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3月にお愛の方の実家のあった三河西郷氏の月ヶ谷城から五本松城、松葉城跡、野田城跡を巡る山中18キロの縦走してきました。山登りが趣味の私でも整備されたこの山道で7時間掛かりました。鳶ヶ巣山砦攻略は道なき道の夜中の15キロの行軍など全くもって考えられないほどの厳しさです。常軌を逸しています。また以前に鳶ヶ巣山砦も行きましたが、車で登るのすらしんどい坂道です。(山頂まで舗装道路になっています)。長篠、設楽原は何度行っても心にドスンと残る場所ですし、見どころの多さも半端ないです。
歴史探偵でのシミュレーションでは武田軍は善戦してましたね~しかし、三方原合戦から設楽原の戦いまでこんなに細かくドラマで描かれていて楽しんではいけないが愉しめました。PTSDに関しては自分も20台前半時に出張先で阪神淡路大震災に遭遇し・・あの揺れ・建物倒壊・大火災・重傷者多数・ライフライン遮断・・我先に助けてくれ!と怒号や暴動等社会人間関係の崩壊を経験しその後数年間はちょっとの揺れでも過敏になったり炎を見ると思い出したり、体調不良が続きました。想像を絶する体験から性格・行動・考え方まで変わってしまう恐ろしい後遺症なんだとさらに数年経って理解出来ました。きっと信康もこの戦で人格が一変したのでしょう・・当時の武士達もきっと夢枕に出てきて怯えたり夢幻と戦ったり寝汗の日々だったのでは?改めて恐ろしい時代だったんだなと感じてます。武士道さんの布陣図お見事でした!
幾つかのどうする家康の解説RUclipsを観てますがミスター武士道さんの動画が1番腑に落ちました。ドラマはドラマだけど、フォーカスポイントがズレてると違和感があるんだと実感しました。
しかし、長篠と関ヶ原の両戦いは、歴史好きが10人集まれば10通りの考察や解釈がある戦いですね。
いつもためになる動画ありがとうございます。犯罪被害を受けたPTSDの患者さんの中に再び似たような危ない場所に向かうのは、「次こそは自分は被害を受けない」といった思考に陥ることもあるからだそうですね。社会的な立場や境遇によっては、辛さを打ち明けられない人は今も昔も多いかもしれません。
信長は自軍の兵を隠して武田側に兵数を少なく見せたという戦術がすごい。勝頼はまさか自軍の3倍もいるとは思わなかった。勝頼は相手が自軍の3倍もいると知っていれば突っ込まなかったでしょう。
信康PTSD説は物語を見る上で、眼から鱗の解説でした!
信康さんPTSD なってたね、夜信康さん一人で泣いてたシーンは、もしかしたらPTSD の症状だったのかな?戦国時代の、武将さんも、PTSD 心的外傷後ストレス障害なるのかな?わからないけどね?
今回の大河ドラマのテーマは、命ー”戦での多くの者の死が、信康の心ににもたらしたもの”ーだと思う。冒頭で、幼少期の信康がてんとう虫を逃すシーンを思い出す瀬名。そんな心優しい彼が、戦での武勇譚を嬉しそうに語ることに、母親としていち早く違和感を持ち、危惧するのも瀬名だ。信長の戦い方に反対し、”これは戦ではない。なぶり殺しだ!”と叫ぶ信康の言葉こそ、彼の本音だ。そんな心理的葛藤を抱えた信康に気づき、一大決心をするまでの瀬名の表情には、かつて母親から”家族のために戦う時がある!”と諭された時の言葉が蘇ったはずだ。来週以降の信康、築山事件へのアプローチとなる秀逸なプロローグと感じた。
たたちあつ4GあとぁたたちたたたちたたたたgSgrgpiRiqIrgrGqhphQpgphqhqGqhphPhph7gpgpGpgphqIphp7😊😊😂🎉
😢😢 22:21
6:03 6:03 6:03
長篠の戦い自体は6月29日で梅雨であり、田も水を張った状態だったと思われます。また、梅雨時のわずかな晴間に行われた戦いとも言われています。そうだとすれば川の水位もそれなりにあり、基本街道や橋を進むしかなく騎馬隊の突撃というのは考えにくいですよね。武田側も信玄の時代に火縄銃の弾除けとして竹束で盾が考案されており、長篠の戦いでも盲目的に突っ込むのではなく竹束の盾などを活用して馬防柵に取り付いていたと想像しています。結果的には勝頼の判断ミスとなった訳ですが、当時の信長を取り巻く状況やこのような場所に砦を築いている様子に対して「本気ではないもしくは攻める兵力がない。対してこちらは精鋭が揃っている。後背を攻められたが逆に戦力が分散されてしまっている。今が攻め時」と判断したこと自体はそれ程おかしい判断だとは思えません。
「センゴク」説の設楽が原の戦いが鉄砲の使い方が1番腑に落ちますね織田軍にも犠牲が相当出ているので。
3倍近い兵力差で織田徳川の3割に損害を与えた武田、まさに烈火の如き強さ。
まあ、甫庵先生は現代に例えると司馬遼太郎先生だから、話を面白く脚色するのは見事ですね。
そもそも文献から布陣図を起こすのってすごいですよね。先日現地に行ってきたのですが、長篠城跡に展示してあった布陣図では秀吉が信長の斜め後ろ(北西)にいてびっくりしました。いろいろな解釈があるんですね。
物語の歴史に忠実な説明のみならず、信康PTSD説なる大胆な仮説を取り入れた解説にBUSHIDOさんお見事‼️と思わず快哉を叫んでしまいました。
地元では織田信長本陣跡は茶臼山と呼ばれ最寄りの駅は茶臼山駅です。新東名長篠設楽原PA隣接で徒歩で行けます。設楽原激戦地は南側にあります。機会が有ればお越しくださいませ
動画投稿お疲れ様です。勝頼が突撃したのはちょこちょこ通説にある敵の数を誤認した説があると自分は思います。織田方がわざと少なく見せたのもあるかもしれませんが、鳶巣山砦を攻略したのが相当な数の別動隊にやられたと誤認したのでは?と思います。第4次川中島の戦い時、甲陽軍鑑によれば武田軍は半数を別動隊に当てており、その時の経験等から敵は半数を分けて挟撃をしようとしてるのでは?と思案しであれば数の少なくなった本隊をいまのうちにやってしまおう。という考えから突撃したのではないかなあと思ってます。
PTSDの話を聞くと、救急隊や警察、病院の看護師、先生の精神力の強さに驚きます。
戦争ジャンキーの軍人もPTSDの一種なのかもしれないのですね。犠牲の形にも色々ある……。
今回の鉄砲3000兆の話とても納得しました。ありがとうございます。
兆?多すぎる😂
馬は現在のサラブレッドではなく、木曽馬で、短足な馬で時速20kmぐらいだった、また音には弱いらしく、鉄砲の爆音にビビるらしい、だから戦さに使うには訓練がいるらしい。
設楽原合戦図、アツいですね。保存しました。武士道さんの目にも火が宿ってる。
武田軍が突撃した理由として、織田軍の兵力、鉄砲の数や火薬量が少ないという誤った情報を信じたことに加えて、武田軍が突っ込んでいったタイミングで岡崎勢が寝返るという段取りが出来ていたのでは?でなくても、情報戦に負けて勝頼は判断を誤って惨敗したというのが本当のところでしょう。
0:25 ぐうの音も出ないほどの正論
柵をもってきたのと鉄砲の数は武田も1000丁あって武田の内陸部の地域に対して信長は堺の商人がいて日本の鉄砲の玉の鉛や火薬をタイの国や色々な所から取り寄せられていて鉄砲の玉の数が違っていて沢山打ち込めできた説ありますがなるほどと思っています戦て運や軍事力や戦術あるので深いですね
鉄砲三段撃ちについては、色々な考えがあって当たり前です。また、馬坊作の前に逆茂木も置いてあったと言われています。
鉛は中々無くて、海外から輸入してたから、織田軍は大量にあったんよ!武田は、足りなくて鉄の玉とか使ってたらしい
敵も味方も少ない人数でなら自由連射的な戦術は使えるけど実際問題現場は戦場で最強の騎馬隊が猛スピードで攻めて来るって時に自由連射は逆に打つタイミング被ったり味方同士ぶつかったり転んだりと混乱するだけだと思います。
信長は3000丁の鉄砲と充分な弾薬と人員を用意したところで鉄砲隊を主力とした今までにない戦術を考えてのぞんだ事でしょうから、最強の騎馬部隊を迎え撃つのに当時のいくさのプロが何を考えたのか…面白いですね。当然何らか組織的な運用でそれが3段撃ちなのか4段5段…なのか3人1組なのか分かりませんが、とにかく敵を近づけないように鉄砲隊を主力に弓隊や長槍隊も絡めてしっかり準備されたものだったのでしょう。武田は正面から突っ込むばかりではなくて、左翼の山県や右翼の馬場を中心に柵を迂回して攻める事もしたと思いますが、最終的には兵力差を覆す事は難しかったのでしょうね。
光秀は新参の外様だから畿内に残された訳ではないですよ。むしろ逆です。私なら謀反を起こすかもしれない者を畿内には置かない。天皇を拉致られて錦の御旗持ち出されたらかなり厄介。少なくともこの当時の信長なら天皇がいるところに攻撃できない。故に光秀は留守を任せる程に信用されていると見るべき。だと思いますよ😃
徳川vs山県で徳川軍が崩されなかったこと。中央部隊に佐々、野々村、前田、塙、福富の鉄砲隊がいた事。織田信長自身を囮に使えた事。鉄砲を前から来るものを一対一で仕留めることは難しく、囲むことで一斉射撃に使用したこと。その場所も距離もあること。
今週はいろいろ面白かった策を示すのかと思ったら、柵を示すだったのか徳川に何も伝わってない・・・武田も雨の中攻め掛かれば、もっといい戦いできたんじゃないのか三方ヶ原の徳川もだけど身近で桶狭間の戦いを知ってしまったら自分も出来ると思ってしまうんでしょうかね
お疲れ様です。何かで見ましたが実際に馬防柵で数人の人が火縄銃を打って見たところ、煙がもうもうと立ち込めて真っ白になり、100人でさえ続けて撃ち続ける事は「ちょっと無理」じゃないか、と言う結論が出ていました。
何段かでタイミングをとって発砲してリズムが出来るより、バラバラでランダムの射撃の方が攻める方にとってはより恐怖かと。
歴史探偵見ましたが、当時は現地が湿地帯であった事で馬も足をとられる事(4秒以上かかる)、戦場の混乱の中でバラバラに空いた場所から鉄砲射つとかよけいに混乱する。明の絵図からも明らかなように軍としての統率のとれた鉄砲の撃ち方であったことは間違いないでしょう!
大陸の鉄砲は散弾銃に近い火縄銃やったような気がする。相手が歩兵やのうてほんまもんの蒙古(モンゴル系)騎兵が相手やから向こうの方が三段打ちはしっくり来る。散弾銃は構えて撃つだけでエエから
史実ではどの程度かは分からないけど、織田勢との圧倒的な軍事力の差を見せつけられて、自分の身に降り掛かるかと思えば、PTSDにもなりますよね。そんな息子を見ていれば、母親なら何かしてしまってもおかしくないですよね。このあとの展開も納得できる演出にするには、あの設楽原の描き方は必要だったはずですね。
今回もお疲れ様です。信長の本陣は茶臼山ですね。鉄砲の三段撃ちは馬防柵の三段構えの間違いです。鉄砲の数は後に秀吉が証したように多くても一千挺だそうで。4百年以上の間に話がオ一バ一になってしまったのでしょう。設楽原古戦場跡にも行って観ました。この頃から信長には家康が目の上のたんこぶに思えてきたのかな?娘に本心を伝え、今後の役目を命じましたね。これが信康・築山事件や本能寺の変へ繋がるわけですね。
麒麟が来るでもやってるけど、筒井順慶と細川藤孝の鉄砲隊もいる。三河鉄砲隊もちょっぴりで無理栗三千丁揃えた経緯があるよ
信長公記は設楽が原の戦いの前哨戦の事柄がかなり濁されている記述があって、この時は連合軍側が負けていたのではないかという説もありますね。
なんせ、信長公記は信長の負けは記述しないのが、一貫したスタイルだから。
前日までの前哨戦は武田勝頼が長閑斎へ返信した書状に武田側の視点が書かれていますね。それを見る限り前哨戦では鳶ヶ巣山砦の攻撃に合わせるように織田徳川軍が攻撃を開始して大敗、結果武田軍を釣りだしていますね。
いつもこのチャンネルを見ています。武士道さん、もし良かったらこの時代のマスケット銃の性能を19世紀のドイツ(プロイセン)の軍隊が調べて集弾率や不発率を調べたものがあるので、良ければ読んでみてください。「フサリアはいかに戦ったか」というniftyのサイトにこのプロイセン軍の検証結果の邦訳が載っています。
長篠設楽原の戦いは信長のシェフの描写が今のところ1番しっくり来てる鉄砲兵の質と練度の違いとか、天然の要塞を使って武田騎馬隊が得意の野戦が活かせない状況に持っていったとか
「我らにとって最も恐るべき相手はどこになる?」ここの秀吉凄い良い顔してました。秀吉は受け流しましたが、家康同様秀吉も信長に対して物怖じしなくなってきて本能寺以降の展開が何となく垣間見えるような感じになってきましたね。「我らにとって最も恐るべき相手は…。徳川じゃ。」五徳にだけ呟くように教えていましたが。今まで気の強い扱いにくい姫という感じだったのが、一転して放っておけないようなキャラになってきました。この場には居合わせなかったですが光秀がいたら何と答えてたんでしょうかね。
(ご参考) 武士道さんが好きになった、五徳姫と言うか久保史緒里さんについて一言。「ちゃん久保」は、ラジオパーソナリティや大河の演技がいいよねー。( by 同郷 & 交流もある サンド 伊達 )
明朝の史料で、日本の鉄砲戦術が解説されていたという説明は面白かったです。思えば古代中国の三国志時代の濡須口の戦いで、呉の将軍呂蒙が堡塁を築いた上で、一万の弩を並べて曹操軍を撃退しました。長篠の戦いと構図が似ているように思います。
PTSDを描いた創作物なら、クリント・イーストウッド監督のアメリカン・スナイパーは傑作かなぁ。
馬場信春が出てこないのが納得できない、殿で勝頼を逃がしたのに。
話数と予算の問題っすよ。
最初は千梃づつ並んで射撃したと思いますが、時間経過の内に射撃者の球込めに徐々に時差が出ると思うので、3人1組ぐらいだったのかな?でも何処で軍事訓練していたのかなとも思いました。
この前どうする家康をリアルタイムで、観たよ。信康さん役細田かなたさんがめっちゃめっちゃ格好良かった。あとは、歴史習ったり、歴史の漫画で、読んだりした長篠の戦いは、鉄砲が凄かったですでも、信康さんがなんだか、不安な気持ちかな?信康事件がフラグへ、辛くなるよ。
1番可哀想なのはドラマで全部酒井に持っていかれる金森長近
弾込めをする人と射手がいて、弾込めの終わった鉄砲を次々に射手に渡して連射したんじゃないのかなぁ。
弾込めをする人が複数いれば(例えば打ち手一人に対して弾込め役3人・銃も3丁で1ユニット)とかなら、次の発射まで時間短縮できますね。その分、鉄砲隊を布陣できる長さは3分の1になってしまいますが
信長が五徳姫の頬を掴んで、徳川を見張れと言ったシーン、実の娘にあんなことする?と思いました。役者経験の浅い久保史緒里さん、PTSDにならないか心配です😣
鉄砲避けに竹束を使う話をどこかで見た覚えがありますが、この頃はまだ無かったのでしょうか?
竹束は城や砦の要塞戦で使っていた簡易バリケードやし一応はあったよ、作中やと鵜殿長照やったかなぁ?竹束の綱を射抜いてドヤ顔しとった記憶がある。逃げんべ(=ω=`;)=3 ···(-ω-`)···だいぶ前の服部党が出てきたあたり
@@知花信 ありがとうございます。そのシーンあったの忘れてました。
近年の戦場のPTSDだとアメリカンスナイパーで有名なクリス・カイルの劇中描写や死にまつわることが有名ですよね……昨年の実朝のLGBT然り、過去の方々にそれが無かったなんて絶対に言えないですし物語や歴史が更に奥深くなるし改めて好きになれますね
アメリカンスナイパー、ラストはちょっと悲しすぎて信じられませんでした。あれが実話だというのが本当に悲惨。ウクライナもロシアも、この戦いの結果がどうなっても、その後に社会が大変な事になると思います…
さすがに今回は色々と思うところがあった回でした。Twitterでも憤慨コメがたくさん見られました😂(それこそ平和なんですね)武士道さんもやはり仰りたいことがたくさんあるみたいで、、どう家は、戦国武将そのものにリスペクトは感じますが、戦国時代とはいえ戦を美化せずに伝えたい姿勢を感じます。まぁ、良いように考えたら、それを伝えるために馬に乗ってる時間が長かったんかなぁー、と。あとは山縣さんの最期を描きたかったのかな、、私も左衛門尉の苦労を可視化してほしかったです!
Disover → Disorder ですね?Posttraumatic Stress Disorder とつづられています。
今年のドラマは三河がテーマだと感じます。三河の質実剛健な気風が世を制したものは、徳川の軍団、そして世界を制しているトヨタ。 そして尾張と三河の対照的な気風の対比が面白い脚本ですね。その観点での考察をお聞きしたいです。
PTSDのDがdisoverとなっていましたが、正しくはDisoderです。細かくてすみません。
初めて聞く話もあって、大変勉強になりました!ありがとうございました。
鉄砲の扱いに慣れた雑賀衆とかは鉄砲の集団戦法とかに秀でていて、信長は長篠以前に対戦していてそれを真似した可能性はあると思います。いずれにせよ信長のオリジナルではないと思います。
設楽原の織田徳川連合軍の布陣には右翼の徳川軍の先にて豊川までのがら空きの説明図が恰好あります。ならば武田軍は何故にこの側面を突こうとしなかったのか、できなかったのか。馬房柵が豊川まで伸びていたなら納得ですが多くの図では現在の連伍川が豊川にそそぐまでの間の100~200mはがら空きになっています。長篠合戦図屏風(長浜市立長浜城歴史博物館蔵)だけは大きな川まで馬房柵が伸びていますけど。
解説お疲れ様です。😊なんか『設楽原の 戦い』が早足でやった気がしますね。 3:33 色んな説が言われる歴史の永遠の謎ですからね。『戦国ダチョウ倶楽部』 の演出は確かにウケてしまいましたね😂。酒井忠次とかの裏仕事もあっさりが確かにもったいなかったですね。後、勝頼のドラマでの葛藤も退けなかった信玄への偉大さもあったのかもしれないですね。 8:59 は前にNHKで推測されてましたが、機動力を活かして馬防策の切れ目と徳川軍を潰して挟み込もうとしているのでしょうね。正面行こうと見せかけて抜けるというのも考えられてますね。 後日の疑いで水野信元のスパイ説という生きてくる可能性もありますね。ある程度戦ったら機会をみて、もし、水野信元等が裏切り出たら正面後方挟み撃ち、徳川軍が崩れた所で裏から回転ドアの様に挟まれて織田軍も潰す事ができるという軍略もあったのでは?もしかして水野信元が裏切りをためらった為に成立しなかった?という推測をしてしまいますね。こなぜそう思うかと言うとかつて武田軍が裏切りを誘発する作戦をかなり多くして、今川、徳川軍三方原、甲斐、信濃、岡崎での大岡弥四郎、はたまた築山殿(?)等多くの戦国武将やその地方の領主を懐柔してきたからもしかしたら水野信元の他にも呼応していればという算段があったのかな?と思いましたね。
本当に、戦国ダチョウ倶楽部だと思いましたwww
穴山信君(梅雪)が気になる。今週、様々な伏線的演技が配されていた。彼は長篠の戦い以降出家して梅雪を名乗り、勝頼と距離を置くようになり、やがて織田・徳川方に離反するという史実がある。しかしそれだけではなく、予告で「新説・築山事件」に、新しい衣装で絡んでくる姿が紹介されていた。新説なので、全く展開が読めない。田辺誠一さんと有村架純さんを配役した意図が、いよいよ明らかになるのかもしれないと思うとワクワクする。武士道さんの慧眼も借りて楽しみたい。宜しくお願い致します🙏🏼😊
明朝「軍器図説」史料有難うございます。
勝頼は大器って口では言ってるけど全くその描写がないのよね。やっぱりキャラの書き込みが足りない印象。せめて竹束くらいは武田は使ってほしかった。
いやいや!!あくまで個人的になんですが、PTSDの発音部分は、「ポーツマス!!ポーツマス!!」を途中で切ってしまったところ以来の面白さで、食べていた物を吹き出しそうなくらい、ヤバかったです。失礼しました。(^_^;)
まあ、徳川領の防衛戦だから土地勘のある徳川兵が奇襲かけるのも当然だし、士気の高い徳川軍が右翼最前線を任されるのも当然だよな。銃って弓のように放物線を描いて遠距離攻撃できる訳では無いし、馬防柵に張り付いて銃撃するのもなんか違う気がするのよね。そこいたら槍でさされない?って思っちゃう。槍兵の間に入ってきて銃打って下がっていくとかそれこそ無理なんじゃね?鉄砲の運用方法、どうなってるんだろね?防衛戦なら、簡易の鉄砲櫓のようなものを作ってそこからひたすら浴びせるとかかなー。
勝頼の演説にテンション上がる山県と「駄目だこりゃ」という表情の穴山。信長の脅威が家康であることを見抜いた秀吉と「このままじゃついていけなくなるぞ」と言われる佐久間。今後のことを考えると細かい伏線は張られていたんですけどね
そう考えると勝頼を見限った小山田さんと穴山さんは頭が良かったと言えるよね。
互いに対峙する最前線前後の地形、奥行きは大事なポイントですね。武田騎馬隊の実力についても再考して欲しかった。当時の小さな馬(-現代の競馬馬とは全く体格が違う)で山国からの遠征後、どれだけの突撃力、兵装の武士を載せての疾走が可能だったのか~武田の全軍編成中の位置、戦史上勝利に貢献した例なども。
武田騎馬に関しては「馬入り」「能く乗りて」とわざわざ古文書で表現されてるし、騎馬に長けた武士が相当数いたのは間違いないです。山県隊を中心に柵の中に突入した部隊もいました。
三挺一組なら殿様が二挺持って小姓に弾込めさせた時点で大抵思い着くと思います。弓矢でも小姓に番えさせたりしてましたし😊
どうするドラマでは、酒井忠次隊が迂回奇襲へ向かった事も武田側は情報掴んでいたにもかかわらず増援送らなかったのは何でだろうか?
技術的に考えてみると、あながち鉄砲の威力がそれほどなのかと思います。つまり当時の火縄銃の平均手籠め時間は80秒。実際の戦場ではパニック状態で、この時間より多いと考えると3段撃ちがあったとしても平均30秒弱掛かります。この間騎馬武者は当時の馬(木曽馬)は100Kg近い負荷でも秒速10mは出せたし、歩兵もその半分では走れたと思われます。一方当時の火縄銃の実効的な射程は50~100m位で、連射間隔30秒の間に普通の平原なら1発当たるかどうかです。当たらなければ、馬防策があったとしても接近戦になったときは鉄砲は弱い。ここでは語られていないのは当時の天候で前日来天候が良くなく両者の間の湿地帯がぬかるんで、武田軍のスピードが相当遅くなったと。
ドラマでは山県昌景が疾駆する馬の上で何発も撃たれたように描かれているが、これは絶対に有り得ない。疾駆しているのであれば!
布陣図が凄すぎる。
大東亜戦争の旧日本軍のバンザイ突撃みたいになってて残念前半は真田兄弟などの活躍で押してたって聞いたことあるけど
大体、武田の将が2人しか描かれてない以上、設楽ヶ原の戦いは何も望めません。何故か武田軍は山県騎馬隊が8割もいるような、織田軍の鉄砲も三段撃ちのような戦いは残念。
そりゃそうだわな、打つ準備が出来た奴からどんどん打つわな、最初はともかく弾込めのタイミングが100%揃うなんて有り得ない、結局銃の数の総数が多ければ途切れなく打つことが出来る様に見えるだけ、それだけ多く桁違いに用意していたと言うことだわね
武田からすると、川があって、坂があって、馬防柵がある感じですね。坂で速度落とされているところを狙い撃ちにされるという凶悪な感じです。あと、布陣はどこのものを参考に書かれていますでしょうか?当時なので正確なものは分からないですが、長篠で購入した布陣図とちがいますので気になりました。
いつも楽しく拝聴しております。今回の動画で一点だけ気になることがあります。歴史のことではないのですが、英語のことです。画面のボードではPost Traumatic Stress Discoverとなっていましたが, 最後の単語が誤りで、ただしくはDisorder です。障害のことです。Discoverだと発見という意味になり、的はずれな意味になってしまいます。これからも頑張ってください。
今回も面白かったです。
即撤退では追撃を受け損害が大きくなるので、一撃加えてから撤退するつもりだったんでしょうが、返り討ちにあってしまった。信長は兵数を少なく見えるよう野戦築城するなど入念な作戦を立てたのに対し、勝頼は行き当たりばったりになってしまいましたね。
佐久間隊は織田徳川軍の左翼配置だと思っていたのですが徳川隊と同じ右翼なんですね。そう言えば佐久間隊が偽の寝返り情報を武田に流したみたいな話もありましたね。
「鉄砲三段撃ち」は、本当にあったんですか・・・でも「織田信長」が「長篠の戦い」で実際に使ったかどうかは、やはり疑問符が残る訳ですね。「豊臣秀吉」の「朝鮮出兵」の時に作成された明の資料にあるのなら、もしかしたら秀吉が考案したのかもしれませんね。
設楽原の戦いは時代を下るにつれて史料に記される戦死者数が増えていくという話があるそうで、戦い直後かつ客観的に書かれた史料でないと本当のところはわからないのかも……
鉛弾が現代使われへんのって鉛弾が体内に残ると毒に侵されて長生き出来ひんで禁止されとるから
戦意高揚して気分が良かった信康も、我にかえると敵軍の中で孤立する悪夢がよみがえってきてトラウマに。瀬名姫も心配してるけど、あと数回でいなくなるのが残念です。
当時の武士の身体能力がどれほどのものか知らないので何とも言えないが長篠は山間部で山間を抜けるなんて想像を絶する困難が予想される
武田勝頼が撤退せずに、父信玄を超えるために無謀ともとれる突撃を選択したという設定、歴史好きには不評かもしれませんが、ドラマ好きには高評価のようですね。三段撃ちの検証(歴史探偵ではない番組)は私も拝見しましたが、三段撃ちVS迫り来る騎馬隊という構図で、ブシドーさんの指摘通り弓隊等が配置されていたことは考慮されていなかったと記憶しています。太平洋戦争で戦争神経症の患者に催眠をかけて戦地に送ったアメリカ軍の話も面白いですよ。
五徳ちゃん顔面鷲掴みにされてたなぁ
啄木鳥戦法で追い出されて信長家康本隊と戦うより本田隊と戦って退路を開ける方が容易ではないのですか?
3段打ちがないにしても信長が武田を圧倒したのは確か家康が震え上がって臣従したのは確か
合戦場の発掘で出た鉄砲玉の数が意外と少ないので、ホントに3千丁鉄砲があったかは疑問視されるそうですね。三段撃ちは現代の検証では無理とのことですが、素人考えでは、玉込めが撃ち手の3倍いれば連射は可能な気がします。
実際徳川幕府の鉄砲百人同心の根来組が3人一組で射撃に長けた一人が射撃に専念しあとの二人が装填に専念することで早合と併用することで15秒間隔で射撃する根来撃ちという射撃術がありました。信長は堺を抑えて居たので、堺の鉄砲衆が根来撃ちに近い射撃を行った筈です。
当時は鉄砲は最新兵器で存在はしっていても実際に使ったことがある人はあんまり多くなかったはず実際は鉄砲はあっても扱える人が少なかったため撃てる人に補助何人かつけて撃ち続けたんじゃないかって説はしっくりくるとなると本当に3人かどうかは疑問やなもっと多かったかも
@@昭和の老兵 そうですね。本願寺や雑賀衆の鉄砲隊にも散々悩まされてたようですから、鉄砲については相当研究してたでしょうしね。
@@ah4154 三段撃ちの素朴な疑問として、一人ずつ撃ち手が交代するのは非効率すぎる点です。1000人の鉄砲の撃ち手を交代させるより、300人の撃ち手名人に玉込めした鉄砲を次々と渡した方が効率がいいはずです。3万以上の大軍勢ならスペースが許す限り補佐が大勢いてもおかしくないですし。また、これも素人考えですが、騎馬隊を撃つ際は、馬を狙ったんじゃないでしょうか?馬なら人間より的が大きいし、何十キロの鎧をつけた状態で落馬すれば、乗り手はただじゃすまないはずです。そこを弓や槍で仕留めれば、鉄砲玉の節約になると思います。
@@tomo328ci 残念だけど騎馬突撃は絶対にありえないと思う。馬防柵を引き倒した後馬を突撃させるはずなんでもしかしたら馬防柵迂回部隊として少数いたかもしれない程度おそらく竹を束ねた盾を軸に歩兵が戦っていたと思われる。この戦い信長側にもかなりの死傷者が出てる泥仕合になったらしいですし
秀吉がやや後方なのが彼らしくて面白い
歴史探偵での大森南朋の、苦虫を噛むような表情の理由がわかったような気がした。
信康と諱で呼ぶシーンがあったような
布陣図が正しければ、徳川方の右翼の平地側から側面迂回をするのは、妥当性はありますね。
ドラマの中では正面突撃に見えたのは山県昌景を左翼に側面迂回を試みた作戦だったと解釈すると信長の後のセリフの「油断するな」も納得出来る(ドラマ中で山県昌景が戦った所が平地だった辺りから見てもそういう事でしょうね)
但し、問題点は当時は平地というより湿地帯と言ってよいレベルの土地なんで、機動は難しいかなあ。
竹束の盾を解いて地面に敷き詰めて進軍した可能性は無きにしもあらずと言う感じですね。
鉄砲3段打ちが言い出されたのは明治陸軍の戦史編纂からと聞いた事があります。おそらくは19世紀ヨーロッパの歩兵操典の影響があったのでは?騎兵突撃に対して歩兵横隊のマスケット銃斉射。ナポレオンが好んだ3列横隊の順次射撃が元ネタと存じます。勿論、織田・徳川連合軍は各自射撃の方がロスも無いし、3列横隊の順次斉射を当時の指揮系統では無理でしょう。
皆も言ってだけどまさかのダチョウ倶楽部のどうぞ!どうぞ!どうぞ!は笑ってしまったわwうちの親もとなりで笑ってたわwこの時に真田昌幸の兄たちが設楽ヶ原の戦いで2人が死に、真田の家督は昌幸が継承することが決まり、前までは武藤喜兵衛て言われてましたね〜
勝頼が引き返す選択肢を取ったら確実にお陀仏な長篠城の救援どうぞ(;`=ω=)/どうぞ(;`-ω-)/どうぞ(;`·ω·)/
もう、乃至先生との対談動画が楽しみで仕方ありません。倍する敵に突撃敢行はありえないので、通説を覆すどんな話が聞けるのか。
この馬防柵は何kmなのですか?
やっぱりPTSDなんだ? だろうなとは思った。 最初のてんとう虫の一つの命が出てきた時点でおやっと思ったけど…夜にうなされて、蟻の大群がいるのを見ていて泣いていたから、間違いないなと思っていました。 てんとう虫の一つの命と蟻の大群この対比はすごいな!
設楽原・・雨模様に絡む地面等が戦の左右では無いですか?「信長の勝利」は合戦検証に必要な逆算をするといつも謎が多い。
佐久間信盛の「偽投降の計」が画かれなかったですね予め武田勝頼に使者を送り徳川の側面を叩くことを約束してそれを信じた勝頼が突撃を命じたとか(諸説あり)
酒井忠次と金森長近の部隊で攻撃すると思っていたのですが、史実を意味無く無視(フィクションも入れていいがカッコよく見せるのが前提)。そして突撃して撃たれていくだけの戦は呆れました。少なくとも八時間ほど続いて武田が無策な訳が無いのに。
佐久間と水野がよくある最左翼ではなく、徳川陣の方にいるのは納得は出来ますが、馬場信春が佐久間陣を占拠したと言われてる事からは矛盾しますね。
とにかく勝頼がイケメン
3月にお愛の方の実家のあった三河西郷氏の月ヶ谷城から五本松城、松葉城跡、野田城跡を巡る山中18キロの縦走してきました。山登りが趣味の私でも整備されたこの山道で7時間掛かりました。鳶ヶ巣山砦攻略は道なき道の夜中の15キロの行軍など全くもって考えられないほどの厳しさです。常軌を逸しています。
また以前に鳶ヶ巣山砦も行きましたが、車で登るのすらしんどい坂道です。(山頂まで舗装道路になっています)。長篠、設楽原は何度行っても心にドスンと残る場所ですし、見どころの多さも半端ないです。
歴史探偵でのシミュレーションでは武田軍は善戦してましたね~しかし、三方原合戦から設楽原の戦いまでこんなに細かくドラマで描かれていて楽しんではいけないが愉しめました。PTSDに関しては自分も20台前半時に出張先で阪神淡路大震災に遭遇し・・あの揺れ・建物倒壊・大火災・重傷者多数・ライフライン遮断・・我先に助けてくれ!と怒号や暴動等社会人間関係の崩壊を経験しその後数年間はちょっとの揺れでも過敏になったり炎を見ると思い出したり、体調不良が続きました。想像を絶する体験から性格・行動・考え方まで変わってしまう恐ろしい後遺症なんだとさらに数年経って理解出来ました。きっと信康もこの戦で人格が一変したのでしょう・・当時の武士達もきっと夢枕に出てきて怯えたり夢幻と戦ったり寝汗の日々だったのでは?改めて恐ろしい時代だったんだなと感じてます。武士道さんの布陣図お見事でした!
幾つかのどうする家康の解説RUclipsを観てますがミスター武士道さんの動画が1番腑に落ちました。
ドラマはドラマだけど、フォーカスポイントがズレてると違和感があるんだと実感しました。
しかし、長篠と関ヶ原の両戦いは、歴史好きが10人集まれば10通りの考察や解釈がある戦いですね。
いつもためになる動画ありがとうございます。
犯罪被害を受けたPTSDの患者さんの中に再び似たような危ない場所に向かうのは、「次こそは自分は被害を受けない」といった思考に陥ることもあるからだそうですね。
社会的な立場や境遇によっては、辛さを打ち明けられない人は今も昔も多いかもしれません。
信長は自軍の兵を隠して武田側に兵数を少なく見せたという戦術がすごい。
勝頼はまさか自軍の3倍もいるとは思わなかった。勝頼は相手が自軍の3倍もいると知っていれば突っ込まなかったでしょう。
信康PTSD説は物語を見る上で、眼から鱗の解説でした!
信康さんPTSD なってたね、夜信康さん一人で泣いてたシーンは、もしかしたらPTSD の症状だったのかな?戦国時代の、武将さんも、PTSD 心的外傷後ストレス障害なるのかな?わからないけどね?
今回の大河ドラマのテーマは、命ー”戦での多くの者の死が、信康の心ににもたらしたもの”ーだと思う。冒頭で、幼少期の信康がてんとう虫を逃すシーンを思い出す瀬名。そんな心優しい彼が、戦での武勇譚を嬉しそうに語ることに、母親としていち早く違和感を持ち、危惧するのも瀬名だ。信長の戦い方に反対し、”これは戦ではない。なぶり殺しだ!”と叫ぶ信康の言葉こそ、彼の本音だ。そんな心理的葛藤を抱えた信康に気づき、一大決心をするまでの瀬名の表情には、かつて母親から”家族のために戦う時がある!”と諭された時の言葉が蘇ったはずだ。来週以降の信康、築山事件へのアプローチとなる秀逸なプロローグと感じた。
たたちあつ4GあとぁたたちたたたちたたたたgSgrgpiRiqIrgrGqhphQpgphqhqGqhphPhph7gpgpGpgphqIphp7😊😊😂🎉
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😢😢 22:21
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長篠の戦い自体は6月29日で梅雨であり、田も水を張った状態だったと思われます。
また、梅雨時のわずかな晴間に行われた戦いとも言われています。そうだとすれば川の水位もそれなりにあり、基本街道や橋を進むしかなく騎馬隊の突撃というのは考えにくいですよね。
武田側も信玄の時代に火縄銃の弾除けとして竹束で盾が考案されており、長篠の戦いでも盲目的に突っ込むのではなく竹束の盾などを活用して馬防柵に取り付いていたと想像しています。
結果的には勝頼の判断ミスとなった訳ですが、当時の信長を取り巻く状況やこのような場所に砦を築いている様子に対して「本気ではないもしくは攻める兵力がない。対してこちらは精鋭が揃っている。後背を攻められたが逆に戦力が分散されてしまっている。今が攻め時」と判断したこと自体はそれ程おかしい判断だとは思えません。
「センゴク」説の設楽が原の戦いが
鉄砲の使い方が1番腑に落ちますね
織田軍にも犠牲が相当出ているので。
3倍近い兵力差で織田徳川の3割に損害を与えた武田、まさに烈火の如き強さ。
まあ、甫庵先生は現代に例えると司馬遼太郎先生だから、話を面白く脚色するのは見事ですね。
そもそも文献から布陣図を起こすのってすごいですよね。
先日現地に行ってきたのですが、長篠城跡に展示してあった布陣図では秀吉が信長の斜め後ろ(北西)にいてびっくりしました。
いろいろな解釈があるんですね。
物語の歴史に忠実な説明のみならず、信康PTSD説なる大胆な仮説を取り入れた解説にBUSHIDOさんお見事‼️と思わず快哉を叫んでしまいました。
地元では織田信長本陣跡は
茶臼山と呼ばれ最寄りの駅は茶臼山駅です。
新東名長篠設楽原PA隣接で
徒歩で行けます。
設楽原激戦地は南側にあります。機会が有ればお越しくださいませ
動画投稿お疲れ様です。
勝頼が突撃したのはちょこちょこ通説にある敵の数を誤認した説があると自分は思います。
織田方がわざと少なく見せたのもあるかもしれませんが、鳶巣山砦を攻略したのが相当な数の別動隊にやられたと誤認したのでは?と思います。
第4次川中島の戦い時、甲陽軍鑑によれば武田軍は半数を別動隊に当てており、その時の経験等から敵は半数を分けて挟撃をしようとしてるのでは?と思案し
であれば数の少なくなった本隊をいまのうちにやってしまおう。という考えから突撃したのではないかなあと思ってます。
PTSDの話を聞くと、救急隊や警察、病院の看護師、先生の精神力の強さに驚きます。
戦争ジャンキーの軍人もPTSDの一種なのかもしれないのですね。犠牲の形にも色々ある……。
今回の鉄砲3000兆の話とても納得しました。ありがとうございます。
兆?多すぎる😂
馬は現在のサラブレッドではなく、木曽馬で、短足な馬で時速20kmぐらいだった、また音には弱いらしく、鉄砲の爆音にビビるらしい、だから戦さに使うには訓練がいるらしい。
設楽原合戦図、アツいですね。保存しました。
武士道さんの目にも火が宿ってる。
武田軍が突撃した理由として、織田軍の兵力、鉄砲の数や火薬量が少ないという誤った情報を信じたことに加えて、武田軍が突っ込んでいったタイミングで岡崎勢が寝返るという段取りが出来ていたのでは?
でなくても、情報戦に負けて勝頼は判断を誤って惨敗したというのが本当のところでしょう。
0:25 ぐうの音も出ないほどの正論
柵をもってきたのと鉄砲の数は武田も1000丁あって武田の内陸部の地域に対して信長は堺の商人がいて日本の鉄砲の玉の鉛や火薬をタイの国や色々な所から取り寄せられていて鉄砲の玉の数が違っていて沢山打ち込めできた説ありますがなるほどと思っています戦て運や軍事力や戦術あるので深いですね
鉄砲三段撃ちについては、色々な考えがあって当たり前です。また、馬坊作の前に逆茂木も置いてあったと言われています。
鉛は中々無くて、海外から輸入してたから、織田軍は大量にあったんよ!
武田は、足りなくて鉄の玉とか使ってたらしい
敵も味方も少ない人数でなら自由連射的な戦術は使えるけど実際問題現場は戦場で最強の騎馬隊が猛スピードで攻めて来るって時に自由連射は逆に打つタイミング被ったり味方同士ぶつかったり転んだりと混乱するだけだと思います。
信長は3000丁の鉄砲と充分な弾薬と人員を用意したところで鉄砲隊を主力とした今までにない戦術を考えてのぞんだ事でしょうから、最強の騎馬部隊を迎え撃つのに当時のいくさのプロが何を考えたのか…面白いですね。
当然何らか組織的な運用でそれが3段撃ちなのか4段5段…なのか3人1組なのか分かりませんが、とにかく敵を近づけないように鉄砲隊を主力に弓隊や長槍隊も絡めてしっかり準備されたものだったのでしょう。
武田は正面から突っ込むばかりではなくて、左翼の山県や右翼の馬場を中心に柵を迂回して攻める事もしたと思いますが、最終的には兵力差を覆す事は難しかったのでしょうね。
光秀は新参の外様だから畿内に残された訳ではないですよ。むしろ逆です。私なら謀反を起こすかもしれない者を畿内には置かない。天皇を拉致られて錦の御旗持ち出されたらかなり厄介。少なくともこの当時の信長なら天皇がいるところに攻撃できない。故に光秀は留守を任せる程に信用されていると見るべき。だと思いますよ😃
徳川vs山県で徳川軍が崩されなかったこと。中央部隊に佐々、野々村、前田、塙、福富の鉄砲隊がいた事。織田信長自身を囮に使えた事。鉄砲を前から来るものを一対一で仕留めることは難しく、囲むことで一斉射撃に使用したこと。その場所も距離もあること。
今週はいろいろ面白かった
策を示すのかと思ったら、柵を示すだったのか徳川に何も伝わってない・・・
武田も雨の中攻め掛かれば、もっといい戦いできたんじゃないのか
三方ヶ原の徳川もだけど身近で桶狭間の戦いを知ってしまったら自分も出来ると思ってしまうんでしょうかね
お疲れ様です。
何かで見ましたが実際に馬防柵で数人の人が火縄銃を打って見たところ、煙がもうもうと立ち込めて真っ白になり、100人でさえ続けて撃ち続ける事は「ちょっと無理」じゃないか、と言う結論が出ていました。
何段かでタイミングをとって発砲してリズムが出来るより、バラバラでランダムの射撃の方が攻める方にとってはより恐怖かと。
歴史探偵見ましたが、当時は現地が湿地帯であった事で馬も足をとられる事(4秒以上かかる)、戦場の混乱の中でバラバラに空いた場所から鉄砲射つとかよけいに混乱する。
明の絵図からも明らかなように軍としての統率のとれた鉄砲の撃ち方であったことは間違いないでしょう!
大陸の鉄砲は散弾銃に近い火縄銃やったような気がする。
相手が歩兵やのうてほんまもんの蒙古(モンゴル系)騎兵が相手やから向こうの方が三段打ちはしっくり来る。
散弾銃は構えて撃つだけでエエから
史実ではどの程度かは分からないけど、織田勢との圧倒的な軍事力の差を見せつけられて、自分の身に降り掛かるかと思えば、PTSDにもなりますよね。そんな息子を見ていれば、母親なら何かしてしまってもおかしくないですよね。このあとの展開も納得できる演出にするには、あの設楽原の描き方は必要だったはずですね。
今回もお疲れ様です。
信長の本陣は茶臼山ですね。
鉄砲の三段撃ちは馬防柵の三段構えの間違いです。
鉄砲の数は後に秀吉が証したように多くても一千挺だそうで。
4百年以上の間に話がオ一バ一になってしまったのでしょう。
設楽原古戦場跡にも行って観ました。
この頃から信長には家康が目の上のたんこぶに思えてきたのかな?
娘に本心を伝え、今後の役目を命じましたね。
これが信康・築山事件や本能寺の変へ繋がるわけですね。
麒麟が来るでもやってるけど、筒井順慶と細川藤孝の鉄砲隊もいる。
三河鉄砲隊もちょっぴりで
無理栗三千丁揃えた経緯があるよ
信長公記は設楽が原の戦いの前哨戦の事柄がかなり濁されている記述があって、この時は連合軍側が負けていたのではないかという説もありますね。
なんせ、信長公記は信長の負けは記述しないのが、一貫したスタイルだから。
前日までの前哨戦は武田勝頼が長閑斎へ返信した書状に武田側の視点が書かれていますね。
それを見る限り前哨戦では鳶ヶ巣山砦の攻撃に合わせるように織田徳川軍が攻撃を開始して大敗、結果武田軍を釣りだしていますね。
いつもこのチャンネルを見ています。武士道さん、もし良かったらこの時代のマスケット銃の性能を19世紀のドイツ(プロイセン)の軍隊が調べて集弾率や不発率を調べたものがあるので、良ければ読んでみてください。「フサリアはいかに戦ったか」というniftyのサイトにこのプロイセン軍の検証結果の邦訳が載っています。
長篠設楽原の戦いは信長のシェフの描写が今のところ1番しっくり来てる
鉄砲兵の質と練度の違いとか、天然の要塞を使って武田騎馬隊が得意の野戦が活かせない状況に持っていったとか
「我らにとって最も恐るべき相手はどこになる?」
ここの秀吉凄い良い顔してました。秀吉は受け流しましたが、家康同様秀吉も信長に対して物怖じしなくなってきて本能寺以降の展開が何となく垣間見えるような感じになってきましたね。
「我らにとって最も恐るべき相手は…。徳川じゃ。」五徳にだけ呟くように教えていましたが。今まで気の強い扱いにくい姫という感じだったのが、一転して放っておけないようなキャラになってきました。
この場には居合わせなかったですが光秀がいたら何と答えてたんでしょうかね。
(ご参考) 武士道さんが好きになった、五徳姫と言うか久保史緒里さんについて一言。「ちゃん久保」は、ラジオパーソナリティや大河の演技がいいよねー。( by 同郷 & 交流もある サンド 伊達 )
明朝の史料で、日本の鉄砲戦術が解説されていたという説明は面白かったです。
思えば古代中国の三国志時代の濡須口の戦いで、呉の将軍呂蒙が堡塁を築いた上で、一万の弩を並べて曹操軍を撃退しました。長篠の戦いと構図が似ているように思います。
PTSDを描いた創作物なら、クリント・イーストウッド監督のアメリカン・スナイパーは傑作かなぁ。
馬場信春が出てこないのが納得できない、殿で勝頼を逃がしたのに。
話数と予算の問題っすよ。
最初は千梃づつ並んで射撃したと思いますが、時間経過の内に射撃者の球込めに徐々に時差が出ると思うので、3人1組ぐらいだったのかな?でも何処で軍事訓練していたのかなとも思いました。
この前どうする家康をリアルタイムで、観たよ。信康さん役細田かなたさんがめっちゃめっちゃ格好良かった。あとは、歴史習ったり、歴史の漫画で、読んだりした長篠の戦いは、鉄砲が凄かったですでも、信康さんがなんだか、不安な気持ちかな?信康事件がフラグへ、辛くなるよ。
1番可哀想なのはドラマで全部酒井に持っていかれる金森長近
弾込めをする人と射手がいて、弾込めの終わった鉄砲を次々に射手に渡して連射したんじゃないのかなぁ。
弾込めをする人が複数いれば(例えば打ち手一人に対して弾込め役3人・銃も3丁で1ユニット)とかなら、次の発射まで時間短縮できますね。その分、鉄砲隊を布陣できる長さは3分の1になってしまいますが
信長が五徳姫の頬を掴んで、徳川を見張れと言ったシーン、実の娘にあんなことする?と思いました。
役者経験の浅い久保史緒里さん、PTSDにならないか心配です😣
鉄砲避けに竹束を使う話をどこかで見た覚えがありますが、この頃はまだ無かったのでしょうか?
竹束は城や砦の要塞戦で使っていた簡易バリケードやし一応はあったよ、作中やと鵜殿長照やったかなぁ?竹束の綱を射抜いてドヤ顔しとった記憶がある。
逃げんべ(=ω=`;)=3 ···(-ω-`)···
だいぶ前の服部党が出てきたあたり
@@知花信 ありがとうございます。そのシーンあったの忘れてました。
近年の戦場のPTSDだとアメリカンスナイパーで有名なクリス・カイルの劇中描写や死にまつわることが有名ですよね……昨年の実朝のLGBT然り、過去の方々にそれが無かったなんて絶対に言えないですし物語や歴史が更に奥深くなるし改めて好きになれますね
アメリカンスナイパー、ラストはちょっと悲しすぎて信じられませんでした。あれが実話だというのが本当に悲惨。
ウクライナもロシアも、この戦いの結果がどうなっても、その後に社会が大変な事になると思います…
さすがに今回は色々と思うところがあった回でした。Twitterでも憤慨コメがたくさん見られました😂(それこそ平和なんですね)
武士道さんもやはり仰りたいことがたくさんあるみたいで、、
どう家は、戦国武将そのものにリスペクトは感じますが、戦国時代とはいえ戦を美化せずに伝えたい姿勢を感じます。
まぁ、良いように考えたら、それを伝えるために馬に乗ってる時間が長かったんかなぁー、と。
あとは山縣さんの最期を描きたかったのかな、、
私も左衛門尉の苦労を可視化してほしかったです!
Disover → Disorder ですね?
Posttraumatic Stress Disorder とつづられています。
今年のドラマは三河がテーマだと感じます。
三河の質実剛健な気風が世を制したものは、徳川の軍団、そして世界を制しているトヨタ。
そして尾張と三河の対照的な気風の対比が面白い脚本ですね。その観点での考察をお聞きしたいです。
PTSDのDがdisoverとなっていましたが、正しくはDisoderです。細かくてすみません。
初めて聞く話もあって、大変勉強になりました!
ありがとうございました。
鉄砲の扱いに慣れた雑賀衆とかは鉄砲の集団戦法とかに秀でていて、信長は長篠以前に対戦していてそれを真似した可能性はあると思います。いずれにせよ信長のオリジナルではないと思います。
設楽原の織田徳川連合軍の布陣には右翼の徳川軍の先にて豊川までのがら空きの説明図が恰好あります。ならば武田軍は何故にこの側面を突こうとしなかったのか、できなかったのか。馬房柵が豊川まで伸びていたなら納得ですが多くの図では現在の連伍川が豊川にそそぐまでの間の100~200mはがら空きになっています。長篠合戦図屏風(長浜市立長浜城歴史博物館蔵)だけは大きな川まで馬房柵が伸びていますけど。
解説お疲れ様です。😊なんか『設楽原の 戦い』が早足でやった気がしますね。 3:33 色んな説が言われる歴史の永遠の謎ですからね。『戦国ダチョウ倶楽部』 の演出は確かにウケてしまいましたね😂。酒井忠次とかの裏仕事もあっさりが確かにもったいなかったですね。後、勝頼のドラマでの葛藤も退けなかった信玄への偉大さもあったのかもしれないですね。 8:59 は前にNHKで推測されてましたが、機動力を活かして馬防策の切れ目と徳川軍を潰して挟み込もうとしているのでしょうね。正面行こうと見せかけて抜けるというのも考えられてますね。 後日の疑いで水野信元のスパイ説という生きてくる可能性もありますね。ある程度戦ったら機会をみて、もし、水野信元等が裏切り出たら正面後方挟み撃ち、徳川軍が崩れた所で裏から回転ドアの様に挟まれて織田軍も潰す事ができるという軍略もあったのでは?もしかして水野信元が裏切りをためらった為に成立しなかった?という推測をしてしまいますね。こなぜそう思うかと言うとかつて武田軍が裏切りを誘発する作戦をかなり多くして、今川、徳川軍三方原、甲斐、信濃、岡崎での大岡弥四郎、はたまた築山殿(?)等多くの戦国武将やその地方の領主を懐柔してきたからもしかしたら水野信元の他にも呼応していればという算段があったのかな?と思いましたね。
本当に、戦国ダチョウ倶楽部だと思いましたwww
穴山信君(梅雪)が気になる。
今週、様々な伏線的演技が配されていた。
彼は長篠の戦い以降出家して梅雪を名乗り、勝頼と距離を置くようになり、やがて織田・徳川方に離反するという史実がある。
しかしそれだけではなく、予告で「新説・築山事件」に、新しい衣装で絡んでくる姿が紹介されていた。
新説なので、全く展開が読めない。
田辺誠一さんと有村架純さんを配役した意図が、いよいよ明らかになるのかもしれないと思うとワクワクする。
武士道さんの慧眼も借りて楽しみたい。
宜しくお願い致します🙏🏼😊
明朝「軍器図説」史料有難うございます。
勝頼は大器って口では言ってるけど全くその描写がないのよね。やっぱりキャラの書き込みが足りない印象。せめて竹束くらいは武田は使ってほしかった。
いやいや!!
あくまで個人的になんですが、
PTSDの発音部分は、
「ポーツマス!!ポーツマス!!」
を途中で切ってしまったところ以来の面白さで、
食べていた物を吹き出しそうなくらい、ヤバかったです。
失礼しました。(^_^;)
まあ、徳川領の防衛戦だから土地勘のある徳川兵が奇襲かけるのも当然だし、士気の高い徳川軍が右翼最前線を任されるのも当然だよな。
銃って弓のように放物線を描いて遠距離攻撃できる訳では無いし、馬防柵に張り付いて銃撃するのもなんか違う気がするのよね。そこいたら槍でさされない?って思っちゃう。槍兵の間に入ってきて銃打って下がっていくとかそれこそ無理なんじゃね?鉄砲の運用方法、どうなってるんだろね?
防衛戦なら、簡易の鉄砲櫓のようなものを作ってそこからひたすら浴びせるとかかなー。
勝頼の演説にテンション上がる山県と「駄目だこりゃ」という表情の穴山。信長の脅威が家康であることを見抜いた秀吉と「このままじゃついていけなくなるぞ」と言われる佐久間。今後のことを考えると細かい伏線は張られていたんですけどね
そう考えると勝頼を見限った小山田さんと穴山さんは頭が良かったと言えるよね。
互いに対峙する最前線前後の地形、奥行きは大事なポイントですね。武田騎馬隊の実力についても再考して欲しかった。当時の小さな馬(-現代の競馬馬とは全く体格が違う)で山国からの遠征後、どれだけの突撃力、兵装の武士を載せての疾走が可能だったのか~武田の全軍編成中の位置、戦史上勝利に貢献した例なども。
武田騎馬に関しては「馬入り」「能く乗りて」とわざわざ古文書で表現されてるし、騎馬に長けた武士が相当数いたのは間違いないです。
山県隊を中心に柵の中に突入した部隊もいました。
三挺一組なら殿様が二挺持って小姓に弾込めさせた時点で大抵思い着くと思います。弓矢でも小姓に番えさせたりしてましたし😊
どうするドラマでは、酒井忠次隊が迂回奇襲へ向かった事も武田側は情報掴んでいたにもかかわらず増援送らなかったのは何でだろうか?
技術的に考えてみると、あながち鉄砲の威力がそれほどなのかと思います。つまり当時の火縄銃の平均手籠め時間は80秒。実際の戦場ではパニック状態で、この時間より多いと考えると3段撃ちがあったとしても平均30秒弱掛かります。この間騎馬武者は当時の馬(木曽馬)は100Kg近い負荷でも秒速10mは出せたし、歩兵もその半分では走れたと思われます。一方当時の火縄銃の実効的な射程は50~100m位で、連射間隔30秒の間に普通の平原なら1発当たるかどうかです。当たらなければ、馬防策があったとしても接近戦になったときは鉄砲は弱い。ここでは語られていないのは当時の天候で前日来天候が良くなく両者の間の湿地帯がぬかるんで、武田軍のスピードが相当遅くなったと。
ドラマでは山県昌景が疾駆する馬の上で何発も撃たれたように描かれているが、これは絶対に有り得ない。疾駆しているのであれば!
布陣図が凄すぎる。
大東亜戦争の旧日本軍のバンザイ突撃みたいになってて残念
前半は真田兄弟などの活躍で押してたって聞いたことあるけど
大体、武田の将が2人しか描かれてない以上、設楽ヶ原の戦いは何も望めません。何故か武田軍は山県騎馬隊が8割もいるような、織田軍の鉄砲も三段撃ちのような戦いは残念。
そりゃそうだわな、打つ準備が出来た奴からどんどん打つわな、最初はともかく弾込めのタイミングが100%揃うなんて有り得ない、結局銃の数の総数が多ければ途切れなく打つことが出来る様に見えるだけ、それだけ多く桁違いに用意していたと言うことだわね
武田からすると、川があって、坂があって、馬防柵がある感じですね。
坂で速度落とされているところを狙い撃ちにされるという凶悪な感じです。
あと、布陣はどこのものを参考に書かれていますでしょうか?
当時なので正確なものは分からないですが、長篠で購入した布陣図とちがいますので気になりました。
いつも楽しく拝聴しております。
今回の動画で一点だけ気になることがあります。歴史のことではないのですが、英語のことです。画面のボードではPost Traumatic Stress Discoverとなっていましたが, 最後の単語が誤りで、ただしくはDisorder です。障害のことです。Discoverだと発見という意味になり、的はずれな意味になってしまいます。これからも頑張ってください。
今回も面白かったです。
即撤退では追撃を受け損害が大きくなるので、一撃加えてから撤退するつもりだったんでしょうが、返り討ちにあってしまった。信長は兵数を少なく見えるよう野戦築城するなど入念な作戦を立てたのに対し、勝頼は行き当たりばったりになってしまいましたね。
佐久間隊は織田徳川軍の左翼配置だと思っていたのですが徳川隊と同じ右翼なんですね。
そう言えば佐久間隊が偽の寝返り情報を武田に流したみたいな話もありましたね。
「鉄砲三段撃ち」は、本当にあったんですか・・・でも「織田信長」が「長篠の戦い」
で実際に使ったかどうかは、やはり疑問符が残る訳ですね。「豊臣秀吉」の「朝鮮出兵」
の時に作成された明の資料にあるのなら、もしかしたら秀吉が考案したのかもしれませんね。
設楽原の戦いは時代を下るにつれて史料に記される戦死者数が増えていくという話があるそうで、戦い直後かつ客観的に書かれた史料でないと本当のところはわからないのかも……
鉛弾が現代使われへんのって鉛弾が体内に残ると毒に侵されて長生き出来ひんで禁止されとるから
戦意高揚して気分が良かった信康も、我にかえると敵軍の中で
孤立する悪夢がよみがえってきてトラウマに。瀬名姫も
心配してるけど、あと数回でいなくなるのが残念です。
当時の武士の身体能力がどれほどのものか知らないので何とも言えないが長篠は山間部で山間を抜けるなんて想像を絶する困難が予想される
武田勝頼が撤退せずに、父信玄を超えるために無謀ともとれる突撃を選択したという設定、歴史好きには不評かもしれませんが、ドラマ好きには高評価のようですね。
三段撃ちの検証(歴史探偵ではない番組)は私も拝見しましたが、三段撃ちVS迫り来る騎馬隊という構図で、ブシドーさんの指摘通り弓隊等が配置されていたことは考慮されていなかったと記憶しています。
太平洋戦争で戦争神経症の患者に催眠をかけて戦地に送ったアメリカ軍の話も面白いですよ。
五徳ちゃん顔面鷲掴みにされてたなぁ
啄木鳥戦法で追い出されて信長家康本隊と戦うより本田隊と戦って退路を開ける方が容易ではないのですか?
3段打ちがないにしても信長が武田を圧倒したのは確か
家康が震え上がって臣従したのは確か
合戦場の発掘で出た鉄砲玉の数が意外と少ないので、ホントに3千丁鉄砲があったかは疑問視されるそうですね。
三段撃ちは現代の検証では無理とのことですが、素人考えでは、玉込めが撃ち手の3倍いれば連射は可能な気がします。
実際徳川幕府の鉄砲百人同心の根来組が3人一組で射撃に長けた一人が射撃に専念しあとの二人が装填に専念することで早合と併用することで15秒間隔で射撃する根来撃ちという射撃術がありました。信長は堺を抑えて居たので、堺の鉄砲衆が根来撃ちに近い射撃を行った筈です。
当時は鉄砲は最新兵器で存在はしっていても実際に使ったことがある人はあんまり多くなかったはず
実際は鉄砲はあっても扱える人が少なかったため
撃てる人に補助何人かつけて撃ち続けたんじゃないかって説はしっくりくる
となると本当に3人かどうかは疑問やなもっと多かったかも
@@昭和の老兵 そうですね。本願寺や雑賀衆の鉄砲隊にも散々悩まされてたようですから、鉄砲については相当研究してたでしょうしね。
@@ah4154 三段撃ちの素朴な疑問として、一人ずつ撃ち手が交代するのは非効率すぎる点です。1000人の鉄砲の撃ち手を交代させるより、300人の撃ち手名人に玉込めした鉄砲を次々と渡した方が効率がいいはずです。3万以上の大軍勢ならスペースが許す限り補佐が大勢いてもおかしくないですし。
また、これも素人考えですが、騎馬隊を撃つ際は、馬を狙ったんじゃないでしょうか?
馬なら人間より的が大きいし、何十キロの鎧をつけた状態で落馬すれば、乗り手はただじゃすまないはずです。そこを弓や槍で仕留めれば、鉄砲玉の節約になると思います。
@@tomo328ci
残念だけど騎馬突撃は絶対にありえないと思う。
馬防柵を引き倒した後馬を突撃させるはずなんで
もしかしたら馬防柵迂回部隊として少数いたかもしれない程度
おそらく竹を束ねた盾を軸に歩兵が戦っていたと思われる。
この戦い信長側にもかなりの死傷者が出てる泥仕合になったらしいですし
秀吉がやや後方なのが彼らしくて面白い
歴史探偵での大森南朋の、苦虫を噛むような表情の理由がわかったような気がした。
信康と諱で呼ぶシーンがあったような
布陣図が正しければ、徳川方の右翼の平地側から側面迂回をするのは、妥当性はありますね。
ドラマの中では正面突撃に見えたのは山県昌景を左翼に側面迂回を試みた作戦だったと解釈すると信長の後のセリフの「油断するな」も納得出来る(ドラマ中で山県昌景が戦った所が平地だった辺りから見てもそういう事でしょうね)
但し、問題点は当時は平地というより湿地帯と言ってよいレベルの土地なんで、機動は難しいかなあ。
竹束の盾を解いて地面に敷き詰めて進軍した可能性は無きにしもあらずと言う感じですね。
鉄砲3段打ちが言い出されたのは明治陸軍の戦史編纂からと聞いた事があります。
おそらくは19世紀ヨーロッパの歩兵操典の影響があったのでは?騎兵突撃に対して歩兵横隊のマスケット銃斉射。ナポレオンが好んだ3列横隊の順次射撃が元ネタと存じます。
勿論、織田・徳川連合軍は各自射撃の方がロスも無いし、3列横隊の順次斉射を当時の指揮系統では無理でしょう。
皆も言ってだけどまさかのダチョウ倶楽部のどうぞ!どうぞ!どうぞ!は笑ってしまったわwうちの親もとなりで笑ってたわw
この時に真田昌幸の兄たちが設楽ヶ原の戦いで2人が死に、真田の家督は昌幸が継承することが決まり、前までは武藤喜兵衛て言われてましたね〜
勝頼が引き返す選択肢を取ったら
確実にお陀仏な長篠城の救援
どうぞ(;`=ω=)/どうぞ(;`-ω-)/どうぞ(;`·ω·)/
もう、乃至先生との対談動画が楽しみで仕方ありません。
倍する敵に突撃敢行はありえないので、通説を覆すどんな話が聞けるのか。
この馬防柵は何kmなのですか?
やっぱりPTSDなんだ? だろうなとは思った。 最初のてんとう虫の一つの命が出てきた時点でおやっと思ったけど…夜にうなされて、蟻の大群がいるのを見ていて泣いていたから、間違いないなと思っていました。 てんとう虫の一つの命と蟻の大群この対比はすごいな!
設楽原・・雨模様に絡む地面等が戦の左右では無いですか?
「信長の勝利」は合戦検証に必要な逆算をするといつも謎が多い。
佐久間信盛の「偽投降の計」が画かれなかったですね
予め武田勝頼に使者を送り徳川の側面を叩くことを約束してそれを信じた勝頼が突撃を命じたとか(諸説あり)
酒井忠次と金森長近の部隊で攻撃すると思っていたのですが、史実を意味無く無視(フィクションも入れていいがカッコよく見せるのが前提)。
そして突撃して撃たれていくだけの戦は呆れました。少なくとも八時間ほど続いて武田が無策な訳が無いのに。
佐久間と水野がよくある最左翼ではなく、徳川陣の方にいるのは納得は出来ますが、馬場信春が佐久間陣を占拠したと言われてる事からは矛盾しますね。
とにかく勝頼がイケメン