【三国志】孫策が小覇王と呼ばれた戦役!「江東平定」の戦い【ゆっくり歴史解説】

Поделиться
HTML-код
  • Опубликовано: 10 сен 2024

Комментарии • 95

  • @tarokinn9423
    @tarokinn9423 10 месяцев назад +32

    寿春大・“小覇王”孫策大爆発! 項羽以来の二桁本塁打で大学リーグ三冠王。過去には劉秀、呂布も。
    デイリー建業web版
    11月1日(月)17: 50配信
     中原大学野球の秋季リーグは10月30日に全日程を消化し、寿春大の孫策内野手(3年)が打撃三冠に輝いた。
     打率.647(34-22)12本塁打28打点をマーク。
     特に二桁本塁打は紀元前207年に項羽が記録した21本塁打以来の快挙となった。
     孫策は入学一年目からレギュラーに定着すると、今秋は四番遊撃手でフル出場。
     10月23日の揚州大との一戦では相手の四番・太史慈と二人合わせて9本のアーチをかける凄絶な空中戦を制していた。
     父は“Mr.タイガー”の異名をとった元プロ野球選手の孫堅氏。現役中に山での滑落事故でこの世を去った悲運の大打者だ。
     父の現役時代を知る大学の恩師袁術監督も「良い選手に育ってくれたね」と目を細める。
    「(事故で亡くなった)お父さん譲りの柔軟なスイングに加えて、軽々とスタンドにボールを放り込むパワーを備えているね。キャプテンシーにも優れているし、うちに無くてはならない存在。とても頼りになる」
     中原大学リーグの三冠王には、過去に項羽、劉秀、呂布など後に中華リーグで活躍した名選手らも名を連ねている。
     すでに来年のドラフトの目玉としてプロ入りが確実視されているが、孫策の動向に注目が集まっている。

    • @KOUMEI_NO_WANADA
      @KOUMEI_NO_WANADA  10 месяцев назад +7

      誰かこのコメントを漫画とか実際の紙面風にして、Twitter(X)とかで投稿してくれ。毎回毎回、読みごたえが凄すぎるのよ(笑)

    • @tarokinn9423
      @tarokinn9423 10 месяцев назад +3

      ​@@KOUMEI_NO_WANADA
      三国志は完全ににわかなのでツッコミところも多いかと思いますが…
      いつも楽しく視させてもらってます

    • @RR-pm8ie
      @RR-pm8ie 10 месяцев назад +2

      もしかして毎回この記事作ってるの?

    • @user-oi5dt9tt8d
      @user-oi5dt9tt8d 10 месяцев назад +2

      @@RR-pm8ie 残念ながらそうではない。このコメントも実に久しぶりだったりする。

    • @RR-pm8ie
      @RR-pm8ie 10 месяцев назад +2

      @@user-oi5dt9tt8d
      名物コメントになってるのねw

  • @user-bm8ci1vy5f
    @user-bm8ci1vy5f 10 месяцев назад +18

    死んでほしくはないけれど、死んでしまった理由はファンであるほど分かってしまう。そんな人物ですね

  • @user-kx2bp9dm6k
    @user-kx2bp9dm6k 10 месяцев назад +22

    孫策は敵に容赦なかったが虞翻の言うように脇が甘くそれが原因で命を落とした。孫策は虞翻や張昭のように慕う者もいたが恨む者の方が多かった。

  • @user-sb1rw6zn6p
    @user-sb1rw6zn6p 5 месяцев назад +4

    孫策が一番ヒーロー感あるんだよな

  • @red9.Leon.s
    @red9.Leon.s 10 месяцев назад +6

    三大国の中で最も影の薄い呉だけど、魅力的な君主や武将が多くて個人的には好き。推しは呂蒙。

  • @user-pw4vp1od7o
    @user-pw4vp1od7o 10 месяцев назад +4

    孫策の江東平定は、某ゲームで知りましたが、細かいところは知らなかったので、とても勉強になりました。
    自分はその孫策がお気に入りの人なので、そのところも解説して下さってありがとうございます☺️

  • @RR-pm8ie
    @RR-pm8ie 10 месяцев назад +5

    古代ヤマト王権って華北平原の古代文明には比肩できないけど、長江流域の文明相手ならどうだ?って思ったら、長江中下游平原、日本列島と同じくらいの大きさあって草 広すぎや...

  • @user-fr8vy2zj1t
    @user-fr8vy2zj1t 10 месяцев назад +10

    孫策は自分に反抗した者だけじゃなく、高岱のような隠遁者にも服従を要求し、于吉のような民間で輿望を集めてる人も目の敵にしててかなり面倒くさい人物という印象ですね。
    中立を許さず、服従か破滅かのニ択を迫ってくる感じ

    • @KOUMEI_NO_WANADA
      @KOUMEI_NO_WANADA  10 месяцев назад +7

      曹操もそんな感じだけど、なんやかんや荀彧を始めとした名門官僚が中間で上手い具合に政権コントロールしてたから何とかなってたみたいなイメージがある。
      孫策ももっと苦境に揉まれるべきだったのかもなぁ、なんて。

  • @Bow-Hunter-777
    @Bow-Hunter-777 10 месяцев назад +5

    孫策もそうだが孫堅がもっと生きてたら歴史は全く違ってただろうなとつくづく思う😮

  • @イシイマチコ
    @イシイマチコ 10 месяцев назад +6

    最期があっけないけど、孫策がいなかったら三国志にはならなかった偉大な人物ですよね。
    パパ孫堅も同様リーダーシップの高い軍人でカリスマ性を備えて“小覇王”と呼ばれるまでに成長するが、タイプの違うもしくは意図的に抑制していたのか弟孫権に引き継いだのは大きかった(自分を抑えていた反動で酔うと大暴れしていたのかと推察している)。
    呉の礎を築いた二人に集まってきた優秀な人物も見逃せませんね。

  • @kagukagugu
    @kagukagugu 10 месяцев назад +8

    曹操を討つことできるのは孫策のように真っすぐな人間がワンチャン全部成功したらって感じがなんとなくする
    ただ一度でも失敗したらその時点でドボン。もしかしたらすべて成功した世界線も存在してるのかもしれんと思わせてくれるぐらいの人間だと思う。正に小覇王

    • @KOUMEI_NO_WANADA
      @KOUMEI_NO_WANADA  10 месяцев назад +6

      曹操と孫策を見比べると、やっぱり「天運」ってのはあるかもしれないなぁと思っちゃいますね('ω')

    • @user-rk3st2ep7n
      @user-rk3st2ep7n 10 месяцев назад +1

      ​@@KOUMEI_NO_WANADA
      天運‥正に英雄は何かに導かれるように運にも恵まれますもんね!劉備曹操は何度も負けますがしぶとい!
      逆に孫策はあっさり逝ってしまった。その差が何かと言えば天運という他ないと僕も感じます

  • @yasug-nome383
    @yasug-nome383 10 месяцев назад +2

    お疲れ様です
    他の三国志動画でも紹介されてますが
    いつか臧覇の解説動画あげてほしいです

  • @user-lh8zp4ub2j
    @user-lh8zp4ub2j 10 месяцев назад +4

    孫策の江東平定って、とてもスムーズにいってた印象があったので意外でした。あと猫(笑)

  • @user-pc2eh6oi3q
    @user-pc2eh6oi3q 10 месяцев назад +4

    許靖の言によれば、劉繇や王朗も孫策ではなく袁術軍に抗ったというかんじですね。

    • @KOUMEI_NO_WANADA
      @KOUMEI_NO_WANADA  10 месяцев назад +2

      孫策も劉繇は袁術に抗っただけだから、遺族は丁重に保護し、劉繇も手厚く葬るってことにしてますしね。

  • @user-rk3st2ep7n
    @user-rk3st2ep7n 10 месяцев назад +4

    やっぱり殆どの作品では劉備か曹操の視点を中心に描かれがちですからね
    曹操と劉備が徐州で呂布を交えてなんやかんやしてる時くらい?袁術や呂布とカタがつく頃には独立していて‥しれで官渡があって、じゃ視点は荊州にて時点ではもう死んでて呉の孫権と〜みたいになってますからね
    僕も太史慈と一騎討ちしてなんやかんやあって毒でやられたみたいな印象でした
    そのなんやかんやに意外と疑問を持ってなかった事にもあまり気付かなかった!
    まだまだ楽しめるんだ三国志と思えました。

  • @user-sd3hm8lj5f
    @user-sd3hm8lj5f 10 месяцев назад +2

    孫策は今際の極に弟孫権に対して「江東の子弟を率いて江東を平定するのはお前は俺に及ばないだろう。だが賢人を用い呉の地を保つことについては自分はお前に及ばない」と遺言して息を引き取った。実際その通りで以後半世紀近くに渡って孫権は呉の地を統治する。孫呉三代の凄さよ。

  • @zyukatimes4982
    @zyukatimes4982 10 месяцев назад +3

    諸葛亮の叔父がどこかの郡の太守だったが朝廷から派遣された別の太守に敗れた事件もこの付近と時期に近いと思いますが、メインから離れ過ぎているのかほとんど詳細がわからないですね……

  • @user-uk3kb6bw7l
    @user-uk3kb6bw7l 2 месяца назад

    孫策の器量はもちろんだけど、同い年の盟友・周瑜が味方になってたというのが大きいよな。江東随一の名門周氏の御曹司が孫策の盟友であるという影響力は無視できないだろう。しかもその周瑜も戦の天才だった。これは大きい。

  • @user-ix6wk7lx6g
    @user-ix6wk7lx6g 10 месяцев назад +5

    孫賁が何気にパパ孫堅と同じく豫州刺史にされてるから袁術としては孫堅の後継者は孫賁と見ていた様に感じますね。
    あと陳瑀の存在も大事かな。後に甥の陳登が孫策相手に扇動しまくる辺りが面白い。
    【豫章の争乱】
    豫章を纏めてみる。
    豫章太守の周術が病死した事で豫章は太守不在の状態となった。袁術はこれを見逃さず新太守として諸葛玄を派遣した。
    漢朝は袁術に対して朱儁の子である朱皓を正式な豫章太守として送る。諸葛玄は隣接してる荊州牧の劉表と旧知であったため子弟を連れて荊州へ落ちた。
    諸葛亮伝では叔父の諸葛玄は朱皓と戦うまでに発展しなかったとある。
    一方、陶謙の部下だった笮融は曹操の徐州侵攻で陶謙から離れて広陵太守の趙昱の下に身を寄せていた。笮融は広陵の豊かな土地に目がくらみ趙昱を殺害して略奪の限りを尽くした。
    笮融は劉繇が孫策に攻められると劉繇を助けた。しかし戦いに敗れて劉繇と供に彭沢に入った。
    豫章太守の座を朱皓(漢朝)と諸葛玄(袁術派)で争っている中、劉繇は朱皓の味方について笮融を援軍に差し向けた。
    諸葛玄は戦う事なく荊州に落ちると援軍として来たはずの笮融が突如豫章太守の朱皓を殺害した。
    笮融の反逆に劉繇は怒り、何度か笮融討伐を行うが失敗する。劉繇は諸県で兵を集めて再び笮融に攻めかかった。笮融は敗れて山中に逃げ出したが民の襲撃にあって落命した。
    同じ頃、劉繇は病に犯されていたが、回復せずに卒した。42歳であった。
    【その後の豫章】
    揚州牧の劉繇が卒した事で豫章はまたも主が不在の地となった。劉繇の残存兵等は華歆を太守に迎えようとしたが華歆は其れを拒否した。しかし直ぐに孫策が攻め入り、華歆は降伏した。
    後に孫策は豫章太守に孫賁を据えた。
    注:孫賁は袁術の命令により部曲を孫策に返上した。これにより孫氏の主は孫策に替わっている。
    何気に豫章のゴタゴタに諸葛氏が絡んでます

    • @matukawatositane
      @matukawatositane 10 месяцев назад +2

      袁術は孫策をある程度可愛がりつつも旧孫堅軍閥は念入りに解体してますもんね(孫香や孫賁を上位に置いてるし

    • @kappanouen
      @kappanouen 10 месяцев назад +1

      私と似た視点のコメントですが私より詳しく書いてあるのでさすがだなあ😃と思いました(ちなみに私のコメントはバグって消えています笑)
      一点私のコメントと違う点は「華歆は詔勅(皇帝命令)を受けたので”豫章太守”にはついたが人々の推薦があった”揚州刺史(劉繇の生前の官職)”は受けなかった(私選なので)」という点でしょうか

    • @KOUMEI_NO_WANADA
      @KOUMEI_NO_WANADA  10 месяцев назад +2

      でも袁術と劉表はそもそも陣営的に対立してたし、諸葛玄は袁術関係なく最初から劉表指揮下で豫章に入ってたんじゃないかな?みたいに個人的には考えてます。なんかもうここらへんごちゃごちゃしてて分かりづらいのよホント(笑)

    • @user-ix6wk7lx6g
      @user-ix6wk7lx6g 10 месяцев назад

      私見だけど諸葛玄は劉表と旧知とはいえやはり袁術派だったと思いますね。
      諸葛亮の晴耕雨読の日々を悪く言うと袁術派だった故に冷や飯を食わされた日々と言うことかと思います。

    • @minagoroshimaru1
      @minagoroshimaru1 10 месяцев назад +1

      @@user-ix6wk7lx6g 諸葛亮の隠棲は自分の判断じゃないかなぁ
      縁戚に劉表蔡瑁、義理の叔父にホウ徳公がいて、司馬徽の稷下の学士で豪族と繋がりのある有望人物だが
      志はあれども生臭い政争で叔父を失って自ら劉表と距離を置き劉備の招聘も渋っていたのではないかと
      まあ、諸葛亮が自ら売り込みに行った説もありますが
      横ツリー失礼

  • @tk2011
    @tk2011 10 месяцев назад +2

    緩やかに平定して諸将を採り入れたとしても、“個”が強くて、うまくまとまらずに後々の内憂になりかねんし、
    かなり難しい状況ですね。しかし天才。。。つい、暗殺回避の手段は?と考えてしまう。
    頼る一方で警戒もするというのは袁術の人柄がそのまま?
    猫が可愛いやい!

    • @KOUMEI_NO_WANADA
      @KOUMEI_NO_WANADA  10 месяцев назад +1

      東晋でも地元豪族の力は無視できませんでしたし、このあたりの地域の特徴なのかもしれませんね。

  • @naughtnaught
    @naughtnaught 10 месяцев назад +3

    袁術、同時に多方面相手にし過ぎたな...
    戦力の集中が出来てれば孫策も組み込めたかもしれないけれど、それが出来ないからこその袁術で、
    だから孫策も躍進出来たと。

    • @KOUMEI_NO_WANADA
      @KOUMEI_NO_WANADA  10 месяцев назад +3

      内政が失敗してた分、あちこちに戦争を仕掛けて略奪するしか政権維持が出来なかったんじゃないかなぁ、と思ってます。
      初期の曹操もそんな感じでしたし。そう考えると、やっぱり袁紹はすごいのかもしれない🐎

  • @kuttawara
    @kuttawara 10 месяцев назад +1

    みしゃって言い方かわいいな

  • @tomohiro19880307
    @tomohiro19880307 10 месяцев назад +9

    いつも楽しく拝見しています^ ^
    蒼天航路だと、孫堅に負けず劣らずの奇抜なキャラだったのに、あっという間にフェイドアウトしてしまったので、是非この江東平定戦を取り上げて欲しかったです(´;ω;`)

    • @KOUMEI_NO_WANADA
      @KOUMEI_NO_WANADA  10 месяцев назад +3

      父親も化け物じみてたけど、息子はもっと化け物じみてるという。孫家こえぇ(笑)

  • @Katuragi-Housiyou
    @Katuragi-Housiyou 10 месяцев назад +11

    孫策が生き延びて赤壁や夷陵の戦いに挑んでいたらどうなったかなと考える事はあります。
    勿論孫策の勇猛さが逆に足下をすくい大敗からの滅亡もあり得ますしそもそも赤壁や夷陵の戦い自体が起こらないかもしれませんが、周瑜と並んで曹操や劉備と真正面から戦う呉軍というのも見てみたい気はしますね。

    • @KOUMEI_NO_WANADA
      @KOUMEI_NO_WANADA  10 месяцев назад +8

      周瑜と孫策のコンビに勝てる構図が全く想像つかない。何なんだこのジャンプ系黄金コンビ(笑)

  • @shou-sho
    @shou-sho 10 месяцев назад +4

    孫策の江東平定については自分も昔考察したんだけど、結局『呉志』が孫呉史観で塗られてる以上限界があって放り出したんですよね。
    「○○を打ち破った」って本当に勝ったの? ただの略奪じゃない? とか
    「太守を任命した」って名目だけじゃないよね? 敵方の太守が実行支配してないよね? とかね。
    だいたい「太守を任命した」ってただの雑号将軍にできるわけないんだから、実際は袁術がやったんですよね本当は(笑)
    なんにしても若い人がこういう面倒くさいことをやってくれるのは嬉しい限りです。

    • @KOUMEI_NO_WANADA
      @KOUMEI_NO_WANADA  10 месяцев назад +3

      孫呉史観が頭によぎると台本がホントに進まなくなる…(笑)
      でも進まない分あれこれと推測をこねくり回すのが楽しくなっちゃう。これが歴史が沼なところでもある(⁠๑⁠´⁠•⁠.̫⁠ ⁠•⁠ ⁠`⁠๑⁠)

    • @user-zo2gt2sw1n
      @user-zo2gt2sw1n 10 месяцев назад +1

      >だいたい「太守を任命した」ってただの雑号将軍にできるわけないんだから、実際は袁術がやったんですよね本当は(笑)
      ここについては、古河公方と関東管領とか、鎮守府将軍と実際の奥州の実力者みたいな関係で理解できると思う。日本の戦国時代も、あちこちで官位の自称なんて当たり前に行われてて、権威だけ保持してる者らに武力や財力で如何に追認させるかが要点になってる。
      今川義元や武田信玄のような、名門と実力が融合している状態はまた違うし、袁術も当初は彼らに近かったけど、周辺に敵が多くなってから「戦国大名としての勢力維持」が厳しくなっていた。
      イメージだが、袁術=山内上杉氏  孫策=長尾景虎 みたいなもんかと。
      “上杉”を継いで、関東管領就任前の長尾景虎は越後守護代からの成り上がり軍閥に過ぎず、関東の諸将を任命できるような立ち位置にいないけど、事実上、【名門上杉氏】の軍部面の代行者であり、執行者になっていた。とまあ、そんな感じ。
      でも、後の時代の人間からすれば、『上杉謙信』の知名度や功績のほうが圧倒的に知れ渡っているから、孫呉史観を考慮したとしても、「若き謙信が関東を平定し、瞬く間に席巻し、後の上杉家の基礎を作った」みたいな書き方になっても、事実を意図的に歪曲しているとまでは言えないし。
      ローマ史や中国史を一通り修めて、後は“サピエンス全史”的な応用を利かせてやれば、細かいところは読み手側の補間でなんとかなるんでないかな。

    • @kappanouen
      @kappanouen 10 месяцев назад +2

      現代の行政が「規模が大きい方がエライ」となっている(※これも厳密には間違い)ので勘違いしがちですが
      後漢の(郡)太守って九卿の次ぐらいにエライ勅任官(基本的には郡太守の任命権は朝廷の専権事項)で秩石も二千石(州刺史が600石)の高級官僚で軍事権もあるいわば郡太守こそが統治の要なんですよね🙂

    • @shou-sho
      @shou-sho 10 месяцев назад

      孫策伝を孫呉史観としたのは『呉録』にある
      「袁術のクソ野郎のニセ詔書に騙されただけなんです。まさか将軍号がでたらめだとは思いもしませんでした(棒(意訳)」ですw
      各太守の任命ウンヌンも袁術がやったのは間違いない。
      真面目に考える気が起きないのは「(孫策が死んだ当時)呉がおさえていたのは会稽ほか4郡、しかも全てではない」と孫権伝にあるうえ、廬江太守は反乱するし丹楊太守は殺害されるしで結局孫権がもう一度征服しなおしてるんですよね。
      (豫章では太史慈も独立したのは以前言いましたっけ?)
      (​ @user-zo2gt2sw1n さん 僕は戦国時代もちょっとわかるけど、古河公方とか山内上杉家は一般人には通じないですw)

    • @user-ix6wk7lx6g
      @user-ix6wk7lx6g 10 месяцев назад +4

      一応上表しときましたよ(容認されるか知らんけど)
      みたいな感じで皆やってますよね

  • @matukawatositane
    @matukawatositane 10 месяцев назад +2

    孫策がめちゃめちゃ強かった上で袁術の威光も大きかったろうし、汝南袁家の故吏たちも味方してくれたのだろう…
    個人的に江東で孫策と戦った諸太守たちは馬日磾の縁者だったんじゃないかって

    • @KOUMEI_NO_WANADA
      @KOUMEI_NO_WANADA  10 месяцев назад

      袁術政権の記載がほんとに少ないから、このあたりはずっともどかしい…(笑)

    • @matukawatositane
      @matukawatositane 10 месяцев назад

      @@KOUMEI_NO_WANADA 当初は拉致した馬日磾の権威を上手く使おうとした感あるんですよね袁術…
      んで馬日磾の没後に江東の諸太守に離反されて孫策を送り込む感じ

    • @KOUMEI_NO_WANADA
      @KOUMEI_NO_WANADA  10 месяцев назад

      この時期の馬日磾、相当な重要人物ですよね。楊彪・盧植・蔡邕レベルだし、袁紹派閥と袁術派閥の決戦の時期に動いてるし。もっと詳しく調べておかないといけないなぁって思っている人の一人です(笑)

    • @user-ix6wk7lx6g
      @user-ix6wk7lx6g 10 месяцев назад

      族父が馬融。その馬融の娘の旦那が袁隗で、その袁隗の甥が袁紹、袁術。馬日磾は馬融の学を継承してるようです。
      馬融の血筋
      馬仲→馬余→馬厳→馬融→馬倫(袁隗妻)
      ↑なお馬余の弟が馬援。

  • @user-gn4iu1np5m
    @user-gn4iu1np5m 10 месяцев назад +5

    孫策の快進撃はやはり周瑜 程普 韓当 黃蓋 朱治らの優秀な面々のおかげでもありましたね
    ただしやり方が苛烈な面もあり後に恨みを買う結果になるのも皮肉

    • @KOUMEI_NO_WANADA
      @KOUMEI_NO_WANADA  10 месяцев назад

      やり方は似てるけど、曹操は生き残り、孫策は倒れた。やはり天運というのはあるのかもしれないなぁ…

    • @木村博士
      @木村博士 10 месяцев назад +1

      @@KOUMEI_NO_WANADA もうひとつ孫策と曹操で圧倒的に違うのが、皇帝を擁してるって事ですね。
      中華では皇帝の権力は想像以上に大きいから、それもあると思う。
      朝敵という大義名分の名の元に敵を討つことができるしね

    • @user-gn4iu1np5m
      @user-gn4iu1np5m 10 месяцев назад

      ​@@木村博士蒼天航路でそれがよくわかりますよね
      つくづく曹操が恵まれているというか天にも愛されていると

    • @木村博士
      @木村博士 10 месяцев назад

      @@user-gn4iu1np5m 運と言うか曹操の才能かな。献帝を都に迎える様に進言したのも荀攸?だったはずだし
      身分を問わず才能を求めていた曹操だからこそ、荀攸も配下にいたわけですからね。
      それとは違う話ですが、曹操は割と年取ってから飛躍してるんですよ。200年で46歳なんで官渡の戦いに勝ったときには
      もう47、8歳とかでした。当時で言えばかなりの年ですね。
      天才のイメージがあるから若い頃からガンガン拡張してたイメージがありますが、意外と遅咲きとも言えます

    • @user-gn4iu1np5m
      @user-gn4iu1np5m 10 месяцев назад

      @@木村博士言われてみれば案外遅咲きですよね
      そして結構奪ったとこでもかなり反乱とか統治には手こずっていた感じもありますよね

  • @Takechan-to-Asobou_kakari
    @Takechan-to-Asobou_kakari 10 месяцев назад

    河北平定に比べれば漫画やゲームでも比較的触れられているけど、でも改めて聞かれるとはっきりと答えられない部分

  • @sonchuzan
    @sonchuzan 10 месяцев назад +1

    孫策ではなく躍進は周囲の献策からだろう。

  • @solar_space_satellite
    @solar_space_satellite 10 месяцев назад

    優れた軍才を持ちながら
    地元有力者を敵に回し仇となった孫策に対し
    後継者の弟が彼らとの協調を重んじた点は
    ローマのカエサルとオクタウィアヌスに似てる

  • @kumamac4632
    @kumamac4632 10 месяцев назад

    袁術の配下、その大義名分で躍進していったのかなーと、観て思いました。それが失くなって、今まで燻っていたものが爆発したのは当然の結末かも、とも思いました。

  • @上田徹-c7l
    @上田徹-c7l 10 месяцев назад

    袁術が皇帝宣言をする前に孫策が袁術に対して独立をしていれば
    孫策がもっと早く江東を平定していることになっていたかもしれません
    その反面、孫策の命運も短くなることに
    袁術の下で従う理由がなければ、最初から独立をしていることに
    江東平定は三国志の重要な戦役ですが、三国志の転機となる戦いは官渡と赤壁と夷陵でよいでしょうか?
    もし合っていたり、違っていれば投稿者さんが思う転機の戦いの解説をお願いします

    • @KOUMEI_NO_WANADA
      @KOUMEI_NO_WANADA  10 месяцев назад

      僕は夷陵は確かに重要なんだけど、官渡・赤壁に並べるとしたら界橋の戦いを推したい…(笑)
      このあたりもちゃんと取り上げないとですね!

  • @kichitou1420
    @kichitou1420 10 месяцев назад +1

    孫策は戦略家としては群を抜いていたが、政治、統治力に乏しかった。
    侵略して征服はできても当時はできない。そこはやはり孫権の政治力の高さが際立ちますね。
    ちなみに戦争も当時も両方成し遂げたのが真の英傑曹操だけかな。

    • @KOUMEI_NO_WANADA
      @KOUMEI_NO_WANADA  10 месяцев назад +1

      孫権の政治力は本当に群を抜いてるイメージがあります🤔

  • @mocchi2643
    @mocchi2643 10 месяцев назад

    かつて孫堅が陸康の従子を救った事があったのに孫策が陸康に謁見しに行った時に陸康が無礼な態度を取ったので、孫策は陸康を恨んでいたと言われている。孫策が陸康を攻めた時に過酷な兵糧攻めをしたのはその恨みも手伝っての事だったのかもしれない。

    • @KOUMEI_NO_WANADA
      @KOUMEI_NO_WANADA  10 месяцев назад

      だとしてもやりすぎなんよ、と突っ込みたくなる話です(笑)

  • @user-dj7oe3oz4h
    @user-dj7oe3oz4h 10 месяцев назад +1

    孫策が強かったのは確かなんだろうけど江東勢力が小物だった気もする。或いは、自分がそう思うのは孫策があまりにも強過ぎて簡単に負けた弱小勢力という印象を持ってしまったのか。

  • @y-book7005
    @y-book7005 10 месяцев назад +2

    皇帝僭称の絵で笑ってしまったw

  • @rangomu4688
    @rangomu4688 10 месяцев назад

    孫策が生きてれば曹操並みの存在になっていたと思う。

  • @user-kh6sf9hw6u
    @user-kh6sf9hw6u 10 месяцев назад

    すげー儒学者が嫌いそうなムーブかましてるのに、張家、周家、全家などの超一流の名士がついていったのは何故なんだ。

  • @MuraSzgundam
    @MuraSzgundam 10 месяцев назад

    いや孫策は曹操に匹敵する!孫策は若すぎる英雄だったのだ!
    それとも、全ては若さ故のあやまち??

  • @user-cp7rp3rh9b
    @user-cp7rp3rh9b 10 месяцев назад

    小覇王 周通

  • @user-xd9jq9dx3h
    @user-xd9jq9dx3h 3 месяца назад

    僕も仕事で東京に暫く滞在していた時は自らを江東の小覇王と勝手に名乗っていました

  • @tekikaku8675
    @tekikaku8675 3 месяца назад

    王朗って孔明に論破された人?

  • @sa-iv4vl
    @sa-iv4vl 10 месяцев назад +2

    試験を出してくる三国志な

  • @user-eu3tx1iz1l
    @user-eu3tx1iz1l 10 месяцев назад

    小覇王って蔑称だよな

    • @ろっこく堂
      @ろっこく堂 10 месяцев назад

      そもそも誰が言い出したんでしょうね、この称号。
      字面だけ見ると一見良さげに見えますが、よくよく考えたら「項羽の劣化コピー」って絶対いい意味ではないですよね。

    • @user-py6ck9np5k
      @user-py6ck9np5k 10 месяцев назад +4

      水滸伝の英傑花栄の「小李広」などから考えると、蔑称とまでは言い切れないのではないでしょうか?
      「小覇王」は覇王(項羽)二世や項羽の再来、位の趣旨かも。
      プロ野球選手にそんな風に呼ばれる人が沢山いますね☺️

    • @saibaiman06
      @saibaiman06 5 месяцев назад

      〇〇のイチロー、〇〇のダルビッシュ的なね