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あの頃のことは今でも鮮明に思い出せてしまう悲しい出来事です。「思い出の品」なんてメッセージ付きの大切な品を動画で流されたら、目頭が熱くなってしまいました。ご遺族・ご親戚の方々応援してます。哀悼の意を表します。
もう11年かこの出来事は忘れられない災害はどうしても防げないからな未来の子たちにその出来事を聞かせて未来に繋げたいな
全ての人の記憶が然るべき場所へ帰る権利がありますありがとうございます
僕は3歳の時に震災を体験しました。いや、体験という言葉は間違っているかもしれません。被災した方に申し訳ないです。いつも通りの生活をしていた時、急に大きな地震と聞いたことのない音(緊急アラーム)を聞いたのを覚えています。母がテレビをつけるとそこには初めて見る日本列島の地図が赤や黄色に染まったのを右下に見ました。何故かそれが14歳になった今でも忘れません。怖いです。最近の海底火山の噴火の時、人生2度目の津波警報を聴きました。一番初めに震災のことを思い出し、すぐに避難の準備を始めました。もう警告音を聞きたくないです。人が死ぬのがすごく悲しいです。今ウクライナとロシアの戦争も終わることを望みます。語彙力なくてすみません
僕も当時3歳でした僕の出身も福島県で事故が起きた福島第一原発からわずか32kmしかない田村市です幸い私の地元は帰還困難区域にならず避難準備区域になりましたあの時の不安は今でも覚えています。そして万が一福島県外に避難になり長距離避難が必要になった時ガソリンを入れないといけないと思った時私の母は私と一緒にガソリンスタンドに向かいますがどこもかしこも渋滞していたのを覚えています。私の父は当時少し離れた二本松というところで勤めていましたが、田村、二本松間の路面状況悪化に伴い通行止め帰ってきたのは震災から3日後の3月14日でした当時父はパートの人に放射能が危険だから戻るなと言われていたそうです。まだ事故は起きていませんでしたが原発ではすでにメルトダウンが始まっていました。震災直後は食糧がないためスーパーに買い出しに行きますが棚はガラガラ都路、双葉、大熊などからくる車で国道288号線は大渋滞だったと思います。震災後近所に住む親戚は妊娠中だったこともあり地元三重に疎開し無事出産しました。テレビではずっと津波情報が点滅し、映像には家、車などが流され少しショッキングな出来事でした。その後の余震で車が前後に揺れていました。夜中大きい地震後は地ならしといい地面がごうごうと音を立てていました。昨年の地震で福島市では1人の方が亡くなってしまいました。もう地震で人が亡くなるのは辛いです。今は私も14です。あの日のことは決して忘れません。今年で11年、私も昨年帰還困難区域になった双葉郡双葉町に行きました電子力資料館にも行き、当時あった出来事を近くで知れました。私の覚えてる記憶全てを話しました。今も同級生には大熊、双葉などから避難してきた人がたくさんいます。長文失礼しました。
こうゆうのに税金使えよ!たまに議員が寝てるやつの調査見てて情けないし……
こうしたものは「災害時の拾得物」と言うから違って見えるが「ゴミ捨て場から拾ってきたもの」と大差ないね。違いがあるとすれば「その持ち主を知っている人間の感傷」だけ。その人間が死んでしまえばただのゴミになる。時間と労力はもっと有意なことに割くべきだよ。そもそも過去に起きた災害は将来に対する教訓にすべきではあってもその時点に固執すべき性質のものでないはずだけどね。次があったらこれどうすんの。
思い出したく無い人もいるから、勝手な解釈おせっかいなんだよな~社会法人。結局ビジネス何でしょう社会法人。活動をよく見せる!寄付を募る!結局金じゃん💢今まで国からどれほど金をもらってたのだろうか。不透明〜国民には金の流れはまったく知らされないんだよな~こんな組織~
あの頃のことは今でも鮮明に思い出せてしまう悲しい出来事です。
「思い出の品」なんてメッセージ付きの大切な品を動画で流されたら、目頭が熱くなってしまいました。
ご遺族・ご親戚の方々応援してます。
哀悼の意を表します。
もう11年かこの出来事は忘れられない災害はどうしても防げないからな未来の子たちにその出来事を聞かせて未来に繋げたいな
全ての人の記憶が然るべき場所へ帰る権利があります
ありがとうございます
僕は3歳の時に震災を体験しました。いや、体験という言葉は間違っているかもしれません。被災した方に申し訳ないです。
いつも通りの生活をしていた時、急に大きな地震と聞いたことのない音(緊急アラーム)を聞いたのを覚えています。母がテレビをつけるとそこには初めて見る日本列島の地図が赤や黄色に染まったのを右下に見ました。
何故かそれが14歳になった今でも忘れません。怖いです。最近の海底火山の噴火の時、人生2度目の津波警報を聴きました。一番初めに震災のことを思い出し、すぐに避難の準備を始めました。
もう警告音を聞きたくないです。
人が死ぬのがすごく悲しいです。
今ウクライナとロシアの戦争も終わることを望みます。
語彙力なくてすみません
僕も当時3歳でした僕の出身も福島県で事故が起きた福島第一原発からわずか32kmしかない田村市です幸い私の地元は帰還困難区域にならず避難準備区域になりましたあの時の不安は今でも覚えています。そして万が一福島県外に避難になり長距離避難が必要になった時ガソリンを入れないといけないと思った時私の母は私と一緒にガソリンスタンドに向かいますがどこもかしこも渋滞していたのを覚えています。私の父は当時少し離れた二本松というところで勤めていましたが、田村、二本松間の路面状況悪化に伴い通行止め帰ってきたのは震災から3日後の3月14日でした当時父はパートの人に放射能が危険だから戻るなと言われていたそうです。まだ事故は起きていませんでしたが原発ではすでにメルトダウンが始まっていました。震災直後は食糧がないためスーパーに買い出しに行きますが棚はガラガラ都路、双葉、大熊などからくる車で国道288号線は大渋滞だったと思います。震災後近所に住む親戚は妊娠中だったこともあり地元三重に疎開し無事出産しました。テレビではずっと津波情報が点滅し、映像には家、車などが流され少しショッキングな出来事でした。その後の余震で車が前後に揺れていました。夜中大きい地震後は地ならしといい地面がごうごうと音を立てていました。昨年の地震で福島市では1人の方が亡くなってしまいました。もう地震で人が亡くなるのは辛いです。今は私も14です。あの日のことは決して忘れません。今年で11年、私も昨年帰還困難区域になった双葉郡双葉町に行きました電子力資料館にも行き、当時あった出来事を近くで知れました。
私の覚えてる記憶全てを話しました。今も同級生には大熊、双葉などから避難してきた人がたくさんいます。長文失礼しました。
こうゆうのに税金使えよ!たまに議員が寝てるやつの調査見てて情けないし……
こうしたものは「災害時の拾得物」と言うから違って見えるが「ゴミ捨て場から拾ってきたもの」と大差ないね。違いがあるとすれば「その持ち主を知っている人間の感傷」だけ。その人間が死んでしまえばただのゴミになる。時間と労力はもっと有意なことに割くべきだよ。そもそも過去に起きた災害は将来に対する教訓にすべきではあってもその時点に固執すべき性質のものでないはずだけどね。次があったらこれどうすんの。
思い出したく無い人もいるから、勝手な解釈おせっかいなんだよな~社会法人。結局ビジネス何でしょう社会法人。活動をよく見せる!寄付を募る!結局金じゃん💢今まで国からどれほど金をもらってたのだろうか。不透明〜国民には金の流れはまったく知らされないんだよな~こんな組織~