東方の3おじさん第15回「キリシタンかクリスチャンか」
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- Опубликовано: 12 сен 2024
- 隔週で金曜19時(午後7時)に最新エピソードを公開。
3人のクリスチャンおじさん(1人はプロテスタントのリベラル、1人は福音派、1人はカトリック)が、ノン・クリスチャンの方たちにも興味を持っていただけそうなキリスト教の雑談を楽しむトーク番組です。
3おじさんへのご質問を募集中です。
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東方の3おじさん公式X (旧Twitter): @touhou_3ojisan
第15回は、視聴者の神戸のアキラさんとbunさんからのご質問にお答えしました。
松谷 信司(まつたに・しんじ):1976年生まれ。「キリスト新聞」編集長。
MARO(マロ):1979年生まれ。宗教専門行政書士、ライター。
清涼院 流水(せいりょういん・りゅうすい):1974年生まれ。作家。カトリック信徒。
今回は懐かしいお題でした。もう15回なんですね~。
人間は死んだら何もなくなると中高時代思っていて、それならどうして
こんなに人間は努力して勉強して仕事して生きるのだ?生きる意味ないじゃん!と真剣に大人になるまで悩みました。
私にとってそれが「キリスト教徒」(私はこの呼び名が好き)になった所以でしょうか。色々なところに首を突っ込んで回り道しましたが。 今の日本基督教団の牧師が死について一番納得させてくれた。自分が死にかけて信仰を失いそうになりかけたことがあるからだと思うけれど。(たまにそれを語ってくれるから嘘っぽくない。)
恐らく私たちにとって恐怖なのは「死」そのものではなく、
そこへ至る痛み苦しみ(物理的にも精神的にも)が恐怖なのではないだろうか。あと、愛する者たちを残していかなければならないとか。そういった苦しみ。それは信仰あってもなかなか難しい問題なのだと。
「信仰あれば死の問題は解決する」とか「なんでも祈ればいいのよ」という勇ましいこと言う人いたらその人は
ほんとの事言ってるのかなあとどうも疑ってしまいます。😅また、次回楽しみにしています。🤗
「キリスト教徒」という呼び名も良いですね。正式名称✨という感じがします🙂
おっしゃる通り、「死」そのものが恐怖の理由なのではなく、そこへ至る痛みや苦しみ、愛する人たちと別れないといけない精神的な苦悩こそを恐れているケースが多いのかもしれないな、と感じます。
どれだけ強い信仰心があったとしても、愛する人たちと別れる恐怖をゼロにできる人は、いないのではないでしょうか🤔
いたら、ちょっと怖いですよね😅
bunです。質問に答えてくださり ありがとうございます🙇♀️
死への恐怖心のあるマロさん、死に興味のない松谷さん、自分の想像との違いが気になる流水さん…クリスチャンの御三方でも考え方が三者三様で とても興味深かったです!また質問させていただきます。ありがとうございます✨流水さんの「どろどろシリーズ」大至急 読ませていただきます!
bunさん、先日は、きっといろんな方が気にされているであろう素晴らしいご質問の数々を、ありがとうございました!🙂🎶
少し別の話題を挟むこともあるかもしれませんが、いただいているご質問に次回以降も順番にお答えしていきますので、引き続きご覧いただければ幸いです。😊✨
「どろどろ」シリーズをお読みいただけるとのこと、ありがとうございます!🙇♂(カトリックおじさん大感謝😆)
神学部に所属している大学生です。
いつもとても楽しんで拝見しています。ありがとうございます。
松谷さんの仰ったように、わたしたちの世代にはあまりクリスチャン=キリスト者と結びつけられる人は少ない印象です。ミッションスクールに通っていた人でもなければ通じません。
以前ノンクリスチャンの同級生から「◯◯さんはキリシタンなの?」と聞かれたりもしました(笑)
これからも隔週楽しみにしています!!
いつも楽しく視聴してくださり、ありがとうございます!
お若い方たちには「クリスチャン=キリスト者」と結びつけられる人が本当に少なくなっているのですね。
むしろキリシタンのほうが通用してしまう、というのは、すごい話ですね…😅
貴重な実体験を教えてくださり、ありがとうございました!🙂
戦国大好き昭和おじさんの私はクリスチャンなりたての頃からしばらくの間は自分の事を「隠れてないキリシタン」と自称してました🤦♂️←
最近、9年振りくらいに教会へまた行くようになったんですが、行くようになったのは能動的な気持ちからながら、自分の事は結構受け身な部分が多い信者かな?と思いました。
ただ洗礼受けたのはプロテスタント教会でしたが、再び教会へ行こうと思ったきっかけは「カトリックへ帰りたい」と何故か思ったからで、今はとにかく毎週ミサに参加している感じです⛪
私もノン・クリスチャン時代死に対する恐怖はかなりありました。
流水さんが仰っていたように、それは見知らぬ死に対しての恐さだったかと思いますが、死ぬという事に対しての孤独感とか寂しさみたいなのもあったかと思います。
今はクリスチャンになったからというより、クリスチャンとして聖書を読んでからイエスの存在を信じているのもそうだけど
「歴史上昇天していった聖人達や多くのクリスチャン達」と同じ道を自分も辿るのだ、と考えた時に孤独感とか寂しさみたいのは無くなった気がしますね。
「隠れてないキリシタン」という自称は、面白いですね。
キリシタン(クリスチャン)が隠れなくてもいい時代になって良かったです。
人生では、いろんなことがありますので、さまざまな事情で教会に行けなくなる時期もあると思います。
しばらく見なかった兄弟姉妹を久しぶりに教会で見かけると、とても嬉しい気持ちになります😊
死は誰にとっても未知のものですが、多くの先達も辿った道だと考えることで、死を自然なこととして受け入れられるようになる面は確かにありそうです。
とても参考になる考え方です。
貴重なお話とご意見、ありがとうございました!🙏✨
今回も楽しく癒されました。キリシタンはイメージ的に
重いので、現代に合わないのだと思います。死への恐怖心は私は松谷さんと同じくらいで、ジェットコースター🎢に乗る感覚まで小さくなりました、神さまに感謝しています。
因みに、クリスチャンが安楽死について語るのはNGですか❓
いつも楽しく視聴してくださり、ありがとうございます!
確かに、「キリシタン」は、現代の感覚では、ちょっと重いかもしれませんね🤔
死への恐怖心がジェットコースター🎢に乗るくらいの感覚になった、というのは素晴らしいです🙏✨
そして、安楽死についてのご質問、ありがとうございます。
安楽死も重要なテーマなので、次回以降どこかで3おじさんでお話しできれば、と思います。
今後とも、よろしくお願いいたします。