日本に渡った百済王族と大阪の遺跡百済王氏の氏寺『百済寺跡』 l 大竹弘之(靑邱考古研究院)

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  • Опубликовано: 10 фев 2025
  • 古代日本における渡来人集団の中心であった百済王氏!
    663年、白村江での百済復興軍の大敗で、義慈王によって倭国に派遣されていた王子の禅広は、兄の豊璋と帰るべき祖国を共に失った。そこで天智天皇に難波に居住を許され、持統朝には「百済王」の称号を受け、朝廷に仕えた。この頃に営んだ氏寺が摂津百済寺(堂ヶ芝廃寺)と百済尼寺であった。
    禅広の曽孫、百済王敬福は、天平21年(749)に任地の陸奥国で砂金を発見し、黄金900両を東大寺盧舎那仏造立に腐心中の聖武天皇に献上する。敬福はその功により破格の位階昇進を遂げ、以後の一族の処遇を盤石なものとした。また敬福以降、一族から陸奥・出羽等の国司や鎮守府の高官への補任が打ち続く。
    桓武朝、長岡京遷都の頃には百済王氏は河内国交野に移住し、新たに交野百済寺を造営していた。交野で桓武天皇の信任を得て寵を受けたのが敬福の孫、百済王明信であった。桓武・嵯峨両天皇の頻繁な交野行幸の折毎に、百済寺一帯を舞台に饗応を繰りひろげ、一族は昇進にあずかる一方、後宮に子女を入内させ、外戚としての地位も固めたという。しかし桓武天皇崩御後には次第に逼塞していく。
    百済寺跡はこうした百済王氏の交野移住以後の活動の舞台であり、盛衰を共にした遺跡であった。そして百濟王神社が百済寺跡とともに百済王氏の歴史を今に伝えている。
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