【ゆっくり解説】旗本から大名に成り上がった一族

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  • Опубликовано: 17 окт 2024

Комментарии • 39

  • @山本裕介-q9g
    @山本裕介-q9g 6 месяцев назад +18

    意次が亡くなった時彼の屋敷内は極めて質素な佇まいであり金子も殆どなかったと伝えられている、また彼は今で言う銀行の設立を構想していた極めて先進的な考えの持ち主だった、加えて彼の「賄賂政治家」と言う悪評を広めたのは定信であったとも言われている。

    • @M4XxY8sj
      @M4XxY8sj 6 месяцев назад

      悪評もクソも田沼意次の時代に、汚職が増えたのは資料からも読みとれる
      また、彼が特別清廉といえるような資料もなく、表立って賄賂を送ろうとしたので断り、別ルートから来るように便宜を図った事もわかっており、この時代の平均的な政治家としての付け届けはやっていた
      金に汚い貪吏だとは言えないが、彼のやった政策により贈収賄が増えたことは紛れもない事実であり「金権腐敗・賄賂・汚職の田沼時代」は肯定は出来ても否定は出来ず、悪評というより事実を言っただけといえる

  • @肥桶担ぎの助
    @肥桶担ぎの助 6 месяцев назад +5

    本の奥付の義務付けが、大岡様の仕事だったとは、知らなかった!

  • @いでたかゆき-r8i
    @いでたかゆき-r8i 6 месяцев назад +17

    柳沢吉保は大名になってから一度もお国入りを経験していません

    • @栄二一型
      @栄二一型 6 месяцев назад +1

      その川越藩があったところが我が故郷...

  • @モリユスト
    @モリユスト 6 месяцев назад +11

    田沼意次は江戸は金、大阪は銀だった通貨を統一して商業振興をめざした。しかし、莫大な利益を得ていた両替商の反発で失脚した。重商主義を推進していれば、幕府は英国王室の様に生き残ったかも知れない。

    • @M4XxY8sj
      @M4XxY8sj 6 месяцев назад +1

      田寛政の改革は田沼意次の経済政策を引き継いでいるんで、想定してるような事はなかったと思う

  • @雨宮雅人-h3o
    @雨宮雅人-h3o 6 месяцев назад +9

    旗本から大名に成り上がるには、将軍のお気に入りに成るしか道は無いな。

  • @takeda20000
    @takeda20000 6 месяцев назад +3

    奥付が大岡から、というのは初めて知りました。有り難うございます。

  • @氷見隆-f6s
    @氷見隆-f6s 6 месяцев назад +5

    田沼意次の父は、足軽では、ないです、だいたい足軽の子供が小姓になれるわけがない、きちんと調べてれっきとした紀州藩士吉宗が8代将軍になったとき200人位の家臣を紀州から連れて江戸に来た家臣の一人

  • @umakara55
    @umakara55 6 месяцев назад +3

    大名には届かなかったけど、父から相続した200俵からスタートして3700石(勘定奉行、佐渡奉行、従五位下、近江守)に達した荻原重秀もかなり異例の出世だろうね。しかも将軍からの寵愛ではなく幕府財政改革に貢献しての純粋な能力評価だったし。まあ新井白石の嫉妬と恨みを買って晩年は悲惨な目に遭うんだけど・・・

  • @百合丸錬
    @百合丸錬 2 месяца назад

    目付に町奉行、最期は寺社奉行まで務めた忠相はドラマには持って来いの人物だったのが納得いった。
    町奉行は旗本を取り締まらないとか言われていても元目付の旗本なら、ドラマのように旗本相手のエピソードも作り易そうだ。

  • @matukawatositane
    @matukawatositane 6 месяцев назад +8

    田沼殿の晩年は可哀想でもある

  • @wakanekomaru
    @wakanekomaru 6 месяцев назад +2

    交番って江戸時代からあったのか。平民から大名になった例として、4代家綱の母お楽の兄弟筋の増山氏がいる。

    • @ひろたかし-w8m
      @ひろたかし-w8m 5 месяцев назад

      その弟も下野那須へ養子に入り大名に。

  • @ブラヴォーデルタ6-c8y
    @ブラヴォーデルタ6-c8y 6 месяцев назад +1

    田沼意次は
    経済に精通した
    敏腕政治家だったと
    思う。

    • @門亭栗数
      @門亭栗数 6 месяцев назад

      『剣客商売』にも「ええもん」で出てくるし……

  • @赤松如水
    @赤松如水 5 месяцев назад

    故ジ◯二ーさんのやり方ソノモノだな(笑)

  • @manacish
    @manacish 6 месяцев назад

    幕末に旗本、若年寄から大名となって安房国船形1万石で立藩した平岡道弘なんかも面白いよ。幕府崩壊後、自ら新政府に領地を返納して大名身分を捨てて徳川宗家に従い、静岡へ行って静岡藩の家老になったりと身分や立場がめまぐるしく変化している。

  • @hiroyan0702
    @hiroyan0702 4 месяца назад

    その後の柳沢家は息子吉里の代に甲府から大和の国郡山15万石に国替えし明治維新まで続いた、国替えの際甲府から多くの金魚職人を連れて行き大和郡山が金魚の町として発展していった。

  • @モリユスト
    @モリユスト 6 месяцев назад +3

    将軍の命(メイ)だよね。イノチだと怖すぎる。

  • @蛇と蝋燭
    @蛇と蝋燭 6 месяцев назад +1

    側用人って中国の宦官みたいな立場か

  • @かんらからから-h4c
    @かんらからから-h4c 5 месяцев назад +2

    田沼意次の重商主義の施策を継続していたら、薩長主導のクーデターである明治維新は起こらなかったかも知れない。田沼意次は再評価されるべき政治家と思う。

  • @asaichban9842
    @asaichban9842 6 месяцев назад

    近藤勇は 若年寄格 ということで大名並み 農民・浪士から一気に大名格に ただし空手形でしたが・・・

  • @satosin2660
    @satosin2660 5 месяцев назад

    田沼意次は一橋派であり、弟及びその息子が一橋家の家老を務めていた。
    また、閨閥作りにも励んでおり、老中水野忠友を含めた3つの大名家に息子を養子に送り込んでいた。
    しかし、一橋家は家斉を将軍とする為に田沼意次を裏切り、田沼意次は失脚の上、遠江相良藩5万7000石から陸奥下村藩1万石に減移封された。
    水野忠友も婿養子に迎えていた水野忠徳を、離縁の上田沼家に戻した。
    ※大名家へ養子に入った残りの2人は、田沼意次が亡くなる前に早世している
    松平定信失脚後、家斉は政治を田沼意次の路線に戻し、陸奥下村藩5代藩主となっていた田沼意正を若年寄へ抜擢した上で、陸奥下村藩から遠江相良藩へ再度移封した。
    時の老中であり、家斉と共に田沼家の復権に尽力した水野忠成は、水野忠徳の離縁後に後釜として水野忠友の婿養子となった人物であり、田沼意正は水野家へ婿養子に入っていた水野忠徳本人であった。
    ※離縁後は部屋住みとして田代玄蕃(田代は母方の苗字)を名乗っていたが、藩主が次々に早世した為、改名の上跡を継いでいた

  • @深田有一
    @深田有一 6 месяцев назад +4

    大岡忠光を取り上げないのはおかしい。

    • @user-hirotaka0123
      @user-hirotaka0123 6 месяцев назад

      大名になった一族だから忠光も忠相も大岡一族だから代表として忠相でよくない?

    • @深田有一
      @深田有一 6 месяцев назад +4

      @@user-hirotaka0123
      系図が別系統なので違う。

    • @japanbest1
      @japanbest1 6 месяцев назад +2

      別にすべての人物を取り上げる必要はないな。有名どころをとりあげてあとは自分で調べりゃいいだけ。完璧な動画をあんたが作ればいいのでは?

  • @naru3995
    @naru3995 6 месяцев назад +5

    肖像画の反転は止めた方がいいよ。
    左前になるから。

    • @user-zr8no3zd8w
      @user-zr8no3zd8w 6 месяцев назад

      すいません、理由を教えてください
      人相が変わるから?
      それとも着物が左前の着方になるからですか?もしくはもっと別の理由でしょうか、、?

    • @naru3995
      @naru3995 6 месяцев назад +5

      @@user-zr8no3zd8w 左前の着方っていう意味が分かりますかね?
      歴史上の人物とはいえ、末裔の方もいるかもしれません。
      死装束は礼を失すると思いまして。

    • @マイケルフォート
      @マイケルフォート 6 месяцев назад

      もう死んでんだからいいんじゃないかな

    • @user-zr8no3zd8w
      @user-zr8no3zd8w 6 месяцев назад +3

      @@naru3995 なるほど!!よくわかりました。ありがとうございました😊

  • @いでたかゆき-r8i
    @いでたかゆき-r8i 6 месяцев назад +1

    ーコメです

  • @満典富永
    @満典富永 4 месяца назад

    将軍の代替わりで取潰された大名はどのくらいいるのですか?
    家康から秀忠。
      この時は親藩、譜代も。
    秀忠から家光。
    家綱から綱吉。
    綱吉から家宣。
    家継から吉宗。
    吉宗から家重。
    家定から家茂。
    他にもありますか。
    まさかーーー将軍家の御家騒動で。
    綱吉の時はーーー。
    相手は下馬将軍と云われた酒井忠清。
    5代将軍には京都から。
    というのは本当ですか?
    それを阻止したのが堀田正俊ーーーですか。
    井伊?は。
    黄門様は?
    隠居してーーー跡目は兄の息子。
    何かあったのですか?
    (それにーーー黄門様の兄はーーー確か跡目が継げずーーー黄門様が。
    いつでしたか?)
    この時は譜代、外様含めて相当な数の大名が。
    上杉が知行半減。
    藩主が吉良からとなったのは。
    いつでした?
    元の藩主はどうなったのですか?
    改易されたのは外様より譜代の方が多いーーーというのは本当ですか?
    まあ御家騒動。
    勝てればいいですが。
    応援してくれた大名は譜代でも、外様でも。
    親藩、御三家でも。
    優遇?
    それが普通ですか。
    反対側についた大名は。
    改易ーーーということは?
    親藩、譜代、外様などーーー関係がーーー。
    綱吉の時は。
    紀州は。
    尾張、水戸は?
    6代家宣の時は。
    紀州は藩主で兄の綱教(1705年5月)も頼職(よりもと1705年9月)も急に。
    父親の光貞(1705年8月)もーーーですか。
    そしてーーー父や兄たちに疎まれていたーーー。
    四男の吉宗がーーー疎まれていたのに?
    紀州藩主に。
    大変?てしたか。
    まあいいか。
    こういう事はよくあるのでしょうか?
    応援してくれた大名は優遇されたのでしょうか?
    まあーーー思いつきです。
    14代家茂の時はーーー。
    確かーーー。
    慶喜が14代を争い。
    よく薩摩も水戸もーーー大丈夫だったのですか?
    反対派の大名は潰さないとーーー幕府の政権維持がーーーといったことは。
    他の誰かをたててーーー謀叛ーーーなどということは。
    その後、薩摩と水戸の脱藩浪士による桜田門外の変。
    薩摩と水戸の藩主が急に。
    跡目もーーーどうでしたか?
    一橋は?
    まあ将軍家の御家騒動などーーー表には。
    まあーーー冗談です。

  • @満典富永
    @満典富永 4 месяца назад

    大名の家臣の禄高はどうなっているのですか?
    何人くらいいるのですか?
    例えばーーー。
    ◯◯万石なら家臣は何人。
    家老は何人で禄高はこのくらい。
    奉行なら。
    百石取りが何人、
    二百石取りが何人とか
    決まっているのですか?
    大石内蔵助は確かーーー浅野53000石の筆頭家老で禄高1500石。
    大石自身の家来(陪臣)は何人いたのですか?その禄高は?
    大名は古は名田を多く有せるものの称なりしが、
    あと転じて守護地頭の称となり、
    徳川氏に及びては家禄万石以上のものを称す。
    古事類苑13 p1663(国会図書館)
    ◯摂津微書 巻86-87
    関白摂津分限帳
    摂津寺社領
    古事類苑41 産業部
    p186 付農人
    p189 松の落葉
    によれば
    百姓の名の由来が。
    しかし班田収授の頃は◯◯と農民しかいなかったんですか?
    藩士人名辞典(国会図書館)を見ると。
    二本松藩十万七百石では。
    家老が16人もいるんですね。
    その知行は。
    さらに
    二本松藩史(国会図書館)
     p742 家中知行(戊辰当時)によると。
     p740 兵制ーーーというのも。
    いろいろーーー。
    和歌山史要
     p50あたりにもいろいろと。
    職制ですか。
    目付はこのような役割りをーーー。
    とか。
    町奉行はどうですか?
    禄高は。
    他の藩はどうですか?
    まあいいか。
    殿様の取り分は?
    旗本ではどうなっているのですか、
    適当な資料が?
    国会図書館デジタルーーー 
    分限帳(沼田分限帳というのもあるようです)
    検索条件を追加 クリック
    タイトル 分限帳 
    検索。
    他にも
    藩史
    県史
    知行
    で検索してもーーー。

  • @はるちゃん-z6i
    @はるちゃん-z6i 6 месяцев назад +1

    すみません、将軍の「いのち」ではなくて、「めい」だと思います。