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先生のお見立ては信憑性が高いので勉強になります。いつもありがとうございます。
なるほど~、そういみなのですね、家康は全て責任をおうと言う事の深い意味理解しました
今日のドラマは良かったと思います。家康公が豊臣家を滅ぼすにあたり「南無阿弥陀」何万遍も写経していたという話は感動的です。
感動はしない。いくさ場で、そんなことしても、無駄だった。
最近は音声も改善され、先生の貴重なお話が聞きやすくなりました。
世界1の美技・世界1の景色という曲の動画をアップしたので、ご覧ください。
池禅尼のお話がでて、つい和久井映見さんのお顔がだぶって笑
『どうする家康』も最終盤で戦の最後を飾るのが大坂の陣ですね、徳川家にとっては目の上のたんこぶのような豊臣家をどう扱うかは家康も相当悩んだでしょうが年齢的にも焦りもあったのでしょうかそれとも総仕上げで気合いが入っていたのかな。
凄く興味深い内容でした!!
今回の大河見るまで後藤又兵衛基次だと思ってました。 正親って名前の書状があるって初めて知りました。
よく家康す豊臣家を滅ぼすつもりは無かったという話を聞きますが、小和田先生と北川館長との対談をを拝聴して、果たしてそうだったのかなとも思いました。少なくとも二条城会見前まではそうだったのかもしれないが、当代記に二条城会見についての記録で、家康が秀頼の成長ぶりに驚いた、京において町民たちが熱狂して秀頼を迎え入れたという事が記載されており、また宣教師カルヴァリヨ1614年の書簡には、「家康は高齢のため、家康が亡くなれば後継者の秀忠も滅びるだろう。そうでなくても彼は諸大名から嫌われており、政権を得られない。それに比べて秀頼は民衆から諸侯にいたるまで人望を得ている」別史料には「戦において家康がおらず、情勢が不利になれば諸侯は秀頼の側に付くだろう」とまで書かれているので、世間からの認識も踏まえると高齢の家康は豊臣家という存在、また自分の死後の事を考えると潰そうと考えてもおかしくは無いとも思いました。
自分は吹き出しの音、楽しくて好きですが。
私は真田丸の影響で片桐且元は家康に会えないでかわりに大蔵卿局が家康に謁見したと思いましたが片桐且元も家康に会っていたのは驚きでした
ドラマによって、まちまちになる、みたいだ。自分で研究しないと、真実は見えてこない。
たとえば豊臣家を関白家として五摂家と同じ公家として京都に移し、武家・大名とは異なる秩序に移す可能性はなかったのかと思います、
そうですねお金はあったので可能だったかもしれませんね。
家康は、妻と子を捨てた経験をしてますから、大事な戦では身内(ここでは孫娘の千姫)を人柱にする覚悟はあったのかもしれませんね。津川家康も「人の上に立つ者は、心に一匹の鬼を飼わねばならぬ」と秀忠に説いてます。しかし、予告の千姫はあの砲撃で完全に豊臣側になりましたね。助け出された後の千姫と家康&秀忠との再会が微妙です💦
最近の説では、家康よりむしろ秀忠が豊臣家滅亡に積極的だったそうですね。家康は自身が人質の経験もあるし、たとえ根絶やしにできたとしてもどこからか血縁者が出てこないとも限らず、徹底的な壊滅を考えていなかったのかもしれませんね。秀吉の栄華とそれを支持する大名達を実際に知っているので、壊滅が逆に徳川への反感、ひいてはその結果藪蛇になってしまっては元も子もないと考えていたとも思います。豊臣対徳川の勢力争い、どちらに大多数の大名が同調するかで、判断を決定しようとしたとも考えられます。それに対し秀忠は、とにかく父の威光ではない自分の処し方を模索し、その結果強硬手段に出たのかもしれません。今となっては父子の思惑は想像することしかできませんが、二人の豊臣に対する思いはかなり違っていただろうとは思います。豊臣家の権勢を実際には知らない秀忠は、かえって思い切った方法を取れ、豊臣家への処遇も過酷だったのかもしれません。
関東移封もやられてるから😂
@@井原裕司 さん 確かに!父祖の地、三河を離れざるを得なかったのは、辛いですよね
小和田氏には、徳川方が用意し砲撃した大砲の事も解説して欲しかった・・・。
アダムスミスが、漂着したので、彼がイギリスから調達した大砲で、結局大坂城の守りがが破られた。悲劇。
イギリス製カルヴァリン砲や、オランダ製デミカノン砲も使われたと聞いてます。国友製とも比較して、どれが最も効果を発揮したのか知りたいですね
さっさと、備前島の大砲に攻撃をかけなかった、大坂城の守備の仕方がなさけなかった。明智実の新説です。
清盛が参議になったのは国史大系公卿補任(国会図書館)によると平治2年です。確認お願いします。
特に冬の陣では徳川軍の士気、外様大名の裏切りを防ぐために家康自身が指揮する必要性を感じたんだと思います。遅くとも秀頼と面会した後は家康は自身が生きているうちに豊臣を滅ぼすことを決意したと思います。秀吉の最大の失敗は家康を信用して殺さなかったこと、家康の成功は信長、秀吉に殺されなかったこと。家康は秀頼の子供も見つけ出し、殺してますね。吾妻鏡から平家の失敗、頼朝の失敗を学び、松平家の悲劇(祖父清康、父広忠、嫡男信康、三人共20代前半で横死)を常に教訓にしていたから、ここまで非情になれたんでしょうね。
命を助けた真田信繁に真田丸で苦しめさせられ後にかなり危ない目にも合わされてますしね((( ;゚Д゚)))
助命嘆願、池禅尼の親類だったようですよ、頼朝と。人道的観点だけではないみたいです。
全部嫌だね。だけど私なら、1番にしたかも?国替えね。
国替えしても、そこに攻め込まれるだろうから、無理だった。
そう?じゃあ国替えしても、やっぱり殺すつもりだったのかな?あなたはそう思うんだね。あり得るけど、力が無くなれば、もしかして生かしていたかもよ?
吹き出しの音に、違和感感じます。やめてほしいです、小和田先生に合わないです。宜しくお願いします!
「あと2回なので、ご容赦ください」と申すかも…
私も吹き出しの音は不要と感じます。
先生のお見立ては信憑性が高いので勉強になります。いつもありがとうございます。
なるほど~、そういみなのですね、家康は全て責任をおうと言う事の深い意味理解しました
今日のドラマは良かったと思います。
家康公が豊臣家を滅ぼすにあたり「南無阿弥陀」何万遍も写経していたという話は感動的です。
感動はしない。いくさ場で、そんなことしても、無駄だった。
最近は音声も改善され、先生の貴重なお話が聞きやすくなりました。
世界1の美技・世界1の景色という曲の動画をアップしたので、ご覧ください。
池禅尼のお話がでて、つい和久井映見さんのお顔がだぶって笑
『どうする家康』も最終盤で戦の最後を飾るのが大坂の陣ですね、徳川家にとっては目の上のたんこぶのような豊臣家をどう扱うかは家康も相当悩んだでしょうが年齢的にも焦りもあったのでしょうかそれとも総仕上げで気合いが入っていたのかな。
凄く興味深い内容でした!!
今回の大河見るまで後藤又兵衛基次だと思ってました。 正親って名前の書状があるって初めて知りました。
よく家康す豊臣家を滅ぼすつもりは無かったという話を聞きますが、小和田先生と北川館長との対談をを拝聴して、果たしてそうだったのかなとも思いました。
少なくとも二条城会見前まではそうだったのかもしれないが、当代記に二条城会見についての記録で、家康が秀頼の成長ぶりに驚いた、京において町民たちが熱狂して秀頼を迎え入れたという事が記載されており、
また宣教師カルヴァリヨ1614年の書簡には、「家康は高齢のため、家康が亡くなれば後継者の秀忠も滅びるだろう。そうでなくても彼は諸大名から嫌われており、政権を得られない。それに比べて秀頼は民衆から諸侯にいたるまで人望を得ている」
別史料には「戦において家康がおらず、情勢が不利になれば諸侯は秀頼の側に付くだろう」
とまで書かれているので、世間からの認識も踏まえると高齢の家康は豊臣家という存在、また自分の死後の事を考えると潰そうと考えてもおかしくは無いとも思いました。
自分は吹き出しの音、楽しくて好きですが。
私は真田丸の影響で片桐且元は家康に会えないでかわりに大蔵卿局が家康に謁見したと思いましたが片桐且元も家康に会っていたのは驚きでした
ドラマによって、まちまちになる、みたいだ。自分で研究しないと、真実は見えてこない。
たとえば豊臣家を関白家として五摂家と同じ公家として京都に移し、武家・大名とは異なる秩序に移す可能性はなかったのかと思います、
そうですね
お金はあったので可能だったかもしれませんね。
家康は、妻と子を捨てた経験をしてますから、大事な戦では身内(ここでは孫娘の千姫)を人柱にする覚悟はあったのかもしれませんね。
津川家康も「人の上に立つ者は、心に一匹の鬼を飼わねばならぬ」と秀忠に説いてます。しかし、予告の千姫はあの砲撃で完全に豊臣側になりましたね。助け出された後の千姫と家康&秀忠との再会が微妙です💦
最近の説では、家康よりむしろ秀忠が豊臣家滅亡に積極的だったそうですね。家康は自身が人質の経験もあるし、たとえ根絶やしにできたとしてもどこからか血縁者が出てこないとも限らず、徹底的な壊滅を考えていなかったのかもしれませんね。秀吉の栄華とそれを支持する大名達を実際に知っているので、壊滅が逆に徳川への反感、ひいてはその結果藪蛇になってしまっては元も子もないと考えていたとも思います。豊臣対徳川の勢力争い、どちらに大多数の大名が同調するかで、判断を決定しようとしたとも考えられます。それに対し秀忠は、とにかく父の威光ではない自分の処し方を模索し、その結果強硬手段に出たのかもしれません。
今となっては父子の思惑は想像することしかできませんが、二人の豊臣に対する思いはかなり違っていただろうとは思います。豊臣家の権勢を実際には知らない秀忠は、かえって思い切った方法を取れ、豊臣家への処遇も過酷だったのかもしれません。
関東移封もやられてるから😂
@@井原裕司 さん 確かに!父祖の地、三河を離れざるを得なかったのは、辛いですよね
小和田氏には、徳川方が用意し砲撃した大砲の事も解説して欲しかった・・・。
アダムスミスが、漂着したので、彼がイギリスから調達した大砲で、結局大坂城の守りがが破られた。悲劇。
イギリス製カルヴァリン砲や、オランダ製デミカノン砲も使われたと聞いてます。国友製とも比較して、どれが最も効果を発揮したのか知りたいですね
さっさと、備前島の大砲に攻撃をかけなかった、大坂城の守備の仕方がなさけなかった。明智実の新説です。
清盛が参議になったのは国史大系公卿補任(国会図書館)によると平治2年です。
確認お願いします。
特に冬の陣では徳川軍の士気、外様大名の裏切りを防ぐために家康自身が指揮する必要性を感じたんだと思います。遅くとも秀頼と面会した後は家康は自身が生きているうちに豊臣を滅ぼすことを決意したと思います。秀吉の最大の失敗は家康を信用して殺さなかったこと、家康の成功は信長、秀吉に殺されなかったこと。家康は秀頼の子供も見つけ出し、殺してますね。吾妻鏡から平家の失敗、頼朝の失敗を学び、松平家の悲劇(祖父清康、父広忠、嫡男信康、三人共20代前半で横死)
を常に教訓にしていたから、ここまで非情になれたんでしょうね。
命を助けた真田信繁に真田丸で苦しめさせられ後にかなり危ない目にも合わされてますしね((( ;゚Д゚)))
助命嘆願、池禅尼の親類だったようですよ、頼朝と。人道的観点だけではないみたいです。
全部嫌だね。だけど私なら、1番にしたかも?国替えね。
国替えしても、そこに攻め込まれるだろうから、無理だった。
そう?じゃあ国替えしても、やっぱり殺すつもりだったのかな?あなたはそう思うんだね。あり得るけど、力が無くなれば、もしかして生かしていたかもよ?
吹き出しの音に、違和感感じます。やめてほしいです、小和田先生に合わないです。
宜しくお願いします!
「あと2回なので、ご容赦ください」と申すかも…
私も吹き出しの音は不要と感じます。