I'm an American Christian in Japan, and it's encouraging to see more Japanese aimed material! There's so much good Christian theology and literature in America, but I think your videos can help Japan a lot, as equipping tools or information! :)
This is great, and I am grateful that this series will make Christianity more accessible to individuals who might not have otherwise sought to explore the religion. In response to some of the (American-) English comments, though, I must remind them that Christianity was introduced to the Japanese in the 1500s, well before the U.S. was even born-and, besides, neither the Bible nor Christianity has its origin in the U.S. So, I as American am a bit uncomfortable with the presupposition/insinuation that “us Americans” are helping the Japanese learn about Christianity somehow…
Definitely, BibleProject you are doing an excellent job, translating your videos to another languages, the Kingdom of the Lord is sharing around the world. Congratulations, God bless you all!
多くの方々に聖書の理解を深めることでしょう。とても分かりやすいです。有難う。
素晴らしいです。英語版を紹介され、日本語版もでると聞いてとても楽しみにしていました。一人でも多くの日本人が、このプロジェクトを通して聖書に興味を持ち、永遠の命の希望に預かるようにお祈りしています。ありがとうございます!
おつかれさまです!いい始まり!
素晴らしい説明です。このプログラムがあることに感謝しています。
素晴らしいニュースです!!!
日本語版ずっっっと待ってました!!
最高です!!!
作成頂いた皆さん、本当にありがとうございます!!
まってましたあああああああああああああああああああああああ🙇♀️日本語版!
わかりやすい、説明ですね。
ちょうど今、教会の勉強会でマタイの福音書を読んでいるのですが、その後にこの動画を観たら、わかりやすく復習できました✨😄
ありがとうございます!
嬉しいです、日本語で勉強できる。 🙏🎌
本当に、ヤバすぎるプロジェクト!ありがとうございます。
貴い働きです。
まずは、こういうのを知って欲しいね、たくさんの日本人に。
そして、お金もサポートもしていないのに(多分)色々文句を言われている輩もいて、ちょっと引いちゃいました。(苦笑)
素直に喜ぼうよ。
感謝します🤗🤗
ずっと日本語化を待ってました!出来も良くて嬉しいです。これでやっと僕の視聴者や友達に見せられるのでこれから頑張って広めます(๑•̀ㅂ•́)و✧これからも翻訳及び制作頑張ってください!
えばそんだ!!すごい!!!
I'm an American Christian in Japan, and it's encouraging to see more Japanese aimed material! There's so much good Christian theology and literature in America, but I think your videos can help Japan a lot, as equipping tools or information! :)
イラストが凄い!
動画が凄い!
どうやって作ってるんだろ!?
感動✨
わかりやすい!!!!!!!!!!!!うれしい!!!!!!ありがとう
良いですね
分かりやすいです。
This is great, and I am grateful that this series will make Christianity more accessible to individuals who might not have otherwise sought to explore the religion. In response to some of the (American-) English comments, though, I must remind them that Christianity was introduced to the Japanese in the 1500s, well before the U.S. was even born-and, besides, neither the Bible nor Christianity has its origin in the U.S. So, I as American am a bit uncomfortable with the presupposition/insinuation that “us Americans” are helping the Japanese learn about Christianity somehow…
素晴らしいですね!!素晴らしすぎます✨
ただ‥とても気になった部分があります。
『バプテスマのヨハネが中立的な立場だった』という所です。
バプテスマのヨハネは、
下記のようにイエスのことを言い、人々がイエスをメシヤだと受け入れる道備えをした人物です。
『私はこの方(イエス)の靴の紐を解く値打ちもありません』
『見よ。世の罪を取り除く神の小羊』
イエスもヨハネを『預言者よりも優れた者』と呼ばれていましたし、ヨハネから水のバプテスマも受けられたんですよ😄
ちなみにバプテスマのヨハネとイエス・キリストは親類です(^^)
(ヨハネの母エリサベツと、イエスの母マリアが親類)
私もヨハネが中立的な立場だった(本当にメシア?)とは習わなかったので混乱しました。
やはり難しい…というか、何回か聴いて見れば少しずつですかね…学生の頃難しいと感じ、聖書離れしました。それだけ量も多く、深いという事ですね。
聖書に興味をもたれるというのは、あなたが主の御心に適った人間になりつつあるという事だと思います。
聖書が本当の歴史である可能性は充分にあると思います。
イエス・キリストが公生涯を送った2000年前は日本でいうところの弥生時代だそうです。
そんな昔の事なら本当かどうか分からないじゃないかと思われるかもしれませんが、イスラエルはエジプト、ギリシャ、ローマと文明を重ねて来た土地に囲まれていますので、イエスの弟子のマタイは通行税の取税人でしたし、「タラントンのたとえ」では当時イスラエルに銀行があった事がわかります。
日本はその頃弥生時代でも、イスラエルは当時それだけの国際都市だったわけですから、イエス・キリストが実在した事を記す聖書にも聖書以外の文献にも、正確に事実が連ねられている可能性は高いです。
旧約聖書の話の終わりから、新約聖書の始まりの話までおよそ400年の時間が経っていると考えられていますが、ちょうどその時期はアレキサンダー大王がそこら一帯の地域を征服していた時期です。
つまりイエス・キリストはアレキサンダー大王より、アリストテレスよりも後に生まれ、公生涯を送っています。
つまりイエス・キリストが実在したかどうかが正確な情報として残る事は充分に可能だったと前提しますと、
イエスの復活を目撃した人は当時500人ほど居たといいますが、彼らは命を奪われるような迫害にあっても、
「イエスは死から復活した、自分はそれをこの目で見た!」という主張を変えませんでした。
果たして人は嘘のために迫害されたり差別される事を受け入れるでしょうか?
イエス・キリストは新約聖書の中で旧約聖書を本当の歴史である前提で語られています。
イエス・キリストを信じるという事は旧約聖書も新約聖書も本当の歴史であると信じる事と同じです。
しかし信じるかどうかは、神が人間一人ひとりに自由意志を与えているので、当然自由です。
イエス様も弟子たちに福音を述べ伝えるよういいましたが、全ての人を説得して来いとはおっしゃいませんでした。
聖書が本当の歴史であれば、イエス・キリストが生まれてから2000年程の時が経っていて、旧約聖書の中ではは4,5千年余りの時間が経っていると考えられます。
アカデミックな教育では地球は47億年ほど存在しているといいますが、聖書的には地球はもっとずっと若く、一万年も経っていません。
本当に地球が47億年も存在しているか疑ってみるのもアリだと思います。
進化論など、色んな論理がありますが、結局のところ、アカデミックな教育も確たる根拠が存在するものではありません。
わたしは動物が時間の経過の中で環境に順応して多少進化する事はあると思います、しかし猿が人になるほどの種の変化はあり得ないと考えます。
猿は何億年経ってもおそらく猿のままでしょう。
であると仮定しますと、人間は初めから人間だった。
聖書が本当の歴史である可能性は充分にあります。
イエス・キリストを自分の救い主と信じれるようになるのは主だけが起こせる奇跡。
understand(理解する)とはstand- under下に立つ事です。
聖書を理解するには主(神)の下に立つ必要があります。
聖書がなんであるかを自分の賢さ、頭の良さで突き止めようとなさいますと主はなかなかあなたにお会いにならないかもしれません。
しかしあなたが主の下に立ち、一心に神を探し求められれば、主は必ずあなたにお会いになると思います。
イエス・キリストによる救いとは人間の「行い、業、術、技」による救いではありません。
もともと罪深い人間がちょっと善行を積んでも神の前に犯した罪のあがないにはなりません。
たとえるなら、私があなたに対して罪を犯したのに、わたしが「でもわたしはチャリティー活動もした事あるし善人です」と言い張ったところで、あなたからしたら「だからなに?あなたが私に対して犯した罪は罪のままだよ」とお思いになると思います。
神に対し犯した罪を人間には自分であがなう事はできない。
それ故に、主はそのひとり子、イエス・キリストに十字架を負わせ、人間の罪の罰の支払いを十字架上でイエスが引き受けました。主は、イエス・キリストを自分の救い主と認める者を「義」とするとお決めになりました。
イエス・キリストを自分の救い主とし、救われた者には永遠の命が約束されます。
「永遠の命」という話をすると、永遠になど生きたくないとおっしゃるかたは沢山います。それだけ生きる事は辛く苦しいものです。
しかし主と共に一切の苦しみが過ぎ去った神の御国(天国)で永遠を過ごすか、神と断絶したまま永遠の火の池で苦しむかの二択しかないと記されているのが聖書です。
神がいる場所が天国で、
神が居ない場所が地獄なら、
神と共に居たいか、いたくないかの二択です。
「死」には自動的に人を「神を愛する者、神に従う者」にする力はありません。
この地上生涯での時間は有限です。限りある人生の時間を主と共に過ごしたくなかった人が死んで永遠の時間を主と共に過ごしたいと思うでしょうか?
生きている間にあなたにも主のお導きがありますように。
二択と言えばイエス・キリストは御自身を神(神の子、神の言)だと言った誇大妄想狂だったか、本当に神だったかのいづれかです。
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Japan is a difficult country for evangelism, but God is still with you Japanese friends.
8分は長いかな、と思いましたが、仕方ないですね。(そもそも娯楽として観る必要はないですものね)
マタイ福音書の構成やメッセージが俯瞰して見えるので、「知識として知りたい」という方にもオススメできそうで安心しました。
日本でこのレベルのコンテンツが出るのは難しいので、応援したいです。
個人的には 0:13 〜 の言い方だと、どうしても「ソースは?」と思ってしまい、そこから心のシャッターが閉まってしまわないか、がちょっと心配です…
😍😍😍😍😍😍😍😍😍😍
素晴らしいまとめだと思います。
1−3章ですが、系図からなぜ、「これは彼が神の祝福を全世界に届けることを表しています。」と言うことになるのでしょうか?「これは長い歴史の中で信仰が継承され、キリストによって神の約束が成就することを表しています。と書いた方がいいのではないかと思います。
素晴らしいまとめです。ただ、バプテスマのヨハネが中立的というのはどうでしょうか。ヨハネ1:29では「見よ神の子羊」と宣言しているのですからね。マタイではメシアかどうか訪ねているので、初期の段階で中立的だったと判断するのはいいのですが、「本当にメシア?」と書くと懐疑的でどちらかというと否定的に感じます。ここは訪ねているのですから、中立的で「メシアですか?」とすべきだと思います。
The Lamb of God is Jesus!
👏👏
ありがとう!!
最高なスタートです!
これからも応援していきます!
広島の小さな教会からA GREAT BIG AMEN!
God Bless you all!!!!!
PS: いつか日本語版のポスターもプリントして教材として使いたいのですがサイトからいつかダウンロードできますか?
詳しく見ました。ありがとうございまーす。素晴らしく分かり易くて良かったネ。
私は耳が不自由です。
分かり易くて良かったネ。
💒神様主イエス イエス キリストこの何の罪もお置かしたことも無いイエス様をモーゼにたとえるのは、??
マタイさん、税金集めしてた方ですよね
キリスト教は無条件の愛なのですか?
無条件の愛ならば、なぜ自分と同じものを信じない人を愛さず見下すのですか?
無条件の愛ならば、なぜ献金や奉仕をする必要があるのですか?
なぜ、クリスチャンは毎週日曜礼拝に出ない信徒を愛さないのですか?
そもそも愛とはなんでしょう?真剣に伺いたいです。
壱
日々の神の御言葉「聖書について(3)」抜粋273
新約のマタイの福音書にはイエスの系図が記載されている。冒頭で、イエスはアブラハムおよびダビデの子孫、ヨセフの子だったと述べられている。次に、イエスは聖霊によって受胎され、処女から生まれたとある。すると、イエスはヨセフの子でもなければ、アブラハムおよびダビデの子孫でもないことになる。しかし、系図はイエスとヨセフのつながりを主張している。次に、系図はイエスが誕生した過程を記し始める。それによると、イエスは聖霊に受胎され、処女から生まれたのであり、ヨセフの子ではない。しかし系図には、イエスはヨセフの子であるとはっきり書かれており、また系図はイエスのために書かれているため、その記録は四十二世代に及ぶ。ヨセフの代になると、ヨセフはマリヤの夫であると手短に述べている。これらの記述は、イエスがアブラハムの子孫であることを証明するためになされたものである。これは矛盾ではないか。系図はヨセフの祖先を明確に列挙しており、それは確かにヨセフの系図なのだが、マタイは、それがイエスの系図だと主張している。そのことは、イエスが聖霊によって受胎された事実を否定するものではないのか。ゆえに、マタイによる系図は人間の考えではないのか。それは馬鹿げている。このようにして、この書がすべて聖霊に由来するわけではないことがわかる。おそらく、神には地上での系図が必要だと考えた人々がいて、その結果、イエスをアブラハムの四十二代目の子孫としたのではないか。これはまことに愚かなことだ。地上に到着した後、どうして神に系図があり得るのか。神に系図があると言うのなら、それは神を被造物と同列に置いているのではないか。神は地上の存在ではなく、創造の主であり、肉の体をもってはいても、本質において人間とは違うのだ。どうして神を被造物の同類として位置づけられるのか。アブラハムに神を表わすことはできない。彼はヤーウェによる当時の働きの対象であり、単にヤーウェの認める忠実なしもべでしかなく、イスラエルの民の一人だった。どうして彼がイエスの祖先であり得ようか。
誰がイエスの系図を書いたのか。イエス自身が書いたのか。イエスが自ら「わたしの系図を書きなさい」と言ったのか。これはイエスが十字架にかけられた後、マタイが記録したものである。当時、イエスは弟子たちには理解できない働きを数多く行なったが、何も説明していなかった。イエスが去った後、弟子たちは至るところで説教と働きを始め、その段階の働きのために、手紙と福音書を記し始めた。新約の福音書は、イエスが十字架にかけられてから二十年ないし三十年後に書かれたものである。それ以前、イスラエルの人々は旧約だけを読んでいた。つまり、恵みの時代の当初、人々は旧約を読んでいたのである。新約は恵みの時代にようやく現われる。イエスが働きを行なっていたとき、新約は存在しなかった。イエスが復活し、昇天した後になって、人々はイエスの働きを記録したのである。そこで初めて四福音書が生まれ、それに加えてパウロとペテロの手紙、そして黙示録が生まれた。イエスの昇天から三百年以上が過ぎたころ、後の世代がそれらの文書を選んで編纂し、そのとき初めて新約聖書が生まれた。この働きが完了してようやく新約が生まれたのであり、それ以前には存在しなかったのである。神がすべての働きを行ない、パウロとその他の使徒たちは各地の教会に宛てて数多くの手紙を記した。その後の人々が彼らの手紙を集め、神による終わりの日の働きを預言する、ヨハネがパトモス島で記録した最大の幻をそこに加えた。人々はこの順番にしたのだが、それは今日発せられる言葉と異なっている。今日記録されていることは、神の働きの諸段階に沿ったものである。人々が今日関わっているのは、神が自ら行なう働きであり、神が自ら発する言葉である。あなたがた人間が干渉する必要はない。霊から直接出るそれらの言葉は順を追って並べられており、人間の記録の配列とは異なっている。彼らが記録したものは、彼らの教養と人間としての素質の程度にしたがっていたと言えよう。彼らが記録したのは人間の経験だった。記録し、また認識するにあたって、人には自分なりの手段があり、一つひとつの記録は異なっていた。だから、聖書を神と崇めるなら、あなたは極めて無知で愚かだということになる。なぜ今日の神の働きを求めないのか。神の働きだけが人間を救える。聖書は人間を救えず、人々は数千年にわたって聖書を読んだかもしれないが、それでもなお彼らの中には少しの変化も見られない。そして聖書を崇めるなら、聖霊の働きを得ることは決してないだろう。
『言葉は肉において現れる』より引用
新約は非科学的だ。軌跡が多すぎる。
聖書に興味をもたれるというのは、あなたが主の御心に適った人間になりつつあるという事だと思います。
聖書が本当の歴史である可能性は充分にあると思います。
イエス・キリストが公生涯を送った2000年前は日本でいうところの弥生時代だそうです。
そんな昔の事なら本当かどうか分からないじゃないかと思われるかもしれませんが、イスラエルはエジプト、ギリシャ、ローマと文明を重ねて来た土地に囲まれていますので、イエスの弟子のマタイは通行税の取税人でしたし、「タラントンのたとえ」では当時イスラエルに銀行があった事がわかります。
日本はその頃弥生時代でも、イスラエルは当時それだけの国際都市だったわけですから、イエス・キリストが実在した事を記す聖書にも聖書以外の文献にも、正確に事実が連ねられている可能性は高いです。
旧約聖書の話の終わりから、新約聖書の始まりの話までおよそ400年の時間が経っていると考えられていますが、ちょうどその時期はアレキサンダー大王がそこら一帯の地域を征服していた時期です。
つまりイエス・キリストはアレキサンダー大王より、アリストテレスよりも後に生まれ、公生涯を送っています。
つまりイエス・キリストが実在したかどうかが正確な情報として残る事は充分に可能だったと前提しますと、
イエスの復活を目撃した人は当時500人ほど居たといいますが、彼らは命を奪われるような迫害にあっても、
「イエスは死から復活した、自分はそれをこの目で見た!」という主張を変えませんでした。
果たして人は嘘のために迫害されたり差別される事を受け入れるでしょうか?
イエス・キリストは新約聖書の中で旧約聖書を本当の歴史である前提で語られています。
イエス・キリストを信じるという事は旧約聖書も新約聖書も本当の歴史であると信じる事と同じです。
しかし信じるかどうかは、神が人間一人ひとりに自由意志を与えているので、当然自由です。
イエス様も弟子たちに福音を述べ伝えるよういいましたが、全ての人を説得して来いとはおっしゃいませんでした。
聖書が本当の歴史であれば、イエス・キリストが生まれてから2000年程の時が経っていて、旧約聖書の中ではは4,5千年余りの時間が経っていると考えられます。
アカデミックな教育では地球は47億年ほど存在しているといいますが、聖書的には地球はもっとずっと若く、一万年も経っていません。
本当に地球が47億年も存在しているか疑ってみるのもアリだと思います。
進化論など、色んな論理がありますが、結局のところ、アカデミックな教育も確たる根拠が存在するものではありません。
わたしは動物が時間の経過の中で環境に順応して多少進化する事はあると思います、しかし猿が人になるほどの種の変化はあり得ないと考えます。
猿は何億年経ってもおそらく猿のままでしょう。
であると仮定しますと、人間は初めから人間だった。
聖書が本当の歴史である可能性は充分にあります。
イエス・キリストを自分の救い主と信じれるようになるのは主だけが起こせる奇跡。
understand(理解する)とはstand- under下に立つ事です。
聖書を理解するには主(神)の下に立つ必要があります。
聖書がなんであるかを自分の賢さ、頭の良さで突き止めようとなさいますと主はなかなかあなたにお会いにならないかもしれません。
しかしあなたが主の下に立ち、一心に神を探し求められれば、主は必ずあなたにお会いになると思います。
イエス・キリストによる救いとは人間の「行い、業、術、技」による救いではありません。
もともと罪深い人間がちょっと善行を積んでも神の前に犯した罪のあがないにはなりません。
たとえるなら、私があなたに対して罪を犯したのに、わたしが「でもわたしはチャリティー活動もした事あるし善人です」と言い張ったところで、あなたからしたら「だからなに?あなたが私に対して犯した罪は罪のままだよ」とお思いになると思います。
神に対し犯した罪を人間には自分であがなう事はできない。
それ故に、主はそのひとり子、イエス・キリストに十字架を負わせ、人間の罪の罰の支払いを十字架上でイエスが引き受けました。主は、イエス・キリストを自分の救い主と認める者を「義」とするとお決めになりました。
イエス・キリストを自分の救い主とし、救われた者には永遠の命が約束されます。
「永遠の命」という話をすると、永遠になど生きたくないとおっしゃるかたは沢山います。それだけ生きる事は辛く苦しいものです。
しかし主と共に一切の苦しみが過ぎ去った神の御国(天国)で永遠を過ごすか、神と断絶したまま永遠の火の池で苦しむかの二択しかないと記されているのが聖書です。
神がいる場所が天国で、
神が居ない場所が地獄なら、
神と共に居たいか、いたくないかの二択です。
「死」には自動的に人を「神を愛する者、神に従う者」にする力はありません。
この地上生涯での時間は有限です。限りある人生の時間を主と共に過ごしたくなかった人が死んで永遠の時間を主と共に過ごしたいと思うでしょうか?
生きている間にあなたにも主のお導きがありますように。
二択と言えばイエス・キリストは御自身を神(神の子、神の言)だと言った誇大妄想狂だったか、本当に神だったかのいづれかです。
此処説明はとても良い仏教と瓜二つ
人間から卒業して成仏が目的、聖書は成神が目的、即ち、神仏の教えは同じ、だが残念な事に聖書は読めども意味に迷いたる。だから神仏の教えを昔から既に語って来たが、人間は未だに神仏の教えに気付かず、知らず。神仏の教えを信ずる事が出来ない間に、人間は神仏事態の教えを何千年も経て教えには気付く事が出来無く成ってしまい、現実は神仏の教えとは真逆の世界に成ってしまっている。だから人間は救われる事無し。何故ならば五濁悪世としてしまったからです。神仏の教えが何だろうかと真剣に一字一句吟味して読んで頂きたい。教えが解った時には、其の人は前代未聞の教えで有る事に気付く筈です。そう思わない内は仏典、聖書を何回も読もうとも教えには気付け無い状態。又、教えに気付きし者は繰り返し読む、何故ならば信じられない前代未聞の教え成るが故に、確認、確かめる為に又、読む、教えに確信を持ち信じられる様に成る、其の内に、宣教師、僧侶、学者等が神仏の教えを具体的に語ら無ければ、又、改めて読む。其の内に人間は何故文章を読んでも気付か無いのだろうと不思議に思う。小説なら読めば粗筋も内容も理解出来るのに何故と思ってしまう。私の様な欠点多い何処の馬の骨か解らぬ男が語った処で、飲み屋ならば出入り禁止に成るのが落ちである。本当に馬鹿馬鹿しいと思う有り様です。5時過ぎては宗教も省庁もやってはい無い。私から見れば世界の宗教はペテン師詐欺師に等しき存在です。世界統一教会を責めたとて、此の邪宗教と化したる現実を何とするや、只、信仰の自由などと言って野放しにしているから、こう言う事態に成るのです。目的と教義を吟味すれば解る事なのに、国に其の機関無し。国が無様過ぎます。子供を見れば親の程度が解る。親の程度を見れば子供の程度が解る。の喩えの如し。神仏を理解した人は、旧約聖書だけで十分です。其れでも理解する人がい無いので新約聖書が作られ、此でもか此でもか此だけ同じ事を文字を変え、言葉を変えて同じ事を何回と無くしつこく言っても未だ解ってはくれないのかい、情けないよ、涙がちょちょ切れるよ。の心境が伝わって来ます。親が馬鹿息子可愛さに一生懸命幸せに成って欲しいから毎日毎晩四六時中説教して来たのに、本当に親として情けないと言う心境が聖書を読んでいると目が潤む。福音書ですっかり肝心な事は書き尽くされている。此でも神の言う事を聞かなければ、此の様に成って此の様な事が起こってしまいますよ。と語っているのが、預言書、黙示録です。何千年経っても神仏の教えに逆らい続けているからこそ、現実は預言書、黙示録の如く道を人間は歩み続け自ら命をたつ。人間生まれ乍にして、罪人と言いたるは、此の様に成ってしまいますよと言う忠告なのに未だに聞かず。一人では幸せには成れ無いのです。皆が平等に幸せになり永遠の生命を授かる事が神仏儒の教えです。処が人間は皆さんも御存知の様に生まれ落ちたら1日1日死に向かっているだけなのです。生まれて来た意味が無いのです。金閣寺を焼き払った僧侶の事知っていますか、宗教に不信を抱いたからです。そして其の僧侶は人間は生きている意味が無いと迄言い放った、大した僧侶である、本人しか気付か無い事だと思います、私も同じ心境です。此の僧侶の事を題材にして、三島由紀夫と水上勉が小説を書いている。我々人間は死ぬ勇気が無いからもがいて生きているだけの様な気がする、そして早かれ遅かれ死を迎えて短い一生を苦労多くして楽しみ少ない人生を終えるのです、何千年も此の事を繰り返して来たのです。
数個のパンを何千人に分けるが、新約はでたらめだ。