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パチンコで4000円くらい勝って、安いお酒を飲んで帰る、みたいな内容が本当に『自由人』という感じで憧れました。今のライターさんと決定的に違ってたのは、後ろめたい感情が文章から滲んでたとこかな。そこが、共感と独特のカッコよさを出していました。
田山さんの開店前に喫茶店でコーヒーを飲み開店から夕方までパチンコを打ち飲み屋が開く時間ぐらいで上がって呑むと云うスタイル素敵でした。
田山さん、本当にカッコ良かった。。田山さんが亡くなってパチンコ打たなくなったけど、パチプロ日記は全巻取ってあって今でも読む時があります。。パチプロというよりも、超一流の作家だったと思います!
私もタイムーリーでコラムを楽しませてもらっていた一人ですが、私もほとんど大崎さんが仰る通りの感想です。付け加えるとしたら、日本人の美学である謙虚さを持ち合わせていた方だった。それが皆に愛される理由だったと思います。
田山さん、山楽、懐かしいです。初めて通ったパチ屋が山楽でした。田山さんは羽物、私は権利物を主に打ってました。開店前のモーニングや昼食を2,3度ご一緒させていただいた記憶があります。古き良き時代でした。今でも一パチンコファンとして適度に楽しんでます。大崎さんも頑張ってください応援してます。番組中のピーがいつも気になって楽しんで拝見してます。
鬼の住処 と デキた!は名言でしたね。ワクワクしながらガイド読んでました。万発さん良い話をありがとう!
田山さんこそプロの完成形だと思います。軍団で台を占拠し、閉店まで打ち切るというのがいまのプロの形だとしたらその対極にありますね。
田山さんのパチプロ日記、大好きでした。必勝ガイド買うとまずパチプロ日記から読んでたもんなぁ。単行本も買いましたし。田山さんのまわりのひとを想像してました。パチンコもほんとに良い時代だった‼️
田山さんのパチプロ日記ずっと読んでたなあ舌癌になってからはほんと読むのが辛かった優しい文章を書く人でした
田山さんの日記は本当に楽しく読ませて頂きました。常連客と飲み行ったりボートを優先したりで自由にその日を満喫出来るスタイルが本当に羨ましかった。上手いプロや稼げるプロは沢山いますがここまで人間味溢れ魅了した人は今後でないでしょうね。
ボートじゃなくて競輪ね
葬儀の時、田山さんの亡骸をお母様がずっと撫でてた、という記事を見て涙が溢れた。
大阪から、新幹線に乗り東京へ。ニコタマ線で、溝の口まで。田山さんを拝見させてもらいにビッグトップだったかな?エスカレーター上がったら、角台でたぬ吉くんを打ってらっしゃいました。感動したのは言うまでもありません。もう20年ですか、、、 創刊号からガイドは買ってましたが、田山プロのパチプロ日記は1番に読んでましたね。
あの時代、田山さんを嫌いって人聞いた事ないし、お亡くなりになってからもそうですよね。ほんとに皆に愛されたパチプロでしたね。
田山さんの日記は独特の世界観でした毎年7月4日になると思い出します万発さんが仰る田山さんと携われた事が財産には涙出ます2度と出ないパチプロだと思います。
私も田山氏の訃報を耳にし、実際に紙面に掲載されなくなってから暫くの間、ガイドを購入しなくなった一人です。昔のお嬢さんとかホールに向かう時の情景の描写とか、田山氏ならではの言い回しがとても心地よく響いたものです。今は何でも平均化された時代で、ああいった稀有な人物が誕生する土台自体無いのかもしれませんねぇ。義理と人情、どちらもとても大切にして人生を送った方と思っております。
泣ける。現在55歳。私の青春でした。全巻揃えて、ブクロや溝の口に田山さんを見にパチ屋に行って遠巻きに邪魔にならないようにしていたのは懐かしい思い出です。
熊本在住45歳ですが、田山さんは溝の口のどのお店に通われてたのでしょうか?自分も20代の頃ガイドの連載楽しみ読んでました。仕事で上京しまして、溝の口に住んでたので田山さんは何処のお店で打ってらっしゃったんだろうかと思っておりました。
今は再開発でありません。ビックトップという店名でした。先日は10数年振りに押し入れからパチプロ日記を引っ張りだして読み返しました。懐かしい田山語録で笑い、やっぱり最後は涙が出ちゃいました。歳ですね。
そうなんですね、ありがとうございました。田園都市線で桜新町から通われてたですね。
田山氏の、知性の中に覗かせる狂気、無頼でどこか世捨て人然とした佇まいが堪らなく魅力的であったと思う。麻雀に阿佐田哲也がいたとするならば、パチンコに田山幸憲ありと言っても過言ではないだろう。
つまらない日常で唯一の楽しみがパチンコだった。自分みたいな会社員でも結構稼げた時代だったので、何度も仕事辞めちまおうか・・と思った。それを思い止めてくれていたのが、田山さんの「パチプロなんて絶対なるもんじゃない」の言葉。田山さんが言うならきっとそこには何か深い人生教訓があるのだと思い、嫌な会社と仕事を続けられた。田山さんの言葉、今も感謝してます
ガイドを買っていた一番の理由はパチプロ日記があるから毎号これだけが楽しみだったいつしか自分も田山さんが闘病されていた年齢に達しなんとか健康体を維持しているがそれも田山さんの経験則を日記で読めたのが大きい
私が釘叩いてた時代に私が叩いた初代ナナシーを打っていただいたのは一生の思い出です。
ナナシーって機種が7月4日をいっそう忘れられない日にしてますよね。何処かの野蛮な国の独立記念日ではなく、大切な方が亡くなった日として。
なんと羨ましい
ガイドと他誌さんの違いは読み物の充実でした。ガイド読者として田山さんの日記は楽しませて貰いましたし、お亡くなりなった時には悲しかったですね。地方にいた自分は、同じ機種を打つ事で勝手に親近感を感じていました。今でも、シメシメルックは使っています(笑)
田山さんのパチプロ日記は未だに読んでます。生前に一度でもお目にかかりたかったと思えるうちの一方です。田山さんが愛してやまなかったナナシーの日に亡くなられたのも田山さんらしいですよね。また機会があればお話しお願いします。
大崎さんが田山さんを本当に尊敬しているのがメチャクチャ伝わりました。
田山さんの場合、オカルトといっても多大な経験から来るものだから深みはあった。
「台にココロがあるものと思っている」「シメシメルック」「デキた!」田山文体の語り口を読みたさにガイド買ってましたよ。初代ナナシー好きでした。
シメシメルック横の比較でなく縦の比較高校生の頃から愛読していたガイド誌の中で最も記憶に残る物書きでした
田山さんのパチプロ日記、拝読しておりました。ご自身のスタイルを貫きながら、独特な引き込まれるような文章が魅力でした。大崎さんの動画を見て、あの照れたようなはにかんだ笑顔を浮かべられていることでしょう。
はい、実際にすごくシャイな方でした。ポツポツと言葉を選ぶように喋る田山さんを思い出します。
もう20年ですか。田山さんの連載楽しみでした
「全ツッパ」「してやったり」「鬼の住処」…他、いっぱいあるよね。
田山プロの連載コラム、いつも楽しみに読んでいました。ストイックで謙虚でどこか人生を達観した感じがしていました。大崎さんの話を聞いて、とても懐かしく少し悲しい感じがしました。。
待ってました!独特な言い回し、控えめな打ち方、大好きでした。
懐かしくて泣きそうになりました。万発さん凄くいい話ありがとうございます😃自分は田山さんの日記目当てでガイド買ってましたよ。後安田さんの日記と読者投稿コーナーのファンでした🎵
田山さんに近づきたくて一所懸命に羽根モノ打ってたなぁ…………なんとなく釘が読める様になって羽根ウルトラセブンで喰ってた時期が懐かしい。今年同じ月に父親が亡くなったので改めて、合掌。
田山さんを取り上げて頂き、感謝と涙で溢れてます。全身ジーンズの男より。
初めてコメントします。田山さんの独特の言い回し、謙虚さ、居酒屋でゆっくりと飲む写真、左下の月収支、日当。他のパチプロやパチ屋を気付かい、共存していたあの頃の古き良き時代を懐かしく感じました。またビックシューターが打ちたくなりましたww
田山さんのコラム、いつも楽しく読んでました。文章からも人柄が滲み出ていて、皆に好かれる人でしたね。
一番面白い連載だったなーこのページだけは毎月読んでたの思い出します。20年自分も歳をとったなー。
大崎さん、ありがとうございます!読めば心が穏やかになる文体。田山さんの存在がパチンコに興じる自分を正当化してくれていたような気がします。
田山さん…もう20年ですね。溝ノ口駅前パチ屋で良くご挨拶してましたね。もう無くなったパチ屋ですが懐かしい思いです
田山さん待ってた~マジで田山さんは憧れたパチプロ!
田山さんのコラムは楽しみに読んでました。考え方やパチンコとの向き合い方など本当に面白かったです。ガイドは田山さんのコラムを読みたかったから買ってた面もありました。その後もずっと読んでましたけどね。
田山さんのお話しありがとうございます。また聞かせてください❣️😊
あまり便乗しすぎるのも印象悪いので、考えますね……
鬼の住処…懐かしいですね。当時、田山さんの連載読んで、憧れて隣町まで「ローリングマシン」打ちに行ってました(地元のパチ屋には無かったので)
田山さんの池袋時代の山楽には、当時毎日の様に行ってました。羽根モノが地下にあり、ニューモンローを自分はよく打ちました。一階にフィーバーチャレンジが入った時、田山さんが打っていたので、自分は三台隣で打ち7で揃いました。7で揃うと今でいう確変みたいな状態になり、玉を減らさずに次の大当たりを待てるというふれこみでしたが、実際はどんどん玉が減っていき、ほとんど無くなった頃に次の当たりがきました。その間、田山さんは一回当てて交換してましたので、その後自分がやめた頃に田山さんもやめたので、ほぼイーブンか自分のちょい勝ちかという結果でした。ただ田山さんのうった台のほうが回ってました。
思わず涙がこぼれそうなコメントありがとうございます。誰がなんと言おうとあの美しい生き様、まさに神そのものです!
パチンコ雑誌を買って一番最初に読むのが田山さんのパチプロ日記だったなおかしなはなしやで
田山さん亡くなって20年か。先日、池袋に久しぶりに行って田山さんを思い出す。某チェーン店でパチンコを打ち少し浮いたので清く止める。週末でパチンコ店はコロナ渦とは思えない人の多さ。田山さん生きてたら今のパチンコ打ってないだろう。貴重な話しありがとうございました。
私がパチンコの演者さんにどっぷりハマるきっかけになったのが、画面で不貞腐れて「いつでも打ちたいと思ってんじゃねーぞ」と視聴者に向けてキレて数分後に「連チャンしてるんですけどぉ」と嬉々怪怪、テレビでは味わえないコンテンツを提供してくれた、大崎一万発さんでした。僕にとってのレジェンドは大崎さんです。これからもずっと応援してます。
暗黙の了解の時間やめくるめく○○って言い回しが好きでした。
もう20年になるんですね。自分も田山語録はツボで、行きつけの店のゲージを見て「いつも通りのくだらない面。見ているだけで反吐が出る」とかホームの店のゲージをそこまであしざまに。。。とか印象に残っています。
学生時代にハネモノ毎日2台打ち止めできたらパチプロになれるかも、なんて夢見させてくれた憧れの人でしたほんとに死ぬのはやかった・・喪失感はんぱなかったですもう20年なんですねあらためて母より長生きしなきゃって思います
侘び寂びの価値観アナログの素晴らしさ日本人としての謙虚さ素敵な方でした。
当時ガイドの中で田山さんの日記が一番面白かった。真っ先に読んでたし。
田山プロといえばナナシーの時代によく連載読ませて頂きましたかっこよかったなぁ
ああ、もう20年になるのですね・・・。たまたま手に取った「パチプロ告白記」に魅了されたのがつい先日の様です。ガイドのコラムも毎回楽しみでした。
やっと田山さんの事を話して下さいましたか、そうなんですよね田山さんが居なかったら必勝ガイドは多分存在し得なかったと強く思います。私も田山さんの連載が楽しみでガイドを購入していた様なものでした。事情があってパチンコから離れていた時に何のきっかけだったか忘れましたが訃報に触れ目の前が真っ暗になった事を今でも忘れません。もう二十年ですか…時の流れは早いなぁ。改めて合掌。万発さんこれからもパチンコメディアのリーダとして頑張って下さい。
お亡くなりになったのは知ってたけどもう20年にもなるんですねあんまり読まないガイドの白黒ページでもずっと読ませて頂いてましたお話聞けて嬉しかったです
人生で最も尊敬する人の中のひとりです。著書は今でも宝物で今でも読んでます。
田山プロのお葬式の様子を西原理恵子が漫画に描いていて・・。お葬式でのお母さまをを書かれてました。パチプロ日記の朝の喫茶店、最後の方は舌癌でアイスコーヒーを頼むけど飲めなくなったというのが今でも忘れられません。
中国人のコウさんとのエピソードが好きでした。
シメシメルック、ナナシーは今でも後継機が出続けてますよね、電役モノの好きな台です、今のナナシーを田山さんにも打ってほしかったな~ 合掌。
出来た……。って言いたかっもの。これだけがガイドだった。いや、安田さんとか、引き込まれるもの書く人が一杯居た時代ですね。
当時、ガイドを買ってきたらまず田山さんのページから読んでました。ローリングマシンの頃はまだ高校生で、隠れてホールに行ったのが懐かしいです。羽根モノの寄り釘の見方とか、落としの袴の釘とかガイドを見て勉強したのが懐かしいです。あと、読者投稿のページも好きでした。イムタマンとかマイム舞の海とか凄く懐かしい!
大崎さん、田山さんのお話しありがとうございます。当時、田山さんのネグラまで何度か足を運びましたが、お会いすることはできませんでした。お亡くなりになられてから、松戸のお墓には一度行かせていただきました。勝手な想いですが、本当に田山さんにお会いしたいと、未だに思う所存です。
田山さんが晩年稼働してた青葉台のA店のある最寄り駅の青葉台駅停車中にこの動画を視聴できました。大崎さんから田山さんの話が聞けて何よりです。今なら田山さんトキオシリーズで稼働なされてるんでしょうね🗼
若かりし頃に自分も山楽会館に行きました田山さんと勝負だと意気込んで地下のニューモンローを打ったのはいい思い出です
食い入るように連載を読んでました。動画もすごく良かったです。ありがとうございます😭
田山さんがお亡くなりになったのは、大崎さんが編集長の時だったんですね。コウさんとの関係にヤキモキしたり、居酒屋無駄話を楽しみにしたり…DVDが付録に付く前の時代を支えるに充分な存在でした。何千個落ちとかも、オカルトですものね(笑)絶対的な基本に基づいた経験値によるオカルトは、読んでいて楽しかった。決して人に強要したり、勧めたりしないところは田山イズムと読んで差し支えないかと。
田山プロを取り上げて頂き、ありがとうございます。
まさにしてやったり!が大好きでした。文学者・作家としても立派で魅力的な方でした。知らない人は是非読んで欲しい!
田山さんはマジで神
田山さんの日記は毎号楽しみにしていました。闘病から復帰された時の座談会(飲み会?)特集。舌をごっそり切除した話をされて驚いたのですがそれでも田山さんとガイドの人との和やかな雰囲気が紙面から伝わってきて今でも印象に残っています。あの時まんぱつさんも同席されてたのかな?
やはり、大崎さんは、話し方が上手ですね。
自分も田山ワールドにはまった一人です。必勝ガイドの発売日が待ち遠しかったですね。ちょいまの日記も面白かったですよ(笑)
90年代半ば、JR溝の口駅前のパチンコ屋(ビッグトップだったと思う)で朝からパチンコ屋をやっていると田山さんとよく会った。フィーバーパワフルやあんたはエライEXをよく打ってた印象。退店も早かった。2~3回声を掛けられたなあ。
高校生の時田山さんに倣い開店前に喫茶店に入ってドキドキしたの思い出した。アウトローな生き方を「ろくなもんじゃない」と言いつつ楽しんでいるのに憧れました。
パチンコ・パチスロTVを昔よく見ていました。当時から大崎さんは偉大な存在で、「賭け事」という枠を超えてパチンコの魅力が伝わる番組を見させて頂いてたことを思い出しました。私は現在投資家をしていますが、投資家も一種のはぐれ者なのかなとお話を聞いていて思いました。私にとっては田山さんと同じくらい大崎さんは偉大です。これからも体調にお気をつけてご活躍してください。これからも応援しています
僕も田山さんの連載が大好きで何回か山楽に行ったけど、1度も会えなかった思い出があります。懐かしいですねぇ
田山さんのお住まいは都内のY駅でしたがパチンコ店は川崎のM駅でした。隣で打った事が有ります。隣で打ったといえば末井さんが編集長の時にU駅前のパチンコ店で隣同士で打ちました。必勝ガイドの投稿で頂いた「必勝お守り」を持ちながらでした。ガイドの最後のページに載っていた「編集長のちょいのま日記」にその時の事が正直に書いてありました。ちなみに支部長制度の発案は私です。川崎支部長がペンネームでした。
めくるめく確変、とかパチンコにまつわる感情を文学的に表現されていて印象深かったですね。
ベンツ小林は、地元の大阪の泉南では、周りの本当のパチプロ連中にイジられまくってただけの存在でした。逆に今、タレントの角孝人さんはその頃かなり、一目も二目も置かれてた有名パチプロ権開店プロだったと伝説的に聞いています。私も角さんにペコペコしているベンツ小林さんを何度も目撃していました(笑)
ギリギリ田山さんの連載をタイムリーで読んでた世代ですが、文章にインテリジェンスがあって大人で、当時の自分にはハードルが高かったのを覚えていますねー。
王様手帳今も持ってます😆田山さんの著書で釘読み覚えたなあ😭
田山さんのパチプロ日記は全巻購読して今でも家にあります。当時でも珍しい縦の比較とかあって、ああパチプロってここまでやるんだなと参考になりました。中期後期はホールの状況に悪戦苦闘していた感じでしたね。今では釘は一律調整がほとんどだから、今打ったらすごくボヤきそう・・・・
縦の比較、横の比較できた!シメシメルックまさに彼の文章に魅せられた1人でした。オカルトチックなことを言ってたけど確かな釘読みの実力があったからこそ許されてたし認められたのでしょうね。パチンコの本来の楽しさとは?あり方とは?そのようなことを示してくれたのが自分のなかでは田山さんでした。
田山さんと安田さんの 日記見る為に ガイド買ってたって言ってっも 過言じゃないなぁ
たての比較とかよく分からないない用語がありましたが、読んでいてワクワクしていました。
もう20年になるんですね🥲本当に凄い人でした🥲パチプロ日記は今でもたまに引っ張り出して読んでます。
自分も山楽に田山さんを見に行ったなあ。その山楽も無くなって久しいですね。
田山さんの話し大変に感動致しました。有難うございます。
大崎さんは謙虚だよねいつも本気で大口を叩いた後、謙虚さ出てきて笑い話でまとめるもの。あ、機嫌悪いとオーラやばいので近づけない感じはします そういう時はヤングさんいるとバランスが良くて助かる
田山さんと言えば、タテの釘読みこの言葉で釘読みの精度が俄然上がりました
しめしめルック😆
昭和60年か61年に池袋のS店の地下にあった京楽のスーパーワンダーを¥200でサクッと打ち止めにしたとき、2台離れたところの男性から殺気に近い目つきと雰囲気で睨まれました。只者ではない男だなと長い間異常に気になっていたのですが後にその男性が田山プロと知ったときはもの凄く鳥肌が立ちました。パチプロ日記、大好きだったなぁ…合掌
田山さんの文章は読んでて景色が浮かんで面白かったなぁ。
"新聞のお悔み"の職業は"パチプロ"ではなく"作家"だったと記憶しています。
田山さんの連載は、パチンコの勝ち方じゃなく田山さんという人そのものが作品だった。オンリーワンな存在でしたね。
待ってました!私がガイドにどっぷり浸かってる時の大好きな連載のひとつ。「できた!」「差し入れを持ってきてくれた、あの、べっぴんさんは、、、」オノさんを代表する、あだ名付のセンス(笑)実家に、置いてある「パチプロ日記」引っ張り出して見るか?ガイド手に取らなくなって(買わなくなって)久しいですが、オノさんの「白鯨」は、必ず読んでますね(笑)(ホールで)
パチプロ日記を楽しみにガイド買ってましたね。忘れられない名前です。
東大中退…スゴすぎます✨自分もよくパチプロ日記見てパチプロを夢見てました❤️
朝、電車に乗って喫茶店に行き、競輪の記事をスポーツ新聞で読む。ジグマのK店、H店でナンシーを打ち、仲間が来たら、夕方から皆で呑みにいく。完成された人生。完璧な生き方。
パチンコで4000円くらい勝って、安いお酒を飲んで帰る、みたいな内容が本当に『自由人』という感じで憧れました。
今のライターさんと決定的に違ってたのは、後ろめたい感情が文章から滲んでたとこかな。
そこが、共感と独特のカッコよさを出していました。
田山さんの開店前に喫茶店でコーヒーを飲み開店から夕方までパチンコを打ち飲み屋が開く時間ぐらいで上がって呑むと云うスタイル素敵でした。
田山さん、本当にカッコ良かった。。
田山さんが亡くなってパチンコ打たなくなったけど、パチプロ日記は全巻取ってあって今でも読む時があります。。
パチプロというよりも、超一流の作家だったと思います!
私もタイムーリーでコラムを楽しませてもらっていた一人ですが、私もほとんど大崎さんが仰る通りの感想です。
付け加えるとしたら、日本人の美学である謙虚さを持ち合わせていた方だった。それが皆に愛される理由だったと思います。
田山さん、山楽、懐かしいです。初めて通ったパチ屋が山楽でした。田山さんは羽物、私は権利物を主に打ってました。開店前のモーニングや昼食を2,3度ご一緒させていただいた記憶があります。古き良き時代でした。今でも一パチンコファンとして適度に楽しんでます。大崎さんも頑張ってください応援してます。番組中のピーがいつも気になって楽しんで拝見してます。
鬼の住処 と デキた!は名言でしたね。
ワクワクしながらガイド読んでました。
万発さん良い話をありがとう!
田山さんこそプロの完成形だと思います。軍団で台を占拠し、閉店まで打ち切るというのがいまのプロの形だとしたらその対極にありますね。
田山さんのパチプロ日記、大好きでした。
必勝ガイド買うとまずパチプロ日記から読んでたもんなぁ。単行本も買いましたし。
田山さんのまわりのひとを想像してました。パチンコもほんとに良い時代だった‼️
田山さんのパチプロ日記ずっと読んでたなあ
舌癌になってからはほんと読むのが辛かった
優しい文章を書く人でした
田山さんの日記は本当に楽しく読ませて頂きました。常連客と飲み行ったりボートを優先したりで自由にその日を満喫出来るスタイルが本当に羨ましかった。上手いプロや稼げるプロは沢山いますがここまで人間味溢れ魅了した人は今後でないでしょうね。
ボートじゃなくて競輪ね
葬儀の時、田山さんの亡骸をお母様がずっと撫でてた、という記事を見て涙が溢れた。
大阪から、新幹線に乗り東京へ。ニコタマ線で、溝の口まで。田山さんを拝見させてもらいにビッグトップだったかな?
エスカレーター上がったら、角台でたぬ吉くんを打ってらっしゃいました。感動したのは言うまでもありません。もう20年ですか、、、 創刊号からガイドは買ってましたが、田山プロのパチプロ日記は1番に読んでましたね。
あの時代、田山さんを嫌いって人聞いた事ないし、お亡くなりになってからもそうですよね。ほんとに皆に愛されたパチプロでしたね。
田山さんの日記は独特の世界観でした
毎年7月4日になると思い出します
万発さんが仰る田山さんと携われた事が財産には涙出ます
2度と出ないパチプロだと思います。
私も田山氏の訃報を耳にし、実際に紙面に掲載されなくなってから暫くの間、ガイドを購入しなくなった一人です。昔のお嬢さんとかホールに向かう時の情景の描写とか、田山氏ならではの言い回しがとても心地よく響いたものです。今は何でも平均化された時代で、ああいった稀有な人物が誕生する土台自体無いのかもしれませんねぇ。義理と人情、どちらもとても大切にして人生を送った方と思っております。
泣ける。現在55歳。
私の青春でした。
全巻揃えて、ブクロや溝の口に田山さんを見にパチ屋に行って遠巻きに邪魔にならないようにしていたのは懐かしい思い出です。
熊本在住45歳ですが、田山さんは
溝の口のどのお店に通われてたのでしょうか?自分も20代の頃ガイドの連載楽しみ読んでました。
仕事で上京しまして、溝の口に住んでたので
田山さんは何処のお店で打ってらっしゃったんだろうかと思っておりました。
今は再開発でありません。
ビックトップという店名でした。
先日は10数年振りに押し入れからパチプロ日記を引っ張りだして読み返しました。懐かしい田山語録で笑い、やっぱり最後は涙が出ちゃいました。歳ですね。
そうなんですね、ありがとうございました。田園都市線で桜新町から通われてたですね。
田山氏の、知性の中に覗かせる狂気、無頼でどこか世捨て人然とした佇まいが堪らなく魅力的であったと思う。
麻雀に阿佐田哲也がいたとするならば、パチンコに田山幸憲ありと言っても過言ではないだろう。
つまらない日常で唯一の楽しみがパチンコだった。自分みたいな会社員でも結構稼げた時代だったので、何度も仕事辞めちまおうか・・と思った。それを思い止めてくれていたのが、田山さんの「パチプロなんて絶対なるもんじゃない」の言葉。田山さんが言うならきっとそこには何か深い人生教訓があるのだと思い、嫌な会社と仕事を続けられた。田山さんの言葉、今も感謝してます
ガイドを買っていた一番の理由はパチプロ日記があるから
毎号これだけが楽しみだった
いつしか自分も田山さんが闘病されていた年齢に達しなんとか健康体を維持しているがそれも田山さんの経験則を日記で読めたのが大きい
私が釘叩いてた時代に私が叩いた初代ナナシーを打っていただいたのは一生の思い出です。
ナナシーって機種が7月4日をいっそう忘れられない日にしてますよね。何処かの野蛮な国の独立記念日ではなく、大切な方が亡くなった日として。
なんと羨ましい
ガイドと他誌さんの違いは読み物の充実でした。
ガイド読者として田山さんの日記は楽しませて貰いましたし、お亡くなりなった時には悲しかったですね。
地方にいた自分は、同じ機種を打つ事で勝手に親近感を感じていました。
今でも、シメシメルックは使っています(笑)
田山さんのパチプロ日記は未だに読んでます。生前に一度でもお目にかかりたかったと思えるうちの一方です。田山さんが愛してやまなかったナナシーの日に亡くなられたのも田山さんらしいですよね。また機会があればお話しお願いします。
大崎さんが田山さんを本当に尊敬しているのがメチャクチャ伝わりました。
田山さんの場合、オカルトといっても多大な経験から来るものだから深みはあった。
「台にココロがあるものと思っている」「シメシメルック」「デキた!」
田山文体の語り口を読みたさにガイド買ってましたよ。初代ナナシー好きでした。
シメシメルック
横の比較でなく縦の比較
高校生の頃から愛読していたガイド誌の中で最も記憶に残る物書きでした
田山さんのパチプロ日記、拝読しておりました。
ご自身のスタイルを貫きながら、独特な引き込まれるような文章が魅力でした。
大崎さんの動画を見て、あの照れたようなはにかんだ笑顔を浮かべられていることでしょう。
はい、実際にすごくシャイな方でした。ポツポツと言葉を選ぶように喋る田山さんを思い出します。
もう20年ですか。
田山さんの連載楽しみでした
「全ツッパ」「してやったり」「鬼の住処」…他、いっぱいあるよね。
田山プロの連載コラム、いつも楽しみに読んでいました。
ストイックで謙虚でどこか人生を達観した感じがしていました。
大崎さんの話を聞いて、とても懐かしく少し悲しい感じがしました。。
待ってました!独特な言い回し、控えめな打ち方、大好きでした。
懐かしくて泣きそうになりました。万発さん凄くいい話ありがとうございます😃
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田山さんに近づきたくて一所懸命に羽根モノ打ってたなぁ…………
なんとなく釘が読める様になって羽根ウルトラセブンで喰ってた時期が懐かしい。
今年同じ月に父親が亡くなったので改めて、合掌。
田山さんを取り上げて頂き、感謝と涙で溢れてます。
全身ジーンズの男より。
初めてコメントします。田山さんの独特の言い回し、謙虚さ、居酒屋でゆっくりと飲む写真、左下の月収支、日当。他のパチプロやパチ屋を気付かい、共存していたあの頃の古き良き時代を懐かしく感じました。またビックシューターが打ちたくなりましたww
田山さんのコラム、いつも楽しく読んでました。
文章からも人柄が滲み出ていて、皆に好かれる人でしたね。
一番面白い連載だったなーこのページだけは毎月読んでたの思い出します。20年自分も歳をとったなー。
大崎さん、ありがとうございます!
読めば心が穏やかになる文体。田山さんの存在がパチンコに興じる自分を正当化してくれていたような気がします。
田山さん…もう20年ですね。溝ノ口駅前パチ屋で良くご挨拶してましたね。もう無くなったパチ屋ですが懐かしい思いです
田山さん待ってた~マジで田山さんは憧れたパチプロ!
田山さんのコラムは楽しみに読んでました。
考え方やパチンコとの向き合い方など
本当に面白かったです。
ガイドは田山さんのコラムを読みたかったから買ってた面もありました。
その後もずっと読んでましたけどね。
田山さんのお話しありがとうございます。また聞かせてください❣️😊
あまり便乗しすぎるのも印象悪いので、考えますね……
鬼の住処…
懐かしいですね。
当時、田山さんの連載読んで、憧れて隣町まで「ローリングマシン」打ちに行ってました
(地元のパチ屋には無かったので)
田山さんの池袋時代の山楽には、当時毎日の様に行ってました。羽根モノが地下にあり、ニューモンローを自分はよく打ちました。一階にフィーバーチャレンジが入った時、田山さんが打っていたので、自分は三台隣で打ち7で揃いました。7で揃うと今でいう確変みたいな状態になり、玉を減らさずに次の大当たりを待てるというふれこみでしたが、実際はどんどん玉が減っていき、ほとんど無くなった頃に次の当たりがきました。その間、田山さんは一回当てて交換してましたので、その後自分がやめた頃に田山さんもやめたので、ほぼイーブンか自分のちょい勝ちかという結果でした。ただ田山さんのうった台のほうが回ってました。
思わず涙がこぼれそうなコメントありがとうございます。
誰がなんと言おうとあの美しい生き様、まさに神そのものです!
パチンコ雑誌を買って一番最初に読むのが田山さんのパチプロ日記だったな
おかしなはなしやで
田山さん亡くなって20年か。
先日、池袋に久しぶりに行って田山さんを思い出す。某チェーン店でパチンコを打ち少し浮いたので清く止める。週末でパチンコ店はコロナ渦とは思えない人の多さ。
田山さん生きてたら今のパチンコ打ってないだろう。
貴重な話しありがとうございました。
私がパチンコの演者さんにどっぷりハマるきっかけになったのが、画面で不貞腐れて「いつでも打ちたいと思ってんじゃねーぞ」と視聴者に向けてキレて数分後に「連チャンしてるんですけどぉ」と嬉々怪怪、テレビでは味わえないコンテンツを提供してくれた、大崎一万発さんでした。
僕にとってのレジェンドは大崎さんです。
これからもずっと応援してます。
暗黙の了解の時間やめくるめく○○って言い回しが好きでした。
もう20年になるんですね。自分も田山語録はツボで、行きつけの店のゲージを見て「いつも通りのくだらない面。見ているだけで反吐が出る」とかホームの店のゲージをそこまであしざまに。。。とか印象に残っています。
学生時代にハネモノ毎日2台打ち止めできたらパチプロになれるかも、なんて夢見させてくれた憧れの人でした
ほんとに死ぬのはやかった・・
喪失感はんぱなかったです
もう20年なんですね
あらためて母より長生きしなきゃって思います
侘び寂びの価値観アナログの素晴らしさ日本人としての謙虚さ
素敵な方でした。
当時ガイドの中で田山さんの日記が一番面白かった。真っ先に読んでたし。
田山プロといえばナナシーの時代によく連載読ませて頂きました
かっこよかったなぁ
ああ、もう20年になるのですね・・・。たまたま手に取った「パチプロ告白記」に魅了されたのがつい先日の様です。ガイドのコラムも毎回楽しみでした。
やっと田山さんの事を話して下さいましたか、そうなんですよね田山さんが居なかったら必勝ガイドは多分存在し得なかったと強く思います。私も田山さんの連載が楽しみでガイドを購入していた様なものでした。事情があってパチンコから離れていた時に何のきっかけだったか忘れましたが訃報に触れ目の前が真っ暗になった事を今でも忘れません。もう二十年ですか…時の流れは早いなぁ。改めて合掌。万発さんこれからもパチンコメディアのリーダとして頑張って下さい。
お亡くなりになったのは知ってたけどもう20年にもなるんですね
あんまり読まないガイドの白黒ページでもずっと読ませて頂いてました
お話聞けて嬉しかったです
人生で最も尊敬する人の中のひとりです。
著書は今でも宝物で今でも読んでます。
田山プロのお葬式の様子を西原理恵子が漫画に描いていて・・。
お葬式でのお母さまをを書かれてました。
パチプロ日記の朝の喫茶店、最後の方は舌癌でアイスコーヒーを頼むけど飲めなくなったというのが今でも忘れられません。
中国人のコウさんとのエピソードが好きでした。
シメシメルック、ナナシーは今でも後継機が出続けてますよね、電役モノの好きな台です、今のナナシーを田山さんにも打ってほしかったな~ 合掌。
出来た……。って言いたかっもの。これだけがガイドだった。いや、安田さんとか、引き込まれるもの書く人が一杯居た時代ですね。
当時、ガイドを買ってきたらまず田山さんのページから読んでました。ローリングマシンの頃はまだ高校生で、隠れてホールに行ったのが懐かしいです。羽根モノの寄り釘の見方とか、落としの袴の釘とかガイドを見て勉強したのが懐かしいです。あと、読者投稿のページも好きでした。イムタマンとかマイム舞の海とか凄く懐かしい!
大崎さん、田山さんのお話しありがとうございます。当時、田山さんのネグラまで何度か足を運びましたが、お会いすることはできませんでした。お亡くなりになられてから、松戸のお墓には一度行かせていただきました。勝手な想いですが、本当に田山さんにお会いしたいと、未だに思う所存です。
田山さんが晩年稼働してた青葉台のA店のある最寄り駅の青葉台駅停車中にこの動画を視聴できました。
大崎さんから田山さんの話が聞けて何よりです。
今なら田山さんトキオシリーズで稼働なされてるんでしょうね🗼
若かりし頃に自分も山楽会館に行きました
田山さんと勝負だと意気込んで地下のニューモンローを
打ったのはいい思い出です
食い入るように連載を読んでました。動画もすごく良かったです。ありがとうございます😭
田山さんがお亡くなりになったのは、大崎さんが編集長の時だったんですね。
コウさんとの関係にヤキモキしたり、居酒屋無駄話を楽しみにしたり…DVDが付録に付く前の時代を支えるに充分な存在でした。
何千個落ちとかも、オカルトですものね(笑)絶対的な基本に基づいた経験値によるオカルトは、読んでいて楽しかった。決して人に強要したり、勧めたりしないところは田山イズムと読んで差し支えないかと。
田山プロを取り上げて頂き、ありがとうございます。
まさにしてやったり!が大好きでした。文学者・作家としても立派で魅力的な方でした。知らない人は是非読んで欲しい!
田山さんはマジで神
田山さんの日記は毎号楽しみにしていました。闘病から復帰された時の
座談会(飲み会?)特集。舌をごっそり切除した話をされて驚いたのですが
それでも田山さんとガイドの人との和やかな雰囲気が紙面から伝わってきて
今でも印象に残っています。あの時まんぱつさんも同席されてたのかな?
やはり、大崎さんは、
話し方が上手ですね。
自分も田山ワールドにはまった一人です。必勝ガイドの発売日が待ち遠しかったですね。
ちょいまの日記も面白かったですよ(笑)
90年代半ば、JR溝の口駅前のパチンコ屋(ビッグトップだったと思う)で朝からパチンコ屋をやっていると田山さんとよく会った。
フィーバーパワフルやあんたはエライEXをよく打ってた印象。
退店も早かった。
2~3回声を掛けられたなあ。
高校生の時田山さんに倣い開店前に喫茶店に入ってドキドキしたの思い出した。
アウトローな生き方を「ろくなもんじゃない」と言いつつ楽しんでいるのに憧れました。
パチンコ・パチスロTVを昔よく見ていました。
当時から大崎さんは偉大な存在で、「賭け事」という枠を超えて
パチンコの魅力が伝わる番組を見させて頂いてたことを思い出しました。
私は現在投資家をしていますが、投資家も一種のはぐれ者なのかなと
お話を聞いていて思いました。
私にとっては田山さんと同じくらい大崎さんは偉大です。
これからも体調にお気をつけてご活躍してください。これからも応援しています
僕も田山さんの連載が大好きで
何回か山楽に行ったけど、1度も会えなかった思い出があります。懐かしいですねぇ
田山さんのお住まいは都内のY駅でしたがパチンコ店は川崎のM駅でした。隣で打った事が有ります。隣で打ったといえば末井さんが編集長の時にU駅前のパチンコ店で隣同士で打ちました。必勝ガイドの投稿で頂いた「必勝お守り」を持ちながらでした。ガイドの最後のページに載っていた「編集長のちょいのま日記」にその時の事が正直に書いてありました。ちなみに支部長制度の発案は私です。川崎支部長がペンネームでした。
めくるめく確変、とかパチンコにまつわる感情を文学的に表現されていて印象深かったですね。
ベンツ小林は、地元の大阪の泉南では、周りの本当のパチプロ連中にイジられまくってただけの存在でした。
逆に今、タレントの角孝人さんは
その頃かなり、一目も二目も置かれてた有名パチプロ権開店プロだったと伝説的に聞いています。
私も角さんにペコペコしているベンツ小林さんを何度も目撃していました(笑)
ギリギリ田山さんの連載をタイムリーで読んでた世代ですが、文章にインテリジェンスがあって大人で、当時の自分にはハードルが高かったのを覚えていますねー。
王様手帳今も持ってます😆田山さんの著書で釘読み覚えたなあ😭
田山さんのパチプロ日記は全巻購読して今でも家にあります。
当時でも珍しい縦の比較とかあって、ああパチプロってここまでやるんだなと参考になりました。
中期後期はホールの状況に悪戦苦闘していた感じでしたね。
今では釘は一律調整がほとんどだから、今打ったらすごくボヤきそう・・・・
縦の比較、横の比較
できた!
シメシメルック
まさに彼の文章に魅せられた1人でした。オカルトチックなことを言ってたけど確かな釘読みの実力があったからこそ許されてたし認められたのでしょうね。パチンコの本来の楽しさとは?あり方とは?そのようなことを示してくれたのが自分のなかでは田山さんでした。
田山さんと安田さんの 日記見る為に ガイド買ってたって言ってっも 過言じゃないなぁ
たての比較とかよく分からないない用語がありましたが、読んでいてワクワクしていました。
もう20年になるんですね🥲
本当に凄い人でした🥲
パチプロ日記は今でも
たまに引っ張り出して読んでます。
自分も山楽に田山さんを見に行ったなあ。その山楽も無くなって久しいですね。
田山さんの話し大変に感動致しました。有難うございます。
大崎さんは謙虚だよね
いつも本気で大口を叩いた後、謙虚さ出てきて笑い話でまとめるもの。
あ、機嫌悪いとオーラやばいので近づけない感じはします そういう時はヤングさんいるとバランスが良くて助かる
田山さんと言えば、タテの釘読み
この言葉で釘読みの精度が俄然上がりました
しめしめルック😆
昭和60年か61年に池袋のS店の地下にあった京楽のスーパーワンダーを¥200でサクッと打ち止めにしたとき、2台離れたところの男性から殺気に近い目つきと雰囲気で睨まれました。只者ではない男だなと長い間異常に気になっていたのですが後にその男性が田山プロと知ったときはもの凄く鳥肌が立ちました。パチプロ日記、大好きだったなぁ…合掌
田山さんの文章は読んでて景色が浮かんで面白かったなぁ。
"新聞のお悔み"の職業は"パチプロ"ではなく"作家"だったと記憶しています。
田山さんの連載は、パチンコの勝ち方じゃなく田山さんという人そのものが作品だった。オンリーワンな存在でしたね。
待ってました!私がガイドにどっぷり浸かってる時の大好きな連載のひとつ。
「できた!」「差し入れを持ってきてくれた、あの、べっぴんさんは、、、」
オノさんを代表する、あだ名付のセンス(笑)
実家に、置いてある「パチプロ日記」引っ張り出して見るか?
ガイド手に取らなくなって(買わなくなって)久しいですが、オノさんの「白鯨」は、必ず読んでますね(笑)(ホールで)
パチプロ日記を楽しみにガイド買ってましたね。忘れられない名前です。
東大中退…
スゴすぎます✨
自分もよくパチプロ日記見て
パチプロを夢見てました❤️
朝、電車に乗って喫茶店に行き、競輪の記事をスポーツ新聞で読む。ジグマのK店、H店でナンシーを打ち、仲間が来たら、夕方から皆で呑みにいく。完成された人生。完璧な生き方。