死んだらみんな天国に行くの? 万人救済説の5つの間違い 後編1

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  • Опубликовано: 12 сен 2024
  • 2018年2月4日 日曜礼拝メッセージ
    「死んだらみんな天国に行くの? -万人救済説の5つの間違い- 後編1」
    万人救済説(普遍的救い, ユニバーサリズム)をテーマにメッセージをお送りします。
    ずばり、イエス・キリストのもたらした福音は、それを「信じる人」も「信じない人」も、全員天国に送る切り札なのでしょうか?
    以下の三段論法は、一見正しく見えます。
    「神は愛である」・・・これは納得頂けるでしょうか。
    「神は万能である」・・・これも素晴らしい神の性質です。
    「ゆえに神は全人類を救う」・・・あれ?当然の結論に思えますね。
    果たして「神の愛」の本質とは、どのようなモノなのでしょうか?
    「万能の神」に出来ないこととは何でしょうか?
    聖書の主張する「救い」とは、一体何なのでしょうか?
    実は、神のご性質は、万人救済説と相容れません。
    一緒に聖書を紐解いてみましょう。
    聖書箇所: 創世記 2:16-17, 3:4-5, ヨハネによる福音書 3:5-36, ルカによる福音書 15:11-20
    www.olive-church.net
    kobuchizawa.olive.church
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Комментарии • 27

  • @user-te6vc6qu1x
    @user-te6vc6qu1x 2 года назад +2

    疑問への答えが沢山もらいました。ありがとうございます

  • @user-ng3zc4ir4x
    @user-ng3zc4ir4x 5 месяцев назад +1

    人間の自由意志を無視、先生ナイス!その通りだね。うちにとっても素晴らしい気づきになった。これは万人救済の根本問題だね。

  • @user-qv2wm4hn8g
    @user-qv2wm4hn8g 5 месяцев назад +2

    大変分かりやすく、勉強になります。聖書を素直に読めば、先生のお考えは筋が通っていると思います。ただ万人説にも論拠がないわけではなく、二千年も論争が続いているのは無理からぬこととも思います。人間には決着をつけられない問題なのでしょう。私たちにできることは、人間の知性がいかに貧弱であるか、神の愚かさにも遠く及ばないことを認め、自分と友人、隣人、親族の救いを主なる神様に祈り求めること以外にないような気がします。ありがとうございました。

  • @user-ng3zc4ir4x
    @user-ng3zc4ir4x 5 месяцев назад +1

    人間の自由意志を無視、先生ナイス!その通りだね。うちにとっても素晴らしい気づきになった。これは万人救済の根本問題だね。万人救済を理解するための対異端及び悪魔武器の為の重要なポイントとなった。しかもうち、万人救済的天国論があったかも。これで長年天国とか死後の世界のことで平安なくして苦しんできた。

  • @user-dx7xk9uf9y
    @user-dx7xk9uf9y 3 года назад +4

    冒頭から頭の中が真っ白になりました。。。神様とイエス様に申し訳なくて恥ずかしいです。三年後で私はこの動画を拝見しているのですが、東京にある有名な大型書店で「本物の聖書を!」と宣伝され新しい本物の写本があり現在私達が読ませて頂いている聖書はニセモノだ、と。。。
    古に命懸けで写本を守り殉教された方々がいらっしゃり、何度も滅ぼされそうになっても決して聖書を奪うことは出来ませんでした。
    神様の大いなる恵みを受けて異邦人の私達も救っていただけた。
    聖書を越えて語ることをパウロ様は厳しく戒められました。その後その牧者はどうしたのか群れはどうなったのか心配ですが。
    続きを探して拝見したいと思います。ありがとうございました。

  • @ryun5655
    @ryun5655 5 лет назад +2

    天国行きたいなー

    • @olive-church
      @olive-church  5 лет назад +2

      そうですね、行きたいですねー!

  • @cat_bicycle
    @cat_bicycle 6 лет назад +1

    牛、いいですね。
    小淵沢ってめちゃくちゃのんびりしてるんですね。

    • @olive-church
      @olive-church  6 лет назад +2

      ご視聴ありがとうございます!
      実は、小淵沢と同じ八ヶ岳周縁、長野県の原村、八ヶ岳中央農業実践大学校の牛です。
      直売の農産物や乳製品がおすすめです。ぜひ一度お越し下さい。

  • @user-te6vc6qu1x
    @user-te6vc6qu1x 2 года назад

    自由意志により選択の自由があるが、神に従う選択をするかは、愛があるかが見れる。って解説ですね
    アダムは神への愛が無い事が判明した。

  • @user-um5pm5rh3d
    @user-um5pm5rh3d 2 года назад +1

    病気が見つかり6かげつ薬をのまなければならなくなりました。教会にほうこくしたら
    病気が移るから礼拝こないでね。になり動画でみれるしかたを教えてもらいました。その後コロナが流行り礼拝の自粛になり、礼拝にいけなくなり、
    教会せきがなくなりました。礼拝にきていないから週報ボックスの名前がなくなりました。えっ?教会?礼拝?ってなんなんだろうとしてます

    • @olive-church
      @olive-church  2 года назад

      ご病気大変ですね。祈りますね。ご視聴ありがとうございます。

  • @abbie0906
    @abbie0906 3 года назад +4

    最近、こちらの放送を拝見するようになりました。
    私はカトリックなのですが、カトリックでも地獄は、自ら選んで神の愛を拒絶したものがいくところと教えられています。
    自分から望んで神に背を向け、神の救いを拒む…そのような存在も確かにあるのだと思います。
    また、煉獄と言われてるところもあって、こちらは罪を犯したものが悔い改めキリストの再来のときに共に復活するという希望をもって、そのときを待って眠りについているところとされています。
    やはり、カトリックの神父のなかにも万人説的な甘い言葉で毎年100人という単位で若者たちを洗礼に導いてる人もいて、ある修道会の老神父はその煉獄や地獄を語らない若い神父に対して大変衝撃を受けたと嘆きの記事をカトリック新聞に投稿しておられました。
    神父のなかにも牧師のなかにも、そのような安易な愛を呼びかける方がいるのは大変嘆かわしいことだと思いました。
    いまこの放送を聴けて、とても良かったなと思いました。

    • @olive-church
      @olive-church  3 года назад +1

      ご視聴ありがとうございます!神様が用意して下さった方法以外では人は救われないのですから、それを伝える指導者の責任は本当に大きいですよね。身が引き締まります。
      ところで、「死後の救い」についても、聖書からメッセージを語ったことがあります。こちらもあわせてご参考にして頂ければ幸いです。
      ruclips.net/video/-e8F1MVBYho/видео.html

    • @abbie0906
      @abbie0906 3 года назад +1

      返信ありがとうございます。
      一昨日、たまたまRUclipsで牧師さまの明快なお説教に触れ、昨日今日と少しずつお話しを拝聴しております。
      今日はpodcastに登録させていただき、沢山の履歴のなかから特に興味深かったこのお説教を聴かせて頂きました。
      風光明媚な環境にあり、牧師さまも信徒さまたちもとっても明るくて楽しげに生き生きと集っていらっしゃるご様子が大変新鮮でした。
      教えていただきましたところもこれから早速拝聴させて頂きます♪

  • @茶々丸太郎-j2h
    @茶々丸太郎-j2h 2 года назад +2

    こんにちは、私はつい最近万人救済論者になったものですが、この動画を興味深く以前視聴させていただきました。
     この動画を見ても、私はあえて万人救済説を支持します。
     3つ万人救済論への否定的見解の理由として先生は1つ聖書的ではない、2つ神の義を軽んじている、3つ自由意志を無視しているを挙げられました。
     一つづつ反論しますと、聖書において万人救済的な箇所は更に複数箇所あり、1コリント15:22、エペソ1:20、ローマ5:18など他にも挙げられ、決して非聖書的ではありません。アレキサンドリアのクレメンス、オリゲネスなど古代の教父も聖書から万人救済的な立場に立っており、現代でも正教会は万物の救済を否定しておらず、改革派でもカール・バルトが万人救済論的な結論に至りました。
     地獄の箇所に関しては、万人救済論は教訓のための寓意的な意味であり、字義的な解釈を施さないというスタンスを取るので本動画での聖書では地獄を明記してしているという主張は前提から的外れとなります。
     2つ目、神の義に関しては、本動画で神の怒り(刑罰代償)を強調しておりますが、その解釈はカルバン主義の教義であって、キリスト教全体の共通認識ではありません。それに万人救済説は全ての人がイエスと出会い、悔い改めに導かれるという希望において神の義が満たされると考えます。
     3つ目、自由意志の問題ですが、自由意志故に神を拒絶することは人間にできますが、人は神の似姿に作られているため、イエスと出会い、神の愛に触れられるならはば、応答せずにはいられなくなると考えます。
     万人救済論は天国に行くためには信仰、悔い改めが必要無いと説きますが、信仰、悔い改めを軽視している訳ではなく、信仰と悔い改めは神と出会う時、必然的に起きるものであると考えます。そしてそれは死後にイエスにあった時も変わりません。
    以上、未熟な者で説明しきれませんが、万人救済説はこの動画の批判で打破されるほど歴史は浅くなく、論理は貧弱ではありません。
    結論として言いたいのは、キリスト者以外の人々の死後の救いへの希望を捨てないで欲しいです。全ての人はキリストと出会います。神は最後の1匹の羊が見つかるまで、99匹を置いて探し続けられる方なのです。

    • @olive-church
      @olive-church  2 года назад +1

      ご視聴ありがとうございます。万人救済論についてのご意見、伺いました。
      各論についてお答えしても平行線になるかと思いますので、全体を通して申しますと、やはり「愛である神は一人残らず救うはずだ」という人間側の思いが先にあり、それを前提に聖書を読んでおられるように思います。
      以下の動画は、万人救済論について直接語ったものではありませんが、私達が大切にしている聖書の読み方について述べています。
      また、動画の概要欄にも参考となるリンクが記載されていますので、合わせて御覧下さい。
      ruclips.net/video/-e8F1MVBYho/видео.html
      茶々丸様の聖書研究の歩みや信仰生活が豊かに祝福されますよう、お祈りします。

    • @茶々丸太郎-j2h
      @茶々丸太郎-j2h 2 года назад

      @@olive-church 「愛である神は一人残らず救うはずだ」という人間側の思い、この前提が万人救済論に対する偏見です。聖書を見て、神は全ての人が一人残らず救われる事を望んでおられると書かれているので、これは人間の思いと同時に神の願いであることは明白です。つまり万人救済論の全否定は神の望みの否定であり、神の主権の否定です。それはむしろ聖書的ではありません。
       本来なら物的な地獄の教理を肯定していても、伝統的なキリスト教の立場としては、全ての者が贖われる望みは否定して良いものではありません。その点に置いてこの動画は大きな疑問点を残します。

    • @user-rg2gj3od1o
      @user-rg2gj3od1o 6 месяцев назад

      主権は創造主なる神にあります。その神が罪人になってしまった被造物に過ぎない人間を天国へ引き上げようが、地獄へ落とそうが全くの自由です。 
       幸いなことに神は、主イエスを世に送られたことで救いの道を開かれました。ここに神の愛があります。この真理を拒むなら地獄行きは仕方ありません。

  • @user-zb1od6ey5b
    @user-zb1od6ey5b 5 лет назад +2

    むしろ神の愛を誤解してるのはそっちだと思う
    プロポーズした相手の女性がNOと言ったからって、その女性が地獄の業火に焼かれることをよしとするか?
    ”愛”があるなら、たとえ自分の元でなくても少しでもいいところにいけるよう計らうだろう
    むしろこの言い方だと、地獄に送られたくなかったらプロポーズを受けろと脅しているようにも思える
    そもそも、全能である神が神を信じないものを”救えない”というのはありえない
    神を信じないもの、つまり”救い”というプレゼントを受取拒否する人が”救われない”のなら、
    それは”自由意志を尊重する”という形で、神の意思で”救わない”のだ
    地獄に行きたがる人なんてこの世にいないのに、神を信じなかった、プロポーズを受けなかっただけで
    「じゃああなたは地獄に行きたいんだね?」って勝手に受け取って”救い”を与えない
    これが”愛”の神か?それこそ性質の悪いストーカーにしか見えない
    あと、聖書の内容がすべて正しいとするなら、この世の大半の人間は地獄行きということになるが、
    それを見て"愛”の神様はなんとも思わないのか?
    聖書でも天国に行くのは難しいと言っているが、ならばなぜ大半が地獄行きと知っていながら、
    (あなたも人間の本質は滅び(地獄行き)と言っているが)人間をこの世に生み出したのか
    過半数が永遠の苦しみに落ちると分かっていながら人間を生み出すのは愛の神どころか地獄の鬼だろう
    あなたの言うことは矛盾が過ぎる。万人説のほうがよほど神の愛にそぐうと思う

    • @olive-church
      @olive-church  5 лет назад +6

      動画をご視聴くださりありがとうございます。
      そして、非常に丁寧且つ鋭いご指摘を感謝します。
      万人救済説に関する3回の話は、「聖書を信じていると言いながら、聖書が語っているのとは明らかに異なる神像を作り上げることに対する警鐘」として語らせて頂きました。
      そして、メッセージの中でも訴えていることですが、聖書は親しみやすい「愛の神の性質」と共に、明確に「義の神の性質」や「人間の罪への神の怒り」「信じることによって与えられる救い」「死後の裁き」等についても明確に述べています。これらすべてをありのまま受け取る場合、どのように考えれば整合性が生まれるのかということを考察するすることが目的でした。
      夜想神奈様の感じている矛盾は、私の話す内容というよりも、むしろ上記のような「聖書に書かれていること」に対する疑問だとお見受けします。
      もちろん私にも、聖書を真剣に読み進める中で、「自分の考える神との乖離」や「愛の神ならなぜ・・・」といった思いが無かったわけではありません。
      しかし、聖書を学ぶにつれて、聖書のすべてが真実であり、聖書の記載を自分の好みに引き寄せて強引に解釈するのでなく、書かれていることをありのままに受け入れるべきと考えるに至りました。
      もちろん、有限の世界に生きる私達は、永遠の神様について全て理解することは不可能なので、私の解説で疑問を100%解決できるとは思っておりません。夜想神奈様の感じる疑問ももっともな部分があることを認めます。
      しかし、自分の裁量で聖書のある部分を受け入れ、気に入らない部分は無視するという姿勢であるよりは、人間にできる精一杯の考察を試みた上で、最終的には「私の理解できる理想的な姿だが、空想上の神」ではなく、「私の理解を超えるが、聖書を通して等身大の姿を啓示している神」を信じる方が正しいのではないかと考えています。
      ところで、頂いたコメントからは、私の解説に納得しておられないことは理解できましたが、夜想神奈様が何を信じていてどのようなお立場なのか正確に判断できませんでした。
      もし、「死後の裁きを説く聖書がそもそも嘘っぱちなのだ。全ての人を救う愛の神を信じる」という立場でしたら、何を根拠にしてその神像が生まれているのか是非考えて見てください。神からの啓示によらないでは人間は神について知ることはできないと聖書は説いており、本当にそのとおりだと私は思うのですが、いかがでしょうか?
      「そもそも神などいない」というお立場でしたら、是非引き続き聖書について調べ探求して頂きたいと思います。聖書は「全宇宙の創造者がいる」「その方は誰よりもあなたを愛し、特別な存在として作った」「その方は、あなたの罪を除き、永遠に交わることを望んでいる」ということが書いてあり、それが本当であると信じる十分な根拠を提示しています。
      ぜひ熟考頂きたいと思います。

    • @user-zb1od6ey5b
      @user-zb1od6ey5b 5 лет назад +1

      @@olive-church
      丁寧な返信に感謝します
      まず、疑問に思われた僕自身の神に対するスタンスですが、まず前提として神は確実に存在すると考えています
      これは当然のことで、この世が生まれた成り立ちは科学では立証できず、どこかで必ず超常の存在に行き当たり、それを人は"神”と呼ぶからです
      僕が疑っているのは次の2つです。
      ・神は”愛”の存在である
      ・聖書の内容そのもの
      この2つのうちどちらかは確実に間違っていると思っています
      その理由は先にお話したとおり、”地獄”の存在そのものが神の愛と矛盾しているからです
      いくら神が”義”の存在でもあると述べたところで、そもそも神が人に原罪を背負わせて生まなければ罪を犯す人はいませんし、
      地獄に送られる人もいないはずです
      原罪を背負わせて人を作り、その咎で人を地獄に送ることは”義”の言葉では説明できません
      よって、聖書が正しいとした場合、神の”愛”は私達の思う”愛”ではありません
      気に入らない人間を火にくべ、気に入った人間のみを手元に置く選民思考が根底にあります
      つまり、結論としては
      ・聖書は間違っており、神は万人を救う"愛”の存在である
      ・聖書は正しいが、神の愛は我々の思う愛ではない
      このどちらかしかありえません
      僕は後者の可能性が高いと思いますが、仮に後者だとしたら僕は神の愛を信じられません。
      自分で原罪を背負った人間を生み出し、その罪を”自由意志”の言葉の元に有罪として地獄に送る神の”愛”はゆがんで見えます
      神の在り方は我々人間には理解が及ばないと
      多くの聖職者の方はいわれますが、それはただの思考停止ではないでしょうか?
      少し考えれば、地獄の存在と、我々原罪をもって生まれた人間の存在そのものが、神の在り方と矛盾することに気づくはずです

    • @olive-church
      @olive-church  5 лет назад +2

      ご返信をありがとうございます。
      まず第一に、
      >神の在り方は我々人間には理解が及ばないと 多くの聖職者の方はいわれますが、それはただの思考停止ではないでしょうか?
      という部分ですが、私が思うには、これは思考停止ではなくむしろ理性的な思考の結果です。
      時間と空間の中で生きている私達が、時空を超えた存在を完全に捉えることはできないというのは自明のことで、その大前提に立つことは極めて理にかなっていると考えます。神を人間の有限のちっぽけな脳みそで完全に理解し得るという前提の方が、そうとうに無理な飛躍があると思うのです。
      神を完全には理解できないであろうが、人間が神について理解すべきある程度の内容は啓示によって与えられている可能性はあり、その啓示を見れば、それが本物かどうかを判断するための十分な判断材料が与えられているはず、というのが私の前提です。
      もし神がご自身ついての啓示をそもそも与えていないのであれば、このように一生懸命に神について考え論じ合うことすら無意味に帰すと思います。神について人間は何も知り得ず、ただ「「神様ってこんな感じかも」と想像するだけであれば、人間存在の意味や理由も人間は明確には知り得ないということになり、生きている意味さえ失う、そう考えております。(特に同意を求めている訳でありません。私の思考のなかではそういう結論になるというだけのことです。)
      さて、「原罪をもった人間を自分で生み出し」という部分ですが、私も「私が原罪を持っているのは私のせいではないのだから、そのせいで私を地獄におとすのはおかしい」とかつては考えておりました。今は、考えが変わりました。というのは私が地獄に堕ちるとすればそれは究極的には原罪のせいではなく、「神のことばを信じない」という自らの選択の故です。何故なら、信じることで原罪の問題は解決できると聖書は教えているからです。しかし、「信じない」問題は解決できない。
      神はもともと人間を罪のないものとして作られました。が、最初の人間は「食べたら死ぬよ(この「死」とは神との永遠の断絶の意)」と言った「神のことば」を信じず、悪魔の嘘を信じてしまった。だから、原罪が人間に入った。今の人間は原罪をもって生まれますが、「神は人間のために大きな犠牲を払って救いを用意された」という「神のことば」を信じない故に裁かれるのです。「神のことば」を信じるか否かという選択が与えられ、信じなかった場合の結果も告げられ、「さあ選びなさい」といわれている。これは世の初めも今の時代も変わりません。「神のことば」を信じない故に堕落した人間に、「神のことば」を信じることで再度救われる方法を神は提供しているというのは実に理に適っていると私は思います。
      では、なぜ神はそもそも選択をお与えになったのか。動画でも説明しましたが、それは愛の関係の成立のためです。この部分が同意頂けないようですが、これを繰り返すしかありません。NOの選択を持たない人間はロボットと同じ。神はロボットではなく愛し愛される対象として人間を創造されたのです。
      お書きになっている内容を見るにつけ、自由意志とは何かということについて、見解の相違があるように見受けられます。
      動画の中で繰り返し申し上げたように、自由意志には結果に対する責任が伴います。夜想神奈様は神が「自由意志の名のもとに人間を地獄に送る」と書かれましたが、その言い方では人間が自分で選択した結果の責任は神にある、ということになっているように見えます。
      自由意志を付与された存在はその選択の結果を「もはや他者のせいにできなくなる」からこそ、それは自由意志なのであって、その結果をまだ他者のせいにするのは、論理的におかしいと考えます。
      たとえば、父親が娘に「パパの書斎に入って仕事の書類をいじっちゃ駄目だよ。この約束破ったら怒るよ」と言ったとして、この意味をすべて理解でき、自制する成熟さに達しているはずの娘が、それでもルールを破ったとしましょう。告げておいたとおり、私は娘を怒ったとします。その時娘が「私がこんな辛い目にあうのはパパのせいよ」と言ったら、その主張は正当でしょうか?父親の立場からは、自らの選択の過ちの責任を転嫁することでさらに大きな罪を犯しているという風に見え、実に残念な気持ちになるでしょうね。(聖書によればこの「責任転嫁」の思考の傾向こそが罪の性質です。)

    • @olive-church
      @olive-church  5 лет назад +6

      ところで聖書は、神は人間の反抗により激しく傷つき怒っているといいます。そして、この怒りは正当な怒りであると。しかし、神が人間に自由意志を与えなければ、神が怒る必要さえありませんでした。ロボットがプログラムどおりに反抗の意志を示したところで、怒る必要があるでしょうか。怒ることがなければ赦すために苦しむ必要もなかった。父なる神が子なる神を犠牲にするという究極の苦しみを神は通り、人間に救いの道を用意した。
      すなわち、人間に自由意志を与えるとは神にとっても相当な賭けだったといってよいわけです。将来がすべて分かっている全知の神に「賭け」という言葉が適当かは分かりません。しかし、自由意志という、全能の神の手をもってしても侵害できない領域をつくるという意味でそれは紛れもなく「賭け」に近いのではないかと私は思っています。
      聖書によると神は愛であると同時に完全なる義なる性質をお持ちです。「義」とは完全にフェアであることを要求する性質とも定義できます。AさんがBさんの100万円のツボを壊したら、100万円で償わなくてはならない。誰かの命を奪ったら命をもって支払わなくてはならない。旧約聖書にある「目には目を歯には歯を」の原則です。そして、この関係性も両者が自由意志をもっていることが前提です。自由意志は、両者が対等であることを可能にします。人間が神に罪を犯せば、人間に対して同じものをもって償ってもらいましょう、ということです。人間が犯した罪に対し神は相応の報復をする。それがフェアであって、人間はそれに対し文句を言えません。
      その意味では最初のコメントにあった、「相手を愛しているなら自分の元に来なくても相手の幸せを願うはず」という考えはフィットしません。言いたいことはすごく分かるのですが、これは神の義の性質の要素を全く無視した考えです。
      神の義と神の愛の究極のジレンマの解決方法として神の御子の十字架があるのであって、どちらが欠けても十字架は必要ありません。
      人間を救わずに怒りをただぶちまければ神にとって楽であったはず。しかし、神はそうではない選択をして、自ら大きな痛みを負うことで究極の譲歩をしています。これが神の愛です。罪のゆえに神との距離が1万Kmできてしまったとして、それを埋めたければ本来であれば、その原因を作った人間側が努力でそれを埋めなければならないところです。しかし、神の側が9999.9mの距離を埋めて近づき(しかもその道のりには極限の苦しみが伴っている)、人間が手を差し伸ばせば届くところまで来てくださっている。にも関わらず、最後の10cmを埋める意志も示さず反抗するばかりか、「反抗しても天国連れていけよ、それが神の責任だろ」、と言わんばかりにその手を拒絶するなら、もう神としてもできることはないでしょう。人が神の永遠の断絶に入るのは、神にとっては悲しみで胸が張り裂ける気持ちですが、その人の選択の結果はもはや「神のせい」ではありません。神は物事の責任の所在を区切る明確な「境界線」をお持ちです。
      「全能だからその10cmも埋めれるだろ」というでしょうが、ここで言っている10cmはすなわち自由意志による選択のことです。前述のように、神は愛の成立のために自由意志を与えましたが、それが原因で御子を犠牲にしたのです。それなのに、その御子を信じるかという部分で人間の自由意志を突然無視して全員を自動的に天国入りにするのでしょうか。それでは、最初からなぜ自由意志を与えたのか、何のために苦しんだのか、ということになり全ては茶番となるでしょう。
      「たかだか木の実を食べただけで罰が重すぎるだろう」と言いたくなると思いますが、それは罪の重さを人間の尺度で測っているだけで、それ自体がすでに的はずれです。
      更に言えば、聖書が語る人間の罪の重さとは、神が人間を救うために御子を遣わして愛を示し、数々の奇跡でその神性を証明してもなお、その罪なき方を極悪人として極刑に処す、という罪の重さです。実際にその行為に手を下したかどうかではなく、同じ状況下では同じことをしていたであろうという意味ですべての人は同じ罪性をもっている。神はそれを裁かれます。

    • @olive-church
      @olive-church  5 лет назад +8

      大半の人が地獄に行くことを最初から知っていてなぜ自由意志を与えるのか?確かに・・・。するどい指摘です。聖書に明確な記述は無く、あまりうまく答えられませんが、なんとなく私は次のようなイメージで捉えています。
      神にとって、自分の創造物である人間と永遠の愛の世界を築くという「無限の喜び」と愛する創造物に裏切られ正当な裁きを下さねばならぬという「無限の悲しみ」とを天秤にかけた場合、どちらが勝つのでしょうか。どちらも無限なのでどちらも勝ちはしません。ということはつまり、神がどちらをとってもおかしくないということになります。それに対し、「どうしてそっちをとったのよ」と人間は質問したくもなるでしょうが、神には人間にその理由を言わなければならない説明責任などありません。そもそも人間を作らなければその質問をする人さえいないのですから、ある意味人間が存在しているという事実そのものが答えになっているとも言えるかも知れません。いずれにしろ、「聖書に説明が無い」ということは、神は人間にあえて啓示する必要がないと判断されているのであって、そのことが「聖書が間違っている」という結論には繋がらないと思います。
      ちなみに、聖書は厳密には「大半の人が地獄」とは言っていません。「狭い門から入れ、滅びに至る門は広い」とは人類の大半が地獄という意味ではなく(実は私も昔そう思っていたのですが)、当時のパリサイ的ユダヤ教(広い門)ではなくイエス(狭い門)を通して入れという意味です。なので、厳密には人類の何%の人が地獄かは私たちには知りえません。
      さて、頂いたメールを受けて、思いつくままを書きましたが、動画を見て納得しなかった夜想神奈様に、今回は納得の行くように説明できたとは思っておりません。私も聖書の内容で理解できないことや「変だよ」と思うことがまだあります。しかし、納得できる聖書の凄さが他にはるかに多いので、「信じない理由」より、「信じる理由」の方が圧倒的に勝ってしまうのです。例えば弟子たちが命を捨ててまでキリストの復活を証言した事実や、明らかに成就している預言、その他にも、神が介入していると考えないと説明できないことが多すぎ、聖書が歴史の偶然でたまたま出てきたものであるとは到底考えにくい。一方、神について「分からないこと」が信じない理由になるかというと、冒頭で書いたように神の超越性を考慮に入れると厳密には「信じない理由」にならない。しかも、聖書を研究するにつれ、かつては納得できなかったことが段々と自分なりの説明ができるようになるという方向にあります。
      そんな訳で私はクリスチャンです。
      夜想神奈様にも是非諦めずに聖書を研究し続けてほしいと思います。