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大好きなホツマツタヱのお話、ずーっと楽しみにしていました 💕美しい言葉が織り成す太古の物語、また次回も楽しみにしています❗
いつもありがとうございます‼️こうしてお声かけいたいだけると本当に嬉しいです😆次回はなるべくはやく更新できるよう、がんばります✨
おもしろすぎました!ありがとうございます🙇🏻♂️✨
ありがとうございます✨いつもコメントいただけてとても嬉しいです!次もがんばります!
スサノオノミコトの弁明をしてくださりありがとうございます。胸の閊えがとれました。清々しい想いです。スサノウの流れにあるのが蘇我氏であり、蘇我天皇が居たと思ってます。有間皇子『天知る地知る赤兄知る、吾(おのれ)全(もはら)解(し)らず』赤の文字は赤心・赤ちゃんの赤です。蘇我の赤兄は、有間皇子の本当の兄の様で、有間皇子を裏切らなかった。蘇我氏の無念、聖徳太子は蘇我馬子の皇子である。蘇我蝦夷と思います。 蘇我氏の鎮魂の動画もお願いします。
ありがとうございます!ソサノヲならびに出雲の方々の想いはいまでも脈々と受け継がれていると思います。こんなに素晴らしく、清らかな方の遺したものを、ぼくもすこしずつ拾い集めて、動画にしてゆけたらと思います。蘇我氏をはじめ鴨氏や秦氏や佐伯氏など、さまざまな氏族についてもいずれ動画にできたらと思っています。ありがとうございます!
すごい!!です。かぐつちについてまたお教えください
コメントありがとうございます。「ハタレの動乱」という動画をご覧いただけるとわかりやすいとは思いますがぼくはカグツチという存在もまた「ツチ」の名から船や海に関わる一族だったと考えていまして出雲の大山にゆかりがあると思っています。天神七代のうち6代目にあたるオモタル・カシコネ夫婦は世継ぎのないままになくなってしまったので本家は途絶えてしまいました。そこで分家同士を結んで7代目となったのがイサナギ・イサナミといわれています。しかし、オモタルは実は別の女性とのあいだに子をもうけていたのではないか?それがカグツチというのではないか?という考察です。これはホツマツタヱにも載っていないあくまで個人的な考察ですが、とても気に入っている考え方です。
面白かったです!! 特に26:01~のNAVI彦さんの考察!!納得できました。 秋田の潟上市に天王グリーンランドという道の駅があります。その道の駅の愛称は 夢と神話の里 天王グリーンランドです。その広い敷地内に八坂伝承館があります。先日そこに行き 伝承されてきた八坂祭りの動画をみたのですが物々しいそのお姿、悲しい顔、に とても気持ちが持って行かれていました。 どうしてそんな悲し気な顔をされているのかと。NAVI彦さんの考察だと 腑に落ちます。真実を私たちに知って欲しかったのかもしれません。素晴らしい動画、考察をありがとうございます!今日のライオンズゲート最大に開かれる日にふさわしい叡智・メッセージ動画でありました!
わぁ✨ありがとうございます‼️八坂神社と牛頭天王ですね!いずれソサノヲと祇園信仰の関係も動画にできたらとおもっています!ぐっと堪えてきた一族の思いをすこしでも伝えることができたのなら、本当に幸いなことです!ライオンズゲートの巡り合いにも感謝です!ありがとうございます!
秀真伝は恐らく記紀の元になった古伝だと思ひます。尚、出雲の建国神話にも記紀とは異なる古文書が有って、それは『富家文書』と言はれ、出雲市内の図書館に収蔵されてゐます。出雲大社の社家は千家氏と北島氏で、本来は両家一代毎に交代で宮司職に就く取り決めでしたが、幕末期から北島氏は衰微凋落し、現在では千家氏のみが宮司職に就いてゐます。ちなみに千家氏が代表を世襲する団体が出雲大社教(教派神道系)で、北島氏が代表を世襲する団体が出雲教(神社神道系)です。それで現在、出雲大社大宮司を兼ねる千家氏が出雲国造ですが、北島氏も北島国造館で出雲国造を名乗ってをり、全国で出雲のみ国造が二人居る(笑)。尚、北島氏の次男は行く宛が無く現在は長野県の諏訪大社で禰宜職として奉務してます。千家氏・北島氏の両家が国造筋(こくそうすじ)で、富家が財筋(たからすじ)と言はれます。
『富家文書』の内容は、ホツマ以上にぶっ飛んでいて、出雲の統治権は天皇家から謀略で簒奪された流れになっています。当然ですが、記紀に見はれるような平和的な所謂「国譲り」とはなっていません。尚、『富家文書』に記載された天皇家の苗字は奈良時代末期まで天皇家が名乗っていた氏姓である休氏(やすみしし)又は休家(やすみしけ)になっています。ちなみに現在も富家が守る神社が出雲大社の近辺に在って、出雲大社々務所で聞けば、それ迄にこやかだった態度を極めて不愛想に急変させ(笑)所在地を教えてくれます。
ぼくもソサノヲ伝承に関しては、ホツマツタヱでも隠匿されている気がしています。富家文章には、反乱軍とされてしまった方々の言い分が残されているのかもしれませんね!出雲参拝では北島家のほうがしずかで落ち着きます☺️
@@navihico様へ…旧知の社家当主に出雲大社教の神主さんが長野県佐久市に居ますが、たまに(信州)諏訪大社へ助勤に行っても北島家の禰宜さんからは「てんで無視されて口も聞いてくれない」そうです(笑)。千家氏と北島氏も元は同じ國造筋だった筈で、いやはや…何とも残念です。但し、出雲大社の正式な神札大麻を頒布する権利は千家氏が独占しているらしく、北島国造館が頒布している大麻の表書きは「出雲大社」ではなく「出雲大神」と表記して有るそうです。その辺は北島氏側から衝突を避けている様子です。
ながらく続いてゆけば、さまざまな行き違いもあるのでしょうかね、当事者ではないのでなんともいえませんね😅
若い研究者頼もしいです日本も,捨てたものじゃないです
コメントありがとうございます!そういっていただけて、とても嬉しいです。励みになります!まだまだがんばります!
先生、私の所は根の国に当たる場所で近所の神社の祭神さまスサノオが沢山あります。近畿や岡山に四国に出雲の島根や鳥取の地は、歴史が動きまくった土地で暮らすと楽しそうですね。根の国に当たる場所は厳しかった冬乗り越えて夏祭りは盛大にしますが、終わったら静かになり秋が直ぐ来ますし、あっと言う間に冬です
ありがとうございます。根の国とは、北の国であり、冬の国の意味もありますから、納得してしまいました😳
しかし、私達の地元でする曳き山祭りあって港祭りとも呼ばれています。各町内が山車を出して、そこに勇ましい勇壮な武者人形を乗せて曳き歩きます、町内練り歩きます、人形は神の化身で町内の災厄を取り除く祭りで、秋田に佐竹大名が来てから始まった祭りが有ります。最終日は南から北に向けて各町内が出した山車20台くらいが集まり北に向け出発し神の足台と言われる所に結集し、真夜中かけて各町内に帰り山車の化身とされる人形は朝にはすっかり取り除ぞかれます。冬は寒いですが夏祭りを人々は、お正月より大事にして、都会に出た若者達が生まれ故郷に帰って喜び会ってます
お祭りのなかには、たくさんの重要な歴史が残されていますので、とても興味深いです!ありがとうございます!
先生。山車の人形らは歴史の一場面を切り取った物でして、ねぶた祭りの武者の目が鋭い目付きですね。あれより丸くグリット鋭い目付きです子供の頃は怖くて怖くて泣きました。源平合戦のいろんな場面や、また赤穂浪士の討ち入りやなど三体を乗せて、お囃子もあります。ホツママツタエとは関係ない事ですが地元の夏祭りです
そして、木曾義仲と巴御前が馬に乗りナギナタを上から下に振りかざす見出しありましたが神功皇后の三韓征伐が思い起こされます。勇壮なものです
私自身がスサノオノミコトの内的論理を理解しやすく感じるほうだからかもしれませんが、スサノオノミコトの人望が厚いと感じることが多いです。そういえば、奈良で散策中、木花咲耶姫とスサノオだけを祀る小さな神社の前をいくつも通りがかって、なんとなく不思議に思った記憶がありました。
ありがとうございます✨スサノオ(ソサノヲ)さん、とても人情味あふれるかたで、ぼくも大好きなかたです。メインストーリーのひとつのようにも感じます!サクヤヒメさまとペアで祀られていましたか?それは気になりますね!ご祭神には地域性などもあるので、時代は違えどもおふたりにゆかりがある土地なのかもしれませんね!
@@navihico スサノオの人望の厚さを深く感じたエピソードをひとつシェアすると『スサノオ~愛の神~』という歌の存在と、それがどんなふうにして降りてきたかを読んで知った時ですネ。木花咲耶姫とスサノオだけを祀る小さな神社のほうは、奈良県天理市の大和(おおやまと)神社という所から出発して歩き回った時のことだった気がします🤔大和神社も、よくわからない重大な空白に気づかされたような感じ、という意味で大きな謎が心に残った神社でしたし、それゆえ木花咲耶姫とスサノオの組み合わせの小さな神社をひょっこり見つけると妙に落ち着きました🙂
@@annkaneyama1168 「スサノオ〜愛の歌」はじめて知りました!聞いてみます!大和神社のご祭神も、ホツマツタヱからわかるようですね!お話をうかがっているとぼくもまた奈良のあたりをのんびり歩いて神社史跡めぐりをしたくなりました!ありがとうございます✨
ソサノヲについて、詳しく解説してくださりありがとうございます。わたしの好奇心は、記紀やホツマのように、文献で残されたものが、何故このように描かれたのか…何故こんな磐座が造られているのか…何故この神さまがお祀りされているのか…何故こんな伝承が残されているのか…何故このようなものが出土するのか…物語や伝承という手にとって触れらない心に伝えてゆくものと、磐座や遺跡からの出土品など、物質として目の前に現れるいにしえ人が触れていたモノが語ること。その両方が合致したのが、出雲王家に伝わる口伝でした。これを読んだときの衝撃は、言葉では言い表せません。正に、パラレルワールドです。今まで、禅問答のように、よく分からなかった古事記の記述が、何を意味しているのかスルスルと解けて行きました。ホツマは一体何が伝えたいのだろう…誰が何のために、この文献を遺したのだろう…ホツマの心が知りたいと思って、ナビ彦さんの発信をお聴きしています。大切に大切に解説してくださり、ありがとうございます。いにしえ人の伝えたいことが、必ずあるはずなのです。何度も聴き直したい動画です。ちなみに、出雲王家の口伝は、神話ではなく、実際の人間が培って来た、出雲王国の歴史です。東西の2つの王家が交代で主王と副王を出し合い、主王が大名持という役職名で、副王を少名彦と呼びました。大穴牟遅・大巳貴命と記紀に書かれるのは、この大名持と言う役職名からとったようです。歴代17人の大名持がおり、古事記にも出雲の神の系図として、記述されています。そして、驚くことに、出雲王家の伝承には、スサノヲは登場しないのです。弥生時代になり、大陸から多くの人たちが渡来し、生活様式がガラっと変わったのは、沢山の遺跡からの様子が物語っています。出雲口伝では、皇室の祖は徐福であると伝えられており、徐福が到来してから、出雲王国とどのように関わってきたのか、事細かに伝えられています。大陸から新しい価値観と文化を持って来た勢力との同居は、良いこともありますが、当然、摩擦もありました。徐福の良い面は天照として描かれ、負の部分を請け負ったのが、スサノヲだったように思われます。口伝でも、徐福族の悪行をスサノヲの行いとして記したのだろうと言われています。古事記で足名椎にスサノヲが贈った名は、須賀之八耳といいますが、これは初代出雲王の名前であり、その妃が稲田姫でした。実際には、徐福は第8代大名持の八千矛王(大国主)の娘を妃としており、徐福がスサノヲだとすれば、大国主の婿になったということですが、スサノヲが出雲の王であるという設定にするために、初代出雲皇后に当たる稲田姫との逸話が作られたのだろうと想像します。出雲国一之宮は熊野大社ですが、ここの熊野山の磐座には、歴代の東出雲王家の当主が埋葬されています。麓に熊野大社ができるまでは、中腹にある斎場で拝んでいたといいます。『熊野』という言葉は、イズモ族にとって、とても重要であったと想像できます。正史では、天孫族に国譲りをし、ホツマでは、ハタレとして征伐されたように描かれているような出雲ですが、伝承を読むと、ウケヒの連続で、実際には出雲も皇室を担う立派な一員であったことが分かります。むしろ、ホツマを書いたとされるクシヒカタこそが、ヤマト政権の実質上の創設者であることが理解できます。(クシヒカタは東出雲王家の王子です。)いまのところ、わたしの感覚では、スサノヲとは日本がひとつにまとまるために、歴史の負の部分を背負い、民族融合の役割を請け負ったキャラクターであったのかな…と感じています。これは、ヤマトタケルに対しても、同じように感じています。わたしはホツマを偽書だとは思いません。記紀も実際にあった出来事が記述してあるわけではなく、全てが暗号のような逸話にして記してあります。ホツマもおそらくそのように作られており、事実でないことを指して、だから偽書であると言うなら、記紀も偽書に他なりません。でも、記紀には、伝えたいメッセージが脈々と流れていることが出雲口伝を読んで理解できました。ホツマのメッセージもぜひ感じたいと思い、ナビ彦さんの発信をとても楽しみにしています。ありがとうございます💓
ありがとうございます。出雲口伝のおはなしはいつもとても興味深いです。出雲にゆかりのある方々がそれらを大事にされていることからも記述として残されなかった「歴史」について思いを馳せてしまいます。わたしも、記紀やホツマは暗号文だと感じています。また、ホツマツタヱはソサノヲやオホナムチの子孫が書き残したといわれていますのでときの朝廷に沿うような文章のなかにじぶんたちの氏族の歴史を巧みに織り込んだということも考えられると思っています。そうした部分をこれからも動画やブログで解説できたらと切に願っています!
@@navihico さまありがとうございます♪記紀が人間の歴史として、そのままの事実を並べていないのは、大陸の歴史のように、新しい部族がやって来て、以前の王朝を滅ぼし、支配者と被支配者に分かれ、統治していったのではなく、ウケヒの連続で、白黒はっきり分かれることなく、渦をグルグル🍥巻くように混ざりあい、全て親族になってしまった豪族たちの先祖の業績をどう描くかで、随分苦労があったと思います。本来のイズモ族から言えば、スサノヲと歴史書に記された存在は、天孫族が出雲制覇のために作り出した存在で、現在、ほとんどの日本人が、スサノヲを出雲の代表と感じているのは、とても不本意なのかも🦆知れません。スサノヲこそが、天孫族の代表であり、出雲の歴史を隠すオブラートになっているからです。しかし、そのことによって、上手く融合していった部分もあり、なおかつ、新しくできた神話のもとに、新しい伝承が生まれてゆき、人々がその上で生活を営んで来たことも事実です。現在の出雲に住んでいらっしゃる方でも、記紀の価値観で生きています。氷川神社は出雲を代表する神社です。スサノヲという存在を受け入れることで、本来の神と信仰をその陰に隠してお祀りしてゆきます。善か悪か…敵か味方か…白か黒か…そういう二元論では成り立っておらず、そこが難しいところでもあり、美しいところでもあります。歴史が捏造されたとか、封印されたとおっしゃる意見が多々言われますが、物事には原因があって、その結果、こういう状態になっているだけです。その因果関係が分かると、あゝなるようになっただけなのだ…と、宇宙の法則に包まれているような、ありがたさに包まれます。色んな伝承が、色んな思いで作られ、それが重なりあって、大きな錦絵を描いていると思います。その関わりあいを感じ、見えなかったものが浮き出てくる状態は、快感であり、喜びでもあります。先人たちの生きた証を感じられるからです。わたしはイズモ族もとても愛おしく思いますが、スサノヲも大好きです。全ての中心に位置し、太極を飲み込み、新しいものを生み出すチカラを感じています。ホツマでのソサノヲも生き生きと描かれていることに、とても嬉しく思います。発信ありがとうございます💓
@@navihico さま『出雲八重垣』のお歌について、出雲王家の伝承では、本来は、『出雲八重書き』と言って、出雲王国の法律や規則の条文だったと言われています。八重とは、数が多いと言う意味です。出雲王国では、春分・秋分と年2回正月があり、各地から部族が集まり、皆でサイノカミをお祀りする大祭が開かれました。それを『マツリゴト』と言います。その行事のひとつに、法律や規則を決まる寄り合い(会議)があり、その会議で決まった規則により、領土が統治されていました。会議で決まられた条文は、ユウと呼ばれる樹皮紙に記録され、各地に持ち帰られたと伝えられています。つまり、その条文が『八重書き』だったと言うことです。出雲王国内で暮らすならば、この八重書きを守ることが条件でした。スサノヲ(徐福)がやって来たときも、この条件を出したはずです。イズモ族はこの八重書きを大変誇りに思っており、イズモ兵の末裔である出雲散家(さんか)の厳しい掟も、『ヤエガキ』と呼ばれています。本来、イズモ族が作った歌で、スサノヲとは無関係ですが、この歌の重要性とスサノヲの支配を重ね、スサノヲが創った歌として後世に遺したのかも🦆知れません。サイノカミは男女の交わりで全てが生まれると言う、森羅万象のことはりをそこに見る信仰です。大祭では、神と人との融合とともに、男女の融合として、各部族の縁談も重要事項でした。出雲王国とは、この同じ神を一緒にお祭りし、婚姻を通して血縁関係を結び、同じ信仰をともにする共同体として機能していました。男女のむすびが一番大切なことだったようです。それが『歌』で表現され、後の世まで、日本の文化として伝わってゆきます。ホツマが五七調のウタで書かれているのも、『八重書き』をスサノヲの妻に対する愛の歌として残したのも、サイノカミの影響が見え隠れしているような気がします。
@@mayumi3300 ご返信ありがとうございます。『八重書き』とても興味深いです!やはり、各地にはそれぞれの氏族・民族ごとに異なる法制度があったのでしょうね。『サイノカミ』による男女のむすびはホツマツタヱにも通じているようですね。男女の関係は経糸緯糸であらわされていまして「ハタ」というのは機織りや布のことだけでなく法律や書物のことでもあるようです。地方や異国の神や信仰が溶け合い混じりあい現在の日本の姿になっているということにわたしもときめきを感じています。
@@navihico さまアヤは日本文化の根幹ですよね❣️
いつも楽しく拝見しています。わかりやすくてかつコンパクトの全体像が分かりとても参考になります。ただ、ぜひお願いしたいのは、これらのお話が、ホツマツタヱの何アヤに書かれているのかをどこかに記していただけると、確認するのに役立ちます。ぜひお願いしたいです。
コメントありがとうございます!今後なるべく注釈をつけられたらと思います。ただ、ソサノヲに関していいますと出生については3・5アヤメインは7・8・9アヤ後日談のようなものが28アヤヤマトタケへの転生については40アヤといったところでしょうか!ご参考になりましたら幸いです。
@@navihico さん、ありがとうございました。あちこちにいろいろ書かれているのをまとめていく大変さ、よくわかりますので、勝手なお願いをしてしまいましたが、ものすごくうれしいです。本当にありがとうございました。ヲシテ文字、何とか読めるようになったところですが、まだ前半です。これからも楽しみにしています。
@@mayok1218 ホツマツタヱは順番に読むだけでも充分に面白いのですが、登場人物ごと追いかけてみると、より理解が深まるというのもすごく面白いです。ご探求のきっかけになれればとおもいます。どうぞよろしくお願いいたします!
こんな時、祖父の死亡は痛かったですね。老齢の身で知恵を最大に発揮して天照さまの政権支えた、官房長官が残念です。政務に忙しい天照さまの瀬織津姫さまがスサノオを刑法の執行する前に、いろんな対処策立てて暮れたのに立ち帰らないで、朝廷反乱軍に傾くスサノオにも、立ち帰るきっかけあってイナダヒメに惚れて良かったですね、八マタの大蛇とは大蛇ではなく魂が汚れ果てた反乱軍の軍勢ハタレ軍達か?引きずる悪党いますね天照の弟の看板あスサノオの利用する奴らの武具が草薙の剣ですね。いろいろまだ物語展開しますね。
ありがとうございます!このあたりは物語が複雑に絡み合っているので、とても面白いです。ドラマにもなるような濃厚さがあります!
ヤマタの大蛇でしたね。ネの国と言われる出雲は東北より躍動する力ありますね。
ホツマツタエ、、、未だ偽書扱いなのでしょうか。とても美しく、日本語元来の言霊を含んだ言語に聞こえてなりません描いた情景が目に浮かぶような情緒を感じますね。不思議です
コメントありがとうございます。一般的には、いまだ偽書扱いのようですが研究者や愛好家のかたがたの日々の努力や研さんもあって認知はすこしずつひろがっているようです。それに、「古事記」でさえ偽書説があったので「ホツマツタヱ」もいずれ認められればと思っています。ぼくとしても、ホツマツタヱに描かれている日本語の美しさや神々の生き様や情緒などの物語性はどれも見事で心打つものだと感じていますので偽書かどうかよりも作品として本物だという観点からホツマツタヱをひろめてゆきたいです。
竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘の小戸の阿波岐原で三貴神が生まれてます。九州の宮崎ではありません。阿波で生まれてます。筑紫(ちくし)の日向(ひゅうが)ではありません。日が東に尽きる所の橘湾の小戸の阿波の海の平野で生まれてますよ。秀真伝(ホツマツタエ)の秀真は阿波です。つまり阿波伝と記載がありアワウタも阿波です。須佐の男も阿波です。古事記は阿波古事記です。宇佐神宮は後世725年創建ですのでこの時代には宇佐神宮はありません。また、出雲は島根ではありません。阿波の伊津面(いづも)神話で伊津面神話で出てくる神様の延喜式神社が伊津面にたくさんあります。
コメントありがとうございます!こちらは『ホツマツタヱ』の記述にそって話をさせていただくチャンネルなのですがぼく個人としては阿波国やイの国の話も興味のあるところで否定はしておりません。ホツマツタヱでも四国はかつて「ソアサ国」ともよばれていたようで「ソサノヲ」とも音の響きは似ているなと思ってはいました。もちろん余談です。また、阿波岐原についてはツキヨミ動画をごらんいただけるとホツマツタヱ的な立場をおわかりいただけると思います。宇佐神宮にしても奥宮は御許山にある大元神社の巨石信仰だそうで創建年というのはあくまで社殿が築造され祭祀がはじまったと資料でさかのぼれる年代ということのようですね。
大変素晴らしい見識ですね。
@@ユタカカワバタ ホツマツタエの解釈もおかしいのがあります。アワミヤがなぜか滋賀になってますが、アワミヤは阿波宮で徳島県美馬市に倭京跡があり近くには倭大国魂神社(延喜式式内社、日本1社)があり、アワミヤは阿波宮の事です。また、滋賀には近江大津宮がありますが、原文の淡海大津宮は阿波にあります。
@@navihico 大元神社は八幡大神が欽明天皇期(西暦500~570年の間)に降臨したと記されてます。つまり、神功皇后、応神天皇の活躍した西暦300年代よりも後の時代に宇佐が開けた事になります。普通は先祖を祭るのですがこれなら子孫を祭る形になりますよ。
ところで古代日本語の音韻で、阿波は「あふぁ」又は「あぱ」と発音した筈で、決して現代風の「あわ」では無かった事は歴史的語学研究から既に40年前には判明しています。現代語の「あわ」は千葉県房総半島南部ですが、似た地名になった理由は四国忌部氏が、かなり後世(と言っても奈良時代初期)、紀伊半島南部と房総半島南部に移住した事が原因らしい。ちなみに忌部氏・斎部氏は海部氏・安曇野氏や安住氏と同じ海洋民氏族で、船津氏と家祖が同じだそう。余談ですが現在の本庁系神道では祝詞の「海川山野」を「うみかわやま(ぬ)」と発音してますが、古代語研究の結果それは間違いで、やはり「うみかわやまの」が正しい訓み方になるとの事です。
なぜか気になりちょうど7日に丹波の出雲大神宮に参拝してきたところです。御神体山として国常立尊の磐座もありました。今回のお話しともちょっと繋がっている気がするなぁと思って見てました。玉置神社も国常立尊ですよねーホツマツタエから見る大祓詞めちゃ楽しみです!
コメントありがとうございます!出雲大神宮さんも、とても素敵な神社さんですよね、ぼくも大好きです!国常立尊の磐座も、とても重要なものだと感じています。また、亀岡の出雲大神宮と、愛宕山の愛宕神社と、京都の上賀茂神社は一直線に並んでいるらしく、出雲氏・秦氏・鴨氏の密接な関係がみえるようでとても面白いです。次の、大祓詞もがんばります!
失礼な事沢山話し、申し訳ありませんでした。
ありがとうございます。たくさんのコメントをいただいているのですが、すべてにお返しすることはできませんので、どうかご容赦くださいませ。
先生、沢山の人々が関心持って先生とコメントが増え証拠です。私の様な噛りと違って、その舞台となった土地の人々や神社があって疑問を持つ人々の濃い内容ですから大変と思います。嬉しい事です。😊🤗年齢層は若い人々も増して来ます。健康第一ですからね❗️先生
大好きなホツマツタヱのお話、ずーっと楽しみにしていました 💕
美しい言葉が織り成す太古の物語、また次回も楽しみにしています❗
いつもありがとうございます‼️
こうしてお声かけいたいだけると本当に嬉しいです😆次回はなるべくはやく更新できるよう、がんばります✨
おもしろすぎました!
ありがとうございます🙇🏻♂️✨
ありがとうございます✨
いつもコメントいただけてとても嬉しいです!
次もがんばります!
スサノオノミコトの弁明をしてくださりありがとうございます。
胸の閊えがとれました。
清々しい想いです。
スサノウの流れにあるのが蘇我氏であり、蘇我天皇が居たと思ってます。
有間皇子
『天知る地知る赤兄知る、吾(おのれ)全(もはら)解(し)らず』
赤の文字は赤心・赤ちゃんの赤です。
蘇我の赤兄は、有間皇子の本当の兄の様で、有間皇子を裏切らなかった。
蘇我氏の無念、聖徳太子は蘇我馬子の皇子である。
蘇我蝦夷と思います。
蘇我氏の鎮魂の動画もお願いします。
ありがとうございます!
ソサノヲならびに出雲の方々の想いはいまでも脈々と受け継がれていると思います。
こんなに素晴らしく、清らかな方の遺したものを、ぼくもすこしずつ拾い集めて、動画にしてゆけたらと思います。蘇我氏をはじめ鴨氏や秦氏や佐伯氏など、さまざまな氏族についてもいずれ動画にできたらと思っています。
ありがとうございます!
すごい!!です。かぐつちについてまたお教えください
コメントありがとうございます。
「ハタレの動乱」という動画を
ご覧いただけるとわかりやすいとは思いますが
ぼくはカグツチという存在もまた「ツチ」の名から
船や海に関わる一族だったと考えていまして
出雲の大山にゆかりがあると思っています。
天神七代のうち6代目にあたる
オモタル・カシコネ夫婦は
世継ぎのないままになくなってしまったので
本家は途絶えてしまいました。
そこで分家同士を結んで7代目となったのが
イサナギ・イサナミといわれています。
しかし、オモタルは実は
別の女性とのあいだに子をもうけていたのではないか?
それがカグツチというのではないか?という考察です。
これはホツマツタヱにも載っていない
あくまで個人的な考察ですが、とても気に入っている考え方です。
面白かったです!! 特に26:01~のNAVI彦さんの考察!!
納得できました。 秋田の潟上市に天王グリーンランドという道の駅があります。
その道の駅の愛称は 夢と神話の里 天王グリーンランドです。
その広い敷地内に八坂伝承館があります。
先日そこに行き 伝承されてきた八坂祭りの動画をみたのですが
物々しいそのお姿、悲しい顔、に とても気持ちが持って行かれていました。
どうしてそんな悲し気な顔をされているのかと。
NAVI彦さんの考察だと 腑に落ちます。
真実を私たちに知って欲しかったのかもしれません。
素晴らしい動画、考察をありがとうございます!
今日のライオンズゲート最大に開かれる日にふさわしい叡智・メッセージ動画でありました!
わぁ✨ありがとうございます‼️
八坂神社と牛頭天王ですね!いずれソサノヲと祇園信仰の関係も動画にできたらとおもっています!ぐっと堪えてきた一族の思いをすこしでも伝えることができたのなら、本当に幸いなことです!
ライオンズゲートの巡り合いにも感謝です!
ありがとうございます!
秀真伝は恐らく記紀の元になった古伝だと思ひます。
尚、出雲の建国神話にも記紀とは異なる古文書が有って、それは『富家文書』と言はれ、出雲市内の図書館に収蔵されてゐます。
出雲大社の社家は千家氏と北島氏で、本来は両家一代毎に交代で宮司職に就く取り決めでしたが、幕末期から北島氏は衰微凋落し、現在では千家氏のみが宮司職に就いてゐます。
ちなみに千家氏が代表を世襲する団体が出雲大社教(教派神道系)で、北島氏が代表を世襲する団体が出雲教(神社神道系)です。
それで現在、出雲大社大宮司を兼ねる千家氏が出雲国造ですが、北島氏も北島国造館で出雲国造を名乗ってをり、全国で出雲のみ国造が二人居る(笑)。
尚、北島氏の次男は行く宛が無く現在は長野県の諏訪大社で禰宜職として奉務してます。千家氏・北島氏の両家が国造筋(こくそうすじ)で、富家が財筋(たからすじ)と言はれます。
『富家文書』の内容は、ホツマ以上にぶっ飛んでいて、出雲の統治権は天皇家から謀略で簒奪された流れになっています。
当然ですが、記紀に見はれるような平和的な所謂「国譲り」とはなっていません。
尚、『富家文書』に記載された天皇家の苗字は奈良時代末期まで天皇家が名乗っていた氏姓である休氏(やすみしし)又は休家(やすみしけ)になっています。
ちなみに現在も富家が守る神社が出雲大社の近辺に在って、出雲大社々務所で聞けば、それ迄にこやかだった態度を極めて不愛想に急変させ(笑)所在地を教えてくれます。
ぼくもソサノヲ伝承に関しては、ホツマツタヱでも隠匿されている気がしています。
富家文章には、反乱軍とされてしまった方々の言い分が残されているのかもしれませんね!
出雲参拝では北島家のほうがしずかで落ち着きます☺️
@@navihico様へ…
旧知の社家当主に出雲大社教の神主さんが長野県佐久市に居ますが、たまに(信州)諏訪大社へ助勤に行っても北島家の禰宜さんからは「てんで無視されて口も聞いてくれない」そうです(笑)。
千家氏と北島氏も元は同じ國造筋だった筈で、いやはや…何とも残念です。
但し、出雲大社の正式な神札大麻を頒布する権利は千家氏が独占しているらしく、北島国造館が頒布している大麻の表書きは「出雲大社」ではなく「出雲大神」と表記して有るそうです。
その辺は北島氏側から衝突を避けている様子です。
ながらく続いてゆけば、さまざまな行き違いもあるのでしょうかね、当事者ではないのでなんともいえませんね😅
若い研究者頼もしいです
日本も,捨てたものじゃないです
コメントありがとうございます!
そういっていただけて、とても嬉しいです。
励みになります!
まだまだがんばります!
先生、私の所は根の国に当たる場所で近所の神社の祭神さまスサノオが沢山あります。近畿や岡山に四国に出雲の島根や鳥取の地は、歴史が動きまくった土地で暮らすと楽しそうですね。根の国に当たる場所は厳しかった冬乗り越えて夏祭りは盛大にしますが、終わったら静かになり秋が直ぐ来ますし、あっと言う間に冬です
ありがとうございます。
根の国とは、北の国であり、冬の国の意味もありますから、納得してしまいました😳
しかし、私達の地元でする
曳き山祭りあって港祭りとも呼ばれています。各町内が山車を出して、そこに勇ましい勇壮な武者人形を乗せて曳き歩きます、町内練り歩きます、人形は神の化身で町内の災厄を取り除く祭りで、秋田に佐竹大名が来てから始まった祭りが有ります。
最終日は南から北に向けて各町内が出した山車20台くらいが集まり北に向け出発し神の足台と言われる所に結集し、真夜中かけて各町内に帰り
山車の化身とされる人形は朝にはすっかり取り除ぞかれます。冬は寒いですが夏祭りを人々は、お正月より大事にして、都会に出た若者達が生まれ故郷に帰って喜び会ってます
お祭りのなかには、たくさんの重要な歴史が残されていますので、とても興味深いです!
ありがとうございます!
先生。山車の人形らは歴史の一場面を切り取った物でして、ねぶた祭りの武者の目が鋭い目付きですね。あれより丸くグリット鋭い目付きです
子供の頃は怖くて怖くて泣きました。源平合戦のいろんな場面や、また赤穂浪士の討ち入りやなど三体を乗せて、お囃子もあります。
ホツママツタエとは関係ない事ですが地元の夏祭りです
そして、木曾義仲と巴御前が馬に乗りナギナタを上から下に振りかざす見出しありましたが神功皇后の三韓征伐が思い起こされます。勇壮なものです
私自身がスサノオノミコトの内的論理を理解しやすく感じるほうだからかもしれませんが、スサノオノミコトの人望が厚いと感じることが多いです。
そういえば、奈良で散策中、木花咲耶姫とスサノオだけを祀る小さな神社の前をいくつも通りがかって、なんとなく不思議に思った記憶がありました。
ありがとうございます✨
スサノオ(ソサノヲ)さん、とても人情味あふれるかたで、ぼくも大好きなかたです。メインストーリーのひとつのようにも感じます!
サクヤヒメさまとペアで祀られていましたか?
それは気になりますね!
ご祭神には地域性などもあるので、
時代は違えどもおふたりにゆかりがある土地なのかもしれませんね!
@@navihico
スサノオの人望の厚さを深く感じたエピソードをひとつシェアすると『スサノオ~愛の神~』という歌の存在と、それがどんなふうにして降りてきたかを読んで知った時ですネ。
木花咲耶姫とスサノオだけを祀る小さな神社のほうは、奈良県天理市の大和(おおやまと)神社という所から出発して歩き回った時のことだった気がします🤔大和神社も、よくわからない重大な空白に気づかされたような感じ、という意味で大きな謎が心に残った神社でしたし、それゆえ木花咲耶姫とスサノオの組み合わせの小さな神社をひょっこり見つけると妙に落ち着きました🙂
@@annkaneyama1168
「スサノオ〜愛の歌」はじめて知りました!
聞いてみます!
大和神社のご祭神も、
ホツマツタヱからわかるようですね!
お話をうかがっているとぼくもまた奈良のあたりをのんびり歩いて神社史跡めぐりをしたくなりました!
ありがとうございます✨
ソサノヲについて、
詳しく解説してくださり
ありがとうございます。
わたしの好奇心は、
記紀やホツマのように、
文献で残されたものが、
何故このように描かれたのか…
何故こんな磐座が造られているのか…
何故この神さまがお祀りされているのか…
何故こんな伝承が残されているのか…
何故このようなものが出土するのか…
物語や伝承という
手にとって触れらない
心に伝えてゆくものと、
磐座や遺跡からの出土品など、
物質として目の前に現れる
いにしえ人が触れていたモノが語ること。
その両方が合致したのが、
出雲王家に伝わる口伝でした。
これを読んだときの衝撃は、
言葉では言い表せません。
正に、パラレルワールドです。
今まで、禅問答のように、
よく分からなかった古事記の記述が、
何を意味しているのか
スルスルと解けて行きました。
ホツマは一体何が伝えたいのだろう…
誰が何のために、
この文献を遺したのだろう…
ホツマの心が
知りたいと思って、
ナビ彦さんの発信をお聴きしています。
大切に大切に
解説してくださり、
ありがとうございます。
いにしえ人の伝えたいことが、
必ずあるはずなのです。
何度も聴き直したい動画です。
ちなみに、
出雲王家の口伝は、
神話ではなく、
実際の人間が培って来た、
出雲王国の歴史です。
東西の2つの王家が
交代で主王と副王を出し合い、
主王が大名持という役職名で、
副王を少名彦と呼びました。
大穴牟遅・大巳貴命
と記紀に書かれるのは、
この大名持と言う役職名から
とったようです。
歴代17人の大名持がおり、
古事記にも出雲の神の系図として、
記述されています。
そして、驚くことに、
出雲王家の伝承には、
スサノヲは登場しないのです。
弥生時代になり、
大陸から多くの人たちが渡来し、
生活様式がガラっと変わったのは、
沢山の遺跡からの様子が
物語っています。
出雲口伝では、
皇室の祖は徐福であると伝えられており、
徐福が到来してから、
出雲王国とどのように関わってきたのか、
事細かに伝えられています。
大陸から新しい価値観と
文化を持って来た勢力との同居は、
良いこともありますが、
当然、摩擦もありました。
徐福の良い面は
天照として描かれ、
負の部分を請け負ったのが、
スサノヲだったように思われます。
口伝でも、
徐福族の悪行を
スサノヲの行いとして記したのだろうと
言われています。
古事記で足名椎にスサノヲが贈った名は、
須賀之八耳といいますが、
これは初代出雲王の名前であり、
その妃が稲田姫でした。
実際には、
徐福は第8代大名持の
八千矛王(大国主)の娘を
妃としており、
徐福がスサノヲだとすれば、
大国主の婿になったということですが、
スサノヲが出雲の王であるという
設定にするために、
初代出雲皇后に当たる稲田姫との
逸話が作られたのだろうと
想像します。
出雲国一之宮は
熊野大社ですが、
ここの熊野山の磐座には、
歴代の東出雲王家の当主が
埋葬されています。
麓に熊野大社ができるまでは、
中腹にある斎場で
拝んでいたといいます。
『熊野』という言葉は、
イズモ族にとって、
とても重要であったと
想像できます。
正史では、
天孫族に国譲りをし、
ホツマでは、
ハタレとして征伐されたように
描かれているような出雲ですが、
伝承を読むと、
ウケヒの連続で、
実際には出雲も皇室を担う
立派な一員であったことが
分かります。
むしろ、
ホツマを書いたとされるクシヒカタこそが、
ヤマト政権の実質上の創設者であることが
理解できます。
(クシヒカタは東出雲王家の王子です。)
いまのところ、わたしの感覚では、
スサノヲとは
日本がひとつにまとまるために、
歴史の負の部分を背負い、
民族融合の役割を請け負った
キャラクターであったのかな…
と感じています。
これは、
ヤマトタケルに対しても、
同じように感じています。
わたしは
ホツマを偽書だとは思いません。
記紀も実際にあった出来事が
記述してあるわけではなく、
全てが暗号のような逸話にして
記してあります。
ホツマもおそらくそのように
作られており、
事実でないことを指して、
だから偽書であると言うなら、
記紀も偽書に他なりません。
でも、記紀には、
伝えたいメッセージが
脈々と流れていることが
出雲口伝を読んで
理解できました。
ホツマのメッセージも
ぜひ感じたいと思い、
ナビ彦さんの発信を
とても楽しみにしています。
ありがとうございます💓
ありがとうございます。
出雲口伝のおはなしは
いつもとても興味深いです。
出雲にゆかりのある方々が
それらを大事にされていることからも
記述として残されなかった「歴史」について
思いを馳せてしまいます。
わたしも、記紀やホツマは
暗号文だと感じています。
また、ホツマツタヱは
ソサノヲやオホナムチの子孫が
書き残したといわれていますので
ときの朝廷に沿うような文章のなかに
じぶんたちの氏族の歴史を
巧みに織り込んだということも
考えられると思っています。
そうした部分をこれからも
動画やブログで解説できたらと
切に願っています!
@@navihico さま
ありがとうございます♪
記紀が人間の歴史として、
そのままの事実を並べていないのは、
大陸の歴史のように、
新しい部族がやって来て、
以前の王朝を滅ぼし、
支配者と被支配者に分かれ、
統治していったのではなく、
ウケヒの連続で、
白黒はっきり分かれることなく、
渦をグルグル🍥巻くように混ざりあい、
全て親族になってしまった豪族たちの
先祖の業績をどう描くかで、
随分苦労があったと思います。
本来のイズモ族から言えば、
スサノヲと歴史書に記された存在は、
天孫族が出雲制覇のために
作り出した存在で、
現在、ほとんどの日本人が、
スサノヲを出雲の代表と感じているのは、
とても不本意なのかも🦆
知れません。
スサノヲこそが、
天孫族の代表であり、
出雲の歴史を隠すオブラートに
なっているからです。
しかし、
そのことによって、
上手く融合していった部分もあり、
なおかつ、
新しくできた神話のもとに、
新しい伝承が生まれてゆき、
人々がその上で
生活を営んで来たことも事実です。
現在の出雲に住んでいらっしゃる方でも、
記紀の価値観で生きています。
氷川神社は
出雲を代表する神社です。
スサノヲという存在を
受け入れることで、
本来の神と信仰を
その陰に隠してお祀りしてゆきます。
善か悪か…
敵か味方か…
白か黒か…
そういう二元論では成り立っておらず、
そこが難しいところでもあり、
美しいところでもあります。
歴史が捏造されたとか、
封印されたとおっしゃる意見が
多々言われますが、
物事には原因があって、
その結果、こういう状態になっているだけです。
その因果関係が分かると、
あゝなるようになっただけなのだ…
と、宇宙の法則に包まれているような、
ありがたさに包まれます。
色んな伝承が、
色んな思いで作られ、
それが重なりあって、
大きな錦絵を描いていると思います。
その関わりあいを感じ、
見えなかったものが
浮き出てくる状態は、
快感であり、
喜びでもあります。
先人たちの生きた証を
感じられるからです。
わたしは
イズモ族もとても愛おしく思いますが、
スサノヲも大好きです。
全ての中心に位置し、
太極を飲み込み、
新しいものを生み出すチカラを
感じています。
ホツマでのソサノヲも
生き生きと描かれていることに、
とても嬉しく思います。
発信ありがとうございます💓
@@navihico さま
『出雲八重垣』のお歌について、
出雲王家の伝承では、
本来は、
『出雲八重書き』と言って、
出雲王国の法律や規則の条文だったと
言われています。
八重とは、
数が多いと言う意味です。
出雲王国では、
春分・秋分と
年2回正月があり、
各地から部族が集まり、
皆でサイノカミをお祀りする
大祭が開かれました。
それを『マツリゴト』と言います。
その行事のひとつに、
法律や規則を決まる
寄り合い(会議)があり、
その会議で決まった規則により、
領土が統治されていました。
会議で決まられた条文は、
ユウと呼ばれる樹皮紙に記録され、
各地に持ち帰られたと
伝えられています。
つまり、その条文が
『八重書き』だったと言うことです。
出雲王国内で暮らすならば、
この八重書きを守ることが
条件でした。
スサノヲ(徐福)がやって来たときも、
この条件を出したはずです。
イズモ族は
この八重書きを大変誇りに思っており、
イズモ兵の末裔である
出雲散家(さんか)の厳しい掟も、
『ヤエガキ』と呼ばれています。
本来、イズモ族が作った歌で、
スサノヲとは無関係ですが、
この歌の重要性とスサノヲの支配を重ね、
スサノヲが創った歌として
後世に遺したのかも🦆
知れません。
サイノカミは
男女の交わりで全てが生まれると言う、
森羅万象のことはりを
そこに見る信仰です。
大祭では、
神と人との融合とともに、
男女の融合として、
各部族の縁談も重要事項でした。
出雲王国とは、
この同じ神を一緒にお祭りし、
婚姻を通して血縁関係を結び、
同じ信仰をともにする共同体として
機能していました。
男女のむすびが
一番大切なことだったようです。
それが『歌』で表現され、
後の世まで、
日本の文化として伝わってゆきます。
ホツマが
五七調のウタで書かれているのも、
『八重書き』を
スサノヲの妻に対する
愛の歌として残したのも、
サイノカミの影響が
見え隠れしているような
気がします。
@@mayumi3300
ご返信ありがとうございます。
『八重書き』とても興味深いです!
やはり、各地には
それぞれの氏族・民族ごとに
異なる法制度があったのでしょうね。
『サイノカミ』による男女のむすびは
ホツマツタヱにも通じているようですね。
男女の関係は
経糸緯糸であらわされていまして
「ハタ」というのは
機織りや布のことだけでなく
法律や書物のことでもあるようです。
地方や異国の神や信仰が
溶け合い混じりあい
現在の日本の姿になっているということに
わたしもときめきを感じています。
@@navihico さま
アヤは
日本文化の根幹ですよね❣️
いつも楽しく拝見しています。わかりやすくてかつコンパクトの全体像が分かりとても参考になります。ただ、ぜひお願いしたいのは、これらのお話が、ホツマツタヱの何アヤに書かれているのかをどこかに記していただけると、確認するのに役立ちます。ぜひお願いしたいです。
コメントありがとうございます!
今後なるべく注釈をつけられたらと思います。
ただ、ソサノヲに関していいますと
出生については3・5アヤ
メインは7・8・9アヤ
後日談のようなものが28アヤ
ヤマトタケへの転生については40アヤ
といったところでしょうか!
ご参考になりましたら幸いです。
@@navihico さん、ありがとうございました。あちこちにいろいろ書かれているのをまとめていく大変さ、よくわかりますので、勝手なお願いをしてしまいましたが、ものすごくうれしいです。本当にありがとうございました。ヲシテ文字、何とか読めるようになったところですが、まだ前半です。これからも楽しみにしています。
@@mayok1218 ホツマツタヱは順番に読むだけでも充分に面白いのですが、登場人物ごと追いかけてみると、より理解が深まるというのもすごく面白いです。ご探求のきっかけになれればとおもいます。どうぞよろしくお願いいたします!
こんな時、祖父の死亡は痛かったですね。老齢の身で知恵を最大に発揮して天照さまの政権支えた、官房長官が残念です。政務に忙しい天照さまの瀬織津姫さまがスサノオを刑法の執行する前に、いろんな対処策立てて暮れたのに立ち帰らないで、朝廷反乱軍に傾くスサノオにも、立ち帰るきっかけあってイナダヒメに惚れて良かったですね、八マタの大蛇とは大蛇ではなく魂が汚れ果てた反乱軍の軍勢ハタレ軍達か?引きずる悪党いますね天照の弟の看板あスサノオの利用する奴らの武具が草薙の剣ですね。いろいろまだ物語展開しますね。
ありがとうございます!
このあたりは物語が複雑に絡み合っているので、とても面白いです。
ドラマにもなるような濃厚さがあります!
ヤマタの大蛇でしたね。
ネの国と言われる出雲は東北より躍動する力ありますね。
ホツマツタエ、、、未だ偽書扱いなのでしょうか。
とても美しく、日本語元来の言霊を含んだ言語に聞こえてなりません
描いた情景が目に浮かぶような情緒を感じますね。不思議です
コメントありがとうございます。
一般的には、いまだ偽書扱いのようですが
研究者や愛好家のかたがたの日々の努力や研さんもあって
認知はすこしずつひろがっているようです。
それに、「古事記」でさえ偽書説があったので
「ホツマツタヱ」もいずれ認められればと思っています。
ぼくとしても、
ホツマツタヱに描かれている日本語の美しさや
神々の生き様や情緒などの物語性は
どれも見事で心打つものだと感じていますので
偽書かどうかよりも
作品として本物だという観点から
ホツマツタヱをひろめてゆきたいです。
竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘の小戸の阿波岐原で三貴神が生まれてます。九州の宮崎ではありません。阿波で生まれてます。筑紫(ちくし)の日向(ひゅうが)ではありません。日が東に尽きる所の橘湾の小戸の阿波の海の平野で生まれてますよ。秀真伝(ホツマツタエ)の秀真は阿波です。つまり阿波伝と記載がありアワウタも阿波です。須佐の男も阿波です。古事記は阿波古事記です。宇佐神宮は後世725年創建ですのでこの時代には宇佐神宮はありません。また、出雲は島根ではありません。阿波の伊津面(いづも)神話で伊津面神話で出てくる神様の延喜式神社が伊津面にたくさんあります。
コメントありがとうございます!
こちらは『ホツマツタヱ』の記述にそって
話をさせていただくチャンネルなのですが
ぼく個人としては
阿波国やイの国の話も興味のあるところで
否定はしておりません。
ホツマツタヱでも四国はかつて
「ソアサ国」ともよばれていたようで
「ソサノヲ」とも音の響きは似ているなと
思ってはいました。もちろん余談です。
また、阿波岐原については
ツキヨミ動画をごらんいただけると
ホツマツタヱ的な立場をおわかりいただけると思います。
宇佐神宮にしても
奥宮は御許山にある大元神社の
巨石信仰だそうで
創建年というのはあくまで
社殿が築造され祭祀がはじまったと
資料でさかのぼれる年代ということのようですね。
大変素晴らしい見識ですね。
@@ユタカカワバタ ホツマツタエの解釈もおかしいのがあります。アワミヤがなぜか滋賀になってますが、アワミヤは阿波宮で徳島県美馬市に倭京跡があり近くには倭大国魂神社(延喜式式内社、日本1社)があり、アワミヤは阿波宮の事です。また、滋賀には近江大津宮がありますが、原文の淡海大津宮は阿波にあります。
@@navihico 大元神社は八幡大神が欽明天皇期(西暦500~570年の間)に降臨したと記されてます。つまり、神功皇后、応神天皇の活躍した西暦300年代よりも後の時代に宇佐が開けた事になります。普通は先祖を祭るのですがこれなら子孫を祭る形になりますよ。
ところで古代日本語の音韻で、阿波は「あふぁ」又は「あぱ」と発音した筈で、決して現代風の「あわ」では無かった事は歴史的語学研究から既に40年前には判明しています。
現代語の「あわ」は千葉県房総半島南部ですが、似た地名になった理由は四国忌部氏が、かなり後世(と言っても奈良時代初期)、紀伊半島南部と房総半島南部に移住した事が原因らしい。
ちなみに忌部氏・斎部氏は海部氏・安曇野氏や安住氏と同じ海洋民氏族で、船津氏と家祖が同じだそう。
余談ですが現在の本庁系神道では祝詞の「海川山野」を「うみかわやま(ぬ)」と発音してますが、古代語研究の結果それは間違いで、やはり「うみかわやまの」が正しい訓み方になるとの事です。
なぜか気になりちょうど7日に丹波の出雲大神宮に参拝してきたところです。
御神体山として国常立尊の磐座もありました。
今回のお話しともちょっと繋がっている気がするなぁと思って見てました。
玉置神社も国常立尊ですよねー
ホツマツタエから見る大祓詞めちゃ楽しみです!
コメントありがとうございます!
出雲大神宮さんも、とても素敵な神社さんですよね、ぼくも大好きです!国常立尊の磐座も、とても重要なものだと感じています。
また、亀岡の出雲大神宮と、愛宕山の愛宕神社と、京都の上賀茂神社は一直線に並んでいるらしく、出雲氏・秦氏・鴨氏の密接な関係がみえるようでとても面白いです。
次の、大祓詞もがんばります!
失礼な事沢山話し、申し訳ありませんでした。
ありがとうございます。
たくさんのコメントをいただいているのですが、すべてにお返しすることはできませんので、どうかご容赦くださいませ。
先生、沢山の人々が関心持って
先生とコメントが増え証拠です。私の様な噛りと違って、その舞台となった土地の人々や神社があって疑問を持つ人々の濃い内容ですから大変と思います。嬉しい事です。😊🤗年齢層は若い人々も増して来ます。健康第一ですからね❗️先生