線で南浦まで、南浦より府中本町終点までは武蔵野線、府中本町から分倍河原まで南武線、そして京王電車と、あの頃家族そろって往復したのが、今でも忘れられないです。いまでは武蔵野線は本数がうんと増え、車両は8連となり、途中には新駅が開設されたりしたけど、さらには武州・大宮への直通定期列車ができたりして、再度大宮へ引っ越しした私にとり、随分と武蔵野線が、まえ以上に身近となって、ホントに良かったと思います。
府中本町駅が今とあんまり変わらなくてビビった
西国分寺周辺は全然変わってないと思う
今では当たり前の自動改札機、当時は珍しかったんですよね☺️
国鉄で自動改札機を初めて導入したのが武蔵野線だったんですよね。
武蔵野線で、自動改札機の結果が良好だったからこそ、当時の国鉄大阪鉄道管理局が昭和54年の片町線(学研都市線)の四条畷~長尾間の複線化の際に、片町(廃止)~長尾間に自動改札機が、試験的に導入されたのだと思います。
4:52 アナウンスに『東北線エル特急ひばり号』という表現が出てくるけど、6:05 に新松戸以降の延長開業に関する紹介があることから昭和53年9月頃の映像ですね。
101系非冷房車爆弾ドア6両編成❗️超懐かしい…通常は貨物列車ばかりで、1日のほとんどがラッシュ時を除き、1時間にたった1本の旅客列車のダイヤだったよ❗️
201系6両固定編成(オレンジ色)走っていたことをわすれずに
101系のカナリヤとオレンジ、秩父鉄道(国鉄秩父線)を思いますね。秩父鉄道(国鉄秩父線)101系は秩父の登山及び芝桜の行き帰りによく乗り、これもまさにオレとおふくろの夢と心の電車です‼️引退前に乗れなかったのが残念でラストラン時に水色とオレンジのコラボの連結編成が走り、タモリ鉄道部(タモリ電車クラブ)の環状線を思い出します。
まだちらほら当時の案内看板が残ってる模様
昭和時代に自動改札機があったなんて初めて知った、ナレーションの女性は101系と103系の通勤電車の色をカナリア色を黄色の電車とオレンジ色のを赤色の電車と言ってました、この動画を見ていたらあの頃に帰ってきた感じが蘇りました、貴重な映像をありがとうございます。
昭和時代の国鉄線で自動改札機が、設置されていたのは、武蔵野線と片町線(学研都市線)の片町(廃止)~長尾間と京都駅の一部の出入り口だけでした。
懐かしいですね。1977年から1982年まで国立市に住んでいました。新宿までの通勤に利用した中央線を西国でオーバーパス。確か、国立と西国の間に中央線と短絡するトンネルの入り口があり貨物列車が往来する姿を見た覚えがあります。その後、横浜青葉区に転居、東村山の知人宅に行くとき利用しましたが、時間的には渋谷・山の手・西武新宿線の方が早く、運賃も安かったように思います。学生時代から就職して住んだ武蔵野の風景もすっり変わり、マンションが林立していますね。定年を迎え北海道に戻りましたが、横浜の子供たちに会いに行くたびに溝の口・府中本町・谷保で昔住んだ国立市富士見台から国立まで歩き西国まで一駅そして府中本町と昔の生活をトレースしています。
確か関東圏初の自動改札が武蔵野線だったと思います。
関西圏ならもっと早く導入してますね。
下河原線の一部が武蔵野線になってますね。下河原線時代に何回か乗りました。
国分寺から東京競馬場前まで行く電車ですね。北府中が途中駅でしたか。
国電、L特急……総延長2万キロだった国鉄が、まだまだのびるような「夢」を感じさせるフィルムですね。
浦和中央郵便局のカーブが映っている所が武蔵浦和駅 まだ新幹線や埼京線それにホームが建設する前の様子
そんな武蔵浦和界隈は、今や超高層のマンションで、囲まれてしまいましたからね。
4:40 あたりの風景は現在の武蔵浦和駅周辺ですね。郵便局の建物が右下に映り込んでいます。
昔の北朝霞駅がこんな風になってたとは驚いた………それと、武蔵浦和駅は後からできたんですね。
新幹線や埼京線のない頃の県都・浦和郊外の大パノラマ景観は、武州・大宮への連絡線(ひみつの連絡線)三叉路を介し、最高だったのを記憶にあります。今では、ひみつの連絡線(子どもの頃、一度でもイイからアノ路線を通りたかった)を介し、大宮への「むさしの」「しもうさ」号や臨時列車が走り、随分と趣きが変わってしまいましたけど。
一度どんなところ走ってるのか知りたくて乗りに行った事があるけど、昭和57年当時、超ど田舎、のんびりした関東平野といった感じでしたね、それが平成16年位になると住宅地だらけ、どこから人が湧いてきたんだろう。
昭和60年頃だったか、埼京線ができたあたりから、沿線に住宅が増え始めました。ちょうどその頃武蔵浦和駅ができて一気に景色が変わりましたね。
4:08 この券売機なつかしいなぁ
新松戸〜西船橋間は、5年半遅れて開業しましたね!
5:26~新松戸!?なんじゃこのスッキリした風景は
これが放送された頃、新松戸から西船橋迄開通しましたよね。
昭和55年辺りに秋ヶ瀬公園に遠足に行きました。まさかこの沿線の大学、そして近くに住むことになろうとは…
2017年10月現在、旧国鉄末期〜JR初期に製造された205系も中央総武線のE231系が転属開始され営業運転開始される。
もはやこの夢を見てるような画質が撮れるカメラも再生機も手に入れることができないせいぜい編集ソフトかAFで頑張ってレトロ風にすることしかできないことを考えるとそういう面でもすごく貴重
荒川橋梁にバリケードがない時代・・・。風の対策だから仕方ないけど。でもあそこで狙う武蔵野貨物は堪らないモノがありました!
武蔵野線といえば103系のイメージがありますが、101系が母体で後に高性能で効率の良い通勤電車103系が開発され、関東・関西で活躍して色一色で重厚なカラフルの103系は鮮やかで101系と共に華々しいです‼️
武蔵野線103系は懐かしいです‼️幼少の時に奥多摩・高尾の登山及び自閉症の弟の自閉症スクールの合宿の送り迎えで集合・解散の立川の行き南越谷、帰り西国分寺でよく乗り、列車入線放送が流れた直後に遠目に103系が現れるとつい「おお‼️やったー国鉄だー‼️待ってました‼️」と声が出ちゃうことがあり、オレとおふくろの夢と心の電車で、オレの好きな電車のひとつです‼️
日本に活気あふれていた昭和53年ですね。武蔵野線はオレンジ101系と鉄分たっぷりの楽しい時代ですね。いまやプレハブ電車ばかりとなり、すっかり寂れちゃいましたが。。エンジンフル回転で、モーター音こだまさせて疾走するファイト溢れる101系。エールを送りたいです。この時代にタイムスリップしてみたい。…と、この時代はパワハラやセクハラ等のハラスメントの概念もなく、ゆとりとは無縁の時代だったのかな。。
新松戸までなのもすごいけど武蔵浦和が無いのも驚き
まだあの頃は埼京線(仮称・通勤新線)が、影もカタチもないからね。それゆえ武州・大宮方面への別線が、とても印象にあったものの、1983年夏に運用された府中本町より大宮への、臨時の新幹線リレー号をきっかけに、いまや定期の「むさしの」「しもうさ」号が走ってるし。
4:44 ガード下が国道17号、手前の白い建物は浦和中央郵便局。今の武蔵浦和からは想像できないですね。
1978[昭和53]年とうじ、新幹線建設に絡んだ沿線住民運動が展開され、とくに武州・大宮から県都・浦和そして帝都・北区に至るまでが、メッチャ凄まじく地元マスメディアが、連日賑わせてたのを未だに覚えてます。その後通勤新線(埼京線)の駅の設置場所(とうじの浦和中央郵便局西側地点)が決まるや、武蔵浦は仮称・通6駅だったのを、今も記憶にあります。
2:17あたり 東所沢〜新座の柳瀬川。この辺はあまり変わっていないね。
へえーーーーーーーーーー
川に堤防できたり野球グラウンドや住宅地ができたりしてて少しづつ変化はしてますよー今でも釣りしてる人がよくいらっしゃるのどかな場所ですね。
南浦和には当時の案内板ががっつり残っています。
あと、南浦はエスカレーターが未設置ゆえ、開業とうじと変わらないです。
プラザマツヤも健在ですね
国電、という響きが懐かしい。
JR化後のE電はまったく定着しなかった!
武蔵野線って番線表示板結構残ってますよねー
武蔵野線では行かない(南武線のりかえ)のに、「川崎」方面の表示が印象的だったのを、記憶にあります。
がち 新松戸近く住みでした。お袋の実家が新松戸近くの切り通し脇で、小学生の頃よく新松戸-西船橋が開通する前は犬の散歩で敷設前の線路歩いて国道6号を上から眺めたな。懐かしい。(笑)
そして京葉線の海浜幕張、東京駅(京葉線ホーム)へ
coziyftv78 そうですね。東京方面は上りなのに、武蔵野線では東京方面行きが下り列車な理由も武蔵野線の歴史が大きく関わっている訳ですね。
@@ツムツムと乗り物好き信者のアニ 開業から45年間の間に、1985年3月に新三郷駅、同年9月には埼京線開業に併せ武蔵浦和駅が、1998年3月東松戸駅、2008年3月越谷レイクタウン駅、2012年3月吉川美南駅が開業されました。
この当時の北朝霞や新座駅は既に自動改札でした。
南浦和今でもこの映像の頃の面影あるなあこれが撮影された30年後に初めて南浦和の駅に降りた自分には不思議な感覚
2004年3月に所属している豊田電車区(現豊田車両センター)から京葉電車区(現京葉車両センター)へ転属された
府中の前のスタンドが懐かしい。
東上線沿線に住んでるけど今でも武蔵野線沿線は駅はなれると県北並にガランとしてる所多いけど、本当にこの頃は何もないな…
電車全く詳しくないけど、動画そっちのけで当時を知る人のコメントを見るのが好き。
1年?2年?後に西浦和付近で古タイヤが燃えて高架が曲がってしばらくお休みしていた。懐かしい。
武蔵野線南越谷駅から乗り換えに東武伊勢崎線蒲生駅まで歩いた
昔の貨物列車は、全て新金貨物線に入って千葉貨物へ向かっていた列車がありました。
定尺レールの音が懐かしいです。
多分、武蔵野線が初めてじゃないでしょうか?在来線に踏切が無い路線。
スーツさんもこの動画を見てくれるといいのだが!今では必要でなくなった武蔵野操車場があったあの場面
武蔵野線の103系は平成17年に元山手205系導入により引退したこの時、オレは中一でした。今はジャカルタの空の下、ジャボ鉄(ジャボタベック鉄道)にて元日本で活躍していた私鉄の電車たちと共にまだまだ現役バリバリですが、今、元中央総武231が武蔵野線に転属が相次ぎ、そうなると元山手205はおそらくはあと数年で引退して103系の二の舞すると思われます。まさに、関東唯一の元山手205ではないでしょうか。
最初は90系時代の101系から中央線の中古のやつ101系→103系新車もありや使いまわしも。→205系中古から新車→今度はE231や209系。。時代の流れが早いもんだ。103系は新車から廃車になるまでずっと活躍したやつもいる。
野村廣文 一時期だけでしたが201系が武蔵野線走った時代もありましたよ。更に103系には武蔵野線から撤退後西日本に移籍した車両もありましたね。
でもE231や209はまた中古車
@@ツムツムと乗り物好き信者のアニ さん 高運転台先頭車は、國鐵廣嶋に、中間車は大阪環状線などで活躍後、全車廃車解体!
クハ103-813、815、820、822、モハ103-750~753、モハ102-2007~2010まあ、ほとんどないのは合ってるが、記憶の知る限りの編成はこれでした。12両確認。
別名賭博列車と呼ばれていました。外れ券と古い競馬新聞、スポーツ新聞で足の踏み場が無くなる程でした。
土日は競馬場行く客でいっぱい
競馬開催日は臨時列車が出ていました。今でもあるのでしょうか?
武蔵野線は競馬場が沿線に4場(JRAの東京・中山、地方の浦和・船橋)あるという特異な路線。その他競馬に限らず、競輪場が2場(西武園・松戸)、競艇場が多摩川の1場、さらに他線乗り換えで京王閣・大宮競輪、戸田競艇、川口オートにも近く、それが「東京ギャンブルライン」とも呼ばれる由縁である。
あとそれと、立川競輪も西国分寺か府中本町乗り換えで至近。
現在、常盤平に在住で武蔵野線の混雑と終電が早いのに閉口します!山手線と違い徒歩で帰宅出来ない距離、外回り(上り下りの意味で無く)で一駅が10分、80km走行ですから推して知るべしです。
南越谷駅が開業した頃、東武の新越谷駅はまだ開業していなかったみたいですね。私の祖母が言うには蒲生駅まで歩いたとか...
開業当初は茶色い旧型電機も入線してたんですね。
武蔵浦和駅などが開業する前の映像ですが、浦和とつく駅は、JRで7駅です。
矢嶋聡以前、タモリのスーパーボキャブラ天国で、山本リンダの「狙い撃ち」の替え歌が有りましたね☺️「🎤浦和~、南~北浦和~、東浦和~西浦和~、武蔵浦和~中浦和~、浦和は七つの駅がある🎵」
新松戸の駅周辺にまだ空地がありますね。でも以前見た1976年の流山線の動画と比較するとだいぶ街らしくなっている。本数が少ないとはいえ武蔵野線の旅客化は必然だったのですね。
この時旅客扱い37本/日に対し貨物139本/日である
電車は「1日37往復、ラッシュ時には15分間隔で」と言ってるから、本数に直すと74本になりますね。
子どものころ、初めて乗った時、地名に東西南北や新が付いただけの駅名の多さに違和感を感じた記憶が…
南浦和駅前の構造今とあまり変わってないことに驚いた
物凄さてんこ盛り……、いいですね~!🎉
赤色とナレーションしていますが、当時駅の放送などでは赤色の電車と言っていました。国鉄での朱色1号という色名称を考えても、赤色で間違っていないと思います。乗客側からすると朱色1号が登場した当時は茶色い電車や客車が主流で、色あいについてもそれほど細かい認識はなかった理由もあり、赤ではなくオレンジでは?と言う人は少なかったのではないかと思います。
2:26 これが当時の武蔵野線103系の車内だね。クーラーがないうえに扇風機だったから特に夏場は全然涼しくなかったね。
今では東京メガループとされている。
こ、この時代に自動定期券販売機ってめちゃくちゃ時代を先取りしてたんだなぁ…
私も自動改札機を初めて利用したのは、武蔵野線でしたね❗
当時は武蔵野線がまだ乗客が少なかったため、故障しても混乱が少ないだろうと考えられたのも同線における自動改札導入に繋がったようです。
まさしく、通学に利用してた時の映像。土曜日は1時間に1本で。東浦和駅まで、走った走った〜!
このオレンジ色の電車は、1997年まで学研都市線で走ってたし、環状線でもつい最近まで長く運転されてたな。在京では、これが中央線(快速)とか、武蔵野線同様にローカルで走っていた青梅・五日市線もこれだったようだけど
オレンジ色の車両中央快速線、青梅線、五日市線、武蔵野線、大阪環状線、片町線(学研都市線)カナリア色の車両中央・総武緩行線、南武線、鶴見線、福知山線ウグイス色の車両山手線、埼京線、横浜線、八高・川越線、関西本線(大和路線)、奈良線スカイブルー色の車両京浜東北・根岸線、横浜線、京葉線、京都・神戸線、阪和線エメラルドグリーン色の車両常磐快速線自分の記憶ではこの位だったかな?
北朝霞駅のところに東上線朝霞台駅が見当たらない。
翌年ですね出来るの
今の越谷レイクタウン駅の辺りの線路脇に火葬場があって、乗ってる電車が煙突からの黒い煙に包まれたことがありめちゃくちゃビビったわw懐かしい思い出w
越谷南高校から火葬場の円筒が見えた
3十数年前の越南卒業生だが、時より火葬場煙突から出る薄い白煙を見たことはあるが、黒い煙なんてのは出ていなかった。しかも、武蔵野線の線路から火葬場まではそこそこ離れていたので、線路まで煙が立ち込めるなんてこともあるはずがない。列車が包まれる程の煙の量出すには、相当量の木材でも燃やさない限り出ないし、煙突の高さからみても武蔵野線が高架であっても地上付近まで煙が降りてくることはない。
おっ!新松戸で、583系走ってるじゃん!これは、(ゆうづる)(みちのく)か、どっちだろ?
583系は一昨年に引退しました。
今の世代の人達は知らないでしょうね、吉川美南、新三郷開業前の吉川~三郷間に巨大な武蔵野操車場が有った事を。
その跡地にららぽーと新三郷が出来てそこに夢空間が置いてあるわけだ…
いや流石に知ってるわ。
西武線沿線住まいですが今から40年位前の小学生の時に新秋津駅で自動改札を初めて見た時、メチャクチャ驚いた記憶があります。
1:04 2008年には南越谷と吉川の間に越谷レイクタウン駅が出来ました。また後に吉川と三郷の間にも吉川南と新三郷が開業します。
新三郷駅が1985年3月、武蔵浦和駅が1985年9月、東松戸駅が1998年、吉川美南駅が2012年開業です。
そう言えば1973年で自動改札機だった。滅多に乗らないので忘れていた。今更驚いたわw山手線とか1990年以降だった気がする。
4:38 昭和53年当時とは言え、この103系はまだ非冷房だったんだ。
武蔵野線はオレンジですが
オレンジです。合ってますよ!
@@コースケチャンネルさん、@tatsuyaさん、それだから当時の南武線は中央・総武線各駅停車から余ったカナリアイエローが主役であるものの、脇役として中央線快速電車から余り武蔵野線に転属された同色のオレンジバーミリオンが継ぎ接ぎされる事も度々あったのでしょうね。【P.S.】余談ですが、現在では笑点の出演者に例えると・・・、中央・総武線各駅停車は林家木久扇で、中央線快速電車は林家たい平ですね。また、プリキュアの登場人物(両者ともスマイルプリキュア!)に例えると・・・、キュアサニーが中央線快速電車で、キュアピースが中央・総武線各駅停車ですね。
0:36 今なら 何千人集まるんだろう? ネタ
あれだよね。府中まで貨物レールを人間を乗せたのは東芝の力だ
新座の平林寺が取り上げられてる・・・超最寄りなんだがw
秋の紅葉の季節が最高ですけど。
@@みやのこだべ 最近は、何か理由あるのか、平林寺はあまり参詣者(客を)歓迎していないみたい!入場料はワンコイン_500円だが、構内到るところが立入禁止で散歩の範囲が狭くなったよ(>_
今は混んでない区間の方が少ないくらいですね
改札機は最新型、でも電車は…
hokusoubito 205の置き換えがe231…(´・ω・`)
@@haijima-Express JRになっても続く、武蔵野中古車センター
小林忠一 中古を売るなら武蔵野線♪てきな(゚∀゚)
@@haijima-Express 実際は中古を使わすなら武蔵野線♪かな?
未だに国鉄時代の車両、201系がほとんどの運用で開業したおおさか東線よりはマシです(昨今まで103系も現役だった)。
武蔵野操車場を海上コンテナの輸送拠点に出来ていたらなぁと、大井ふ頭に行く度に妄想してしまう。。。
懐かしいなぁ~
今はガソリン輸送やコンテナだらけですね。
私鉄の新型車両(東武、西武、東京メトロなど)の甲種輸送も!
新座駅付近の団地は旭ヶ丘団地ですね。
武蔵野線の車両の流れ
101系→103系→201系→205系→209系500番台→E231系
こう見てると、中央・総武緩行線と同じですね。
当時の武蔵野線は、とっても新しい国鉄路線だったのですね。
当時は、「ギャンブル列車」と言われてましたね。
公営ギャンブルの最寄り駅が多いです。
松戸にいた15年前くらいの頃
ニートで
暇だったから
資格の参考書読みながら
これのって暇つぶししてたな
懐かしい
4:36にて、通勤新線(埼京線)の通6駅(武蔵浦和駅)予定地が出てきたけど、いつも混雑してる武蔵浦和駅がこんな光景だったとは、若い人たちに見せてあげたいモノです。
小学生の時、貨物列車最後尾の黒い車両に乗る仕事を将来の夢としていたが…
夢砕けました
武蔵野線と京葉線、いまだに新しい路線というイメージを持っている。もう少なくとも30年以上は経ってるのに。
武蔵野線は2023年で開業50年になりますね。
武蔵野線本来の目的は貨物線だからおまけで営業を開始した旅客は本数が極端に少なかったんですよね。今は貨物線の性格は残っていますがおまけの方の役割が大きくになりました。101系の6両編成がのどかに走っていた時代。電車に乗り損なったら30分待ちは当たり前。冷房は当然付いていないので夏になれば窓は全開。でも高速走行時のMT46の音は本当にいい音でしたよ。
ビュンビュン飛ばしてた南浦和~西浦和間ほかが懐かしいです。
新秋~西国間の、2つあるながあ~いトンネルを通過してるさい、マド開いてるときには、メッチャ大騒音でした。
あと、たて坑の照明表示や、所々にある退避スペースも、今も変わらないのが印象的です。
相変わらず武蔵野線は毎時10分感覚で運行していて、中央総武・山手みたいに5分感覚運行ではないため、積み残しがあとを断たないどころか、毎年ビックサイトでコミケ及び幕張メッセのイベントが開催されると、府中本町~海浜幕張間及び府中本町~新木場間が超満員で積み残しが発生してしまい、どこの駅も入場制限になりかねない事態になってしまいます‼️複々線にするといってもそんな余裕はありません‼️
まぁ武蔵野線って沿線地域的に東京のベッドタウンだらけで通勤も通学も増えたからなぁ~( ̄~ ̄;)
外環貨物線の運命が生んだ通勤路線になってしまった・・・
1978年10月の延伸開通から1979年春まで新松戸駅⇔西船橋駅を利用していました。夜、新松戸から西船橋へ帰る場合、22時10分前後の1本を逃すと、22時45分くらいまでナシという地獄路線でした。常磐線下りからの乗り継ぎも悪かったです。6:15 1日当たり37往復ですか!😂
武蔵野線を使って通学していました。車窓の風景、懐かしく思い出されます。
日中のダイヤが25分から50分間隔だった頃ですね。
爺さんに連れられて新秋津から府中競馬に行ったとき、日曜なもんだから、待てども待てども貨物ばかり通過していたのを覚えています。
一時間に2,3本で101系ばっかだった頃が懐かしいなぁ~
そんな状況で東所沢止まりが来る絶望感。
今でも山手線などのお下がり車輌(205系)が見られる東京近郊屈指の路線で知られてるし。。。
40分間隔から20分間隔、12分間隔を経て10分間隔になりましたな
新秋津に住んでいる親戚の所に行った時、電車が来るまで駅で随分待った記憶がある。
武蔵野操車場が存在していた時の映像ですね。
今はショッピングモールがあったり、住宅地になったりと。そして国鉄時代の車両が終焉を間も無く迎えますね。時代を感じさせるものばっかりです。最早絶滅車のオンパレード状態ww
武蔵浦和駅などの開業前の貴重な映像です。
シンプルな自動改札機が懐かしい。
新松戸までだったんだ~
開業当時は府中本町~新松戸間でしたね。
俺も驚き
吉川美南と新三郷も
通学で使っていた頃、午前中で授業が終わって帰ろうと思うと13:00~14:00は1時間に1本のみ。乗り遅れると50分待ちでした。朝も15分間隔。1本乗り遅れると遅刻だったので必死になって自転車走らせていました。今はレイクタウン駅が出来たので歩いています。
親戚が京王電車の沿線だったので、かつて武州・大宮にわが家があった頃は、大宮より京浜東北・根岸線で南浦まで、南浦より府中本町終点までは武蔵野線、府中本町から分倍河原まで南武線、そして京王電車と、あの頃家族そろって往復したのが、今でも忘れられないです。
いまでは武蔵野線は本数がうんと増え、車両は8連となり、途中には新駅が開設されたりしたけど、さらには武州・大宮への直通定期列車ができたりして、再度大宮へ引っ越しした私にとり、随分と武蔵野線が、まえ以上に身近となって、ホントに良かったと思います。
府中本町駅が今とあんまり変わらなくてビビった
西国分寺周辺は全然変わってないと思う
今では当たり前の自動改札機、当時は珍しかったんですよね☺️
国鉄で自動改札機を初めて導入したのが武蔵野線だったんですよね。
武蔵野線で、自動改札機の結果が良好だったからこそ、当時の国鉄大阪鉄道管理局が昭和54年の片町線(学研都市線)の四条畷~長尾間の複線化の際に、片町(廃止)~長尾間に自動改札機が、試験的に導入されたのだと思います。
4:52 アナウンスに『東北線エル特急ひばり号』という表現が出てくるけど、6:05 に新松戸以降の延長開業に関する紹介があることから昭和53年9月頃の映像ですね。
101系非冷房車爆弾ドア6両編成❗️超懐かしい…通常は貨物列車ばかりで、1日のほとんどがラッシュ時を除き、1時間にたった1本の旅客列車のダイヤだったよ❗️
201系6両固定編成(オレンジ色)走っていたことをわすれずに
101系のカナリヤとオレンジ、秩父鉄道(国鉄秩父線)を思いますね。秩父鉄道(国鉄秩父線)101系は秩父の登山及び芝桜の行き帰りによく乗り、これもまさにオレとおふくろの夢と心の電車です‼️引退前に乗れなかったのが残念でラストラン時に水色とオレンジのコラボの連結編成が走り、タモリ鉄道部(タモリ電車クラブ)の環状線を思い出します。
まだちらほら当時の案内看板が残ってる模様
昭和時代に自動改札機があったなんて初めて知った、ナレーションの女性は101系と103系の通勤電車の色をカナリア色を黄色の電車とオレンジ色のを赤色の電車と言ってました、この動画を見ていたらあの頃に帰ってきた感じが蘇りました、貴重な映像をありがとうございます。
昭和時代の国鉄線で自動改札機が、設置されていたのは、武蔵野線と片町線(学研都市線)の片町(廃止)~長尾間と京都駅の一部の出入り口だけでした。
懐かしいですね。1977年から1982年まで国立市に住んでいました。新宿までの通勤に利用した中央線を西国でオーバーパス。確か、国立と西国の間に中央線と短絡するトンネルの入り口があり貨物列車が往来する姿を見た覚えがあります。その後、横浜青葉区に転居、東村山の知人宅に行くとき利用しましたが、時間的には渋谷・山の手・西武新宿線の方が早く、運賃も安かったように思います。学生時代から就職して住んだ武蔵野
の風景もすっり変わり、マンションが林立していますね。定年を迎え北海道に戻りましたが、横浜の子供たちに会いに行くたびに溝の口・府中本町・谷保で昔住んだ国立市富士見台から国立まで歩き西国まで一駅そして府中本町と昔の生活をトレースしています。
確か関東圏初の自動改札が武蔵野線だったと思います。
関西圏ならもっと早く導入してますね。
下河原線の一部が武蔵野線になってますね。
下河原線時代に何回か乗りました。
国分寺から東京競馬場前まで行く電車ですね。北府中が途中駅でしたか。
国電、L特急……
総延長2万キロだった国鉄が、まだまだのびるような「夢」を感じさせるフィルムですね。
浦和中央郵便局のカーブが映っている所が武蔵浦和駅 まだ新幹線や埼京線それにホームが建設する前の様子
そんな武蔵浦和界隈は、今や超高層のマンションで、囲まれてしまいましたからね。
4:40 あたりの風景は現在の武蔵浦和駅周辺ですね。郵便局の建物が右下に映り込んでいます。
昔の北朝霞駅がこんな風になってたとは驚いた………それと、武蔵浦和駅は
後からできたんですね。
新幹線や埼京線のない頃の県都・浦和郊外の大パノラマ景観は、武州・大宮への連絡線(ひみつの連絡線)三叉路を介し、最高だったのを記憶にあります。
今では、ひみつの連絡線(子どもの頃、一度でもイイからアノ路線を通りたかった)を介し、大宮への「むさしの」「しもうさ」号や臨時列車が走り、随分と趣きが変わってしまいましたけど。
一度どんなところ走ってるのか知りたくて乗りに行った事があるけど、昭和57年当時、超ど田舎、のんびりした関東平野といった感じでしたね、それが平成16年位になると住宅地だらけ、どこから人が湧いてきたんだろう。
昭和60年頃だったか、埼京線ができたあたりから、沿線に住宅が増え始めました。ちょうどその頃武蔵浦和駅ができて一気に景色が変わりましたね。
4:08 この券売機なつかしいなぁ
新松戸〜西船橋間は、5年半遅れて開業しましたね!
5:26~新松戸!?なんじゃこのスッキリした風景は
これが放送された頃、新松戸から西船橋迄開通しましたよね。
昭和55年辺りに秋ヶ瀬公園に遠足に行きました。まさかこの沿線の大学、そして近くに住むことになろうとは…
2017年10月現在、旧国鉄末期〜JR初期に製造された205系も中央総武線のE231系が転属開始され営業運転開始される。
もはやこの夢を見てるような画質が撮れるカメラも再生機も手に入れることができない
せいぜい編集ソフトかAFで頑張ってレトロ風にすることしかできないことを考えると
そういう面でもすごく貴重
荒川橋梁にバリケードがない時代・・・。風の対策だから仕方ないけど。
でもあそこで狙う武蔵野貨物は堪らないモノがありました!
武蔵野線といえば103系のイメージがありますが、101系が母体で後に高性能で効率の良い通勤電車103系が開発され、関東・関西で活躍して色一色で重厚なカラフルの103系は鮮やかで101系と共に華々しいです‼️
武蔵野線103系は懐かしいです‼️幼少の時に奥多摩・高尾の登山及び自閉症の弟の自閉症スクールの合宿の送り迎えで集合・解散の立川の行き南越谷、帰り西国分寺でよく乗り、列車入線放送が流れた直後に遠目に103系が現れるとつい「おお‼️やったー国鉄だー‼️待ってました‼️」と声が出ちゃうことがあり、オレとおふくろの夢と心の電車で、オレの好きな電車のひとつです‼️
日本に活気あふれていた昭和53年ですね。
武蔵野線はオレンジ101系と鉄分たっぷりの楽しい時代ですね。
いまやプレハブ電車ばかりとなり、すっかり寂れちゃいましたが。。
エンジンフル回転で、モーター音こだまさせて疾走するファイト溢れる101系。
エールを送りたいです。
この時代にタイムスリップしてみたい。
…と、この時代はパワハラやセクハラ等のハラスメントの概念もなく、ゆとりとは無縁の時代だったのかな。。
新松戸までなのもすごいけど武蔵浦和が無いのも驚き
まだあの頃は埼京線(仮称・通勤新線)が、影もカタチもないからね。
それゆえ武州・大宮方面への別線が、とても印象にあったものの、1983年夏に運用された府中本町より大宮への、臨時の新幹線リレー号をきっかけに、いまや定期の「むさしの」「しもうさ」号が走ってるし。
4:44 ガード下が国道17号、手前の白い建物は浦和中央郵便局。
今の武蔵浦和からは想像できないですね。
1978[昭和53]年とうじ、新幹線建設に絡んだ沿線住民運動が展開され、とくに武州・大宮から県都・浦和そして帝都・北区に至るまでが、メッチャ凄まじく地元マスメディアが、連日賑わせてたのを未だに覚えてます。
その後通勤新線(埼京線)の駅の設置場所(とうじの浦和中央郵便局西側地点)が決まるや、武蔵浦は仮称・通6駅だったのを、今も記憶にあります。
2:17あたり 東所沢〜新座の柳瀬川。
この辺はあまり変わっていないね。
へえーーーーーーーーーー
川に堤防できたり野球グラウンドや住宅地ができたりしてて少しづつ変化はしてますよー
今でも釣りしてる人がよくいらっしゃるのどかな場所ですね。
南浦和には当時の案内板ががっつり残っています。
あと、南浦はエスカレーターが未設置ゆえ、開業とうじと変わらないです。
プラザマツヤも健在ですね
国電、という響きが懐かしい。
JR化後のE電はまったく定着しなかった!
武蔵野線って番線表示板結構残ってますよねー
武蔵野線では行かない(南武線のりかえ)のに、「川崎」方面の表示が印象的だったのを、記憶にあります。
がち 新松戸近く住みでした。
お袋の実家が新松戸近くの切り通し脇で、小学生の頃よく新松戸-西船橋が開通する前は犬の散歩で敷設前の線路歩いて国道6号を上から眺めたな。懐かしい。(笑)
そして京葉線の海浜幕張、東京駅(京葉線ホーム)へ
coziyftv78 そうですね。東京方面は上りなのに、武蔵野線では東京方面行きが下り列車な理由も武蔵野線の歴史が大きく関わっている訳ですね。
@@ツムツムと乗り物好き信者のアニ
開業から45年間の間に、1985年3月に新三郷駅、同年9月には埼京線開業に併せ武蔵浦和駅が、1998年3月東松戸駅、2008年3月越谷レイクタウン駅、2012年3月吉川美南駅が開業されました。
この当時の北朝霞や新座駅は既に自動改札でした。
南浦和今でもこの映像の頃の面影あるなあ
これが撮影された30年後に初めて南浦和の駅に降りた自分には不思議な感覚
2004年3月に所属している豊田電車区(現豊田車両センター)から京葉電車区(現京葉車両センター)へ転属された
府中の前のスタンドが懐かしい。
東上線沿線に住んでるけど
今でも武蔵野線沿線は駅はなれると県北並にガランとしてる所多いけど、本当にこの頃は何もないな…
電車全く詳しくないけど、動画そっちのけで当時を知る人のコメントを見るのが好き。
1年?2年?後に西浦和付近で古タイヤが燃えて高架が曲がってしばらくお休みしていた。懐かしい。
武蔵野線南越谷駅から乗り換えに東武伊勢崎線蒲生駅まで歩いた
昔の貨物列車は、全て新金貨物線に入って千葉貨物へ向かっていた列車がありました。
定尺レールの音が懐かしいです。
多分、武蔵野線が初めてじゃないでしょうか?在来線に踏切が無い路線。
スーツさんもこの動画を見てくれるといいのだが!
今では必要でなくなった武蔵野操車場があったあの場面
武蔵野線の103系は平成17年に元山手205系導入により引退したこの時、オレは中一でした。今はジャカルタの空の下、ジャボ鉄(ジャボタベック鉄道)にて元日本で活躍していた私鉄の電車たちと共にまだまだ現役バリバリですが、今、元中央総武231が武蔵野線に転属が相次ぎ、そうなると元山手205はおそらくはあと数年で引退して103系の二の舞すると思われます。まさに、関東唯一の元山手205ではないでしょうか。
最初は90系時代の101系から中央線の中古のやつ101系→103系新車もありや使いまわしも。→205系中古から新車→今度はE231や209系。。時代の流れが早いもんだ。103系は新車から廃車になるまでずっと活躍したやつもいる。
野村廣文 一時期だけでしたが201系が武蔵野線走った時代もありましたよ。更に103系には武蔵野線から撤退後西日本に移籍した車両もありましたね。
でもE231や209はまた中古車
@@ツムツムと乗り物好き信者のアニ さん 高運転台先頭車は、國鐵廣嶋に、中間車は大阪環状線などで活躍後、全車廃車解体!
クハ103-813、815、820、822、モハ103-750~753、モハ102-2007~2010
まあ、ほとんどないのは合ってるが、記憶の知る限りの編成はこれでした。12両確認。
別名賭博列車と呼ばれていました。外れ券と古い競馬新聞、スポーツ新聞で足の踏み場が無くなる程でした。
土日は競馬場行く客でいっぱい
競馬開催日は臨時列車が出ていました。今でもあるのでしょうか?
武蔵野線は競馬場が沿線に4場(JRAの東京・中山、地方の浦和・船橋)あるという特異な路線。その他競馬に限らず、競輪場が2場(西武園・松戸)、競艇場が多摩川の1場、さらに他線乗り換えで京王閣・大宮競輪、戸田競艇、川口オートにも近く、それが「東京ギャンブルライン」とも呼ばれる由縁である。
あとそれと、立川競輪も西国分寺か府中本町乗り換えで至近。
現在、常盤平に在住で武蔵野線の混雑と終電が早いのに閉口します!山手線と違い徒歩で帰宅出来ない距離、外回り(上り下りの意味で無く)で一駅が10分、80km走行ですから推して知るべしです。
南越谷駅が開業した頃、東武の新越谷駅はまだ開業していなかったみたいですね。私の祖母が言うには蒲生駅まで歩いたとか...
開業当初は茶色い旧型電機も入線してたんですね。
武蔵浦和駅などが開業する前の映像ですが、浦和とつく駅は、JRで7駅です。
矢嶋聡
以前、タモリのスーパーボキャブラ天国で、山本リンダの「狙い撃ち」の替え歌が有りましたね☺️
「🎤浦和~、南~北浦和~、東浦和~西浦和~、武蔵浦和~中浦和~、浦和は七つの駅がある🎵」
新松戸の駅周辺にまだ空地がありますね。でも以前見た1976年の流山線の動画と比較するとだいぶ街らしくなっている。本数が少ないとはいえ武蔵野線の旅客化は必然だったのですね。
この時旅客扱い37本/日に対し貨物139本/日である
電車は「1日37往復、ラッシュ時には15分間隔で」と言ってるから、本数に直すと74本になりますね。
子どものころ、初めて乗った時、地名に東西南北や新が付いただけの駅名の多さに違和感を感じた記憶が…
南浦和駅前の構造今とあまり変わってないことに驚いた
物凄さてんこ盛り……、いいですね~!🎉
赤色とナレーションしていますが、当時駅の放送などでは赤色の電車と言っていました。国鉄での朱色1号という色名称を考えても、赤色で間違っていないと思います。乗客側からすると朱色1号が登場した当時は茶色い電車や客車が主流で、色あいについてもそれほど細かい認識はなかった理由もあり、赤ではなくオレンジでは?と言う人は少なかったのではないかと思います。
2:26 これが当時の武蔵野線103系の車内だね。クーラーがないうえに扇風機だったから特に夏場は全然涼しくなかったね。
今では東京メガループとされている。
こ、この時代に自動定期券販売機ってめちゃくちゃ時代を先取りしてたんだなぁ…
私も自動改札機を初めて利用したのは、武蔵野線でしたね❗
当時は武蔵野線がまだ乗客が少なかったため、故障しても混乱が少ないだろうと考えられたのも同線における自動改札導入に繋がったようです。
まさしく、通学に利用してた時の映像。
土曜日は1時間に1本で。
東浦和駅まで、走った走った〜!
このオレンジ色の電車は、1997年まで学研都市線で走ってたし、環状線でもつい最近まで長く運転されてたな。
在京では、これが中央線(快速)とか、武蔵野線同様にローカルで走っていた青梅・五日市線もこれだったようだけど
オレンジ色の車両
中央快速線、青梅線、五日市線、武蔵野線、大阪環状線、片町線(学研都市線)
カナリア色の車両
中央・総武緩行線、南武線、鶴見線、福知山線
ウグイス色の車両
山手線、埼京線、横浜線、八高・川越線、関西本線(大和路線)、奈良線
スカイブルー色の車両
京浜東北・根岸線、横浜線、京葉線、京都・神戸線、阪和線
エメラルドグリーン色の車両
常磐快速線
自分の記憶ではこの位だったかな?
北朝霞駅のところに東上線朝霞台駅が見当たらない。
翌年ですね出来るの
今の越谷レイクタウン駅の辺りの線路脇に火葬場があって、乗ってる電車が煙突からの黒い煙に包まれたことがありめちゃくちゃビビったわw懐かしい思い出w
越谷南高校から火葬場の円筒が見えた
3十数年前の越南卒業生だが、時より火葬場煙突から出る薄い白煙を見たことはあるが、黒い煙なんてのは出ていなかった。
しかも、武蔵野線の線路から火葬場まではそこそこ離れていたので、線路まで煙が立ち込めるなんてこともあるはずがない。
列車が包まれる程の煙の量出すには、相当量の木材でも燃やさない限り出ないし、煙突の高さからみても武蔵野線が高架であっても地上付近まで煙が降りてくることはない。
おっ!新松戸で、583系走ってるじゃん!これは、(ゆうづる)(みちのく)か、どっちだろ?
583系は一昨年に引退しました。
今の世代の人達は知らないでしょうね、吉川美南、新三郷開業前の吉川~三郷間に巨大な武蔵野操車場が有った事を。
その跡地にららぽーと新三郷が出来てそこに夢空間が置いてあるわけだ…
いや流石に知ってるわ。
西武線沿線住まいですが今から40年位前の小学生の時に新秋津駅で自動改札を初めて見た時、メチャクチャ驚いた記憶があります。
1:04 2008年には南越谷と吉川の間に越谷レイクタウン駅が出来ました。また後に吉川と三郷の間にも吉川南と新三郷が開業します。
新三郷駅が1985年3月、武蔵浦和駅が1985年9月、東松戸駅が1998年、吉川美南駅が2012年開業です。
そう言えば1973年で自動改札機だった。滅多に乗らないので忘れていた。今更驚いたわw山手線とか1990年以降だった気がする。
4:38 昭和53年当時とは言え、この103系はまだ非冷房だったんだ。
武蔵野線はオレンジですが
オレンジです。合ってますよ!
@@コースケチャンネルさん、@tatsuyaさん、それだから当時の南武線は中央・総武線各駅停車から余ったカナリアイエローが主役であるものの、脇役として中央線快速電車から余り武蔵野線に転属された同色のオレンジバーミリオンが継ぎ接ぎされる事も度々あったのでしょうね。
【P.S.】余談ですが、現在では笑点の出演者に例えると・・・、中央・総武線各駅停車は林家木久扇で、中央線快速電車は林家たい平ですね。また、プリキュアの登場人物(両者ともスマイルプリキュア!)に例えると・・・、キュアサニーが中央線快速電車で、キュアピースが中央・総武線各駅停車ですね。
0:36 今なら 何千人集まるんだろう? ネタ
あれだよね。府中まで貨物レールを人間を乗せたのは東芝の力だ
新座の平林寺が取り上げられてる・・・超最寄りなんだがw
秋の紅葉の季節が最高ですけど。
@@みやのこだべ 最近は、何か理由あるのか、平林寺はあまり参詣者(客を)歓迎していないみたい!
入場料はワンコイン_500円だが、構内到るところが立入禁止で散歩の範囲が狭くなったよ(>_
今は混んでない区間の方が少ないくらいですね
改札機は最新型、でも電車は…
hokusoubito 205の置き換えがe231…(´・ω・`)
@@haijima-Express
JRになっても続く、武蔵野中古車センター
小林忠一 中古を売るなら武蔵野線♪てきな(゚∀゚)
@@haijima-Express
実際は中古を使わすなら武蔵野線♪かな?
未だに国鉄時代の車両、201系がほとんどの運用で開業したおおさか東線よりはマシです(昨今まで103系も現役だった)。
武蔵野操車場を海上コンテナの輸送拠点に出来ていたらなぁと、大井ふ頭に行く度に妄想してしまう。。。
懐かしいなぁ~
今はガソリン輸送やコンテナだらけですね。
私鉄の新型車両(東武、西武、東京メトロなど)の甲種輸送も!
新座駅付近の団地は旭ヶ丘団地ですね。