人を“ゆるす”ということ【横田南嶺管長&片柳弘史神父】対談4/6|慈悲と愛をめぐって|PHP研究所

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  • Опубликовано: 19 сен 2024

Комментарии • 6

  • @PHPInstitute
    @PHPInstitute  Год назад

    00:00 冒頭
    00:23 盤珪禅師の教え、八木重吉の言葉
    01:29 我々はすべてゆるされてここにいる
    04:32 自分のことを棚に上げているから他人をゆるせない
    06:19 同類(仲間)をどこに定義するか
    09:01 「わかった」「悟った」の危険
    11:40 謙虚であることの大切さ

  • @nya1972
    @nya1972 Год назад +2

    「神(仏)の名を語る自分教」に陥らない為に、謙虚さが必要で、カトリック信者には、「主の祈り」がとても大切です。

  • @皆空-z5o
    @皆空-z5o Год назад +3

    悪人でも悪魔でも、世の中の不条理も、自分の存在と同じように、空の化身、可能性の現れであると思えれば、むしろ不都合を楽しむぐらいに成れるかもしれません。

  • @松井けんいち
    @松井けんいち Год назад

    一切知者は一切知らない人だよ。老師さま。

  • @松井けんいち
    @松井けんいち Год назад

    救いか?生かされ生きていることを救いと言っていいかもしれないなぁ。赦されてるってなぁ罪人なぁ、空気を無断で吸い、地下の水を黙って飲む。 つまり、自分の力で生きてるのではなく、大いなる感激の対象に生かされてるんだ。それがほんとの救いだよ。自分の力で生きてるのではなく、行かされてたのだと、気づく。これが、卑近な使い方だが、色即是空空即是色