Размер видео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показать панель управления
Автовоспроизведение
Автоповтор
【オウム真理教】の解説動画はコチラ↓↓ruclips.net/video/nY1bS3ZkJCA/видео.html【上祐史浩さん】のインタビュー動画はコチラ↓↓ruclips.net/video/SJzSh-KQ4RE/видео.html【第一次世界大戦】の解説動画はコチラ↓↓ruclips.net/video/Ce2bELGbqt8/видео.html〈チャンネルメンバーシップ〉オウムを支えた幹部たちの最期は…?メンバー限定動画を配信中!月額290円!→ruclips.net/video/rW_OcZKNVQc/видео.html
3畳で拘禁精神病だから受け答えをしたかったらホテルなどある程度広い場所に移らないとまともに会話できないよ☺赤ちゃんや認知症のおじいちゃんに謝罪を求めているようなもの☺
😂😮😮
当時、東京に勤務していませんがアパレル系で、上場会社Aの者から聞いた話は、この、あるメーカー家の弁護士と同性で「素性はバレている...」と根拠もない苦情の電話が多いとか...。私を含め仲間内では、松本の事件から含めソ連製のヘリ....日本の警察はなんだ?という感じです。
23:50 パジャマの下りのところが明らかにおかしい。パジャマが寝巻として広まったのはイギリス人がそういう風に使っていたからであって本来のパジャマは寝巻じゃないだろ。正確には下のズボン部分をパジャマと呼び、上の部分はクルタと呼ぶ。寝巻としか見ないのはある意味イギリス人の文化盗用、横暴ってもんじゃないのか。
私の父がオウム真理教だったのですが、当時は修行とかさせられていましたね。私が小学校4年生の時、父が出家すると言い出し、母がこれ以上ついていけないという理由で離婚をしました。その数年後に地下鉄サリン事件が起こり、母と弟と共にゾッとしました。(離婚して20年後に父と再会しましたが、父は結局出家をしていなかったそうで、この事件には関わっていないそうです)当時は誰にも言えない闇を背負わされた気がして、子供ながらに何とも言えない気持ちになったのを覚えてます。何なら、この宗教に関わらなければ、生まれた土地から離れる事も無ければ、家族が離婚する事もなかったかもしれない。神や宗教を信じる事も認める事もなくなったのは、この時の経験からです…神に裏切られた訳ですから。当時の記憶では、麻原彰晃の事を全員が『尊師』と呼び、説法会では50人〜100人くらいの信者がいた気がします。何なら、麻原とそこで少しだけ話をした記憶もあります。全員がヨガの動きを取り入れた様な修行をしていましたし、お湯を2リットル飲んで吐き出しすという謎の修行が苦痛でしょうがなかったですね。供物と言って野菜や果物は皮ごと残さず食べさせられ、会場に行く時には近隣からの罵声を浴びさせられ、たまったもんじゃなかったです。自分の中では深堀りしないようにしていた過去でしたが、この動画に出会えて良かったです。詳しく調べて分かりやすく解説して頂いて本当にありがとうございました。
今、当時の保護された子どもたちはどう過ごしているのでしょうかね…。人生を狂わせる「信仰」とは一体なんなのでしょう。カルトや闇バイト、時々出てくる得体のしれない集団心理のようなものについては教育の現場においても取り入れる事が必要ではないかと感じています…
自分が生まれてない時のことをこれだけわかりやすくまとめて解説していて、たくさん勉強したり調べたりしているんだなと本当に尊敬します。
私は、現在61才。当時は全国区の企業に勤めていました。私は地方の工場に勤務していました。サリン事件当日、中目黒にある本社に午前9時に行きました。到着すると担当者が信じられないくらい喜ばれました。本社の中でも、地下鉄で何かが 起こったというのは大騒ぎになっており、それに私が巻き込まれたのではないかと思われていました。実際は初めての本社出張だったので、サリン事件が起こる30分前、7時半頃中目黒駅(日比谷線)に到着、喫茶店で時間を潰して本社に行きました。昔の事ですが忘れることは出来ません。
ご無事で何よりです…
涙が出ました。ご無事で今まで生きてこられてよかった。本社の方もさぞ肝を潰した事でしょう。
当時、日比谷線で通勤しててサリンまかれる一つまえのダイヤに乗車してたので、間一髪たすかりました。ものすごくゾッとしました。しばらく日比谷線つかわないて迂回ルートで通勤してましたね。怖かったです。
当時24歳で父親の経営する工務店で働いており、阪神淡路大震災で損壊した建物の修復等で連日神戸方面に仕事へ行ってました。この事件を境に震災関連のニュースが一切無くなり、地下鉄サリン事件一色になったことを覚えております。
坂本弁護士一家殺害事件も扱って欲しいです。あの事件がもっと早く解決していたなら、サリン事件も起きなかったかもしれません。
今では知らぬ存ぜぬのTBSが殺害に加担していましたからね。
坂本弁護士事件は神奈川県警の不祥事でもあるからな
松本サリン事件もやってほしい
くないですか?
@@Sweepshow さん、オウム事件の発端だと思っています。
自分が生まれる約2年前の事件です。なので詳しい話等は知りませんでしたが、母がサリンが撒かれた電車の1本前の電車に乗っていたらしく、もしタイミングが悪かったらアンタは生まれて来なかったかも知れないって話を聞いた事があります。ホントに恐ろしい…母に感謝です。
朝一でめちゃめちゃ怖い話聞いた気分
当時看護師で病棟勤務していました。夜勤明けで控室で休んでいたところ、テレビで地下鉄サリン事件のニュースが流れ、食い入るようにみていました。勤務先(静岡県)の医師の多くが、東京の大学病院から派遣されていた医師だったので、大学病院の状況を酷く心配していたのをよくおぼえています。サティアンの強制捜査時は、勤務先(静岡県)の病院に信者や捜査陣の救急搬送があるかもしれないと、師長(当時は婦長)からその場合の手順や注意事項を当日の朝言い渡され、テレビの中の出来事だと思っていたところ、ドラマでも他人事でもない、より身近な事件にかわりました。この事件は、私の人生でもわすれることができない出来事です。
荒井さんより20上のオッサンです。お若いのに落ち着いてわかりやすい話し方、尊敬いたします。当時、埼玉で社会人をしていました。埼玉の、駅のhomeでも、警備員が立っていたり、ホームに、あるゴミ箱は全て使えないような状態で、異様な光景でした。2ヶ月前に、阪神淡路大震災が起こり、みんなが助け合う様子から、無神論者ですが、やはり日本人は【性善説】かなーと思ってましたが、このとんでもない事件で、一気に【性悪説】なのかな、。と一気に気持ちが、落ちた思い出があります
当時、小学校に入る直前の6歳で、サリン事件から1〜2週間後くらいに家族旅行で初めて東京に行った際に地下鉄に乗ることがありました。子どもながらにこの事件をテレビなどを見て知っていて、東京の地下鉄に乗るのがものすごく怖かったです。今考えたらバカバカしいのですが車内でできるだけ息をしないように頑張って息を止めていたのを覚えています。第○サティアンが何をしていたところかやオウムの資金源が何だったのか、犯行に至った背景など現地で撮影されながらわかりやすい説明でとても勉強になりました。
神奈川県の公衆衛生大学院の社会人学生です。危機管理論という授業があるのですが、担当教授が元陸上自衛隊の防衛医官で、まさに地下鉄サリン事件の時に陸上自衛隊の幹部隊員として現場で陣頭指揮を執った方でした。地下鉄サリン事件については1コマ90分の時間を取って、当時の現場での詳細や良かった事や今後への教訓など、多くを語って頂きました。防衛医官時代は教授のご専門はテロ対策だったそうで、他にも三菱重工ビル爆破事件なども授業で語って頂きました。普段平和な日本を震撼させる、何とも恐ろしい事件だったという事が改めて分かりました。
🎉🎉🎉🎉🎉
統一教会も危ないっていうのは、先生話してくれたかな?
@@gdp_4_33_5k頭悪そう
サリンがまかれた当日、たまたま寝坊していつも乗る1~2本後の電車に乗ったらダイヤが乱れていて電車が止まったりして、どこどこの駅にて爆発物のような物がなんたら…という車内放送が流れたりしてて、でもまだその時は皆こんなに大変なことになっているとは思ってなかったです。自分はその後1時間近く遅刻して会社に着いて怒られるかと思ったら会社の人たちが「大丈夫だった?!」とか心配してきて、会社のテレビを皆で観てて事件のことを知って私もびっくりしました。会社の人たちは私が遅刻していたのはサリンの電車に巻き込まれたからだと思っていたようでした。このことがあってからしばらくは電車内で物が落ちてたり座席に置いてあったりすると敏感になったり、駅構内もゴミ箱が撤去されたり警官がいたり 物々しかったです。被害にあわれた方々を思うと言葉にならないつらい気持ちです。
僕はこの事件が起きた時、中学を卒業し、高校に入学する間の春休みの事でした。僕の父親はたまたま地元の道路が空いていて、バスが早く、いつもより一本早い電車に乗れた事により事件に巻き込まれずに済みました。
サリンと遅刻のお咎めを同時に回避するとは凄い運ですね
当時のニュースで問題のサリンが入った袋を片付けた駅員さんがいるのですが、この方も亡くなっていますその死に様を同僚の駅員さんが目の当たりにしていたのですが、もちろん具体的には語っていませんでしたがあまりに凄惨な苦しみ方をしたそうで、その時の様や叫び声が記憶から耳から離れない、そう語っていましたサリンという毒ガスを知るに充分でした
当時は6歳でした。阪神・淡路大震災は覚えていないのに、あのメロディーと麻原彰晃、地下鉄サリン事件、上九一色村という単語は頭に焼き付きましたね。あの歌が自分の中で流行っていたのでよく口ずさんで怒られていました。
ショーコショーコショコショコショーコー、ア、サ、ハ、ラ、ショーコー。
当時9歳でしたが正直私も含めて周りの友達もおもしろおかしく歌ってましたね😅事件前も連日オウム真理教のニュースを見ていたと記憶しています。
魔を祓う尊師の歌と極限修行音頭が好きで一時期clipboxに入れて聴いてました
コメ主と同じ年齢でしたがこの手の唄は当時の小学校低学年でも歌ってる子が居ました その子はただ何となく歌ってるだけで特に信者の子でも家族も関わりも無い家庭だったみたいですやってる事がまるで小ヒトラーを更に強欲にしたようなヤバい思想そのもの 麻原自体の過去が暴挙の幼少期だったみたいなのでやはりそこから全てが始まっていたのでしょうね 多分その時に人の世界を優雅に生きる為には他者を洗脳して奴隷に道具にする事が最有力法だと学んだのでしょう
今回は荒井さん、感動的、神回です。地下鉄サリンの時は東京でしたが、その昔住んでいた松本でも、途方もないサリン冤罪事件で、河野さんが疑われ、奥さんは長いご主人の看病虚しくなくなりました。流石に荒井さん、有能で、お仕事が早いです。
大人だけでなく、小中学生でも分かりやすく見やすい動画を是非作っていただきたいくらい、どの動画も解説が偏ってない所が本当に凄いと思います。いつも有難うございます。
親が前に言っていましたが、松本サリン?の時にリビングでニュースを観ながら『これオウムがやったんちゃうん?笑笑』って冗談っぽく話していたら、翌日郵便受けに『オウムは無実です!』って書いたビラが入っていて青ざめたって聞いたことあります。
当時を振り返って、父が「事件が起きた後、非常事態だったから周りの人のポケベルが安否確認の為に一斉になりまくってた。とんでもなかった。」と話していました。
まだポケベルの時代だったか…。地下鉄サリン事件は1995年3月20日に発生。ガラケーが発売されたのは1999年頃。
1993年くらいに東京デジタルフォンのガラケー初めて買いましたよ
当時、私もテレビや新聞に。あまり話したくはないのですが、天皇陛下暗殺とか、右翼が怒るのも当たり前です。警察が押しきる中、住民が受け入れるといって、右翼を近くまで誘導したのも。弁護士はテレビで偉そうに話していましたが、実際に裁判に来た弁護士は一人だけでした。私も毎回傍聴してました。ある地方です。幹部の方と直接話したのは、当時私も若かったからでしょう。ありがとうございます。
いつもコアな内容で大変興味深く拝見させていただいております。当時は二十代半ばで、内装の仕事をしました。社用車で門前仲町から浅草にある会社へ通勤途中、小伝馬町の入り口に「爆発物が発見されたため、封鎖してます。」という看板がありました。その後、車のラジオからの報道でサリンだということがわかりました。自分の記憶ではたしか、築地駅を上がった道路脇の歩道に沢山の被害者が倒れてたり、座って待機してました。近くには幼稚園もあり、園児への被害も大変懸念されてました。
いつも分かりやすい教養を頂きましてありがとうございます。私は当時門前仲町駅へ向かっていました。8時頃です千代田線から大手町で乗り換える少し前で電車が停まりました。あーあと少しだったのについてないなぁと記憶しています。他の路線で車内で異臭がありしばらく電車は停まります。とアナウンスがありました。私が乗っていた車両では無かった為数十分したかで動きました。当時携帯がないため家族が死んだかと心配していたのを覚えています。もう少し早かったら遅かったらの運命でした。車掌さんが何度もアナウンスを絶え間なくされていたのに不思議と恐怖感はなくそのうち動くだろう。と情報がない時代でしたのでパニックは起きませんでした。ただ、大手町で乗り換え出来ない路線が有ることでざわついていました。私は乗り換えできたので遅刻して無事に会社に着きました。遅刻してすみませんと上司に話すとそんなことよりテレビを見なさい!と言われ会社のテレビに釘付けになり上司から早く家族に電話して安否を伝えるようにいわれ、会社の公衆電話や事務所の電話でかけようとしましたがスゴい列でしたので諦めました。後にすごく母にしかられました。そりゃそうですよね。記憶が曖昧で誤りが有りましたらすみません。
実際に関連する場所に行って一本の動画にまとめる人なんてなかなかいない…臨場感があってとても良いです。
アウトを!ゆ
当時人権派の弁護士をしていた親戚の叔父さんの所に事件当日公安がやってきて、「とにかく今は家に帰らないで。家族にも居場所を教えるな。」と言われ、しばらく単身ホテル暮らしを余儀なくされたという話を思い出しました。本動画もさることながら、コメント欄の読み応えも凄いですね。当時の空気感がリアルに蘇ります。
当時小学校低学年だった者ですが、事件後、学校や家で「外でビニール袋や変な物を見つけても絶対に拾ったり触ったりしてはいけない」ときつく言われたのを覚えています。また、『電車内、駅構内で不審な物を見かけた際は、お近くの駅係員にお知らせください』的なアナウンスが電車内で流れているのも、この事件が起きてからだと記憶しています。
当時小学校高学年でした。確かにその頃からでしたね。電車内の不審物などに対して社会全体で敏感になってましたね〜。
四国の片田舎ですが 確かに当時郵便ポストや変な物を絶対に触らずに警察に通報して!こんな張り紙が電柱やその辺の壁に貼られていた 今思えばあれがそうだったのかもしれない
私の地元のマンションにオウム信者が住んでいたらしく、オウムは出て行け!って垂れ幕がはられていたのを思い出しました。事件当時は学生で、時々WSでオウム関連の事を観てましたが、ここまで詳しく理解していませんでした。知れてよかったです。いつもわかりやすい解説をありがとうございます。
間違いだらけの解説ですけどね
今回の動画も興味深く拝見しました。地下鉄サリン事件当時は学生で、事件のあった沿線の学校に通っていました。春休みだったのですが、就職活動のガイダンスがあったため、朝から学校でテストを受けていました。昼前に終わって帰ろうとすると、どうやら地下鉄が止まっているらしいということで、友人たちとファミレスで時間をつぶし、それでも運転再開の気配がないのでJRの駅まで歩いて帰宅したのです。当時はネットが普及していないだけでなく、携帯電話はおろかポケベルすら持っている友人はおらず、現代のように情報を収集する手段がありませんでした。情報というのはテレビや新聞から得るものであり、分からないことは知らなくて構わないと思っていたんですね。だから、サリン事件を知ったのは帰宅してニュースを見てから…今となっては信じられないくらいの危険意識の浅さです。当時、法人向けの健康診断の受付のアルバイトをしていたのですが、受付で「地下鉄サリン事件の被害者で、治療の時にレントゲンを撮ったので今回はなしでお願いします」と言ってくる人がいたりと、いつまでも身近にその影を落とした事件だということだけはよく覚えています。荒井さんのように、当時生まれていなかった方の視点での動画はとても新鮮に映りました。また、和歌山カレー事件もそうですが、自分が若い頃に世間を騒がせたニュースが「歴史」のようになっていくのもなんとも複雑です。こういう事件を取りあげていただけるのをとてもありがたく思います。これからも鋭い視点での(しかもどれもわかりやすいのが凄いです!)動画を楽しみにしています。ありがとうございました。
この回を視聴して一番思ったことは、災害や大きな事件において最後に本当に頼りになるのは『自衛隊』と言うこと。我々の日々の安全安心な生活も万一には助けてもらえると言う絶対的安心があるからだと思う。我が身を犠牲にすることもある中で他人を救う為に活動する自衛隊の皆さんに改めて感謝致します。
先の1月の阪神大震災の自衛隊がされた救助活動で世間から必要性を再確認された後の3月の地下鉄サリン事件での活躍この一連の流れで自衛隊の地位が強固なものになったと思います。
@@らき-y5g そうかな?村山政権だったから、あれだけ活躍しても言ってた。今でも立憲共産党が騒いでる
@@1892.maebashi 当時自分は9歳だったので政権による世相の空気感は分かりません。ただ自衛隊駐屯地の近くに住んでいて、宿舎も近く、何人かの同級生のお父様が自衛官という環境にいました。自衛隊が身近にあっても自衛官のお仕事が震災前までは理解できていなかったです。政権の影響があれ、1995年が自衛隊組織のターニングポイントになったのでは?と思います。
60過ぎの爺さんです。いつも興味深い動画を有難うございます。当時、地下鉄サリン事件のライブをテレビで視ていました。その数年前から地方の本屋でも麻原の本が普通に平積みで売られていました。
私は2004年生まれで地下鉄サリン事件の時は生まれてなかったけど法学部の学生なのでオウム真理教についていろいろ勉強してます。ほんとに麻原は恐ろしいです。でも周りの友達は地下鉄サリン事件を知らない人ばかりなので知ってほしいです。この動画もとても勉強になりました。
父が兵庫県警で大震災のあとの復興活動で慌ただしくも一息ついた頃にこの事件でした。(普段の3交代勤務に戻りだしたぐらいだったと思います)激務で疲れているだろうに、家で休む時間を削ってテレビを見て、捜査活動を一警察官として注視していました教祖がどこに逃げ隠れているのか、警察官の観点で話したりしてましたね
1986年生まれで事件当時8歳です。事件の2ヶ月前に阪神大震災がありました。TBSの番組コーナーで山瀬まみさんが出演していたお父さんのためのワイドショー講座というものがありまして、各局の1週間の放送時間からランキング付けで出来事を紹介するコーナーです。それまで阪神大震災関連の報道が1位だったのが地下鉄サリン事件に変わったのを覚えています。
お父さんのためのワイドショー講座懐かしいなww
荒井さんの動画いつも見てます。知識がない自分にもすごくわかりやすいです。オウム真理教で一番許せないと今でも感じているのは坂本弁護士一家の事件です。当時自分は横浜に住んでいて、同じ市民としてなんで幼い子供まで...と涙が出たの覚えています。
当時中学生でした。不謹慎な話ではありますが事件以降オウム真理教は今で言うところのネットミームのようなネタとして流行していて休み時間には麻原彰晃マーチやエンマの数え歌をふざけて歌う人も多かったです。テレビの影響力が唯一絶対であった当時にバラエティー出演歴があったことも影響していると思います。同学年にはニックネーム「尊師」が2人「上祐」が1人いました。彼らは全員イジメられていたわけではなく自分から名乗って笑いを取っていたお調子者やディープなオタクです。当時は多少の失言でも即炎上する現在とは違い、多少不謹慎でも笑いのネタにできる良い意味でも悪い意味でも寛容な社会でした。とはいえあれだけの事件が起きていたにもかかわらずそういう扱いが許容され苦言を呈されることもなかったあの状況、子供の間での流行だったとはいえ現代の自分の価値観に照らし合わせても異様な状態だったと思います。
普通にとんねるずの番組とか片岡鶴太郎、ビートたけしの番組に出ていじって笑いの取れる民間療法の怪しいヨガ先生でしたからね
高校3年の担任の先生は私達が卒業するタイミングで教師を退職しました。私は大学に進学する前に先生のお宅にご挨拶に伺ったのですがリビングには麻原彰晃のポスターが貼ってありました。地下鉄サリン事件の5年前のことで教団や麻原氏のことは知らなかったので、ポスターの質問から話題は自然と教団の教義のことになりました。私は地元を離れる前にとても良い話が聞けたと感じて、あらためてその先生に感謝しました。それが彼との最後の接点であり、彼はまもなく奥さんとお子さんとともに出家して静岡に行ってしまいました。とても良い先生だったのですが、ご家族も含めて今も健在かは不明です。
怖すぎて草
普通、教師の自宅になんて行かないわ。生徒も異常・・
@@1892.maebashiいや行くべ
@@kanayuichos2499 先生の家知らないし行ったことないわ。家に招いてくれるなんて、懐の深い良い先生だったんだね。うらやましい。
@@1892.maebashi 地方による、過疎地ならあるある
当時トラックの運転手してて、皇居方面から渋谷の方に向かっていて救急車や消防車が沢山いたので大きな火事でもあったのかと…その後ラジオで詳細を知るにしたがい大変なことだと…会社が江戸川区だったので亀戸の施設での異臭騒ぎやよく通っていた六本木通りから恵比寿に向かった教団施設での村井氏の刺◯事件なども強く記憶に残ってます。最近では外国人が「ナゼ日本にはゴミ箱がないの?」という話題を目にすると当時を思い出しますね…
当時、大学生だった私。最寄り駅は丸ノ内線御茶ノ水駅でした。春休みだったのですが、この日は朝から課外ゼミがあったのですが、前日に延期の知らせがありました。もし、そのまま予定通りに実施されていたなら、もしかしたら・・・。当日は朝から地下鉄異臭騒ぎで、テレビ各局がどれも緊急特番だったのを覚えています。当日の夕刊だったと思いますけど、紙面の1面にサリンの入っていた破けたビニール袋が車内の座席シートに捨て置かれている写真が掲載されていたのも覚えています。ほぼ30年を経過した今でも、毎年3月20日になると、『あぁ、サリンの日だな』って思い出します。
ご近所の人が地下鉄サリン事件の被害者と言うのをたまたま最近知ったタイミングでこの動画…。その方は今でも地下鉄が怖くて地上駅から地下に入るような路線だと地下に入るとパニックになると聞いてこんなに人の人生を崩す事件起こったと改めてやばい
麻原氏がサティアンから拘束されたのは、私が12歳の頃です。当時は小学6年生で、学校ではテレビを見るのは禁止だったのですが、担任の先生が「見ておきなさい」と言われ、警察車両から護送される映像を見た記憶があります。
全く同じ。ちなみに当時の担任は25歳(男性)でした。
先生の判断、臨機応変さは凄いですね。
荒井さんがまだ生まれてないのにも関わらず、ここまで詳しく語れるのは凄すぎる😮😮😮
ちょうどその日、1歳の息子の診察があり、新御茶ノ水の病院へ行こうとしていました。8時半頃だったと思います。駅の表示が『テロのため千代田線は新御茶ノ水までの折り返し運転になります』となっていました。テロと聞いてびっくりしましたが、詳細がわかるにつれて背筋がゾッとしました。8時半の時点では「テロ」とまでしかわかっていなかったんですね。直接被害があったわけではないですが、その時近くにいた者として本当に許せない犯罪です。それをこんなに丁寧に動画にして伝えていただき感謝いたします。
ソレハ記憶違いでは?昼過ぎになるまで薬品事故という報道しかなかったけど
@@1892.maebashi もう30年以上も前ですので、そうかもしれませんね。「テロ」という手書き文字が頭に残っていたものですから。ご指摘ありがとうございます。
地下鉄サリン事件の当日、私は出張で伊丹空港から羽田空港まで飛行機で飛びました。モノレールと山手線で新橋に向かっていたのですが、浜松町駅でスーツ姿の男性が座り込んで涎を垂らしてぐったりしているのを見ました。
さん 貴方自身は大丈夫ですか? 介助者も、被害あったとのこと。
@@mimitanohigiki はい。私は大丈夫でした。
@@romantetsudou さん良かった
当時あたしは夜間大学に通ってて昼間は会社員で地下鉄を使ってました。この日はたまたま大学に用事があり事件は大学のそばの中華料理屋さんのテレビで知ってびっくりしました。まだ携帯もない時代です。うちの両親が心配で会社に電話したと次の日に上司に言われました。自宅に帰ったら母から「心配です」と留守電と着信がめっちゃありました。余談ですが大学の時の知り合いで1月阪神・淡路大震災で寮が潰れて東京に戻ってきてサリンにあって病院に行ってた人がいました。ほんとに怖い年でした。
うちもうちも〜〜〜 親が心配して会社にも電話かけてました
94年生まれです。当時練馬に住んでいました。当時はまだ大江戸線が工事中で、工事部分を囲う白いトタン壁にはオウム真理教実行犯たちの等身大の絵が貼られ、見つけたら100当番!のようなことが書かれていたと思います。数年間貼られていました。かなり幼い頃の記憶ですが、東京一体は事件後数年異様な光景に包まれていたと思います。同級生のお母さんが事件当日たまたま遅刻して一本後の電車に乗ったとのことで、遅刻していなければ被害にあっていたとのことです。当時そのお母さんは同級生を妊娠中。臨月でした。事件後数日後、同級生は無事生まれたとのことでした。
当時、消防関係にいました。名古屋近郊でしたが、その日は休暇の日で車を運転していましたが、ラジオでこの事件を知りました。帰宅してから、テレビをつけると全チャンネル生放送をしていました。自衛隊の方々も大変ご苦労されたと思いますが、消防(東京消防庁)の化学機動中隊も出動しサリンの除去にあたっています。当時東京消防庁に配備されていたスーパーアンビュランス(大型トラックを擬装して開発された多数傷病者対応のための特殊車両)もこの事件で初出動と聞いています。海外メディアの報道もすごかったです。化学兵器が無差別テロで使用された初めての国とか。サリン事件後のサティアンへの強制捜査も、カナリアを鳥かごに入れた捜査員がテレビ中継で散見されました。カナリアは周囲の空気の変化に敏感に反応する鳥のようです。普段は自衛隊不要論や公務員は?とか言われていますが・・・この組織をなくしてしまったら、誰が災害に立ち向かうのか?
いつも素敵な配信ありがとうございます。サリン事件当時、1995年大学4年 西武池袋線沿いに住んでました。とんねるずの番組やワイドショーに頻繁に麻原や上祐が連日のようにでていました。バラエティ番組は特に、TV制作側が、面白がっているような雰囲気が漂っていたような印象があります。
ずっとワイドショーで見ていました。会社の人が「目が見えないのに周りに美人ばかり集めていたのが不思議」と言っていたのが不謹慎ながら忘れられません。才能ある大勢の若者を犯罪者にしてしまった罪も大きいです。パソコンや科学薬品も作れる理系の頭脳を良い方向に使って欲しかった。
それは盲点だけに盲点でしたーwwwww目が見えないんだったら一定数ブサイクがいるはずですよね。気づきませんでした。
麻原は、全盲だったわけではなかったらしいですよ。片方は視力ゼロだったらしいが、片方はまぁまぁ見えていたそうですから。
札幌白石のアレフの近くに住んでます。いまだにオウムは出て行けの看板があります。まだオウムと近郊住民の戦いは終わってません。定期的に警察の立ち入りがあります。
熊本在住です。オウム真理教が熊本波野村にいた頃、私は小学生でした。学校で自宅ポストにオウムのチラシが入っていても触らないように!と注意喚起されていました。毒が塗ってあり触っただけで◯ぬと…
叔母が、この地下鉄サリン事件に巻き込まれたときのドキュメンタリーを見て、とても苦しくなりました。わかりやすい映像をありがとうございます。勉強になりました。
当時の警察無線の動画がRUclipsに上がっているのでそれを見て当時の雰囲気の一部を知ることができました
事件当時は私は小学生低学年でした。あの歌はテレビでもよく流れていましたし何気に口ずさんでいましたね。上九一色村のサティアンに強制捜査が行われている様子がテレビ中継していて家族で観ていた記憶があります。
動画最後まで飛ばさす拝見しました。自分は30代なので、阪神淡路もサリン事件も同時多発テロも東日本大震災も経験している世代です。色々な事がありましたが、国家を転覆させるなんて到底凡人では考えもしないですよね。パソコンショップについても触れてましたが、お弁当屋や惣菜屋など、飲食事業にも手を出していたのを覚えています。その知名度やビジネスセンスを良い方向に生かして欲しかったです
当日三鷹にいましたカギを開けてくれるハズの管理人さんが全然来なくて連絡も取れなくて、仕事ができなくてとても困りましたそして管理人さんは遅れて来るなり『サリンが!サリンが!…』とパニック状態で、何言ってるのかさっぱりわかりませんでしたその日まで『サリン』なんて言葉すら聞いたことがない人間が大半だったと思います
秋葉原では中央通りの1本中に入った道で「DOS/V買うならマハーポーシャ」と言いながら水筒持ったゾンビのような人たちがチラシを配っていました。ここに来る人達はオウムと知っていた印象です。
パ〜ソコンがぁ〜DOS/Vがぁ〜マ〜ハポーシャでぇ〜ちょ〜うげ〜きや〜す!ってやつですね。当時、彼等らがチラシ配りをしているその道の目の前にあった某PCショップでバイトをしていました。最初の頃は派手な掛け声もなく普通にチラシ配っていたのですが、夏が近づくにつれ、メンバーが連携して声を張り上げるようにやってましたね。頭にPCモニターの手作りの被り物を被って(笑)大学の夏季休暇中ずっとバイトだったので毎日彼等を見てたのですが、炎天下の中、女も男もみるみるうちにドス黒く日に焼け、声も潰れていく様を見るに、宗教団体とは聞いていたものの何故そこまで出来るのかと思っていました。
DOS/V なつかしいです。幸か不幸か買いませんでしたが、売られていたのはよく覚えています。今からするとぞっとします。
弁当屋も経営してた記憶あるなぁ、店名とか忘れたけど。
夏は待ってくれない!超高速で一気にぶちかませ!
他にも触れられているコメントがありますが、当時の空気感はかなり特殊で、彼ら教団を忌避しつつ笑う、というか。その奇妙なホーリーネームや麻原のモノマネ、そしてあの歌が流行りました。さすがにテレビや新聞はそんなおふざけはしてませんでしたが。巷ではたとえばアルカイダのような恐怖一択的な受け止められ方とはまったく違いました。
当時の空気感、同意です。直接被害にあった方は違うと思いますが事の大きさが実感できない、距離を取るためにも笑ってやり過ごしたいそんな感情があった気がします。民族性も゙あるのかもしれません。事件後、海外の方と当時現場近くに居たとこちらは笑いながら話したら先方は明らかに顔つきが変わり恐れ慄いた表情になったのを今でも覚えています。
私が中学の時の事件 先生が授業中なのに緊急ということで、教室のTVつけて皆で見ていたのいまでも覚えてます。
上九一色村強制捜査の時配送業務て私は都心 方面に中央高速で首都高 方面に向かってましたがまるで西部警察を見てるような想像を絶するようなパトカーや警察のバスなどが多数山梨方面に向かって行くのを目撃しました当時 私の親や兄弟が都心に勤めてたのでラジオをひっきりなしに聞いてましたなのでオウム真理教の捜査というのが分かりましたあれは圧巻するような機動隊車両 とかパトカーとかを見ましたそれが今でも記憶に鮮明に覚えてます
警察の不祥事聞いても、年間勤務中亡くなる方がいる。それも若い方々。不要発言する人いても、パトカー見ると活動している方々に感謝します。但し、落とし物に関する対応はボックスを作って下さい。バクダンは入れられないような工夫お願いします。警察関係者も見ていると思うので、お願いします。毎回貴重なレポート有り難うございます。
教祖本人が1番欲の塊なのがなんとも皮肉
上九に何人か友人がいたので、よく遊びに行っていました。ある時期から、頭からすっぽりと白い全身頭巾みたいなものを被った信者がゾロゾロと数人で歩いているのが不気味でした。村民は村から出て行ってもらうために闘っていました。サリン事件の時期は週に2回ほど打ち合わせで8:00前後に日比谷線に乗っていましたが、その日はたまたま打ち合わせがなく乗りませんでした。当時は妊娠初期でしたが、同じように妊娠中だった方が医師から「正直、サリンの赤ちゃんへの影響がわからない」と言われて、中絶を選んだという話を聞き切なかったのを思い出します。被害者に数えられている方の周りにも、人生を狂わされた方はその何倍もいるということですよね。
地下鉄サリン事件の時は小学校6年生でした。恐ろしさを感じたのも勿論なのですが、その前に「松本サリン事件」があったので、「またサリン?」と思ったことを覚えています。きっとそういう人は多いです。地下鉄サリンを語るうえではセットになる事件だと思うので、こちらも動画化を希望いたします。松本サリンでは、サリンがバラまかれた場所にお住まいだった本来は被害者の方がマスコミに犯人に仕立て上げられてしまいました。被害者の方は奥様が重症患者になられ、その後の人生で大変ご苦労をされていると記憶しています。あの時、オウム真理教を疑っていれば、地下鉄サリンは発生しなかったのではないかとすら思います。その前の坂本弁護士一家殺害事件など、危険信号は多々あったので、もう少し早くオウムに辿り着いていたのではないかと。。。オウムに関してはマスコミの功罪も非常に大きいです。
貴重な動画配信ありがとうございます。この動画では触れていない松本サリン事件も忘れてはなりません。地下鉄サリン事件の時は私の父が霞ヶ関で働いていました。正に千代田線で通勤しておりあと数本遅ければ巻き込まれていたとの事で他人事とは思わなかった記憶があります。おまけに麻原が逮捕された5月16日は私の誕生日で絶対に忘れません。免許の更新で府中の試験場のモニターで速報を見ました。
当時、中学一年生でした。1月には阪神淡路大震災があり、世の中が精神的に不安定だった時にこの事件がありました。丸の内線は通学に使っていた電車で、この日は春休みでたまたま部活もなく家にいてテレビで見て愕然としたのを覚えています。一応、事件のひと通りの裁判が終わったとはなってますが、まだ後遺症と戦っている方がいる以上、風化してはいけない事件だと思います。
動画が上がるのが嬉しいです。お風呂に浸かりながらいつも見させてもらってます。
これだけ最悪な罪を犯したオウムに対し、破防法を適用してオウムを解散させることが出来なかったことに強い憤りを感じた。オウムは団体名を変えて今も活動を継続している。
「危ないですから下がってー!!」と絶叫する営団地下鉄(現・東京メトロ)駅員さんの映像が事件を振り返る際によく使われていましたが、あれは日比谷線神谷町駅下り線ホームの一番北千住寄り付近で撮られたものですね。
事件当時、中学生でした。今となっては不謹慎な事ですが、さすがは中学生、「サティアン」「ポア」とか、学校では連日オウム関連の独特なフレーズがネタ化され、大盛り上がりでした。横山弁護士とか濃ゆいキャラもいたなぁ。ああ言えば上祐はイケメンだと大人気だったし、村井さんが殺傷されたのもリアルタイムでテレビで見た記憶があります。当時思った事。こんな事件が起きる前、小学生の頃、そういえば通学路の壁にひげもじゃの麻原のポスターとか貼ってあって、私は映画のポスターだと勘違いしていたなぁと気付いた時、子どもながらにゾワっとした記憶があります。
事件のかなり前から昼のワイドショーで出家した子供達を取り戻そうとする親達と上祐達信者との討論が毎日放送されてました。それから坂本弁護士一家失踪迄オウム一色で最後のサリン事件迄ほぼ90年代のワイドショーはオウムの記憶しかない。
サリンと言えば、松本サリン事件も別な意味で悲惨な事件であった。近くに住んでいた河野さんは、奥さんが重度の症状になっただけでなく、サリンとは全く関係ない農薬を自宅に持っていただけで、マスメディアから犯人に仕立てあげられるなど、地下鉄サリン事件より小規模な事件ですが、非常に印象に残っている事件です。
その後しばらく、救急外来にはアトロピンが沢山置かれてました。最近日比谷線で通勤していますが、初めは少し緊張しました。その話をわかってくれる人も減っていて、少し寂しく感じました。統一教会の事件がまた起こって、忘れた頃にオウムみたいなことがまた起こらないか心配になりました。
麻原が生ダラにゲスト出演した回を偶然見ていました。両親が黙ってチャンネルを変えていました。
先日、生化学の授業で「サリン」という猛毒について分子から勉強しました。生物が呼吸する受容体を阻害し、無理やり呼吸困難を引き起こす神経毒なんですね…。「息はできるのに、酸素が入ってこない」というおよそ5〜8分、筆舌に尽くしがたい苦しみを味わいながら細胞の死滅を迎え死に至ると学びました。被害者を思うと、想像するだけで胸が苦しいです。
地下鉄サリン事件当初、自分は大学生で、多摩地方の引越し業者のバイトを倉庫でしていました。作業中、ラジオから、被害者が次々出てくる様子が放送されて、なにか異様な雰囲気でした。住んでるところも多摩地方だったので、都心には行くこともなかったですが、都心とは離れた中央線沿線を乗るときにも不安を抱えながら乗っていました。事件発生から10年たってもその不安はつきまとっていました。
やー!まさかロケ動画で富士宮に来てくれたんですか!?地元なので取り上げられるの嬉しいですその当時でも、地元は割とオウム真理教のせいで変なところはなかったように記憶していますこんな大きな道場があったのに、逆に大きな事件がなかったのは…一歩間違えていたら富士宮も危なかったかもしれないですね
久しぶりに来ました、地下鉄サリンの日は小学校に行っててたまたまテレビ見たらニュースで流れてたんでかなりびっくりしたなと
当時中学生でしたけどサリン事件前でもよくテレビに色物的というか凄い出てましたよね選挙の時の歌も友達との会話で歌ったりポアって言葉も使ってましたオウムは麻原が捕まった後も笑いのネタでしたよテレビのワイドショーとか報道番組はオウムばかりでしたしオウムの次は福永法源の法の華三法行とかも笑いのネタになっていたしあと一つ同時期に話題になった新興宗教があったような記憶が
当時は東京の中学生。今考えると非常識ですが、友達同士でポアとかサティアンとかふざけて使ってました。今だと寒気がして胸糞悪く気分も暗くなり深刻に受け止めますが、当時はバブル期だったのか何か世の中的な捉えられ方が違う側面も一部あったような、、うまく表現できませんが、この動画を観て改めて事の重大さに気付かされました。
1987年生まれです。わたしは当時まったく都内には縁がない小学生だったんですけど、サリン事件のニュースを見て駅構内(?)で倒れてる人、毛布かけられてる人、具合悪そうな人、吐いてる人(?)とかの映像がたくさん流れてすごく怖かった記憶があります。当事者の方々にとっては想い出したくないことだとは思いますが、日本が忘れてはいけない大事件だと思います。
当時の体験者からしたらこの動画の10倍100倍以上の言葉に出来ない時代でした。これ以上の事は自分が生きてる間日本で起こらないと思ってます。戦争と同じ体験をしました。絶対!忘れないで欲しい平和に慣れて平和を当たり前だと思ってる現代と未来の教訓にして欲しいと思ってます。
事件当日に職場でテレビ報道を視てました。未だ犯人は不明で事件現場の悲惨な状況が映しだされてましたが、私はそれを『オウムの仕業』と言ったのですが、同僚たちは『まさか…』と笑ってましたが、その後にオウムと判明して同僚たちに驚かれたのを覚えてます。
当時、小学生でした。地下鉄、松本サリンは本当に大変な騒ぎで、メディアもこればかり。事件現場とは全く違う地域に住んでましたが、当時、本当に怖くて出かけたくなかったです。親に連れられ、出かけるたびに緊張して、出かけたくないと泣いた覚えがあります。
メンバーシップでなくて観れてありがとう🎉
ただ着ているパーカーのロゴ何だ!?
サリン事件当時父がいつも使っていたのが日比谷線で、まさにサリン事件の起きた時間に霞ヶ関で降りていたが、その日はたまたま1本早い列車で仕事に向かっていたから助かったと聞きました。その時間に父がいつも通り出勤していたらと考えるとゾッとします。
地下鉄サリン事件の際は小学生でしたが、本願寺前にいました。私は被害に会いませんでしたが、そこらじゅうでよだれや泡を吹きながら大人が倒れている様子は今でも鮮明に記憶に残っています。
以前のオウム真理教解説動画ではフォローしきれてないと思っていたので、こうして続編を作ってくれるのはとても良いですね。
静岡に住んでいました、静岡から山梨を通って中央道に抜けるのに、上九一色村がありました学校の遠足や社会科見学などでよく使っていた道路でした上九一色村を通るたびオウム真理教の話題があがるくらい、子供だったの私たちですら敏感にその当時の深刻さをわかっていたのだと思います
当時私は、日比谷線で霞が関に通勤していました。いつもはあの事件があった時間帯の電車に乗っていましたが、あの日の朝は目の調子が悪くて、電車に乗る前に眼科に寄りました。眼科の診察が終わって日比谷線に乗ろうとしたところ、「ガス爆発のために日比谷線は使えません」とアナウンスが流れていました。まだ携帯電話もない時代だったので状況が全くわからず、どうにか別路線で出社したところ、職場の人たちに「大丈夫だったんですね! 巻き込まれたと思って心配してました!」と言われました。オレンジ色の防護服姿の人たちが霞が関駅に続々と入っていく姿を職場の窓から見て、ものすごく怖くなったのを覚えています。眼科に寄らなければ、私もあの電車に乗っていたかもしれません。お亡くなりになった方だけでなく、いまなお後遺症に苦しんでいる人がいらっしゃるそうです。本当にすさまじい事件でした。詳細なレポートありがとうございました。
地下鉄サリンは小学校の卒業式の日でした。卒業式後の謝恩会会場で、親も子も会場にあったテレビに釘付けでした。あれから29年ですか...。
オウムが持ってたMI-17ヘリは現在ジブチ空軍が保有してますね。オウム真理教強制捜査時に近くの陸自北富士駐屯地に35mm2連装高射機関砲が念の為展開していた。飛んでしまった場合は木更津第1ヘリコプター団のAH-1S攻撃ヘリで迎撃する話があったみたい。
お疲れ様です😌上九一色村の名は、連日報道してたニュースを見て初めて知り麻原逮捕の後は、施設が無く成り、嘘の様な静けさの原っぱに成ってるんですね‼️ある意味、オウム事件が無かったらニュースを観たり、しなかったと思う位、衝撃的な事件でした🤔非常に解りやすく、興味深い内容でした😊有り難うございます🤗
千代田線のサリン事件当該車両である「クハ202-107号車(JR東日本からの乗り入れ車両)」の床には林郁夫が傘でサリン袋を突いた跡が残っていたらしい。
LIVE配信見ました。詳しい解説ありがとうございました。知らなかったこともあって最初から最後まで聞き入りました。聞けば聞くほど本当に気分の悪い出来事ばかりです。あと…そういえばたしかにオウムには宗教にはつきものの大きな銅像とか仏像とかないですね🤔
私は当時中学生で、終業式の日でした。沿線ではなかったですが、この3つの線を使っている人が多くいました。今でも鮮明に覚えてるのは、体育館で全生徒を集めて先生がいない生徒がいるかを確認して、サロン事件のお話しを聞きました。高校生の数人かの生徒が遅刻して事件に巻き込まれてていました。帰りは親が迎えに来て、新年度になってもこの路線に乗れない生徒もいました。未だに鮮明に覚えている悲しい事件でした。
サティアンに捜索に入っているのをテレビでリアルタイムで見ていました。隊員のもつ鳥かごがひどく印象的でした。松本サリン事件が発生した時点でオウムにたどり着いていたら…と、なんともやるせない気持ちになる事件です。松本サリン事件、地下鉄サリン事件、どちらも許しがたいものだと思います。
サリン事件後、近所の住宅地にオウムの事務所があることが発覚し事務所の前には24時間警官が立って警戒していました。当時物々しく信者が四六時中何人も出入りしていてとても怖かった思い出があります「オウムは出ていけ」の横断幕もたくさん掲げられていましたしばらくして立ち退きましたが、目の前のマンションや本当に近くに住んでた人たちは恐怖で眠れなかったろうと察します
当時、幼稚園児でした。連日ニュースで絶叫する駅員さんやぐったりして担架で運ばれる人、ホームで座り込む人の映像が流れてとても怖かった記憶があります。同級生が家の母に「オウム真理教ってずるいんだよ!」と言っていたのも印象深いです。ニュースを見てそう感じたのか周りの大人の話を聞いて真似したのかは分かりませんが…悪い意味でも何が起きるか分からない世の中、こういった事件も後世に伝えて行かなければならないのかなと感じています。分かりやすい動画ありがとうございます
この時代は阪神淡路大震災があり、そこから2ヶ月後に地下鉄サリンがあり大変な時代でした。ちょうど春休みでテレビを付けた途端全てのチャンネルが地下鉄の事件の映像がほとんどで、歩道を埋め尽くす人が横に倒れている映像が流れていました。まだ学生でしたが、人が苦しんで倒れている光景はあまりにもショッキングでした。その数年後にオウムの家畜住民が山梨から追い出されて栃木の大田原市の山の方に住み着いていたことがありましたね。ガードレールに赤文字でオウム出ていけ!って至るとこに書いてありました。
当時小学生3年生でした。この時初めて新興宗教という存在を知ったし子供ながらヤバいなって思いました。特に上九一色村、第7サティアンというワードは今でも懐かしいながら強く頭の中に残っています。
当時小学生でした。テレビでたくさんの乗客が地面に横たわっていたり、吐いている人もいたのを覚えています。麻原が捕まった時は授業中だったんですが、担任の先生が教室に入ってくるなり麻原が捕まったぞ!と大声で叫んで拍手したのをよく覚えています。大人になって改めてこの事件の事を知り、すごく怖いです。実現しなくてよかった。動画ありがとうございました。
駅構内のゴミ箱も、この事件をきっかけに減らされ続けて、今に至るんですよね。
地下鉄サリン事件当時、専門学校生でした。当時オウムの布教活動は驚くほど活発化していて、あちこちに教団支部があり、学校の最寄り駅付近にもありました。今では信じ難い話しですが、時代背景もあってか、一部の見た目の良い教団構成員たちの私物(上祐の使っていた毛布など)が、確か教団施設などで高値で売られていて、好んで買う人がかなりいるという報道もありました。カルト好きや好奇心旺盛な友人が、支部を外から見に行ったりもしてましたね。オウム真理教というカルト宗教団体が、ある種それほどまでに人々を魅了する要素を持ち合わせていた事実があったと思うと、改めて恐ろしいと感じました。
【オウム真理教】の解説動画はコチラ↓↓
ruclips.net/video/nY1bS3ZkJCA/видео.html
【上祐史浩さん】のインタビュー動画はコチラ↓↓
ruclips.net/video/SJzSh-KQ4RE/видео.html
【第一次世界大戦】の解説動画はコチラ↓↓
ruclips.net/video/Ce2bELGbqt8/видео.html
〈チャンネルメンバーシップ〉
オウムを支えた幹部たちの最期は…?
メンバー限定動画を配信中!月額290円!→ruclips.net/video/rW_OcZKNVQc/видео.html
3畳で拘禁精神病だから受け答えをしたかったらホテルなどある程度広い場所に移らないとまともに会話できないよ☺
赤ちゃんや認知症のおじいちゃんに謝罪を求めているようなもの☺
😂😮😮
当時、東京に勤務していませんがアパレル系で、上場会社Aの者から聞いた話は、この、あるメーカー家の弁護士と同性で「素性はバレている...」と根拠もない苦情の電話が多いとか...。私を含め仲間内では、松本の事件から含めソ連製のヘリ....日本の警察はなんだ?という感じです。
23:50 パジャマの下りのところが明らかにおかしい。パジャマが寝巻として広まったのはイギリス人がそういう風に使っていたからであって本来のパジャマは寝巻じゃないだろ。
正確には下のズボン部分をパジャマと呼び、上の部分はクルタと呼ぶ。寝巻としか見ないのはある意味イギリス人の文化盗用、横暴ってもんじゃないのか。
私の父がオウム真理教だったのですが、当時は修行とかさせられていましたね。私が小学校4年生の時、父が出家すると言い出し、母がこれ以上ついていけないという理由で離婚をしました。その数年後に地下鉄サリン事件が起こり、母と弟と共にゾッとしました。(離婚して20年後に父と再会しましたが、父は結局出家をしていなかったそうで、この事件には関わっていないそうです)当時は誰にも言えない闇を背負わされた気がして、子供ながらに何とも言えない気持ちになったのを覚えてます。何なら、この宗教に関わらなければ、生まれた土地から離れる事も無ければ、家族が離婚する事もなかったかもしれない。神や宗教を信じる事も認める事もなくなったのは、この時の経験からです…神に裏切られた訳ですから。
当時の記憶では、麻原彰晃の事を全員が『尊師』と呼び、説法会では50人〜100人くらいの信者がいた気がします。何なら、麻原とそこで少しだけ話をした記憶もあります。
全員がヨガの動きを取り入れた様な修行をしていましたし、お湯を2リットル飲んで吐き出しすという謎の修行が苦痛でしょうがなかったですね。供物と言って野菜や果物は皮ごと残さず食べさせられ、会場に行く時には近隣からの罵声を浴びさせられ、たまったもんじゃなかったです。
自分の中では深堀りしないようにしていた過去でしたが、この動画に出会えて良かったです。詳しく調べて分かりやすく解説して頂いて本当にありがとうございました。
今、当時の保護された子どもたちはどう過ごしているのでしょうかね…。
人生を狂わせる「信仰」とは一体なんなのでしょう。カルトや闇バイト、時々出てくる得体のしれない集団心理のようなものについては教育の現場においても取り入れる事が必要ではないかと感じています…
自分が生まれてない時のことをこれだけわかりやすくまとめて解説していて、たくさん勉強したり調べたりしているんだなと本当に尊敬します。
私は、現在61才。当時は全国区の企業に勤めていました。私は地方の工場に勤務していました。サリン事件当日、中目黒にある本社に午前9時に行きました。到着すると担当者が信じられないくらい喜ばれました。本社の中でも、地下鉄で何かが 起こったというのは大騒ぎになっており、それに私が巻き込まれたのではないかと思われていました。
実際は初めての本社出張だったので、サリン事件が起こる30分前、7時半頃中目黒駅(日比谷線)に到着、喫茶店で時間を潰して本社に行きました。昔の事ですが忘れることは出来ません。
ご無事で何よりです…
涙が出ました。ご無事で今まで生きてこられてよかった。本社の方もさぞ肝を潰した事でしょう。
当時、日比谷線で通勤しててサリンまかれる一つまえのダイヤに乗車してたので、間一髪たすかりました。ものすごくゾッとしました。しばらく日比谷線つかわないて迂回ルートで通勤してましたね。怖かったです。
当時24歳で父親の経営する工務店で働いており、阪神淡路大震災で損壊した建物の修復等で連日神戸方面に仕事へ行ってました。この事件を境に震災関連のニュースが一切無くなり、地下鉄サリン事件一色になったことを覚えております。
坂本弁護士一家殺害事件も扱って欲しいです。
あの事件がもっと早く解決していたなら、サリン事件も起きなかったかもしれません。
今では知らぬ存ぜぬのTBSが殺害に加担していましたからね。
坂本弁護士事件は神奈川県警の不祥事でもあるからな
松本サリン事件もやってほしい
くないですか?
@@Sweepshow さん、オウム事件の発端だと思っています。
自分が生まれる約2年前の事件です。なので詳しい話等は知りませんでしたが、母がサリンが撒かれた電車の1本前の電車に乗っていたらしく、もしタイミングが悪かったらアンタは生まれて来なかったかも知れないって話を聞いた事があります。
ホントに恐ろしい…
母に感謝です。
朝一でめちゃめちゃ怖い話聞いた気分
当時看護師で病棟勤務していました。
夜勤明けで控室で休んでいたところ、テレビで地下鉄サリン事件のニュースが流れ、食い入るようにみていました。
勤務先(静岡県)の医師の多くが、東京の大学病院から派遣されていた医師だったので、大学病院の状況を酷く心配していたのをよくおぼえています。
サティアンの強制捜査時は、勤務先(静岡県)の病院に信者や捜査陣の救急搬送があるかもしれないと、師長(当時は婦長)からその場合の手順や注意事項を当日の朝言い渡され、テレビの中の出来事だと思っていたところ、ドラマでも他人事でもない、より身近な事件にかわりました。
この事件は、私の人生でもわすれることができない出来事です。
荒井さんより20上のオッサンです。お若いのに落ち着いてわかりやすい話し方、尊敬いたします。
当時、埼玉で社会人をしていました。埼玉の、駅のhomeでも、警備員が立っていたり、ホームに、あるゴミ箱は全て使えないような状態で、異様な光景でした。
2ヶ月前に、阪神淡路大震災が起こり、みんなが助け合う様子から、無神論者ですが、やはり日本人は【性善説】かなーと思ってましたが、このとんでもない事件で、一気に【性悪説】なのかな、。と一気に気持ちが、落ちた思い出があります
当時、小学校に入る直前の6歳で、サリン事件から1〜2週間後くらいに家族旅行で初めて東京に行った際に地下鉄に乗ることがありました。子どもながらにこの事件をテレビなどを見て知っていて、東京の地下鉄に乗るのがものすごく怖かったです。今考えたらバカバカしいのですが車内でできるだけ息をしないように頑張って息を止めていたのを覚えています。第○サティアンが何をしていたところかやオウムの資金源が何だったのか、犯行に至った背景など現地で撮影されながらわかりやすい説明でとても勉強になりました。
神奈川県の公衆衛生大学院の社会人学生です。
危機管理論という授業があるのですが、担当教授が元陸上自衛隊の防衛医官で、まさに地下鉄サリン事件の時に陸上自衛隊の幹部隊員として現場で陣頭指揮を執った方でした。
地下鉄サリン事件については1コマ90分の時間を取って、当時の現場での詳細や良かった事や今後への教訓など、多くを語って頂きました。
防衛医官時代は教授のご専門はテロ対策だったそうで、他にも三菱重工ビル爆破事件なども授業で語って頂きました。
普段平和な日本を震撼させる、何とも恐ろしい事件だったという事が改めて分かりました。
🎉🎉🎉🎉🎉
統一教会も危ないっていうのは、先生話してくれたかな?
@@gdp_4_33_5k頭悪そう
サリンがまかれた当日、たまたま寝坊していつも乗る1~2本後の電車に乗ったらダイヤが乱れていて電車が止まったりして、どこどこの駅にて爆発物のような物がなんたら…という車内放送が流れたりしてて、でもまだその時は皆こんなに大変なことになっているとは思ってなかったです。
自分はその後1時間近く遅刻して会社に着いて怒られるかと思ったら会社の人たちが「大丈夫だった?!」とか心配してきて、会社のテレビを皆で観てて事件のことを知って私もびっくりしました。
会社の人たちは私が遅刻していたのはサリンの電車に巻き込まれたからだと思っていたようでした。
このことがあってからしばらくは電車内で物が落ちてたり座席に置いてあったりすると敏感になったり、駅構内もゴミ箱が撤去されたり警官がいたり 物々しかったです。
被害にあわれた方々を思うと言葉にならないつらい気持ちです。
僕はこの事件が起きた時、中学を卒業し、高校に入学する間の春休みの事でした。
僕の父親はたまたま地元の道路が空いていて、バスが早く、いつもより一本早い電車に乗れた事により事件に巻き込まれずに済みました。
サリンと遅刻のお咎めを同時に回避するとは凄い運ですね
当時のニュースで問題のサリンが入った袋を片付けた駅員さんがいるのですが、この方も亡くなっています
その死に様を同僚の駅員さんが目の当たりにしていたのですが、もちろん具体的には語っていませんでしたがあまりに凄惨な苦しみ方をしたそうで、その時の様や叫び声が記憶から耳から離れない、そう語っていました
サリンという毒ガスを知るに充分でした
当時は6歳でした。阪神・淡路大震災は覚えていないのに、あのメロディーと麻原彰晃、地下鉄サリン事件、上九一色村という単語は頭に焼き付きましたね。あの歌が自分の中で流行っていたのでよく口ずさんで怒られていました。
ショーコショーコショコショコショーコー、ア、サ、ハ、ラ、ショーコー。
当時9歳でしたが正直私も含めて周りの友達もおもしろおかしく歌ってましたね😅
事件前も連日オウム真理教のニュースを見ていたと記憶しています。
魔を祓う尊師の歌と極限修行音頭が好きで一時期clipboxに入れて聴いてました
コメ主と同じ年齢でしたが
この手の唄は当時の小学校低学年でも歌ってる子が居ました その子はただ何となく歌ってるだけで特に信者の子でも家族も関わりも無い家庭だったみたいです
やってる事がまるで小ヒトラーを更に強欲にしたようなヤバい思想そのもの 麻原自体の過去が暴挙の幼少期だったみたいなので
やはりそこから全てが始まっていたのでしょうね 多分その時に人の世界を優雅に生きる為には他者を洗脳して奴隷に道具にする事が最有力法だと学んだのでしょう
今回は荒井さん、感動的、神回です。地下鉄サリンの時は東京でしたが、その昔住んでいた松本でも、途方もないサリン冤罪事件で、河野さんが疑われ、奥さんは長いご主人の看病虚しくなくなりました。
流石に荒井さん、有能で、お仕事が早いです。
大人だけでなく、小中学生でも分かりやすく見やすい動画を是非作っていただきたいくらい、どの動画も解説が偏ってない所が本当に凄いと思います。
いつも有難うございます。
親が前に言っていましたが、松本サリン?の時にリビングでニュースを観ながら『これオウムがやったんちゃうん?笑笑』って冗談っぽく話していたら、翌日郵便受けに『オウムは無実です!』って書いたビラが入っていて青ざめたって聞いたことあります。
当時を振り返って、父が「事件が起きた後、非常事態だったから周りの人のポケベルが安否確認の為に一斉になりまくってた。とんでもなかった。」と話していました。
まだポケベルの時代だったか…。地下鉄サリン事件は1995年3月20日に発生。ガラケーが発売されたのは1999年頃。
1993年くらいに東京デジタルフォンのガラケー初めて買いましたよ
当時、私もテレビや新聞に。
あまり話したくはないのですが、
天皇陛下暗殺とか、右翼が怒るのも当たり前です。
警察が押しきる中、住民が受け入れるといって、右翼を近くまで誘導したのも。
弁護士はテレビで偉そうに話していましたが、実際に裁判に来た弁護士は一人だけでした。
私も毎回傍聴してました。
ある地方です。
幹部の方と直接話したのは、当時私も若かったからでしょう。
ありがとうございます。
いつもコアな内容で大変興味深く拝見させていただいております。
当時は二十代半ばで、内装の仕事をしました。社用車で門前仲町から浅草にある会社へ通勤途中、小伝馬町の入り口に「爆発物が発見されたため、封鎖してます。」という看板がありました。その後、車のラジオからの報道でサリンだということがわかりました。自分の記憶ではたしか、築地駅を上がった道路脇の歩道に沢山の被害者が倒れてたり、座って待機してました。近くには幼稚園もあり、園児への被害も大変懸念されてました。
いつも分かりやすい教養を頂きましてありがとうございます。私は当時門前仲町駅へ向かっていました。8時頃です千代田線から大手町で乗り換える少し前で電車が停まりました。あーあと少しだったのについてないなぁと記憶しています。他の路線で車内で異臭がありしばらく電車は停まります。とアナウンスがありました。私が乗っていた車両では無かった為数十分したかで動きました。当時携帯がないため家族が死んだかと心配していたのを覚えています。もう少し早かったら遅かったらの運命でした。車掌さんが何度もアナウンスを絶え間なくされていたのに不思議と恐怖感はなくそのうち動くだろう。と情報がない時代でしたのでパニックは起きませんでした。ただ、大手町で乗り換え出来ない路線が有ることでざわついていました。私は乗り換えできたので遅刻して無事に会社に着きました。遅刻してすみませんと上司に話すとそんなことよりテレビを見なさい!と言われ会社のテレビに釘付けになり上司から早く家族に電話して安否を伝えるようにいわれ、会社の公衆電話や事務所の電話でかけようとしましたがスゴい列でしたので諦めました。後にすごく母にしかられました。そりゃそうですよね。記憶が曖昧で誤りが有りましたらすみません。
実際に関連する場所に行って一本の動画にまとめる人なんてなかなかいない…臨場感があってとても良いです。
アウトを!ゆ
当時人権派の弁護士をしていた親戚の叔父さんの所に事件当日公安がやってきて、
「とにかく今は家に帰らないで。家族にも居場所を教えるな。」
と言われ、しばらく単身ホテル暮らしを余儀なくされたという話を思い出しました。
本動画もさることながら、コメント欄の読み応えも凄いですね。当時の空気感がリアルに蘇ります。
当時小学校低学年だった者ですが、事件後、学校や家で「外でビニール袋や変な物を見つけても絶対に拾ったり触ったりしてはいけない」ときつく言われたのを覚えています。
また、『電車内、駅構内で不審な物を見かけた際は、お近くの駅係員にお知らせください』的なアナウンスが電車内で流れているのも、この事件が起きてからだと記憶しています。
当時小学校高学年でした。
確かにその頃からでしたね。電車内の不審物などに対して社会全体で敏感になってましたね〜。
四国の片田舎ですが 確かに当時郵便ポストや変な物を絶対に触らずに警察に通報して!
こんな張り紙が電柱やその辺の壁に貼られていた 今思えばあれがそうだったのかもしれない
私の地元のマンションにオウム信者が住んでいたらしく、オウムは出て行け!って垂れ幕がはられていたのを思い出しました。
事件当時は学生で、時々WSでオウム関連の事を観てましたが、ここまで詳しく理解していませんでした。知れてよかったです。
いつもわかりやすい解説をありがとうございます。
間違いだらけの解説ですけどね
今回の動画も興味深く拝見しました。
地下鉄サリン事件当時は学生で、事件のあった沿線の学校に通っていました。
春休みだったのですが、就職活動のガイダンスがあったため、朝から学校でテストを受けていました。
昼前に終わって帰ろうとすると、どうやら地下鉄が止まっているらしいということで、友人たちとファミレスで時間をつぶし、それでも運転再開の気配がないのでJRの駅まで歩いて帰宅したのです。
当時はネットが普及していないだけでなく、携帯電話はおろかポケベルすら持っている友人はおらず、現代のように情報を収集する手段がありませんでした。情報というのはテレビや新聞から得るものであり、分からないことは知らなくて構わないと思っていたんですね。だから、サリン事件を知ったのは帰宅してニュースを見てから…今となっては信じられないくらいの危険意識の浅さです。
当時、法人向けの健康診断の受付のアルバイトをしていたのですが、受付で「地下鉄サリン事件の被害者で、治療の時にレントゲンを撮ったので今回はなしでお願いします」と言ってくる人がいたりと、いつまでも身近にその影を落とした事件だということだけはよく覚えています。
荒井さんのように、当時生まれていなかった方の視点での動画はとても新鮮に映りました。
また、和歌山カレー事件もそうですが、自分が若い頃に世間を騒がせたニュースが「歴史」のようになっていくのもなんとも複雑です。こういう事件を取りあげていただけるのをとてもありがたく思います。
これからも鋭い視点での(しかもどれもわかりやすいのが凄いです!)動画を楽しみにしています。ありがとうございました。
この回を視聴して一番思ったことは、災害や大きな事件において最後に本当に頼りになるのは『自衛隊』と言うこと。我々の日々の安全安心な生活も万一には助けてもらえると言う絶対的安心があるからだと思う。我が身を犠牲にすることもある中で他人を救う為に活動する自衛隊の皆さんに改めて感謝致します。
先の1月の阪神大震災の自衛隊がされた救助活動で世間から必要性を再確認された後の3月の地下鉄サリン事件での活躍
この一連の流れで自衛隊の地位が強固なものになったと思います。
@@らき-y5g そうかな?村山政権だったから、あれだけ活躍しても言ってた。今でも立憲共産党が騒いでる
@@1892.maebashi
当時自分は9歳だったので政権による世相の空気感は分かりません。
ただ自衛隊駐屯地の近くに住んでいて、宿舎も近く、何人かの同級生のお父様が自衛官という環境にいました。
自衛隊が身近にあっても自衛官のお仕事が震災前までは理解できていなかったです。
政権の影響があれ、1995年が自衛隊組織のターニングポイントになったのでは?と思います。
60過ぎの爺さんです。いつも興味深い動画を有難うございます。当時、地下鉄サリン事件のライブをテレビで視ていました。その数年前から地方の本屋でも麻原の本が普通に平積みで売られていました。
私は2004年生まれで地下鉄サリン事件の時は生まれてなかったけど法学部の学生なのでオウム真理教についていろいろ勉強してます。ほんとに麻原は恐ろしいです。でも周りの友達は地下鉄サリン事件を知らない人ばかりなので知ってほしいです。この動画もとても勉強になりました。
父が兵庫県警で大震災のあとの復興活動で慌ただしくも一息ついた頃にこの事件でした。(普段の3交代勤務に戻りだしたぐらいだったと思います)
激務で疲れているだろうに、家で休む時間を削ってテレビを見て、捜査活動を一警察官として注視していました
教祖がどこに逃げ隠れているのか、警察官の観点で話したりしてましたね
1986年生まれで事件当時8歳です。
事件の2ヶ月前に阪神大震災がありました。
TBSの番組コーナーで山瀬まみさんが出演していたお父さんのためのワイドショー講座というものがありまして、各局の1週間の放送時間からランキング付けで出来事を紹介するコーナーです。それまで阪神大震災関連の報道が1位だったのが地下鉄サリン事件に変わったのを覚えています。
お父さんのためのワイドショー講座懐かしいなww
荒井さんの動画いつも見てます。知識がない自分にもすごくわかりやすいです。
オウム真理教で一番許せないと今でも感じているのは坂本弁護士一家の事件です。
当時自分は横浜に住んでいて、同じ市民としてなんで幼い子供まで...と涙が出た
の覚えています。
当時中学生でした。不謹慎な話ではありますが事件以降オウム真理教は今で言うところのネットミームのようなネタとして流行していて休み時間には麻原彰晃マーチやエンマの数え歌をふざけて歌う人も多かったです。テレビの影響力が唯一絶対であった当時にバラエティー出演歴があったことも影響していると思います。同学年にはニックネーム「尊師」が2人「上祐」が1人いました。彼らは全員イジメられていたわけではなく自分から名乗って笑いを取っていたお調子者やディープなオタクです。当時は多少の失言でも即炎上する現在とは違い、多少不謹慎でも笑いのネタにできる良い意味でも悪い意味でも寛容な社会でした。とはいえあれだけの事件が起きていたにもかかわらずそういう扱いが許容され苦言を呈されることもなかったあの状況、子供の間での流行だったとはいえ現代の自分の価値観に照らし合わせても異様な状態だったと思います。
普通にとんねるずの番組とか片岡鶴太郎、ビートたけしの番組に出ていじって笑いの取れる民間療法の怪しいヨガ先生でしたからね
高校3年の担任の先生は私達が卒業するタイミングで教師を退職しました。私は大学に進学する前に先生のお宅にご挨拶に伺ったのですがリビングには麻原彰晃のポスターが貼ってありました。地下鉄サリン事件の5年前のことで教団や麻原氏のことは知らなかったので、ポスターの質問から話題は自然と教団の教義のことになりました。私は地元を離れる前にとても良い話が聞けたと感じて、あらためてその先生に感謝しました。それが彼との最後の接点であり、彼はまもなく奥さんとお子さんとともに出家して静岡に行ってしまいました。とても良い先生だったのですが、ご家族も含めて今も健在かは不明です。
怖すぎて草
普通、教師の自宅になんて行かないわ。生徒も異常・・
@@1892.maebashiいや行くべ
@@kanayuichos2499 先生の家知らないし行ったことないわ。
家に招いてくれるなんて、懐の深い良い先生だったんだね。うらやましい。
@@1892.maebashi 地方による、過疎地ならあるある
当時トラックの運転手してて、皇居方面から渋谷の方に向かっていて救急車や消防車が沢山いたので大きな火事でもあったのかと…その後ラジオで詳細を知るにしたがい大変なことだと…会社が江戸川区だったので亀戸の施設での異臭騒ぎやよく通っていた六本木通りから恵比寿に向かった教団施設での村井氏の刺◯事件なども強く記憶に残ってます。最近では外国人が「ナゼ日本にはゴミ箱がないの?」という話題を目にすると当時を思い出しますね…
当時、大学生だった私。
最寄り駅は丸ノ内線御茶ノ水駅でした。春休みだったのですが、この日は朝から課外ゼミがあったのですが、前日に延期の知らせがありました。
もし、そのまま予定通りに実施されていたなら、もしかしたら・・・。
当日は朝から地下鉄異臭騒ぎで、テレビ各局がどれも緊急特番だったのを覚えています。
当日の夕刊だったと思いますけど、紙面の1面にサリンの入っていた破けたビニール袋が車内の座席シートに捨て置かれている写真が掲載されていたのも覚えています。
ほぼ30年を経過した今でも、毎年3月20日になると、『あぁ、サリンの日だな』って思い出します。
ご近所の人が地下鉄サリン事件の被害者と言うのをたまたま最近知ったタイミングでこの動画…。
その方は今でも地下鉄が怖くて地上駅から地下に入るような路線だと地下に入るとパニックになると聞いてこんなに人の人生を崩す事件起こったと改めてやばい
麻原氏がサティアンから拘束されたのは、私が12歳の頃です。当時は小学6年生で、学校ではテレビを見るのは禁止だったのですが、担任の先生が「見ておきなさい」と言われ、警察車両から護送される映像を見た記憶があります。
全く同じ。ちなみに当時の担任は25歳(男性)でした。
先生の判断、臨機応変さは凄いですね。
荒井さんがまだ生まれてないのにも関わらず、ここまで詳しく語れるのは凄すぎる😮😮😮
ちょうどその日、1歳の息子の診察があり、新御茶ノ水の病院へ行こうとしていました。8時半頃だったと思います。駅の表示が『テロのため千代田線は新御茶ノ水までの折り返し運転になります』となっていました。テロと聞いてびっくりしましたが、詳細がわかるにつれて背筋がゾッとしました。8時半の時点では「テロ」とまでしかわかっていなかったんですね。直接被害があったわけではないですが、その時近くにいた者として本当に許せない犯罪です。それをこんなに丁寧に動画にして伝えていただき感謝いたします。
ソレハ記憶違いでは?昼過ぎになるまで薬品事故という報道しかなかったけど
@@1892.maebashi もう30年以上も前ですので、そうかもしれませんね。「テロ」という手書き文字が頭に残っていたものですから。ご指摘ありがとうございます。
地下鉄サリン事件の当日、私は出張で伊丹空港から羽田空港まで飛行機で飛びました。モノレールと山手線で新橋に向かっていたのですが、浜松町駅でスーツ姿の男性が座り込んで涎を垂らしてぐったりしているのを見ました。
さん 貴方自身は大丈夫ですか? 介助者も、被害あったとのこと。
@@mimitanohigiki はい。私は大丈夫でした。
@@romantetsudou さん
良かった
当時あたしは夜間大学に通ってて昼間は会社員で地下鉄を使ってました。この日はたまたま大学に用事があり事件は大学のそばの中華料理屋さんのテレビで知ってびっくりしました。
まだ携帯もない時代です。
うちの両親が心配で会社に電話したと次の日に上司に言われました。
自宅に帰ったら母から「心配です」と留守電と着信がめっちゃありました。
余談ですが大学の時の知り合いで1月阪神・淡路大震災で寮が潰れて東京に戻ってきてサリンにあって病院に行ってた人がいました。
ほんとに怖い年でした。
うちもうちも〜〜〜 親が心配して会社にも電話かけてました
94年生まれです。当時練馬に住んでいました。当時はまだ大江戸線が工事中で、工事部分を囲う白いトタン壁にはオウム真理教実行犯たちの等身大の絵が貼られ、見つけたら100当番!のようなことが書かれていたと思います。数年間貼られていました。
かなり幼い頃の記憶ですが、東京一体は事件後数年異様な光景に包まれていたと思います。
同級生のお母さんが事件当日たまたま遅刻して一本後の電車に乗ったとのことで、遅刻していなければ被害にあっていたとのことです。当時そのお母さんは同級生を妊娠中。臨月でした。事件後数日後、同級生は無事生まれたとのことでした。
当時、消防関係にいました。名古屋近郊でしたが、その日は休暇の日で車を運転していましたが、ラジオでこの事件を知りました。帰宅してから、テレビをつけると全チャンネル生放送をしていました。自衛隊の方々も大変ご苦労されたと思いますが、消防(東京消防庁)の化学機動中隊も出動しサリンの除去にあたっています。当時東京消防庁に配備されていたスーパーアンビュランス(大型トラックを擬装して開発された多数傷病者対応のための特殊車両)もこの事件で初出動と聞いています。海外メディアの報道もすごかったです。化学兵器が無差別テロで使用された初めての国とか。サリン事件後のサティアンへの強制捜査も、カナリアを鳥かごに入れた捜査員がテレビ中継で散見されました。カナリアは周囲の空気の変化に敏感に反応する鳥のようです。普段は自衛隊不要論や公務員は?とか言われていますが・・・この組織をなくしてしまったら、誰が災害に立ち向かうのか?
いつも素敵な配信ありがとうございます。サリン事件当時、1995年大学4年 西武池袋線沿いに住んでました。とんねるずの番組やワイドショーに頻繁に麻原や上祐が連日のようにでていました。バラエティ番組は特に、TV制作側が、面白がっているような雰囲気が漂っていたような印象があります。
ずっとワイドショーで見ていました。会社の人が「目が見えないのに周りに美人ばかり集めていたのが不思議」と言っていたのが不謹慎ながら忘れられません。
才能ある大勢の若者を犯罪者にしてしまった罪も大きいです。
パソコンや科学薬品も作れる理系の頭脳を良い方向に使って欲しかった。
それは盲点だけに盲点でしたーwwwww
目が見えないんだったら一定数ブサイクがいるはずですよね。
気づきませんでした。
麻原は、全盲だったわけではなかったらしいですよ。
片方は視力ゼロだったらしいが、片方はまぁまぁ見えていたそうですから。
札幌白石のアレフの近くに住んでます。いまだにオウムは出て行けの看板があります。まだオウムと近郊住民の戦いは終わってません。定期的に警察の立ち入りがあります。
熊本在住です。オウム真理教が熊本波野村にいた頃、私は小学生でした。学校で自宅ポストにオウムのチラシが入っていても触らないように!と注意喚起されていました。毒が塗ってあり触っただけで◯ぬと…
叔母が、この地下鉄サリン事件に巻き込まれたときのドキュメンタリーを見て、とても苦しくなりました。わかりやすい映像をありがとうございます。勉強になりました。
当時の警察無線の動画がRUclipsに上がっているのでそれを見て当時の雰囲気の一部を知ることができました
事件当時は私は小学生低学年でした。あの歌はテレビでもよく流れていましたし何気に口ずさんでいましたね。
上九一色村のサティアンに強制捜査が行われている様子がテレビ中継していて家族で観ていた記憶があります。
動画最後まで飛ばさす拝見しました。自分は30代なので、阪神淡路もサリン事件も同時多発テロも東日本大震災も経験している世代です。色々な事がありましたが、国家を転覆させるなんて到底凡人では考えもしないですよね。パソコンショップについても触れてましたが、お弁当屋や惣菜屋など、飲食事業にも手を出していたのを覚えています。その知名度やビジネスセンスを良い方向に生かして欲しかったです
当日三鷹にいました
カギを開けてくれるハズの管理人さんが全然来なくて連絡も取れなくて、仕事ができなくてとても困りました
そして管理人さんは遅れて来るなり『サリンが!サリンが!…』とパニック状態で、何言ってるのかさっぱりわかりませんでした
その日まで『サリン』なんて言葉すら聞いたことがない人間が大半だったと思います
秋葉原では中央通りの1本中に入った道で「DOS/V買うならマハーポーシャ」と言いながら水筒持ったゾンビのような人たちがチラシを配っていました。ここに来る人達はオウムと知っていた印象です。
パ〜ソコンがぁ〜DOS/Vがぁ〜マ〜ハポーシャでぇ〜ちょ〜うげ〜きや〜す!ってやつですね。当時、彼等らがチラシ配りをしているその道の目の前にあった某PCショップでバイトをしていました。最初の頃は派手な掛け声もなく普通にチラシ配っていたのですが、夏が近づくにつれ、メンバーが連携して声を張り上げるようにやってましたね。頭にPCモニターの手作りの被り物を被って(笑)
大学の夏季休暇中ずっとバイトだったので毎日彼等を見てたのですが、炎天下の中、女も男もみるみるうちにドス黒く日に焼け、声も潰れていく様を見るに、宗教団体とは聞いていたものの何故そこまで出来るのかと思っていました。
DOS/V なつかしいです。幸か不幸か買いませんでしたが、売られていたのはよく覚えています。今からするとぞっとします。
弁当屋も経営してた記憶あるなぁ、店名とか忘れたけど。
夏は待ってくれない!超高速で一気にぶちかませ!
他にも触れられているコメントがありますが、当時の空気感はかなり特殊で、彼ら教団を忌避しつつ笑う、というか。その奇妙なホーリーネームや麻原のモノマネ、そしてあの歌が流行りました。さすがにテレビや新聞はそんなおふざけはしてませんでしたが。巷ではたとえばアルカイダのような恐怖一択的な受け止められ方とはまったく違いました。
当時の空気感、同意です。
直接被害にあった方は違うと思いますが事の大きさが実感できない、距離を取るためにも笑ってやり過ごしたい
そんな感情があった気がします。民族性も゙あるのかもしれません。
事件後、海外の方と当時現場近くに居たとこちらは笑いながら話したら
先方は明らかに顔つきが変わり恐れ慄いた表情になったのを今でも覚えています。
私が中学の時の事件 先生が授業中なのに緊急ということで、教室のTVつけて皆で見ていたのいまでも覚えてます。
上九一色村強制捜査の時配送業務て私は都心 方面に中央高速で首都高 方面に向かってましたがまるで西部警察を見てるような想像を絶するようなパトカーや警察のバスなどが多数山梨方面に向かって行くのを目撃しました当時 私の親や兄弟が都心に勤めてたのでラジオをひっきりなしに聞いてましたなのでオウム真理教の捜査というのが分かりましたあれは圧巻するような機動隊車両 とかパトカーとかを見ましたそれが今でも記憶に鮮明に覚えてます
警察の不祥事聞いても、年間勤務中亡くなる方がいる。それも若い方々。
不要発言する人いても、パトカー見ると活動している方々に感謝します。
但し、落とし物に関する対応はボックスを作って下さい。バクダンは入れられないような工夫お願いします。
警察関係者も見ていると思うので、お願いします。
毎回貴重なレポート有り難うございます。
教祖本人が1番欲の塊なのがなんとも皮肉
上九に何人か友人がいたので、よく遊びに行っていました。
ある時期から、頭からすっぽりと白い全身頭巾みたいなものを被った信者がゾロゾロと数人で歩いているのが不気味でした。
村民は村から出て行ってもらうために闘っていました。
サリン事件の時期は週に2回ほど打ち合わせで8:00前後に日比谷線に乗っていましたが、その日はたまたま打ち合わせがなく
乗りませんでした。当時は妊娠初期でしたが、同じように妊娠中だった方が医師から「正直、サリンの赤ちゃんへの影響がわからない」と言われて、中絶を選んだという話を聞き切なかったのを思い出します。
被害者に数えられている方の周りにも、人生を狂わされた方はその何倍もいるということですよね。
地下鉄サリン事件の時は小学校6年生でした。恐ろしさを感じたのも勿論なのですが、その前に「松本サリン事件」があったので、「またサリン?」と思ったことを覚えています。きっとそういう人は多いです。地下鉄サリンを語るうえではセットになる事件だと思うので、こちらも動画化を希望いたします。
松本サリンでは、サリンがバラまかれた場所にお住まいだった本来は被害者の方がマスコミに犯人に仕立て上げられてしまいました。被害者の方は奥様が重症患者になられ、その後の人生で大変ご苦労をされていると記憶しています。あの時、オウム真理教を疑っていれば、地下鉄サリンは発生しなかったのではないかとすら思います。
その前の坂本弁護士一家殺害事件など、危険信号は多々あったので、もう少し早くオウムに辿り着いていたのではないかと。。。オウムに関してはマスコミの功罪も非常に大きいです。
貴重な動画配信ありがとうございます。この動画では触れていない松本サリン事件も忘れてはなりません。
地下鉄サリン事件の時は私の父が霞ヶ関で働いていました。
正に千代田線で通勤しておりあと数本遅ければ巻き込まれていたとの事で他人事とは思わなかった記憶があります。
おまけに麻原が逮捕された5月16日は私の誕生日で絶対に忘れません。
免許の更新で府中の試験場のモニターで速報を見ました。
当時、中学一年生でした。1月には阪神淡路大震災があり、世の中が精神的に不安定だった時にこの事件がありました。丸の内線は通学に使っていた電車で、この日は春休みでたまたま部活もなく家にいてテレビで見て愕然としたのを覚えています。一応、事件のひと通りの裁判が終わったとはなってますが、まだ後遺症と戦っている方がいる以上、風化してはいけない事件だと思います。
動画が上がるのが嬉しいです。お風呂に浸かりながらいつも見させてもらってます。
これだけ最悪な罪を犯したオウムに対し、破防法を適用してオウムを解散させることが出来なかったことに強い憤りを感じた。オウムは団体名を変えて今も活動を継続している。
「危ないですから下がってー!!」と絶叫する営団地下鉄(現・東京メトロ)駅員さんの映像が事件を振り返る際によく使われていましたが、あれは日比谷線神谷町駅下り線ホームの一番北千住寄り付近で撮られたものですね。
事件当時、中学生でした。今となっては不謹慎な事ですが、さすがは中学生、「サティアン」「ポア」とか、学校では連日オウム関連の独特なフレーズがネタ化され、大盛り上がりでした。横山弁護士とか濃ゆいキャラもいたなぁ。ああ言えば上祐はイケメンだと大人気だったし、村井さんが殺傷されたのもリアルタイムでテレビで見た記憶があります。
当時思った事。こんな事件が起きる前、小学生の頃、そういえば通学路の壁にひげもじゃの麻原のポスターとか貼ってあって、私は映画のポスターだと勘違いしていたなぁと気付いた時、子どもながらにゾワっとした記憶があります。
事件のかなり前から昼のワイドショーで出家した子供達を取り戻そうとする親達と上祐達信者との討論が毎日放送されてました。それから坂本弁護士一家失踪迄オウム一色で最後のサリン事件迄ほぼ90年代のワイドショーはオウムの記憶しかない。
サリンと言えば、松本サリン事件も別な意味で悲惨な事件であった。近くに住んでいた河野さんは、奥さんが重度の症状になっただけでなく、サリンとは全く関係ない農薬を自宅に持っていただけで、マスメディアから犯人に仕立てあげられるなど、地下鉄サリン事件より小規模な事件ですが、非常に印象に残っている事件です。
その後しばらく、救急外来にはアトロピンが沢山置かれてました。最近日比谷線で通勤していますが、初めは少し緊張しました。その話をわかってくれる人も減っていて、少し寂しく感じました。統一教会の事件がまた起こって、忘れた頃にオウムみたいなことがまた起こらないか心配になりました。
麻原が生ダラにゲスト出演した回を偶然見ていました。両親が黙ってチャンネルを変えていました。
先日、生化学の授業で「サリン」という猛毒について分子から勉強しました。生物が呼吸する受容体を阻害し、無理やり呼吸困難を引き起こす神経毒なんですね…。「息はできるのに、酸素が入ってこない」というおよそ5〜8分、筆舌に尽くしがたい苦しみを味わいながら細胞の死滅を迎え死に至ると学びました。被害者を思うと、想像するだけで胸が苦しいです。
地下鉄サリン事件当初、自分は大学生で、多摩地方の引越し業者のバイトを倉庫でしていました。作業中、ラジオから、被害者が次々出てくる様子が放送されて、なにか異様な雰囲気でした。
住んでるところも多摩地方だったので、都心には行くこともなかったですが、都心とは離れた中央線沿線を乗るときにも不安を抱えながら乗っていました。
事件発生から10年たってもその不安はつきまとっていました。
やー!まさかロケ動画で富士宮に来てくれたんですか!?地元なので取り上げられるの嬉しいです
その当時でも、地元は割とオウム真理教のせいで変なところはなかったように記憶しています
こんな大きな道場があったのに、逆に大きな事件がなかったのは…一歩間違えていたら富士宮も危なかったかもしれないですね
久しぶりに来ました、地下鉄サリンの日は小学校に行っててたまたまテレビ見たらニュースで流れてたんでかなりびっくりしたなと
当時中学生でしたけどサリン事件前でもよくテレビに色物的というか凄い出てましたよね
選挙の時の歌も友達との会話で歌ったりポアって言葉も使ってました
オウムは麻原が捕まった後も笑いのネタでしたよ
テレビのワイドショーとか報道番組はオウムばかりでしたし
オウムの次は福永法源の法の華三法行とかも笑いのネタになっていたし
あと一つ同時期に話題になった新興宗教があったような記憶が
当時は東京の中学生。今考えると非常識ですが、友達同士でポアとかサティアンとかふざけて使ってました。今だと寒気がして胸糞悪く気分も暗くなり深刻に受け止めますが、当時はバブル期だったのか何か世の中的な捉えられ方が違う側面も一部あったような、、うまく表現できませんが、この動画を観て改めて事の重大さに気付かされました。
1987年生まれです。
わたしは当時まったく都内には縁がない小学生だったんですけど、サリン事件のニュースを見て駅構内(?)で倒れてる人、毛布かけられてる人、具合悪そうな人、吐いてる人(?)とかの映像がたくさん流れてすごく怖かった記憶があります。
当事者の方々にとっては想い出したくないことだとは思いますが、日本が忘れてはいけない大事件だと思います。
当時の体験者からしたらこの動画の10倍100倍以上の言葉に出来ない時代でした。
これ以上の事は自分が生きてる間日本で起こらないと思ってます。
戦争と同じ体験をしました。
絶対!忘れないで欲しい
平和に慣れて平和を当たり前だと思ってる現代と未来の教訓にして欲しいと思ってます。
事件当日に職場でテレビ報道を視てました。未だ犯人は不明で事件現場の悲惨な状況が映しだされてましたが、私はそれを『オウムの仕業』と言ったのですが、同僚たちは『まさか…』と笑ってましたが、その後にオウムと判明して同僚たちに驚かれたのを覚えてます。
当時、小学生でした。地下鉄、松本サリンは本当に大変な騒ぎで、メディアもこればかり。事件現場とは全く違う地域に住んでましたが、当時、本当に怖くて出かけたくなかったです。
親に連れられ、出かけるたびに緊張して、出かけたくないと泣いた覚えがあります。
メンバーシップでなくて観れてありがとう🎉
ただ着ているパーカーのロゴ何だ!?
サリン事件当時父がいつも使っていたのが日比谷線で、まさにサリン事件の起きた時間に霞ヶ関で降りていたが、その日はたまたま1本早い列車で仕事に向かっていたから助かったと聞きました。その時間に父がいつも通り出勤していたらと考えるとゾッとします。
地下鉄サリン事件の際は小学生でしたが、本願寺前にいました。
私は被害に会いませんでしたが、そこらじゅうでよだれや泡を吹きながら大人が倒れている様子は今でも鮮明に記憶に残っています。
以前のオウム真理教解説動画ではフォローしきれてないと思っていたので、こうして続編を作ってくれるのはとても良いですね。
静岡に住んでいました、静岡から山梨を通って中央道に抜けるのに、上九一色村がありました
学校の遠足や社会科見学などでよく使っていた道路でした
上九一色村を通るたびオウム真理教の話題があがるくらい、子供だったの私たちですら敏感にその当時の深刻さをわかっていたのだと思います
当時私は、日比谷線で霞が関に通勤していました。いつもはあの事件があった時間帯の電車に乗っていましたが、あの日の朝は目の調子が悪くて、電車に乗る前に眼科に寄りました。眼科の診察が終わって日比谷線に乗ろうとしたところ、「ガス爆発のために日比谷線は使えません」とアナウンスが流れていました。まだ携帯電話もない時代だったので状況が全くわからず、どうにか別路線で出社したところ、職場の人たちに「大丈夫だったんですね! 巻き込まれたと思って心配してました!」と言われました。オレンジ色の防護服姿の人たちが霞が関駅に続々と入っていく姿を職場の窓から見て、ものすごく怖くなったのを覚えています。眼科に寄らなければ、私もあの電車に乗っていたかもしれません。
お亡くなりになった方だけでなく、いまなお後遺症に苦しんでいる人がいらっしゃるそうです。本当にすさまじい事件でした。詳細なレポートありがとうございました。
地下鉄サリンは小学校の卒業式の日でした。卒業式後の謝恩会会場で、親も子も会場にあったテレビに釘付けでした。あれから29年ですか...。
オウムが持ってたMI-17ヘリは現在ジブチ空軍が保有してますね。
オウム真理教強制捜査時に近くの陸自北富士駐屯地に35mm2連装高射機関砲が念の為展開していた。
飛んでしまった場合は木更津第1ヘリコプター団のAH-1S攻撃ヘリで迎撃する話があったみたい。
お疲れ様です😌
上九一色村の名は、連日報道してたニュースを見て初めて知り麻原逮捕の後は、施設が無く成り、嘘の様な静けさの原っぱに成ってるんですね‼️
ある意味、オウム事件が無かったらニュースを観たり、しなかったと思う位、衝撃的な事件でした🤔
非常に解りやすく、興味深い内容でした😊
有り難うございます🤗
千代田線のサリン事件当該車両である「クハ202-107号車(JR東日本からの乗り入れ車両)」の床には林郁夫が傘でサリン袋を突いた跡が残っていたらしい。
LIVE配信見ました。詳しい解説ありがとうございました。知らなかったこともあって最初から最後まで聞き入りました。聞けば聞くほど本当に気分の悪い出来事ばかりです。
あと…そういえばたしかにオウムには宗教にはつきものの大きな銅像とか仏像とかないですね🤔
私は当時中学生で、終業式の日でした。
沿線ではなかったですが、この3つの線を使っている人が多くいました。今でも鮮明に覚えてるのは、体育館で全生徒を集めて先生がいない生徒がいるかを確認して、サロン事件のお話しを聞きました。高校生の数人かの生徒が遅刻して事件に巻き込まれてていました。帰りは親が迎えに来て、新年度になってもこの路線に乗れない生徒もいました。
未だに鮮明に覚えている悲しい事件でした。
サティアンに捜索に入っているのをテレビでリアルタイムで見ていました。隊員のもつ鳥かごがひどく印象的でした。
松本サリン事件が発生した時点でオウムにたどり着いていたら…と、なんともやるせない気持ちになる事件です。松本サリン事件、地下鉄サリン事件、どちらも許しがたいものだと思います。
サリン事件後、近所の住宅地にオウムの事務所があることが発覚し事務所の前には24時間警官が立って警戒していました。
当時物々しく信者が四六時中何人も出入りしていてとても怖かった思い出があります
「オウムは出ていけ」の横断幕もたくさん掲げられていました
しばらくして立ち退きましたが、目の前のマンションや本当に近くに住んでた人たちは恐怖で眠れなかったろうと察します
当時、幼稚園児でした。連日ニュースで絶叫する駅員さんやぐったりして担架で運ばれる人、ホームで座り込む人の映像が流れてとても怖かった記憶があります。同級生が家の母に「オウム真理教ってずるいんだよ!」と言っていたのも印象深いです。ニュースを見てそう感じたのか周りの大人の話を聞いて真似したのかは分かりませんが…悪い意味でも何が起きるか分からない世の中、こういった事件も後世に伝えて行かなければならないのかなと感じています。
分かりやすい動画ありがとうございます
この時代は阪神淡路大震災があり、そこから2ヶ月後に地下鉄サリンがあり大変な時代でした。
ちょうど春休みでテレビを付けた途端全てのチャンネルが地下鉄の事件の映像がほとんどで、歩道を埋め尽くす人が横に倒れている映像が流れていました。
まだ学生でしたが、人が苦しんで倒れている光景はあまりにもショッキングでした。
その数年後にオウムの家畜住民が山梨から追い出されて栃木の大田原市の山の方に住み着いていたことがありましたね。ガードレールに赤文字でオウム出ていけ!って至るとこに書いてありました。
当時小学生3年生でした。この時初めて新興宗教という存在を知ったし子供ながらヤバいなって思いました。特に上九一色村、第7サティアンというワードは今でも懐かしいながら強く頭の中に残っています。
当時小学生でした。テレビでたくさんの乗客が地面に横たわっていたり、吐いている人もいたのを覚えています。麻原が捕まった時は授業中だったんですが、担任の先生が教室に入ってくるなり麻原が捕まったぞ!と大声で叫んで拍手したのをよく覚えています。大人になって改めてこの事件の事を知り、すごく怖いです。実現しなくてよかった。動画ありがとうございました。
駅構内のゴミ箱も、この事件をきっかけに減らされ続けて、今に至るんですよね。
地下鉄サリン事件当時、専門学校生でした。当時オウムの布教活動は驚くほど活発化していて、あちこちに教団支部があり、学校の最寄り駅付近にもありました。今では信じ難い話しですが、時代背景もあってか、一部の見た目の良い教団構成員たちの私物(上祐の使っていた毛布など)が、確か教団施設などで高値で売られていて、好んで買う人がかなりいるという報道もありました。
カルト好きや好奇心旺盛な友人が、支部を外から見に行ったりもしてましたね。
オウム真理教というカルト宗教団体が、ある種それほどまでに人々を魅了する要素を持ち合わせていた事実があったと思うと、改めて恐ろしいと感じました。